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― ヴォルテールの「生涯」

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(1)

アントワーヌ・リルティの『著名人の形象』(邦題『セレブの誕生』

1)

1778

年の劇作家にして哲学者,大詩人ヴォルテールのパリ帰還という 名高い聖別の挿話からはじまっている.フランス革命の抹消や政治の脱政 治化といった,このエッセイをまえにして感じる数々の根源的疑問.ま た,たとえばルソー作品やデュクロ作品をめぐる明らかな曲解ともいえる 解釈.このような点はひとまずおくとして,

1980

年代のダニエル・ロシ ュの君臨0 0以降,急激に失速した

18

世紀フランス文化史研究の秘かな再興 をはかる試みとして,あるいは語りつくされた「公/私」「生/性」「マス

/偉人」「言説/記憶」「空間/界」といった問題系の隙間を縫って慎重に 歩を進める宿命にある彼の世代に属する文化史家たちの象徴的成果とし て,このエッセイを積極的に利用することはできないだろうか.まさにそ のヴォルテールを例にとることによって.

文化史の名のもと,ある現象の歴史的時期の特定を巧みに回避するとい う意味で,徹底した非歴史的な歴史的エッセイであるリルティのこの書物 は,事実,ヴォルテールの「生涯」について検討するさい,実に示唆に富 んでいるようにみえる.『オイディプス』

1718

2)

や『ザイール』

1732

年)といった劇作の大成功.『アンリヤード』

1723

や『カール十二 世伝[歴史]』

1730

,『哲学書簡』

1734

年)といった作品によって 手にした詩人,歴史家,哲学者としての圧倒的名声.『ナヴァールの王妃』

1745

年),『栄光の殿堂』

1745

年)の制作によって成し遂げた,修史官に して王室部屋付き侍従へという宮廷における象徴的地位の束の間の上昇.

さらには翌

1746

年のアカデミー・フランセーズ会員への選出.こうした 数多の「事件」が示すように,ヴォルテールは

1750

年以前にすでにフラ ンスのみならずヨーロッパを代表する文人であり,セレブリティでもあっ た.つまり,周知の世紀後半の活動はすべて省略するとして,作家・思想 家ヴォルテールの例外的「長寿」はリルティの図式に大きな問題を突きつ

ヴォルテールの「生涯」

̶̶伝記あるいは自伝の必然性/不可能性̶̶

桑 瀬 章 二 郎

(2)

けるのである.ヴォルテールは,仮にリルティの図式に従うなら,ほとん ど時代の主役として,セレブリティの「前史」を生き,「生成期」を生き,

その「頂点」の時期をも生きたということになろう.さらにこれまた周知 のように,詩人の死後には,革命の先駆者の神話,また重要な歴史的モー メントに繰り返し参照されるであろうアンガージュマンの知識人としての 神話化が進み(いわゆる「ヴォルテールの世紀」の神話),この作家はセ レブリティの必要条件である各方面からの毀誉褒貶にさらされ続けた.無 数の批評的言説が産出され,さまざまな歴史的局面で,イデオロギー闘 争,政治的闘争を構成したのである

3)

ところでこのヴォルテールの「生涯」は,生前から,いや世紀前半から,

すでに無数に,さまざまなかたちで,だが

18

世紀固有の叙述技法(哲学 者自身も用いた「歴史」「生涯の事績」「秘話」「逸話」「頌辞」「書簡」,さ らには彼の嫌った「肖像」,あるいは伝記素(バルト))に従いつつ部分的 に創造0 0されており,これらが

20

世紀のルネ・ポモーにいたるまで,のち のほぼすべての伝記的言説産出者に決定的影響を与えることになった.そ のなかにはもちろん革命崇拝を先取りするような礼賛テクストもあるが,

多数の痛烈な批判的「伝記」もあり(まちがいなく彼は

18

世紀に最も頻 繁に激しく攻撃された文人だった),ルソー以上に他者からの批判の声に 敏感であったこの大詩人は,どのような揶揄も見逃さず,さまざまな手段 で応酬し(『カフェ,あるいは若きスコットランド人女性』

1760

年)のよ うな劇作,伝統的「風刺」,恥ずべき0 0 0 0誹謗テクスト…),さらには編まれた

「書簡」といった自伝的テクストを小出ししながら,自らが拡散されるこ とを望むような自己のイメージを築きあげようと試みた.本稿では,とり わけこうした論争性と対話性に注目しつつ,いくつかの名高い伝記的批評 的言説と,『『ラ・アンリヤード』著者の諸作品に関する史的注解』

1776

年),『彼自身による,ド・ヴォルテール氏の生涯のための回想』(死後刊行,

1784

年),幻の作品0 0『ベルリンからのド・ヴォルテール氏のドゥニ夫人宛 書簡』(死後刊行,

2004

年)という三つの代表的自伝的テクストを分析の中 心に据えて,「著名性」がセレブリティの「生」ととり持つ関係について 検討を進めてみたいと思う.たとえば『回想』『注解』のタイトルはすで に,厳密な意味での自伝執筆の不可能性と来るべき伝記の必然性を浮かび あがらせているのではないか.

制御不能の匿名の公衆とその公衆が向ける,ときに無遠慮な関心(とい うよりせんさく心)がセレブリティの存在条件であるならば,ヴォルテー

(3)

149

ルほどこれを憎悪した知識人はいないといえるのかもしれない(『寛容論』

1763

年)にさえその痕跡がある).ヴォルテールの「生涯」をめぐるこの ささやかな検討によって,リルティが「名声」や「栄光」との差異を強調 した「著名性」の,とりわけ作家の「著名性」の,

18

世紀知識人の「著 名性」の,いや,ヴォルテールの「著名性」の特異性と例外性が浮き彫り になるかもしれない.

