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阿部重孝における教育制度改革論の研究

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阿部重孝における教育制度改革論の研究

一教育制度改革と「教育の機会均等」一

佐 藤 広 美

はじめに

第一章 教育改革のための教育科学  第一節 明治・大正期教育学批判

    一思弁的教育哲学と科学的教育学研究一  第二節 数量的実証主義と比較教育制度史研究   (1)数量的実証主義

  ② 比較教育制度史研究  第三節 社会と教育の関連把握  第四節 教育政策と教育科学 第二章 教育制度改革論の理念

 第一節 学校制度と「教育の機会均等」

  (1)学校系統と社会階級   ② 日本の学校制度

  (3)学校制度の編成原理としての「教育の機会均    等」

 第二節 国家と教育

  (1)能力主義批判の問題性   ② 国家観の問題性

 第三節 ナショナリズムとデモクラシー 第三章 教育制度改革論の構造と展開  第一節 教育制度改革の見地  第二節 学校制度改革   (1)学校系統   ② 義務教育   (3)教員義成   (4)大学   (5)女子教育   (6)私立学校   (7)学科課程   (8)学校施設   (9)父兄会

 第三節 教育行財政機構改革   (1)教育財政改革

  (2)教育行政改革  第四節 社会教育の改革

おわりに

はじめに

 阿部重孝の学校制度改革論(六・三制案)は,戦後教 育改革に先立って戦前のかなり早い時期から,学制改革 にとり組もうとする努力があったことを示し,戦後教育 改革が戦前日本の教育改革論の最良のものの成果に立っ て行なわれたことを裏づけるという点で,従来より高い 評価を与えられてきた.「戦後教育改革は占領軍による 一方的押しつけである」との見解がくり返し出されてい る今日,阿部の六・三制案へのこうした評価は,とりわ け重要な意義をもっている.

 しかし,阿部の六・三制案が,戦後,日本側に自主的 で主体的な教育改革の努力があった事実を明らかにさせ るものとはいえ,阿部の六・三制案が戦後に創出された 六・三制と基本的}e−一致するか,という点については評 価は確定しておらず,そこにはなおきわだった意見の対 立が存在している,

 すなわち,戦後の六・三制を阿部の六・三制案の継承 において捉える見解に対し,阿部の六・三制案は,戦後 教育改革の根本理念である「国民の教育権」思想に照ら して戦後の六・三制と決定的なちがいがあり,戦後の六・

三制が阿部の改革案の制度化であると即断することはで きない,とする意見が対立している.そしてこうした阿 部の六・三制案の評価をめぐる対立は,阿部の国家と教 育の関連構造の把握や教育改革の主体をどこにもとめる かの認識に対する各々の評者の理解とわかちがたく結び ついているように思われるのである.

 以下,阿部の六・三制案の評価をめぐる対立を検討す ることにより,問題の所在を明らかにしていきたい.

 まず,阿部の六・三制案と戦後教育改革との連続的側 面を強調する論者の評価をみていこう.こうした評価は ほぼ阿部の六・三制案の通説的理解になっているが,こ こではその代表的論者である赤塚康雄,佐々木享,伊ケ 崎暁生の所論1)をとりあげることにする.

 赤塚康雄は,新制中学校の成立過程における日本側の

主体性を考察し,その主体性が新制中学校成立の主要因

であることの実証を試みた『新制中学校成立史研究』

(2)

で,日本側の主体性を問うことは戦前日本の教育改革案 の検討を要請するとの考えから,戦前に提示された教育 改革案のなかで,最も進歩的な改革案として教育研究 会,教育改革同志会およびその中心人物であった阿部重 孝の改革案をあげ,一一方戦後日本における代表的な改革 案として,米国教育使節団に協力すべき日本側教育家委 員会の報告書をとりあげ,この両案が「ともに六・三制 学校体系をとり,大正期に人格形成を行なったリベラリ

ストの手によって構想されたという共通点を持」つこと から,「戦前日本の教育改革案が,戦後に継承されたの ではないか」(69頁)とする.そして,戦後,学校体系を 審議した東京帝国大学教育制度研究委員会や教育刷新 委員会等において重要な役割を担った人物として戸田貞 三をとりあげ,戸田の改革構想が阿部から大きな影響を 受けているという点で,その継承関係の立証を試みてい る.赤塚の所論でとくに注目しておきたい点は,日本側 教育家委員会報告書の中学校設置の構想が「義務教育年 限延長という要請と児童生徒の発達段階という心理的側 面を総合したなかから生まれていた」とし,このことか ら戦前の到達点である教育改革同志会や阿部重孝の教育 改革案につながる歴史的遺産の継承を「推察」(64頁)

していることである.

 佐々木享は,1930年代における日本の中等教育研究の 状況に触れながら「1930年代,とくにその後半期の教育 改革論の盛行した時期に,一部の科学的な態度を堅持し ようとした教育研究者によって中等教育にかんする実証 的・科学的な研究がすすめられ,そのうちの少なからぬ 人びとが」「中等教育を単一化して前期の三年を義務制 の中学校とし,後老の義務制ではない中等学校を設ける という構想をもつにいたった」とし,このような人々の 構想が,敗戦後,アメリカ教育使節団訪日に先立つて組 織された日本側教育家委員会によって「六・三・三・四 制などの学校系統案としてまとめられたのであった」

(1976年,28頁)と述べ,戦前学校制度改革論と戦後教育改 革との連続を指摘する.そして,阿部の中等教育改革構 想について,中等教育を青年期にある老の教育的必要に 応ずる為の教育に改造させようとする等の点を踏まえ,

赤塚の先の『新制中学校成立史研究』を受けながら「そ の実質において十五年後に実現されることになった六・

三・三制の構想に酷似したものであった」(1983年,413 頁)と評価している.ただし佐々木は,「阿部の国家観(の 弱点)」にも言及しており,国家観の問題を「彼の他の 仕事に即して深く研究する」(416頁)必要を説いてい

た.

 伊ケ崎暁生は,阿部が提唱した六・三制は1947年の

「教育基本法」「学校教育法」で実現したとし,「阿部の 構想が空想的なものでなかったことはこの戦後教育改革 が証明した」(432頁)と述べるとともに,阿部自身が 1936年に主張した「最近に於ては,i義務教育は国家が一 方的に国民に負はせる義務とぼかりは考へられなくなっ た」「即ちこの程度の教育は国民の凡てが之を受ける権 利があり,国家がこの児童の教育権を尊重し,之に対し て国家自ら一定の義務を負ふことに依って,所謂義務教 育の効果は始めて全きを得る」(「義務教育年限延長問題 の検討」『阿部重孝著作集』第6巻所収)というところ に対し,「これは戦後の日本国憲法第二十六条の教育権と 義務教育の考え方と基本的に一致している」(431頁)と,

明確な評価を下しているのであった.

 さてこれら戦後教育改革と阿部の六・三制案との連続 を強調する見解に対し,むしろそれを断絶において捉え

ようとする意見2)にどのようなものがあるだろうか.

