• 検索結果がありません。

著者 三原 芳秋

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "著者 三原 芳秋"

Copied!
43
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

著者 三原 芳秋

雑誌名 社会科学

巻 40

号 4

ページ 1‑42

発行年 2011‑02‑28

権利 同志社大学人文科学研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012313

(2)

「あらゆる読解は誤読である」と言われる。たしかにその通りであろうし,それ以外 ではありえないだろうが,しかし,ただこの命題を真として提示するだけでは,うそつ きのクレタ人と同じ轍をふむことになりかねない。むしろ重要なのは,あらゆる読解=

誤読にたいして「徴候的読解」 アルチュセールやマシュレが,スピノザ/マルクス から学んだ「読み」の方法 で臨むこと,すなわち,精神分析家が患者の言い間違 いや沈黙のうちに「無意識」を読み解くように,ある特定の歴史的文脈から紡ぎだされ たテクストとその「誤読」のうちに「政治的無意識」を読みとることにある。さらに言 えば,その「徴候的読解」を通して,「誤読」の強度を測定すること,そして,自らも 強力な「誤読」を果敢に行う勇気を持つことが肝要だろう。本論考では,1919年の末 にロンドンの文芸誌に発表されたある短いテクスト(T.S.Eliot,・Traditionandthe

1

Metoi kosたちの帝国

T. S. エリオット,西田幾多郎,崔載瑞

1

三 原 芳 秋

本論考は,あるテクストの「誤読」をめぐる考察である。若きT.S.エリオットが 1919年末に発表した「伝統と個人の才能」は,その後「英文学」という制度のなかで 古典的地位を占めることになる小論であるが,それがアジア・太平洋戦争中に帝国日 本/植民地朝鮮の知識人(西田幾多郎・崔載瑞)によって「誤読」されていたことは,

あまり知られていない。本論考では,これら二者二様の不気味な「誤読」を,主体化=

臣民化の理論という観点から分析する。その際に,エリオットが自称として用いてい た・metoikos・(居留外国人)が鍵語となる。この語の組成(meta+oikos)から,

一方で「家」(国民国家)を「変容」させる(trans-form)という起爆力を潜在的に 有しながら,他方で「超越」的な「家」(帝国)への同化(con-form)の論理となる,

という両義性を読みとることができる。この「metoikosの/による/のための伝統 論」に伏在する両義性が,テクストの「誤読」を通じて,「帝国」の思想家・西田幾 多郎およびその弟子たち,ならびに,「親日派」の代表格・崔載瑞による「主体」を めぐる諸言説のうちに散種され,そこで特異な政治的・理論的帰結をもたらすことと なる。本論考の目的は,その複雑に絡まり合う「誤読」のドラマを解きほぐし,その 過程でどのような「問題」が生産され,また抑圧されたのかを見いだすことにある。

(3)

IndividualTalent・

)が,20 年ほど後に,はるか極東の「大日本帝国」において,ふた つの不気味(umhei

mlich

)な「誤読」(西田幾多郎・崔載瑞)を生んだという事例に 着目し,それらの「誤読」を対位法的に考察することにより,帝国/植民地における理 論的主体(または主体化の理論)のふるまいを読み解いてみたい。

最晩年の「歴史哲学」期における憂国の哲学者・西田幾多郎,および,「国民文学」

運動期における「親日派」崔載瑞の諸著作のなかで集中的に現われる,それぞれの

T.S.

エリオット読解は,今日の大学アカデミズム的な基準から言えば,端的に言って「誤読」

であろう。英文学科という,大学アカデミズムの中のさらに小さな一角に閉塞している 今日の基準から言えば,ほぼ想像を絶する「誤読」と言ってさしつかえなく,そのため に大学アカデミズム内では忘却の淵に沈んでいるものである。しかし,だからこそ,こ れら強力な「誤読」は,筆者の関心を惹いてやまない それらが,大学アカデミズ ムに起源

ホーム

を持ちながら,その枠組みを大きくはみだし,あるイデオロギー的な運動

(「八紘一宇」「内鮮一体」「国民文学」)に直接・間接に接続されるような「問題」を生 産した,という意味において。また,この「問題」が,「英文学研究」「日本の哲学」

「親日派糾弾」といった一連の制度の交点でありながら/であるからこそ,「巨大な見そ こない(b

evue

)」の消失点となっている,という意味において

2

1.Metoi kos の/による/のための「伝統」論

metoikos

とは,古代ギリシャのポリスにおける「居留外国人」(resi

dentalien

)を 意味する

3

。外部からの移民が一定期間以上ポリス内に居住する場合,ポリスによって

metoikos

と宣告され納税の義務が課せられる一方で,政治的・社会的・法律的権利は 制限され土地・家屋の所有も認められなかった。(今日の日本でも,しばしば,「(在日)

外国人参政権」の「問題」が浮上するが,同様の「問題」は,すでに古代ギリシャ,す なわち,ポリス=国家のはじめより存在していたわけだ。)metoi

kos

の語源は,言う までもなく,meta +oi

kos

であり,oi

kos

(家・故郷)にたいして

meta-

の関係にある 個人を指すのだが,meta- という接頭辞の意味があいまいなため,その正確な語義につ いては議論が分かれている。なかでも有力な説は,19

世紀の碩学ヴィラモヴィッツ=

メレンドルフの圧倒的な権威を背景とした「共-住民」(Mitbewohner4

)説で,これ

meta-

mit

(wi

th

)と解釈したものである。このように,ややロマン化された賓

客・「準市民」としてのmetoikos

解釈がある(今日の

IT移民や北米の有力大学で教

(4)

鞭をとる第三世界出身のスター教授のようなイメージだろうか)一方で,シャルル・モー ラスのようにユダヤ人を「現代のポリスにおける

meteques

」と呼び排斥を訴えた例も ある(石原都知事の「三国人発言」を思い起こそう)。また,より「忠実な」解釈にお いては,meta- を「変化・移動(trans- )」とし,metoi

kos

とは端的に言って

・home- changer・

すなわち「移民」という中性的な意味以上のものではない,とされる(ここ で,metaphor を語源的に

transport

に結びつけたポール・ド・マンのあざやかなボー ドレール読解(deMan (1984 ))を思い出す方もおられるだろうか)。いずれにせよ,

meta-

という接頭辞のあいまい性(wi

th

,change ,trans- ,beyond ……)のおかげで,

meta-oikos

という組成の単語にはさまざまな意味を読みこむことができる。本論考で は,この単語を自由自在に「誤読」しながら,帝国日本/植民地朝鮮の「誤読の地図」

を描いてみたい。

さて,それにしても,なぜ突然

metoikos

などという古代ギリシャ語を持ち出してき たのかといぶかしく思われるかもしれない。もちろん,ただやみくもにこの単語を引っ 張りだしてきたわけではない。実は,この

metoikos

(英語では

metic

)という単語は,

T.S.