I

 ヴォルテールの凱旋?

この考察のために,われわれもリルティ同様,彼が注目してみせた

1778

年のヴォルテールのパリ帰還,劇作家の名高い聖別の挿話の再検討 からはじめることにしよう.リルティの議論を暴力的に要約すればおおよ そ以下のようになろう.長らくパリに戻ることを禁じられていたヴォルテ ールはついに帰還を認められると,同年

3

月末,コメディ・フランセー ズでの自作『イレーヌ』の上演に立ち会う.これはまさにヴォルテールの 栄誉を戦略的に,公的に,公式に称えようとする一連の儀式の最終幕であ った.事実,この生ける伝説は劇を演じた役者以上に公衆=観客からの注 目を集め,作品そのものや作者としてのヴォルテールに対してではなく,

著名人ヴォルテールに対する,われんばかりの歓声に劇場全体が包まれた とされる.当時のメディアはこれを「事件」として大々的に報じた.

念のために想起しておけば,

18

世紀のフランスではいわゆる知識人が,

文化社会のなかで,政治にまで影響を与えるほど象徴的地位を高めていっ たとされる.知識人なる存在の重要性の高まりと知識人の,あるいは知識 人をめぐる言説の爆発―この奇妙な出来事の背後にあるとされるものこ

フランス座における ヴォルテールの戴冠

ヴォルテールの霊塊[パンテオン]

(4)

そが「偉人崇拝」と呼ばれる現象であり,これが革命期の「偉人崇拝」の 原型を成すといわれることもある―ヴォルテール自身,

1791

7

月に 文字通り祖国の偉人としてパンテオンに埋葬された

4)

.リルティは,この

「偉人崇拝」を象徴する「事件」,あるいは革命祝祭の予兆として語られる 傾向のあるヴォルテールのパリ帰還という「事件」の負の側面,いやむし ろ祝典の裏面を強調してみせるわけだ.つまり,彼は,公衆の視線を一身 に集めたヴォルテール自身,いや,詩人・劇作家ヴォルテールのみならず その取り巻きの一部や鋭い観察者たちをもとらえたであろう違和感,そこ に潜む怪しげな暴力性とそれに対する漠たる不安に注目するのである.ど うやらこの祝典には,不確かで人を困惑させるような,冷めた空気0 0が潜ん でいたようだ―その点をリルティは,祝典のもつアイロニカルな側面と ともに際立たせるである.したがって,この聖別の場で,作者ヴォルテー ルは,称揚の対象としてもはや作者ではなく,作者の存在,あるいは作者

ル・ヴァシェ「全世代にとって唯一なる人物の演劇に関する逸話」

(5)

の過剰が作者の不在そのものとなり,その不在がスペクタクルの口実とし て崇拝の儀式を可能にしたとされる.そしてそれこそがセレブリティの呪 縛であると.

「事件」についてのこうしたリルティの解釈は実に興味深いものだが,

それをまえにして,われわれはやはり小さな違和感とかすかな疑念を抱か ざるをえない.それを二つの問題として定式化してみよう.ひとつめは公 衆と記述された公衆,すなわち公衆の表象についての問題である.

1770

年代と

80

年代のフランス文学界におけるセレブリティと作者,

あるいは文学0 0の関係について論じるさい,リルティは教科書通りに,ルイ

=セバスティアン・メルシエの『タブロー・ド・パリ』

1781–

における

「作者を!作者を!」という有名な一章を参照している.いうまでもなく,

『タブロー・ド・パリ』は,多作な,ほとんど病的に書き続けた作家メル シエによるパリ習俗をめぐる長大な代表的エッセイ集である.たしかにメ ルシエはそこで,コメディ・フランセーズをも含むパリの劇場で慣例とな った儀式,上演後に観客が大声で作者を呼び求める儀礼,つまりスペクタ クル終了後のもうひとつのスペクタクルを痛烈に批判し,この儀式は作者 にとって侮辱以外の何物でもないと書いている

5)

.メルシエによれば,こ の慣例は,作品のみならず作者そのものをも抹消する恐るべき儀式だとい うことになる.作者という存在は著作のなかにある,いや著作のなかにし かない,それが,『タブロー・ド・パリ』のメルシエの主張であった(「『タ ブロー・ド・パリ』のメルシエ」というのは,いかにも彼らしく,他の箇 所ではそれと矛盾するような記述も残しているからだ).そして,メルシ エはこの慣例が『メロープ』の作者,すなわちヴォルテールとともに定着 したと書き,暗にヴォルテールを批判してもいるのである.

ところが,リルティはまったく触れていないが,興味深いことに,実は ヴォルテール自身もまたこの慣例を痛烈に批判していた.たとえば自伝的 著作『『ラ・アンリヤード』著者の諸作品に関する史的注解』で,ヴォル テールは『メロープ』について語るさい,註を打ち,そこではっきりと次 のように書いている.

ここから作者を,―作者…と騒ぎ立てる滑稽な0 0 0流行が生まれたのである

6)

観客の視線を一身に集めた『メロープ』の作者としての,さらには『イ レーヌ』の作者としてのヴォルテール自身の心理など,もちろん書簡から

(6)

さえつかむことはできない.彼の敵対者たちはこの詩人の自尊心の強さを 常々嘲笑していた.また,パリから遠く離れた地にあってさえ,パリの劇 場における自作への公衆=観客の反応,いや,自作のみならず他の作家の 上演作品への反応にまで,絶えず異常といえるほどの関心を抱き続けたヴ ォルテールのことだから,メルシエの記述は至極もっともらしくもみえる

―これまたたしかだ.それでも,少なくとも『史的注解』執筆時期のヴ ォルテール自身がすでに,書簡を参照すればそれ以前から,問題の慣例を 批判的かつ客観的に眼差す視座を持ち得ていたということは紛れもない事 実なのだ.より正確にいうならば,ヴォルテールは,その言説の真偽のほ どはさておき,セレブリティとしての自己を,公衆なる不確かな存在を 十二分に意識しつつ,アイロニカルに言説化してみせることができたわけ だ.

