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橡学生スポーツの現状とその改革

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Academic year: 2021

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参考文献

「ベースボールと日本野球」佐伯和夫 中公新書

「高校野球の社会学」

「甦れ、日本のスポーツ」

「紳士道と武士道」

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終章

 学生スポーツを変える。このことは非常に大きなテーマであるために、 絞ったものになってしまったが、私の言いたいことは書けたであろうと思 う。自分自身、高校生のときはただ現状がベストであると考えていたため に、高校野球の異常さ、そして、社会のシステムの問題点に気づかずにい た。しかし、大学4年になって就職活動をやってみると、2,3年の遅れ が致命的な欠点になってしまうことがわかり、ようやく問題点に気がつい たのであった。これまで様々な方面で日本社会に対する批判が行われ、変 革の機運も徐々にではあるが高まりつつあると思う。今回、スポーツ界か ら見たのであるが、ひとつ言えることは、確実に今の日本の社会は、落伍 者(スポーツ選手は落伍者ではないが)を見捨て、復活する余地のない、 非常につまらない社会であるということである。これで、やりたいことを 見つけて、しろというのは無理がある。もっと、社会が寛容になる必要が あるのではないか。    卒論を書いていて苦労したことは、拾った資料が次から次へと捨てられ   ていくことである。中には、すでに文章化されたあとに、趣旨に合わない   からといって、抹消されるものもある。作成しているときは、全体像が見   えてこず、あとになって全体を見たときに合っていないことに気づくので   ある。そのときは、削除するかどうかものすごく悩む。でも、やはり合っ   ていないものは、あとになって困るだけなのである。    卒論はパソコンが便利である。でも、フロッピーに保存することを忘れ   たのは痛かった。一回、途中でパソコンが原因不明のバグを起こしたとき   に、全文が消去されてしまい、非常にあせった。まだそんなに書いていな   いときだったから良かったが、あれでもし提出期限ぎりぎりだったらと思   うと、背筋が凍る思いだ。    この卒論は商学的な手法によるアプローチの仕方ではなく、社会学的な   アプローチの仕方になってしまった。しかし、自分のやりたいことをする   ことができたので、非常に満足している。

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   とは、大金をつかむと同時に社会的な名声をもつかむことである。確か    に、ごく一握りの人間のみであるが、それに賭けてみてもいいのではな    いだろうか。今の社会は、若者にやり直す機会を与えない社会であり、    若者に希望を持つことを許さない社会である。それを変えない限り、ス    ポーツ界のみならず、日本という国の前途は明るくならない。

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第三章

結論

第二章までに見てきた結論をここに箇条書きする。  ⅰ)高校野球のシーズン制  ⅱ)社会の側の変化  ⅲ)監督・コーチの地位確立  ⅳ)教育改革     ⅰ∼ⅳまでの提案が実現されたならば、学生のスポーツ事情に相当の    変化が生じるはずである。われわれが最も考えなければならないのが、    学生のスポーツできる環境をどう整えるか、ということである。学生ス    ポーツの環境を整えることは、長期的に見れば日本のスポーツを強くす    ることにつながるであろう。     しかし、ⅰ∼ⅳまでの提案を実現するためには、外部の協力、つまり    社会の協力が必要である。学生は、自分自身で変革できない。というよ    りは、学生の社会も、大人が作り上げたものであるから、大人が学生の    社会を変革させようと思わなければ、決して、学生の社会は変わらない    のである。そのためには、学生に対する社会の考え方を変えなければな    らない。     ここで言いたいのは、学生すなわちアマチュアに対しての意識を変え    てほしいということである。それは、競技の実力と、人格上の問題は別    であるということである。アマチュア選手だからといって崇高な目標が    あるとは限らないのである。そして、崇高でないと言って非難すること    はできないのである。もっと選手が自由な精神を持ってスポーツに打ち    込めるように、まわりも旧来のアマチュア観を押し付けることのないよ    うな雰囲気作りをしてほしい。          スポーツをすることにどこまで価値があるのか、という疑問があるか    もしれない。学生の本分は勉強であるというのは、確かであろう。これ    まで、勉強をやめてまでスポーツに打ち込めと述べてきたのではなく、    もし、スポーツに興味があったり、才能があるのであれば、打ち込んで    みる時間を作ってもいいのではないか、そして、そうするには環境が整    っていない、と言ってきたのである。現在、スポーツの商業化がやっと    世間的に認知されつつある。プロ野球選手やプロサッカー選手になるこ

