• 検索結果がありません。

第一章  「科学的教育学」の建設と芸術教育

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "第一章  「科学的教育学」の建設と芸術教育"

Copied!
19
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

第一章  「科学的教育学」の建設と芸術教育

     一1910年代(前半) の阿部重孝

       平 田 勝 政

〈目  次〉

は じ め に

1. 「科学的教育学」の建設とその方法意識一 「比較教育学」の導入と「実験教育学」の継承.一  (1)阿部重孝と「教育実験界」誌の「海外教壇」

 (2) 「科学的教育学」の建設と比較教育学  (3) 「科学的教育学」の建設と実験教育学

2・芸術教育をめぐる阿部・佐々木論争一 「科学的教育学」と「哲学的教育学」の対立一  (1)佐々木吉三郎の「美的教育学説」と阿部重孝の芸術教育観一論争に至るまで一   (i)佐々木吉三郎の「美的教育学説」と阿部重孝の芸術教育観

  ㈲ 阿部重孝の芸術教育観

 (2)阿部重孝の「美的教育学説」批判一論争の展開と帰結一 おわ り に

〈注〉

 は じめ に

 近年、阿部重孝に関する研究は、1920〜30 年代の著作・論文を対象に、一定の成果を蓄積し つつある。しかし、その1920年代以降の土台を 築いてきた1910年代に関しては、十分に研究さ れているとは言い難Vb これまでに、井深雄二氏 が、次のように時期区分して、特徴づけをおこな

っている程度である。注1)すなわち、井深氏は、

阿部の東大入学(1910年9月)から東大助教授 就任(1919年10月)まで葱 「教育制度の教育 科学的研究以前」ととらえ、それを教育制度研究 の「前史」と位置づけている。そして、その「前 史」を、さらに、 「実証的研究への関心の萌芽期」

(東大入学から1915年7月の同大学院退学まで)

と「教育制度研究への関心の胚胎期」(1915年 7月の文部省嘱託から東大助教授就任まで)に区 分している。この時期区分とその特徴づけは、基

本的には妥当であるとしても、さらなる実証的解 明の余地を残している。特に、 「実証的研究への 関心」と「教育制度研究への関心」とは、当時の 形成期にあたる阿部教育学においてどのように関 連していたのか、又、それらと芸術教育研究と は、どのように関連しあっていたのhxという点 が検討されなければならないからである。

 本章では、阿部力\1910年代(とくに前半の 1913〜15年)に発表した論文を手がかりにし て、阿部教育学の形成過程の最も初期における課 題意識と方法意識がどのようなものであったか、

又そこに教育制度研究へと移行していく契機 で(前提条件)がどのような形で内在していたのか、

を明らかにする。また、その検討は、わが国にお

ける教育科学運動の源流を確認していく上でも重

要な意義をもつと考える。

(2)

1 r科学的教育学」の建設とその方法意

識一 「比較教育学」の導入と「実験教育学」

の継承一

(1)阿部重孝と「教育実験界」誌の「海外教壇」

   阿部は、東大卒業(1913年7月)後、大   学院に進学すると同時に、当時、雑誌「教育   実験界」を発行していた「育成会」編輯部に  入社していa注2)入社後、ただちに阿部   は、YS生注3)と称して「教育実験界」誌に

「雑誌の雑誌」及び「海外教壇」という欄を 企画。担当し、約一年間(1913年8月〜

1914年7月)、主にドイツ語圏の教育関係 雑誌の論文を紹介(翻訳。論評)していた。

「海外教壇」欄で阿部が紹介した論文の題名 とその著者名を示すと、表1 のようになる。

その内容で特徴的なことは、紹介にあたって 既に阿部瓜次の諸点に注目していたことで

ある。

表1. 「海外教壇」欄の題目一覧

Na 論  文  名   ( 著 者 名 ) 「教育実験界」巻・号

@(発行年月日)

学校改革運動と現代の哲学(ハンス・クラインペーテル)

ク神能力の遺伝に就て

栫X片々(「芸術的教育問題に対する心理的研究」など)

  第32巻第 8号

i1913年10月20日)

民衆文明と人格文明(オ・ト・トゥムリルツ)

P912年に於ける作業学校問題(パウル・フォーゲル)

  第32巻第10号 i1913年11月20日)

改革的教育学と教師の位置(カルル・フーベル)ママ香知試験の社会的意義(エルンスー・モイマン)

栫X片々(「トルコの学校改革」、「露国に於ける生徒の自殺1など)

  第32巻第12号 i1913年12月20日)

9.

教育学と生物学(ルドルフ・レエーマン)   第33巻第 2号 i1914年 1月20日)

10.

P1.

P2.

P3

教育学と生物学(承前) (ルドルフ・レエーマン)

?ニ学校の教案(オ。ト・エルレル)

uレスラウに於ける青年教育の問題

¥出陶治としての図解(オスカー・ニイチェー)

i時々片々)

  第33巻第 4号 i1914年 2月20日)

14.

比較教育学の使命(ヨハネス・クレ・チュマール)   第33巻第 6号 i1914年 3月20日)

15. リヒトワルクと芸術教育運動

ヲリヒトワルクの死去に対する阿部の追悼論文

  第33巻第 8号 i19}4年 4月20日)

16. 聾唖学校生徒の図画の道徳的心理的意義(ルドルフ・リソドネル)   第33巻第 9号 i1914年 5月 5日)

17. 作業測定と疲労測定との方法に就きて   第33巻第10号 i1914年 5月20日)

18. 聾唖児の図画の道徳的心理的意義(つづき)

iルドルフ・リントネル)

  第33巻第11号 i1914年 6月 5日)

一79一

(3)

19.

教育学的心理学の見地よりせる青年の遊戯(ア・フーテル)   第33巻第12号 i1914年 6月20日)

20. 仏蘭西に於ける心理学及教育学の運動(クレパレード)

@1.児童心理学  2.教育学

  第34巻第 1号 i1914年 7月 5日)

①先進資本主義国(特にドイツ)における  教育(学校)改革運動の動向に注目してい

 ること。 (表1.NCX 1.5.6.8.11.12)

② 児童・青年の稟賦(個人差)や発達など  に関する科学的研究(実験心理学的・教育  学的研究)の成果に注目していること。

 (表1.N[L 2. 7.17.19)

③②の科学的研究の成果瓜①の教育改革  にどのように反映し、現実の改革に影響を  及ぼしつっあるかという点に注目している

 こと。 (表1.Na 12.)

④  「科学的教育学」建設の方法論に関する  研究成果に注目していること。 (表1.Nag.

 10.14.20)

⑤ 芸術教育(文明問題を含む)に関する研  究(とくに実験教育学的研究)の成果に注  目していること。 (表1.3.4.13.15.16.