「作者を!作者を!」におけるメルシエの記述に,ヴォルテールの記述 を重ねあわせてみると,さらに複雑な問題が浮上してくる.歴史資料で は,実は,『メロープ』初演のさいに,たしかに観客がヴォルテールを見 たいと,大声で要求がなされたが,その後に慣習化したように作者が舞台 にあがることが求められたのではなく,ボックス席から姿を現すことを求 められたとなっている.つまり,『史的注解』のヴォルテールが「公衆=

観客

public

」を問題にしているのに対し,メルシエは「作者を!作者を!」

においては(他の箇所で彼が頻繁に言及している)「公衆=観客」につい てはひと言も触れず,あくまで

18

世紀の劇場の一階立見席,制御不能な 匿名の公衆の象徴であり,世紀を通じてその機能を変化させていった「平 土間(

parterre

)」を問題にしているのだ.のちに立ち戻るが,

1770

年代 から

1780

年代の複雑に階層化されたフランス知識人界において一般にあ0 ぶれる者0 0 0 0と位置づけられるメルシエその人が,自ら公衆を階層化してみ せ,その相対的位置付けを行い,文学場の頂点に立つヴォルテールを暗に 批判するというのはなんとも興味深い現象ではないか.

この二点をおさえたうえで,ヴォルテールのパリ帰還という「事件」に ついてのリルティの叙述をまえにして浮かびあがってくるもうひとつの問 題を整理してみよう.この二つ目の問題はヴォルテールについて語るとい う行為そのもののもつ広義の政治性にかかわる.

議論をわかりやすくするために同じ『タブロー・ド・パリ』を例にとる ことにしよう.『タブロー・ド・パリ』には無数の文人,今ではすっかり 忘れ去られてしまった当時の著名人が登場しており,当然ながらヴォルテ

(7)

ールにも繰り返し言及がなされる.なかでも最も重要なものが,「ヴォル テールの著作」と題された章と,まさに哲学者のパリ帰還を論じる(リル ティも注目する)「ヴォルテールの凱旋.ジャノ.」と題された章となるだ ろうか.ところで,『タブロー・ド・パリ』は

1781

年に初版が刊行され るのだが,

1782

年,

1783

年に繰り返し大幅な加筆修正がなされ,複数の 版が刊行されている.「ヴォルテールの著作」は新たに書き加えられた章 であり,すでに

1781

年版に存在していた「ヴォルテールの凱旋」の章も ほぼ完全に内容が書きかえられてしまったものだ.先に言及したアイロニ カルな「作者を!作者を!」も新たに書きたされた章である.さて,その

1781

年版では,ヴォルテールのパリ帰還はまさに一文人の完全な勝利,

偉大な知識人の凱旋,祖国の偉人の帰還として語られていた.つまりそれ は典型的な,それも熱狂的なヴォルテール支持者のテクストとしても0 0 0 0読み うるようなものであったのだ.ところが,

1783

年版になると,すべてが 一変してしまう.ヴォルテールの極端なまでの虚栄心,ナルシシズム,傲 慢さが侮蔑的に語られ,その凱旋が「百科全書派の党派」によって周到に 準備された一種の政治的策略・陰謀であったと断罪されてしまうのだ.

「ヴォルテールの著作」と題された章はさらに辛辣であり,かろうじて詩 人としての才能,つまりその詩才が条件つきで評価されるのみ.ヴォルテ ールは政治や哲学についての豊かな知識こそ備えてはいたものの,自分で は皮相な思考しか展開できず,モンテーニュもモンテスキューも正確に理 解できなかった.権力者にこびへつらい,だからこそその歴史的著作はあ やまった政治原理に貫かれており,そこで展開されているのは結局のとこ ろ執拗な聖職者批判のみ―以上のような痛烈な批判が展開されるのであ る.この章の「党派」による陰謀説にかんする一節は,極端なまでの凡庸 さゆえに実に印象的だ.

さまざまな地位を独占的に自分たちに割りふるべしと決めこんだある党派

secte

)が彼

[

ヴォルテール

]

をリーダーに据えたのだった.この党派は彼

[

ォルテール

]

の名のもとに文学界の不寛容を覆い隠そうとし,こうした不寛容 はこの党派の特性となった.だが,ヴォルテール亡きあと,この常軌を逸した 滑稽な専制(

despotisme

)の土台となるだけの威光ある名などみつかるはず もなかった.専制は崩壊した.文芸共和国(

république

)は再生し,こうし た唾棄すべき圧制者・僭主たち(

tyrans

)の名誉を失墜させてしまうはずだ

7)

(8)

典型的な,偉大な文人ヴォルテール礼賛のテクストだったものが,典型 的な,文学界の圧制者ヴォルテール批判のテクストへとすっかり姿をかえ てしまうわけだ.ヴォルテールを「党派」の首領とみなす見解はヴォルテ ールの敵対者がある時期から執拗に拡散させようとした解釈のひとつで,

その影響は今日にまで及んでいる.じっさい,反ヴォルテール的立場をと る当時の多くの文人や批評家がメルシエ同様,この種の批判的言説を無数 に生みだしていった.