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   確かである。     やはり、現在の仕組み自体を変える必要があるのではないだろうか。    たとえば    ⅰ)スポーツ関連学部の設置     体育学部はあるのだが、たとえばスポーツマーケティング学部やスポ    ーツ心理学部などスポーツ関連の学部を設置してはどうだろうか。スポ    ーツ選手が競技をやめた後、体育教師にしかなれないのではなく、その    経験を生かすことができるように、学生のあいだから勉強する環境を整    えることが必要だと思われるからである。こうすれば、競技生活中に手    に入れた経験や人脈を活用することができるはずである。    ⅱ)飛び級制度     スポーツをやっていたことによって、少しの遅れがまったく取り戻せ    ない仕組みになっている今の制度を、頑張りようによっては取り戻せる    どころか、追い抜ける制度、つまり飛び級制度を確立するしてはどうだ    ろうか。現在飛び級制度の導入が一部では行われつつあるのだが、それ    を条件付き、つまりスポーツ選手に限って(他の芸能でもいいのだが)    認める、というものである。そうすれば、勉強とスポーツの両立ができ    そうになくても、もちろん両立するのがベストだが、スポーツを諦めて    しまう割合はぐっと減るのではないだろうか。     教育改革が実現すればすべてが変わるということはおそらくない。学    生が変わるためには、企業が、社会が、世の中が変わらなくてはいけな    い。でなければ、教育、学生というものが世間からはずれた異質なもの    になってしまいかねない。こどもを変えるにはまず大人からである。    

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     ないので、ここの評価方式が他大学にも広まるならば、スポーツ選      手に福音となるだろう。     ⅳ)京都大学(法学部)他の大学では、海外の高校の卒業者に対し、      論文テストで評価して優秀者を入学許可する別枠を設けている。高      校の成績と活動振りに加えて、論文の発想を見れば、おおよその人      物の見極めはつくはずと。同様に、大学入学後も競技を続けるスポ      ーツ選手に対しても、入試の成績に加えて論文テストを含めて審査      したらどうであろうか。     さて、次はもうひとつ違った意味での「別枠制」である。それとは表    裏の関係にあるので「逆の別枠制」と呼べば適当であろうか。     日本ではあまり知られていないようであるが、アメリカでも有名大学    に入るためのすさまじい競争がある。ただアメリカの大学も社会も、選    択肢が多いので、日本並の競争が一部のグループに限られている違いが    あるに過ぎない。また、大学側も学生が特定の家族背景や、特定の地域    出身者に偏らないようにするために、幅広い個性の人材を入学させる方    針であると聞く。したがって、筆記試験(共通一次試験に相当)で良い    成績をとることは、入学の必要条件ではあるが、充分条件ではない。     このように、筆記試験以外の評価点が入ると、当然合否判定基準があ    いまいになり、最悪の場合、それに不明朗な点も出てくるかもしれない。    現に、東部の有名大学、中でも理工系学部へのアジア人の進出がめざま    しく、その割合が17%前後に抑えられているという話も伝わっている。    私は否定的(批判的)なニュアンスで書いたが、別の面から見れば、ア    ジア人学生も、特定大学に集中せずに広く散るべきだという主張である    と受け止めることもできる。これが私のいう「別枠制」である。要は、    特定のグループから偏重して学生を採らない制度ということである。     「逆の別枠制」が、規則までになっているはっきりとした例もある。    それは、ウェストポイント(陸軍大学)など各軍の大学に入学するため    には、通常の評価法―高校の成績と共通試験の成績―の他に、必ず地元    選出国会議員の推薦状が要る。そして、一人の議員は新入学者も含めて    在学生が4人を超えない枠でしか推薦できない。つまり、一選挙区から    は、4人までしか陸軍大学に在籍できないのである。さしあたり、東大    あたりで、この「逆の別枠制」を採用して、特定の高校出身者や東京出    身者の頭数に上限を設けてはどうだろう。             このように既存の制度を活用して、現状を変えることもできるという    ことである。しかし、本当の意味での抜本的な変革になるかどうかは不

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第四節 教育改革

ここまでスポーツに対しての改革であったが、やはり学生のスポーツを 変えるためには根本を変えねばならない。それが教育改革である。 根本的に初中等教育の目的は、独創的教育をすることではなく、生徒が 一個の独立人として身につけるべき一般教育を施すことである。専門教育 は、アメリカならなおさらのこと、大学以上の教育機関で行われ、そこで 独創性が養われる。独創性というものは、大学が独創的な研究を行い、個 性豊かな教授に触れることができるなら、自然に学生が身につけていくも のだ。同時に大学側も、学生が一定のタイプに偏らないように、いろいろ な背景とキャリアを持つ高校生を入学させるようにしている。スポーツは、 そういうキャリアのひとつとして、東部のアイビーリーグを初めとする名 門大学でさえ評価の対象としている。 こういう配慮は、臨教審の抜本的改革とやらを待たなくとも、現行制度 の枠内で実行できる。それは「別枠制」というものである。次は「甦れ、 日本のスポーツ」からの抜粋である。       「別枠制」     ⅰ)有力国立大学の医学部では、入学時から自大学の教養課程(二年      間)を終えた学生の他に、他大学からの編入学者を進学課程(四年      間)に入る時点で一定数を受け入れている。同様の考えで、他の学      部もスポ―ツ選手を含めて変化に富んだ経歴の持ち主に対して、編      入学の別枠を設けるならば、いくらか高校生が志望を達する機会が      増えて、スポ―ツをやるゆとりを持てることになろう。     ⅱ)いまのところ、私立大学に限られているが、有力スポーツ選手を      別枠で推薦入学させる制度を、地方の国立大学にも拡大させること      である。ただし、降年や休学を柔軟に適用して、一般学生と同じく、      正規の単位数を取得するまでは卒業させないことで、大学のレベル      を維持すればよい。そうすれば、現在、体育学部や教育学部に限ら      れているスポーツ選手に対して広い分野の勉強機会を与えることに      なる。     ⅲ)信州大学は、入学試験でどれか一科目に超優秀成績をとった受験      者を、総合得点順とは別枠の評価で入学させている。スポーツに打      ち込むと、不得意科目がひとつやふたつできてくることは避けられ