エリオットが自分を指す表現(ときには筆名)として,好んで用いたものなので ある

5

。たとえば,1919 年7月11 日付のメアリ・ハッチンソン宛の手紙には,このよう なくだりがある

でも,わたしがメトイコス〔meti ・・・・・

c

〕 つまり外国人で,あなたを,そして,あ なたの背景や伝統をまるごと理解したいのだということを,お忘れなく。〔強調は ・・・

原文〕(El

iot,Valerie

(2009 )

,p.379

,拙訳)

この手紙でエリオットは,「文明」と「文化」の違いについて説明する中で,「文明」を

「非個性的で伝統的なもの(わたしの言う「伝統」とは,同じ場所に立ち止まっている ことを意味するものではありません)であり,人々を無意識のうちに形作るもの」(p.

378

)と規定しているが,これは,直後に発表される「伝統と個人の才能」(以下,「伝 統論」と略記する)のエッセンスを伝えるものとなっている。保守的で,しばしば反動 的な後年のエリオットの政治姿勢から,エリオットの「伝統論」もやはり保守・反動的 な理論であると連想されがちだが,そのような安易な連想によって忘却されてしまうの は,この「伝統論」が,metoi

kos

と自己規定する主体によって生産された理論である という事実だ。実際,当時のエリオットは,ハーヴァード大学に帰って哲学科の教授に

Metoikosたちの帝国 3

(5)

なるという安定した将来を捨て,ロンドンで一旗あげようと売り出し中のアメリカ出身 の前衛詩人であり,また批評家としてはイギリスの保守的な文壇を徹底的に攻撃し,同 胞の盟友エズラ・パウンドとともに「文学的ボルシェビキ」とあだ名されるほどだった。

このような背景を考えると,エリオットの「伝統論」の革新性 とまでは言わずと も,反-保守的な性格 が理解されるだろう。すなわち,metoi kos 的前衛を排斥し ようとする土着の(oi kos 的な)「伝統主義」を全面的に否定する(「伝統を相続するこ とはできない,それを望むならば,たいへんな労力を払って手に入れなければならな い」

6

)と同時に,「個人の才能」と芸術の普遍性を媒介する「伝統」の地位に「ヨーロッ パ文学全体」をおくことによって,イギリスという国民国家を超克することが要請され ている,と読むことができるのである。エリオットの「伝統論」を,たとえばエドワー ド・W・サイードが自らの鍵概念 affi l i ati on と結びつけたり,南アフリカの作家 J. M.

クッツェーや英語圏カリブの代表的/対蹠的詩人であるデレク・ウォルコットと E. K.

ブラスウェイトが両者ともに,エリオットを「ポストコロニアル的」作家の先達とみな す発言をしたりするのは,まったく故なきことではないのである。いわば,metoi kos 的個人が,国民国家という範疇による排除・抑圧と交渉しながら,自らを主体化させる 場として「伝統」を横領(appropri ate )するプログラムなのである。そして,このプ ログラムを実行する際のメカニズムが,以下のように記述される(後半に,崔載瑞によ る日本語訳を引用するので,まずは原文のまま)

Thenecessi tythatheshal lconform,thatheshal lcohere,i snotone-si ded;

whathappenswhenanew workofarti screatedi ssomethi ngthathappens si mul taneousl y to al lthe works ofartthatpreceded i t.The exi sti ng monumentsform ani dealorderamongthemsel ves,whi chi smodi fi edbythe i ntroducti onofthenew (real l ynew ) workofartamongthem.Theexi sti ng orderi scompl etebeforethenew workarri ves;forordertopersi stafterthe superventi on ofnovel ty,the

whole

exi sti ng order mustbe,i fever so sl i ghtl y,al tered;andsotherel ati ons,proporti ons,val uesofeachworkof arttowardthewhol earereadj usted;andthi si sconformi tybetweentheol d andthenew. (El i ot (1928 ) ,pp.49 50 )

「個」が「全体」に参入するにあたり,「秩序が維持されるため」には「全体の秩序が ・・

(6)

変更されなければならない」という図式は,マルクス主義批評家フレドリック・ジェイ ムソンをして「深く弁証法的」(Jameson (1971 )

,p.314

)と言わしめたものである。

あらかじめ「全体」に帰属しない

meta-oikos

的「個」が,oi

kos

全体を

trans-form

(meta-morphose )することにより,抱擁的な「大きな家(oi

kosmegas

)」という場 を創造し,そこにおいてより有利な主体化を行うメカニズムと言える。いったん自らの 主体性を放棄することにより対手(全体=ヘゲモニー的多数派)の主体にも変容を迫る ような「接変」

7

の瞬間を創出するという意味で,「oi

kos

全体のコンタクト・ゾーン 化」

8

と,とりあえずは呼んでおこう。

しかし,ここであわてて付け加えなければならないのは,そのようにして,あらゆる 主体が動揺し不安定となる「瞬間」を理論的に想定することができる(と解釈=誤読で きる)とはいえ,実際にエリオットのテクストが強調するのは

trans-form

ではなくて

con-form

であることを見逃すわけにはいかない,ということだ。すなわち,ある「全 体」(たとえば,イギリスという国民国家)を

trans-form

することが,より大きな

「全体」(たとえば,「ヨーロッパの家」

9

)に

con-form

することに帰結するならば,そ れは高度に「帝国」的である。実際,ロイド銀行の「海外ならびに植民地担当」部局に 勤務し,第一次世界大戦の戦後処理に金融の面から深く関っていたエリオットは,オー ストリア=ハンガリー帝国の崩壊と民族自決主義の横行による「ヨーロッパのバルカン 化」を強く警戒し,有機体論的な多民族帝国を称揚する発言を行っている

現代とは特異なほどに愚劣な時代であるが,それは,まちがったナショナリズムと,

同様にまちがった人工的な国際主義の時代である。わたしは帝国一般〔empi

res

〕,

殊にオーストリア=ハンガリー帝国を支持し,金持ちが家系図を偽造するようにし て作られる人工的な民族国家が世界中に乱立することを嘆くものである

10

metoikos

を排除する自然的(民族的)oi

kos

を解体する言説は,あらゆる主体を有機 的に統合する「超越的」な帝国 多少のことば遊びをゆるしていただけるなら,大 文字の

Meta-Oikos

とでも呼べるような存在としての帝国 を要請する言説へと直 結する。それは,抑圧/抵抗という対立軸を無化する「併合」の論理として機能するこ とになる。

ここで,とくに注目に値するのが,エリオットが「伝統論」とほぼ同時期に執筆した

・WasThereaScottishLiterature?・11

というマイナーな書評である。 これは,

Metoikosたちの帝国 5

(7)

GregorySmith,ScottishLiterature:CharacterandInfluence

(1919 )の書評とし て書かれた小文だが,その表題にあるとおり「スコットランド文学は存在したか?」と いう挑発的な問いを立てている。エリオットの答えは「否」であり,しかも,それがス コットランド文学にとっても幸福なことだったと言い切る。ここで示されるのは,「せ いぜい5つか6つの強大かつ有機的な歴史的編成体」すなわち大文字の「Hi

story

」に 基づく「列強」史観(一種の「文明の衝突」史観)であり,そのレトリックは極めてダー ウィン主義的である

スコットランド語およびスコットランド文学が分離独立を維持できなかったことは 弱さではなく強さの証しである,と結論付けることすらできるのではないか。諸文 学間の生存競争がいかに過酷でいかに宿命的なものであるかということは,あまり 認識されていない。この競争においては,それほど異種的でない諸力が合同するこ とが,勝利への好条件をなす。スコットランド文学は,イギリス文学に自らの運勢 を賭すことによって,生存の可能性を倍加するのみならず,イギリス文学を完成す るにあたって重要な貢献をなすのである。(中略)イギリス文学とスコットランド 文学,そして(政治的軋轢の妨げがなかったとしたら)イギリス文学とアイルラン ド文学は,価値ある合同に十分なほど同族的である。(El

iot

(1919 )

