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民藝傾注期

ドキュメント内 河井寬次郎の造形思想に関する研究 (ページ 30-43)

1魂

第2節  民藝傾注期

 新進気鋭の陶芸家として前途洋々の出発を切った寛次郎にとって、「創作 展観」の回を重ねる毎に高い評価を受けることは大変な喜びであったわけだ が、寛次郎早く「好きで好きでたまらなかった」中国・朝鮮の古陶磁の持つ

「美の本質」と、自分が歩む道の先にある「美の本質」は違うのではないか という不安な予感のようなものを抱えていたようだ。 第一回創作展観を開 いた大正10年(1921)8,月に、河井は恩賜京都博物館で「陶器の所産心」と 題した講演で、「うつくしさをたくまずして現れる形は無名陶(下手物)の 所産心であり、美しさを願ったために出る姿は有名陶(上手物)の動機であ る」と述べている。後の昭和24年に、この時の心の変化について振り返っ た寛次郎は、「私の一生は、一生、美を追った生活にはちがいないが、思想 上の一転機というべきものがありました。世界は二つある、ということを考 えたのです。美を追っかける世界と、美が追っかける世界と。美術の世界と、

工業の世界と。その頃は世界大戦(注・第一次)の最中で、日本の工業が膨 張して好景気の時でした。大正五、六年の頃ですが、その頃、工業製品であ る無名陶を礼讃して講演をしました。有名は無名に勝てない、ということの 発見でした。そういう考えは、自分で陶器を作り出すと直ぐ、自分に来たも のでした。それは、柳宗悦が同様のことをいいはじめるのと時を同じくして 自分にもたらされた自覚でした。」11)と、説明している。つまり、今に伝

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の一人が美しいものを作ろうという意識もなく作ったものであるのに、美の 方が追いかけている世界である。これに対し、銘のある個人作家の自分がい

くら美しいものを作ってやろうと追い求めても、結局は美を追いかけるばか りで、けっしてそれ以上のものにはなれないのではないかということを、作 陶を始めてすぐの大正初期よりすでに寛次郎は感じていたというのである。

 その年の秋に大阪心斎橋の高島屋呉服店でも創作展観を開いているが、そ のときの「高島屋美術画報」の中で、「美しいものを作ろうと意図してもの を作ると、卑しい心が出てしまって力が弱くなる。無心に、自然に頭の中に あるものが手の働きで形になったときに、真の力が現れてくる。それは形を 変えた私自身です。幾分でも私の思う通りにできたときは、嬉しくて夜でも 抱いて愛撫せずにはおられません」と語っている。その言葉からも、自分の 作品は素晴らしい古作の後を追っただけのものではなくて、伝統は生かしな がらも自らの表現として生まれてくる創作である、との強い思いがわかる。

また、後の民藝運動の中でキーワードのように使われる「他力」や「無事の

美」に通ずる内容が含まれていることも興

味深い。

 前章で紹介したように、第一回創作展観 と同年の大正10年(1921)に神田の流出荘 で開かれた柳宗悦主催の朝鮮民族美術展(図 54)に衝撃を受けている。中国の古陶磁がも てはやされる中、寛次郎は高麗や初期李朝

といった朝鮮古陶磁にも憬れをもち、紬薬

や技法を研究して自己の作品に応用していたが、無 名の職人たちによる、巧みな美しさを追わぬどっし りとしたその作風に感動したのである。そして、ま だ誰も見向きもしなかった李朝陶磁器(図55)のすば

らしさを発見して、初めて日本人に紹介した柳の

「眼」にも感服したのであるが、柳との交友が始ま るまでには紆余曲折あったことは前章の通りであ

る。

 このように、寛次郎は自らの作陶に疑問を抱き煩 悶するが、名声は更に高まる。大正11年(1922)5 月の第二回創作陶磁展観・東京展では、新たに三彩、

印花填泥、黄彩甕といった技法をとり交ぜて百六十 七点を出品、愛陶家の中では国宝的存在とまで絶賛 されて、芥川龍之介もその豊かな表現力に魅せられ て辰砂の壺を購i入している。大正12年(1923)の第 三回創作陶磁展観の図録に「火の寄贈」と題して次 のような一文を載せている。「一念燃えては所蔵に 耐えず、物のすがたに火の寄贈、菰に諸相の土塊に 火を贈る時、やがて焼き清められたるいのちを奉る 事が出来ます。燃え狂う窯火の中に、これぞ、まの あたりなる不思議光如来。」ここには、後に、詩集

「火の願ひ」「いのちの窓」として発表される寛次 郎の宗教的な芸術観の原点が見える。

 進むべき道に未だ確信を持てないでいる寛次郎 は、大正9年(1920)からリーチと渡英中の朋友濱田 の帰国を待ちわびつつ模索の日々を過ごしている。

李朝陶磁器の素朴な美しさに魅せられてから、もっ と人間を磨かないと作品が貧しくなると自覚するよ

(図54)朝鮮民族美術展会場の柳

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(図55)李朝陶磁器の作例

うになり、思想家綱島梁川に就いたあと参禅して大悟する。京都山科に宗教 的な修養団体「一燈園」を設立し、生命の源である大自然の光明を祈願して、

生かされている喜びを感謝するために、托鉢や人の嫌がる便所掃除をさせて もらい下座の心を養うと説く西田天香を訪ねて、教えを乞うたりしている。

哲学者和辻哲郎、安倍能成らとも親しかった思想家であり、自らを無にして 他のために生きる修業者・天香の人柄と考え方は、以後の寛次郎に大きな影 響を与えたといえよう。

