生涯学習政策の課題としての「公共」に関する試論
永 井 健 夫
Ⅰ 生涯教育の公共性
1)公共的な企図としての生涯教育
生涯学習政策において「公共」はどのような課題として現れるのか。あるいは、「公 共」の形成という観点から、生涯教育・生涯学習にはどのような可能性があるのか。
この小稿においては、最近10年ほどの間に出された政策文書や生涯学習関連の答申類 を概観しながら、生涯学習政策にとっての「公共」の意味について検討してみたい。
現代の生涯学習論は、生涯にわたる教育・学習の継続を、個人の私事的な営みでは なく、社会的・公共的な責務の問題として捉える点に存在意義がある。社会の発展・
変革に向け、教育をはじめとする諸制度や計画をどのように整えてゆくべきか、それ を検討するのが生涯学習論の本質的テーマであると言ってもよい。
たとえば、UNESCO の成人教育部門の責任者であった Lengrand, P. は、1965年の 成人教育推進国際委員会に提出した「ワーキング・ペーパー」のなかで、「生涯教育 の計画化」に関して、次のように述べている:
もし緊密性と調和と予見性が教育においてつねに普遍的に必要なら、計画化の精 神と意志は、あらゆる水準で、たとえば私的企業においても、公的機関において も存在すべきなのである。一方では、労働組合、協同組合、その他の多くの機関 が、教授と訓練と文化振興のプログラムの実施にあたって決定的な役割を演じる 任務がある。また他方、計画化のための見通しと技術が、生涯教育の個々の機関 のそれぞれにおいてなされる仕事を導くために、だんだん必要になるのである。
こうした機関のおもな目的は、多くの社会でそれらの機関がしばしば占めている 余計者的周辺的立場を投げ捨て、それらの機関が存在している国家の経済的、社 会的発達のために有効な手段となることである。
(UNESCO, 1 9 6 5, p. 8[波多野訳,
p. 8 6] )
生涯教育の実践のためには成人教育を含めた教育全体の合理的計画が必要となるわ けだが、Lengrand は、その際に社会的組織の教育力を活用しながら全体を調整する
−6 7−
べきことや、そうした協働によって経済・社会の発展が期待できることを指摘してい るのである。
あるいは、Lengrand の後に生涯教育の責任者となった Gelpi, E. は、生涯教育を グ ローバルな概念であり、個人、社会集団、社会全体の目標に応じた教育政策と活動を 含む
(ジェルピ, 1 9 8 3, p. 2 1 9)
と捉える。そのようなグローバル性と公共性を帯びた生 涯教育の実現のためには、多様な立場のコミットメントが生涯教育の重要な要素とし て求められる。それゆえ、彼は次のように主張する:おそらく真っ先に証明しなければならないことは、生涯教育は専門家にのみ任し てはならないし、そして教育制度のなかにのみ限定されてはならないということ である。いわんや、官僚的な構造のなかに生涯教育がとりこまれてしまうこと は、程度の如何に関わらず避けなければならない...