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第三節 監督・コーチの地位確立

コーチの人材が育つ土壌作りがどうしても必要だ。それはコーチが専門 職の職業として社会に地位を得る環境を作ることである。しかし、日本の 現状は、潜在的にプロコーチの人材は得られるにもかかわらず、プロコー チを専門職化する仕組みが備わっていないのである。そこで具体的なプロ コーチづくりの提案をまとめてみよう。 ① 選手時代の経歴に関わらず、選手経験の有無に関わらず、指導力だけ を評価することによってコーチの人材を広く求める。 ② 企業、大学、地方の協会がサラリーマンの平均給料くらいでコーチの 仕事だけでプロコーチと雇用契約する。 ③ 企業がお抱え選手だけによる運動部を改編し、お抱え選手・外部選手・ たしなみ族を有資格会員とするスポーツクラブを設立する。クラブに 企業名を冠すれば現状通りの宣伝効果が得られ、複数のプロコーチを 雇うことができる。    日本にはコーチが必要である。素質の片鱗を見せ始めた選手をレベルア   ップさせる必要があるのだ。日本の音楽界ではそういった手法が根付いて   いる。クラシック音楽は西洋で生まれ、西洋の土壌に育まれ、西洋人の感   情表現の所産であり、いうなればそれは西洋文化の権化と言ってよいであ   ろう。クラシック音楽が日本にもたらされてわずかに百年足らず、しかも   戦争による中断があった。にもかかわらず戦後の荒廃から立ち上がってま   もなく江藤俊哉や園田高広のような大家を生み、最近では小沢征爾や岩城   宏之など世界的な指揮者を輩出している。しかも今日人材の層はなかなか   の広がりをもっている。彼らは海外で芽を出したかもしれないが、基本の   教育は例外なく日本で受けており、たんに日本人の顔をした外国製品では   ない。それは、日本の音楽界には演奏家としては世界的なレベルではない   が、指揮者としては傑出した井口基成のようなコーチの大家たちが優れた   人材を育てたからであろう。スポーツにおいても同様に、素晴らしいコー   チを必要としているのである。スポーツにおいて世界のトップレベルにな   るためにはもちろん素質が重要なのだが、その素質を十分に開花させてや   る指導者も同じくらい重要であると考えるのである。  

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ことである。もちろんいまでも選手本人の心がけ次第で社会でも成功でき るチャンスはある。しかし、チャンスが少なすぎることと、優勝者中心で あることが問題である。アメリカの社会は誰でもいつでも出直しがきく社 会であり、本人の努力次第で機会が与えられる社会である。現実に、大学 は自由に中断を許し、復学を認め、そして単位を積み上げていけば卒業で きる制度が仕組みとしてある。社会でも、会社員、公務員、教職員の区別 なく年齢の違いを気にしないで就職することができる。法律が年齢の差別 による採用を禁じているからである。では日本で人生の目標として立てた 本務の志と、限られた期間だけ打ち込むスポーツの志の両方を持つことが どれだけ許されるであろう。それは社会に一時の脱線を許す許容力がどれ だけあるかという問いである。年功序列といった日本型システムにも問題 があるのかもしれない。いまや日本では、競技スポーツには見向きもしな い学業一辺倒のグループと、学業にはほとんど見向きもしないスポーツ一 辺倒のグループに二極化しつつあるように見える。この傾向に変化を生ぜ しめない限り、競技選手の底辺の掘り起こしには自ずと限界がある。そし て、その変化を学生に求めるのは筋違いである。まず社会が、一時スポー ツに打ち込んで遅れをとった人材を、会社が限られた特定の職場以上に、 学校が体育の教職以上に枠を広げて就職の門戸を広げることから手を差し 伸べてほしいものである。   