 堀尾輝久は,戦後目本の教育改革における理念問題を 述べる中で,「学校制度改革は,戦前から阿部重孝など を中心に検討されてきた」とし,「その研究蓄積が,日本 側教育家委員会報告にも反映しているということは,改 革の国内的必然性の成熟を意味してはいた」と,戦前と 戦後の連続面に触れつつも,「しかし,それは国民総力 戦体制にそなえてのr皇国民の練成』を目的とする義務 教育年限延長であったり,あるいは『国民的一体性』の 虚偽意識を醸成するためのものでもありえた」と,総力 戦体制の確立のために教育改革案が出されてきたことを 指摘する.そして「これに対して戦後の制度改革は,教 育をr国民の権利』としてとらえ,その権利の実現を保障 するためのものとして構想されたのであり,この点に関 する限り,両者には決定的な差があるといわなければな らない」(398頁)と,阿部の六・三制案と戦後の六・三制 との根本的異質性を強調した.阿部の六・三制案が

「皇国民の練成1を目的とするものであったり,「国民 的一体性」の虚偽意識を醸成するためのものでありえた かということは,慎重な検討を要する問題である.しか し,阿部が「皇国民の練成」や「国民的一体性」を目的 とした国家主義的教育政策をどれだけ批判的に対象化し えたかということの検討は,彼の教育改革論の根本理念 を見極わめる上で大切なことであり,戦後教育改革にお ける「国民の教育権」思想の水準に照らして阿部の六・

三制案を検討することは重要な意味をもってこよう.

 また井深雄二は,阿部の六・三制案の歴史的意義を論 じつつも,阿部の学制改革案の基本原理である教育の機 会均等論は国家主義と能力主義を内包しているとし,

「このような教育の機会均等論に基づく阿部の学制改革

一76一

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案がそのまま戦後教育改革に受け継がれたとは言え」

(59頁)ず,そして先の堀尾の指摘に依拠しつつ阿部の 国家主義と能力主義は「国民の教育権の見地から否定さ れた」と述べ,「六・三制」成立史研究における阿部重 孝の学制改革への注目は,「これらの点に自覚的である」

(60頁)ことを求めた.

 もっとも井深は,「阿部重孝の学校制度論に関する研 究」(『目本の教育史学』第23集 1980年)で,戦後教育改 革との関連で規定できる阿部の学制改革案の歴史的意義 として次の3点をあげている.①戦後教育改革において 創出された「六・三制」を思想的に準備したこと.②戦 前の学校制度の矛盾が「六・三制」改革案を提出させう

る程に顕在化し,戦後教育改革の諸条件が一定の成熟を 見たことを表示していること.③戦前の学校制度研究 が,「六・三制」改革案を構想しうる程度の水準に達し ていたことを示していること(32頁).そして阿部の「学 校系統改革の私案」の成立過程を検討し,結論として

「阿部の学制改革案は,現実可能性をふまえた現実的な 改革案として構想されていた」(48頁)と述べた.井深 はけっして戦後の六・三制への阿部の改革案の影響を否 定してはいない.

 しかし,井深はまた,阿部の改革案が政策として採用 されるかどうかは別の問題であるとし,「阿部における 学制改革の社会的基盤に対する認識あるいは学制改革 の主体に対する認識」(50頁)の検討の必要を説いてい

る.

 すなわち,阿部の六・三制案は戦後教育改革という社 会的基盤においてはじめて実現可能であったのであり,

阿部はそうした社会的基盤そのものへの認識をもちえた かという問題である.井深は,阿部の方法論の批判的継 承の方向として「教育の物質的基礎」の解明を指摘して おり(「阿部重孝の学校制度論」60頁),こうしたことを 踏まえ,井深は阿部の学制改革案が「そのまま戦後教育 改革に受けつがれたとは言えない」と述べるのであっ た.井深のこうした指摘はきわめて重要であると思わ

れる.

 阿部の六・三制案と戦後教育改革との連続ないし断絶 についての前三者と後二者の評価の基本的対立はここに 明らかである.戦後教育改革の理念と阿部の六・三制案 の理念を前者は「基本的に一致」(伊ケ崎)していると し,後者はそこに「決定的な差」(堀尾)のあることを 指摘し,前者は「児童生徒の発達段階」への言及におい て「歴史的遺産の継承」を「推察」(赤塚)し,後者は 阿部における「国家主義」「能力主義」の契機をもって

「戦後の『六・三制』を戦前の『六・三制』改革案の制

度化と即断することはできない」(井深,58頁)とした.

 両者は,戦後教育改革の意義を積極的に評価しようと する点で全く共通しているにもかかわらず,なぜ阿部の 改革案について異なる見解を示すのか.それは阿部の六

・三制案をささえる彼の教育改革理念や教育と国家の関 係認識についての評価に原因があるのではないか,つま り,阿部は,戦前の教育改革論の中にあってきわめて進 歩的で民主的な教育改革理念を示しえたとともに,国家 主義・能力主義の教育目的を遂行しようとした教育政策 を批判するためには少なからざる問題性を残したという

ことであり,この点をどのように解釈していくかで決定 的な評価のちがいが生まれていると思われるのである.

そして阿部の六・三制案を戦後の六・三制へと連続的に 捉えることを一方で困難にさせているのも,阿部のこの 問題性が早い時期から少くない論者によって指摘されて きたことと無関係ではなかったからであった.

 阿部を最初に批判したのは,阿部の身近かでともに活 動し,またよき理解者でもあった留岡清男であり,それ は1936年であった.留岡は,阿部の学校と教育政策の考 察に対して,「社会を階級として考察し,その上に置か れた教育の階級性を取出すことが薄く,階級政策として 錯綜する教育を,国家的統制の一線に沿うてながめるこ とによって蔽ふ嫌ひがある」(「阿部重孝論」『阿部重孝 著作集』第八巻所収)と,阿部の教育改革に対する国 家的統制への期待を批判していたのであった.

 五十嵐顕は,阿部の植民地教育理解について,それを

「帝国主義国家の立場からみた」ものとし,この立場に 立つ阿部の教育の機会均等把握の問題性を衝いた.五十 嵐は,阿部が述べた「台湾と朝鮮の教育制度は,他の植 民地従属国の教育と若干異なっている.なぜなら,両者 における教育制度の基本理念は,本国日本のものと全く 同一だからである.その理念は,教育勅語に示されてい る忠良なる臣民育成の理念と全く合致している」(Edu・

cation in Formosa and Korea,1932年,『阿部重孝著作 集』第八巻所収)という部分に対し,「差別のない教育 の普及が,それじたい民主的教育思想の名をつかいなが ら,これよりひどく民主主義を裏切ることがないのが,

植民地の教育政策である」とし,阿部に典型的に示され る考えは「植民地人民を帝国主義のクビキにつなぎとめ ることを前提しないかぎり肯定されるものでないし,こ のことじたい最大の差別を容認している」(「教育の機会 均等」『教育基本法』宗像誠也編,新評論,1966年,124 頁)と批判を加えた(同じ視角から阿部を批判したもの に,小沢有作r民族教育論』明治図書,1967年がある).

