〈 論 説 〉
大東亜戦争の埋れた遺産(一
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1一一『奈良法学会雑誌』第12巻2号 (1999年9月) 大東亜戦争末期(昭和十九年)におけるピルマ派遣軍(司令官河辺正三中将)第十五軍(司令官牟田口廉也中将) によるインド進攻(インパl
ル 作 戦 ) は、政略と戦略とがからみ合った作戦であった。その結果、作戦の終末指導に た め ら い が あ り 、 ガダルカナル島に比適する多くの戦死者、戦病死者、餓死者を出して敗退するという悲惨な結果に 終わった。この作戦の発起から終末まで、戦後、河辺中将が政戦略関係を中心に述懐しているので、 まず、この作戦 の概要を把握しておくために紹介する。 インパ!ル作戦の発端は全く戦略的なものであって、もっぱら英印軍のビルマ奪回企図(その基地がインパl
ル)の封殺を目的としたものであり、対インド施策(独立)といった政略的企図から発したものではなかった。 従 っ て 、 その発端に不純なものがあるやに非難されるのは実情を知らぬ妄断であって、この点は裁然区別して 考察せねばならぬと強調したい。 いわんやチャンドラ・ボl
スの束保政府に対する強硬な要請に押されて、初め第12巻2号一一2 から不首尾と判っている無理な作戦を冒険的に始めたなどの批判は全く当っていない。 3-J 晴 、
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J J J 丁度時を同じうしてボl
スのインド(仮)政府が熱願したインド国内進攻の希望をなんとかこの作戦と協 調させ、協同の形で支援することに極力策案をめぐらしたことは明らかな事実である。 しかるに、当初まったく純戦略的に出発した作戦ではあったが、中途からこれに少なからぬ政略的意義が加重 してきた。その結果、本作戦の指導はその本質いかんにかかわらず、なんとしても政略的考慮を除いては実行し 得ない傾向を生じてきた。更にこれに加えて、当時の大東亜全般の頚勢に考え、 せめてこの作戦だけは勝利を収 めたいとの念願が日本側指導者の上下に一貫していた。その最も明らかな、且つ最終的な現われは作戦の終末指 導 で あ っ た 。 前線部隊及び現地作戦軍が、既に持ち札を切り尽くして苦況に陥っているのを知りつつも、作戦終結に決する まで相当の時日を遷延したのは、結局本作戦の内外に及ぽす政略的意義にとらわれた跡のあることを認めざるを 得 な い 。 い わ ば 、 ボi
スの壮図を見殺しにできぬ苦慮が正純な戦略的判断を混濁させたのである。 前線の作戦指導に変調を生じ、異状の出来事が発生しているにもかかわらず、南方軍司令部又は中央部から、 これまた常軌を逸したと思われる指示、督励がしきりに出された。そしてこの戦略的判定と政略的無理押しとの 均衡の破れたのが、この作戦の終末であった。 これを要するに、本作戦の悲惨きわまる終末は、 ボl
スを活かさんとする念願による日本軍最後の頑張りが少 なからず影響していたことは否みがたい (防衛庁防衛研究所戦史室著 戦史叢書 イ ン パl
ル作戦││ビルマの 防 衛 六 一 四 頁 ) 。多少河辺の言訳的な部分もあるが、政戦略の関係はほぽ明らかにされている。ただし、大東亜戦争全般からみると、 インド施策は、河辺が述べるような付随的なものではなかったし、また﹁無理な作戦を冒険的に始めた﹂のではない と述べているが、関係者がひとしく危倶したのは、兵姑の問題である。この作戦発起の当時は、制空権はすでに完全 に英印側にあった。したがって、緬印国境に峨々として横たわる径一なお暗いジャングルの二つの山脈を越、えて弾薬、 糧稼をどう運搬するかであった。この危倶は不幸にも適中したのであり、この作戦の成否を左右した大きな要因とも な っ た 。 以上、インパ
l
ル作戦における政戦略の問題点を河辺の戦後の述懐によりつつ概観したうえで、まず、インド問題 が大きく取り上げられた大東亜会議における関係者の発言を検討する。昭和十八年十一月五、六日、東京で開催され たこの会議には、大東亜共栄圏内の独立国の代表、中華民国国民政府行政院院長 正兆明 タイ国内閣総理大臣名代 ワンワイタヤコi
ン、満州国国務総理大臣張景恵、 フィリッピン共和国大統領 ホ セ ・ べl
・ ラ ウ エ ル ビルマ国内 閣総理大臣 パl
・モウらと主催国である大日本帝国総理大臣 東俊英機である。そして二日目の六日には、折から 3一一大東亜戦争の埋れた遺産(二) 来日中の自由インド仮政府首班 スパス・チャンドラ・ボl
スが特別に陪席した。 こ の 会 議 は 、 一一日目に﹁大東亜共同宣弓一己を全会一致で可決して閉会するのであるが、ここでは、インド独立に関 係する発言を会議の速記録(東保内閣総理大臣機密記録所収 三O
四 i 三四五頁)から抽出する。最初に、東篠総理 の主催者あいさつの中からそれをみる。束僚は、長いあいさつの終わりの部分で、この問題に言及する。 道義に基づく大東亜の新建設は、現に戦塵の真只中に在って著々として実現を見つつあるのであります。然る に米英側の印度に対するやり口は果して如何でありましょうか。 A 7や 英 国 の 弾 圧 は 、 日に月に其の度を加へ、 又 最近に於ては米国の野望も加はり彼等と印度民衆との乾離帯離は愈々激化し印度四億の民衆は言語に絶する苦悩第12巻2号 4 を続けて居るのであります。:::時なる哉、﹁スパス・チャンドラ・ボ
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ス﹂氏の蹴起するあり、之に呼応して内 外の印度人士は立ち上り、草に印度仮政府の樹立を見、 印度独立の基礎は現に成ったのであります。帝国は曇に 印度独立の為、有らゆる協力と支援を致すべきことを中外に関明致したのであります。大東亜の諸国家も亦斉し く印度独立完成の為、 心からなる協力を寄せらるることを私は確信致すものであります。:::米英が所謂大西洋 憲章に依って標楊せる所と、 現に印度に対して実際に執りつつある事実とを彼等は如何なる論理に依ってか之を 調和せしむとするも、 それは不可能の事であると存ずるのであります。 東僚が大西洋憲章に言及したのは、 その第三条に﹁両国は強制的に主権と自治とを剥奪された国民にたいし、これ が回復されることを望む﹂と宣言している。インド人は、この中に当然インドも含まれると解釈した。ところが、チ ャl
チルは、宣言が発表されて 一カ月経たない九月、議会でインド、 ビ ル マ は 第 三 一 条 の 適 用 外 で あ る と 明 一 二 一 目 し て イ ンド人を失望させ、益々対米英不信においやった事実を指している。 各国代表演説の最後に立った﹁ビルマ﹂国代表ウl
・ パl
・モウが印度独立問題を取り上げた。 私は﹁アジア﹂が一体であるといふことを申しました。併し現在はまだ完成して居るのではなく、﹁アジア﹂の 一体性には若干の欠陥があるのであります。其の一つが印度であります。印度は今日に至りますも英国の桂格下 にあるのでありまして、私は声を大きくして印度の自由なくしては﹁ビルマ﹂の自由独立はないと一五ふことを、 今日迄繰返し重ねて申して参りました。此の論旨を一歩進めまして、 印度の自由なくしては﹁アジア﹂の自由な しと一五ふことを此の際断言するものであります。何故なれば印度は敵の東洋侵略の根拠地であり、 宝庫であるの であります。敵を印度より追放しなければ﹁アジア﹂は永久に完全に自由にならないのであります。私は閣下(束 篠総理)に懇へますことは、 印度の闘争は﹁アジア﹂全体の闘争であると云ふことを申し上げたいのでありまして、此の私の信念に対しまして、親愛なる﹁スパス・チャンドラ・ボ