パリ帰還という「事件」についていえば,これらとは逆に,たとえば哲 学者たちの機関誌としての機能を果たした時期もある『文芸通信』は,当 然ながらこれを好意的に伝えている.『文芸通信』の執筆者は,ヴォルテ ールのためにあげられた祝典を,公衆が長く待ちわびていた,知識人すな わち文人の聖別のための理想的儀式として描き出し,さらには,これまた 驚くほど凡庸な筆致で,執拗なまでに,全員一致で0 0 0 0 0,満場一致で0 0 0 0 0,公的に0 0 0 詩人に祝意が表された点を強調するのだ

8)

.付言しておけば,ヴォルテー ルに対して両義的な立場をとり続けたディドロでさえも通称『セネカ論』

1778

1782

年)で,ときに自分が大詩人に批判を向けたことを認めつつ,

「事件」について,それを「ビュルレスクな芝居

9)

」とみなすヴォルテー ルの敵対者を強く批判し,「罵詈雑言」を浴びせられたヴォルテールをセ ネカに重ねあわせて擁護している.こうしてみると,まちがいなくメルシ エのヴォルテール観の劇的な変化は興味深い現象だといえよう.

先に検討したメルシエのヴォルテール批判に典型的にあらわれている権 威の糾弾は,しばしば,

1780

年代に,メルシエが「党派」と呼ぶものの 計略によって,文化社会,文化制度から完全に排除されてしまったと感 じ,制度の支配者たちに不満の声をあげ,いわゆる陰謀説を唱えもしたマ イナー知識人たちに共通するルサンチマンの表現とみなされることもあ

10)

.じっさい,メルシエはこののち少なくとも表面上は,ヴォルテー ルと同年に死んだルソーへの共感を深め,ルソー全集の刊行に携わり,

1791

年には『革命の主要作家のひとりジャン=ジャック・ルソー』とい うルソー礼賛の書を刊行することになる.そこではヴォルテールはルソー に対比され,通称『習俗論』

1756

年)の作者は「君主の諸権利

11)

」の擁 護者として断罪され,『社会契約論』の著者は「社会構造の最も見事な殿

12)

」を描いた思想家として称揚されることになる.もちろん,メルシ エはルソーをなんと代議制の理論家,経済的自由主義の理論家に仕立てあ げてしまうわけであるから,メルシエのルソー解釈は,ジャコバン党と決

(9)

裂し,ジロンド党に合流する人物によるまさに典型的な党派的利用といえ ばそれまでなのだが…….

このように,少しばかり詳細に検討してみると,少なくともヴォルテー ルの凱旋という「事件」については次のことがわかる.やはりこれをひと りのセレブリティの生涯の一挿話として論じるならば,それによって零れ 落ちるものは,あまりにも大きいといわざるをえないのだ.長きにわた る,また多岐にわたる著述活動によって,支持者たちも敵対者たちも認め る,世紀を代表する知識人へと昇りつめたヴォルテールを,いかにして

1770

年代,

80

年代のフランス文化社会に同化するか,あるいは過去の遺 物として葬り去るか.また,そのために,いまだ変容を続ける同時代の流 動的な公衆,公論をどのように利用,もしくは再構築すべきか.極言すれ ば,ここでは,これまた支持者の目にも敵対者に目にも,彼がまちがいな くそのひとつの象徴となっていた「啓蒙」をいかに受容するかが賭金とな っているのである.遠く離れた地から,パリの文化社会と公衆の変容に多 大なる影響を及ぼし,それと同時に自己にアイロニカルな公衆の眼差しを 注ぐこともできた偉人が,段階的組織構造が揺らぎ,いわば弛緩しきった この時期の知識人空間に残していった課題は,あまりにも困難なものであ ったというべきかもしれない.もちろんヴォルテールは「著名性」を享受 した.だが,リルティが与えるような意味での「著名性」は,この「啓蒙」

の主役にして取り扱いが厄介な問題児,その抜群の名声によって絶対的

「権威」となっていた大知識人を特徴づける一要素にすぎないのではない か.つまり,ヴォルテールはまちがいなく,0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 00

18

0 0世紀を代表するセレブリ0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ティではあったが,彼はまちがいなく0 0 0 0 0 0 0 00 0 0 0 0 0 0 0 0

18

0 0世紀の代表的セレブリティでは0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ない0 0

II

 ヴォルテールの「生」を書く

念のためもう一度確認しておこう.ヴォルテールはまちがいなく,

18

0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 00 0 0

世紀を代表するセレブリティではあったが,彼はまちがいなく0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

18

0 0世紀の0 0 0 代表的セレブリティではない0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.この命題について,次にヴォルテールにつ いての伝記的記述をもとに考えてみることにしよう.

ヴォルテールの死後すぐにアカデミー・フランセーズは詩のコンクール 主題としてヴォルテールを選択する.これは,当時ヴォルテールの弟子の ような存在とみなされていたジャン=フランソワ・ド・ラ・アルプ

1739-

1803

とアカデミーの支配者ダランベール

1717-1783

によって周到に準

(10)

備されたことからもわかるように,明らかに「啓蒙」の代表的知識人の栄 誉を公的に称えようとする一連の祝典―その延長線上に位置づけられる 戦略的儀式だった

13)

.当然ながら無数の「頌辞」が書かれ,刊行された.

たとえばピエール=ジャン=バティスト・ヌガレ

1742-1823

という当時 はそれなりに名が知られていた作家なども凡庸な『ヴォルテール頌辞』を 書いている.また次々と伝記的作品も刊行されていった.シャルル・パリ ッソ

1730-1814

も『ヴォルテール頌辞』を

1779

年に刊行しているが,

これは短い頌辞ではあるものの散文で書かれている点と,本文とほぼ同じ 分量の「註と証拠資料

14)

」が付されている点でやはりある程度注目に値 するといえよう.死後に刊行されたこうした無数の伝記的作品のうち,と りわけテオフィール・イマリジョン・デュヴェルネ

1730-1796

1786

年に刊行した『ヴォルテールの生涯』とコンドルセ

1743-1794

が翌

1787

年に刊行した同名の『ヴォルテールの生涯』が最も重要な伝記とい えるだろう.コンドルセによる伝記は今日でもよく知られており,これは 頌辞のスペシャリストがその叙述法を駆使しつ,人間精神史の観点から,

ヴォルテールの軌跡を辿ったものと評価されることもある

15)

.デュヴェ ルネによる伝記のほうは,われわれにとってさらに重要で,これについて はのちに再び触れることにしよう.