そして教育基本法に示された「教育の機会均等」の理念

(4)

について「国民の歴史的体験の諸関係でその正しさを説 明できるような次元において,国民の教育意思を読みと る必要がある」とし,教育基本法の「教育機会」は「植 民地人民の同化教育の機会を内包できるか」,と問題を 提起した.これは阿部の「教育の機会均等」把握につい ての根本的批判に通じる内容をもっていよう.寺崎昌男 は,この五十嵐批判に触れつつ「阿部における教育の機 会均等,制度民主化の思想と国家主義とのかかわりがど のようなものであったかは,彼の全業績を通じて再検討 されなければなるまい」(『阿部重孝著作集』第八巻の  「解説」623頁)と,問題の重要性を確認している.

 また,阿部の教育財政研究についても重大な問題が指 摘されている.阿部は,教育財政を教育固有の問題に対 する条件設定の問題である,と捉えていたとし,これは 当時において実際的問題への着眼と現実資料を方式化す る合理的手法において「大きい意味」をもっていたとし ながらも,「教育費や教育財政に現われてくる教育と社 会および教育と国家の問題をまともに考えようとはしな かった」(五十嵐顕「教育費と社会」『民主教育と教育 学』青木書店 1978年 181頁)と厳しい批判が行なわ れた.また黒崎勲は,先の五十嵐による阿部の教育の機 会均等概念への批判的指摘を受けつつ,阿部の教育財政 研究は「教育財政制度を教育制度としての固有の意義に よって基礎づけようとしながら,結果において教育財政 の問題を教育の条件に解消するという通説的理解を超え ることができなかった」とし,阿部のその隙路を教育の 機会均等原則の形式的理解を媒介とする「教育の質的な 内容における対立・相克というものの存在」の喪失に 求めていた, (r公教育費の研究』青木書店 1980年.

177頁).阿部の国家と教育の関係認識には,見過すこと のできない重大な問題性があったといえるのではないだ

ろうか.

 しかし,「阿部における国家主義」の再検討を求めた 寺崎は一方で,阿部の「準著作」の『「教育学概論」講 義』(r阿部重孝著作集』第八巻所収,1936〜37年)にお ける教育の社会的側面への強調と児童の発達論と個人差 に対する比重の大きさに注目し,阿部に「発達論の視点 をふくんだ」社会的教育学という著作が現われる可能性 を示唆している(610頁).また,平原春好は,さきの留岡 の阿部批判にかかわって,阿部における「階級社会におけ る教育,国家権力と教育などといった社会科学的分析の 欠如」に触れつつも,「しかし,日本が戦時総力戦体制 への道をひた走る当時において,事実に正面からとりく む科学的研究方法そのものが体制批判の方法論としての 役割を果たし,制度改革を準備したことについては,正

当な評価がなされるべきであろう」(r阿部重孝作集』第 六巻の「解説」477頁)と,阿部の教育改革論について の積極的評価の視角を提示しているのであった.

 さて,以上みてきたことを考慮すれぽ,阿部の六・三 制案の評価をめぐる論争的状況は,私たちに,阿部の教 育改革論の理念と構造にかかわる全体的な把握をあらた めて行ってみて,その上で彼の改革論の意義と限界,そし て戦後教育改革との連続の側面を見定めていくことを求 めているのではないだろうか.そしてこのことは,阿部の 国家と教育の関係認識についての弱点を批判するあまり 彼の諸々の教育改革案の先駆的特質の把握を怠るといっ たことや,孕まれていた能力主義と国家主義への批判の 可能性3)を軽視するという誤まりを正す点においても,

きわめて重大な意義をもっていると思われるのである.

 本研究はこうした阿部評価をめぐる問題状況から,彼 の教育行財政や社会教育における改革案を含めた教育制 度全般に対する改革論の理念と構造を検討し,その全体 像を明らかにすることによって,戦後教育改革の意義を 確認することを目的とした.まず,阿部の教育研究の方 法観を問題とし,次に教育制度改革論の中心理念である  「教育の機会均等」概念を分析し,その進歩的で民主的

な側面とともに能力観と国家観に焦点をあてた彼の歴史 的限界を明らかにし,その矛盾した構造を彼のデモクラ シーとナショナリズムについての関連把握の中で検討す ることを試みた.そして最後に阿部の教育制度改革論の 構造を全体として把握するよう努め,彼のすぐれた歴史 的遺産の析出を行った.

 『阿部重孝著作集』(日本図書センター,第一巻「教育 学の構想」,第二巻「芸術と教育」,第三巻「学校教育 論」,第四巻「中等教育論・教員養成論」,第五巻「教育 制度論・教育財政論」,第六巻「教育改革論」,第七巻

「欧米学校教育発達史」,第八巻「『教育学概論』講義・

新興日本の教育」)がテーマ別に刊行され,また各巻に はテーマに即する理論的深化のための適切な解説がなさ れるなど阿部教育学の研究は近年かなりすすんできた.

しかし,さきに触れたように阿部教育学の評価は基本的 問題においてなお論争的状況を呈しており,彼の教育制 度全般にわたる改革論の検討はいまだ十分とはいえない 状況にあった.

 筆者はすでに阿部の研究活動の形成史に視点をあてた 教育制度論の検討を試みている4).本研究はこうした形 成過程の検討を踏まえた上で,阿部の教育制度改革論の 構造を明らかにしようとしたひとつの試みである.

第1章教育改革のための教育科学

一78一

(5)

 まず阿部の教育制度改革論を生むにいたった彼の研究 方法観から検討をはじめていきたい.

 第1節 明治・大正期教育学批判

     一思弁的教育哲学と科学的教育学研究一  近年,日本の教育学説史研究の意義が論じられつつあ

るが,なお学説史研究はおくれた分野の一つである.そ の最大の原因は戦前の多くの教育学にみられる外国教育 学の翻訳的紹介的性格にあったのではないか.学説のつ きることのない送迎・展示は戦前教育学の大きな特色を なし,これは日本の具体的な教育実践から教育問題をく み取ろうとする努力の希薄性を意味しており,戦前教育 学の吟味は我々にけっして実のり多い成果を与えないで あろうという意識を生ませたのであった。

 しかし戦前教育学を一括して全面否定することは誤ま りであろう.そこには学説の送迎・展示を克服するひた むきな努力があったとみなければならないのではない か.問題は外国の教育学の受容そのものではなく,その 仕方にこそあろう.今我々が注目する阿部重孝の「教育 改革のための教育科学」もこの点にたって検討される必 要がある.阿部の科学的研究方法も彼の戦前教育学の送 迎・展示方式への批判との関連で考察されなけれぽなら ないのである.

 たとえば留岡清男は,被影響性の強い当時の日本の教 育学界において阿部を「最も腰の坐った教育学者」と高 く評価しているのである.留岡は,当時の日本の教育学 界は新カソト派の教育哲学が全盛をむかえ,他方ナトル

プの社会的教育学や実験的実証的思潮が紹介されてはい たが,それも未だ実験と実証に手を染めぬものであった とし,思想的には教育学界全般は「ライフェツァイト以 前のもの」5),つまり思想的未熟段階であるとしていた.