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第二節 社会の側の変化

学生スポーツに対する社会の側の見方を変えるべきである。社会は学生 に対して「高校生らしさ」といったイメージを押し付けている。何かを変 えるには一人一人が変わらねばならない。プレーヤーだけでなくそれを見 ている社会の側の変化も望まれるのである。 まず一つに「高校生らしさ」という考えである。高校生らしさとは「正々 堂々」「さわやか」「のびのび」「ひたむきなプレイ」といった言葉で示さ れる。「正々堂々」「さわやか」「のびのび」といった言葉は、現在の高校 野球が勝敗にこだわり、高校生らしさを失っていることへの表明になって いる。「ひたむきなプレイ」も期待されている。日本人の好きな「ガンバ リズム」で、とにかく一所懸命プレイしている姿に感銘する。これは、ど うも下手だけれども一所懸命やっている姿を期待し、それに自分を投影し てプレイを鑑賞するという、一種のカタルシスが働いているのである。ま たその一方で、やはり能力の高い者にはかなわないという「諦め」とも「嘆 き」ともつかない開き直りが存在する。つまり、一所懸命のプレイを期待 する一方で、そんなに頑張らなくてもという矛盾した期待感があるわけで ある。このようにみてくると、社会は高校野球に日本人を見るのではない だろうか。日本人の好きな忠臣蔵を舞台で観るのと同じような感性で、甲 子園という舞台を観ているのである。しかし忠臣蔵が現代の話ではないよ うに、日本は高校生に期待するような「らしさ」を持った社会ではなくな りつつある。大人の社会に無いものを高校生に求めても、それは無理な話 である。もう、高校生に「らしさ」を求めるのはやめよう。最後のバッタ ーが一塁にヘッドスライディングしないとがっかりするのはもうやめよう。 甲子園に出てくる選手たちはほとんどの場合プロを目指しているのである。 プロを目指す選手に余計な足かせは必要ない。社会が勝手にイメージを作 り上げ、それを強制し、選手もそれを意識する。もう必要ないことではな いだろうか。 変革のもう一つは、もっと遍歴を受け入れる社会になってほしいことで ある。それは、キャリアを中断した後で復活する人間や、既成のレールに 人より遅れて乗って走り出す人間に対して、社会がもっと大きく門戸を開 いてほしいということである。つまり、許される選手寿命の間に選手生命 を燃やし尽くせるように、そして燃やし尽くした後は社会に復帰、あるい は遅れてスタートできる機会を選手に与えてやれる社会の仕組みをつくる

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いうのもいいのではないか。   第三は、、運動部間の縄張り意識を取り払ってもらうことである。つまり、 シーズンが異なる二つの運動部に在籍できることを制度化してほしいこと である。下積みや、チームワークはもとより大切なことかもしれないが、 組織としての運動部の目標は、より強い選手を生み出すことことにある。 スポーツが教育の一環であることには疑問が残るところであるし、序列を 守ることなど実際問題スポーツとは何の関係もないことである。運動部は、 最強の実力者から競技に出てゆく原則が通じる世界であるはずだ。   第四は、高校野球部に定員制を敷くことである。そして定員外の高校生  を解放して他の種目への参加ができるよう環境整備することである。 硬式野球 (85 年 11 月現在)    軟式野球(85 年 5 月現在) 校野球部数 球部員数合計 校当り部員数   3629 校   130577 人   34.1 人     696 校    17117 人     24.6 人    全国の高校野球部数と野球部員数を上に示した。          いま、部員数を20 人に制限するだけで、約 5 万 3000 人(硬式のみ) の若者が野球から開放されることになる。他方、50 人から 100 人もの部 員を抱える有名野球校の補欠選手のためにもよいことだ。補欠の補欠で甲 子園に出ても、得るものは野球の二流校で活躍したときのほうが大きいの ではないであろうか。

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第二章

              

第一節 高校野球のシーズン制

 現在の状況において学生が複数の競技をすることは難しい。すべての競 技において通年の練習が必要とされるからである。そこでここでは高校野 球を例に出してその改革を考えてみたい。 最初の提案は、一種目の年間競技期間をはっきりさせて、シーズン制を 確立することである。現行の高校野球は三月の選抜大会から十月の国体ま での長期間がシーズンになっており、しかも夏休みの前半は全国選手権の 予選で八月は本大会と中身も詰まっている。これが意味することは、運動 能力に秀でた高校生が野球部員として全国で約十四万七千人も、単一種目 の野球だけに一年中縛られているということである。それは個人にとって の機会の喪失であり、チャレンジの機会の喪失である。   そこで具体的提案は、春の選抜大会と秋の国体硬式野球種目を廃止しよ うというものである。結果として高校野球のシーズンが四月から八月の期 間にびっしりと決まる。そうすれば陸上競技、サッカー、アイスホッケー から屋内スポーツにいたるまで参加する機会が増え、その中のどれか一つ の種目に野球より秀でた才能を見出す選手が相当数出てくるに違いない。 この改革案を実現するためには、いくつもの関係団体の理解と協力を得な ければならない。   第一は、毎日新聞社と朝日新聞社の協力である。春の高校野球も夏の高 校野球に劣らず伝統があり、毎日新聞社にとって選抜大会を中止すること は面子にかけてのめない話であろう。しかし、日本のスポーツ界の将来を 考えて、どうか夏の大会一本に大同団結してほしい。毎日・朝日の共同後 援、隔年後援、あるいは両者ともに表面から退くことなど実施の方法には いくつか選択があるであろう。高校野球も他の種目と同じく、全国大会は 年に一度でいいはずだ。それだからいっそう重みがある。   第二は、高校球児自身が考え方を変えることである。人生の間口はとに かく広い。そんなに早くから野球一本に絞る必要はないのだ。野球がすべ ての人生ではつまらないではないか。それに野球の選手寿命は長い。少々 遅れようともカバーする時間はある。だから、他の種目に挑戦してみると

