20世紀初期における陳独秀の救国意識と優生学の傾 向
その他のタイトル Chen Duxin's consciousness of National Crisis and his view of Eugenics in the early
twentieth century
著者 亀井 拓
雑誌名 史泉
巻 117
ページ A1‑A18
発行年 2013‑01‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/00023657
〈論文〉
20 世紀初期における陳独秀の 救国意識と優生学の傾向
亀 井 拓
は じ め に
19世紀後半におけるいわゆる「西洋の衝撃」は中国だけではなく,東アジア全体に多大な影 響を与えた。それはそれまで東アジアに存在した世界観を覆しただけでなく,生活そのものを根 底からひっくり返すような変化を与えたのである。幕末明治期の日本が紆余曲折を経ながらもそ れなりに安定した近代化を果たした一方,清朝末期以降の中国では政治的な混乱や経済の歪み,
派閥や軍閥の争いなどネガティブに作用した要素が多く,長らく不安定な情勢が続くことになっ た。だがこの動乱期においてさまざまな思想や理論が挑戦され,百家争鳴の中から選択が行われ ていったのもまた事実である。
陳独秀は清仏戦争前の1879年に安徽省の懐寧県で生まれ,科挙に受かるための教育を受けな がら育ったが,伝統的なシステムに疑問を持ち,伝統的な風習や世界観にも疑問を抱くようにな った。1901年にはじめて日本へ留学し,数度の日本滞在を通して西洋の思想や制度に触れた彼 は,帰国後西洋の思想や制度を上手く取り入れることで当時の中国が直面していた問題を解決し ようと数多くの文章を執筆し,1910年代に盛んになった新文化運動のオピニオン・リーダーと して,また1921年には中国共産党を創設するメンバーの一人として活躍した。こうして彼は中 国近現代史の中で欠くことのできない重要人物の一人となった。
本稿は清末頃に西洋から受容した「社会進化論」をベースに,20世紀初期の中国で多くの知 識人から注目されていた陳独秀を通して,当時思想的なリーダーであった彼が如何に自国を世界 の中で位置付けていたのかについて考察し,彼が列強による中国進出から中国を守ろうと行動し ていた中で,当時世界的に興隆しつつあった「優生学」を彼はどのように受け止めていたのかに ついて,中国共産党が結党される1921年頃までを20世紀初期と定義して考察するものである。
清末における救国意識と社会進化論の影響についての先行研究は数多く存在する。伊藤秀一氏 の「進化論と中国近代思想」(1)は研究ノートであるが中国における社会進化論の受容と影響につ いて論じており,区建英氏は厳復を事例に個別の例を論じている(2)。また石川禎浩氏の「梁啓超 と文明の視座」(3)では梁啓超を事例にどのように世界を文明というレンズを通して自身や他者を 認識するようになったかを論じている。これらの論文はどのように中国が西洋の思想を受け入 れ,なぜそのように受け入れたのかについて重点が置かれている。
陳独秀に関する研究も多くあり,横山宏章氏の『陳独秀』(4)は日本におけるその代表例である。
陳独秀の救国意識に関しては周程氏(5)や游国栄氏(6)の研究があり,「民主と科学」というスロー
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ガンの下に国民国家を建設し,それによって彼は中国を改造しようとしていたと論じられてお り,周程氏の論文では進化論が陳の思想の中でどのような作用をもたらしたのかを論じている。
しかしこれまでの陳独秀研究では彼の政治や革命の思想,もしくはその変化が主な研究対象にな っている傾向がある。
中国における優生学に関しては,坂元ひろ子氏の「恋愛神聖と民族改良の「科学」」(7)やロンキ