 18)

 これらの諸特徴は、後述するように、この

時点(1913〜14年)ですでに、阿部瓜

教育改革の気運を意識しながら、 「教育の事 実」を教育学研究の出発点におこうとする学 問的態度を形成しつつあったことを示してい る。その学問的態度は、研究の方法論として、

「比較教育学」と「実験教育学」に注目した点 に端的に表明されている。そして、この〔二っの方 法論が、阿部教育学の重要な土台となっている と考えられる。そこで、以下、 「比較教育学 と「実験教育学」にっいて、それぞれみてい くことにする。

(2)「科学的教育学」の建設と比較教育学   まず、比較教育学に関係するものとして、

 クレ・チュマールの論文「比較教育学の使命」

 (表1.Na1 4)を検討していこう。この論文は、

 単なる一時的な興味・関心で紹介したという  性格のものではない。そのことは、第一に、

 約4年後に阿部が、『教育大辞書』(大正7  年増訂改版 同文館 1918年6月)で執筆  担当した「比較教育学」の項目が、このクレ  ・チa・・1一ルの論文をさらに要約して紹介した  ものであること、第二に、クレ。チュマール

      の         ひ

 の主張の中に「教育学上参考とすべき点ある  は看過すべからざる事実なり」 (傍点筆者)

 と述べていること、からみても明らかである。

  では、阿部は、クレ・チュマールの論文か  ら何を、 「教育学上参考とすべき点」として 摂取したの瓜その点を検討していきたレb   まず、比較教育学をめぐってクレ。チュマ  ール自身が、執筆時点(1913年)でどうい  う問題をかかえていたかにっいて簡単に言及  しておこう。

  クレ・チーマールによれば、比較研究の方  法は、19世紀において徐々に自然科学の領域  を越えて、精神科学の領域においても重要な  地位を占めるようになり、様々な学問分野  (比較言語学、比較宗教学比較社会学など)

 を成立させた。さらに、その方法は、心理学

 においても導入され、比較心理学の成立を見

 るに至った。しかし、教育学の領域において

は、まだ、そこまで進んでいない状況があっ

 た。それどころか、教育学の学問的地位その

(4)

ものが疑問視される状況があった。クレ・チ aマールは言う。 「哲学的見解に魅入られて

      e   

居る為に、教育学は、応用倫理学又は、応用 心理学たるに過ぎぬ、即ち、派生的科学に過         ぎぬ、而して、教育学的研究の独立は、常に 否定せられて居る」 (傍点筆者)と。こうい う状況にあればこそ、教育学の領域において、

比較教育学が成立するためには、その前提と して、教育学そのものが他の学問の「応用」

にすぎないという従属的状態から脱却して、

学問としての「独立」を確立することが必要 であり、逆に、教育学が、真に学問として

「独立」するためには、その方法論として比 較研究の方法が、必要不可欠であることを、

クレ・チュマールは主張するのである。当時、

日本の教育学は、ドイツ(プロイセン)教育 学の「忠実な弟子」注4)であ。たから、ク

レ.チュマールのかかえていた問題は、阿部 のかかえていた問題でもありえたし、そこに 翻訳・紹介の動機があったと考えられる。

 クレ.チ」マールは、以上のような問題状 況をふまえて、比較教育学の主要な使命(任 務)として、次の四点をあげた。

  「比較教育学は、第一に、実験的科学的の 出発点を以て従来の教育学の哲学的出発点に 代えること、第二は、比較教育学は、児童心 理学より児童の文化の発達を分離せしめて以 て教育学的研究の範囲を拡大すること、第三 に、教化の目的の研究に依って教育学的研究 の領域を広めること、第四に、教育及教化の 手段方法の範囲に於て教育学的実験を補足す  ること。」

 具体的にみていくと、まず、第一の使命と は、児童は、将来必ず親の手を離れて自立し た生活を営み、自らの幸福を維持・追求して いく存在であるが故に、 「教化を必要とする」

存在である、というまぎれもない普遍的な

「経験的事実」に注目し、 そこを出発点にし て、 「科学的教育学の基礎概念」を定立する ことを意味していた。その見地から、比較教 育学は、 「教育」概念を次のように定義した。

 「教育は・①段々と成長していく個体に関 係し、而して、②個体にその生存を独立に維 持し形成するに必要なる教化を与えんとする  具案的計画の全体である。」注5) (下線と

 番号一筆者注)

  次に、第二の使命(下線部①)とは、まず、

 児童の発達過程を、 「自然的発達1の過程  (==「児童心理学の従来の見解」)としてと  らえるのではなくて、 「人為的発達」の過程  として、すなわち、 「人為的に啓導せられた  文化の獲得」の過程としてとらえ直すことを  意味していた。そして、「文化の獲得に関す  ることは、教育学の範囲に属する」ととらえ  ることによって、児童心理学から、教育学固  有の対象を分離し、 「教育学研究の範囲を拡  大する」ことを意図していtc。それは、また、

 教育方法(教授法)における応用心理学的傾  向からの教育学の「独立」 (=教育心理学の  成立)をめざすものであった。

  次に、第三の使命(=下線部②)とは、

  「教化の終局」 (=教育目的)を「児童が独  立の処世をなすに必要なる教育の程度」すな  わち、 「個体の幸福に役立っ教化の程度」と  解することによって、教育目的をも教育学研  究の対象とすることを意図していtthそれは、

 また、教育目的研究における応用倫理学的傾   向からの「独立」をめざすものであった。比  較教育学は、「どれ丈の教化の程度と量と範  囲とが子弟の幸福に適応するものであるか」

  という問題が、 「其時々の生活状態及文明状

 態に依存して」いることに注目し、 「此依存

 関係」を「歴史的及人類学的事実材料」の比

  較研究を経て、 「或る法則に達する」ことを

(5)

 めざしていた。また、実験教育学との関係  で言えば㍉ 「比較教育学は、終局の研究を  除外して居る実験教育学と区SJjせらるる」

 としている。

  最後に・第四の使命(=・下線部③)とは、

 教育目的実現のための「具案的計画の全体」

 の研究を意味しているのであるが、この点  に関して、クレ・チュマールは、主に「教  授法及教育制度の問題」をとりあげている。

  まず・ 「教授法」に関して言えば、クレ  ・チュマールは、一方で、「教授法」に関 する実験的研究の成果を重視しっつも、実 験的方法には、 「直に実験に訴える事の出 来ぬ困難なる問題が常に存在する」という 限界性があることを指摘し、比較研究に、

実験研究を「補足」する役割を担わせてい る。そして・第二の使命から導き出された ところの児童の精神の発達は、教育(こ「

人為的に啓導された文化の獲得〜筆者注)

に依存する」という見地に立って、 「教授 法」における「教育上の原理」を次のよう に規定した.「児童の精神発達の雛は、

教育に依,て教育の目的に適うような風に 影響を与えられねばならぬ」と。阿部は、こ の「教授法」の比較研究を、1920年代に 入って、学科課程の比較研究として発展さ せてい,た。