(中略)
...生涯教育政策の 策定と教育活動の革新の必要条件を構成するものは、創造する人々(技術者、芸 術家、音楽家、職人等々)
をはじめとするすべての人々の参加である。(Ibid.,p. 2 1 8;
圏点筆者)
生涯学習論の生成発展に深く関わった二人であるが、両者とも、生涯教育が広く社 会全体に関わる公共的な企図であり、幅広い立場の人々や組織がその計画・実践に参 画する必要があることを重視している。
2)「新しい公共」と社会教育
「公共」とは何であり、どのように実現されるかという問い、換言すれば、社会全 体の利益と個人の権利・義務との関係や、行政と民間の役割分担はどう設定・調整さ れるべきかという問題は、民主主義社会の運営の在り方について考えるうえでの基本 的なテーマの一つであろう。
近代化が進むにつれて、「技術的合理性」、つまり、科学とテクノロジーによって世 界 は 制 御 可 能 で あ り、そ れ に よ っ て 人 間 社 会 も 発 展 す る と 捉 え る 認 識 原 理
(Sch ö n, 1 9 8 3, pp. 3 0−3 7;永井, 2 0 0 1)
が影響力を増し、実際、日常生活の空間(生活世 界)
は、「合理的」な制度やシステムの支配を被るようになった。そこには 「権力」と「貨幣」「科学技術」のあまりに過剰な力
(稲垣, 2 0 1 0, p. 1 6)
が働いている。生活 世界は行政権力( 「国家」 )
と貨幣経済システム( 「市場」 )
の植民地であるかのような空 間と化し、民主社会の主権者であるはずの市民の自由と主体性は形骸化の危機に直面 している。その状況においては、「公共」は国家権力と連結して成り立ち、市民の生 活世界を監視・抑制するものとして作用する。この国家的・官治的な公共性概念を乗り越える試みとして特に注目を集めたのが、
−6 8−
Habermas による「公共性の転換」の主張である
(Habermas, 1 9 6 2)
。彼は、権力と経 済のシステムに圧倒されてきた生活世界に自由を回復させることを求め、自由な討議 による世論形成を基礎とする市民的パブリックという考え方を提起した。それは、市民の権利主張を抑圧する「公共」から、市民の権利を擁護するための「公共」へ と
(田中, 2 0 1 0, pp. 1 4 1−1 4 2)
「公共」の意味を転換させるものであった。最近、特に2000年代に入って以降、「新しい公共」をキーワードとする提言や主張 が盛んに行われるようになった。「新しい公共」とは、「支え合いと活気のある社会」
に向けて、「官
(行政)
」だけでなく、国民、市民団体、企業も当事者として参加・協 働することであり、「自分たちこそが社会を作る主体である」という気持ちが重視さ れるのだという1)
。このような公共観の主張が上述の Habermas の市民的公共性の議 論をどの程度踏まえているのかは不明だが、公共を担う権利と責任を市民の側に求め ている点では相通ずるものがあるようだ。ところで、生涯学習政策の主要領域の一つである社会教育の視点からすると、こう した考え方は必ずしも「新しい」ようには思えない面もある。「民」も一緒になって
「公共」を担っていくべきという考え方は、第二次世界大戦後の日本の社会教育に とっては基本前提とも言えるもので
2)
、そのことを表す事例や議論は枚挙に暇が無 い。たとえば、社会教育法第3条では「すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を 利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように 努めなければならない」と記され、社会教育においては、行政
(官)
が先にあるので はなく、国民自らの主体的活動が前提となることが謳われている。また、社会教育の 中核施設である図書館と博物館のいずれについても「私立」(民間)
の館の事業展開 が想定されている(図書館法第2条−2、博物館法第2条−2)
。このように、法的にも、社会教育は市民・民間の側の参加・協働によって成り立つことが期待されていると言 える。
あるいは、佐藤一子は、地域住民の自治と参加にねざした学びを発展させることが 戦後社会教育の主要な実践的課題であったと指摘し、 地域社会教育は、住民参加の 施設運営原則にもとづき、住民がくらしている地域や生活の現実に即した課題を学習 課題としてほりさげ、地域社会の構成員としての参加意欲を高め、それぞれの地域に ふさわしい生活・文化を創造することをつうじて、住民の福祉を増進することを目的 としている
