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戦後の学制改革

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戦後の学制改革

因子健

〈文学部教授〉

はじめに

今から約 60 年前、 1949 (昭和 24)年に現在の 大学制度は発足した。いくら見直しても、僅か 60 年前である。当時の新聞は、帝国大学時代に は顔を見ることが出来なかった女子学生が真剣な まなざしで講義の最前列に座っている姿を報じ、

新しい時代の到来を写している。それから 60 年、

この頃の学生は現在 80歳前後を迎え、時代はま た移り変ろうとしている。

大学にとって、この 60 年間とは、大学を卒業 した人々が社会のすみずみにまで活動の範囲を広 げていった史上初めての時代であった。 21 世紀 の大学を構想しようとする場合、こうした経験が 現在の大学の「土台」となっていることを忘れて

はならないだろう。

本稿では、 1947 (昭和 22)年 3 月、教育基本 法が制定され、戦後改革の要のひとつ戦後教育改 革がスタートし、いわゆる 6 3  3  4 制といわれた 新しい学校制度が発足した時、大学改革が主要な テーマであったのかどうか、を考えることで、 21 世紀を迎えた日本の大学制度を考える際に必要な 視点のいくつかを示してみようと思う。なお、こ の新しい学校制度の形成から発足を、しばしば学 制改革と言い表しているので、タイトルにも用い た。

1  .戦後教育改革以前

戦後教育改革とは、戦後改革と総称される第 2 次大戦後の統治構造の変化と国民主権のもとでの 日常生活の再出発の両側面に対応する教育の大き な改革の全体をいうもので、その詳細を論ずるこ とは他に譲るほかないが、まず、戦後教育改革ま で日本の教育はどう進んできたか、について述べ ておこう。

1 8 7 2   (明治 5 )年アジアで最初の近代教育が開 始され、「国民皆学」を実現すべく諸学校の建設 が急がれた。しかし、 1890 (明治 23 )年に「国体」

の形成を教育目的として定めた教育勅語が公布さ れることで、その影響は当初限定的であったが、

次第に国家主義と総称される教育の構造が決定づ けられることとなった。その後、制度形成の面で は、明治後半期における「修身」を筆頭教科とす る小学校教育の義務制実施、大正期に入って、中 学校、高等女学校が都市部を中心に拡充整備され、

また実業・技術教育の本格化など、教育の普及発 展を進めていった。

そのなかに、帝国大学としての大学は、国家体 制の有機的な、それも主要な制度であって、国家 の意思決定においては、時の重大問題にあたり東 京帝国大学総長に相談に訪れる首相の車列が、厳 かに大学構内に入っていく風景を学生たちは眺め ていた。

かつて、イギリスの思想家 B. ラッセルが、日 本の教育を二重構造として特徴づけたが、これは

7 3  

(2)

愛知大学史研究(第 2 号、 2008 年)

大学と大学以外の、特に初等中等教育段階の教育 とが一体連続のものではなく、大学が大衆的な学 生を受け入れて「教育j を行うということとはほ とんど無縁であったことを言い表したものと理解 できる。

2. 戦後教育改革

第 2 次大戦後の GHQ· CIES 統治下の日本政府 の行う教育行政は、 1946 (昭和 21 )年頃までは 相当混乱していたが、翌年教育基本法の制定に及 んで、その進むべく方向性が明らかとなった。戦 後教育改革とは、「教育を受ける権利」を保障す ることを目指した新教育のもとで、誰もが中学校 以上の学校で学ぶ、自由を手に入れ、青春を謡歌し た、類まれなできごとを結果した改革であった。

単線型といわれる連続した学校制度の開始、とり わけ中学校義務制の実施が焦眉の課題であったこ とはいうまでもない。少なくとも規模の面からだ けいえば、教育改革の名に値する唯一といっても よい改革であったことは間違いない。その後、

1950 年代半ばまで戦後教育改革の実際は進んで いった。

それでは、大学と戦後教育改革との関係はどの ようなものであったのか。一言でいえば、初めて 町の小学校と大学とが繋がった瞬間が戦後教育改 革である。それまでは、男子の通う旧制中学校( 4  年制が原則)からの「世界」であったものが、小 学校から大学まで連続した教育制度のもとで運営 される一連の学校(学校教育法第 l 条に規定され るため、しばしば l 条校という)が出現し、その 上位の段階の学校として大学は位置づくこととな ったのである。

しかし、その後の発展の実際はゆっくりとした もので、例えば大学進学率をみると、戦前期の高 等教育進学率を回復するのは、 1960 (昭和 35) 年から 1962 (昭和 37 )年にかけてである(図 1 )。