,p.681,

拙訳)

あくまで文化の次元でのみ語られているとはいえ,第一次世界大戦終結直後,民族自決 運動の季節において「併合」有理説を唱えることは,露骨に反動的であるとも言える。

さらに興味深いことに,この引用文の直後には,「あまりにかけ離れた民族が同一の言 語を使う」ことを危険視し間接的にイギリスのインド支配を批判する一方で,シャルル・

モーラスの名前を挙げて,フランス文化が「消化されることなく受け入れられる外国勢

力」によって危機にさらされているとし,暗にユダヤ人排斥への支持を示唆している

12

こうして見ると,エリオットの「伝統論」に潜在するイデオロギー素が,この短文のう

ちに出揃った感がある。すなわち,この「metoi

kos

の,metoi

kos

による,metoi

kos

のための伝統論」は,一方で自然化・固定化されがちな国民国家(oi

kos

)を「コンタ

クト・ゾーン化」する可能性を持ちながら,他方で有機体論的な帝国(Meta-Oi

kos

を合理化する理論でもある。また,文化的な「同族性」尊重の立場は,インド統治のよ

うな政治・経済優先の「帝国主義」を批判する言説と,スコットランド「併合」を称揚

する言説(さらには,その延長線上にある共同体内におけるユダヤ人排斥を支持する言

(8)

説)とを,なんの矛盾もなく同居させることができる。これが,エリオット「伝統論」

の「政治的無意識」であり,このテクストが「大東亜共栄圏」へと「移植」されたとき に生れる,西田幾多郎および崔載瑞による「誤読」の,いわば「不在の原因」となるで あろう

13

2.西田幾多郎 「日本文化」の「問題」

小林秀雄が西田哲学を評して,「日本語では書かれて居らず,勿論外国語でも書かれ てはいないという奇怪なシステム」(小林(1939 ),p.255 )と呼んだことは,あまりに 有名である。しかし,ここでしばしば見落とされるのは,小林の批評の主眼は西田哲学 の文体を個別的に批難することにあったわけではなく,それを「典型」として,いわば 近代日本の思想が宿命的に背負った「極めて病的な孤独」の悲劇,すなわち,健全な読 者の欠如という情況において「他人というものの抵抗を全く感じ得ない」孤独な学者が,

モノローグ的に,「日本の或は東洋の伝統的思想を,どう西洋風のシステムに編み上げ るべきかについて本当に骨身を削った」結果産みだされた,西洋語とも日本語とも乖離 し浮遊した文体の「奇怪」(um-hei

mlich/home-less

)さを指摘することにあった。し ぜん,その批判の矛先は,悪戦苦闘の末「奇怪」な文体を練り上げた西田本人にではな く,その文体を無批判的に受け継ぎふりまわすエピゴーネンたちに向けられることにな る

これは確かに本当の思想家の魂を持っていた人が演じた悲劇だった様に僕には思え るが,言う迄もなく亜流は魂を受け継がぬ。専ら健全な読者を拒絶する為に(他に 理由はない),何処の国の言葉でもない言葉を並べ,人間に就いては何一つ理解す る能力のない,貧弱な頭脳を持った哲学ファンを集めた。(p.255 )

小林の攻撃対象が,具体的には,いわゆる「京都学派」の第二世代が中心になって展開 していた「東亜協同体論」や「世界史の哲学」にあることは,この短文の最後の部分で

明らかになる。ここで,以上のような小林の洞察を,本論考の文脈にひきつけて言い換

えるならば,西洋と日本のはざまで格闘する過程で両者から乖離していくかたちで案出 されざるを得なかった(meta-oi

kos

的な)文体が,その乖離の苦しみを知らないまま にそれを超越という特権とはき違えた「亜流」によって,「世界史的使命」「八紘一宇」

Metoikosたちの帝国 7

(9)

といった空疎で誇大妄想的な超越者・絶対者のかたり(Meta-Oikos的言説)に転化し た,ということにでもなろうか。以下の二節では,T.S.エリオットの「誤読」を軸に,

西田およびその弟子たちの「帝国的」言説を分析してみたい。

西田幾多郎が晩年の著作において,集中的にT.S.エリオットに言及していたことは,

よく知られている。まずは,時系列を確認する意味で,西田およびその周辺でエリオッ トへの言及があるテクストを,書簡も含め,年表風にまとめてみる。(以下,★がつい ているのが,エリオットへの直接言及があるもの,☆は間接的言及14。)

この年表を見るだけでも,西田のエリオット援用が,「西田幾多郎と帝国主義」の問題 系と重なり合うことが容易に予想される。ここでは,この問題を中心的に扱う余裕はな いが,以下の議論への導入の意味もこめて,この問題にかんする筆者の見解をまずは簡 略に示しておく必要があるだろう。

西田没後50年以来,「この問題」のパラダイムとなっているのが上田閑照(1995)の

★1933.2.13. (石田憲次宛)「深瀬君の書れたEliot文学論といふもの如何なるものにや……」

★1934.11.25.日本英文学会(於・京都大学)での講演「T.S.エリオットと伝統主義」

★1935.1.7. (石田憲次宛)「すみませぬが尚一度先日お貸し下さいましたEliot,Poemと英文学講座とを 一覧したいと思ひますが……」

☆1935.1.~3.「世界の自己同一と連続」(『思想』)

★1935.5.9. 「伝統主義に就て」(『英文学研究』)

★1935.10.4. 三木清と対談「日本文化の特質」(『読売新聞』10.10~16.

★1936.9.3. 三木清と対談「ヒューマニズムの現代的意義」(『読売新聞』9.6.~11.

★1937.3.~5.「実践と対象認識 歴史的世界に於ての認識の立場」(『哲学研究』)

★1937.7. 「種の生成発展の問題」(『思想』)

★1937.9. 三木清「制度」(『思想』)⇒『構想力の論理 第一』「制度」第6節

★1937.10.27.(布川角左衛門宛)「研究社の新刊書中の 佐藤清著のT.S.エリオットの詩・研究を一冊神保 町の御店に頼んて御送り下さいますまいか……」

★1938.3. 「人間的存在」(『思想』)

★1938.4.~5.京大月曜講義「日本文化の問題」

☆1939.3. 「絶対矛盾的自己同一」(『思想』)

☆1939.3.30. (深瀬基寛あて)「貴著拝読」15

★1939.12. 鈴木成高『ランケと世界史学』(弘文堂教養文庫)

★1940.1. 三木清「伝統論」(『知性』)

★1940.3.30. 『日本文化の問題』(岩波新書)

★1941.5.~6.「歴史的形成作用としての芸術的創作」(『思想』)