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ス﹂閣下には、私が之を文字通り信じて 居ることを御認め下さると思ひます。 一九四三年(昭和十八年) アフリカ・地中海戦線の独伊の敗退により、英印軍のイ の雨季(五 l一
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月 ) の 聞 に 、 ンドおける空地戦力は著しく拡張されてきた。援蒋ル!トの充実とビルマ奪還のためである。しかもビルマに侵入し てくる部隊の兵括は、空中補給によって夜間、 わが配備の間際を縫いつつ挺進していた。したがって、インドは大東 亜共栄圏外ではあるが、この基地を叩いておかないと、 やがてビルマは奪還されるかも知れないという危倶を訴えた のであるとみてよい。 会議の二日日は、この会議のしめくくりともいうべき大東亜宣言が可決されたのち、陪席していた自由インド仮政 府首班スパス・チャンドラ・ボl
スの発言が許された。ボl
スは、まずインドの歴史から説きはじめた。 印度民衆も他の東洋諸民族と同様日本の勢力を尊重し、 必ず或る日には日本の指導の下﹁アジア﹂諸民族の結 果のあらむことを極めて熱意を以て迎えて居たのであります。印度は元来国際主義を以て其の思想の根本をなす 5一一大東亜戦争の埋れた遺産(二) 国であります。それが為仏教を中心に東の諸国とも早くも接近し、 円 H ド r ↑ ↑ 又 中 世 紀 後 、 回教徒の勢力印度に到るや、 度の特徴と致します普遍主義、国際主義は、之を通しまして、西方﹁アジア﹂の諸民族と提携したのであります。 最も悲しむべきことと致しまして、中世紀後此の国際主義は謬まれる国際主義になりまして﹁ヨーロッパ﹂人の 印度征服の侵入を容易にしたものであります。併し我々は此の悲哀、悲痛、非情の聞に、謬まれる国際主義と正 しき国際主義を十分に知ることを得たのであります。私は同時に其の苦しみの中に、東洋の団結、国際的集結の 成功不成功は、其の聯盟又は集団を指導する指導国家の方針が、 正義に基くか、道義に基くか、 又は不正義に基 くかと云ふことに依って決るものであると云ふことを学んだのであります。私は、大東亜共栄圏が正義に基く以第12巻 2号一一 6 必ず此の国際的結集の成功に終らむことを確信して疑はないのであります。 上 は 、 大東亜共栄圏の確立は、単に大東亜諸民族の繁栄、幸福のみならず、西部にあります﹁アジア﹂全体の幸福で ある。又遠くは﹁アフガニスタン﹂﹁アルゼリア﹂にある﹁アラビア﹂人の幸福にもなるのであります。私は此の 機会に大東亜共栄圏建設者の諸問下の努力を稿ふと共に、全東洋人は此の共栄圏確立の成功を衷心より期待し、 喜ぶものであることを付加へたいのであります。 そしてボ
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スは、今回の英国とインドとの戦いは、インドとしては、勝ち抜くか、従来通りの圧制に苦しむかの戦 いであり、適当な講和は、許されない。かかる観点からも大東亜共栄圏の役割の完遂を心から祈りたい、 と 結 ん だ 。 ボl
スがインドの﹁国際主義﹂というのは、古代から外来の諸王朝とも調和を保ってきた。その背景には、インド の宗教・文化、つまりヒンズー教の寛容性があったからであり、それはインド固有の政治文化を形成してきた。ところ が、この大戦後、インド独立に伴い、それがインド、イスラム教徒からなるパキスタン、さらにはバングラデシュとい う三つの国に分割独立するという思ってもみない結末となった。しかも、インドとパキスタンは、それぞれ核兵器を 持ちつつ対峠している。本稿の主題とも全く関係ないとも思われないので、 のちに若干でもふれておく必要があろう。 また、束僚が敗戦の責を負うて自宅で自決(未遂)を企てた部屋には、この大東亜会議における写真が飾られてい たといわれる。彼の生涯で最も栄光に満ちた、 そして、軍人内閣として戦争に明け暮れした中で、昭和天皇の強い指 示により、汗をかいた新支那政策とともに短かい政治の季節でもあった。 -'-F、
大東亜戦争遂行に当ってインドはどの程度そしてどのように政府および軍当局に意識されてきたのであろうか。以下、年次を追って検討する。 まず、第一は、さき(第十一巻三号)にも一部引用した、昭和十六年九月六日の御前会議決定を白紙還元し、近衛 に 替 っ て 束 僚 に 大 命 降 下 し 、 日米開戦について再検討し、開戦のやむなきに至った場合の﹁対米英蘭戦争終末促進ニ 関スル腹案﹂(昭和十六年十一月十五日、大本営政府連絡会議)がある。その中でインドに関する部分を引用する。 要領 (重要資源地、主要交通線を確保して自給自足の態勢の整備) 日独伊三国協力シテ先ツ英ノ屈伏ヲ図ル 付 帝国ハ左ノ諸方策ヲ執ル (イ) 濠州印度ニ対シ政略及通商破壊等ノ手段ニ依リ、英本国トノ連鎖ヲ遮断シ其ノ離反ヲ策ス ﹁ピルマ﹂ノ独立ヲ促進シ其ノ成果ヲ利導シテ印度ノ独立ヲ刺戟ス (ロ) 7一一大東亜戦争の埋れた遺産(二) 同独伊ヲシテ左ノ諸方策ヲ執ラシムルニ勉ム 的近束、北阿、﹁スエズ﹂作戦ヲ実施スルト共ニ印度ニ対シ施策ヲ行フ そして、最後に戦争終結の切掛として、南方および支那に対する作戦の主要段落(支那の場合は、とくに蒋政権の 屈伏)などと共に﹁対印施策ノ成功﹂を挙げている(日本外交年表並主要文書 下 五 六
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、 五 六 一 頁 ) 。 これは、当時の欧州戦線の枢軸国側の勝利が前提とされている。しかし、すでにイタリア艦隊は、 は、英国地中海艦隊により撃破され、また、ドイツは、地中海戦争では勝利を得たが、 一 九 四O
年秋に エジプト、小アジア方面では フランス本国はドイツに屈したものの、 ペタン政府は仏領北阿をドイツに手渡すことを拒み、 アフリカに進出したロ ンメル将箪も後退せざるを得なかった。さらにドイツは、英本土上陸作戦は、 一 九 四O
年にはすでに諦めていたが第12巻2号一一 8 わが国に対しては、 そのうちに実施すると宣伝にこれ努めていた。だからお前の方もシンガポール攻撃をやれという 催促なのである。 また、ビルマは、独立さすけれども、インドは、﹁独立ヲ刺戟ス﹂とあるから直接攻め込むことは考えていなかった とみてよい。どう刺戟するのかというと次にでてくる(政治)謀略である。 昭和十七年二月七日、陸軍南方軍統司令部が立案した﹁対インド謀略案﹂(のちに﹁対インド施策計画案﹂と改正) 方 針 英国の屈服崩壊を促進せしめるための一施策としてインド内に反英独立の騒擾を惹起せしむ。 これがための一般政治施策ならびに軍事施策を併用して謀略工作の施策す。 一 般 要 領 ドイツと緊密なる協力の下に日本側は東正面より全東亜インド人を挙る独立運動を指導し、これを強力にイン ド本土に反映させしむると共に帰順インド兵を好機を補足して印、緬国境方面よりインドに侵入せしめ擾乱に任 ぜ し む る 。 本施策の遂行を容易ならしむるため、インド人にインド独立に対する帝国の該意を感得せしむるがごとくに努 むるも(パンコック・マレ
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においては相当徹底しあり)将来を拘束せらるるおそれある保障ないし約諾を与え ざるごとく万全の留意を払い謀略工作として施策す。 以下、条文は省略するが、この案には、国民会議急進派で、あくまで不服従運動(非暴力)に徹していたガンデイ !と対立し、インド政庁に逮捕されたが、 巧みにベルリンに逃亡、インド向け反英放送などで活躍していたチャンド ラ・ボl
