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ハンス・フォン・ビューローの生涯

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ハンス・フォン・ビューローの生涯

―― 年〜 年 根なし草 ――

マリー・フォン・ビューロー 最 上 英 明 訳

ドイツからイタリアに逃れてきたビューローに,新しい世界が開けた。太陽に溢れ,

陽気さに満ちた美しい世界に,苦悩を想起させるものは何もなかった。「イタリアへ の偏見はもうありません。ここで,我々の運命に導かれた魅力ある生活がやっと始ま るのです」とビューローは記した 年 月 日付母宛書簡〕。子供の頃から親しかっ たロソ夫人がフィレンツェで暮らし,音楽活動にも精力的に打ち込んでいた。後年,

彼女の夫となる文化史家カール・ヒレブラントとともに,ビューローにとってはきわ めて重要な心の支えとなった。彼らがいなければ,ビューローは心の平静を見出すこ とはできなかったであろう。「私と同様に苦悩を味わい,断念して忘却することを決 意し,運命論にも親しみを感じ,悲観論にも陽気に対処する」とビューローはロソと 自分の共通性について妹に報告した 月 日付〕。フィレンツェには素晴らし い「四つのバレエ団」があり,ビューローはバレエの予約席を確保して,無邪気に満 足した。「私はバレエを鑑賞するお金を軍事予算と呼びます」。フィレンツェは彼には

「レテ〔飲むと生前の記憶を忘れさせる水が流れる冥府の川〕たるアルノ川の岸」だった。し かし「冥府ではなく太陽の寺院へ導いてくれます」。自活への道を切り開くために,

ロソが生徒を仲介してくれたが,月々 フランもあれば十分だった。家具の備わっ た一階の住居で,管理人の夫人から世話を受けた。最初の冬にはフィレンツェ,およ びその周辺で公開の演奏活動を始め,成功を収めた。 年 月,ビューローはミ ラノにいたが,イタリアに対する偏見がかなりあったにせよ,他所よりそう優れては

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いないことを,一時的に認めなければならなかった。「危険なプロイセン風のイタリ ア音楽界の改革者に対する陰謀が,多方面から巡らされました」 年 月 日付母宛 書簡〕。ベートーヴェン百年祭を企画するため,ビューローをスカラ座に招聘する交 渉がどのような理由で失敗に終わったにせよ,そうした人物と見なされたビューロー は,もちろん不愉快に感じたからだった。それでも,イタリアに対するビューローの

「陶酔状態」が弱まることはなかった。

年春,旅行中のアードルフ・イェンゼンはビューローについて,「すっかり自 分に集中し,気分も陽気で,運命と完全に折り合っているような」印象を受けた。

イェンゼンはビューローのもとで過ごした最後の晩の様子を報告している。「ビュー ローと一緒にいて,こんなに魅力的だったことは,私には珍しかった」。ビューロー の外見上の心の中の自由は,離婚に不可欠のベルリンへの旅行で妨げられたが,離婚 年 月,正式に認められた。注目すべきは,こうしたことすべてを経験した あとのビューローの若々しい,天真爛漫な感受性である。例えば,匿名のミラノの女 性からの手紙が彼を興奮させた。それを面白がったフィレンツェの友人たちはその 後,ビューローの気晴らしのために ─ というのが彼らの言い分だったが ─,女性の 匿名の手紙でからかう計画を企てた。しかし彼らが驚愕し後悔したことには,想像力 を縦横に働かせたビューローが鬱病に陥り,その謎を解決しようとはしなかった。自 分たちを必要としているビューローを失いたくなかったので,友人たちは真相を明か すことはできなかった。さらにバレリーナのエルヴィーラ・サルヴィオーニにビュー ローが夢中になったことも言及すべきで,彼女にピアノ組曲《ミラノの謝肉祭》を献 呈した。 年秋には同様に,イタリアの優れた女生徒ジュリアへの情熱も燃え上 がった。「幸福感による回復!」とビューローはロソに歓呼した。