★1941.8. 鈴木成高「進歩主義と歴史主義」(『知性』)⇒『歴史的国家の理念』所収

★1941.9.7. 「国家理由の問題」(『岩波講座 倫理学』第8冊)

(10)

「意味の争奪戦」テーゼであることに,あまり異論はないことと思う。このテーゼによ れば,戦後左派の「強力な思想的主要勢力」によって「帝国主義」として攻撃された晩 年の西田の諸言説は,実は「当時の強力な主要勢力」であった「軍部および日本主義者」

とのあいだで戦われた「意味の争奪戦」であり,その勢力への「批判であり反対であっ たと認識することが出来る」。あらゆる言説は権力への意志であり,その意味では「意 味の争奪戦」以外のものではありえないであろうし,また,この上田論文や,そのテー ゼを敷衍するかたちで生産され続けている「擁護派」の諸論文において繰り返され,ま た付け足されるさまざまな「証拠」の群れは,実証的に言っておおかた信頼のおけるも ので,その内容にかんしてとくに異議があるわけでもない

16

。ただ,「誤読」者の立場 から,上田論文のレトリックにひっかかりを感じる。「西田自身をして語らしめる」と いうこの論文 上田自身は,謙虚に,「論文というよりも,基礎作業」と呼んでいる が においては,「テクストをよく読めば自然にわかる」「テクストをきちんと読め ば,おのずからわかる」「テクストそのものから明らかになる」というような表現がく りかえしなされる一方で,「もっとも強い批判者」である竹内芳郎を批判するにさいし ては,ローカルな「誤読」を指摘することによって竹内の議論全体の切捨てがなされる。

どうも,「意味の争奪戦」テーゼにおいて,西田のテクストひいては上田のテーゼその ものには,「意味(解釈)の争奪戦」の余地がないようだ。読者はただ,正典=聖典と しての西田の「テクスト」を大声で読めば,その「意味」は「おのずから」表出する,

「誤読」は弁解の余地のない罪だ,というところか。これほどまでに「読むことの宗教 的神話」

17

を基盤とする問題機制(probl

ematique

,問いの構造)から生産される言説 には,「巨大な見そこない」があるのではないか,と邪推せずにはいられない。

ここで,ためしに,「擁護派」のある論文(森(1999 ))をとりあげてみよう。この 論文は,「意味の争奪戦」テーゼを忠実になぞりながら,豊富な引用でよくそのテーゼ を敷衍するもので,良質な「典型」としての意義があり,また,とくに「主体」の問題 を焦点化している点でも,筆者が関心を寄せるものである。ふたたび,その「内容」で はなく,この論文が西田のテクストを大声で読む,その「読み方」に注目してみた い

とにかく以上のような「皇室」及び「日本」の「主体化」への拒絶は,差当たって 政治的・軍事的な当時の国粋主義的な右傾化への西田自身の警鐘と見ることができ よう。このような意味での「主体化」の克服を思想的に掘り下げてゆく方向で次の

Metoikosたちの帝国 9

(11)

ようにも云う。

「今日我國文化の問題は,何千年来養ひ来つた縦の世界の特色を維持しつゝ,

之を横の世界性に擴大することになければならない。身心脱落脱落身心と云ふ 如き柔軟心的文化を發揚することでなければならない。主體として他の主體に ・・・・・・・・・・

對することでなく,世界として他の主體を包むことでなければならない。(中

・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・

略)主體として他の主體に対し,他の主體を否定して他を自己となさんとする 如きは,帝國主義に外ならない。それは日本精神ではない」(12

349

18

〔強調 や漢字の新旧字体混在は森によるもの〕

ここに「主体として」でなく,「世界として他を包む」という《主体から世界 ・・・・・

へ》という方向が打ち出されている。勿論,既述のように,ここでは平板な「世界 主義」(コスモポリタン)が意図されているのではない。問題はまさにこの《主体 から世界へ》のその《世界》の理解如何にこそある。その具体化を見てみよう。 ・・

(pp.236

7

たしかに,西田は,はっきりと「帝国主義」を批判しているし,「日本精神」というター ムの「意味の争奪戦」を敢行していることに異論の余地はなさそうにみえる。それはそ れとして,しかし,筆者には,「中略」が気になるのである。ふつう「中略」で予想さ れるのは,そこに引用がはばかられるほど長い文章があり,それが引用者によって不要 と判断された,ということだろう。しかし,ここで「中略」されているのは,たいして 長くもない,たったの二文なのである

而して矛盾的自己同一的に事物に於て結合する一つの世界を構成することでなけれ ばならない。私は東亜の建設者としての日本の使命は此にあると思ふのである。

(⑨59 )

筆者がこのテクスト(『日本文化の問題』)の読者ならば,一文目はまだしも

19

,二文目 はとくに声を大にして読むところだろう。さらに言えば,その引用文の直前の一文(も ちろん,「前略」とわざわざ書いてはいないが)も,読み飛ばすわけにはいかない重要 性を孕んでいる

今日の日本はもはや東海の孤島に位する日本ではない,世界の日本である,ランケ

(12)

の所謂大なる列強の一つである。(⑨58

9

先ほど論じたエリオットの短文のなかで,イギリスのインドに対する帝国主義的支配を 批判する言説と,大文字の「Hi

story

」,すなわち「列強」史観からスコットランドの

「併合」を称揚する言説とがなんの矛盾もなく共存していたのと同様に,西田のテクス トのなかで,「他の主体を否定して他を自己となさんとする」帝国主義をきっぱり否定 することと,「列強の一つ」として「東亜の建設者としての日本の使命」を大声で語る こととが,なんの矛盾もなく両立可能であったのだ ここで,われわれは,『日本文 化の問題』が刊行(1940.

3.30

)された同じ月に,植民地朝鮮では,その一月前の紀元 節に創氏改名が実施されたのをうける形で,雑誌『三千里』で「『内鮮一体』体内の朝 鮮民衆的考察」といった特集

20

が組まれていたことを見逃すわけにはいかない。三木 清や尾崎秀実が呼びかけ,植民地朝鮮の知識人も少なからず希望を見出していた「東亜 協同体」論

21

の季節はすでに去り,エリオットが「強さの証し」と賞賛したスコット ランドの文化的「併合」=「同化」と同じことを,帝国日本は急ピッチで進めていたの である。

この「擁護派」論文によるテクストの「抑圧」が徴候的に物語るのは,「主体」対

「主体」の帝国主義を否定し「日本」「皇室」の主体化を戒める「反-帝国主義」的言説 が,実は,帝国によって主体を否定されるなかで必死に主体化を試みている植民地的

(非-)主体を「世界」の名の下に「包む」(併合する)ような「帝国的問題機制」に乗っ ている,ということだ。そして,筆者はそこに,「巨大な見そこない」を見出すのであ る。少々議論を先取りすることになるが,以下のような言説を,「国家的民族」たりえ ない植民地的(非-)主体の立場から読んでみたら,どうなるだろう

或民族が国家的となると云ふことは,単に主体的としてと云ふことではなく,主体 即世界的として,歴史的世界の個性的なる創造力となることでなければならない。

民族と民族とは,歴史的世界の個性的生命として結合し行くのである。個人は国家 を離れることによつて世界的となるのでなく,却つて国家的たることによつて世界 的となるのである。何となれば国家とは世界の個性化的過程なるが故である。(「国 家理由の問題」『岩波講座 倫理学』(1941 年9月7日)所収,⑨348