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臨んでいた。そこにあったのは、まず巨大すぎるストレス。加えて、失敗を してはならないという過度の緊張であった。野球における失敗とは、相手に 点を許すことを意味する。そのため守備練習ばかりして、打撃練習は二の次 であった。となると、攻撃と言っても、積極的になれるはずはなく、「打つ 」以外の手での出塁を狙ったのだ。当然、打てそうな球が来てもすぐに打っ ては出なかった。ここにおいてもまた、失敗してはいけないという意識が先 に立つ。何より相手投手の失敗を多く引き出すことだ。ボールを多く取って 一塁に歩くほうが確実だし、チームのためなのだ。この隠忍自重の中に、精 神の修養がなされるとの確信もあったのだろう。  日本野球の先駆者、一高のこのやり方は、ひとつのマニュアルとなって、 全国に流布した。野球熱が他の大学へ、中学へ、小学校へ、路上の子供たち へと流れ下るとき、このやり方もまた、それについて流れ下ったのだ。野球 の最後のバリエーションとなった路地裏の「三角ベース」にすら、一球入魂 の精神主義は横溢することになる。現在の少年野球でも「待て」のサインが あり、四球で一塁に全力疾走などはよく見うけられれ、プロもしかりである。 このことは守備についてもいえる。アメリカのベースボールの先駆者の一人 のヘンリー・チャドウィックは「エラーをしないプレーヤーが、いいプレー ヤーなのではない。エラーの数が最も少なかった選手が、最もいい選手だっ たことにはならないのだ」といっている。アメリカでは失敗を恐れずに、ベ ストを尽くすことが重要視されているのだ。勝つことという結果を重要視す る日本とは対照的であろう。   子供たちの遊びから始まり、エンジョイメントの要素を拡大させて大人の 楽しみとし、さらには見る人をも楽しませるエンターテイメントへとアメリ カは育てた。しかし、日本ではスポーツは精神修養の場であり、そこには教 育の一環という一面が色濃く残ってしまったのである。

第四節 問題点

第三節までに見てきたことで挙げられる問題点はこうだ。 1) 学生がスポーツを複数行えないこと。 2) 学生スポーツが日本の社会の縮図となっているにも関わらずそれに目 を向けず、価値観を押し付けていること。 3) コーチ、監督という地位が確立されていないこと。 4) 学生スポーツが社会と隔離されてしまっていること。 第二章では上に挙げた問題点を考えてみたい。

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第三節 土壌

第一節、 第二節で日本における少年スポーツをアメリカと比べながら見   てきたが、この節では日本の少年スポーツの土壌となっていると思われる   考え方を、日米の野球観の違いから見ていきたい。    日本とアメリカの野球における違いのひとつに、アメリカではこのスポー ツを「打つ」ゲームと捉えているのに対し、日本では「守る」ゲームとされ ていることがある。よく引き合いに出される言葉に、「野球をしようと思え ば、アメリカ人はバットを持ち出し、日本人はグラブを取り出す」というの があるが、これは野球に対する日米間の根本的な意識の相違を最も端的に表 したものであろう。  ベースボールはもともと打つゲームだった。投手は最初「打ってください 」と下手から投げていたのだ。だが、ベースボールが普及していくにしたが って、地域対抗・代表選手対抗というかたちになり、勝ちにこだわるように なったことによって、打ちやすいボールを投げなくなったのだ。ゲームによ っては投手が50 球以上も悪球を投げ続けて紛争を起こしたこともある。そ こでボールやストライクの判定の必要が生まれたのである。ストライクのコ ールは当初“Good ball!Strike!”(いい球が来ているではないか。打てよ!) と“Good ball”と付けられていたのだ。さらに三つのストライク・コールで アウトというのも、もはや打者に打つ意志がないということで“You are out” (君にはどいてもらう)が宣告されたのだ。  このように、ベースボールはもともと打つゲームであり、アメリカではま だそのようにして捉えられている。では一体なぜ日本では「守る」「待つ 」ゲームとなったのであろう。  日本のベースボールは、アメリカ人教師が現在の東大の前身の第一大学区 第一番中学の生徒たちに教えたところから始まった。つまり子供の遊びでは なく、エリート校の生徒たちがやるということで普及していったのだ。つま り上から下へのピラミッドであったのである。アメリカの場合が草野球から 始まり下から上へとピラミッドができたのとは対照的である。  日本の野球界を牛耳っていたのは第一高等中学(一高)であった。彼らは 自らのエリート意識に裏打ちされた使命感を持って、ベースボールに取り組 んでいた。日本が西欧諸国に伍して立つには、まず相手からバカにされては いけないと、彼らは野球ひとつにも国家の威信をかけたほどの意欲を持って