ス と 連 絡 し 、 できうれば、東京のインド独立連盟の統帥たらしめる方策を講ずることなども考慮に入れられていた (石井資料第十一号、ドキュメント昭和史所収、 二七九頁 1 二 八 三 一 良 ) 。 ところで、、この案が策定された二月七日といえば、日本軍はマレ!半島をシンガポールに向け進撃中であった。そ し て 、 そこには参謀本部謀略課から派遣された藤原岩市大尉を長とする謀略機関
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機関が活躍中であった。パンコ クがその拠点であり、 そこではすでにバンコク大使館の田村武官と独立連盟の中心人物のひとりであるプリタム・シ ンとの間で、﹁日印の完全なる独立国としての親善を目標とする。 日本は印度に一切の野心を持たない。﹂等七項目の 協定が結ぼれていた。シンは、これを宣伝ビラやちらしにして捕虜となったインド兵その他のインド人に配った。そ の結果、これらのインド兵捕虜は、シンガポール陥落時には六万人に及び、 F 機 関 は 、 その大部分でインド国民軍を 編成した。彼等のインド独立に対する希望と意志は、﹁インド謀略案﹂の一般要領第二項に掲げられたような﹁帝国は、 インド独立に対する意志があるように見せかけ、その気にさせて、しかも言質は取られるな。﹂というような、味方に なる者に対する謀略的態度はもう通用しなかったし、 F 機関の長藤原岩市も誠意を以てこれに答えようとした。この 点、日本軍および政府は、インドに限らず植民地住民のナショナリズムに対する強い意志をおそらく戦争が終るまで 9一一大東亜戦争の埋れた遺産(二) 汲み取ることができなかった。東僚が、絞首刑になる前の十二項目に及ぶ最後の遺一言の五番目に﹁私は誠意を失して、 今度東亜諸民族の協力を得ることが出来なかった。それが敗戦の原因であったと考えている。﹂(花山信勝 平和の発 見、三四五頁)とまでいい切っている。戦争指導者を見る視点によって様ざまに評価されようが、 やはり死を目前に しての真実の吐露とみてよいであろう。七
さて、大本営は、昭和十七年八月二十二日、東部インド進攻作戦準備に関する指示(第二十一号作戦)を南方軍あ第12巻2号一一10 て発した。これは たんなる謀略ではなく進攻である。 この指示は、南方軍からの意見具申によるもので、 その南方軍のビルマ戦線の現状認識は、こうである。五月以降、 ビルマ作戦は予想以上進展をみせ、連合軍を遠く緬支、緬印国境外に駆逐した。このビルマ作戦の成果と、インド国 内の騒然たる情勢に照し、イン伊東北部に対して防衛地域を拡充しようというのである。そして、インド積極施策は、 大本営もかねてから希望していたところであった。 ところが、南方軍がビルマ方面軍(印緬国境方面の担当は、 そのうちの第十五軍)にこの指示を降すと、まず、第 十五軍司令官飯田祥二中将﹁無謀な案﹂、麿下の第十八師団長牟田口廉也中将﹁実行困難﹂、第三十三師団長桜井省三 中将﹁牟田口に同じ﹂で、実施兵団長はすべて反対した。その後、 ガダルカナル島の戦局悪化等もあり、この第二十 一号作戦は 明十八年以降まで保留されることになった 八六頁 1 八 八 頁 ) 。 ( 防 衛 庁 、 前 掲 、 ところで、南方寧の意見具申に及んだ主な理由﹁インド国内の騒然たる情況﹂とはどういう情況だったのか。作戦 中止の理由が海軍にもあったので、ここでは当時連合艦隊参謀長として戦艦﹁大和﹂に座乗していた宇栢一纏の日記に よ り それをみることにする。 八月九日 日曜日 晴(昭和十七年) ( 前 略 ) 一昨日以来ボンベイに於て開催中の (インドの)国民会議派全委員会は八月再度ガンヂ
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の熱弁の後英勢力の 印度撤退を要求する運営委員会の決議案を上程、反対僅か十三票と云ふ圧倒的多数を以て同案を可決、 一 方 印 度 政庁は予て本国の命を受け之が切崩しに奔命しありたる所、九日早朝ガンヂi
、ネl
ル 、 アザットの三巨頭を始 め二十数名の同派領袖を一斉に逮捕せり。而して同会議派の要求は印度を混乱無秩序に陥らしめ、戦争遂行への努力を水泡に帰せしむるものとして強硬態度を声明せり。斯くして印度の独立、英勢力の総退却等は英の致命傷 なれば容認の限りに非ず。予期の如く同派の所謂非暴力不服従運動は全国的に開始せられ、 印度の活動は蕊に停 止し混乱状態に陥るべし。而して東亜の盟主を以て任ずる帝国が共栄圏の一員として重要なる立場に在る本印度 の亜細亜人として其の所を得せしむるが如く策応し得るの準備ありや否や。東線首相屡々言を大にして印度の独 立を懲患し、近くは又緬句に於ける軍司令官の声明、大阪に於ける陸軍報道部長の強弁等あるも印度工作の微勢 力なる到底彼等をして我懐に入らしむるを得ず。然らば立って独立を助くべき用兵上の準備ありやと云ふに、全 く至り居らざるを遺憾とす。盟主処か隣組一員の値もなし。云々 ( 宇 垣 纏 戦 藻 録 、 一 六 四 頁 ) 。 一部認識不足もあるが、宇垣の筆調は、 明らかにインドに対する陸軍の怠慢を誹り、これを叱略している。しかし、 第二十一号作戦についていうと、たしかに方面軍司令官および麿下の師団長の消極意見もあったが、根本的には、参 謀本部と軍令部の戦局に対する認識の差異があった。佐藤晃﹁戦略大東亜戦争﹂によると、陸軍の立場からみるとそ れは次のような評価になる。 11一一大東亜戦争の埋れた遺産(二) 昭和十七年八月、参謀本部は南方軍に﹁第二十一号(アッサム (インドの東北部)制圧)作戦準備を下命した。 九月、参謀本部は田中第一部長の名をもって、南方軍総参謀長に﹁第二十一号作戦実施決定保留﹂を連絡した。 ﹁少なくも同方面(ソロモン)の見通しがつくまでは慎重を要する。﹂と号一尽フことだけである。しかも﹁見通し のつく﹂時期は遂に来なかった。参謀本部は海軍の要請のままに、 只﹁漫然﹂と南東方面に足を踏み入れてしま っ た の で あ る 。 ﹁ガ島奪回﹂と﹁アッサム制圧﹂といずれが重要か いずれが緊急か その比較検討すらした跡が見えない。 ガ島はおろかラパウルすら、戦略上無価値、否有害であった筈である。﹁アッサム制圧﹂は対重慶戦略上(援蒋ル
第12巻 2号一一 12 の重要性は計り知れない。大東亜戦争勝敗の重要な転機は、この思慮に欠ける判断の時点に存在す ートの拠点) る 。 ﹂ ( 同 書 、 一 二 六 頁 ) しかし、これには、緒戦以来の海軍なり陸軍なりの作戦区域および作戦対象の観念的な相異があった。海軍は、真 珠湾攻撃以来太平洋戦争であり対象は米国であった。これに対し陸軍は大東亜戦争であり対象は英帝国の屈服であっ た(重光葵 昭和動乱 一 三 六 頁 l 一三八頁)。そして一時期、真珠湾攻撃を終えた南雲艦隊がインド洋を制圧し 下 、 たこともあったが、戦線が拡大するにつれ太平洋に去っていったし、戦局が逼迫するにつれ、大陸の陸兵なり航空隊 が、太平洋の島々に抽出される事態が多くなった。そこで昭和十八年九月、御前会議で戦線整備のため﹁絶対国防圏﹂ が設定されたが、この傾向は依然止むことがなかった。 そ れ に も か か わ ら ず ー ー ー 否 、 それだからこそというべきか、佐藤は﹁第二十一号作戦でアッサムを制圧しておけば、 (戦局が悪化してから)インパ
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ル作戦のような無駄なことをせずに済んだ害である。それどころかスパス・チャン ドラ・ボl