9

この3カ月後(11 月26 日),京都の料亭で開かれた座談会「世界史的立場と日本」にお

Metoikosたちの帝国 11

(13)

ける西田の高弟たちによる以下の発言は,西田の盲点が潜在的に有している排除の構造 を如実に物語っている

〈高山〉モラリッシェ・エネルギーの主体は僕は国民だと思ふ。民族といふのは十九 世紀の文化史的概念だが,今日は,過去の歴史はたとひどうあらうと「民族」

といふものでは世界史的な力がない。本当の意味で「国民」といふものが一 切を解決する鍵になつてゐる。モラリッシェ・エネルギーは個人倫理でもな ければ人格倫理でもなく,また血の純潔といふやうなものでもない。文化的 で政治的な「国民」といふものに集中してゐるのが,今日のモラリッシェ・

エネルギーの中心ではないかと思ふ。

〈高坂〉さうなのだ。民族といふものも単に民族としてだけではつまらない。民族が 主体性をもつた場合にそれはどうしても国家的民族の意味を持たなければな らぬ。それが主体性をもたず,自己限定性をもたない民族,つまり「国民」

にならぬ民族は無力だ。その証拠にアイヌみたいなものは結局独立した民族 の意味をもたず,他の国家的民族の中に吸収されて了ふ。ユダヤ民族にして も結局さうなりはしないか。世界史の主体は,そんな意味で国家的民族だと 思ふ。(『中央公論』1942 年1月号,p.185 )

22

「個人」は「国家」を媒介とすることによってのみ「世界的」たりうる。たしかに,帝 国的主体からすれば,「主体から世界へ」というのは開放的な方向性であろうし,「主体 化を戒める」のは反-帝国主義的なジェスチャーと言えるだろう。しかしながら,この 論理に従えば,「国家」を持たない植民地的(非-)主体が「世界」において自己実現 する方策は,(高坂が臆面もなく放言するように)「他の国家的民族の中に吸収されて了 ふ」しかないではないか。西田自身の議論も,その浮世離れした文体のせいであいまい にされているとは言え,やはり「国家的民族」(列強)による「吸収」(併合)の合理化 に落ち着くことは必定である

国家は国体を有し,国体を有するものが国家であるのである。単に特殊的な民族的

生命の上に国家の名を冠すべきではない。個性的に歴史的形成的なるもののみ,世

界に対して,真の国家として独立権を要求し得るのである。単なる民族独立に基礎

を置く抽象的国家観は,現代に於て考へ直さなければならない。斯く云ふのは,民

(14)

族独立を無視すると云ふのではない。すべての民族が歴史的形成的であるが,而も 世界史的立場に於ては,民族と民族との間には,自ら形相と質料との関係がなけれ ばならない。歴史的世界進展の種々なる趨勢に従つて,或民族が形相となり,或民 族が質料となるのである。或民族は質料的に自己自身の歴史的使命を有つと云ふこ とができる。(「哲学論文集第四補遺」(「国体」1944 年2月執筆)⑪197 )

「国家」を持たない/持つことが許されないアイヌ民族や朝鮮民族は,「東亜の建設者」

たる列強日本という「形相」にとっての「質料」

23

であり,「質料的に自己自身の歴史 的使命を有つ」と言われるとき,この「帝国的問題機制」がかかえこむ「排除の内的な 暗闇」

24

の恐るべき暴力性を感じざるをえない。主体性(主権)が否定される植民地状 況における,植民地的(非-)主体によるなけなしの主体化の試みにとって,圧倒的に 強力な主体による外的抑圧(帝国主義)もさることながら,「主体化を戒め」「世界とし て他の主体を包む」主体ならざる主体 実は,それは,「主体の主体」

25

なわけだが による内的排除(「帝国的問題機制」)のほうが,よほど手ごわいともいえる。なぜ なら,後で見るように,植民地的(非-)主体の最後の賭けともいえる「帝国全体のコ ンタクト・ゾーン化」も,肝心の対手である帝国的主体が「背後」に隠れ「無の場所」

を僭称するのであるならば,「コンタクト」の可能性はあらかじめ排除(fore-cl

ose

) されてしまうからだ。

3.西田幾多郎の「誤読」

以上の議論をふまえて,西田によるエリオット「伝統論」の「誤読」を分析しよう。

しばしば,西田による先行テクストの読解は,自分の思索に引きつけて自分なりにいか ようにでも解釈(「強力な誤読」)するものであると言われる。西田のエリオット読解も まさにその通りで,実際,その最初の試みである講演「T.

S.

エリオットと伝統主義」

26

の前口上は,この「誤読」の宣言であるともとれる

ただ今石田〔憲次〕君から御紹介の西田であります。此学会で何かお話をとの事で ありますが,英文学には全くの素人であります。ただ石田君から

T.S.Eliot

の評 論だの詩だのの事に就て伺つてゐますと,その考が何となく私が,現に考へてゐる 哲学上の立場と結びつく様に思ふので,さういふ事をお話して見たいと思ふのであ

Metoikosたちの帝国 13

(15)

ります。(⑬249 )

案の定,石田の回想するように,「英文学の学徒であるその日の一般聴衆(その中には 私をも含めて)にはわかりにくい講演であったが,哲学科の新鋭学者は特に出席して熱 心に聴講」(石田(1971 ),p.189 )

27

するというものになった。つまり,本講演も,基 本的には「私が,現に考へてゐる哲学上の立場」 この場合,その年の夏に発表した

「弁証法的一般者としての世界」や,この直後に執筆・発表される「世界の自己同一と 連続」 の披露以外のなにものでもなく,その中にエリオットの用語が散りばめられ ている,というものだ。しかしながら,ある種の歴史的偶然とはいえ,西田がエリオッ トと出会ったのが,ちょうど西田哲学がその最終形態に向けて(弁証法的)「世界」の 側からの視点 「帝国的」発話の位置 へと転回し,また,この講演の直前に発表 された「社会存在の論理」を嚆矢とする田辺元の「種の論理」に刺戟されるかたちで

(ランケに範をとりつつ)「民族」や「国家」について語り始める時期

28

と重なったこ との意義は大きい。その中で,以下のような「誤読」が生産されるのである

伝統が

catalyst

として世界を統一する,そこが

perception

であると共に

intellect

である。そこに詩が産れて来るのであります。(⑬258 )

このどこか「誤読」なのかというと,エリオットがかの有名な

catalyst

(触媒)の比 喩を案出した際,その主語は「伝統」ではなく「詩人の精神」だった,という単純な事 実にある。すなわち,エリオットの「触媒」の比喩とは,神のごとき詩人が「無からの 創造」を行うとするロマン主義的「個性」崇拝を批判することを目的としたもので,そ こにおいて「詩人の精神」は化学反応における「触媒」に擬せられ,それがなければ化 学反応(芸術の創作)は起こらないが,かといって反応後に新たに生じる化合物(芸術 作品)には,その痕跡(個性)をまったく残さない,とされる。これは,反ロマン主義 的詩学の絶妙な比喩として文学者のあいだで長く語り継がれることになるものだが,た またま「私と汝」を「媒介」する「世界」という思索に没頭していた西田は,この「触 媒」というタームに敏感に反応したものと思われる。そこに,「伝統」=(「世界」=