 次に・「教育制度の問題」すなわち、

「学校組織の問題」の比較研究は、自国の

「学制」なり、 「教授上の制度」なりを、

「外国の制度」と比較して自国にとり入れ る際に、自国の「事情に照してどれ丈輸入 し得べきものであるか」を決定することを めざしていた。そのためには、外国の教育 制度が、 「其国民の特性と民族の文明の特 質とにどれ丈関係を持って居るか」という 問題に関する研究が要請されtc。また、比

較教育制度研究には、 「純粋な科学的要素より も・行政的技術的の要素が必要」であるとして いる。しかし、ここで、何よりも重要なことは、

教育制度の研究が、 「児童の精神の発達」を考 慮しつっ、社会的に規定された教育目的を実現 するための「具案的計画の全体」の一環として、

すなわち・教育の内容や方法と有機的な関連性 をもって、教育学研究の対象とされていること である。それは、 「教育」固有の論理に根ざし た教育制度研究の成立を可能ならしめるもので

あった。

 以上・四つの使命に言及した上で、クレ。チ ーマールは、最後に、われわれは、「未だ近 的の意義に於ける科学的教育学を持たぬ。科学

としての教育学の基礎は、是から作られねばな らぬ。而して、之を作る事が、比較教育学の最 急最要の使命である。」と述べている。

 このクレ・チュマールの主張は、若き阿部

(当時24才)の学問的情熱を鼓舞して、 「科 学的教育学」の建設という課題を、阿部自身に おいて主体化させたと同時に、方法として「比 較」研究法を導入させた重要な源泉であったと 考えられる。

(3)「科学的教育学」の建設と実験教育学  次に・ 「科学的教育学」建設の方法論のもう

ひとつの源泉である実験教育学と当時の阿部と の関わりを概観しておこう。

 既述したように、阿部は、 「海外教壇」欄に おいて・実験教育学の研究成果とその動向に注 目していた。このこと自体、当時の教育学の動 向を考える時、注目すべき事柄である。例えば、

1914年初頭に、樽崎浅太郎(心理学者)は、

わが国の実験教育学をめぐる状況を次のように 述べている。

 「20世紀の始めに当り独逸に於て実験的教

育学・或は実験教授学の唱導せらるるや、我国

(6)

斯道の諸大家務め競ひて其の精髄を雑誌に紹 介し、学生に講義し、或は講習会に講演し遂 には書籍に心血を注ぎて其詳細を論述批評し 以て、斯界を開発誘導せんとし、吾等後学の 徒をして深く之に興味を感ぜしめ、一般教育 界に覚醒の気運を喚起するものあるに似たり。

然るに実際に於ては諸大家の熱心なる指導と 其尽力も、之を受納し活用するの域に達せず、

唯一時皮想的形式的の波動を感受したるに過 ぎずして、僅々数年を経過したる今日吾人は

已に縣凝}魏赫を航」注6)(傍

点筆者)

 次章で詳しく検討するように、わが国への 実験教育学の導入と主張は、1906(明治39 年頃から始まり、1908〜1909(明治41

〜42)年にピークを迎えた。しかし、 「翌 43年(1910年一筆者注)の頃よりは、『

『実験』といふ語は、次第に教育雑誌などの 上より其の影を潜め、昨44年(1911年一 筆者注)の後半頃よりは極めて少数の人の間 に論議せらるるに過ぎざるの観を呈」注7)

するまでに退潮し、1914年の初頭に至って は、上記のように「其余波だに認むるを得ず」

という状況であった。このような状況にあっ て、教育学を専攻する若き学徒が、実験教育 学に注目することは、きわめて異例であった といえる。そのことに関連して、阿部自身も

「リズムの教育的価値」 (→次節参照)を論 じる中で、次のように述べている。

 「近頃教育学の分野に於て、分析的研究の 盛になって来たのを見て、『そんな事をして 何物が得らるるか』といった風に、半ば嘲笑 的に半ば心よからずと思って居らるる人達は、

大正も4年になって、また一人の邪道をいう 者をましたと眉をひそめらるるかもしれない」

注8)    (傍点筆者)

 この阿部の発言は、自らを「一人の邪道を

一83一

いう者」と認めつつも、 「分析的研究」注9)

 (=実験心理学・教育学)の立場に立つこと を表明したものであり、逆に阿部の確信を示 すものである。また、それは、1914年頃に 実験教育学瓜 「盛になって来た」気運の存 在をも暗示している。

 では、1914年を中心にして実験教育学の 復活。再来の気運瓜どのような形で存在し、

又、阿部自身の研究活動において、それがど のような形であらわれているのか、その点を 簡単に確認することにしよう。

 まず、実験教育学の再興の気運は、とくに 上野陽一(心理学者)が編集主任であった

「教育学術界」誌にみることができる。この 時期の「教育学術界」誌には、当時の「帝国 教育」誌などと比較して、実験教育学(心理 学)関係の論文が多数掲載されている。その 中で、とくにモイマンの実験教育学に関わる ものをあげると次のものがある。

 ①樽崎浅太郎:実験教育学の対象並に全教  育学に対する地位(第28巻第5号1914  年2月)

 ②YT生:モイマンの新著『実験教育学網  要』について(第29巻第6号1914年9

 月)

 論文①は、モイマンの『実験教育学入門講 義』(第二版。増訂版)の第1巻(1911年)

の第二講義(原文PP 46 一 62)を要約して 紹介したものである。それは、実験教育学の 対象と方法を論じたまさに『実験教育学入門 講義』の核心部分の紹介であった。注10)

 次に論文②は、1914年に出版されたモイ マンの『実験教育学網要』の目次構成を主に 紹介したにすぎないものではある斌林博太 郎が指摘しているように、当時、阿部が、

「上野陽一君と協力してモイマンの『実験教

育学』を翻訳」注11)しはじめたことを暗示

(7)

している。そうして開始された翻訳作業の成 果が、上野陽一にょって、1915年4月(第

31巻第1号)より、数回にわたって、「モイ マン新著『実験教育学網要』の紹介」と題し て(ただし副題)連載されていくのである。

そして、それが1919年には、上野・阿部共 編『モイマン実験教育学網要』として完訳・

出版されるのである。

 一方、阿部も、東京帝国大学文科大学心理 学教室が中心になって組織していた「心理学 研究会」の機関誌「心理研究」(編集主任・上 野陽一)に実験教育学に関する研究を発表し ていた。まず、芸術教育の実験教育学的研究 に関するものとしては、 「児童の美的判断の 研究に就て(上)(中)(下)」 (第29・30・