スを中心とする印度独立運動で印度国内情勢が如何なる展開を見せたかも測り知れない。﹂(佐藤晃 前 掲 、 一七八頁)という。たしかに、宇垣の日記にもあるように、総理によるインド独立の演説は行われていたし、インド 国民軍によるインド向けの呼びかけも行われていた。また、当時は、ビルマのわが航空戦力も健在であったし、北阿・ 地中海の戦いも完了しておらず英印軍の戦力も微弱であったであろう。したがってアッサム制圧も可能であったかも 知れない。しかし、 アッサム制圧は、援蒋ル 1 ト遮断という戦略的作戦であり、インド独立という政略へ結びつける 方 策 は 、 ただ、インドの擾乱に乗ずるということ位で、道筋立った政治的方策は何もなかった。また、 ポl
スは、当 時はまだドイツにいたが、 ヒ ト ラ ー の 戦 は 、 ゲルマン民族優位がスローガンで、インドの独立についてはむしろ懐疑 的であった ( 丸 山 静 雄 インド国民軍 七O
頁 ) 。 ( ボl
スが独自の潜水艦を乗り継いで来日したのは、昭和十八年五月 で あ る 。 ) ここで、論旨から外れるかも知れないが、関連して付言しておきたいのは、昭和十七年十一月に設置された大東亜 省についてである。この構想は、東条が陸軍省軍務局、統帥部などと検討してつくらしたもので、 それまであった興 亜院の業務を大東亜の地域および国に拡大したものであるといってよい。大東亜省官制第一条に﹁大東亜大臣ハ大東 亜ノ地域ニ関スル諸般ノ政務ノ施行(純外交ヲ除ク):::﹂とあり、 そのうえ各条の﹁外交﹂と記すべきところをす べて﹁外政﹂ということばに置き変えている。また、第十九条 ﹁大東亜省ニ於テハ陸海軍ニ策応協力スル為大東亜地 域内占領地行政ニ関聯スル事務ヲ行フモノトス﹂ という条文もあり、各国対等の観念はなく﹁大東亜諸国は、日本の 身内として他の諸外国とは取り扱いが異る﹂、つまり、独立国と領域たるを問わず、各自の力を帝国のために寄与すべ きであるという。枢密院では、これらの点をめぐり、審議は難行した。要するに、これでは大東亜諸国は属国扱いで はないか、というのである。東条は﹁大東亜圏内に外交なし﹂とも極言し、﹁委員多数の御意見はこれを検討考慮せり。 耳を傾けざりしにあらず。ただ輔弼の責任上これを賛成し得ざるのみ﹂などと﹁輔弼の責任﹂を連発した ( 深 井 英 五 13一一大東亜戦争の埋れた遺産(二) ﹁枢密院重要議事覚書﹂ドキュメント昭和史所収 二六三頁)。しかし、東条にどちからというと理解を示した昭和天 皇の独白録には、東条という人物について﹁参謀総長を兼ねた事、大東亜省を設けた事(昭和十七年十一月) 立、私 は賛成できない事であったが:::﹂という箇所がある。天皇は輔弼上その必要なし、 との認識であり、これはまさし く東条の天皇利用の一例である。そして、この一件で東郷外務大臣は辞任し、外務省の権限は質量とともに減少され Tこ (インドは、大東亜圏外であるので外務省の管轄)。 種村佐孝﹁大本営機密日誌﹂の昭和十七年九月一日、﹁くすぶる大東亜省問題﹂の詮書きにも﹁対外的悪影響を除き 遊休している外務省官僚を十分働かせるためにも、大東亜省的任務を外務省に担当させた方がよかったのであるまい
第12巻2号一一 14 か。無理をして硬骨の名大臣を失う東条内閣の損害は大きい。﹂(同書、 一五九頁)とある。配慮した表現をしたのか も知れないが、要は、大東亜省などつくらず外務省をもっと充実したらどうか、 ということであろう。クラウゼウィ ツは﹁戦争は、他の手段を以てする政治の延長である。﹂という有名な戦争の定義に続いて﹁ここにわれわれは、﹁他 の手段を用いる﹂といったが、これは、政治的やりとりが戦争によって中絶するものでも、全然異った他のものに転 化するものでもなく、用いられる手段が何であれ、政治的やりとりは本質において継続しており、戦争から講和にい たるまでつづいている政治の姿にすぎないということをいい表わそうとするためであった。﹂﹁要するに戦争は、決し て政治的やりとりから切り離すことはできない。観察にあたって、これを切り離すようなことをすれば、関係のあら ゆる糸は切断され、意味も目的もないものができあがる。﹂そして、クラウゼウィツは、彼が体験しなかった第一次、 第二次大戦のような全体戦争においてさえそうであるという(クラウゼウィッ、淡徳三郎訳﹁戦争論﹂三九
Oi
三 九 一頁)。第十一巻三号で、シンガポール陥落間近という時期に、昭和天皇が、東僚に対し、戦争終結について機会を逸 しないように注意を喚起した例などがこれに相当しよう。東僚としてもそれなりの努力をしたが ( 東 僚 に と っ て は 想像に絶することだったのかも知れない。)、結果的には、 むしろ逆の措置をとってしまったことになる。 さて、﹁インド圏内の騒然たる情況﹂をもう少し検討することにする。 一九四二年八月八日、インド国民会議派のボンベイ会議で決議されたのは、ガンディ!の提案による﹁インドを立 ち去れ﹂(クイット・インディア)運動である。この年の五月、日本軍はビルマ作戦を終った。片やインド独立のキヤ ン ペl
ンを盛んに行っている。こうした状況下で、その対応の仕方をめぐって四日末以降、国民会議派は会合を重ね ていた。ガンディl
のこの運動の発起時の考え方は、 日本がインドを攻撃するのはイギリスがいるからである。イギ リ ス が 出 て ゆ け ば 、 日本はインドを攻撃する理由はなくなるはずである。そして、インドが解放されたら、その最初の 行 為 は 、 おそらく日本と交渉することであろう。というのであった。ガンディ
l
は 、 それまで非暴力による抵抗の 運動を一貫してきた。その点、同じ国民会議の指導者でも、近代的合理主義者であり、インド人である以上にイギリ ス人であるといわれるネルl
は﹁独立が与えられたら連合国の側で戦う﹂が信粂であり、急進派のボl
スは﹁敵の敵 と協力して敵を攻撃する﹂であった。ガンディi
は、この運動を始めるに当って﹁行動か死か﹂とその決意を語って いる。しかし、実施に踏み切るまでにガンディl
を含めて国民会議側の意見は、東西の戦局の状況、 とくに隣りのビ ル マ に 迫 り 、 しかもインド国民軍を伴っている日本軍の動きとその斉す可能性について微妙な変化を繰返している。 そ し て 、 そのそれぞれの場合における可能性について検討がなされたが、当時のガンディl
については一貫して日本 と交渉する用意があり、 いくばくかの交渉成功の希望を持ち続けていたことを英国の当局者は見抜いていたが、 日 本 の軍部および政治家はこの点何らの洞察もできていなかったことをインド史家である長崎暢子はなげくのである(長 崎暢子 インド独立││逆行の中のチャンドラボl
ス 一 四 二 頁 ) 。 ついでに、ネルl
はどうであろうか。ネル!は、この戦争について﹁われわれは枢軸側に勝たせたくなかった。碍 15 大東亜戦争の埋れた遺産(二) なことはないにきまっているからだ。われわれは日本人にわが国を寸土といえども侵されたり、占領されたりしたく なかった。これはなんとしても抵抗しなくてはならなかったし、われわれは大衆にくりかえし印象づけた。﹂(ネルl
六五四頁)と旗色鮮明であった。そのネルl
で さ え 、 著、辻直四郎ら訳、インドの発見 下 クリストファi
・ ソl
ンによると次のように動揺を繰り返した。 ガンディl