「媒介」=)「catal

yst

」という構図ができあがる。そもそもエリオットにおいて「伝統」

とは,自然(oi

kos

)的に「継承」されるものではなく,metoi

kos

によって「多大な

骨折り」の末「獲得」されるべき対象である,というところに批評的エッジがあったわ

(16)

けだが,この西田による強力な「誤読」の結果,「伝統」には独特の超越性(のちには

「超越即内在/内在即超越」性)が付与される 「歴史を可能とする条件は超越的な 伝統である」「超越的な伝統の声を聞く時に我々は人間となる」(⑬260 )。

この「伝統=catal

yst

」という「誤読」は,西田の言説においてその後も一貫して保 持され,ランケと接続されることにより「世界史」の思索へと拡大適用されるようにな る。たとえば,1937 年前半に執筆された「種の生成発展の問題」においても,「ティ・

エス・エリオットの云ふ如く,伝統は物質の化合に於ての媒体にも比すべきである」

(⑧195 )とはっきりと「誤読」は継承されているが,それが,ランケの歴史哲学を経 由して,先ほど論じた「帝国的問題機制」へと接続されることになる

深い大きな伝統を有する国民のみ世界歴史的に生きると云ふことができる,生々発 展の伝統を有する我国民は思を此に致さなければならない。皇室といふものは,かゝ る伝統の基礎となつたものと思ふ。王政復古はいつも唯,旧に還ると云ふことでは なく,常に新に踏み出すことであつたのである。(⑧212 )

ここで「皇室」が登場することに,ことさらつかみかかる必要はないだろう

29

。(なお,

この論文は,「学問的方法」や講演「日本文化の問題」に先行する

30

。)むしろ問題は,

「伝統」に媒介される主体=主語が「私」といった個人ではなく「国民」となり,しか も「伝統」に「深い大きな」という限定が加わることによって,潜在的に,「浅い小さ な」伝統をしか持たない国民,さらには国民たりえない(=国家を持たない)民族が排 除されることになる,という点にある。実際,この「深浅の差」は,その後「国体」論 において,世界史的な事実として露骨に承認されることとなる

自己自身に世界を実現した民族が国家であるのである。此故に歴史的世界は,単に 所謂自然的に自己自身を形成するのではない。それは歴史的自然的でなければなら ない。かかる意味に於て世界の自覚と云ふには,深浅の差あることは無論である。

(⑪194

5

これに続く議論が,先ほど引用した「民族と民族との間には,自ら形相と質料との関係 がなければならない」であってみれば,エリオット「伝統論」の「誤読」が徴候的に示 す「政治的無意識」の行方が,はっきりするだろう。すなわち,「超越的な伝統の声」

Metoikosたちの帝国 15

(17)

は「絶対の呼声」(「絶対矛盾的自己同一」⑧420 )となり,その絶対に「直接する」

(「国家理由の問題」⑨349 )ための唯一の媒介が「国家」であるとされるとき,「国家 的民族」たりえない植民地的(非-)主体は,自らの主体化を希求するかぎり,「国家」

(列強)に併合されることにより「帝国」の臣民=主体に「ならなければならない」と いうことになるのだ。ここにおいて,たかだか一民族の「伝統の基礎」であった「皇室」

が,「世界史的深大性」を持ち「世界に光被すべき」ものとして「おほやけ」 まさ に「大きな家」Meta-Oi

kos

と呼ばれることとなる(⑪202 ,203 )。

ここで,次節の議論へのつなぎの意味もこめて,西田によるエリオット「伝統論」の

「誤読」を,西田の愛弟子・三木清のそれと比較してみたい。ふたりの対談において,

しばしばエリオットの名前が挙がっているが,そこでは,基本的に,西田に三木が相槌 を打つ以上のことはなされていない。しかし,三木のより正確な(?)「誤読」との比 較から見いだせる,ふたりの「伝統論」理解の相違には,西田の「帝国的問題機制」の 性格を浮かび上がらせるような,たいへん興味深いものがあると思われるのである。

1940

年1月,ちょうど西田が新書版『日本文化の問題』を書き上げようとしていた 頃,三木清は自らの「伝統論」を『知性』誌に発表する。この論文は,翌年には『芸術 論叢書』第4巻(河出書房),および,三木清自身の編集になる『新版・現代哲学辞典』

(日本評論社)の一項目として収録され,さらには『哲学ノート』(河出書房)にも再録 され,非常によく読まれるものとなった。実際,伝統論が流行っていたのである

31

。と はいえ,三木がエリオットに言及したのはこれが初めてというわけではなく,1937 年 9月にはすでに,「制度」の超越(永遠)即内在(歴史)性を説明する際に,エリオッ トの「歴史的感覚」を的確に援用している

32

さて,三木清「伝統論」であるが,その第3節は「およそ伝統と創造との関係は如何 なるものであらうか」という問いかけから始まる。そこでエリオット「伝統論」を援用 しながら,「伝統」=「形」という定式化を行う

「感情の『偉大さ』,強度が,素成分が問題であるのでなく,芸術的過程の強度が,

いはばその下で鎔和が行はれる圧力が問題である」とエリオットはいつてゐる。伝

統はかかる圧力として創造の媒質である。それが圧力を意味するのはそれが形であ

るためである。創造には伝統が必要である。形が形を喚び起すのであり,そこに伝

統があるのである。(pp.313

4

(18)

ここで引用されている文は,たしかにエリオット「伝統論」からのものだが,構文のあ いまいさも手伝ってか(実際,三木は技術的な誤訳を犯している

33

),めったに引用さ れる箇所ではない。また,エリオットの原文では「圧力」を「伝統」と直接結びつける ことはできないので,これはまさに独創的な「誤読」と言えるだろう。西田の「誤読」

が「伝統」=「触媒」=「絶対の呼声」と展開していったのに対して,三木の「誤読」

は「伝統」=「圧力」=「形」という構図をとる。そして,議論は以下のように展開す る

しかるに伝統もまた創造されるものであつた。伝統が創造されるといふのは,それ が形を変化する

transform

といふことである。(中略)もちろん伝統は破壊され没 落する。伝統も創造によって伝統として生きるのであるとすれば,伝統を作り得る ものはまた伝統を毀し得るものでなければならぬ。伝統を毀し得るものであつて伝 統を有し得る,なぜなら伝統もまた作られるものであるから。(p.314

5

ここに「伝統」という「形」の「変化」(trans-form)の契機,さらには「破壊」「没 落」の可能性すらあることに,筆者はとくに注目したい。ここで,「形」(Form),「変 形」(transformati

on

)は,三木の技術哲学・歴史哲学の鍵概念である。他方,西田が,

その歴史哲学の根本概念として「メタモルフォーゼ」という表現を多用することもよく 知られている。言うまでもなく,ラテン語系の

trans-form

をそのままギリシア語系に 翻訳すれば

meta-morphose

ということになり,実際,三木自身もこのふたつを等価と して扱っているようにみえる

形の変化即ち

transformation

(Metamorphose )が歴史の根本概念である。形が 生成し発展し,また消滅するといふことがなければ,歴史は考へられない。(「技術」,

p.231

しかし,筆者は,西田の「メタモルフォーゼ」と三木の「transform 」とのあいだに決 定的差異を見出し,それが,エリオット「伝統論」にたいするふたりの「誤読」の差異 に呼応するものだと考える。実際,西田は,エリオット「伝統論」と出会った頃,すな わち「世界の自己同一と連続」「行為的直観の立場」あたりから「メタモルフォーゼ」