31号1914年5・6・7月)があげられる。

それは、卒論「芸術教育」 (1913年)以降、

とくに「芸術教育問題に関する最新の心理的 研究」注12)vこ関心を寄せていた阿部tox次 のように提起した研究課題に自ら応えたもの であった。

 「是迄現れた芸術教育に関する書物にも、

此点(=芸術品の美的理解の発達過程のこと 一筆者注)に関する心理学的説明や証明を多 く見ることが出来ぬ。此点に関する研究は、

猶ほ将来に属するのである。吾人は、我教育 界に於ても此方面に関する真面目な研究の起

らん事を希望せざるを得ない」注13)

 次に、実験教育学的研究の海外動向に関す るものとしては、 「ロシアの実験教育界(上)

(下)」 (第40・41号1915年4・5月)

がある。そこでは、ロシアにおける実験教育 学の普及・発展に中心的役割を果していた

「ネッチャエフA.P.Netschajeff教

授の指導下にある実験教育学会」 (1909 年創立)の研究活動及びその成果が紹介され ている。阿部は、この実験教育学の普及。発

展を、 「新しい科学の思想」(=教育学研 究の「新運動」)の普及・発展であるという 受けとめ方をしている。注14)

 以上確認した事実から明らかなように、阿部は、

衰退期にあった1910年代前半に実験教育学 に注目しへそれを継承していった。では、阿 部は、実験教育学(とくに、モイマン)から 何を、どのように摂取したのであろうか、又、

それが、阿部教育学の形成にいかなる影響を 及ぼしたのであろうか。それは、簡素に言え ば教育の科学としての独立ということであ り、その独立は、 「被教育者の教育」という 教育固有の視点をもって、教育学上の諸概念 を体系化していくことによって可能であると いう確信を阿部に与えたことにあるといえよ う。この点に関する詳細な検討は、次章に譲

る。

2 芸術教育をめぐる阿部・佐々木論争  一「科学的教育学」と「哲学的教育学」の対立一   前節では、主に、1913〜14年頃に阿部  が翻訳・紹介した諸論文の検討を通して、当  時の阿部の興味・関心及び研究意識を明らか  しようとした。本節では、そのような学習。

 研究活動を通して阿部の内的世界に形成され

 た教育学意識力\ 1915〜16年にかけて

 「教育学術界」誌上で展開された芸術教育を

 めぐる佐々木吉三郎(当時、東京高等師範学

 校教授) の論争の中にどのような形で具体

 的に表現されているのかを検討し、そのこと

 によって、1910年代前半における形成期の

 阿部教育学の特質を明らかにしていきたい。

(8)

(1)佐々木吉三郎の「美的教育学説」と阿部重  孝の芸術教育観

 (i)佐々木吉三郎の「美的教育学説」の形成   過程とその特質

   まず、佐々木力\ 「美的教育学説」 (=

  「教育的美学」)を主張するに至った過程   とその特質を簡単にみておこう。

   佐々木は、 「教育は、人にあるという趣   意が、明治32年の卒業論文の主題であっ   た」と述べているように、早くから教育は、

  「人格が基礎になければならぬ」と考えて   いた。注15)また、 「人格が、教育の主脳   であるという論説に対しては、常に敬意を   払って読んで居った」注16)ともいう。こ   うした問題関心は、やがて、ドイツ留学中   (1907〜09年頃)に、フォルケルトの   『美学の系統』及びウェバーの『教育の基   礎科学としての美学』という二著作との出   合いによって発展させられ、その二著作を   「拠り所」にして、 「教育的美学」の着想       注17)

      佐々木は、その   を生むに至った。

  着想を帰国後の1910年に、帝国教育会主   催の高等学術講義会において、 「芸術とし        注18)

       又、

  ての教育」と題して講義し、

  同年、第一回大日本教育学会の席上におい   ても「教育の基礎学としての美学」と題し        注19)

  て、 「教育的美学」の主張を展開した。

  1911年には、リンデの『人格的教育学』

  を、 「人格の教育」と題して一早くわが国   に紹介している。注20)その論文の中で,

  佐々木は、 「エルンスト・ウェーバー氏の   『教育の基礎学としての美学』という著の   如きも、リンデ氏の『人格の教育』の方針   を継承したものといって差支ない」と述べ   ている。ここでいうリンデの「人格の教育」

  の方針とは、 「教育者の人格が、あらゆる   教授、あらゆる訓育に欠くべからざる唯一

一85一

 のものである」という原則的見地に立って  教師が、 「全人格」をもって教育活動を展  開し、 「教授材料力\被教育者の人格のド  ン底まで侵徹すること」をめざすものであ  った。

  以上のような教師の人格を重視する佐々  木の長年の思いは、やがて、『教育的美学』

  (全3巻1911〜12年)に結晶化された。

 それは、 「ウェーバー原著『教育学の基礎  学としての美学』を本としたもの」注21)

 であり、リンデの主張(==教育は、教師と  児童の人格的交渉にこそ、その本質があり、

 その人格的交渉は、芸術と同一の性質をも  っという主張)に、フォルケルトの四つの  美的規範(=①形式と内容の一一致②人生  に有意義な内容、③有機的統一、④芸術上  の事柄は仮象界に属する、という美学上の  規範)を導入して、 「人格的教育学」を、

 教育学説として、一歩前進させようと試み  たものであった。

(ii)阿部重孝の芸術教育観

  一方、阿部の芸術教育研究は、卒業論文   「芸術教育」 (1913年)に始まるが、で  は、阿部は、佐々木との間で論争が開始さ  れるまでに、いかなる芸術教育観を形成・

 確立していたのであろうカxその点を次に  検討していきたい。

  まず、はじめに、阿部は、自らの芸術教  育観を確立していく上で、何を芸術教育研  究の理論的課題として受けとめていたのか、

  その点からみていこう。

   阿部は、処女論文「芸術教育の見地より  見たる教育上の欠陥」 (「教育実験界」第

  33巻1号1914年1月 大正2年12月

  6日執筆)の中で、ドイツ芸術教育運動に   学びながら、芸術教育研究の基本課題を、

  四つの問題に整理している。

4

(9)

 第一の問題は、芸術教育(美的陶治)は、

民衆教育の一部たるべきか、或は、補助手 段たるべきかという芸術教育の根本問題に 関する研究である。それは、学校教育にお ける芸術教育の位置づけの問題であるとい

える。

 第二の問題は、 「児童を芸術上成熟せし めんとする全教育の教程に対して、芸術の 系統から、又は芸術品の中から、種々異っ た学校、種類、年齢、稟賦型及品性等に適 当し、而も教育上効果あるものを選ぶ」と いう問題の研究である。それは、芸術教育 の内容(教材)の選択をめぐる問題といえ 為

 第三の問題は、 「個々の芸術に対して、

芸術教育の教程を形成すること」すなわち  「児童を或る特定の芸術の作品を観察し、

鑑賞享楽し、批評するように導き、旦つ児 童に存在する創造的資質を発展せしむるこ

との出来る教授処弁を形成すること」の研 究である。それは、芸術教育の方法(教授 法)をめぐる問題といえる。

 第四の問題は、 「教育上芸術に導き入れ る種々異った方法が、他の凡ての教授に対 する第二義的の効果」すなわち、 「芸術教 育上の全努力の体育、知育、徳育に対する 間接的の効果」に関する研究である。