が自分の主張をやわらげはじめたのが見えたとき、ネル!の極東戦争に対する態度も、まったく混 乱し、暖昧模糊としたものになってきた。 一九四二年四月、彼は日本をインドの来るべき﹁解放者﹂だったとす る考えをばかげているとして退け ローズヴェルトに対しては、わが同胞は﹁われわれの有する莫大な戦争資源第12巻 2号一一 16 と:::巨大な人力を動員して:::インド防衛のために最善をつくし、自由と民主主義の大義に献身するこ とを:::切望している﹂と確言しながら、 二週間もたたないうちに会議派の名前で支持者に対し、 日本軍が実際 にインド領内深く侵入してきた場合にとるべき態度について、次のように指示を書いた。 侵略者に屈服したり、命令に従ったりしてはならない。 彼らに取りついたり、賄賂を受けとったりしてはならない。しかし、敵意をいだいたり、彼等の不幸を願つ たりしてはならない。 彼らが土地を取りあげようとした場合は、抵抗すれば命を失うようなときでもけっして渡してはならない。 四 彼らが病気にかかったり のどの渇きにたまらず助けを求めできたりした場合は、拒んではならない。 五 イギリス軍と日本軍とが戦っているところでは、非協力運動は無益無用である。現在では、イギリス軍に対 する非協力運動を制限する。イギリス軍が戦っているとき完全な非協力を実行すれば、 われわれの国土を故意 に日本軍に委ねることになる。したがってイギリス軍の妨害しないことが、 日本軍に対し非協力を表明する唯 一の方法である。しかし、イギリス草を積極的に援助してはならない::・。 二、二一日後、この﹁簡単な非協力の原則﹂の前に次のような言葉が付け加えられた。 日本の戦いの相手は、インドではない。彼らが戦っているのはイギリス帝国である。:::インドが解放されれ ば、最初にわれわれのやらなければならないことは、おそらく日本との交渉だろう。国民会議派は、日本軍であ そして れ他の侵略者であれインドを攻撃する者があれば、自分の手で防衛することができると確信している(クリスト フ ァ 1 ・ ソ
l
ン著、市川洋一訳、太平洋戦争とは何だったのか 一 九01
一 九 一 頁 ) 。 そして 一九四四年(昭和十九年)三月、 ボi
ス率いるインド国民軍を伴って現実 印緬国境を越えて、 日 本 軍 が 、にインドに現われたのである。 ﹁会議派指導部の観点から見ると投獄と敗北は逆説的にいくつか恩典をもたらした。入獄によって人民から隔離さ れた結果、親日か、抗日かの問題に明確な態度を取ることを避ける助けになった。さもなければ、 四 四 年 の 数 カ 月 間 、 チャンドラ・ボ
l
スのインド国民軍がアッサム・ビルマ国境に姿を現わしたとき、この問題は非常に危ういものとな ったろう。しかもこのときはすでに世界的に連合軍が明らかに勝利を収めつつあるときだった。﹂(スミット・サルカ ル 著 、 長崎暢子ら訳、新しいインド近代史、 たしかにそうであろう。しかし、前段は、 そ 、 7 H 、五二八頁)後段は、 ではなかったはずである。 一九四二年八月八日、国民会議派が﹁インドを立ち去れ運動﹂の決議をするや、翌九日早朝、 ガンティl
、 ネ ル ! をはじめとする国民会議派の指導者は 一斉に逮捕された。ガンディl
ら指導者が、もし日本軍がインドに進行して 日本軍と交渉する恐れのあることをインド政庁は危倶していたからではなかろうか。ところが、肝心の日 本軍は現われず、この運動は指導者なき大衆運動となった。ガンディi
が運動の理念とした非暴力は放棄され、暴力 来 た 場 合 、 17一一大東亜戦争の埋れた遺産(二) を伴って都市から農村へと拡大していった。そして、この運動は、インド政庁の軍隊の出動により、最終的に九月の 終りには終五局したのであるが、この箪隊の駐屯は、 ガンディl
はじめ会議派によってあらかじめ了承されていたし、 その時期も雨季明けの日本軍の進攻が予想される前に終るように設定されていたという(長崎暢子 前 掲 、 二 四 四 頁 ) 。 にもかかわらず、この運動は、リンリスゴl
総督が私的に述べたとされる﹁その深刻さや規模については軍事機密上 の理由から我々がこれまで全世界から秘匿してきた﹂けれども﹁一八五七年の大反乱以来もっとも深刻﹂であった(ス ガンディーによって企図された﹁インドを立ち去れ運動﹂は、 tf ミ ッ ト ・ サ ル カ ル 、 前 掲 、 五 二 八 頁 ) 。 こ の よ う に 、 ン デ ィi
、ネルーらの主だった指導者が直前に逮捕されたことや、国民会議派指導者の路線の相異もあり、揚句は非第12巻2号一一 18 暴力の枠を超えた大暴動となり、インド政庁の軍隊の出動を侯って終罵する結末に終ったが、国民会議派がイギリス と決定的な対決するには、もうワン・クッション置かねばならなかった。 八 昭和十八年三月、南方軍にビルマ方面軍が新設され河辺正三中将が司令官に、そして、 その隷下の十五軍には、牟 田口廉也中将が司令官として任命された。牟田口は、 かつて第二十一号作戦について反対したが、この作戦は南方軍 のみならず大本営の意図であったことを知り﹁自分は軍職を奉じてこの方、初めて上司に消極的な意見具申を行い、 軍の威信を汚す結果になった。まことに申し訳ないことをした。今後は、上司の意図は、手段を尽して積極的にこれ が具現を図らねばならぬ:::。﹂と心中深く期するところがあった。そして彼は、第二十一号作戦と同様、アッサムま での進攻を自らの手によって実現しようとする。﹁わたしは庫溝橋事件のきっかけを作ったが事件はさらに拡大して支 那事変となり、遂には今次の大東亜戦争にまで進展してしまった。もし今後自分の力によってインドに進攻し、大東 亜戦争に決定的な影響を与えることができれば、今次大戦勃発の遠因を作ったわたしとしては、国家に対して申し訳 が立つ。男子の本懐としてまさにこのうえなきことである。﹂(防衛庁、前掲 九
O
、九一頁)やや手前味噌であり、 自信過剰でもあるが、彼はそのような人物であったらしい。しかし、これにはもうひとつ別の理由があった。この頃 に な る と 、 ビルマ国外に撃退した英印軍が再び国境を越えてビルマ西部に侵入しはじめた。その場合の丘姑は空輸に よっていた。牟田口のインド進行もそのインド国内のその基地をたたくべしで益々信念を固めていた。 片やビルマ方面軍司令官に親補された河辺中将は、上京のうえ束篠陸相に申告し、またビルマ行政長官パl
・ モ ウ 博士にも面接した。その際、東僚は、﹁日本の対ビルマ政策は対インド政策の先駆に過ぎず、重点目標は、インドにあることを銘記されたい。﹂と語り、河辺もこの意見に同意した ( 防 衛 庁 、 前 掲 、 九 二 、 九 三 頁 ) 。 ところで、欧州の戦線の状況は、第二十一日す作戦が示達された当時とこの時点では、全く様変わりしていた。﹁ドイ ツの南方最前線の北阿におけるロンメル軍はすでに退退し、またソ連進入作戦もヴォルガ河畔スターリングラ
l
ド に おいて、形勢はすでに逆転していた。枢軸側の戦勢は、すでに決定的に悪化し、わが軍部が期待したようなインド洋 で独伊と予を握るということは 一九四三年初頭には、断念せざるべからざる形勢に立ち至っていたのみでなく、最 大限に拡張された我が戦娘をいかに整理すべきか、を計画すべき時﹂(重光葵、前掲、 一 五O
頁)に立ち到っていた。 かかる東西戦線の情勢にもかかわらず、牟田口は、機会あるごとにアッサム進行を具申するのであるが第二十一日す 作戦のときとは逆で、第十五軍内部、 ビルマ方面革、南方軍および大本営いずれも慎重姿勢であった。第十五軍内部 でも、兵結専問の小幡参謀長が、制空権がすでに英印側にある現状から弾薬、糧稼の輸送は不可能の理由でこの作戦 に反対、麿下の師団長も同様の危倶を示した。そのため参謀長は更送される破日とさえなった。方面軍の河辺は、親 補の際の束僚の注意もあり、 かつ雇溝橋事件の際の牟田口の上司でもあったので危倶を抱きつつも心情的には牟田口 19一一大東亜戦争の埋れた遺産(二) を支える立場にあった。しかし、要は、 ボl
ス や パi
・モウらのインド制圧に対する政略上の要請とビルマ防衛とい う方面軍および第十五軍の任務とをどう整合さすかという戦略上問題をいかに具体化するかであった。しかし、第二 十一号作戦がアッサム制圧であったため、 はじめにアッサムありきだったのか参謀本部、南方軍、 ビルマ方面軍それ ぞれの段階で余り議論された形跡はない。結極、第十五軍の兵棋演習で、まず敵策源のインパl