・ソン氏の『中国人の個性−国民性から個人まで』の中(8)などで,その受容から発展までを抗日 戦争前までを範囲として論じている。しかしフェミニズムや医療,衛生面で優生学が取り挙げら れることはあっても,中国の近代化の過程において優生学やそれに関わる論説がどのような役割 を果たしたのかについての研究は全体的に少ない。これは優生学が残した負の歴史のイメージが 強いことや1949年の建国までの道筋を描こうとする中国近現代史研究の傾向の中ではその関連 性を論じにくいという一面,また溝口雄三氏が魯迅の小説における社会批判を題材として指摘し たように,当時知識人の一般的な農民像は「愚か」であり(9),このように知識人がエリート意識 を持って社会の中で虐げられていた人々を見下していたことが伺えるような内容をあまり積極的 に語ろうとはされにくい,という点が考えられる。陳独秀の優生学の傾向についても,先に挙げ た坂元氏とソン氏の両論文とも記述自体はあるものの詳しく論じられているわけではなく,中国 の近代化のために彼は優生学をどのように活用したかを論じたものは皆無に等しい。当時世界的 に大きな影響力を持ち始めていた優生学が中国や陳独秀において一体どのように受け止められて いたのだろうか。
1.社会進化論の受容と自国認識
生物の移り変わりを説明したチャールズ・ダーウィン(1809−1882)の進化論を人間社会にも 適用したハーバード・スペンサー(1820−1903)の「社会進化論」は,人種や民族を序列化し,
「優勝劣敗」という競争理論に基づいて強い民族や国家は生き残り,弱い民族や国家は淘汰され てしまうという概念を唱えた。そしてこの考えは植民地支配を正当化し,一番進んだ段階にいる と考えられていた白人が遅れた未開民族を教化するために率先して干渉することが,両者にとっ て利益のあるものだと考えられるようになった。彼の代表的な著書である『総合哲学体系』
(1860)や『社会学原理』(1876−1897)などが1860年から1903年の間にアメリカで約36万部 を売り上げたことから分かるように,彼のこの思想は世界的に旋風を巻き起こした(10)。
この社会進化論を中国に紹介したのは厳復(1853−1921)である。彼は日清戦争終結の翌年で ある1896年に,トマス・ハクスリー(1825−1895)の『進化と倫理』(1893)に彼のコメントを 付した訳書『天演論』を出版した。イギリス留学経験をもつ彼は帰国後教育に従事していたが,
日本との戦争に敗れるというショックから政治改革の必要性を認識するようになり,改革を正当 化するために進化論という意味である『天演論』を出版して,それまで一般的であった中華思想 を批判し,社会進化論に基づいて中国が西洋に比べ「遅れ」をとってしまっていると知識階級に 警告した。
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中国の現状を説明し,変革の必要性を正当化する理論としての社会進化論は,その後戊戌変法 に代表される変法派知識人にも影響を与えた。例えば外国の中国進出に危機感を抱いた梁啓超
(1873−1929)や譚嗣同(1865−1898)などのような人物に民族の序列や「優勝劣敗」といった
「社会進化論」の影響を見ることは容易である。また康有為(1858−1927)は『春秋董氏学』の 中で,徳があれば夷狄は中国になり,徳がなければ中国は夷狄になると述べるなど(11),公羊学 に基づいた「進化」と「退化」という概念を通して,満州族王朝の支配を正当化し,彼らによる 立憲君主制への改革が可能であることを論じた。このように彼ら立憲派は「進化」やそれに付随 する「退化」という概念を通して,このままでは西洋に比べて劣っている中国が彼らによって淘 汰され滅ぼされてしまうと説き,そう主張することによって政治や社会の改革を正当化したので ある。しかし西洋で生まれた概念を全くそのまま用いたのではなかった。
およそ黒色,紅色,椶色の人種は,血管の中の微生物や脳の角度が皆白人と全くかけ離れて いるが,ただ黄色人だけは白人とそう変わらない。故に白人ができることで黄色人にできな いことは無い。日本が西洋のようになったのが明確な証拠である。日本の種はもともとわが 国から出ており,彼らにとって長所の部分であるものが必ずわれわれの短所であるという事 はない。(12)
この文章は梁啓超が1897年に「論中国之将強」の中で書いた一節であるが,確かに社会進化 論に基づいて人種を序列化し,同じ黄色人種であるインドに関して低い評価を与えているが,日 本の事例から黄色人,特に東アジアには希望があり,「黄色人種と白色人種を比べれば,今日に おいてはその優劣に差があるが,今後の戦いの勝敗如何はまだ決まっていない」(13)と考え,人種 や民族の段階差は相対的なものであると捉えていた。