 阿部は、これらの諸問題は、結局、 「『

芸術への教育』及『芸術によるの教育』と の二の問題に帰することができる」として いる。そして、第一の問題に関しては、次 のように結論づける。すなわち、芸術を

「鑑賞享楽するの能力、殊に美的の感動力 を養護し、高尚にすると云ふことは、体育、

知育、徳育と相並んで常に凡ての教育目 的たるの権利を主張することができるb…

…趣味の教育を受けなければ、人の芸術的

素質は潜在のままで進歩発達することなく 従って野蛮なるを免れぬ、…(故に一筆者補)

…或る意味に於て、又、或る分量に於て、趣味 の陶治、即、芸術上児童を成熟せしむるの 教育を、教育の一部・・とすることに就ては 殆んど何人も異論がない」 と。問題は、

 「教育の目的の全体の内に於て、美的陶治 の目的が如何なる位置を占むべきか」又  「芸術教育は、何を目的とすべきか」とい

う芸術教育の本質をめぐる問題の解明であ った。この点に関して、阿部は、ドイツ芸 術教育運動における論議に学びながら、芸 術教育の目的をめぐって二つの見解がある ことを確認している。

 ひとっは、 「国民に芸術的鑑賞・享楽の 能力を賦与すること」を目的とする芸術教 育、すなわち、「芸術への教育jであり、もうひ とつは、 「国民の創造的能力を自由に開発 ようとすること」を目的とする芸術教育、

すなわち「芸術によるの教育」である。

 この時点では、 「吾人は、何所迄も一般 の美的芸術家的の鑑賞享楽を以て芸術教育 の目的とせねばならぬ」と述べているよう に、阿部は、基本的立場を「芸術への教育」

に置いており、 「芸術によるの教育」

に対する自己の態度・見解を表明して いない。では、阿部は、 「芸術へめ 教育」をどのように深めていったので

あろうか。 「芸術への教育」の立場に立っ 以上、まず 「芸術的鑑賞享楽の能力」が

どのように発達するのカ\又、そこに教育 はいかなる作用を及ぼしうるの瓜そのた めの内容と方法はいかなるものか、といっ た諸問題が当然派生してくる。この問題

(=第二・三の問題)の解決のために、阿

部は、まず、 「感官の陶治」 (一=「眼の陶

治」)を芸術教育の出発点(基礎)に位置

(10)

づけた上で、芸術品を「正確に見る」→

「分析的、自然科学的に見る」→「審美的 に物を見、芸術品を会得する」という段階 にまで「移り行く過程」の解明が必要であ ると考えていた。前節でとりあげた児童の 美的判断の発達過程に関する実験教育学的 研究(主にミュラーの研究)の成果の摂取 が始まるのも、上記の課題を意識してのこ

とであった。阿部が、児童の美的判断に就 いての研究結果から学びとったことは、ま ず第一に、児童の判断は成人の判断と異っ ていること、すなわち、児童には、成人と は異った児童に固有の審美的判断があるこ と、第二に、その判断力は徐々に発達する ということ、そして、その美的判断の発達 に教育(=教師の働きかけ)が影響を及ぼ

しうること、であった。

 次に、この時期で注目すべきことは、

「リズムの教育的価値」に着目して、芸術 教育(「芸術への教育」)の方法論を深め ていこうとしたことである。阿部は、論文       リズム

「教育の方便としての動律」 (「帝国教育」

第390号1915年1月大正3年12月12

日執筆完了)において、主に、グルクロー ズの「動律体劇 (;リトミ・ク)の理論       リズム

と実践を「概勧しながら、動律がもつ教 育力を芸術教育に利用することを問題にし 魅

 まず、阿部は、 「民族の発達」 (=民族 の系統発生)の研究から導出された結論、

すなわち、 「動律的身体運動は最も原本的 な感情の表出である。加之動律的身体運動 は、歌の動機であり、同時に又原始的芸術 行為の本質的成分である」(P24) という 結論にヒントを得ながら、それを「児童の 発劃 (二個体発生)に利用して葺22)次 のことを確認しtc。すなわち、「吾々の感

一87一

情や激情は、原本的には、動律的身体運動 に表れるものである」 (P25)と。故に

「教育でリズムを方便として取扱う」とは、

この「動律的身体運動」によって、 「児童 に教育上有効になる感情を起させようとす る」とりくみのことであり、その感情表出 が、 「児童が芸術をとり入れる上に於ける 条件」となるとするのである。つまり、阿 部ま、まず「動律的身体運動」 (=動律体 操)を「芸術への教育」の重要な一環(出 発点)として位置づけようとしたのである。

「動律体操」の教育的価値は、それだけに とどまらない。 「動律体操」 (=リトミ。

ク)は、必然的に「体劇と「音楽」との 結合を「教育の原則」とするが故に、「体 操ばかりやって音楽を味はぬものは兇暴粗 野に流れ、音楽ばかりをやるものは女性的 でセンチメンタルになる」という両者の矛 盾を止揚して、①「国民固有の肉体の美し さを発揮する事」、②「運動を高尚にする

事」、③「表出運動を優雅にする事」など をめざす「肉体の陶治」ともなるのである。

それは、tt動律体操による肉体の美的陶治 をめざすものと言いかえることができよう。

 阿部は、 「リズムの教育的価値」 (=動 律の教育力)を、実践の理論としてほぼ具 現化しているこの「動律体操」注23)を、

直接にわが国に移入するのではなくて、そ れにヒソトを得つつも、「真にその国民(凝日 本人一筆者注)に適した体操1一民族が歴 史的に培ってきた固有のリズムに適した体 操の意味か一として、創造していく組織的 な研究の必要を提起していた。

 以上の他に、阿部は、前述の論文「芸術の

見地より見たる教育上の欠陥」の中喩 「芸術

教育の根本前提」として、とくに「教員養

成の問題」を重視している。というのは、

(11)

 教員が、 「芸術家的感動」と「芸術家的人  格」を有するか否かは、「芸術教育の運命  を左右する大問題」であったからであった。

 その他、阿部は、 「教育家と芸術家との問  題」(=相互の提携・協力の問題と思われ  る)、 「学校建築、室内装飾の問題」さら  に、 「社会教育、通俗教育の方面」におけ  る芸術教育の問題、といった諸問題の研究  の必要性を提起している。そのことは、こ

 の時点(1913年12月)で、すでに1922

 年の『芸術教育』で取扱っている諸問題の  基本的枠組みがほぼ確立されていたことを  物語っている。

  さて、以上をまとめると、論争開始前に  おける阿部の芸術教育観は、 「芸術への教  育」を目的とする立場に立って、実験的研  究(=科学的分析的研究)に裏づけられた  芸術教育の方法論の建設を志向していたと  ころに基本的な特徴があったといえる。し  かし、論争開始の時点(1915年1月)で、