ルを作戦目標とする ﹂とに決まった(佐藤晃 前掲 一二七頁)。牟田口は、兵棋演習の席で﹁敵と遭遇すれば銃口を空に向けて三発射て、 そうすれば敵はすぐ投降する約束ができているのだ。﹂(防衛庁、前掲 一二六頁)といった由であるが かりに冗談 半分にしろ、こちらには、 ボl
スやインド国民軍がついているという政略上の気楽さ以外の何ものでもなく、制空権第12巻2号一一 20 は敵に奪われ、英印軍が、 ビルマに侵入してきている事実からも、この戦略上の厳しさ かりに少数であったにしろ、 を認識すべきであった。これに対しボ
l
スの意見は、ビルマからチッタゴン(ベンガル州)を衡くべしであった。﹁べ ンガルはインド革命の発祥地であり、 その咽喉部をチッタゴンは犯する要衡にある。彼が先頭となって、ここに入れ ばインドの民衆は歓呼して迎え、必ず呼応して決起する﹂(丸山静雄 インド国民軍、九O
頁)というのである。たし か ボl
スはべンガル出身であり 一 九O
六年、当時のカl
ソン総督のベンガル分割という独立運動の分裂政策に 立ち上がって分割を不成功に終らした実績がある。今回の﹁インドを立ち去れ運動﹂でも、 ベンガルで撤からたリl
フレットに、﹁インドは野蛮なるイギリスと戦っているのである。 日本に対してでない。﹂という章句があった。これ も少なくともネル!の路線ではないし、 八月段階の会議派中央の決議の性格とも異なっている。むしろボl
スに呼応 するものであった (長崎暢子、前掲、二四三貝)。第二十一号作戦の頭初の攻撃目標は、﹁アッサム州およびチッタゴ ン﹂であった。しかし、これは、航空基地建設という戦略目標であったが、 いまやその必要はない。チッタゴン攻撃 は、純政略になってしまう。しかし、轍密に検討して成功の可能性大であるならば、自づとビルマ防衛という戦略は 必要なくなるのであるが、政略的見地から﹁インド立ち去れ﹂運動の地域別な検討をした形跡は参謀本部にも外務省 にもない。結局、この意見は、英海軍、 とくに航空母艦からの妨害を受ける危険性大という理由で実行不可能という 結論であったが、戦略的研究の結果、インド国民軍の一部を第十五軍の最左翼につけ、 チッタゴン方面に向わせると りていはばボl
スの顔を立てただけの案となった(丸山静雄、前掲、九O
頁参照)。こういう経過をたどってみると、 スミット・サルカルが﹁インド国民軍と日本軍との協同作戦も敗退に終り、インド独立にさしたる成果を挙げること はできなかったが、後程行われたインド国民軍兵士の英国軍事裁判において﹁インドの諸人種のなかで最も軟弱な﹂ べンガル人のボl
スが率いた軍隊がインド人の愛国的想像力に与えた影響は大きく、 たちまち国中の大衆運動に火をつ け た 。 ﹂ ( ス ミ ッ ト ・ サ ル カ ル 五 四 九 頁 ) 、 ボ
l
スにとっては戦には敗れたが予期しない 前 掲 、 といっているのは、 結果をもたらしたということであろう。 政略については、このような意見もあった。﹁たとえインパl
ルが取れなくとも、インドの一角に立脚してチャンド 一 フ ・ ボl
スに自由印度の旗を掲げさせる。これでも相当の政治的効果を収め、東篠首相の戦争指導に色をつけること にもなり得ょう。﹂(南方軍総参謀一副長稲田正純少将)(防衛庁 出 掲 一一二頁)これは、政略とはいえ、戦略的思考 停止ともいうべき見解であり、自己の上司の顔色をうかがうのみで同盟軍として誠意に欠ける。これでは戦う将兵の 志気にも影響する。しかし、占領後の体制は、 日 、 緬 、 印の幕 昭和十九年一月、インド国民軍ラングl
ン 進 出 の 日 、 僚会同で三者協定ができていた。ここでは、自由インド仮政府が独立国家であることを三者ともに認めたうえでであ る。協定は三項目あり、第一は、 日本軍増強部隊のビルマ進出が遅れていたため、インド国民軍が次扱いとなり、 駐 留が長ぴくこと、第二は、インド国民軍の収容施設の問題で、第一の理由から駐留が長ぴくなら、 ビルマ政府として もそれに伴う施設の提供は拒まない。そして、第三がインパl
ル政略後の諸施策である。これは、自由インド仮政府 21一一大東亜戦争の埋れた遺産(二) にとって最初の行政区域確立の重要意義を持つものであり、方面軍としても円滑に事を進める必要上、作戦開始に先 だち主要な諸原則を規整したものであり、次のような内容を取り決めた。 日本側は、既定の根本方針に基き、全面的にインド側の主張を容れ、 その占領地域をインド人のインドとして 同政府の進出と共にその統治下におき、警察権の行使やその他インド政府の権限を確立するすべての措置を認め る 軍需品の徴収もインド政府の了解のもとで実施し、 日本軍はもっぱら作戦面で協力することを中外に宣明する。 本協定は第一線の第十五軍司令官とインド政府主席との聞にも同様の趣旨で締結された。第12巻2号一一22 は か 敗戦後の今日、それらの回想は白昼夢のように惨ないものであったが、当時ボ
l
ス主席の胸中は希望に満ちていた のである(防衛庁、前掲、二七回、 五 頁 ) 。九
か く し て 、 一抹の危慎を残したまま、河辺、牟田口らの熱心な意見具申にほだされ、 かつ東僚総理の真意をも付度 して、参謀本部は、昭和十九年一月十五日、インパl
ル作戦の実施を下命した。そして三月八日、第十五軍(麿下に、 第十五、三十一、三十三の三師団)により作戦が開始された。牟田口司令官のこの作戦の終末目標は、 天長節(四月 二十九日) で あ っ た 。 作戦は、頭初はほぽ計画通りに進み、各師団ともインパl
ル平原の外郭線まではたどりついたが、そこから英印軍 の集中砲火をあぴて、作戦通りに進まない。戦力は、兵描距離の自乗に反比例するといわれるが、距離もさることな がら輸送力の差をまともに見せつけられることになる。制空権は、彼にあって連日の如く地上攻撃、英印軍の弾薬・ 糧稼投下のために飛来する。突撃を繰り返しても戦力は損耗するばかり。現地で作戦指導する山内正文第十五(祭)師 団長、佐藤幸徳第三十一(烈)師団長、柳田元三第三十三(弓)師団長らも、この作戦に疑義を持ち始めた。以下は、こ の戦闘に参加したある兵士の手記である。 軍上層部の現状認識の甘さは、対英軍インド兵観の甘さにも知実に示されていた。彼らはわが軍に対し一応抵 抗の姿勢はとるが マハトマ・ガンジー以来の宿願でもある祖国独立を願わぬインド兵は一人もいないはずで、 かならず機を見て我軍門に降るであろう。そして、チャンドラ・ポl
ス麿下の祖国独立義勇軍に編入され、勇躍 第一線で銃先を英帝にむけるであろう、と。ところが、彼らは英軍将校の監督下、 日本軍歓迎どころか、火の玉となって抵抗してきた ( 上 村 喜 代 次 イ ン パ ー ル の 挽 歌 、 一 六 八 頁 ) 。 前年七月五日、インド国民軍の閲兵式がシンガポールで行われたが、その際、 ボ
l
スが﹁現在、わたしが諸君に進 呈できるものは飢え、欠乏、進軍に次ぐ進軍、死以外の何物もない。:::われわれの幾人が生きて自由インドを見る かは問題でない。インドが自由を獲得すること、インドの自由のためにわれわれがすべてを捧げること、 それだけで 十分なのである。﹂と力説した。そして、そのときが来たのである。 インド国民軍兵士の英印軍インド兵への呼びかけは、成功した例もあった。呼びかけたところ英人将校がそれに気 付 き 、 一斉射撃を受け、大隊の半数が戦死したこともあった。また、英印軍の下士官のインド兵が自ら投降し、英印 軍の情報をもたらし、大いに作戦に寄与したが、ある日置手紙を残していなくなった。給与が悪く将来の見込みがな ぃ、と書いであった。そして、遂に数少ないが、これちから英印軍に投降した者もあった(ここの部分のインド国民 軍に関する記述は、丸山静雄、インド国民軍を参照した。)。このように、インド国民軍ならではの活躍を続けたが、 23一一大東亜戦争の埋れた遺産(二) 戦局を左右するまでには至らなかった。 一方、河辺方面軍司令官は、インパ 1 ル作戦の前途多難を痛感し、四月十七日、﹁作戦大敗せる場合を考慮し方面軍 として打つべき方策﹂の検討を命じた。それによると第十五河三十三師団をチンドウィン河西岸の山地帯において防 勢に移転する。第三十一師団は、 その一部はチンドウィン河渡河地点を犯し、師団主力は第十八師団方面に転用して フl