その中にあって阿部は独りアメリカの実証的統計的研究 方法を守り育て,具体的な日本の教育制度発達史の研究 に着手したとして,彼の教育学史上の異色な位置を強調

した.

 この指摘は十分傾聴に値する.以下この指摘を念頭に おきつつ阿部の当時の教育学への批判をみていこう.

 阿部は日本の教育学研究における「流行化」「雷同性」

を指摘し,次の如く述ぺる.

 「大正以後の年代をみても我国に多くの教育説の流行  をみたことは,誰も知る事実であるが,その流行も多  くは二三年か四五年の生命であった.流行を追ふこと,

 又流行化することが教育界の新人旧人の共にうき身を やつした点であった.が,その結果,果して何程のも  のを得たであろうか.流行を追ふと共に,雷同性も我  国の教育界に於て見逃すことの出来ぬ所である.6)」

 阿部は学説の送迎・展示方式に批判的であった.それ はまた「日本には書物を沢山読み(特に外国の)それを すぐに紹介する学者は沢山ゐるが,一冊の本を熟読翫味 すると云ふ人が比較的少いのではなかろうか」7)と語っ たとされていることからも推測できる,阿部は外国研究 における主体的批判的見地を貫ぬこうとの努力を読けた のではなかったか.

 この学説の送迎・展示方式批判は当然に当時主流を占 めていた思弁的教育哲学批判に向かわざるをえない.

 「撲はノーフィロソフィだよ8)」と語る阿部の教育哲学

  アイPt=−

への皮肉は,徹底した思弁的教育哲学批判の意志の表明 であったのではないか.阿部は次のように述べる.

  「私の見解からすると,従来の教育学に対する最も傾  聴すべき批判の一つは,教育が余りに多く哲学に立脚  してゐるといふことである.」9)

 阿部はさらに教育哲学につきまとう「難解性」につい て批判する.阿部は,従来の教育哲学を「雲上教育学」

と批判し,社会教育や日本教育史に先駆的業績を残した 春山作樹の教育学に注目する理由の一つとして,その文 章の「平易さ」をあげていた.阿部は,「平易というの は,常識の欠乏や思想の浅薄を意味するのではない1°)」と し,教育界には「難解の文章を書くことが,思想の高遠 を意味する如く解す1°)」る人間もいるが,「教育学は難 解を以て生命とするもの1°)」でないとし,研究の記述は 誰もが分かるように「簡明に記述しなければならない エユ)」とした.阿部の思弁性批判は,真理の明快性を基調

としていたのである.

 こうして阿部は教育の「科学的研究の必要」を説き,

その目的は「よろしく事実を探求し,教育改革の基礎と なるべき真理を求むべき12)」ところにあると述べた,

 阿部がアメリカの教育の科学的研究に注目し,それを 紹介したのも,その研究が教育の実際を問題とし,それに 貢献することを目的としていたからであった.そして阿 部はそれをただ紹介するだけでなく,自らその研究方法 をわがものとし,日本の具体的問題に手を染めたのであ る.その最初の仕事が我が国初の学校調査とされる「小 月小学校外三校学校調査」であった.こうした阿部の外 国の学説の受容の仕方には,従来の送迎・展示方式にみ られる学問的理性の衰弱とは異なる主体的思想の働きを 認めることができるであろう.

 阿部が岩波の『教育科学』や『教育学辞典』を編集

し,自らそこで「教育研究法」を著わしたのも「日本の

教育法に新しき教育研究法を導入しようと13)」したから

であったが,ここでさらに重視しておきたいことは,こ

の「教育研究法」は現場で働く教師のために書かれたと

(6)

いうことである.阿部はここで「近き将来に於て,恐ら く教員は教育研究上相当の責任を帯びねばならぬやうに なるであろう」と述べ,実験室や研究室における教育も 重要であるが,「教室」において始めて行いえる研究も あり,そしてこの研究は「実際教育に対して最も大なる 貢献をなすもの」とした.すなわち阿部は「研究者とし ての教師」を説くのである.しかし現実の教師は負担が 過重であり「彼等をして研究を可能ならしめる時間の余 裕がない」とするとともに「多くの教師が研究法を知ら ない14)」とする.「教育研究法」は実際的な教育現場の 要請にそくして書かれたものであったのである.

 阿部のこの「研究者としての教師」という主張は,教 師が自らの研究や実践を自覚的に対象化しうることを意 味することであって,当時,国家による教育内容への強 い統制の下にあって,これは貴重な発言であった.

 第2節 数量的実証主義と比較教育制度史研究  (1)数量的実証主i義

 しかし阿部は教育哲学の価値そのものを否定すること はなかった.阿部は「科学なしには哲学は不確実であ

り,哲学なしには科学は盲目である15)」と述べるよう に,哲学的研究の意義を認める.阿部はあくまで従来の 思弁にたよる教育哲学を否定し,そのような傾向をもつ 哲学研究を戒め,「主観的哲学的方法も,教育研究に於 て重要な地位を占むべきである.ただこの方法は,凡庸 な研究者に依って使用される場合は,他の何れの方法よ りも,価値少くして危険の多いことに注意しなけれぽな らない.16)」と述べていた.

 阿部はこのような教育哲学批判をいつ頃からもち始め たのか.それは第一次世界大戦期を含む文部省普通学務 局の勤務期であった.統計年報作成や事務処理の経験を 通して阿部は「従来の教育哲学なんかでは到底駄目なこ とを熟々考へ17)」たという.しかしこのことはたまたま 阿部が文部省に勤務したからではなく,大戦を境に教育 の科学的研究の必要の自覚が教育界に広がり,とりわけ 教育政策側にその自覚が強まったことと関連があったと いえよう.

 阿部は1919年8月に,文部省での勤務活動が評価され て東大の助教授に迎えられるが,実はそれより少し前,阿 部の科学的研究態度は別の分野で評価されていた.阿部 は助教授就任より2ケ月前の同年6月に国立感化院武蔵 野学院の社会事業者養成所の講師に招かれている.この 講師はその後4回,計5回にわたって1922年まで続けら れた18).この感化院は社会事業の科学化・系統化を重要 な目的の一つとして設立されたものであり,阿部はこの 感化救済事業の精神に適する教育学の担当者として招か

れた.感化院所長・菊地俊諦は,「感化救済事業に従ふ ものは,多く世の所謂篤士家で,近代の教育学,心理学,

医学等に通ずるもの砂なく,又社会問題・児童問題に就 いても,系統的研究者が,比較的に勘少であった」と

し,阿部はこの新しい事業の教育学における「第一人者 19)」であったとした.この菊地は他方,従来の児童研究 は「児童を社会的事実として,社会的に,具体的に観察 研究することを疎に」してきたとし,「其社会的事実を 明にし,且其教育的研究を完成しよう2°)」との目的で

r保護児童の教育的研究』(1922年)を出版している.

阿部の事実にもとずく科学的研究はこうした時代の隆勢 を背景とし,またそれを導くものであったのである.