 阿部は、芸術教育のめざす目的を、 「児童  の芸術的享楽の能力を促進し、その美的感  動を陶治し、進んで芸術的創作、発表の能 麓饒」(傍点筆者)me4}6ことであaと

 規走して従来の立場を一部修正している。それは、

 「芸術への教育」を前提にして、 「芸術に  よるの教育」を限定つきで承認したこと、

 すなわち、 「創造力の開発」のうちから、

 「芸術的創作・発表の能力の開発」という  課題を取り入れたこと、を意味する。阿部  は、以後、この立場を堅持していった詳25)

② 阿部重孝の「美的教育学説」批判     一論争の展開と帰結一

  さて、上記のような芸術教育観(=「芸  術への教育」及び「芸術による教育」の一一  部)を深めていこうとしていた阿部が、ウ  エーバー及び佐々木吉三郎の「美的教育学

説」 (=「芸術としての教育」)の批判を展 開するに至るのは、当然の成り行きであった。

というのは、両者は、今後の教育学及び芸術 教育のあり方をめぐって鋭く対立するからで あった。阿部の「美的教育学説」批判とそれ に対する佐々木の反論は、以下の諸論文(す べて「教育学術界」誌)において展開された。

 ①阿部:所謂美的教育学説にっいて(第   30巻第5号 1915年2月 大正4年   1月IO日執筆完了)

 ②阿部:教育は果して芸術なるか(第31   巻第1号 1915年4月 大正4年3月

  10日執筆完了)

 ③佐々木:教育と芸術を考える人々へ(一)

  (⊃(三)(第31巻第5・6号、第32巻   第1号 1915年8・9・10月)

 ④ 阿部:再び教育と芸術とに就いて(第

  32巻第2号 1915年11月)

 ⑤ 阿部:佐々木氏の教育的美学を評す

  (第32巻第3号1915年12月④

  とあわせて大正4年10月10日執筆完

  了)

 ⑥ 佐々木:阿部文学士に答ふ(一)、阿   部君に答ふ(二)(三)(第33巻第1・3・6

  号 1916年4・6・9月)

 阿部が、上記の論文①②④⑤において、一 貫して問題にしていた論点は、 「美的教育学 説1が、 「科学的教育学の建設」にいかなる 意義(有効性)をもっかであった。

 その点に関する阿部の批半1酌見解は、次の ように要約できよう。

 まず、 「美的教育学説」は、学説というよ り、 「むしろ美的教授論といった方が適当」

であり、又、それは「教育の実際は芸術であ る」という「一種の独断的仮定」に座して、

「美学からその規範を借りてきて、以て、直

に之を教育の実際に適用しようという試み」

(12)

であり、 「いわば、芸術の規範による一種の 教授改良案である。」 「美的教育学説」は、

「主知主義」に対して批判的であることは評 価しうるとしても、過度な「主知主義」批判

が、主情主義的傾向を招来し、それが逆

に、 「科学を軽視すること、真理の人の心を 崇高ならしむる所以の力に背くこと、及び知 識に対する自然の欲動を不具にするの危険を 含むばかりでなくて、教育の方法並に教授の 実際にとって危険なる概念の混乱」を招く恐 れがあること、といった諸結果を生み出し、

「科学的教育学の建設」にとって有害な役割 を果たす。故に、 「美的教育学説」の中に、

「科学的教育学の建設に貢献する所以のもの を求めようとしても、吾人は、失望するより 以外に、殆んど得るところがない。」結局、

「独断的仮定」の上に成り立つ「美的教育学 説」は、 「学として成立しな囚し、また、

教育学に固有の論理(対象と方法)を構築し ていく努力をせずに、安易に他の学問の規範

(=フォルケルトの美的規範)を借りてきて 学説たらしめんとした点で、それは、 「学説

としての堕落である。」

 このようにまで阿部が、相手を手厳しく批 判したのは、阿部の生涯において唯一のこと ではなかろうか、しかも、批判の相手は、当 時の教育学界を代表する人物の一人である。

そこには、当時の若き阿部(若冠25才)の

「科学的教育学の建設1に対するすさまじい 情熱と決意が表明されている。

 さて、上記のように「美的教育学説」の最 大の欠陥(問題点)が、 「教育の実際は芸術 である」という「仮定」に立脚している点に あると見抜いた阿部は、批判の論点としてそ の「仮定」が成立するか否かを吟味の中心に すえた。すなわち、阿部は、「美的教育学説」の主 張者が、極端に教育と芸術との類似性を強調す

る点に問題の根源があるとみて、逆に、両者 の差異点に注目して、両者の正しい関係を冷 静に確定しようと試みた。

 阿部が、教育と芸術の関係における差異点 として対象化した主要な柱は、④教育と芸術 の本質(意義・目的)の比較、㊥両者の対象

(取り扱う材料の特質)の比較、0「自然」

に対する教師と芸術家の関係の比較、㊥教材

(材料)の選択・配列をめぐる教育家の態度 と文芸家の態度との比較、㊧教師と俳優の比 較、㊦教師の児童(=材料)の取扱いと造形 芸術家の材料の取扱いの比較、などであった。

それらの諸点をめぐる阿部の見解を整理する と表2のようになる。

 阿部の見解を要約すれば次のように言え よう。まず、教育は、①教育者(教師)②被 教育者(児童)③教育作用(①の②への影響)

という三要素から成るきわめて目的意識的活 動である。その目的は、社会的に規定される

と同時に、被教育者である児童(=意志も人 格もある活動的な人間)の個性(自然)を考 慮せざるをえないという特質をもつ。一方、

芸術は、きわめて主観的で自由な表現・創造 活動である。その目的は、芸術家の主観に委 ねられていて社会的に規定されることはない し、取扱う対象も意のままにできる受身的な 物質であるという特質をもつ。

 このような差異点がすくなくとも存在する 以上、 「教育の実際は芸術である」という「

仮定」は、根拠薄弱であり、 「美的教育学説」

は、その学説としての資格を問われざるを得 ない、と阿部は批判するわけである。

 こうした批判に、佐々木は、論文⑤及び⑤

をもって応えたのである瓜そこには、阿部

が提出した論点に対する説得的(学術的)論

理的な論及はなかった。佐々木は、従来どお

り、児童と教師の人格的交渉に教育の本質が

(13)

表2 阿部重孝における教育と芸術の関係把握(差異点)の対照表

教       育 芸       術

。教育活動(狭義)は、意識的に目的を掲げて ・芸術活動の本質は、創造的に働くところにあ 進む活動であり、その活動は、①教育の主体

る。

(こ教師)②教育の客体(=児童)③教育作

用(教師が児童に及ぼす影響)という三要素

1

から成り、そのうちの一つを欠いても教育は ャ立しない。

E教育活動は、その客体が、被教育者(=児童)