(佐藤, 1 9 9 8, p. 1 5 7)
と述べる。現実にこの「目的」がどの程度まで達成 されてきたか、その実情については予断無く評価されなければならない。とはいえ、社会教育の歴史を振り返った場合、「自分たちこそが社会を作る主体である」という 思いにもとづく社会教育実践の潮流を見出せることは確かである。
−6 9−
Ⅱ 政策文書に見る「公共」
1)「懇談会」と「円卓会議」
「新しい公共」という考え方が注目されるようになった流れの上流には、1990年代 の深刻な経済の停滞、財政の悪化、地方分権化の動きなどがあったことを指摘できよ う。その間、社会の閉塞感が広がる一方、情報化やグローバル化が牽引する新たな歴 史局面への移行期にあって、日本社会の活路を開く方途として期待されたのが個人と 公共の関係の再構築、つまり「新しい公共」への転換であった。
そのことを明確に提唱したものとして、「21世紀日本の構想」懇談会
(座長:河合隼 雄)
が2000年にまとめた報告書( 「2 1世紀日本の構想」懇談会, 2 0 0 0)
がある。そこでは、グローバル化、グローバル・リテラシー、情報技術革命、科学技術、少子高齢化など の「大きな潮流がもたらす挑戦」を乗り切るために変革が必要であり、その核心は 国 民が社会と関わる方法と仕組みを変えることであり、社会における個と公との関係を 再定義し、再構築することである
(p. 3 6)
と主張されている。そして、「たくまし く、しなやかな個」が 自由で自発的な活動を繰り広げ、社会に参画し、より成熟し たガバナンス(協治)
を築きあげていく(p. 3 9)
ことによる「新しい公」の創出が展 望されている3)
。この報告書の発表から10年が過ぎた2010年6月に、民主党政権の下に設けられた
「『新しい公共』円卓会議」の議論を集約した「『新しい公共』宣言」が出され、「人々 の支え合いと活気のある社会」となるよう、国民・事業体
(企業や NPO など)
・政府 が「協働する場」を実現する必要性が提起される。その冒頭に「これは、必ずしも、鳩山政権や『新しい公共』円卓会議ではじめて提示された考え方ではない」とあると おり、先行する自民党政権下での議論の延長にある。すなわち、「官」だけが公共の 担い手ではなく、国民こそが主人公であり、企業も公共の重要な担い手であること、
そして、公共への政府の関わり方や、政府と国民の関係のあり方が変わらなければな らないことなど、先の「21世紀日本の構想」懇談会の報告書と重なる主張が展開され ている。
2)中教審による議論と提言
では、この10年ほどの間、教育や生涯学習に関する政策文書において「公共」はど のように言及されてきたか。その例として、中央教育審議会
(または、その分科会)
が まとめた答申類について概観しておこう。−7 0−
(
)2002年:「青少年の奉仕活動・体験活動の推進方策等について(答申)
」 この答申(中教審, 2 0 0 2a)
は、青少年をめぐる様々な問題が多発し社会問題となっ ている今日、「社会の形成者となる青少年に自信を持って未来を託す」ようにするた めの鍵として「奉仕活動・体験活動」に焦点を当て、その意義について「新たな『公 共』」という視点から論じている。そこでは、個人と社会の関係が希薄となり、社会が様々な問題に適切に対処するこ とが難しくなるなか、 個人や団体が地域社会で行うボランティア活動や NPO 活動 など、互いに支え合う互恵の精神に基づき、利潤追求を目的とせず、社会的課題の解 決に貢献する活動が、従来の「官」と「民」という二分法では捉えきれない、新たな
「公共」のための活動とも言うべきものとして評価されるようになってきている
(1−1「奉仕活動・体験活動を推進する必要性及び意義」 )
と述べられている。そして、個人が経験や能力を生かし、個人や団体が支え合う、新たな「公共」を創り出すこ とに寄与する活動を幅広く「奉仕活動」として捉え
(Ibid.)
、そのような「奉仕活 動・体験活動」の意義・必要性について整理したうえで、それを社会全体として推進 するための方策が提起されている。主として青少年に焦点を当てた提言であるが、「奉仕活動」が成人にとっても意義 があること、そして推進方策として、公共機関等における受け入れ態勢の必要、企業 の協力への期待、社会人に対する支援の必要などが指摘されており、ボランティア活 動や体験活動の推進が社会全体としての課題であることが強調されている。
(