という表現を多用しはじめる。たとえば

Metoikosたちの帝国 17

(19)

歴史は発展ではなくして,メタモルフォーゼでなければならない。種々なる時代は いづれも原歴史のメタモルフォーゼだと考へることができるであらう。而していづ れの時代も,それぞれに永遠の今の自己限定として,イデアの影を映すといふこと ができる。(「世界の自己同一と連続」⑦72 )

「いま・ここ」が「原歴史のメタモルフォーゼ」であるならば,一瞬一瞬において「全 体」は完結していることになる。「直接する」のは非時間的=不変の絶対者(「神」「伝 統」「国体」「皇室」「おほやけ」……Meta-Oi

kos

はさまざまな名を持つ)であるので,

そこに「接変」が生じて「全体」が「コンタクト・ゾーン化」される余地はない。そし て,絶対者と「直接する」ための媒介が「国家」とされるならば,植民地的(非-)主 体には「声がかからない」ということになる。(実際,上の引用文の直後には,先ほど 引用した「世界史的運命の働かない国民の歴史といふものはない」が来る。)

むろん,むりやり対蹠点を見出そうとして,三木の「transform 」に可能性を読みこ むのは,筆者のやや過剰な「誤読」であろう。しかし,自らの「接変」の可能性を持つ

「超越」ではなく「変容」の

meta-

を持つ 思想には,「絶対の呼声」にしか耳 を傾けない思想とは異なり,対手に呼びかけ,また対手の呼びかけに応答して自己を変 容(ときには没落・破壊)させる可能性が,少なくともあらかじめ排除されることなく,

潜在しているのではないだろうか

東亜協同体の建設は日本の東亜征服を意味するのではなく却つて新しい基礎におけ る共存共栄を意味するのでなければならぬ以上,また日本は自らイニシアチヴをと つて作るこの東亜の新秩序のうちに自らも入つてゆくべきものである以上,日本も 日本の文化もこの新秩序に相応する革新を遂げなければならぬ。日本がそのままで あつて東亜協同体が建設されるといふことは論理的にも不可能である。(「東亜思想 の根拠」,p.315 )

以下では,この「呼びかけ」に潜在する「可能性」への応答として,崔載瑞の「国民文

学」運動を考察してみたい。

(20)

4.崔載瑞 「国民文学」の「問題」

34

戸坂潤は,西田哲学を「アカデミー哲学であってジャーナリスティクな哲学ではなく,

又なくなりつつある」と批判した(戸坂(1933 ),p.343 )。戸坂は,批評用語を,まず 自分で定義してから使用する思想家であったから,ここで使われている「アカデミー」

「ジャーナリスティク」という用語も,むろん,通 俗 的

ジャーナリスティク

な意味で用いられているはず がない

アカデミー化とは科学が持つ問題提出の上の一つの態度の名でなければならないの ・・・・

である。アカデミーに於ては科学のもつ問題は,全くアカデミー自身のもつ伝統の 内からのみ発生する。このような諸問題は併しながら,この伝統の内でこそ,その 必然性・解決の必要・を有つが,それであるからと云つて,この伝統の外へ出てま でも,問題としての資格を保てるとは限らない。処がアカデミーにとっては,問題 ・・

と云えば取りも直さずかかる伝統的問題のことであり,之を解決して了えばもはや 解くべき問題はない。(戸坂(1930 ),pp.89

90

。強調は原文。)

さらに,この「問題」という問題についても,戸坂はすでに理論化していた(戸坂

(1929 )) それは,アルチュセールの「問題機制」を髣髴とさせる。そこで提出され る(「伝統的な問題」「既成的問題」「立場を経た問題」と対比される)「独創的な問題」

「突発的問題」「立場を経ない問題」という「問題」は,まさに,アルチュセールの「認 識論的切断」に相通じるものがあると言えるのではないだろうか。いずれにせよ,ここ では,アカデミズムの言説というものを,ある特定の問題機制の内部でのみ「必然性」

をもつ「問題」にのみ固執し,そこに「切断」を持ちこまないもの,と理解する。

このことに関連して,崔載瑞のある発言に注目してみたい。朝鮮半島における皇民化 政策の片棒をかつぐかたちで「国民文学」運動を指導していた崔載瑞は,自らが主幹と して編集する『国民文学』誌での座談会(出席者は田中英光ほか)において,以下のよ うな発言をしている

私も学校に居る時分に外国文学の理論ばかりやりましたが,学校を出て文壇に携は つて見てどんな問題にぶつかつても学校で習つた理論で説明がついたのです。とこ ろが一応国民文学に携つて見ると,何一つ定見がない。国民文学とは何ぞやといふ

Metoikosたちの帝国 19

(21)

ことについては一言も教へられなかつたのですね。これ程徹底した外国文学教育は ないと思ふのですが,かういふことにぶつかつて見ると全然見当がつかない,結局 自分で切開いて行くより他ないといふ結果になるのです。(座談会「軍人と作家・

徴兵の感激を語る」『国民文学』Ⅱ-6(1942 年7月),p.51 )

もちろん,座談会での発言を,あまり真に受けるのは賢明ではないだろう。ましてや,

「親日派」知識人の代表格が,在鮮内地人御用作家や帝国軍人を招いての座談会で行っ た発言などに,ある種の「真実」を見出すことなど馬鹿げているかもしれない。しかし,

「国民文学」という「問題」が,「アカデミー的問題」の外部にあった,という崔載瑞の 素直な実感は,なにがしかを物語っているように思えてならない。すなわち,結果的に は(「解答」としては)まちがいなく「日帝への協力」であり「民族への裏切り」であっ た崔載瑞の「国民文学」運動であるが,たとえ一瞬にして潰えたとはいえ,なんらかの

「独創的な問題」を生産する試みではなかったのか 「日本文化の問題」というアカ デミー的・帝国的問題機制にたいして,崔載瑞が案出する「国民文学」の「問題」には,

なんらかの「認識論的切断」の可能性があったのではないか 最後に,このことを 問うてみたい。

このような「問題」設定は,筆者自身の崔載瑞論(三原(2008 ))に,重大な修正を 加えることとなるだろう。拙稿「崔載瑞の

Order

」において,筆者は,京城帝大英文 科における英文学研究から始まり,主知主義文学批評の旗手として文壇に地歩を固め,

文芸誌『人文評論』『国民文学』の主幹編集者として時局に深くコミットした末に解放 後は代表的「親日派」として公職を追放され,その後アカデミズムに復帰してからは純 粋な文学研究の世界に引き篭もった,という崔載瑞の遍歴を細かく追う中で,そこに一 貫する「Order を最終審級とする「主体化」の理論」を剔抉し,その「理論への意志」