コン方面の戦局の打開を図る。というのであり、その条件として﹁作戦の見通しを早くたて、なお余力のある間 に防勢に転ずることの必要﹂が強調されている(防衛庁、前掲、五O
七、八頁)。要するに戦略本来のビルマ防衛に返 れ、そのためにインパl
ル攻撃で不必要な体力を消耗するなという、親補の際の東僚の注意と、自分も推進した立場第12巻2号一一24 からの苦渋の選択ではあったのであろう。ところが、 ビルマ方面軍を視察に来た参謀本部奏次長らに対し、 五 月 二 日 、 方面軍の青木高級参謀は、河辺方面軍司令官らの立会のもと、インパ
l
ル作戦の見通しは八01
八五%成功が見込ま れると報告した。河辺は、 二週間前はインパl
ル作戦の前途多難を憂えて、失敗した場合の方策を樹てさせたばかり である。しかも早急にその見通しをたてよ、 とさえいっている。どうしてこういう報告をしたのか、東篠への配慮な のか。これは河辺の司令官としての自己保身といわざるを得ない。秦次長は、このあと河辺と個人的に面談して離緬 するのであるが、彼の総合的な判決は、インパi
ル作戦の成功はおぼつかない、 であった。秦は、このような所感を 抱いて帰京し、東篠参謀総長には﹁成功の公算低下しつつあり﹂と和げて報告したが、 それを聞いて東僚は、万座の 前で激怒した。その激怒の尋常でない様を大本営機密日誌は、次のように描写している。 これを聞いた東篠参謀総長は﹁どこが不成功なのか何か悲観すべきことがあるのか﹂と威たけだかに秦参謀次 長に結めよった。総長としては、もうインパl
ルは駄目だという判決が、この作戦の成功には政治的にもかけて いた期待が大きかっただけに、気に入らなかったのであろうか。この凄い剣幕に、次長も大勢おる前であるし、 あきれた顔付で黙ってしまった。総長は、すぐ前の席の三笠宮に対していっているようでもあった。 一 座 は す っ かり白け切って解散した。:::もし私が秦さんの立場であったら、 肩章捨てて取り組み合っていたであろう(同 書 、 二OO
頁)。しかし、これは怒る方がおかしい。この作戦は、ビルマ方面軍第十五軍から上ってきたもので、 参謀本部は、ただ認可するだけであった(当時、東僚は、陸軍大臣として合議に参画)。種村佐孝の別の記述によると、 この作戦の認可は﹁中央も南方総軍もビルマ方面軍も共に牟田口中将の剣幕に引きずられた形であった。ところがい ざ作戦となってみると、現地の偵察が少しもしていない。現地指揮官が出来るからやるというくらいの心許ない発足 で あ っ た 。 ﹂ ( 詞 書 、 一 九 五 頁 )しかし、この作戦は、本来なら参謀本部自らが発起すべきくらい大きな政略的作戦である。したがって、認可に当 たっては、参謀本部は、インドの政治的実情を十分把握し、現地の偵察も十分行ったかどうかを確かめて現地軍の作 戦の遂行を支えるべきであった。現にボ
l
スの主張はチッタゴンを攻撃すべしであった。参謀本部であればビルマ防 衛という戦略や守備範囲に拘束されることなく最善の作戦が樹立できたはずである。ボl
スが﹁日本に政治家がいな い﹂といった由であるが、彼はこのような事態を指していったのであろうか。 かくして、インパl
ル作戦は、続行となったが、 形勢は、悪化する一方であった。また、この作戦中に第三十三一師 団長柳田元三中将 U 五月十日解任(戦意喪失)、第十五師団長山内正文中将 H 六月十日解任(病気)、第三十一師団長 佐藤幸徳 H 七月五日解任(抗命)と三人の師団長が解任され、交替したことは、戦史上その例をみないとされるが、 政略と戦略との事離は いまや明らかであった。五月から激しい雨季に入ったが、牟田口は﹁雨季の感作は我に対す るよりも敵に及ぽすものが大なり﹂と称してなお第一線を督戦したが、 アラカン山系奥深く進攻した第十五軍の各師 団は、恐るべき雨季の感作を真向に受けて、進退に窮するに至った(防衛庁、前掲、六O
九頁)。そして大本営は、七 25一一大東亜戦争の埋れた遺産(二) 月三日作戦中止を決定し、第十五軍が隷下各師団に中止命令を下したのは七月十日であった。これに伴い、 ボl
ス も 七月二十一日、国民軍に対し撤退命令を出した。命令が師団司令部に届いたのは七月二十三日であった。 イ ン パi
ル作戦は、戦闘四カ月、 返却行三カ月といわれるが第十五軍およびインド国民軍の将兵には、 さらに苦難 の日々が待っていたのである。ここで作戦参加人員とその損耗の状況についてみてみる。このような戦いだったので 正確にはつかみ難いが、主として防衛庁の戦史叢書による(防衛庁、戦史叢書、イラワジ会戦 二O
八頁 1 一 一 一 一 頁 、 丸山静雄 イ ン パl
ル作戦従軍記 一 八 一 頁 1 一 八 五 頁 ) 。 第十五師団(祭兵団)第12巻2号 26 参加兵力 残存兵力 損耗率 戦死者 戦病死者 行方不明者 後送患者 約一万六
000
約三三00
七 八 % 二 六 七 八 三八四八 七 四 七 七。
参加兵力 第三十一師団(烈兵団) 約一万六六00
残存兵力 損耗率 戦死者 戦傷病者 行方不明者 後送患者 約 五000
六 七 % 三 七00
二O
六 四 不 詳 不詳 第三十三師団(弓兵団) 約一万七000
参加兵力 残存兵力 約二二0
0
損耗率 八 四 % 戦死者 四
O
O
二 戦傷病死者 一 八 五 三 行方不明者 四O
五 後送患者 不詳 参考までにガダルカナル島における損耗率(陸海軍合わせて)参加人員 三 五 、 三 三O
、撤退人員 一O
、 六 一 二O
戦死者二四、六00
、損耗率 六 一 % で あ る 。 過去二カ年にわたる東南アジアの戦闘で、 ほとんど一人の捕虜も出さなかった精強な日本軍が、 一 週 間 に 一O
O
人 以上の捕虜を出したといわれる(防衛庁、イラワジ会戦 一二八頁)。行方不明者のうちのいくばくかは、この中に合 まれているのであろう。 それにしても、雨季の最中の退却行は、悲惨を極めた。糧椋もほとんどなく、後送患者を伴って再び越える峻険な 27一一大東亜戦争の埋れた遺産(二) 密林の道は﹁白骨街道﹂とも﹁靖国街道﹂とも呼ばれた。そして、 ビルマにたどり着くや、体制を建て直す暇もなく 追撃して来る英印軍を迎え撃たねばならなかった。ビルマ国軍が見切りをつけ反乱を起した。そして首都ラングl
ン が陥落したのは、昭和二十年五月二日であった。インパl
ル作戦は、政略と戦略の二兎を追い一兎も得られなかった。 そ し て 、 日本は八月十二日、ポツダム宣言を受諾、インド国民軍一万七O
O
人 は 、 日本軍とは別個に英軍に降伏し、 国民軍将兵は逐次インドに送還された。そこで待っていたのは、英軍による軍事裁判であった。第12巻2号一一28 十 軍事法廷は、デリーにあるかつてのムガ
l
ル王朝の城跡であり、植民地になってからは英軍東南アジア軍司令部(司 令官マウントパッテン海軍大将) が設置され、まさに植民地帝国のシンボルともいうべきレッド・フォl
トで聞かれ た。第一回裁判は 一九四五年(昭和二十年)十一月五日から国民軍の三人の高級幹部が、英国王の反逆罪、軍律違 反で処刑した将兵に対する殺人罪等で裁かれた。この三人の幹部は、 そ れ ぞ れ 、 ヒンズー教徒、イスラム教徒、シー ク教徒と意図的に選ばれた。これに対し、国民会議派は一流の弁護団を組織し、 日本嫌いのネルーも久し振りに法服 をまとい、弁護人として法廷に立った。 英軍が、インド人をほとんど包括する三つの異なる宗教の指揮官を三人選んだことは、 いやしくも英国王に反逆す る者は何ぴとであれ容赦せぬぞ つまり全国民軍将兵が裁かるべきであるという威嚇と、あわよくば、この裁判を通 じてコミユナル(宗派的)な対立を起させ分割を図ろうとしたといわれるが(丸山静雄インド国民軍、二六O