)2002年:「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方に ついて(中間報告)
」この「中間報告」
(中教審, 2 0 0 2b)
は、社会の存立基盤である教育を21世紀の時代に 相応しい方向に改革・振興することが重要だという認識のもと、必要とされる施策を 計画的に進めるための「教育振興基本計画」、および教育法令の根本法である教育基 本法、それぞれの在り方について総合的に検討するよう諮問されて始まった審議の中 間報告である。その序章では、新しい時代の教育目標は、端的には「新しい時代を切り拓く心豊か でたくましい日本人」の育成であり、そのために、幾つかの視点を明確にして教育基 本法を見直すべきであると主張される。そして、その「視点」の一つとして、「『公 共』に関する国民共通の規範の再構築」
( 「公共」に主体的に参画する意識や態度の涵養の 視点、日本人のアイデンティティ(伝統,文化の尊重,郷土や国を愛する心)の視点、国際性の 視点)
が挙げられている。また、第1章では、より具体的な教育目標の一つとして、「新しい『公共』を創造 し、21世紀の国家・社会の形成に主体的に参画する日本人の育成」が掲げられ、次の
−7 1−
ように指摘されている。国や社会は「その構成員である国民の意思によってより良い ものに変わりうるものである」にもかかわらず、日本人は「国や社会はだれかがつ くってくれるもの」という意識が強く、社会参画には消極的であった。より良い国づ くり、地域づくりのためには 自らが国づくり、地域づくりの主体であるという自覚 と行動、社会悪に敢然と立ち向かう勇気、公共の精神、社会規範の尊重、我が国の伝 統・文化の理解と尊重、郷土や国を愛する心
(第1章−2− −④)
などの資質の育 成を重視しなければならない、と。更に、第2章では、「教育基本法見直しの視点」の一つとして、「『公共』に関する 国民共通の規範の再構築」が示され、「『公共』に主体的に参画する意識や態度の涵養 の視点」と「日本人のアイデンティティ
(伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する心)
の視 点、国際の視点」の二つの柱に分けて解説が示されている。このうち、「新しい公共」の考え方を積極的に提示しているのが前者の部分であり、「公共」を担うのは国や社 会の構成者・主権者である国民一人ひとりであることを強調したうえで、次のように 記述している:
...21世紀の国家・社会の形成に主体的に参画する日本人の育成を図るために は、政治的教養
(政治に関する知識や判断力、批判精神など)
に加えて、国や社会な ど「公共」に主体的に参画したり、共通の社会的なルールを作り、それを遵守す る義務を重んずる意識や態度を涵養することが大切であり、個人の尊重との調和 を図ることが重要である。また,地球環境問題など、国境を越えた人類共通の課 題が顕在化し、国際的規模にまで拡大している現在、互恵の精神に基づきこうし た課題の解決に積極的に貢献しようという、新しい「公共」の創造への参画もま た重要となっている(第2章−1−−④)
。この中間報告では、「公共」というテーマに関して、伝統文化の尊重や郷土や国を 愛する心など、どちらかと言えば保守主義的な観点からの課題が強調される一方で、
改革志向の文言や国家の枠組みを超える発想も見受けられる点が興味深い。たとえ ば、先に触れた「教育の目標」のところには 国民にとっての国家や社会の在り方は、
変更ができない所与のものではなく、その構成員である国民の意思によってより良い ものに変わり得るものである
(第1章−2−−④)
という記述がある。つまり、「不 適切な政権や社会構造は変革して当然」ということであり、「革新的」な響きもある。(
)2003年「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方につ いて(答申)
」上述の「中間報告」を整理して6〜7割ほどの分量にまとめたものがこの答申
(中
−7 2−
教審, 2 0 0 3)
である。ここでも「21世紀の教育が目指すもの」の一つとして「新しい『公 共』を創造し、21世紀の国家・社会の形成に主体的に参画する日本人の育成」(第1 章−2−④)
が掲げられ、教育基本法の「改正の視点」として「『公共』に主体的に参 画する意識や態度の涵養」(第2章−1−④)