が,「Order 」(秩序=命令)がつねに外部から到来する植民地状況において破綻する過 程を指して,植民地状況における「理論」そのものの「悲劇」と呼んだ。また,その

「悲劇」のクライマックスとして,崔載瑞の「転向」の瞬間を,自らの理論的主体=主 語(発話の位置)を「朝鮮」から「日本」に転倒させたところに見出した。この議論の 大枠は,今でも支持するものであるが,しかし,「朝鮮」

「日本」という二項対立のあ いだの斜線に位置する「国民」をたんなる媒介(「お守り言葉」)とみなして「問題」化 しなかったことに,重大な「見そこない」があったと,今では考えている。この「国民」

という斜線には,「切断」の契機があったのではないのだろうか,と。

(22)

植民地的(非-)主体とは,いわば,自分の家(oi

kos

)から一歩も出ないでいるの に,いつのまにか「国家」や「主権」を奪われ

metoikos

になってしまった個人である。

この個人にとって,「主体化」は,切実な問題である。たとえば,京城帝大英文科で崔 載瑞の同級生だった玄永燮は,「皇室」という

Meta-Oikos

に徹底的に同化することに よって主体化=臣民化する必要を強く訴える「徹底一体論者」になるわけだが

35

,左翼 学生の時分に『京城帝大英文学会会報』に発表した論文(当時は玄永男)においては,

「TheMasses (大衆)」を同化の対象として選び,「彼等は何ものをも呑み何ものをも 抱き得る,洋々たる大海の如きものである」と称えていた(玄永燮(1930 ),p.6 )。共 通するのは,絶対不変の

Meta-Oikos

に抱擁される欲望であり,「絶対」の名が「大衆」

から「天皇」に置き換わっても,その問題機制にまったく変動はない。他方,まさに同 じ頃に崔載瑞が『京城帝大英文学会会報』に載せていた論文は純粋にアカデミックな英 文学研究で,その中で崔載瑞が,近代的・主知的主体の起源を系譜学的に探究している 姿を見て取ることができる。その後,朝鮮批評壇にデビューした彼の出世作である「諷 刺文学論」において「打開策」としての「自己諷刺」を称揚する際の,「人生ですべて のものを失ったとしても,万が一その失望を解剖し,その虚無を暴露し,その無価値を 冷笑する理智力を持っているならば,彼はいまだに彼自身の主人である」(崔載瑞

(1935 ),拙訳)という議論は,知的主体の系譜学的探求の延長線上にあると考えられ る。すなわち,たとえ主体化の契機を奪われているにしても,自己を「解剖」する行為 を通じて,少なくとも,その知的=普遍的行為の

agent

としての主体性だけでも確保 しようという,なけなしの試みなのである。比喩的に言えば,故郷(oi

kos

)を奪われ

metoikos

化した植民地的(非-)主体が,自己を異化=二重化し,自らを眺める

meta

な(「超越論的」

36

)視点を獲得することによって,擬似-主体化する試みである。

玄永燮との大きな違いは,崔載瑞の主体化の図式には,外部に実体化された「絶対」の 媒介がない,ということである。崔載瑞にとって

Order

とは絶対的「基準」ではある が,主体化の試みはあくまで内在的・主知的に遂行される。この時期に『改造』論文な

どで崔載瑞が展開したドグマ論が,外在的ドグマの誘惑を退け,内在的にドグマを生成

し,しかしそれを決して固定化させないために「批評的精神」によって不断の突き崩し を行っていくものであったことは,この主体化の図式と軌を一にするものである

37

。そ の方向性で,『人文評論』(1939

年10月~1941年4月)における党派を越えた朝鮮文人

の糾合,すなわち「人民戦線」的とも呼べる集団的主体化が内在的に試みられたと考え られる。

Metoikosたちの帝国 21

(23)

その『人文評論』も,総督府主導の雑誌統廃合のためにあっけなく廃刊となる。その 後,しばらくの準備期間を経て,『国民文学』が,「半島唯一の文化雑誌」として,崔載 瑞を編集兼発行人として,1941 年11 月に創刊される。「結局は最初から当局の国策宣伝 誌として出発した」(林鍾国(1976 ),p.51 )とみなされる『国民文学』も,当初は

「年四回国語版,八回諺文版」を予定していたが,まもなく国語版のみの雑誌となり,

文字通り「親日派」の機関誌となる。しかし,である。ここまで「彼自身の主人」とい う矜持を持ち続けてきた崔載瑞が,それほど簡単に「国策宣伝」の一機関に甘んじて身 を堕したと考えてよいのだろうか。この創刊とまさに同じ月,京都の料亭で高山・高坂 が語った「国民」と,崔載瑞が最後の望みをかけて船出した『国民文学』の「国民」と が,まったく同じものだったと短絡してよいのだろうか。そもそも,この「国民文学」

という名称は総督府関係者に押し付けられたものであったかもしれないし,また,結果 として,最終的には高山・高坂的「国民」に抱擁されることになるとはいえ,崔載瑞が

「国民文学」運動に主体的にコミットするにあたって,そこに「国民」をあえて「誤読」

し,「横領」(appropri

ate

)する契機は,まったくなかったのか アカデミズム的問 題機制から「切断」された「突発的な問題」(それは,今日でいう「ポストコロニアル 文学」の「問題」につながるものであったかもしれない)を不意に生産する瞬間はなかっ たのか。

『国民文学』創刊号(1941 年11 月)に,いわばマニフェストーとして崔載瑞が発表 した「国民文学の要件」の冒頭第二段落は,以下のような調子である

国民的と云ふ文字を無造作に考へる人も困るが,然しこの際国民文学を余り偏狭に 考へるのも禁物である。国民文学はこれから国民全体がかつて築き上げなくてはな らない大いなる文学である。今から垣を作つて狭く閉ぢこもる必要はない。殊に或 る限られた事柄を限られた方法で書かないと国民文学にならないやうに考へるのは 実は国民文学の前途を過まるものである。国民文学は須く高い目標と広い範囲を持 つべきである。中心に国民的背景さへしつかりしてゐれば無理に小さく固める必要 は無いではないか?(p.34 )

すでに「国民的と云ふ文字」を,意識的に拡大解釈 「誤読」 しようとする姿勢

がうかがえる。実際,本論文のなかでは,国民文学が「これから築き上げられるべき文

学」(p.35 )であることが再三強調され,作家には「国民を形作るために書くと云ふ激

参照

関連したドキュメント

しかし何かを不思議だと思うことは勉強をする最も良い動機だと思うので,興味を 持たれた方は以下の文献リストなどを参考に各自理解を深められたい.少しだけ案

C. 

市民的その他のあらゆる分野において、他の 者との平等を基礎として全ての人権及び基本

その目的は,洛中各所にある寺社,武家,公家などの土地所有権を調査したうえ

 “ボランティア”と言えば、ラテン語を語源とし、自

「海洋の管理」を主たる目的として、海洋に関する人間の活動を律する原則へ転換したと

 此準備的、先駆的の目的を過 あやま りて法律は自からその貴尊を傷るに至

「あるシステムを自己準拠的システムと言い表すことができるのは,そのシ