なるほど,セレブリティが死後なお,いや,むしろ死を契機に読者=公 衆の注目をいっそう集め,多くの伝記や逸話が語られていくというのはあ りふれた事態であるにちがいない.だが,ヴォルテールの場合,やはり 少々事情が異なる.先に触れたように,ヴォルテールの「生涯」がすでに

18

世紀前半からさまざまな書き手によって創造0 0されていたからだけでは なく,その「生涯」が,それを生きる0 0 0ヴォルテール本人にとって,またそ れを書く書き手たちにとって,あるいはそれを読む読者たちにとって,ま さに重要な思想的政治的争点であったからである.すでに経験した数々の 大成功といくつかの屈辱的挫折も,生きつつある0 0 0 0 0 0出来事も,象徴的な物語

(寓話?)=歴史に特殊な意味を与え,文字通りの波乱万丈の「生涯」の 一部を構成しうるのだ.たとえば,神話となった「フェルネの慈悲深き 神」のイメージや,死後刊行された「頌辞」に頻出する狂信の批判者,ア ンシャン・レジームの司法制度批判とその制度の犠牲者たちの擁護者ヴォ ルテールのイメージはその典型だろう.日本ではいまだ根強く残ってい る,カラス,シルヴァン,ラ・バールの名誉回復のために立ちあがるアン ガージュマンの知識人の神話である

16)

.もちろん,いかなる知識人も,

(11)

ジャン・ユベール「ヴォルテールとフェルネの農民たち」

カラス一家に支援を約束するヴォルテール

(12)

いかなる哲学者もこのような政治的介入をなしえなかったというのは紛れ もない事実なのだが,近年のヴォルテール研究では一般に,こうした神話 が,ヴォルテール自身の巧みな言説戦略と偉人をめぐる複雑な言説産出シ ステムのなかで形作られていった点が強調されるようになっている.

このように,どこまで彼自身が意図していたかは判断の難しいところで はあるが,まちがいなくある時期から,その死後の聖別を先取りするかの ようないわゆる神話化が進行していった.

もちろんヴォルテールの「生涯」の神話化は一筋縄ではいかない.すで に繰り返し強調しておいたように,彼は

18

世紀フランスで最も頻繁に,

それも最も激しく攻撃された知識人のひとりだったからだ.フランス啓蒙 の文化社会,正確を期すならその文化社会の支配的言説産出者とみなされ ていた知識人たちは,一般に連携と社交性,共闘と相互扶助,連帯と組織 化,党派的対立と同化,排除と自己権威づけ,集合と離散によって特徴づ けられるといって差し支えないであろうが,ヴォルテールにその言説戦略 を可能にした唯一無二の知のネットワークは,長期にわたる複雑な過程を 経て構築されたものだ.だから,ときに見事なまでの二枚舌を使い,とき に政治権力に擦り寄りこれを巧みに利用しつつ,ときに党派を率いたかと 思うとこれを粉砕し,ときに今日の読者にとってでさえなお残酷極まりな いものとうつる恥ずべき0 0 0 0誹謗テクストを投じながら,彼がコントロールし ようとした公論の変容は,同時代の公衆と公論形成の歴史の一部をなして いるといっても過言ではないだろう.

また,これもすでに触れたように,ヴォルテールは自作の上演に信じが たいような情熱を注いだいわゆる芝居狂で,絶えず公衆=観客の反応を過 剰といえるほど意識していた.彼の書簡はその驚くべき証言であり,劇作 家が,見識を備えた友人たちや演者たち,さらには初演時の観客に対し て,いわばこれを試し,何度も修正を重ねてようやく出版にいたる,とい う特異な制作過程をとった記録となっている.ちなみに劇作家としての彼 の最初の大成功は,長い生成過程を経てコメディ・フランセーズで

1718

年に初めて上演された(思わず精神分析的解釈を適用したくなるような)

悲劇『オイディプス』であったが,この成功後すぐさまイタリア座で『オ イディプス・トラヴェスチ』というパロディーが上演されている

17)

.ヴ ォルテールには許しがたい冒涜とうつり,その後も自作のパロディーの上 演に目を光らせることになった.したがって,

1778

年の『イレーヌ』上 演まで

60

年にわたるヴォルテール作品の上演史は,その作品をめぐる,

(13)

あるいは作品を口実とした論争史でもあるわけだ.どうして『イレーヌ』

上演をめぐる言説と論争をこの長い歴史から切り離して理解することが可 能であろうか…….

以上のような点を念頭において,ヴォルテールの「生涯」に立ち戻るな らば,この知識人の影響力の拡大とともに,伝記的言説が増大していった と,ひとまずは暴力的に図式化することができるだろう.もちろんセレブ リティのゴシップは金儲けになるので,情報発信者の意図に反して,いわ ゆる賛辞がヴォルテールに負のイメージを与えることもあった.なんと

1759

年から

1760

年にかけてロンドンではかなり詳細な,ということは 当然ながら虚構的側面が強い『ド・ヴォルテール氏の回想録』という疑似 伝記的作品まで発表されている.さらに

1766

年には『彼自身のペンによ るド・ヴォルテール氏』という書簡対の伝記的作品が編まれ,刊行されて もいる

18)

揶揄と攻撃と批判の応酬のなかで,批判的伝記作品もどんどん刊行され ていった.たとえば有名なところでは,いわゆる哲学者たちの天敵サヴァ ティエ・ド・カストル

1742-1817

の『ド・ヴォルテール氏の精神の哲学 的タブロー』

1771

年)という作品がある.これはのちに『ヴォルテール の論争の生涯』という作品に姿をかえるが,後者の印象的なタイトルが示 すように,ジャン=バティスト・ルソーにはじまり,デフォンテーヌ,モ ーペルテュイといった無数のヴォルテールの敵対者との論争,ときに卑劣 な論争を再構築したものである.また,そこでは,メルシエとは異なる視 点からではあるが,ヴォルテールが知識人界に導入しようとしたとされる 専制的統治構造が詳述されてもいる.ヴォルテールは専制的統治に頻繁に 結びつけられて糾弾されたのだ.