が挙げられるなど、「公共」をめぐる記 述は大体のところ「中間報告」と同様の論旨となっている。しかしながら、たとえば後者の「改正の視点」について言えば、国民こそが公共の 担い手であることの説明が大幅に簡素化され、「新しい『公共』」という表現も削除さ れている。その一方、先の中間報告では「公共」の視点の下位分類に置かれていた「日 本人のアイデンティティの視点」
(第2章−1−−④)
が、答申では「日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養」
(第2章−1
−⑤)
という独立した「視点」に格上げされている。すなわち、この答申は、「新し い公共」を言葉としては受容しているものの、中間報告で示されたグローバルな観点 からの公共論が後退し、「公共=国家」、すなわち「古い公共」という方向に引っ張 られていることが明白(稲垣,前掲書,p. 1 6 3)
と評される結果となっている。なお、「中間報告」と「答申」のいずれにも共通する問題として、次の二点を指摘 しておきたい。一つは、「公共」を担うための「資質」の捉え方についてである。「新 しい公共」という、国民こそが積極的に社会を支える責任主体であるという観点を提 示する一方で、教育基本法の「具体的な改正の方向」としては、「公共」を重んじる
「心」「精神」「態度」ばかりが強調され、公共を担うために必要な能力、知識、技術 の内実については十分に検討されていない。「改正の視点」としては政治に関する知 識・判断力、批判的精神による思考、主体的社会参画などの重要性に言及されている のだが、「条文」の案としては、精神論に比重を譲る結果となっている。
もう一点は、「生涯学習社会」との関係である。答申においては、「改正の視点」の 一つとして「生涯学習社会の実現」
(第2章−1−⑥)
が掲げられ、 時代や社会が大 きく変化していく中で、国民の誰もが生涯のいつでも、どこでも、自由に学習機会を 選択して学ぶことができ、その成果が適切に評価されるような社会を実現することが 重要であり、このことを踏まえて生涯学習の理念を明確にする と述べられている。では、そのような「生涯学習社会」は、社会や国家において「新しい公共」を実現す ることや、人々が公共を担うための知識や技能を培うことと、どのような関係にある のか
(あるいは、 「生涯学習(社会) 」と「公共(形成) 」の関連などそもそも期待していない のか)
。その点に関する解説や関心は明確ではなく、「具体的な改正の方向」の「生涯 学習の理念」のところ(第2章2−)
で辛うじて間接的に読み取れる程度である。(
)2004年:「今後の生涯学習の振興方策について(審議経過の報告)
」この「報告」
(中教審生涯学習分科会, 2 0 0 4)
は、2003年の答申で新たな教育基本法お−7 3−
よび教育振興基本計画の方向性が示されたことを受け、中教審生涯学習分科会として 生涯学習の振興方策全般の検討に着手し、13回に及ぶ審議を行った後の「まとめ」と して発表されたものである。
そこでは、生涯学習振興施策の経緯の概略と従来の施策における課題が示されたう えで、実現されるべき「生涯学習社会」が ①教育・学習に対する個人の需要と社会 の要請のバランスを保ち、②人間的価値の追求と職業的知識・技術の習得の調和を図 りながら、③これまでの優れた知識、技術や知恵を継承し、それを生かした新たな創 造により、絶えざる発展を目指す社会
(Ⅱ−1[pp. 3−4] )
として描かれている。そして、この考え方に基づく生涯学習振興のための重要な観点の一つとして、「生涯 学習における『公共』の視点の重視」が謳われている
(Ⅱ−2−[p. 6] )
。こ の「報 告」に お け る「新 し い 公 共」の 捉 え 方 は、先 行 す る 中 教 審 答 申
(中 教 審, 2 0 0 3)
の主張を踏襲したものであり、「公共」に関する能力や技術よりも意識や精 神に比重が置かれている点も同様である。ただ、先の答申では(少なくとも本文では)
「公共の意識」が育成されるプロセスについての言及が無かったのに対し、この「報 告」では、 生涯学習にあっては、個人の需要に基づく学習を進め、学習の成果を社 会で生かそうとする中で、そのような意識を持つようになることも期待される
(p. 6)
と指摘されている。極短い記述を過大評価すべきではないかもしれないが、これは
( 「重要で正しいのだから、習得すべし」という理屈ではなく)
学びや行動のなかで の自律的な気づきの可能性に期待する発想であるという点で、どちらかと言えば「新 しい公共」というテーマに適合的な記述であると言えよう。(