 阿部の科学的研究方法は,確実な資料にもとずく数量 的統計的方法を駆使することに一つの大きな特色があっ た.阿部は「確実なる事実に立脚することなしに,漠然 と常識的」に対策をたてることを批判し,教育研究者は あくまで「教育の現状に関する確実なる研究調査を必要 21)」とし,「信頼すべき統計資料22)」をもつようにすべ きとした.阿部は教育学研究における伝統や権威に頼る 考えをしりぞけ,つねに真理は証明されなけれぽならな いとする実証主義を堅持したのである.

 阿部はしかし,統計的資料に安易によりかかる研究姿 勢に注意を促がしている.阿部は「研究資料を現在客観 的に測定し得るもののみに限ることは危険である」とし,

「統計的取扱は,特にそれが単なる数字の取扱ひに過ぎ ない場合は,往々にして真理を隠蔽し,虚偽をかくまふ 結果となることがある23)」と述べ,数量的実証主義にお ける「反省的思索24)」の必要を説いたのである.阿部は ことのほか教育研究における批判的精神を重視したので

あった.

 ② 比較教育制度史砥究

 阿部の数量的実証主義は教育制度史研究に見事に反映

された.

 ではなぜ阿部は教育の事実のなかでも教育制度を研究 の主要な対象にすえたか.阿部が教育の科学的研究方法 を開拓し,教育制度に研究の主要な対象をすえたのは第 一次大戦を境とする時期であった.後に阿部は世界大戦 を境とする世界の教育の動向を次のように総括し,教育 制度研究の意i義に触れている.

 「戦後に行はれるべき社会的政治的改造の最善の基礎  は,結局よき教育制度にあるといふ認識が,多くの国  々の教育改革の出発点をなしてゐるのである.この点  を眼中に置かないで,徒らに改革の細目に捉はれると  きは,大戦に依って惹起された教育改革の真の意義を  見失ふおそれがある.25)」

一80一

(7)

 このように阿部は教育改革を根本的に規定するのは教 育制度の改革であると捉えていたのである.

 阿部が教育改革のための教育制度研究をすすめようと するとき,その方法のひとつは教育制度の発達史の研究 であった.阿部は教育史研究を教育の科学的研究の重要 な基礎とみなした.阿部は次のように述べる.

 「私の見解からすると,教育科学建設の手がかりは,

 教育史の研究にあると思う,教育史観の確立なしに  は,教育科学の建設は不可能に近いとさへ考へられ

 る.26)」

 こうして阿部は現在の教育制度の改革のために,その 沿革を説示する研究にとり組むのである.

 阿部のこの教育制度史研究は教育思想史研究が圧倒的 に多かった当時の教育史研究にあって全く異色的存在で あった.こうした阿部の研究方法はおそらく阿部の教育 学に少なからぬ影響を与えたカバレー(E.P. Cubberley)

の歴史研究によっているものと思われる.カバレーは,

教育についての理論の歴史ではなく,むしろ教育の実際・

進歩・組織の歴史を示すという観点から教育史をあんだ のである.27)

 阿部の比較教育制度史研究はなによりも日本の教育制 度の発達史の究明のための準備であった.阿部は日本の 教育制度が欧米の影響のもとに創出されてきたからこそ 比較研究が必要であると認識した.阿部は日本の教育制 度の「由来を明らかにして,外来の無用な教育的伝統を 排除28)」することに心がけたのである.

 こうして阿部は,近代日本の教育制度形成においてモ デルとなった国々の教育制度の展開を把握すべく,とり わけ否定的モメソトを与えたプロイセン;ドイツの教育 制度を中心にフランス,イギリスのそれを分析した.そ して今後の日本の教育改革の指標をえる目的でアメリカ の教育制度の展開の分析を重視した29).それはたとえぽ 師範学校用検定教科書として書かれたr新編教育史』

(1930年)の「緒言」で阿部が,現今の教育を理解し,

これを批判し,将来の発展に対する指針を見出すために は教育の制度的変遷を明らかにしなけれぽならないと し,その見地からして「従来,比較的なおざりにされて いたアメリカの教育に注意を払った3°)」と記している点 によく示されていると思われる,阿部は,「我が国の学 校系統は,その外形に於てアメリカの学校系統に最も近 いものであるが,我が国の小学校及び中学校教育には尚 多分にヨーロッパの教育的伝統を存している」とし,

「我が国の学校系統の形式とその教育の内容とを一致さ せる為には尚多くの改革を必要とするであろうが,その 場合よき参考資料を供給するものは,実にこのジュニア

・ハイ・スクールの運動である31)」と述べているのであ

った.

 こうした理論的基礎づけをもとに阿部は日本の教育制 度史を分析していく.阿部は,明治初年の中等教育が,

「我が中学校教育発達史に於て如何なる意味を有するか を明らかにする32)」ことを目的とする研究において,

「中学校教則大綱」(1881年)を「中学校の制度上に於け る地位に適した教育の任務を明示したこと,中等教育に 十八歳までを含ましめて之を前後二期に分ち,そこに豊 富なる学科目を採用し,且つその課程を分化したこと」

とし,それを「今日のそれに比してむしろ進歩的のもの であった33)」と評価した.この研究については,「画一 教育が明治教育の弊の如く看倣すのが今日の通念であ

るが,……ここでは今日の画一打破の声を前にして価値 勘少ならざる試みが現に行はれていた事34)」が明らかに

されているとして,阿部の教育史に学びそこから改革の 方途を探ろうとする姿勢が注目されたのである.

 阿部は,教育制度史研究において社会階級による教育 の型の問題26)を一つの大事な軸にすえようとした.そし てこの方法は学制改革私案を生む重要な理論的基礎をつ くった.しかしこの方法はなお多くの欠陥を残し,とり わけ早世のためもあって日本との比較教育制度史的考察 の応用にまではついに及ぼずに終った.この点の問題性 については後に改めて検討したい.

 第3節 社会と教育の関連把握

 阿部は教育改革の基本的方向を,教育を社会に如何に 適応させるか,また教育が如何に社会を指導するかとい う線にそって考察した,阿部はr教育改革論』(1937年)

の序で自らの研究の中心問題を次のように語っている.

 「我が国の教育を如何に改革すべきか,無用の伝統を  排して,我が国社会の変化に如何に教育を適用させて  行くか,又移り行く社会を教育に依って如何に指導す  べきかの問題は,私の十数年に亘る大学生活の中心問

 題である.35)」

 阿部がこのように教育を対社会との関連で捉えようと

したのは,従来の教育学に対する批判が働いてのことだ

った.阿部は,社会生活の変化に応じて教育を変化させ

ることの出来なかった原因の一つに「従来の教育学の無

力」をあげ,その理由を「余りに抽象的普遍的な人間を

対象と36)」してきたからだとした.また高等師範系の教

育学は「教育といふと教室内の事柄だけ」を扱っている

と指摘し,むしろ「教育といふものは社会の営むファソ

クションだ37)」と述べ,教育学研究の視野の拡大を主張

した,阿部の唯一度の教育学概論の講義として貴重なテ

キストとなったr「教育学概論」講i義』(1936−1937年)

(8)

で阿部は,「モット教育ハ生活へ,社会的ナ状態ト関聯 シテ考ヘネパナラナイ」とし,フランス革命,ロシア革 命そしてファシストの運動の例をあげ,教育が「教育者 ト被教育者間二於ケル単ナルpersonalナ干係」ぼかり でないと述べ,「政治的努力二何如二支配サレルカバ,

極ハメテ明瞭デアル38)」と語っていることからも,その 点は明らかであろう.