独仏戦争に対するビューローの態度は,プロイセン首脳部の栄光を賛美する言葉に 表現されている。「実に見事な我らのビスマルク! すべてが誠実なる神の思し召し。

まもなく,フランスを『一等国の列』から追い出す神の指令が実行されることは疑い ない」( 年 月)。

世界史やドイツ史に残るこうした出来事の他に,ビューローにとってとりわけ重大 な出来事は,タウジヒの死だった( 年 月 日)。彼の死による心の空白が,

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ビューローに自分の使命をまた真剣に自覚させる契機となった。ミュンヘンに住む出 版者で友人のオイゲン・シュピッツヴェークに次のように書いた。「タウジヒが演奏 技法で見せてくれたような『理想的』なまでの完璧さがこの世から消えたのは,芸術 にとって本当に損失です。(…)しかしタウジヒがかつて( 年のベルリンで)私 の職務を引き継いでくれたように,今度は私が彼の仕事を引き継ぎます」。タウジヒ に捧げたビューローの追悼文〔『ジグナーレ』誌 年 月 日号に掲載〕は,彼の文筆活 動のなかでも特に優れたものだが,それは随所に溢れる心の温かさばかりではなく,

記述の大半が一般的で原則的な話題だけに終始せず,ビューロー自身に該当する言及 もなされていたからだった。ビューローはその頃,ミュンヘン時代に中断していた ヴィルトゥオーゾの道を再開することを決心した。

年の年頭,ビューローはヴィーンで 日の《キリスト》第 部「クリ スマス・オラトリオ」のヴィーンでの初演に立ち会っていた〕リストと会い,自分の誕生日に はベートーヴェンを演奏し,成功と幸福に包まれた。「 月 日は,いいお祝いとな りました。(…)私は途方もない演奏をしました。(…)超満員のホールが拍手喝采で どよめきました。(…)まさにライオンが血をなめ尽しました。私は満足です」 年 月 日付ロソ宛書簡〕。演奏旅行先はペスト,シュレジエン地方,ドレスデン(「き ちんと歓迎されたので,故郷で認められた私が絶対に預言者でないのは明らかです」

年 月 日付ロソ宛書簡。『ルカ伝』 章 節「預言者は,自分の故郷では歓迎されないもの だ」〕,ライプツィヒ,ライン地方だった。 月 日のケルンでのコンサートには,フェ ルディナント・ヒラーがビューローについて,不当な論評を加えたので,ヒラーに 忠実な「ケルン新聞」でさえ,異議を申し立てた。ワルシャワでは,王立劇場の監督 ムハノフが,「総監督」への就任要請という妻からの提案を再度繰り返した。しかし ビューローはこの申し出も,他からの同様の申し出も断った。今回のツアーには,収 益を二人の娘たちの持参金の足しにする目的があったからだった。

オーケストラのサウンドへの郷愁がいかに強くなってきたかは, 年夏にバイ

( ) ビューローは 年のアーヘン音楽祭でのリストを敵対視するヒラーの態度を許すことがで きず,またそれを彼流の流儀で隠し立てすることもなかったので,激しい敵対関係が生まれてい た。 日後,「ヒラーの否定に対し,自分なりの新たな肯定を対置されるために」,二回目のコン サートを開催した。

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エルン国王へ送った,ミュンヘンで《トリスタン》を指揮する申し出から明らかであ る。内閣書記官デュフリクからのその前年の申し出には,実現不可能と自分から拒否 していたからだ。しかし,国王は 年にやっと同意し,ビューローが申し出た 月ではなく, 月から 月までの間の時期が選ばれた。とはいえ 月初旬,ミュンヘ ンの忠実な友人たちとのきわめて祝祭的な再会が実現した。 年代から 年代 にかけてビューローが開催したバイロイト基金のためのコンサートで,「比類のない 大成功」を収めた〔 月 日〕。その後,同じ目的のためにビューローの提案でなされ た宮廷楽団のコンサートが, 月 日に開催された。その間に,《オランダ人》を 年 月 日, 月 日, 月 日〕,《トリスタン》を 回 年 月 日, 月