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 先に述べたように、アメリカでは高校の対校運動競技で優れた成績を残し た生徒に対して、大学でスポーツを続けることを条件に、奨学金付きの特別 入学制度がある。これは、非常に魅力的な制度である。何しろ学業成績が少 し(ときには、かなりの程度)一般の基準に達していなくとも、入学が許可 されるのであるから。スタンフォードやミシガン大学(日本の慶応や早稲田 ぐらい)などの入学基準が高い大学でも例外ではない。それも大半の場合、 奨学金付きである。ハーバードやイエール(日本の東大ぐらい)などの超エ リート大学が所属するアイビーリーグでは、スポーツ奨学金やスポーツの特 別入学制度は存在しないことになっている。しかし、実際にはリクルート活 動を行っており、スポーツで優れた実績を残したことが選考の際にかなりの メリットになることは公然の秘密である。日本では慶応や早稲田大学がスポ ーツ推薦をやっていることが公然の秘密だが、東大にはスポーツ推薦は当然 ない。日本でスポーツで東大に入ったとなると、かなりの違和感があるだろ う。  アメリカの高校スポーツの最も顕著な特徴は、コミュニティとの密接な関 係であろう。  アメリカでは、高校(とくに公立高校)は生徒の教育だけでなく、文化や 社会的な活動を通してコミュニティに貢献することも、大切な使命のひとつ だと考えられている。そしてこの活動の中には当然娯楽の提供も含まれてお り、この一環としてスポーツも位置付けられている。  日本とアメリカの違いは、スポーツの認知度の違いであろう。日本ではス ポーツによる進学を表だすことなく、「高校生らしさ」という価値観を押し 付け、スポーツがあくまでも教育の一環として行われていることになってい る。アメリカではスポーツによる進学(その後の成功も)を、社会が認めて いる。このことは学生スポーツに大きな影響を与えているであろう。

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いる。  高校野球が「聖なるもの」ではなく、プロの選手養成機関となり、学校経 営という「俗なるもの」と結びつき発展していることを人々はすでに知って いる。しかし、人々は地域とはまったく関係がなく閉鎖されたなかで養成さ れる高校生に「高校生らしさ」を求める。一方で、自由な発想を育てる教育 を求めている。現在の日本の少年スポーツ、とりわけ高校野球が抱えている 矛盾を示しているといえよう。  ここで、アメリカの高校スポーツを紹介し、日本の高校スポーツとの違い を見てみたい。  アメリカの高校には、日本の「部」のようななかば恒久的な組織は存在し ない。それそれのスポーツのシーズンが始まる少し前にチームが結成され、 比較的短期間に多くの試合をこなす。アメリカでは、一つのスポーツだけを していると、身体の健全な発達を阻害するとか、肉体的にも精神的にもバー ンアウト(燃え尽きる)してしまうとか思われているので、伝統的に複数の スポーツをすることが奨励されてきた。しかし現在は、ハイレベルな競争に 勝つために、一人一種目が普通になってきている。その背景には、大学の奨 学金付きのスポーツ特別入学制度の存在があるのだが、それについては後で 述べる。  アメリカの高校のそれぞれのスポーツでは、監督とアシスタント・コーチ 一人がいるのが一般的である。彼らは契約制で、教師よりも高給である。日 本の部活の顧問教師のように、名前だけとか引率係のようなことはまずない。 引受手がいないから、素人が仕方なく担当することなどまずありえない。成 績が悪かったり、生徒や親の評判が悪かったりすると契約を更新されなかっ たり、時には解雇されたりもする。反対に、好成績を残したコーチの引き抜 きは頻繁にあり、どんどん移っていく人もいる  ところで彼らの給料は誰が負担しているのであろう。それは学校である。 学校の予算の1%ぐらいがスポーツ・プログラムに当てられており、その中 から彼らの給料が捻出されるのである。  アメリカの高校では試合で入場料を徴収するのが一般的で、だいたい2∼ 5ドル程度なのだが、非常に貴重な収入源となっており、その収入は予算に 組み込まれる。日本では高校の試合で入場料を徴収するのは全国大会ぐらい であり、それはもちろん各高校の予算に組み込まれることはない。  アメリカでも、スポーツの教育的な意義や役割が強調されることが多い。 しかしそれは日本と違って、スポーツそのものが選手を教育するのではない と捉えられている。