)2008年:「新しい時代を切り拓く生涯学習の振興方策について―知の循環型社 会の構築を目指して―」この答申
(中教審, 2 0 0 8a)
は、生涯学習に関する行政や制度の在り方について、国 民の学習活動の促進方策、そして地域住民による地域づくりや子どもの育ちの環境の 改善方策などを中心課題として行われた審議の結果をまとめたものである。この答申 においても途中に出された「中間報告」(中教審, 2 0 0 7)
の中でも、「公共」への言及は あるが「新しい公共」の表現は見当たらない。論調としても、市民・住民こそが公共 を担う主体であることや、そうした「新しい公共」に向けての能力・態度の形成が必 要であることなどについては、以前ほど強くは主張されていない。たとえば、中間報告を見てみると、生涯学習振興方策における「今後重視すべき視 点」として、「『公共』の視点」が挙げられ、次のように記述されている:
自らの知識・技術・経験を生かしたいと考えている人々が地域や社会の課題解決 や形成に主体的に参画し、活躍することが求められている。このため、地域や社
−7 4−
会の課題や歴史・文化などに関する学習活動の支援を行う必要がある。また、住 民が、学校・社会教育施設・企業・NPO 等の民間団体等との協働の中で、自ら の意思に基づいて、社会の課題の解決に取り組んでいく学習活動を支援する必要 がある。
(1−−①−イ)
それまでの「新しい公共」の議論と通じ合う提言のようにも読めるが、従来ほどに は市民の主体的参画を強調するものではなく、平板な記述にとどまっている。最終的 な答申においても「新しい公共」は登場せず、「市民・国民こそが公共を担う」とい う指摘も見られない。その代わりに、この審議会の議論では、「個人の要望」とバラ ンスを取るべきものとしての「社会の要請」に比重が置かれるようになった。これ は、明らかに、改正教育基本法の第12条で社会教育が「個人の要望や社会の要請にこ たえ」るものとして規定されたことの反映である。「バランス」の必要については先 述の「審議経過の報告」
(中教審生涯学習分科会, 2 0 0 4)
でも触れられていたが、この答 申ではそれがさらに強調されるようになった。つまり、そこでは、「施策を推進する 際の留意点」として「個人の要望」と「社会の要請」の「バランス」が掲げられ、「社 会の要請」の視点やそれに応じた学習機会や施設の充実の必要が積極的に提起されて いる4)
。( )2008年:「教育振興基本計画について−『教育立国』の実現に向けて−
(答申)
」 この答申(中教審, 2 0 0 8)
は、2007年2月に中教審に設けられた教育振興基本計画特 別部会が、教育振興基本計画に盛り込むべき具体的な施策内容に関して行った調査審 議の結果をまとめたものである。この答申においても「新しい公共」という語は用い られず、入れ替わるように「公共の精神」や「社会の要請」が比較的多く用いられる ようになっている。僅かに「個人が社会をより良いものにする」べきことについての 記述もあるが、それが民主社会の本質的要請として力説されているわけではない。そ れよりも、人口減少や高齢化ゆえに「官」による公共サービスの縮小が進むことが、個人の社会参画が求められる理由として提示されている
(第1章−[p. 4] )
。このよ うに、「公共」が語られるとしても、一時期に見られたような、市民・国民こそが主 権者であることを論拠とする言い方とは異なった説明に変わっている。Ⅲ 生涯学習政策にとっての「公共」
1)生涯学習論の多面性
以上、21世紀初頭に出された生涯学習関連の答申のなかで「公共」がどのように論
−7 5−
じられてきたかを概観した。この間、「公共」を担う主体が国民・市民であることの 強調の度合いが変化し、「新しい公共」という用語が徐々に使われなくなり、それに 代わって「個人の要望」と「社会の要請」のバランスが提起されている。この間の答 申文を並べて見る限り、生涯学習政策の文脈で「公共」をどのように位置づけるの か、今ひとつ煮え切らない状態にあるように思える。
他の政府審議会と同様、中教審もその時々の、多様な個性・立場の委員によって議 論されるわけだから、「揺れ」があって当然である。実際のところ、政治状況や世論 に影響されることもあるだろう。「公共性」という論争的なテーマに関して、この種 の組織に一貫した説明や方策を期待することは難しい。そうした限界とは別に、生涯 学習政策に関する「公共」の問題について考える場合の困難さの原因として、生涯学 習論に備わる拡張性、つまり理念的にも実践的にも「教育」だけの話に収まらないと いう性質も指摘できる。