日, 月 日〕,国王のために指揮した。 年シーズンにアメリカへ行く計画 は,アントン・ルビンシテインとの衝突を避けるために延期されなければならなかっ た。

ビューローはこの時期,マンハイムの劇場のために尽力した。マンハイムでは,劇 場委員会の委員長エーミール・ヘッケルによって最初のヴァーグナー協会が設立され た。三十六年間,ヴィンツェンツ・ラハナー〔フランツ・ラハナーの弟〕の独裁的運営に よりもたらされた停滞に,新しい風を入れようとしていた。もっぱらドイツの作品が 上演される国民劇場にするというビューローの頭に思い浮かんだ改革がなされる可能 性が生まれた。しかし,ビューローの要求がそれほど大きくなかったにもかかわら ず,彼の実直で飾り気のない性格ゆえに,協議は失敗に終わった。どんな場所や時代 でも,上の立場の人には,非凡な才能への不安の方が,芸術全体の利益のためにビュ ーローを活用しようという希望より大きかったのであろう。こうしてビューローは意 志と本能に反して,ヴィルトゥオーゾとしての演奏旅行に頼らざるを得なくなった。

ビューローはこの時期,「さすらうキリスト教徒」というような言い方でため息をも らした。「ワルシャワでは , ルーブルでは,十分には生活していけません。私の いまいましい名声に相応しい生活を,儀礼上,しなければならないからです。旅では 私はまさに客人です」。 年末,楽になったビューローは次のように報告している。

「そろそろ十万フランになるでしょう。さらに二万フランあれば,子供のための資金 が貯まり,私も少しは自分のことを考えられるでしょう」。完全に根なし草で故郷を

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失った人間にならないよう,ビューローはミュンヘン時代の弟子で友人のヴェルツ夫 人という音楽的才能に恵まれた女性に,部屋をひとつ,定宿としてまた貸ししてくれ るように依頼した。それ以降,ヴェルツ夫妻とその息子の一家とのビューローの文通 が始まり,その手紙は音楽的かつ哲学的な教訓に満ち,人間的な共感に溢れた真の宝 を含むものとなった。ビューローは自分のこの定宿を足場にして「雷雨のような慌た だしさ」であちこちを旅行する生活を嘆いた。「こんな放浪生活,こんな風にさすら う習慣,すなわち,こんなヴィルトゥオーゾの仕事なんぞくたばれ!」

「アメリカへの演奏旅行というフーガへの前奏曲」として〔初めてイギリス演奏旅行し た〕ロンドンでは, 年 月の「上品で熱狂的な」歓迎にビューローは激励の声を 感じた。休養しながら静かに勉強するために,バーデンバーデン ─ ここでは前年,

ヨハン・シュトラウスの「指揮の才能」に圧倒的な印象を受けた ─ で夏を過ごした あと,秋はロンドンに二度目の滞在をした。今度は成功を確かなものにし,最初はあ まり感じなかったイギリスへの共感も強まった。「イタリア人に私はうんざりしまし た。根本においていつも同じタイプなのです。それに比べれば,イギリス人は退屈で はなく,さらに情熱的でさえあります」。

年のクリスマスの時期を,ビューローはマイニンゲンで過ごした。大公ゲオ ルク 世からの招待を秋に受けていたのだ。ビューローのかつてのピアノの生徒だっ たエレン・フランツがその後,女優としてマイニンゲン宮廷劇場のメンバーとなり,

〔大公に見初められて〕 〔 月〕に大公の妃になり,ヘルトブルク男爵夫人の称号 を得ていた。大公とビューローのこの最初の出会いは,互いに大きな満足感をもたら し,ドイツのオーケストラの発展にとってきわめて重要な後年のビューローの芸術家 生活への発端となった。

年の年頭,ビューローは次第に親しみを感じるようになったイギリスに三度 目の訪問をした。「私は目覚めているのか,それとも夢を見ているのかと自問します。

あるいは,自分であるのか,他人であるのか。でも確かに,イギリス人は私にとって まさに真の聴衆です。彼らは私を元気にし,霊感を与えてくれます。要するに,私は ここで毎日,よりよく演奏することを学んでいます」。春のロシアへの演奏旅行は,

アントン・ルビンシテインとニコライ・ルビンシテインというの偉大な兄弟と並べ

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て,自分の存在をアピールすることが重要で,それには役立った。もっとも,超人的 ともいえる肉体的かつ精神的な酷使に耐えなければならず,それを克服したビューロ ーには,「小さながつがつした悪魔」というあだ名がつけられた。「私は都合のいいと きに,いつでも寝たり起きたりすることを学びました」。ビューローはハリコフで出 会った若い女性に強い印象を受け,即座に求婚した。「人生のきわめて重要な問題で も,夢中になることが,唯一の真の指針で助言者なのです」。年齢が離れすぎ,人生 観がまったく異なっていたこと,すぐにこの地を離れたことから,二人が結ばれるこ とはなかった。しかしそのまだ二年後,アメリカでの精神の過度の興奮状態のさな か,新たな情熱によってあまりに燃え上がりやすいビューローの空想の危険な心の高 まりが生じたとき,災いに満ちた新しい関係から救済してくれたのが,この愛すべき ロシア人女性の思い出だった〔ロシア・東欧ツアーは 年 月〜 月〕