 こうして阿部は教育を学校教育に限定せず,ひろく文 化・社会との関連で教育を捉え,近接諸科学との関連に 注目を払った.経済学・法律学・自然諸科学等,教育に 関連する科学を総動員して編集を試みた岩波の『教育学 辞典』は,阿部のこうした方法観が具体化されたものと 捉えてよいであろう.

 しかし阿部の社会に対する把握は必ずしも科学的であ るとはいえなかった.確かに阿部は,社会に対する把 握の必要を説いた.さきの『「教育学概論」講義』の中 で,教育の目的とかかわって「具体的ナ目的ヲ定メル場 合ニモ教育ヲ論ズルモノハーツノ社会観ヲ持タネバナラ ヌ.少クトモ来ルベキ社会二対シテーツノ見解ヲ有セネ バナラヌ39)」と語る点では,阿部の社会に向ける目は強 烈なものがあろう.しかし阿部の社会把握はその意志の 表明とは裏腹に十分とはいえなかった.阿部は当時の 社会を「産業社会4°)」と規定し,それを昔のアテネ・ス パルタ社会にみられた「静的社会」に対する「動的社会

41)

vであるとした.こうした社会把握は,教育の階級性 や社会体制という点に対しての本格的な検討を回避させ てしまう要因となっていくものであった.

 第4節教育政策と教育科学

 すでに述べたように,教育の事実を研究の対象にすえ ようとする動きは一つの時代的傾向であったが,その多 くは人間の意図的形成のための教育方法上の法則性の把 握を目的とするものであった.しかし阿部の研究は教育 改革の基礎をあきらかにするという,教育政策の確立の ための教育の事実研究である点でこれら研究と趣きを異 にした.阿部は教育制度は教育政策によって有力に左右 されてきたことを次のような表現でいいあらわす.

 「この制度化された教育は一方教育思想家の所説に依  って動かされて来たと同時に,他方絶えず時の教育当  局の見解に依って有力に左右されて来たのである.42)」

 阿部は教育政策が重要な役割を担う以上,その決定は

「政党や個人の思ひ付きに依って43)」左右されてはなら ないとし,「教育政策を樹立するに当っては,遠き将来 のことを考慮に入れるのが極めて必要である44)」とし

た.

 阿部はこの教育政策の決定およびその批判のために機

能する「学校調査」の意義に触れている.阿部は,現代 の学校調査の特色を「単に現状を記述し,分析し,測定 することでなしに,将来に対して建設的提案をなす点に 存する」とし,「この点が,普通の学術的研究と学校調 査との区別される点である45)」とした.そして「初期の 学校調査は,学校能率の評価に重点を置いたが,最近の 傾向は,教育の現状を評価するばかりでなく,教育政策 の決定に必要なる事実を提示し,説明せんとする」とと もに,「教育政策批判の基礎となる事実を発見45)」する こともまた重要な機能になりつつあると述べる.先にあ げた「小月小学校外三校学校調査」は,現状の記述にと どまり建設的方策について何ら提案をなしえない研究が まだ多い中にあって46),この目的に意識的に応えようと 試みたすぐれた例であった.

 しかし阿部の教育政策のとり扱いは,その合理的遂行 という観点から行なわれ,その樹立の主体たる国家の本 質把握およびそれとの対抗関係にある教育運動との関連 を十分に考慮したものではなかった.

 以上述べてきた幾つかの方法上の弱点については,阿 部の「教育の機会均等」概念の検討の中で改めて論じて いきたい.

第2章教育制度改革論の理念

 第1節 学校制度と「教育の機会均等」

 阿部の教育制度改革論の中心理念は「教育の機会均 等」であった.阿部はそれをとりわけ学校制度改革に視 点をあて論じた.本節は彼の学校制度史研究を概観しつ つ,「教育の機会均等」概念を検討する.

 (1)学校系統と社会階級

 阿部は学校系統に歴史上二つの注目すべき型があると し,それぞれヨーロッパ型とアメリカ型に区分した,阿 部は,ヨー一 Pッパ型がどのようなものであるかは歴史が それを証明するとし,そしてそれが今日の型を規定した

とする.すなわち,「学校は下から発達したのではなく」

「上から発達した」とし,「教育の発達は余裕の産物で あ」り,「最初に教育を組織化し,学校を発達させたの は,余裕をもった階級であった」と述べ,さらに次の如

く記している.

 「ヨーロッパに於ては,先ず貴族・僧呂等の階級の必  要から学校が発達し,次いで市民階級の為に,最後に  一般庶民の為に学校が組織された,中等学校及び大学  の系統は,貴族・市民階級等の教育機関を代表するも  ので,一般庶民の為の小学校が制度化される以前(十  八世紀以前)に,既に一定の組織と伝統とをもってゐ  た.その結果,小学校が発達するやうになっても,中

一82一

(9)

 等学校は之とは別個の系統として存在することになっ

 たのである.47)」

 ヨーロッパ型の学校系統は,小学校は「平民若もくは 賎民の学校48)」であり,中等学校以上は「上層階級の子 弟の教育49)」でありジ両者に連絡はなく,別個の学校系 統をなしたとした.つまり階級学校を形成したとする.

しかし近年,有為な者に自由進学の道を与えようとする 統一学校運動が起り,教育の機会均等の一歩をすすめた

とした.50)

 これに対しアメリカにおいては,初期にはイギリスの 模倣もあったが,「デモクラチックなアメリカに於ては,

ヨーロッパ型の学校系統では,その国民の教育的必要を 充分に満たすことが出来な」くなり,18世紀半ぽにアカ

デミーが,1821年以降ハイ・スクールが起こり,ここに

「始めて一系統の学校系統をもつに至った51)」とした.

 こうして阿部は,ヨー一 Pッパ型は「児童の教育の機会 は,その所属する社会階級の如何に依って著しく異る」

が,アメリカ型は「制度上,凡ての児童に平等に与へら れてゐる5°)」と結論づけたのである.

 阿部は学校系統の問題をさらに教育の目的や内容との 関連で論じた.阿部はヨーロッパ型には特有の「トラデ ィション52)」がつきまとっているとし,たとえぽ小学校 は「一般国民の教育であるから,其の教育には一定の制 限があるぺき」とする考えがあるとし,次の如く述べて

いる.