このようにして生前から語られてきたヴォルテールの「生涯」の一例と して,ある観点からみれば偉人礼賛テクストであり,また別の観点からみ れば痛烈な批判的テクストであり,さらに異なる観点からみればセレブリ ティをめぐる伝記的テクストでもあるような,よく知られている,(しか し極めて)特異なケースについて簡単に検討してみよう.

ジャン=アンリ・マルシャン

17??-1785

というヴォルテール狂が

1770

年に刊行し,成功をおさめた『ド・

V

氏の政治的遺言』がそれである.こ れを読んだヴォルテールは「おぞましい誹謗文書」と憤慨したとされる が,おもしろいことにいつもなら呪詛の言葉であふれかえる書簡を通して 読みとることができるのはむしろ哲学者の寛大な態度だといえる

19)

.ち

(14)

なみに,マルシャンはヴォルテールにかんするさまざまなパンフレットを 書き続けてきた注意深い観察者であり,炯眼をもつ批評家,文筆家でもあ り,熱狂的な読者でもあり,同時にセレブリティのファン0 0 0として彼自身あ る程度の「著名性」を獲得してしまった奇妙な存在である.たとえば,

宮廷人=追従者であった時期のヴォルテールは

1745

5

11

日のフォ ントノワの戦いののち,同名詩『フォントノワの戦い』をほとんど即興で 書きあげて

20)

フランス王「ルイ

21)

」とフランス軍を賛美したが,マルシ ャンは同年「

3

時間

22)

」で書きあげたとする『フォントノワ主任司祭の王 への請願書』という風刺詩を印刷する

23)

.またヴォルテールに名高い『リ スボン惨禍についての詩』を

1756

年に刊行させることになるリスボン大 震災にかんしては「悲劇」を書いてこれを

1755

年に刊行する.そのよう なマルシャンのテクストのなかでもとりわけ有名なパンフレットが『ド・

V

氏の政治的遺言』なのだ.

これはある意味ファンならではの情報収集と知的で熱狂的な読書体験に もとづいて書かれたヴォルテールの「遺言」である(ちなみに「遺言」は ヴォルテールが嫌ったジャンルのひとつだ).そこでマルシャンは,高齢 で,誰もが知るようにおぼつかない健康状態にあったヴォルテールになり0 0 かわり0 0 0,一人称で,その思想,作品,生涯,そして死について回顧的に語 り,さまざまな論敵たちと和解を果たすのだ.その作品の序文にあたる部 分でマルシャンは,ヴォルテールに次のように語らせている.「以上のよ うな考察にもとづき,私としてはあるがままの自分を,そしてかつてのあ0 0 0 0 0 0 0 0 00 0 0 0 0 0 0 0 0 るがままの自分を示す0 0 0 0 0 0 0 0 0 0ことを恐れたりはしない

24)

.」そして生い立ちにつ いてのまったく史実に反する記述と,来るべき物語の主題の提示が続く.

 私は

17

世紀末にパリで生を受けた.礼儀をわきまえた立派な人物が私を産 んでくれた.宮廷の庭がわが揺りかごであり,イエズス会のコレージュがわが 最初のリュケイオンであった.

 私は栄光のために生まれてきた.私は絶えずそのために生きてきたし,栄光 が宿りうると思われる国ならどのような国であれ,それをむさぼるようにひた すら追い求めてきた.頻繁にそれをとらえたし,ときに手から滑り落ちはした が,それでも栄光に気まぐれなところなどなく,しっかりとつかまえるように と私の払う努力に微笑んでくれるのだった

25)

つまり,この時点ですでにヴォルテールが同時代の誰もが羨むような

(15)

「栄光」―敵対者にとっては比類なき不名誉―を得ていたという点に ついては議論の余地はないわけだ.先にわれわれが用いた言葉でいえば,

次の点が前景化していたのである.世紀を代表する知識人へと昇りつめた ヴォルテールを,どのようにフランス文化社会に同化するか,あるいは異 物として排除するか.また,そのために,どのように公論を形成するか,

もしくは来るべき公衆を準備すべきか.

どの時代についてもいえることだが,とりわけ「啓蒙」の世紀にあって,

哲学者がいかに死を迎えるかは読者=公衆の重要な関心事であった.ルソ ーの死をめぐる,あるいは死後の名高い狂騒もその特異な一例といえよ う.『ド・

V

氏の政治的遺言』は版を重ね,「遺言変更証書」とヴォルテー ルの肖像を付した版まであらわれる.マルシャンはさらに

1771

年には

『ヴォルテール氏の改悛あるいは公の告解』を,

1772

年には『ヴォルテー ル氏の遺言』を刊行している.これらはいったい何を意味するのか.『ヴ ォルテール氏の改悛あるいは公の告解』はこうはじまっている.「私の罪 は公になっており,私の告解も公になるべきである.万人が私のあやまち を目にしたのであるから,万人がわが改悛の証人とならぬ理由があろう

26)

.」ヴォルテールの思想的,実存的,宗教的,文学的総括は,いわば 万人のものであり,万人のものであるべきであり,つまりは万人の関心事 だというのである.死後,ヴォルテールの「生涯」が,変容を続ける公衆 の思想的政治的争点となることはたびたび確認したが,マルシャンのテク ストは,その作者の意図はさておき,この時点ですでにヴォルテールの

「生涯」が公開されることについての公衆の期待の高まりを見事に証言し ているのである.