友人たちと郷里でのように挨拶し合うようになったイタリアで休養していたとき,

ミラノでヴェルディの《レクイエム》とグリンカの《皇帝に捧げた命》が同時に初め て演奏された 年 月〕。イタリアの新聞と聴衆から《レクイエム》が熱狂的に受 け入れられたのに対し,《皇帝に捧げた命》の評判は今一つだったので,ビューロー は予想も出来なかったような心の葛藤に陥った。激しい反論を執筆する誘惑にかられ たビューローは「アルゲマイネ・ツァイトゥング」紙に,歯に衣着せぬ二本の記事を 書いた。自国の偉人であるヴェルディの名声をけなす行為に対して,感受性豊かなイ タリア人からの反感は大きく,ビューローの友人たちは,彼の身の安全を心配しなけ ればならなかった。以前のベルリンの後援者のひとりは「ビューロー氏は個人を敵に したのではなく,国家全体を敵にしたのです」と痛烈にコメントした。

湯治療養も無駄に終わったみじめな夏が過ぎたあと,イギリスでの仕事と成功で,

また蘇生したかのように活動を開始した。イギリスでは半年間 月〜 月〕の絶え間ない演奏活動の労苦のあと,代理人の「好漢」─ 最初のうちはビュー ローはそう呼んでいた ─ ジョージ・ドルビーに一万ターラーをだまし取られたこと を知った。「私はこの冬,子供たちの将来のために体を壊したと思いました。しかし 詐欺師のために壊したようなものでした」。卒中の発作も起こった。翌月以降のひど い病衰にもかかわらず,ビューローはウルマンと 年から 年にかけてのアメ

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リカ演奏旅行の契約を結んだ。気乗りはしなかったが,若い頃から熱望していたささ やかな自立が,他の手段では実現できないように思われたからだった。「悪魔が私を こちら側で連れていこうと,あちら側で連れていこうと,同じことです」。

こうした気分の中, 月下旬から演奏旅行を敢行し,「起き上がり小法師」〔どんな 苦難にもめげない楽天家〕と母に命名されたビューローは,またも成功を収めた 日にはボストンでチャイコフスキーのピアノ協奏曲第 番を世界初演している〕。熱狂し陶 酔しながら,ビューローは想像力の黄金のベールをこの新大陸にも投げかけた。アメ リカに滞在し,アメリカ市民になる決心をしても,もはや意外ではなかった。

日の 回目のコンサートのあと,ビューローは「最初のコンサートのあ とよりも気分がいい」感じがした。外面的には大成功で,ビューローは感動する聴衆 の反応にも絶えず敏感になり,上品で美しいアメリカ人女性の眼差しが,電光のよう に彼を貫きもした。失望したあとの避けがたい気分の急変が 月下旬には認められる ようになったのも,常軌を逸したハードなスケジュールによる過労と重なったから だった。とうとう 月初旬になり, 回目のコンサートのあと,エンジンが運転の 休止を告げた。 , フラン,すなわち収入全体の四分の一を犠牲にし,コンサー トの七分の一をキャンセルして,ツアーを打ち切り,帰国することにした。

その後は一年以上,きわめて重篤で回復の望みもない病衰状態が続いた。「人生に は家も支えもない」。遠方からは第一回バイロイト音楽祭の評判が届いた。「動物のよ うに生きる影」と苦痛に満ちたビューローは,信頼するヴェルツ夫人に伝えた。「私 を衰えさせる治療不能な精神的な病気で体が麻痺し,弱った体を回復させるあらゆる 試みが封じられています。私の状態を,例えば私の母以上にもっと理解していただけ ないでしょうか? 母には 年の日付が理解不能のままですし,もちろん私に とっては同じように不幸な年となった 年など,謎のままなのですから」 月 日付〕。祝祭劇場の関係者がビューローを苦しめた。「バイロイトを訪問するこ となど,いわば私には馬鹿げたことで,訪問しない方がましです」。丸一年,ビュー ローは苦労しながらあちこち移動した。ハノーファーでは,友人ブロンザルトに看護 され,精神的にも力づけてくれた。それからスイスのフランス語圏〔スイス南西部の街 ベー〕,バート・クロイツナハ,そして最後に,元気な頃からよく知っていたバーデン