ニいう人間である以上、教育家の主観や個性

・芸術は、芸術家の主観に影じた感動を、感覚 I方便によって表現しようとする努力の所産 は、芸術家のように通用しない。 であって、それより外に本質的には、何等の

・教育の目的は、社会的に規定される。 (ここ 目的をもっべきものではない。

でいう「社会的」とは、個人の人生を完成せ ・芸術の目的は、何ら社会的に累はされない。

んが為めに、個人の人生を社会的の規範によ ・芸術活動は、芸術それ以外に目的をもたない。

って導くという意味であり、個人を滅するも フではない)

・教育家(教師)の取り扱う材料は、児童であ ・芸術家の取り扱う材料は、意志のない「物質」

㊥ る。児童は、 「受身」の存在ではなく、意志 烽?閨A人格もある「人間」である。故に、

u児童の個性」を認めなければならない。

である。すなわち、純粋に「受身」のもので

?驕B i

。教師は、 「自然」 (=児童の個性)を制肘し ・芸術家にとって、 「自然」は、その思想を発

てはならない。

E教師は、 「自然」を「自然」のままにしてお ゥなければならない。

E教師は、自分の気ままに「自然」を形成して はならないし、又、できない。

・教師は、 「自然」が準備して置いた所を完成 するにすぎない。

・教師の教材選択は、 「教育の目的と被教育者 ・文芸家瓜その材料を選択するのは、全く自

㊤ (児童)の心理状態」とを常に眼中に置かね 由であり、従って主観的であり、それが、読

ばならない。 者の趣味に迎合するか否かは、予め問われない。

㊧ ・教師の教壇上の活動は、児童の方面から多大 フ制限をうける。

      ■L E俳優の舞台に於ける活動は、観客から制限さ

黷ネい。

・教育者の取り扱うところは、 「活動的な人間」 ・造形芸術家の取り扱うところは、 「受動的な

である。

物」である。

・教育者は、自己の理想を完全に児童に表現す 。造形芸術家は、自己の理想を完全に芸術品に

㊦ ることはできない。

E教育者力\ 児童を仕立て上げて行く際には、

表現することができる。

E造形芸術家がある理想を感覚的方便によって

その動作は、 「教育の目的と児童の個性(稟 発表する場合は、彼は、その事以外に何ら他

賦)」によって規定されるご の目的によって累はされない。

(14)

あり、それは芸術と同一の性質をもつという 主張(年来の確信)を繰り返すにとどまった。

というより、佐々木は、阿部の批判に動じな かった。というのは、佐々木にとって、 「教 育は、人(=教師の人格)にある」という確 信は、長年にわたる現場の教育実践との関わ

りの中でためされた経験上の真理であったから らである。

 以上、まとめると、阿部の「美的教育学説」

批判は、教育学論争としてみれば、美学の規 範に安易に従属している「美的教育学説」が、

教育の本質と芸術の本質を混同することによ って教育概念を混乱させ、教育学の正しい発 展(=「科学的教育学の建設」)の防げとな ることを批判したものであり、芸術教育論争 としてみれば\ 「芸術としての教育」を主張 する「美的教育学説」が、芸術教育の本質

(教育全体に占める芸術教育に固有の目的と 役害IDをあいまいにして概念を混乱させ、芸

術教育(=阿部の立場からみたそれ)の正し い発展を防げることに対する批判であった、

といえよう。

 しかし、阿部・佐々木論争が、教育の本質 に関わってより生産的な論争であろうことを めざすならば、阿部は、 「美的教育学説1が 学説として成立しないという方向で論争を終 結させるのではなくて、 「科学的教育学の建 設」の立場から、佐々木が提出している「教 育は人(=教師の人格)にある」 (あるいは  「教師と児童の人格的交渉にこそ教育の本質 がある」)という命題一それは、阿部のいう 教育の三要素のひとつである「教育作用」

(=教師の児童への影響に関わるはずの問 題である一に、一歩踏み込んで自己の見 解を表明し、共通の土俵で論議すべきであ。

た。佐々木が、美学の規範を借りて「美的 教育学説1を主張したのも、元をただせば

一91一

実験教育学を含む従来の教育学説(個人的教 育学説、社会的教育学説など)では、教師と 児童の人格的交渉(魂の触れ合い)という人 間関係における非合理的側面(=感情交流の

側面)瓜十分に説明できなかったからであ   へ  った。故に、この人格的交渉の問題に対して、

阿部瓜教育の実際は、社会的に規定された 教育目的と児童の個性(=科学的分析的研究 によって明らかにされた発達段階、稟賦性格 など)を考慮した営みであるという形式的な

、枠組を対置し、そのために粘り強い科学的研 究の蓄積が必要だと主張するだけでは、論議 は、かみ合わなかった。阿部は、 「美的教育学 説1の立場の非論理性・非科学性を批判する  ことに熱心で、佐々木が提出していた教育作

用における人格的交渉の問題を正しく受けとめ.

めえなかウた。阿部がめざす「科学的教育学」

 は、教育作用における人格的交渉の問題(=

人間と人間の教育的関係における非合理的な 感情交流の問題)を、科学のメスでもって、

 どこまで解剖できるかによってその真価が問

われるはずであるのに、阿部は、この問題に

 対する「科学的教育学」的アプローチを明確

 に提出することをしなか,た。そこに、阿部

 ・佐々木論争が、教育科学論争として生産的

 な論争になりえなかった原因のひとつがあっ

 たのではないだろうか。

(15)

おわ り に

 1910年代における阿部の研究理論活動は、

ほとんど1913〜15年に集中し、阿部。佐々 木論争をもって、より正確に言えば、1915 年12月に「一年志願兵として越後村松歩兵第 三十連隊第四中隊へ入営」注26)(1916年

11月まで)したことをもって、一つの区切り目 をつけることができる。その後(1910年代 後半)の研究活動として、『教育大辞書』(1918 年)における美学・芸術教育関係を中心とした 項目の執筆と上野陽一との共訳『モイマン著実 験教育学網要』(1919年)とがあるが、それ

らは、1913〜15年の研究活動においてほぼ 準備されていたと見ることができる。そして、

東大助教授就任(1919年10月)を契機とし て、1920年には、論文「個人的差異と教育制 度」 (『個性教育論』所収)にみるように、芸 術教育研究者から教育制度研究者へと根本的な        注27) 転換をとげていくのである。

 では、卒論「芸術教育」に始まり、阿部・佐 々木論争に集約される1910年代の阿部教育学 は、いかなる特質と問題点をもっていたのであ ろうカ㌔又、そこには、教育制度研究へと向う 契機が、どのような形で胚胎されていたのであ ろうか。その点を明らかにして、本章のまとめ