頁 ) 、 す べてが逆効果であった。すでに、九月には国民会議派は﹁国民軍将兵はインド独立のために戦った愛国者であり、 J.!P 時 釈 放 す べ き で あ る 。 ﹂ ( 西 岡 香 織 、 アジアの独立と大東亜戦争、二六O
頁)という宣言を発表していたし、また、 fこ またまこの時期に、英軍は、イギリス軍将校指揮のインド人部隊を、インドネシア、インドシナに派遣しようとして いた。なぜ、インド人がオランダおよびフランスの植民地再支配のために協力しなければならないのか、 との強力な 反対運動と双乗して大規模なデモが起った。法廷は、十二月三十一日、 三被告を、国王に対する反逆罪で無期流刑の 判決を下したが 公表は控えられた。さらに翌年一月三目、英印軍司令官は﹁判決は正当だが、 民衆の怒りを恐れて 総司令官の権限において刑の執行は停止する。﹂と発表し、一二被告を釈放した。このニュースが伝わるとインド全土が沸いた。三被告は﹁愛国者﹂、﹁インド独立の英雄﹂として祖国に迎えられた。ところで、あのインパ
l
ル作戦をイン ド国民軍とともに戦った日本軍は、法廷でいかなる評価を受けたのか。以下、中里成章﹁インド国民軍裁判をめぐっ て﹂(長崎暢子編﹁南アジアの民族運動と日本﹂所収)を参照しつつそれに論及する。 まず、国民会議派である。ネル!は、すでに終戦になっているのだから、路線のちがい ( ポl
スとの)はあれ、純 粋な動機から戦ったインド国民軍将兵を逆徒として罰することはできない。現に、 日本軍およびインド国民軍は何ら 脅威でなくなった (それ以前であれば﹁たとえインド国民軍といえどもインドに侵入してきた場合は戦う﹂であっ た。)、国民会議派は非暴力による独立 i ! ? インドから立ち去れーーを堅持するのだから、より広い見地からインド国 民軍問題を処理できる││即ち日本軍との関係を棚上げしても││彼等を過し擁護できると考えた。ガンディ!が﹁イ ンド国民軍の催眠術が私たちを魔法にかけた。﹂といった位、すでに熱狂がインド全体を覆っていた。しかも、三人の 被 告 が 、 ビ ン ズi
、イスラム、シークと異なる宗派に分れていることも世俗主義の会議派には有利である。あえて、 日本軍問題にふれて事態をややこしくする必要はないではないかという態度である。 29一一大東亜戦争の埋れた遺産(二) ところが、被告および被告側証人となるとそうはゆかない。彼らは、 日本軍と行動を共にしたのだから。しかも、 その言及は厳しい。﹁日本人からは、われわれは何も期待できなかった。彼らはわれわれにとって援助というよりも障 害になることがわかった。わたくしは、日本人に発砲しなければならないことさえあった。﹂と述べ、日本人を﹁ジヤ ップ﹂とさえ呼んで反感をあらわした。厳しい反目的言辞である。弁護人に、 日本嫌いのネルーがいれば、こういわ ざるを得なかったのかも知れないが、あながち事実無根でもあるまい。このことは、インパl
ル作戦のもうひとつの 目的││政略的目的││インドの独立が、 どの程度一般兵士に浸透していたかを知るひとつのバロメーターでもある。 ま た 、 その浸透の仕方は、民族的優越感がその言動に伴った可能性もなかったとはいえないであろう。第12巻2号一一 30 ついでに、この裁判とは直接関係ないがボ
l
ス は 、 日本軍をどう見ていたのだろうか。インパl
ル 作 戦 が 挫 折 し て ぜ 日本が作戦を中止するなら、再起をピルマ国防軍の力を借りようとパl
・モウと話しあった。以下は、その際のパl
・ モウの回顧の一部である。 ボl
スは日本との関係が一層悪化していることを知った。私とおなじように 彼は日本軍内部の最も粗悪な人種主義、軍国主義者の一部と事にあたらなければならなかった。事実インドが日本の ︿撤退してラングl
ン に 戻 っ た と き 、 考える大東亜共栄圏の範囲外にあり彼らがあまりインドに興味をもっていなかったことから、彼の困難は一層大きい ものだった。インド進攻作戦の失敗は彼らの興味をさらに減少させた。しかしボl
スはもし日本が加わらないならば、 自分たち自身ピルマ軍との共同作戦で、ことを遂行する新しい軍隊を編成する決心だった:::。﹀ ( 信 夫 清 三 郎 太 平洋戦争﹂と﹁もう一つの太平洋戦争﹂一四二頁)。これはボ!ス自身の言葉ではないが、ボl
スの考えを反映してい るとみてよい。日本はインドに興味がなかったのでない。開戦前からインド独立は、戦争終末のひとつの要件であっ た。しかし、ここまでみてきたように、それにしては余りにもインドおよびインド人に対する調査研究が不足であっ た 。 そ れ は ま た 、 アジア全体についてもいえることかも知れない。これは開戦時、石油の備蓄が二年││戦争になれ ば一年半しかなく、陸海軍とも緒戦に勝つこと つまり自存自衛が戦争目的であって、それから先のこと、たとえば 占領政策など具体的に検討する余裕がなかったのかも知れない。それについては後に検討するが、このパl
・ モ ウ の 文章から推測する限り、 ボl
スの日本軍首脳部への印象は余りよくなかったようだ。 さて、弁護人はどうだつたのだろうか。ネルl
はとも角、主任弁護人はブラッパイ・デサイ博士である。 裁判の大きな争点として、インド国民軍は日本軍の健備でなかったのかどうかが争われ論証が行われた。この点に ついては、国民軍結成に当ってポl
スからの独立国の軍隊としての厳しい要請があり、 日 本 軍 の 命 令 は 、 た と え ば 、作戦の整合上、兵団長以上とし、それ以下は、国民軍自身の判断による。軍紀の取締りは、国民軍で憲兵隊を設置し、 日本軍の憲兵には関与させないなど、あくまで対等の同盟軍としての関係を確立していた。そのうえで法廷では、 (1) インド国民軍は日本軍の同盟軍として戦った。当時両軍の戦争目的は、疑いもなく、イギリスからインドを解放 することにあったのだから、同盟したからといって何ら不名誉なことはない。 (2) 日本は慈善で戦争をしていたのではもちろんない。しかし、インドに関するかぎり、 日本の戦争目的は、東亜の 防衛と通商の利益を実現するためには自由インドが望ましいという観点に立って、インド解放を支援することにあ った。またインド国民軍側は、解放された領土を直ちにインド国民軍に手渡す、 という協定を日本軍との聞に結ん で、日本に領土的野心のないことの保証をとりつけている (現にアンダマン 一コパル諸島は、インド仮政府に返 還している。てこれ以上立ち入って日本の真意のようなものを詮索する必要はない。 (3) 同盟が正しかったか誤りであったか、あるいは、祖国解放のために同盟を結んだ相手が、実は他の点で悪い人物 だったのではないか、 といった問題は、本裁判で扱われるべきものではない。 31 大東亜戦争の埋れた遺産(二) (4) 要するに問題は、インド国民軍が祖国の自由のために闘っているのだと誠実に信じているよく組織された正規軍 であったかどうか、 ということに尽きるのである。もし一方が他方の道具になっていたとどうしてもいわなければ ならないとしたら、 それはインド解放を支援する日本の方であったといわざるをえない。 このデサイ主任弁護人の弁論は、大体、国民会議派の論旨にしたがってまとめられている。ただ一点制項後段は、 国民会議派の論旨から一歩はみ出している。これは恐らく、﹁インド国民軍は、日本軍の道具でなかったのか﹂との検 察側の訊問への反論すべき場面であろうが、これは反論を通り越して逆襲であるとでもいうべきか。これに関連する 所見を後程述べる。