通常は行わない比較だが、旧制高等学校、大学予 科は高等教育機関であったことからこうした見方 7 4  

も成り立つ。これに従えば、ようやく戦後 15 年 を経て、大学は発展のためのスタートラインに立 ったともいえる。しかも、次節で触れるような旧 制度では中等教育機関であった師範学校(正確に は戦時期に高等教育機関とされた)まで大学とし てなお、である。いかに第 2 次大戦による人的物 的な損失の大きかったことかが想像される。 4 年 制大学への進学率は 1960 年 8.2% 、 1970 (昭和 45 )年 17.1 %である。今日( 2005 年現在) 44.2% 

であることと比較すれば、昭和戦後の大学は今日 とは隔世の感がある。

図 2 に示すように、昭和後期から平成に入った 1990 年代に高等教育制度の第 2 の画期があり、

国レベルの高等教育計画原理の転換、生涯学習の 普及本格化などを背景に、高校後の教育段階、つ まり大学・専門学校への進学率および留学生数の 急激な上昇が見られ、今日の大学がある。

3. 戦後教育改革と大学

いわゆる戦前戦後の新旧教育制度を比較する と、旧制度では小学校以上の学校が多岐にわたっ たことである。特に、専門学校系統の学校種が多 かったのに対し、戦後の教育制度は高等学校から 大学へ極めて単純化されている。一般に戦後教育 改革とは、新たに義務教育となった中学校の設置 が最大の課題であった。この新しい中学校は前提 となる学校種がなく、各地で青年学校等からの校 舎の転用が可能であればよいもののそうではない ケースが頻繁にあり、発足の苦労は一通りではな かった。こうした問題を超えて、高等教育改革が 社会全体の関心事になっていたとはいえないが、

あるいはそのために、戦後教育改革における高等 教育の改革については、まだ未解明のことがらが 多い。

実は、新制大学の形成過程も「謎」である。戦

前の大学は、高等学校および大学予科と一体のも

のであり、両者とも高等教育機関であった。大学

で学ぶには、当然ながら準備教育級が必要との認

(3)

50覧 人

進学率=大学進学者数,短期大学進学者数,高等専門学校第4学年在籍者数, 専門学校進学者数

/18 歳人口(3 年前の中学校卒業者数)

明治8年~昭和25年までの大学進学率(進学者数)は高等教育機関の就学率(在学者数)

宮専薮育穣蘭7盲等草1京国事肝ナ尊門事夜7莫葉専門学張, 大学(旧衛II)等

高等専門学校の入学者数は第4学年の在籍者数

専門学校は専門課程入学者数

. . .

1 . 0 0 0 . 0 0 0  

|高等専門学校進学者数|

明治8

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↓専門学校進学1131

-8一高専進学率 -Aー短大進学

|↓ 大学進学率

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〔出所〕文部(科学)省「学校基本調査」 (昭和 25年以前については「文部省年報」)

大学・短期大学等の入学者数及び進学率の推移 図

1

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(4)

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専門学校入学者数

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短織大学の入学定員と入学者数の推移

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大学の入学定員と入学者数の推移

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{出典}学校基本踊釜より

{出典}学校基本調査より

(出典}学校基本調査より

留学生数の推移

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大学院の入学定員と入学者数の推移

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{出典)学校基本調査及び大学一覧より算出

{出典)文節科学省鯛ベ

(出典)学校基本間査及ぴ大学一覧より算出

高等教育機関の入学定員等の推移

図 2

(5)

識である。ところが、戦後教育改革によって、結 果的に多種多様な中等段階から高等段階の教育機 関が、帝国大学や旧大学と並んですべて大学とな ったのである。

戦後長く文部省にあって高等教育行政を担当し た大崎仁によれば、米国教育使節団報告は、 6 3 

3 つまり新しい高等学校までは改革の必要を展開 しているが、大学レベルについては、学制上の変 更について展開していない。そればかりか、第 2 次使節団報告では、「第 l 次訪日アメリカ教育使 節団は、高等教育について勧告するにあたって、

現在の教育機関の組織のままで望ましい改革をす ることに注意の大半を傾けた J 「しかし、日本人 はこれらの諸機関を改革しようとする場合、高等 教育の全制度を改組することが必要であると考え た。そして、この改組を外形的な面において急速 に成し遂げた J (大崎による引用、大崎 22 頁)と して、 6 3  3 に続く 4 を生んだ主体は日本側にあ るという相当明確な記述を残している。

高等教育段階の専門学校自体、高等専門学校第 4 、 5 学年以外実在しない(第 l 条校においての 意味:筆者注)今日では、その概念も理解しにく

い。しかし、専修学校制度の発足( 1976 年)か ら近年の高大連携の普及までをみると、大学準備 級である「教養」形成の教育機関との接続・連携 による国際水準の教育を実現可能な大学と、特定 の技術技能などを専ら扱う高等教育段階の専門学 校との両方が、ひとつの国の教育制度として求め られていることは明らかである。後者のほうは、