としたい。

 まず、この時期の阿部教育学の特質として注 目すべきは、阿部が、当初から「科学的教育学 の建設」 (=教育学の科学としての独立)を標 榜していたことであろう。それは、当時の新し い気運であッた。注28)その「科学的教育勢の「科 学的」とは、教育の本質に「科学的」にせまろ うとする方法上の形容詞であると同時に、 「科 学的」であることをめざす目的上の形容詞でも あった。そして、阿部は、教育の本質は、①教 師(教育の主体)、②児童(教育の客体)、③

教育作用、という三要素から成り、その教師の 教育作用は、児童の個性(心理状態)をふまえ つっ、社会的に規定された教育目的に向って展 開(組織化)されることにある、とした。しかし、教 育目的を社会的に規定する際に、「科学的教育学」

は、いかなるアプロ〜チをするのか、その点は 不明確であった。阿部瓜 「教育の目的は、事       マ− 実として、皆その当時の社会的意識の規定を承 v」tCl注29)というwaま、その「社会臆調とは、

具体的には何を指すのhMこっいて何ら言及されていな い。当時にあって、それは、暗黙のうちに天皇制絶対 主義を支える教育勅語の理念を容認することを意味す るのカ\それとの衝突を避けるために抽象的表現 にとどめているのか、阿部の態度は、この時点 では確定しえな蝿一方、児童の個性(心理状 態)に対する阿部の科学的アプローチは明確で あった。それは、児童の発達過程、稟賦、性格 等の児童の生理的心理的諸特性を実験教育学的

アプローチによって経験的に把握していこうと するものであった。しかし、実験教育学によっ て、 「科学的」に把握しうる「児童の個性」と はどういう性格のものであるかにっいての論及

はみられない。

 その「個性」は、各局面(各要素)に分解さ れて把握されはするであろうが、それらをトー タルにとらえる人格把握の視点が、みられない。

そこには、 「児童の個性」 (心理状態)斌 知 能検査等によって「科学的」 (数量的)に把握

しうるという方向に堕する危険性を多分に内包 していた。また、阿部には、 「児童から」(Von

Kinde aus)を標榜する新教育運動(=ド

イツ芸術教育運動やモイマンの実験教育学)の

影響を受けて、児童の個性を尊重する発想すな

わち、成人とは異なった存在として児童をとら

えるという発想がある。一しかし、児童を「教育

の客体」と規定し、教師の次に位置づけている

ように阿部は、手放しの児童中心主義者ではな

(16)

かった。例えば、教育目的が社会的に規定さ れると主張した時、そのことは「決して個人を 滅するものではない」と述べているように、常 に個人(児童)の成長・発達と社会の要求との 統一過程として教育を考えようとしていた。す

なわち、阿部は、 「児童の個性」を真に尊重す るとは、「科学的」に把握された「個性」カ\

社会において「人生を完成」するように準備さ れることにあると考えていたのである。このよ うな発想には、個人本位の細人的教育学」と社会 本位Of社会的教育学」を正しく統一せんとする志 向性がうかがえる。それこそ、 「科学的教育学」

がめざすものであsたといえる。その方向は、「個人的 教育勢と「社会的教育麹との調和・統一をめざし た「人格的教育学」を、主観的には、さらに一歩前 進させようとした佐々木の「美的教育学説」が、

客観的には、新たに美学の規範に拠り所を移しかえ て、そこに寄生(安住)したにすぎず、そのこ とによって、逆に、 「教育学の科学としての独 立」への道を閉ざしてしまう方向でしかなかっ たことと、非常に好対照であった。

 さて、次に、教育制度研究との関係について あるが、結論的にいえば、明確な形では存在し なかったといえる。そのことは、阿部が、教育

を、教師、児童、教育作用の三要素として把握 していた点に、端的に表明されている。阿部は、

1927年の『小さい教育学』の中で、先の三要 素に加えて、第四の要素として「広い意味でい

う児童の環境」 (P19)を教育的に組織して いくこと、すなわち、教室、学校、社会施設と いった教育制度を組織していくことを教育学に 不可欠な対象であるとしている。 1910年代 前半の阿部重孝には、その第四の要素が、明確 に位置ついていないのである。そのことは・クレ

・チユマールの比較教育学において登場した「教 育」固有の論理に基づく教育制度論瓜原形とし て胚胎しながらも、 「科学的教育学の建設」に

不可欠な領域(要素)として自覚されていなか ウたことを意味する。しかし、 「児童の個性」

(心理状態)をふまえつつ、社会の要求にこた えていくという1910年代前半に形成された教 育的枠組に、第四の要素として、教育制度が位 置つく時、それは、 「個人的差異」 (=能力の 劣等・平均・優等)に応じた「教育制度」 (学       注30) 科課程・学校系統)論となる。

       それは、

今日の「能力主義」的な教育制度論につながる 発想であるといえよう。

 いまひとつ、教育制度に関わって注目すべき は、芸術教育の問題として対象化されていた

「学校建築、室内装飾の問題」である。この時 点では、ただ検討課題として提起されたのみで㍉

その内実は不明である。しかし、第四の要素と して「広い意味でいう児童の環劉を、芸術教 育の見地からとらえなおす時、美的環境として

「学校建築室内装飾」に教育的配慮が、ちり ばめられていることはきわめて重要なことであ ξb1910年代前半における阿部には、芸術教 育の見地から教育制度をとらえていく発想が存 在していたといえる。

 以上、1910年代(とくに1913〜15年)

の阿部重孝の検討を通して言えることは、1910 年代は、確かに、井深氏が指摘しているように  「教育制度の教育科学的研究以前」 (=教育

制度研究の「前史」)といえようが、その内実 は単に、「実証的研究への関心」や「教育制度 研究への関心」を「胚胎」したというだけにと

どまるものではない。もっと積極的に、1910 年代は、阿部の教育制度観を逆に規定する教育 の本質観が、土台として形成されていた時期で あったのである。

       (1982.12.12(日)脱稿)

参照

関連したドキュメント

この学級を単位とした集団SSTの特徴は,子ども

授業科目名 (英文名) 教育心理学 (教職課程科目) (Educa tional Psychology) 科目区分 対象学生 ※ 単位数 2.00 開講年次・ 学期 1~4年次・前期 担当教員

橋本 祐子 教授 前期・後期課程.

幼児期において自我はそれほど明確に発達して おらず,園原・黒丸(1966)によれば「自我が芽

子どもが言語を獲得していく過程を詳細に検討してみると、それは、きわめて複雑でダイナミ

この答申では、小学校低学年の社会科と理科について児童の発達段階により適合したも

学習の途中で必ず文章にもどりながら指導していく必要がある。声を出すことがとても好きな、話し好きの児童

 教育学部教育学科は、昭和 42 年 4 月の開設から今日まで、小学校を中心に 多数の優れた教諭を輩出してきました。平成