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バーデンを訪れた。バーデンバーデンでやっと,昔の柔軟な体を取り戻し,音楽活動 に戻れる希望がゆっくりと見え始めた。

年 月中旬,ハノーファーの第一宮廷楽長の突然の急逝によりそのポストが 空き,「驚くべき運命」に驚愕したブロンザルトはビューローにすぐに就任を要請し た。ビューローは回復の見込みがまだ確かではなかったし, 年冬から 年に かけてグラスゴーのオーケストラを指揮する契約があったが,喜んで承諾した。エー ドゥアルト・ラッセンをヴァイマルから招聘する提案もしたが,ラッセンがヴァイマ ルを離れたがらず,実現しなかった。 年 月 日,ビューローはバーデンバー デンで芸術家としての復活を祝うコンサートを開催した。「 日ぶりにまた燕尾服 と白いネクタイを身につけ,エナメル靴を履きました」 年 月 日付母宛書簡〕

「ベートーヴェンでは,すべてがまた修道僧の苦行のようでした」 年 月 日付 ブロンザルト宛書簡〕と報告した。

日,ビューローはオーケストラ演奏会を指揮してハノーファーでの職務を 開始し,とても満足した。オペラ指揮者としての初登場は《フィデリオ》 月 日〕 そのあとは《ルクレツィア・ボルジア》 日〕で,「完全にイタリア風に演奏が 進んだ」。スコットランドでの契約のため,三回の定期演奏会を三週間でまとめて 実施することになり〔 月 日, 日, 日〕,いつもと違った集中力が必要 だった。しかし,ビューローに魅力があったとはいえ,厳しいリハーサルには苦情の 声が高まった。数週間後にはもう,ブロンザルトはビューローに,リハーサル中の言 動を控え目にするように依頼した。反対派の連中にいかなる論拠も与えず,真の芸術 の春の開花が危うくならないようにするためだった。聴衆や劇場のトップクラスのア ーティストはビューローの影響を芸術の春と感じていたのだ。的確に洞察したビュー ローは, 月下旬にイギリスから,あまり重要ではないのにそつがないだけの人物 が,劇場にとって有益なのかどうか,きちんと再考するように求めた。どういう場合 に自分が辞任するつもりかも伝えた。最大限に努力しても,次の瞬間に自分が「分別 を失う」かどうかは分からないとも記した。「自分の短気(私の最悪の欠点)を抑え ることはできても,決して去勢するようなことはできません」 日付ブロ ンザルト宛書簡〕。同僚とのつき合いにおいて,距離をいわば「職務的に」維持して,

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穏やかで首尾一貫した態度で接する姿をビューローに求めることも不可能だった。

ビューローの数多くの冗談は活動した場で語られたものだが,たいていは粗雑に歪曲 されて今日でも広まっており,不利に作用したかもしれない。まざまざと目に思い浮 かぶのが,例えばビューローと敵対していたヒュルゼンに隷属していたブロンザルト 監督の立場だった。ブロンザルトの気質は ─ 音楽家ゆえの熱狂性やユーモアがあっ たとはいえ ─,几帳面で,役人的な正確さ,プロイセン的規律に根差していた。次の ような書簡の小さなエピソードでも,それが明白である(私宛の 年 月 日付 書簡〔書簡集では未公開〕)。「私はいろいろと愚行をしでかしました。『年をとっても,馬 鹿なまねはするものだ』の諺のようです。私の最近の英雄的な行為をご存知ですか?