このように中国風に再構築された社会進化論は,中国が西洋列強に瓜分されている現状を説明 するだけではなく,「自強」に取り掛かれば中国も列強に抵抗できるようになることを理論的に 説明したのである。その後の義和団事件の賠償金問題や辛亥革命後の政治的混乱により,より多 くの中国知識人が中国に対して危機感を持つようになると,これらの考えは近代的な政治体制や 産業を中国に取り入れようとする知識人たちの間により広く普及し,彼らの主張を根底から支え る理論になった。
2.陳独秀における社会進化論と世界認識
陳独秀が生まれた当時,彼を取り巻く環境はめまぐるしく変化していた。二度のアヘン戦争に 敗れたものの,清朝に伝統的な世界観を変更するつもりはなく,科挙制度もまだ残っていた。そ の頃の自身について陳は以下のように書いている。
十年前(14),私が家で勉強していたときは,毎日ただ食べることと寝ることだけを知ってい
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て,何か為そうと奮い立ってもただ文章を読み,偉業と光輝を掠め取ろうと考えていただけ だった。国家が何であって自分とどんな関係があるかなどどうして知っていただろうか。甲 午の年になってやっと日本とかいうのがわれわれ中国を打ち負かしたと聞き,庚子の年にな って〔・・・〕八国連合軍が中国を打ち負かしたと聞いた。このとき私はやっと世界中の人 間は国々に分かれていることを知った。それぞれ境界と社会を持って上下関係なく暮らして おり,われわれ中国も世界にある万国の一国であり,私も中国人の中の一人なのだ。(15)
彼もまたのちに改革・革命運動に参加する人々と同じく,日清戦争やその後の動乱を通じて世 界を知り,伝統的な価値観や世界観に疑問を抱いたのであった。
疑問を抱くだけでなく,世界や中国の現状を見ようとしない清朝への批判を行う点で彼はその 典型である。彼の最も初期の文章のひとつである「安徽愛国会演説」(1903)では,帝政ロシア が東北三省で好き放題しているにもかかわらず,清朝はそれを黙認していることを批判し,この ままの状態が続けば中国は諸外国に瓜分され,「亡国の民」であるインドやポーランドのように 悲惨な結果に陥ると警告している。また知識人が危機意識を高めている傍ら,民衆レベルでは危 機感が皆無であることを指摘し,この現状を改善するために『安徽俗話報』(1904−1905)を出 版し,この中で当時の中国の状態を「まだ存在しているとはいえ,既に世界の中で滅びた国」(16)
と表現して,「国が滅びれば家もなくなる」(17)と人々に危機意識を芽生えさせようとした。
このように陳独秀においても列強による中国進出と清朝の不甲斐なさを目の当たりにし,中国 を危機から救おうと考えるに至ったのである。しかしこの時期の彼の文章に明確な社会進化論的 表現は見られない。確かに西洋を「文明の頂点」(18)と一番進んだ社会であると捉え,中国の歴史 を「酋長時代」「君主時代」「君主世襲の制度」「封建制度」と発展してきたと述べ(19),欧米の思 想が彼のベースとなっているのが見て取れるが,「安徽愛国会演説」において「ロシアがわれわ れ中国人を虐待するのはすでに一日のことではない」(20)と表現し,『安徽俗話報』においては,
中国各地が列強に瓜分されている状況を「洋兵に踏みにじられる」(21)と表現したり,「外国にい じめられている」(22)と表現したりしており,明確な社会進化論的言説を探し出すのは困難であ る。
諸外国の進出による中国の荒廃の原因について彼は同雑誌の「亡国編」の中で以下のように述 べている。
よいものは日に日に盛んになり,悪いものは誰も欲しがらないため日に日に衰えていき,や がてこの世界に生存し得なくなる。
〔中略〕
維新前の日本も工芸の学問を重んじることを知らなかったため,いろいろなものの製造がよ くなく,日に日に輸入品が増えた。だが日本の商人がこの道理(=工芸の学問を重んじるこ と:筆者注)を理解するに従って,工場を建てて西洋のいろいろなものを模造し,何年も経 たない間に国内のものはほぼ自国で製造し,海外からの輸入品は年々消えていって,外国商
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人が彼らのお金を弄ろうとしてもなかなか難しくなった。最近になって日本国内用のために 製造するだけでなく,西洋の模造品を中国や朝鮮,南洋など至るところで売るようになり,