それと同時にやはり興味深いのは,生涯の回想が,一人称で語られてい く点であろう.時間の経過に従って事実を連続性と因果性のもとに描き出 すこと,いいかえれば「あるがままの自分を,そしてかつてのあるがまま0 0 0 0 0 0 0 0 00 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 の自分を示す0 0 0 0 0 0」ことは,公衆にとって必然0 0であるとマルシャンはいうわけ だ.だが,ヴォルテールをよく知る支持者たちや「党派」のメンバーたち は(そしておそらくはマルシャン自身も),そのようなことは不可能0 0 0であ るとじゅうぶんに理解していたはずだ…….

それでは,偉人の事績であると同時に,作家の「生涯」でもあり,哲学 者の思考の軌跡でもあり,その活動が常に公衆の注目を集めていたセレブ リティの「生涯」でもある―そのような「生涯」への公衆の期待の高ま りを,公衆の声を巧みに聞きわけることのできた,あるいはときにそれを

(16)

誘導してみせることさえできたヴォルテールはいったいどのようにとらえ ていたのか.「啓蒙」の知識人のオプセッションたる後世0 0もまた賭金とな るわけだから,ヴォルテールの立場はより複雑かつ決定的な意味をもつだ ろう.この問題について,われわれは,いわゆる自伝的著作を通して簡単 に考えてみることにしよう.

III

 自己の形象:伝記と自伝の諸問題

さて,われわれはここまで自伝的著作という語をなんのためらいもなし に用いてきたが,そもそもこの語をヴォルテールの一部の著作に用いるの がふさわしいかどうか,はなはだ怪しい.『回想録』のあまりにも有名な 表現―「自分自身について語るという愚行

27)

」―が示すように,ヴ ォルテールは書簡であれ,エッセイであれ,作品の序文であれ,公私の区 別にどこまでも厳格,厳密だったからだ.彼の美学,すなわち自らの文学 的美学的規範と相反するような新たな規範を,ある時期に彼が突如として 自ら設けたとはとうてい考えられない.したがって,厳密にいうなら,彼 が自身について語る著作は反自伝的著作,反自伝的な自己のエクリチュー ルと呼ぶべきなのかもしれない.

それでもなお,ヴォルテールが死ぬ

2

年前に『『ラ・アンリヤード』著 者の諸作品に関する史的注解』という自己についての物語を刊行したのは やはり興味深い現象といえるだろう.生前に一文人が自らの生涯を語り,

刊行するなど,明らかに彼が理解するところの文化的規範から逸脱する行 為であり,それゆえこの『注解』は究極の反ルソー的な自伝と形容された りもする.なによりもその簡潔さと文体.また基本的に三人称で語られて いる点.さらにはタイトルが示す通り,カエサルを想起させるような資料 的価値ある事実のみの提示.礼節をわきまえた叙述法

28)

.少なくとも表 面上はそうだ.

 われわれはほとんど無数に存在する風刺・中傷も,過度な礼賛もいっさい用 いないでおこうと思う.これらは史実に基づいてはいないからである

29)

また,『オイディプス』の作者にいかにもふさわしく,父と系譜にかん する史実0 0は完全に抹消され,当然ながら,「啓蒙」の世紀に発明0 0されたと される,いわゆる幼年期の物語も不在である.

(17)

 私は幼年期やコレージュでの取るにたらぬ出来事ほど面白味のないものはな いと思うが,それでも彼自身の著作や人々のあいだで語られているところによ ると,

12

歳頃,その年齢にしては優れていると思われる詩を書き……

30)

史実と事実.それもすべてが連関し,体系化し,ひとつの物語が形作ら れるというわけだ.伝記作者ヴォルテール,歴史家ヴォルテール,修史官 ヴォルテールの才能が遺憾なく発揮されるはずではないか…….そもそ も,この自伝的作品の正式なタイトルは,『『ラ・アンリヤード』著者の諸 作品に関する史的注解,原本と証拠資料を付す』となっているではないか

…….

ところで,偉人の「生涯」でもあり,セレブリティの「生涯」でもある とはいえ,これは根本的に一文人,『ラ・アンリヤード』著者の「生涯」

なのだから,必然的に,彼の著述活動,つまり著作の執筆と刊行とその受 容が中心的主題とならざるをえない.先に述べたアンガージュマンの知識 人ヴォルテールの神話を準備するかのように,『寛容論』が「彼の最良の 散文作品のひとつ

31)

」と紹介されたりもする.だが,読みはじめるとす ぐさま根源的疑問が浮かびあがってくる.そもそも彼が署名し,彼の名で 刊行された著作はその膨大な著作群のうちいったいどれほどあるのか.決 して作者であるとは認めなかった著作については当然ながら言及できるは ずもないので,『注解』は,これまで署名入りで刊行された限られた作品 の羅列にならざるをえない.『哲学書簡』

1734

年)や『哲学辞典』

1764

年)

に言及がなされることもなければ,当然『『百科全書』にかんする諸問題』

1770

にも触れられない.秘密裡に広く流通し,

1762

年に刊行され ると当時諳んじられるほど読まれ,のちにようやく作者だと彼が認めた

『ラ・ピュセル』については触れられはするが,『カンディード』

1759

年)

などのコントについてはいっさい触れられない.『注解』は,一文人の「生 涯」としてはもちろんのこと,哲学者の思考の軌跡としても,偏向的な,

断片的な,要するに不完全なものとならざるをえないのだ.より正確に は,ヴォルテールと同じように,厳密な公私の区別にかんする文化的規範 を共有する集団―読者=公衆の成員―は,作者と共犯関係と読書契約 をとり結びつつ,書かれていない歴史を補ってこれを読み,それ以外の読 者―これまた公衆の成員―は,いわば公の場にふさわしい姿であらわ れたヴォルテールの歴史=物語を提示されたまま読むことが求められてい る―こういうべきか.