ハノーファーの保守的な権力者(無能力者の方が正しいかも)たちを怒らせました。

バレエ団がとても魅力的なバレエ《コッペリア》を初日に演じたあと,晩餐会を盛大 に開きました。ご存知のように,私はパリサイ人より収税吏とつき合う方が好きなの です。社会の最下層の人間に目がないのです。とりわけ劇場仲間の最下層の人たちに は。『初めにリズムあった』(カオスの本来的否定として)と私はよく説いています」。

ビューローの活動当初の提案は,「まず一番目は,オペラのレパートリーから単に 目をかけられただけのディレッタントの作品やその他の凡庸な作品を排除すること」,

二番目が 月 日の祝日(皇帝の誕生日)に,《アイーダ》ではなく,グリンカの《皇 帝に捧げた命》を上演すること,三番目がベルリオーズの《ベンヴェヌート・チェッ リーニ》を上演することだった。この二つの作品は,妨害や延期に見舞われながらも,

二年のうちには上演にこぎつけた。また,劇場のオーケストラピットを深く下げ,指 揮者の位置と楽器の配置を音響効果を改善するために変更した。

すべてのこうした希望は,ブロンザルトのきわめて積極的な支持を得た。ビューロ ーの度重なる不在をベルリンの当局 年の普墺戦争後,オーストリア側についたハノー ファー王国はプロイセンに併合された〕に認めさせることもブロンザルトの任務だった。

ビューローは報酬が少ないため(ビューローの年俸が , マルクだったのに対し,

同時期に活躍したフランクフルトのデソフは マルク),コンサートでお金を稼 ぐ必要があったのだ。この時期はさらに,「ベートーヴェンの遺言コンサート」とし て,バイロイト基金のために,ベートーヴェンの最後の五つのピアノ・ソナタをまと

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めて演奏するコンサートを開催し,この偉業はこれまで隠れていた宝を音楽界のため に発掘する営みとなった。ベルリンで頻発する妨害や制約を,ビューローは嫌がらせ 以外の何ものとも思わなかったし,ブロンザルトにはそれを阻止する力もなかった。

別のいざこざの原因として,ビューローが長い沈黙期間のあと,またジャーナリズム の活動を始めたことがある。イギリスの「煙霧の中の旅」として『ジグナーレ』誌の 編集者に送られた書簡が,ウィット,当てこすり,揶揄に満ちていたため,怒りを引 き起こしたのだ。哀れなブロンザルトは,驚いた人々に対して友人の「職務上」とは いえない発言を続けさせるしか手がなかった。しかしながら, 年末,退役した 大尉で劇場の最も重要なメンバーであるテノール歌手アントン・ショットとの衝突が なければ,ビューローは職務をさらに二年以上継続することができたかもしれない。

当初から,《リエンツィ》《ローエングリン》などのリハーサルで音楽上の解釈の相違 が頻出し,いつ不和が起こってもおかしくない状況だった。対立を和らげ,感受性の 強いこの歌手を自分に従わせようと,ビューローは自己負担でロンドンでのコンサー トに客演させ,自分でベートーヴェンの歌曲の伴奏もした 年 月 日〕。こうし た努力の甲斐もなく, 年 月,《ローエングリン》の公演で怒りが爆発し,侮辱 されたと感じたショットは,ビューローの指揮では歌わないと抗議した。芸術作品の 擁護者および従僕だと自任し,作品へのどんな冒瀆にも心から憤慨する純粋な芸術家 にとっては,とんでもない災難だと反論した。虚栄心を傷つけられたテノール歌手の 特異な音楽上の過失といった偶発的な出来事ではなく,徹底的に細部までこだわる天 才芸術家の理想への強い要求と劇場運営の無味乾燥で不変の規則との間のお馴染みの 対立が原因で,ビューローはハノーファーで挫折した。ちょうど十年後,ハンブルク で挫折し,劇場の蜃気楼の手に落ち,生命力を大幅に損ねてしまったときと同様だっ た。

深く失望した情熱的なビューローは,ブロンザルトに強い態度が欠如していたこ と,さらに歌手に味方したことが挫折の原因だと思い込んだ。ビューロー自身が無意 識のうちに敵の手助けをしたとは,決して言わなかった。ブロンザルトはこの結末に よって「最後に残っていた仕事への喜びも失った」。ブロンザルトはビューローに次 のように書いた。「貴兄は困難な時期を過ごしました。しかし,もっと簡単な時期な

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どなかったと思います。立派に始まった創造的な活動が粉々に打ち砕かれるのを,私 は深く落胆しながら目にしたのです」。