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第二節 高校生とスポーツ

 日本の少年スポーツの代表的なものに高校野球が挙げられるであろう。 「野球部」という一つの団体に属し、一年中同じ仲間と練習を繰り返す、「甲 子園」という全国大会を目指す。高校野球は「甲子園」という聖地を目指す 聖なるものとして捉えられている。選手たちは「一所懸命」「努力」「一体感 」「友情」といったものに支えられた「高校生らしさ」によって高校野球神 話を成り立たせるヒーローに仕立て上げられる。  高校野球において、その練習や試合の過程では、上級生と下級生の人間関 係、部員と主将、部員と指導者の関係など、個人の力では絶対に超越できな いことを前提に、その上位者の方針通りに動くことが当然のごとく考えられ ている。また、野球というスポーツの特性からか、それぞれの試合場面で選 手は必ず一つ一つ監督の指示を仰ぎ、その指示通りに動くことが多い。また そのように動こうとし、動けることが大切にされている。絶対の信頼で従い、 そのなかでの優秀さを大切に行動が決定されていく。選手が機械の部品や監 督の意のままに動くロボットであるかのように見え、試合の結果は選手の実 力というよりは監督の采配で決まり、選手自身の個人的関心などは入り込む 隙間などほとんどないように思われたりすることがある。このことは日本の 社会が「マニュアル依存型」社会といわれることと関連があるのではないだ ろうか。そして、「マニュアル依存型」社会をを作り上げた原因のひとつは 管理型教育であると言えよう。管理型教育の一つに、能率・安全・規律正し さを狙いとした集団行動の学習があげられる。その学習は自発的な学習とは 程遠く、個人の自由意思を捨てて従うことが強制される。その結果、自らの 意思決定・意思表示はほとんど行われず、また、そのことになんの疑問も持 たず従うことが正しいとされ、誰も結果に対して責任を取らないという見事 な日本的社会が出来上がる。日本の高校野球はあくまでも教育であり、その ような日本的社会の縮図となっている。  自分以外のもののために自己を犠牲にすると表現することを誇りにする監 督や選手、そのようなチームが育ったことを日頃の教育と結びつけてはばか らない学校、日頃の教育の問題点は無視して応援に協力するPTAや地域商 店街や住民、学校や選手とまったく関係ないが同じ出身地や地方であること で関わりを求める観戦者、自らの利益と結びつけ「聖なるもの」にしてきた ことにも気づかないそぶりをしながら「甲子園」をさらにあおりたてるマス コミなど、そこには作り手、送り手、消費者のいずれもが、特定の決められ 与えられたかのように錯覚する行動様式に従うことを暗黙の内に了解させら れて、さらにそういった自分を高校野球という「聖なるもの」で正当化して

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ではアメリカの小学生はどのようにスポーツに関わっているのであろう。 アメリカの小学生はだいたい2時半には学校から解放され、そのあとに課外 活動として、ボランティアに支えられている、地域の野球やフットボールな どに参加するのである。もちろん兼部も可能である。ただアメリカのスポー ツはシーズン制になっているので兼部といっても同時進行するわけではない。 小学生はそのチームのために募金活動や寄付を募ったりする。さらにはシー ズン初めにチョコレートや電球を売ったり、洗車をしたりして責 任分担を 負わされる。そこでは経済的自立による自主的運営がなされているのである。 アメリカの地域スポーツには、確かに日本のように全国大会はあるにはあ るのだが、その組織的なつながりは日本のそれと比べるとはるかに緩い。そ のため全国大会といってもそれほどにはレベルは高くない。そのことは、リ トルリーグ野球の世界大会でアメリカのチームがなかなか勝てないことにも 表れているであろう(勝つのは台湾や日本のチーム)。アメリカでは小学生の 時点で様々なスポーツをやるということが多く、そのなかで自分にあってい るものを選べるのである。 日本とアメリカの小学生のスポーツに対する取り組み方はずいぶん違うの である。そのことは、中学、高校のスポーツに影響を与えている。次の節で は高校生のスポーツについて論じてみたい。   

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第一章

第一節 小学校とスポーツ

 ここでは小学校のスポーツに目を向けてみたい。日本の小学校においてス ポーツとはほとんどの場合、体育とスポーツ少年団を意味する。最近はよう やく地域チームやサッカーのユースのように学校とは関係のないチームが増 えてはいるが、地方にいけばやはりスポーツ少年団がいまなお主流であると いえよう。 スポーツ少年団とは何か?それは小学校における部活動と言っても過言で はないであろう。中学の部活動はその少年団のOBがそのままその延長とし て続けるのであるから。スポーツ少年団の活動はそのチームによって様々だ が、週1回とか週2回、もしくはひどいところになると毎日というところも あり、定期的に1年間続けられるのが普通である。もちろん他のスポーツと の兼部は原則として禁止である。スポーツ少年団は全国の小学校にあり、種 目によっては全国大会も行われる。そこで活躍すると私立の中学からお誘い があったりする(ときには公立からも!)。だから、プロを目指す小学生にと っては、スポーツ少年団といえど真剣にならざるをえないのである。 スポーツ少年団の問題点はいろいろ指摘されてはいるが、一番の問題点は その排他性にあるであろう。先述の通り兼部は禁止されているし、途中入部 もなかなかしづらい。いったんやめてしまうとほとんどの場合再入部は不可 能に近い。できないわけではないが、部員たちがやめてしまった人間を「逃 げた」「根性がない」などといって、仲間外れにしてしまう場合が多い。この ことは日本のスポーツ集団ほとんどすべてにいえることなのであるが、それ が小学生のうちから始まっているというよりも大人のそれを知らず知らずの うちに真似してしまっているというほうが正しいと思われる。 スポーツ少年団において、つまり小学生のときからスポーツの選択の幅が 狭くなっているのはかなりの問題点であろう。 それでは外国の場合はどうなのであろう。ここではアメリカの小学生の状 況を見てみたい。 アメリカの小学校では児童のスポーツ競技にはほとんど関与しない。アメ リカの小学校には運動場がほとんどない。あったとしても、日本の都会の幼 稚園並の校庭があるに過ぎない。その代わりに、各校すべてが立派な体育館 を持っていて、そこで週に一回だけ体育が行われる。その体育も略式の球技 や遊戯が中心である。