(18)

さらに,すでに確認したように,彼の生涯は数々の論争の「生涯」であ った.彼は,これまで彼に向けられてきたさまざまな批判にどうこたえる のだろうか.彼は友情を持ちえたのか.徒党を組んだりしなかったのか.

宗教を過度に攻撃したりしなかったのか.風刺や揶揄において辛辣すぎる ことはなかったのか.同時代の誰もが注目していた信じがたい財産ははた して正当な手段で手に入れたものなのか…….蓄財法についてこそ簡潔に 触れられるものの,基本的には,史実と事実のみを提示するという口実の もと,ヴォルテールはこうした問題の詳細にも立ちいらない.そして,こ の物語はときに文字通り論争家ヴォルテールの歴史になる.つまり,その

「生涯」は,彼を「迫害」し,「陰謀」を企てたとされる無数の敵たちとの 闘争の歴史ともなり,彼の記述は,例の恥ずべき0 0 0 0誹謗テクストの記述に接 近してしまうのだ.その典型が,フレロン

1718-1776

やサバティエとい った彼の天敵のひとり,デフォンテーヌ

1685-1745

についての記述で,

1725

年にソドミーの罪でビセートル監獄送りになったこの『ジュルナル・

デ・サヴァン』の編者の同性愛にわざわざ言及しつつ,彼との闘争を,彼 の屈辱的敗北の証拠たる手紙とその卑劣な報復の手段を読者に提示しつ つ,ヴォルテールは長々と,あくまで史実として0 0 0 0 0語るのである.

このようなヴォルテール自身による自己の物語が,どのように受容され たかについての説明は不要であろう.彼の敵対者たちは,これを,まさに 彼の本質たる偽善を象徴する物語,自己礼賛と謂れなき誹謗中傷にみちた 物語として読んだ.とりわけ,ルソーの『告白』刊行後,革命がルソー的 な誠実性と透明性を美徳としていた時期においてはそうだった.

それでもヴォルテールはこの『注解』という作品を書き,刊行する必要 があると判断した―われわれはこの点についてどう考えるべきなのだろ うか.これまでの生涯を総括し,後世0 0に,自らが拡散されることを望むよ うな自己のイメージ,少なくともその原型を残さなければならない,それ は極めて困難な企図とならざるをえないが,そんな企図が晩年の彼のオプ セッションになっていたのではないか―われわれがそう考えたい誘惑に 駆られるのは,『注解』執筆時期,ヴォルテールが,先に言及しておいた 将来の伝記作者デュヴェルネに定期的に,さまざまな伝記的情報を提供し 続けているからだ.したがって,『注解』は,自らの生涯について書かれ たこの時期の書簡を重ねあわせて読めば,特別な意味を放ちはじめるので ある.たとえば,ヴォルテールは,『注解』において,フランス宮廷との 微妙かつ複雑な関係についても総括を行っているが,この

1744

年から

45

(19)

年のフランス宮廷での活動について,同じ時期,デュヴェルネに次のよう な情報を書き送っている.

1744

年と

1745

年,私が宮廷人=追従者だったとあなたに語った人は,悲し い真実を述べているのです.私は実際にそうでした.私は

1746

年にこれを改 め,

1747

年には後悔しました.無駄にしてしまったわが生涯のどの時期にも まして,私が深く悔いているのはまちがいなくこの時期なのです

32)

あたかも,こらから書かれるであろう,いや,書かれなければならない 詳細な伝記に一種の方向性とプロットとなるような素描が不可欠だ,とで もいうようではないか.『ウェルテル』を書き,『ヴィルヘルム・マイスタ ー』を書き,『イタリア紀行』を書き,『詩と真実』で自らの生を総括して みせたゲーテがその後もなお,刊行を意識しつつエッカーマン

1792- 1854

との対話を続けたのとはまったく異なる意味での総括,あるいはほ とんど正反対の意味での総括ではあるが.また『告白』を書き,『対話』

と『夢想』を書きつつなお,自らに接近してくる無名の文人で自称ファン たち,たとえばジャン・デュソー

1728-1799

やベルナルダン・ド・サン

=ピエール

1737-1814

に自らの生涯について語り伝えようとしたルソー とはまるで異なる意味での総括ではあるが……

33)

それでも疑問が残る.プロイセン滞在という誰もが知る「生涯」の大事 件について,どうしてたった数ページで触れられているだけなのだろう か.しかも語られている内容はわれわれが知るものとは大きく異なるでは ないか.やはりそれは,

1758

年から

60

年にかけて何度も中断されては 執筆が再開され,死後

1784

年に,それも「漏洩」―主犯者はボーマル シェ―というかたちで刊行された『彼自身による,ド・ヴォルテール氏 の生涯のための回想』が残されていたからなのだろうか.

この『回想』もまた特異な文体で書かれており,こちらのほうはどこか 喜劇的な調子で,もちろんなにひとつ偽りではないが,なにひとつ真実で もない―そのような物語が語られていく.もっとも,あまりにもよく知 られた書き出しには,早速いつものように文学界の批判が顔をだすのだが.

 私はパリの無為で騒々しい暮らしや,わんさといる才人きどりたち,それに 王の出版許可と允許を得て出版されるくだらぬ書物や,文人たちの策謀や,文 芸の名を汚すあわれな連中の下劣さと盗賊まがいの行為にうんざりしていた.

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