 「一般国民はさう物識りになってはいけない.余り考  へ過ぎたり,物を識った国民としては危険な国民であ  ると云ふ考へ方が,十八世紀から十九世紀前半のヨー  ロッパの所謂小学校なり国民学校なりを支配した一つ  の考へ方であります.52)」

 阿部は,ヨーロヅパ型は現在の階級社会を維持する機 能をはたしてきたと考えたのではないか.これに対しア メリカ型は,学校機能を「被教育者の側から」定義する 思想を有するとした.すなわち阿部は,「アメリカ合衆 国に於ては,六・三・三組織に依る教育の改造に伴っ て,児童期の教育的必要に応ずる教育を初等教育とし,

青年期の教育を中等教育とする見解が有勢になって来た

53)

vと述べ,それは小学校と中等学校の目的の同一にお いて証明されるとする.阿部は「全国教育協会」Natio・

nal Education Associationと「中等教育改造委員会」

Comission on the Reorganizatioll of Secondary Edu−

cationが規定した小学校と中学校の目的規定には「性格 の発展」「基本的知識の修得」「健康及び身体的能率」等 があり,実質的に異なるところがないとし,目的の同一 において始めて小学校と中等学校は「程度の差」となり

「種類の差54)」でなくなることができるとした.阿部は,

学校系統の合理化は学科課程の目的の合理化・統一化で もあることを論じたのである.次項で検討する日本にお ける学校制度の矛盾の指摘はまさにこの観点に立脚して 展開されていくのである.

 ② 日本の学校制度

 阿部は,「学制」がわが国の学校系統を立てるにあた り「小学校から大学に至るまで連絡ある一つの系統とし たこと55)」を高く評価した.それは「デモクラテヅク」

で「教育の機会均等の見地からみて,合理的である」ア メリカ型の導入であるとし,次のように述べている.

 「アメリカと同じ精神で,小学校を総ての国民とし  て,つまり一部の所謂貧民の学校でなしに,総ての国  民の学校として,それから直ぐに中等学校に接続する  やうになってゐるのであります.56)」

 学制の規定は,「教育の概念は児童の属する社会階級 に依って左右せらるべきものでないと云ふことを,明白 に示したもの55)」であった,とするのである.

 しかし阿部は明治以降の学校制度発達史の研究を通し て,現在の学校制度を「外型上はアメリカ型」であるに もかかわらず「少し内容的に考へますと,我が国の学校 系統は寧ろアメリカ型とヨーロッパ型との混合型56)」で あるという評価をくだした.そしてこうした認識から

「無用の伝統を排し42)」た改革の必要を提起するのであ

る.

 阿部はこのヨーロッパ型の混入を中等教育の発達史を 通して明らかにする.中等教育の上級学校の予備教育化 の問題は戦前からの大きな問題であったが,阿部はこれ を歴史的推移にそいながらその原因を解いた.阿部は中 等教育の二重の目的一高等普通教育と実業教育一のう ち,実業教育の推進が失敗に終った主な原因を「当時の 尋常中学校が事実上,上級学校の予備校としての任務の みを果していた所に存する57)」とし,そのことは法規改 正の歴史の上において証明されるとした.阿部は1886年

(明治19年)の中学校令の目的規定「中学校ハ実業二就

カント欲シ又ハ高等ノ学校二入ラソト欲スルモノニ必須

ノ教育ヲナス所トス」を,「その教育の程度に於て実業

に就かんとする者,更に進んで高等の学校に入らんとす

る者が,等しく中学校に入学する」目的にかなうものと

し,「我国教育制度の構造からみて極めて合理的のもの

であった58)」と評価した.しかし政府は1899年(明治32

年)中学校令を改正し,その目的を「中学校ハ男子二須

要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以テ目的トス」と規定し

た.阿部はこの目的規定の改正こそ「その後に於ける中

学校教育の禍根59)」であるとした.すなわち,「高等普

(10)

通教育は我国の中学校とは伝統を異にするヨーロッパの 中等教育の目的とする所であって,それは主として高等 専門教育の準備として必要なる一般陶冶を意味した.随 って,それが完成教育だというのは,高等教育の予備教 育が完成するの意味であって,社会の実務に就くに必要 なる教育の意味するものではない.6°)」と,阿部は述べ

た.

 こうして阿部は従来の中学校が「上級学校に進む者の 必要とする教育のみを授けて,社会の実務に就かんとす る者の教育的必要を等閑に付して」きたことになったと した.ゆえに「学制改革の最も重要なる「つの問題は61)」

「この両者の教育的必要を如何にして満たす61)」かにか かっているとするのである.

 ヨーロッパ型の混入の問題とかかわるもう一つ重要な 問題に高等小学校の存在の評価がある.阿部は高等小学 校の性格を明確にヨーロッパ型と規定していないもの の62),「高等小学校といふ袋小路を生ずるに至った63)」

とし,またそれを「盲腸見たいなもの64)」とした.また ヨー一 Pッパにおける小学校の系統を同様に「いはば一つ の袋小路であ65)」ると語り,高等小学校を「純粋なるア メリカ型と異る点66)」ともする.こうした指摘は高等小 学校の存在の矛盾を衝くものであろう.学科課程との関 連においても,「尋常小学校と同種の教育を反復する」

とし,これでは「経済的にハソディキャップをもつ者 に,現行高等小学校の如き教育を強制することが,彼等 の境遇からみて,果して適当であろうか否かは,十分問 題にされなければならぬ67)」点であるとした.

 こうして阿部はヨーローパの影響を排する方向で日本 の学校制度改革を構想していくのであった.

 (3)学校制度の編成原理としての「教育の機会均等」

 こうして欧米と日本の学校制度発達史の研究を通して 阿部は現行の学校制度の改革を論じるが,次にその中心 理念であった「教育の機会均等」について検討してみ

たい.

 阿部は,教育の機会均等の規定をまず「父兄の社会的 地位及び経済事情の如何に拘らず,凡ての児童及び青年 に,平等に教育の機会を与へよといふ68)」こととする.

阿部は,教育の機会は社会的身分・経済的地位によって 差別されてはならないとする.この点とかかわって阿部 の無償制の考えが吟味される必要がある.阿部は能力あ る者の進学のために中等学校及び高等学校の無償制を要 求する.しかし教育の機会均等の理念からみて無償制だ けではなお不十分であるとする.阿部は,「青年の得る 収入は家計の助けとなり,それなしには暮して行けぬ沢 山の家庭がある」とし,「教育の機会均等を保証する為

には,有為な青年をもちながら,貧困の為その教育を継 続させることの出来ない家庭に対して,国家が財政的援 助を与へなけれぽなら」ないとした.そして給費制度を 設け「奨学金の外に,家族の扶養料69)」をも含めること を提言した.これはかなり徹底した財政援助の規準であ

り,無償制の根本理念に立ち入る考え方であろう.

 この無償制の考え方は,阿部の義務教育を「権利とし ての教育」ととらえる発想と密接に結びついているよう に思われる.阿部は,「最近に於ては,義務教育は国家 が一一方的に国民に負わせる義務とばかり考えられなくな った」とし,「この程度の教育は国民の凡てが之を受け る権利があり,国家がこの児童の教育権を尊重し,之に 対して国家自ら一定の義務を負うことに依って,所謂義 務教育の効果は始めて全きを得る7°)」と述べているので あった.阿部は以前から「教育を生得の権利とみる考 方」(r小さい教育学』1927年)を支持し,子どもの教育 権保障につながる意見を述べていたが,ここに至って明 確に「児童の教育権」(1936年)の用語を使用した.日 本が急速にファシズムに傾斜していく時期であることを 考慮するとき,阿部のこの認識の深化はとりわけ特筆さ れてよいことのように思われる.