日本の文部行政においては、人々が自発的意思により自ら手段・方法を選んで行う のが生涯学習で、それを支えるために教育制度が基づくべき基本理念が生涯教育であ る
(中教審, 1 9 8 1)
という捉え方が基本である。これを踏まえれば、生涯学習政策とは 教育政策の一つであり、学習の機会や施設を提供・拡充するという意味での生涯学習 振興策( 「教育」の条件整備)
がその中心となろう。ところが、生涯学習・生涯教育に は、言わば社会システムの改革論という側面もある。たとえば、文部科学省自身が「生 涯学習社会の実現」を掲げてきたように5)
、「学習成果」が正当に評価される社会を 実現することも生涯学習政策の主要な目標である。しかし、社会全体の雇用システム や各企業の人事戦略において実効性のある措置が講じられなければ、こうした「学ん だことが生かされる社会」は、全くの「画餅」とは言わないまでも、限定的な効果し か望めないだろう。要するに、生涯学習論が要求する「政策」には、労働、産業・経済、コミュニティ 開発、政治、文化などの諸領域に関連する問題・課題が多々含まれており、それらは 教育行政の権限、予算、あるいは論理だけでは解決できないものが多い。その「政策」
を実現しようとするとき、教育行政の観点から果たすべき「公共性」
(公教育の論理)
と、その他の一般行政に期待される「公共性」の論理が一致
(少なくとも十分に近接)
するのか、難しい場合も多いだろう。
2)「公共」の位置
そもそも、公共性の意味自体が多義的である。それは、社会全体で支持され理念化 された「思想の言葉」であったり、現実社会において実際的に作用する「日常生活に 埋め込まれた事実」であったり、あるいは社会を捉える「分析概念」であったりと、
その意味も議論の場も多様である
(田中,前掲書,pp. 1 3−4 6)
。他方、生涯教育・生涯−7 6−
学習の実像も明確なものではなく、上でも触れたように、関連する論点は多岐にわた る。政策立案、プログラム策定、実践分析、等々いずれの文脈にせよ、「公共性」と の関連で「生涯学習」について問う試みは、これらの二大テーマに同時に対峙するこ とでもある。もし精緻な議論を目指すのであれば、それぞれの語を自明なものとして 論じるのではなく、どのような意味、あるいはどのような次元や枠組みで用いるの か、明確にして取り組む必要があろう。
本稿で試みた政策文書の検討などをもとに筆者なりの捉え方を示しておくと、あく まで試案的で素朴な整理にすぎないが、生涯学習政策における「公共」の問題の位置 づけ方に関しては、大きく分けて次の4とおりに分類できそうだ:
1)教育的な指針・価値として
生涯学習政策を方向づける教育的な指針・価値として公共性が論じられ、公共 性を尊重する意識・態度に焦点が置かれる場合。公共性の定義や公共性の観点 から必要とされる資質の特徴などが問題となる。
2)学習活動の内容・方法を構成する原理として
現代的課題論に代表されるように、学習されるべき内容やその方法が公共性の 観点から意味づけられる場合。
3)事業の計画策定や施設の管理・運営の分担方法論として
生涯学習事業の計画策定やプログラム立案、生涯学習関連施設の管理・運営な ど、従来は「官」の側が主導・支配してきた業務を、「民」の側がどう担って ゆくか。市民参画や「新公共経営
(NPM : new public management)
」など、公共 業務の「担い手」をめぐる現象や議論。4)社会の再生機能
( 「学習する都市」の原理)
として社会の諸組織
(学校、NPO、企業、事業団体、等々)
における「学習」(課題解決、
研究開発、情報蓄積など)
の協働化・ネットワーク化により、公共空間の拡充・発展が図られる場合。生涯学習政策がコミュニティや都市を形成・再生する実 質的な原動力となる可能性をめぐる議論。
「社会の要請」や「新しい公共」は、行政側の扱い方によっては、精神論や道徳的 価値の押しつけに終わったり、コストカットのための理由づけに転用されたりという 恐れもある。社会・国家の主役であるべき市民・国民の側に「公共」を回復し、自由 と活力に満ちた社会を創出することに生涯学習政策も貢献するべきであろう。その場 合の「生涯学習の公共性」には、上記のように幾つかの側面がある。いずれも重要で あるが、本来の生涯教育論が社会システムや教育制度の改革を求める議論であること を重視するなら、特に4)の意味での公共性を問うこと、つまり諸個人・諸組織の「学 習」は実際にどのようにして社会・公共空間を構成・創造する機能を発揮できるかを