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ゲームは一時中断されたのだ。  (中略)  明徳の馬淵監督は社会人野球でかなりの実績を収めた監督である。神戸の 阿部企業で都市対抗の本大会に出場、台湾の楊介仁投手の力投でベスト8へ。 日本選手権でも準決勝したほど。明徳でもコーチとして4年、経験は豊富だ。  だから怪物・松井封じをあれこれ考えて、その弱点へ投げさせるよりも、 徹底的に歩かせるという戦法をとったのだ。松井に打たれなければ星稜の得 点能力は半減する。だから勝つためには星稜打線を分断することしか頭にな かった。  (中略)  “立派な敗者”という言葉もある。さわやかに勝負して潔く散る姿もまた 美しい。勝つという事に走りすぎて、指導者がもっと大事なことがあるとい うことを忘れないでほしい∼  このことはいくつかの問題点を明らかにしてくれている。なぜ、それほど までに勝ちにこだわるのか。なにがその監督にそこまでのことをさせたのか。 そしてなぜこの問題が大きく扱われたのか。  では、この問題の根底にあるのは何なのか。そこで私が思いついたのが、 実は高校生、つまり学生のスポーツというのは非常に大きな問題を抱えてい るのではないだろうかということである。さらに言えば、日本においてスポ ーツを支える教育システムに問題があるのではないだろうかということであ る。そして、もしこの問題が明らかになれば、解決法があるのではないだろ うか。  私自身が高校野球に従事していたこともあって、できる限り高校野球をモ チーフとして見ていきたい。高校野球は一ジャンルではあるが、学生スポー ツの典型であると思われ、これを見ていくことは学生スポーツを見ていくこ とに比較的近いであろう。  それでは、次章からは学生スポーツの現状にある問題を見ていきたい。

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序章

 なぜ日本人は海外の試合で勝てないのか。オリンピックやワールドカップ。 尾崎将司は国内では実力を発揮できるのに、海外に行くと、なぜあんなにも 負けてしまうのか?なぜなのか。それが、体格や運動能力の差だけなのであ ればわかりやすいのだが、それだけではない。さらに、スポーツというもの が、欧米人にあわせたルール設定をしているからだ、ということもあるかも しれないが、それも何か違う。なにかもっと別の根本的な問題が隠れている のではないか、というのが、まず最初の私の疑問であった。現在の日本人は、 体格からいえば、一昔前に比べると格段に大きくなり、外国人とさほど差は 感じられなくなった(黒人などと比べると陸上などの分野ではさすがにばね が違う気もするが)。プロ野球の松井なんかを見ていると、メジャーリーガ ーと匹敵するぐらいに、遠くに飛ばしている。その松井が高校生最後の甲子 園大会で受けた「敬遠」は、実に見事にその問題点を明らかにしていた。次 に書くのは、その一部始終である。(ナンバーからの抜粋) ∼それは異様な幕切れだった。また後味の悪いゲームだった。満員のスタン ドからメガホンが投げ込まれ、ブーイングが高じて、校歌斉唱中の明徳ナイ ンに「帰れ、帰れ」のシュプレヒトコールが沸き起こった。なにしろ松井秀 喜の豪快なバッティングを一目見ようと暑い中を駆けつけたのに、5打席と も完璧な“敬遠攻め”だったのだから無理はない。  明徳の馬淵史郎監督は「すべて私の指示でやらせた」と言い、そして「ピ ッチャーは異様なムードの中でよくやってくれた」とエースの河野和洋投手 の労をねぎらった。  松井の第1打席は初回にいきなり回ってきた。場面は二死三塁。河野の投 じた初球は外角遠くに外れ「世紀の敬遠攻め」の幕が開く。このときは三塁 側スタンドも「仕方がない」で終わった。  3回の2打席目は一死二、三塁。これは左翼手が打球をはじいて走者を進 めたため。まあここも仕方がない。  ファンがしらけ、そして騒ぎ出したのは一死一塁の第3打席と二死走者な しの第4打席での敬遠だ。星稜応援団の「勝負コール」がネット裏まで伝わ り、中には「弱虫コール」も交じっていた。  怒りが頂点に達したのは第5打席の最終回二死三塁での四球。明徳バッテ リーは全く勝負する気配がなく終わったことから、三塁側アルプス席と右翼 席から応援メガホンやジュースなどの空きコップがグラウンドに投げ込まれ、

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目次

序章

第一章

第一節 小学校とスポーツ

第二節 高校生とスポーツ

第三節 土壌

第四節 問題点

第二章

第一節 高校野球のシーズン制

第二節 社会の側の変化

第三節 監督・コーチの地位確立

第四節 教育改革

第三章 結論

終章

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学生スポーツの現状と

      その改革

  

  

  学籍番号 741018 

飯山 智哉

参照

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