 こうした阿部の教育の機会均等の考え方は,教育は少 数の人々によって独占されてはならないとする,つまり 学校制度は多数者の教育的必要によって満たされなけれ ばならないとする信念によるものであった.すなわち,

阿部は「国民大衆教育制度の確立」を意図した.阿部は

「我国の学校系統及び各段階の学校教育の内容は,上級 学校に進む老には,一応合理的に出来ている」が,「国民 大衆の教育という見地からみると,決して満足すべきも のではな71)」いとする.「その教育が上級学校に進む少 数者の教育的利益に依って著しく支配され,国民大衆の 教育的必要を満す上に於て遺憾な点を蔵する72)」と阿部 はいう.こうして阿部は,「この不合理を匡正し,徒ら に上級学校に依って支配されない国民大衆教育の体系を 確立することが,如何にして可能であるかの問題が考慮

されてしかるべき71)」と論じるのである.

 またこうした阿部の教育の機会均等に対する考えに は,国民の経済的社会的不平等をもたらす要因を教育の 機会均等を通じて克服しようとする意図がうかがわれ る.阿部は,教育が上流階級の特権でないという考えの 中には「現在社会的に又職業的に互に分離している国民 を,教育は一致結合せしめるものでなけれぽならない73)」

とする考えがあると説明を加えるとともに,学校の任務 を次のように語っていた.

  「学校ト云フ環境ノ中ノ色々ノ『バランス』ヲトルヤ

一一

W4一

(11)

 ウニナリ,ソノ後ノ子供ヲシテ自分ノ所属スル社会集  団ノ持ツ色々のlimitationカラ脱却サセル.ソシテ,

 モツト広イ環境ノ中二生活スルヤウニスル.74)」

 先の「国民大衆教育制度」の確立にむけて阿部はいく つかの改革課題を提起している.

 第一に,職業教育を重視すること,なかんずく働く青 年大衆の教育的必要に応じる教育の確立をあげることが できよう.たとえぽ阿部は義務教育延長の問題とかかわ って,それを「青年大衆の教育といふ見地に立って」考 えるべきとし,「中等教育と職業教育を中心75)」にする 教育を義務の延長にあてた.あるいは高等小学校の生徒 に対しては,将来の生活を考慮して「職業生活を中心と する学科課程の構成67)」を提起した.この職業中心の学 科課程は「地方の情況や生徒の生活の必要に合致させ

る76)」という「生活」概念を導入させるものであった.

 第二に,阿部は学校の卒業に伴う「特権」の廃止を要 求する.阿部は,「学校卒業の故に,直に特権を与える ことは,独り学校生活を毒するぼかりでなく,優秀な才 能をもちながら上級学校に進むことの出来ない者に,社 会生活上不当のハンディキャップを与え,適材適所主義 の実現を防げる77)」とした.

 そして第三に,阿部は児童の心身の発達段階に応じる 学校系統改革を論じた.阿部は,「中等教育は児童の心 身発達の転期に応じて,生徒の色々異った興味や必要が 顕著になり,その異れる興味や必要を満足させる為に,

学業の分化が必要になった時期に於て開始せらるべき」

と述べるように,「学校系統をどこで区ぎるかの問題に 就いては,生徒の心身発達の段階に深く注意する所がな ければならない78)」とした.

 このように阿部の教育の機会均等概念には今日に受け つがれるべき多くの民主的内容が含まれていたが,一方 真に「国民大衆教育制度」を確立させていくには矛盾と なる弱点ないし問題性が同時にひめられていた.阿部に おける能力主義批判の不十分性あるいは国家主義への 傾斜がそれである.この点は節を改たにして検討してみ

たい.

 第2節国家と教育

 (1)能力主義批判の問題性

 阿部は,教育の機会均等を国民の社会的経済的地位に よって教育は左右されない意味としてまず確認した.阿 部はそこでさらにつづけてこの教育の機会均等の要求は しかし「すべての児童及び青年に同一の教育を与」える ものではないとする.阿部は,かつては「児童及び青年 の能力の差に依って,その教育を異にするのは,甚だし くデモクラシーの原則に反すると考」えられ,「一様に

教育することを機会均等と考へた」が,「人々に個人差 の存することは蔽ふべからざる事実であり,又個人差に 応ずる教育を施すことが,人々の天分を最もよく伸す所 以であることも否定することの出来ぬ事実である」と し,また実際社会も「各種の人物を要求する」とし,総 括的に次のように教育の機会均等を規定した.

 「教育の機会均等の要求は一様の教育を要求するもの  ではない.父兄の職業・社会的地位及び経済事情の如  何に拘らず,凡ての児童及び青年に,その個人差と生  活の必要とに応ずる教育の機会を平等に与へることを

 意味する.68)」

 阿部のこの「個人差に応じる教育」という主張は,従 来の画一的で形式的な注入主義の教授に対するするどい 批判を意味する点で大事な指摘である.しかし国家主義 的経済発展へ教育の貢献が要請されていく時代状況を考 慮するとき,この「個人差に応じる教育」が能力主義教 育の思想に如何に批判的内実を示せたかは重要な問題と なってくる.すなわち,個性化の原則が,個人の能力を 固定的に捉えることによって逆に不当な差別に転化して しまう,という点に対し阿部がどれほど自覚的であった かということである.そこでもう少しこの点の吟味を続 けてみよう.

 教育の機会均等原則によって保障される教育は個人差 に応ずるものでなけれぽならないとする阿部は,指導者 養成にかかわる学校の任務を論ずるとき,そこに能力主 義的教育の主張へと転化する契機を少なからずもってい た,阿部は優秀な児童の教育を特別に重視し,「優秀児 童は特別の教育を受け,常に彼等の全力をあげて活動す る様にし,又彼等の成熟の許す限りに於て,出来る限り 速に進級させて行くべき」と述べるとともに,「吾々の 学校に於て真に貴重なる児童一国家の将来に対して最 も価値ある児童は平均以上の優秀なる児童である79)」と 言い切っていた.阿部の個性化の原則は「能力に応ず る」教育の保障という点できわだつ特徴があったのであ る.阿部は「授けられる学科目の内容は,児童の能力に 応じてもっと融通のきくものとならねぽならない」と述 べる.そして能力に応ずる教育観は,能力別クラス編 成を基本的に認めることになる.阿部は,「児童の生活 年齢を基礎として学級を編成する現在のやり方を捨て て,児童の精神年齢によって学級を編成する様に進まね ぽならない8°)」とする.そして能力に対する阿部の把握 も知能検査への信頼とかかわって測定可能な知能という 面への強い傾きを示した.すなわち,阿部は,従来の

「記憶の試験」は「生徒の能力の程度を精密に示すもの

ではない」とし,この点に関しては「精神検査及び教育

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