【訳者付記】

ミュンヘン時代に妻コージマを師のヴァーグナーに奪われたビューローが,フィレ ンツェで心の痛手を癒す話から,この章は開始する。冒頭に登場するロソ夫人は,

ヴァーグナーの生涯にも登場する人物である。ジェシー・ロソ( :旧姓は テイラー)はロンドンで生まれたが,父の死後,母とドイツへ渡り, 年,ドレ スデンでビューローとともにチェチーリエ・シュミーデルにピアノを師事した。ドレ スデンでは《タンホイザー》の初演にも接し,ヴァーグナーの熱烈な信奉者にもなっ た。まだ 歳だった同年,ボルドーのワイン商ウジェーヌ・ロソと結婚し,

年,スイスに亡命したヴァーグナーに資金援助した。さらにヴァーグナーと恋愛関係 に陥り,駆け落ちの約束までするが,夫に妨害されて未遂に終わる。その後,夫と離 別し,フィレンツェに住むようになるが,フランスの王政復古時代には離婚が禁止さ れていたため,ウジェーヌが亡くなる 年まではヒレブラントと結婚できなかっ た。幼なじみで,激動の人生を過ごしたジェシーだったからこそ,ビューローの心情 に共感できたと考えられている。

ビューローの手紙は相変わらず難解だが,夫人による手紙の引用も,夫人の文章と 同様に簡潔に過ぎて, 年以上も過ぎている今日では,理解が難しい。ビューロー の手紙は,書簡集で前後の文脈を判断した上で,やっと内容を理解できた個所も多い。

書簡集で確認できた公開済みの手紙については,その日付を訳注(亀甲括弧で表示)

で付記した。

ヴェルディの件も,夫人の文章は簡潔に過ぎるので,簡単に補足しておく。ヴェル ディの《レクイエム》は 年 月 日,ミラノのサン・マルコ教会で作曲家自身 の指揮で初演された。しかし,ビューローは初演には立ち会わず,「アルゲマイネ・

ツァイトゥング」紙に作品を激しく批判する記事を書いた。 月 日はちょうど ヴァーグナーの誕生日だったことも原因のひとつと推察されている。

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聖職者の衣服をまとったヴェルディの最新のオペラ〔=レクイエム〕が,高名な 詩人〔=マンゾーニ〕を追悼する最高に大げさな賛辞を捧げたあと,これからの三 夜,スカラ座で世間から熱狂的に迎えられるであろう。その後,ヴェルディに鍛 えられた独唱者とともに,イタリア人にとっては芸術上のローマ〔=首都〕である パリに移動し,その戴冠式を祝うことになっている。《トロヴァトーレ》と《椿 姫》の作曲家の最新のお告げを人目を忍んで一瞥したら,この「祭典」に出席し ようという気持ちもなくなった。

(Hans von Bülow : Ausgewählte Schriften,

. Leipzig. . . Abt. S.

このような文章を発表すれば,反感を買うのも当然であろう。なお,ビューローは後 年,ヴェルディに謝罪の手紙を書き,和解している。

「煙霧の中の旅」としてイギリスから送られた紀行文についても触れられているが,

これも辛辣な表現が多く,例えば, 月 日付のシェフィールドからの記事 には,次のように書かれている。

イギリスのトレドまたはゾーリンゲン〔=シェフィールド〕では,太陽は噂でし か知らないと自慢しているそうだ。故スタンデール・ベネット卿の作曲様式もこ の噂で説明できるとずっと思っていた。彼はシェフィールドに広がる煙雲の中で 世界の暗闇を目にし,色彩感の欠如を正確に作曲描写して注目され,承知のよう に,ミニ・メンデルスゾーンという異名がつけられた。

(Hans von Bülow : Ausgewählte Schriften,

. Leipzig. . . Abt. S.

シェフィールド生まれで,三年前に亡くなったばかりの作曲家スタンデール・ベネッ ト( )を,工業都市シェフィールドのスモッグと関連づけて論じるなど,

ここでもイギリス人の怒りを引き起こしている。

ハノーファーと決別する原因となったアントン・ショットには,《ローエングリン》

のリハーサル中,あまりにもテンポを外して歌い,ずれてしまったとき,ビューロー は「君は白鳥(シュヴァン)の騎士ではなく,豚(シュヴァイン)の騎士だね」と言っ たという。毒舌家ビューローの面目躍如たるエピソードである。

参照

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