 大正12(1923)、関東大震災が起こり、知らせを聞いた濱田が大正13年

(1924)に英国より帰国する。4年ぶりに神戸に上陸したその足で訪ねてきた 濱田に、「よく帰って来てくれた。よく帰って来てくれた」と繰り返して寛 次郎は喜んだ。濱田はこのときのことを、「文字通りあふれる涙を拭きもし なかった。私はあれほど人に待たれていて喜ばれた経験は、あとにも先にも 一度もなかったと思うくらい強い感動を覚えた」と述懐している。二人はそ れから寸暇を惜しんで2ヶ月間語り合い、互いに進む道を確かめた。河井の 悩みに対して、濱田は、「これからは珍しいものや難しいものとかを作るよ

りも、ただいいものが作りたい、無名の陶工が作っ

た健康で美しい実用陶、それだけですよ」と説いた。       . そのうち、濱田がイギリスで収集したスリップ・ウ

エア(低火度化粧陶器)(図56)が河井宅に着いた。    躍    ≧ それまでに日本で紹介されていた装飾が過ぎるスリ

ップ・ウエアと違い、簡素でプリミティブな美しさ に感心した寛次郎は、同じようなものを作っては早 速にその技法を自分のものとしている。濱田はこの スリップ・ウエアを口実に、寛次郎と柳を引き合わ そうとしたが、互いに避け合ってうまくいかなかっ た。濱田はあきらめず、木喰仏(図57)をもって成就 する。柳邸で、寛次郎はプリミティブな美をたたえ る天衣無縫な木位階の造形が自らの目指す造形と共 鳴するのを感じ、その喜びを柳と共有し合う。この 年の第四回や翌大正14年(1925)の第五回創作陶磁 展覧では、それまでの華麗で繊細な中国古陶磁器に 範をとった作品に対して、技法の簡素化がみられる 型物の六角皿といった日用食器なども出品している が、以後「作家としての信念が生ずるまで」と昭和

(図56) スリップ・ウエア

(図57) 木二仏

4年(1929)まで新作の発表を控える。その間、「(民衆的工藝)民藝」の発案 や、日本民藝美術館設立趣意書作成、「御大礼記念国産振興東京博覧会」へ

新しい運動を起こそうという気負いが作品にも表れ ていたようで、評判も芳しいものではなかったよう だが、この時期になると動産運動も軌道に乗りはじ め、個人作家としての制作活動も安定してくる。作 品にも、後に濱田が「なれ」と呼んで自己の作品の 柱にした「意匠の消化」がなされ、第二次世界大戦

の「民事館」出品などに尽力する。寛次郎と柳と浜田の三人は連れだって下 手物蒐集の旅をよくしているが、「河井くらい物を持つ悦びを激しくうけ、

鮮やかにそれを語る友達を私は知らない。河井と一緒に旅をすれば、何を見 ても買っても河井の悦びが底抜けで、一緒にいる誰にでも火を付け、皆の悦 びを倍にしてくれた。帰りの汽車に乗ればすぐ荷を解いて眺め直すし、宿へ 着くのを持ちかねて、その日の獲物を酒の肴にして撫でさすっているうちに、

悦びが浴れてこらえかね、またたびを貰った猫のようにたわむれ、ほうけた。

つられて私達まで涙が出た。旅から帰った当座は来る客のたびに収穫を見せ て裁きもせず同じ話を繰り返す。これは自分への悦びの反籾なので、いくた びでも生き生きと新しかった」12)と、濱田は「コメニシアフレニシ」と題 した追悼文に記している。柳も「河井寛次郎の人と仕事」に「河井は焼物の 名人である。だが更に尚「受取方」の名人である。」と述べ、無価値から価 値を引き出すかのような寛次郎の能力に感嘆している。この民藝品蒐集旅は、

東北・四国・九州・朝鮮・満州・沖縄と続き、新たな下手物を見付けるたび に、そこから仕事の魂をいただいて制作の糧としていったのである。

 昭和4年(1929)、寛次郎は「自己の創作への確固たる信念に充つるまで」

と、中断していた新作展をいよいよ再開する。「砕:苺紅」や「火焔青」など と難解だった作品名も「辰砂」「呉須」などのように簡素化され、雰囲気を 出すために凝っていた箱書もシンプルになり、晩年には「碗・寛」としか書 かなかったりする。なにより、作品から「銘(河井寛次郎作を証明する印)」

が消えて無印となる。これは、寛次郎が亡くなるまで続いたため、作品全体 の7〜8割、つまりはほとんどの作品が銘のない無印で世に出たわけである。

人から「銘を入れないと偽物が出回りますよ」といわれ、「それが素晴らし ければ、それも本物でしょう」と言い、無心で誠実にものを作っていけば、

美の方が後から追いかけてくるのだということを寛次郎自ら実践してみせた のだといえる。寛次郎の初期の作品には「莞」の印、大正9年(1920)に歯応 窯を開いてから無印になるまでは「鐘渓窯」(図58)の印を押している。内 容も、それまでの鑑賞陶器に代わり、辰砂・呉須・青甕などの紬薬と櫛目・

流描・絵付などの手法を駆使し、健康で簡素な造形の日用陶器のみ250点 を出品している。民藝調の作品を造り始めた当初は、

       鱒 陰

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(図58) 「鐘渓窯」の印

ドキュメント内 河井寬次郎の造形思想に関する研究 (ページ 30-43)

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