−7 7−
探ることこそ
6)
、生涯学習政策が取り組むべき最重要の課題と言えるのではないか。<注>
1)第1 7 3国会における鳩山総理大臣の所信表明演説(2 0 0 9年1 0月2 6日) 、および「 『新しい公 共』宣言要点( 『新しい公共』円卓会議による提案) 」 (第8回「新しい公共」円卓会議資 料,2 0 1 0年6月4日)による。
2)たとえば、社会教育の中核的施設である公民館の制度化に尽力した寺中作雄は、そこで の事業が対象とする「公民」の意味について 自己は同時に社会であり、社会の事をわ が事として常に「われわれのもの」として社会公共を充実発展させる事に努力する様な 人格、即ち公民的人格こそ、今日最も必要とされる性格 で あ る と 述 べ て い る(寺 中, 1 9 9 5, p. 1 8 9) 。ここにも、戦後の社会教育が民主的な「公共」の形成への貢献を使命 として再出発しようとしていたことが、象徴的に見て取れよう。
3)この報告書のなかでは、 「新しい公共」ではなく「新しい公」と表現されている。稲垣
(2 0 1 0)によると、 他者ではなくほかならぬ「わたしの人格」であり、法律的には権利 の主体 である「私」の対極にあるものとして、 国家機構、政府、官、自治体など制度 化された強固な組織 として現われる「公」があり、これらの 「公」と「私」の〈間〉
にあり、 「私」から「公」へと媒介するダイナミックな概念 が「公共」であるという
(p. 1 6 8)。他方、日本でのもともとの「公」の意味に関して、田中(2 0 1 0)は有賀(1 9 5 5,
田中[p. 1 8]による引用)の議論をもとに、 「オオヤケ」と「ワタクシ」は社会的領域を 絶対的に二分する原理ではなく、社会的状況に依存して現れること、すなわち、同一の 社会的主体が「場」によって「オオヤケ」にも「ワタクシ」にもなることを指摘してい る(pp. 1 8−1 9) 。
4)教育・学習の機会が個人の私事的要望への対応に偏り、社会的な必要性や公共的課題が 取り上げられる機会が少ないとすれば、たしかに、それは懸念されるべき状況だろう。
しかし、 「個人の要望」と「社会の要請」は必ずしも相互に対立的・離反的な関係ではな い。たとえば、 「安全な食」を求める個人の要望は、生産、流通、販売など、 「食」が置 かれる社会的文脈につながるだろう。やみくもに「社会の要請」に応える学習・教育機 会を増強して「バランス」を取ることを促すよりも、 「個人の要望」が社会的・公共的な 次元に連結する可能性も尊重すべきである。公共性とは必ずしも私事性の反対概念とい うわけではない。この点に関し、宮坂(1 9 8 7)の次のような主張は強く銘記しておくべ きだろう:
公共性というのは、私事性の反対概念だという通念がある。私事性ということで、単 に個人にとってのみの関心事、他者と共有する内容を持たぬまったく閉鎖的な性格の ものを意味するのであれば、これはエゴイズムとも一致しかねない否定的な概念であ る。かつて「公私の別」をまもることが要求され、 「滅私奉公」の精神が強調されたと きの「私」は、こういう意味の私事性であった。しかし、私事性にも、こうした閉ざ されたものではなく、個人の内面の自由という原理に立脚して、自己の選択した価値 に対して誠実であろうとする生活態度を意味するばあいがあろう。個の尊厳と言って
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もよいのであるが、他者によって侵されえぬ精神の自由を要求することは、まもるに 値する自由の世界をわが内に確立するための努力を前提とする。アイデンティティを 求めて苦闘する者こそ、個の内面の自由にこだわるのである。この者は、他者の実存 探求の苦闘に対して共感でき、他者の精神の自由についても尊重すべきことを知って いる。このような私事性は、公共性につながり、それへと発展することができる。
(p. 3 3)
5)たとえば、1 9 9 2年の生涯学習審議会(1 9 9 2)による答申の第一部−三「豊かな生涯学習 社会を築いていくために」や、2 0 0 0年の『我が国の文教施策』 (文部省, 2 0 0 0)の第2部 第1章「生涯学習社会の実現へ」などにおいて、 「生涯学習社会」 (=人々が、生涯のい つでも自由に学習機会を選択して学ぶことができ、その成果が適切に評価されるような 社会)の実現の必要が提起されている。
6)関連する論考として、永井(2 0 1 0)を参照されたい。
引用・参照文献