高等段階の専門学校を第 l 条校として設けようと いう動きは弱く、それよりも大学教育改革の課題

として、大学内高校ないし専門学校とでもいうよ うな教育空間を構築することに腐心している。だ が、すべてを大学という組織に統ーしたことの歴 史的な省察をもとに課題を整理しない限り、今日 において、学生が大学で学ぶ独自の意味はますま す希薄になると考えられる。なお、 6 3  3 に続く

4 を生んだ日本側の主体についてとその評価な ど、具体的な経緯については、機会を改めて続稿

戦後の学制改革

としてみたい。

4. 教育のあり方と大学教育の将来像

安倍首相(当時)の提唱による教育再生会議(懇 談会一現在)の設置は 2006 年 10 月であった。同 年 12 月には、 60 年ぶりの教育基本法の改正がな され、「愛国心」、「公共の精神 J など、教育の価 値的な問題が久々に登場して大いに世論の関心と

なったことは記憶に新しい。 1977 (昭和 52)年 学習指導要領改訂により登場した「ゆとりの時間」

に始まるゆとり教育は、次第に学校教育の全体を リードする概念となり、「生きる力」を育てる教 育は広く国民の支持を得ていた時もある。しかし、

ユニセフ(国連児童基金)「豊かな国々の子ども の幸福度調査」(2007 年 2 月)によれば、「孤独 を感じる』 Os 歳)一一 1 .日本 29.5% 、 2. ア イスランド 10.3% 、 3. フランス 6.4% 、 4. イ ギリス 5.4% 、また「場違い、仲間はずれを感じる J 一一日本 18% となっていて、ともに日本は第 1 位である。果たしてゆとり教育は真に行われてい たのか。また、この間の学力低下は著しい。

さらに、いじめ・自殺、教科未履修問題、教員 の資質、教育委員会のあり方、給食費未払いにみ る親のあり方、国・地方自治体レベル両方の教育 予算等々、課題が山積している。一方、特別支援 教育の開始、つまり普通教育と特殊教育という教 育区分の終了という新たな教育構想の実施の試み もある。教育は、今、非常に大きな転機にあるこ とは明らかなことである。

家庭生活の環境、父母・保護者の労働環境も多 様であり、本来子どもを見守るべき社会の安全・

安定にも課題が多い。受験と学校とで、学習目標 が異なる空聞を行き来する生活から、子どもたち 本人の生き方にも、理想の狭さ・弱さがある。学 校生活を送る子ども相互の関係にもバーチャル、

メディア空間での関係との二重性を伴うことな り、精神面の疲れ・不安定さもある。

仲良しの子どもの世界、正義感という緊張感を

77 

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愛知大学史研究(第 2 号、 2008 年)

持つ高校生・青年の世界、真理を探究することが 生きることそのものである大学生の世界、社会を 形成し、人間として生きることを真剣に考える社 会・家庭の回復こそ、今世紀の教育が取り組むべ き課題である。道徳、集団で、の生活習慣の育成と 生きた学力の結びつき、また理性・認識能力と感 情・感性、社会性が結びつきながら育っていくと いう教育古典の教えるセオリーを回復するため に、まず大人が自分を見直し、生活を変えていく ことから始める必要がある。大人が学ぶこと、考 えること、理想、を持ち直すこと、そして前向きに 元気に生きることである。そうすれば、日本の教 育は変わる可能性は充分にある。

では、このなかで大学はどうあればよいのだろ うか。人間となっていく素晴らしさと人間である ことの厳しさを初めて学ぶ〈学校教育〉〈家庭教 育〉、(再)発見する〈生涯学習〉ということがこ

7 8  

れからの教育の全体像であるとすれば、大学とは まさにその両者を繋ぐ絶好の位置にある。上に見 た、ょいとはいえない生活環境、教育空間をしば しば体験してきた現代の青年がそれでもなお大学 に進学してくることは、まさに人聞の素晴らしさ を無言のうちに表すものである。そうであるなら ば、大学に学ぶ学生の学力・人間性・専門性が癒 され、回復し、そして高まるように、さまざまな 仕掛けを持つ人知による最高の空間をわれわれは 創造する責任がある。その場合、鍵的概念となる ことは人格と教養の形成である。また、成人の学 ぶ大学づくりも求められる。学制改革から 60 年 を経た今日の課題である。

参考文献

大崎仁『大学改革 1945-1999』有斐閣、 1999 年。

木田宏『学習社会の大学』玉川大学出版部、 1995 年。

参照

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