だからこそ彼らは富国強兵をすることができ,西洋人に虐められる心配が無いのである。(23)
このように古典派自由経済論的な理論をもとに,優れた製品を作り出す西洋に中国製品が負け てしまっており,しかも前後の文脈によれば港湾や鉄道,鉱山の権利までもが諸外国に渡ってし まえば,生産活動に従事できない中国は外国に依存するしかなく,彼らに蹂躙されるのは当然の 成り行きだと述べる。そしてそれを許しているのは中国人の性質だと主張する。
われわれだけが〔中略〕ただ土地を買い,家を建て,店を開き,官位のために賄賂を渡すこ としか知らず,工場を開くためにお金を出そうとしない。読書人もただ教育に携わって科挙 を受けることしか知らず,工芸製造の学問を重んじようとしない。(24)
皇帝が悪いのではない,官僚が悪いのでもない,兵が強くないことや財源の不足でも,外国 が中国を虐めているからでも,地方の匪賊が悪さをしているからでもない。私の所見では,
およそ一国の興亡はすべて国民の性質の善し悪しに基づいて移り変わる。われわれ中国人は 生まれ持った悪い性質がいくつかあり,それが亡国の原因になっている。(25)
このように彼は当時の中国の様子を生産力や土地などの経済的な要因や人間の性質によって説 明し,「滅びた国」と看做していたインドやポーランドなどを,「皆ただ自分の身や家,生命を守 ることしか知らないため,国に忠を尽して報いようとはしなかった。〔中略〕皆国事のことを問 わなかったため,滅亡のレベルに達してしまった」(26)と表現し,社会進化論による説明ではなく 内発的な原因に重点を置くことによって列強の進んだ経済社会に抵抗できない理由を説明し,中 国がそうならないために一人ひとりが国民意識をもち,奮い立って自強に取り掛かるべきだと主 張した。
しかし彼が社会進化論的な思考を知らなかったとは考えにくい。なぜなら『安徽俗話報』の中 で他の論者は社会進化論をベースとした文章を書いているからである。「衛生」を担当した鐵郎 は,「国が少しでも弱ければ強いものに奪われ,身体が少しでも弱ければ強い者に制される。現 在の時勢は強弱の競争で,平等は実現し得ない」(27)と述べており,世界を生存競争の場として捉 えている。陳独秀はマルクス主義を受け入れるさい,早くからその存在を知ってはいたものの,
中国を改造する理論として結び付けるまで時間がかかったのと同じように,陳は当時社会進化論 を知ってはいたものの,まだ改革の理論として関連づけることができなかったと考えられる(28)。 彼が社会進化論を前面に出すのは『新青年』(1915−1926)を出版してからである。1巻6号の
「吾人最後之覚悟」で彼は「進化の原則は適者生存であり,周りの状況に応じて適応しない者は 滅びざるを得ない。最近,日本と韓国の前例がある」(29)と述べている。1巻1号の「敬告青年」
では,「(中国)固有の倫理,法律,学術,礼俗の中で封建制度の遺産でないものがない。白人の
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所為と比べて,同じ世界にいるといえども,思想の遅れは数千年に及ぶ」(30)と述べ,また同巻同 号の「法蘭西人與近代文明」ではインドを中国と並列させて,「この2つの文明は相違点がない わけではないがほぼ同じである。その質において両国は古代文明の格式から抜け出せていな い」(31)と述べていることから分かるとおり,民族の序列をも彼は受け入れていた。
陳は1920年前後にマルクス主義を受け入れるが,8巻3号の「国慶記念底価値」で「封建か ら共和,共和から社会主義,これは社会進化が必ず通るレールであり,中国も例外ではない」(32)
と述べ,マルクス主義的な段階論を受け入れながらも「進化」による世界認識を続けている。ま た「太平洋会議與太平洋弱小民族」(9巻5号)では,列強が本格的に乗り込んでくれば「中国 人や朝鮮人,シベリア人は解放の希望がもてなくなるだけでなく,抑圧の程度もひどくなり,特 に中国はもし激しい抵抗をしなければ,遅かれ早かれ列強による分割か共同管理の運命を避けら れない」(33)と述べ,やはり中国を世界の中で遅れた弱小国であると捉えている。
一方で「人種差別待遇問題」という文章の中では以下のように述べている。
われわれ黄色人種の文明と経済程度には希望がある。現在は白人に敵わないとはいえ,差別 待遇を受けるほどではない。〔中略〕われわれ黄色人が白人に平等を求めるからには,まず 黄色人が黄色人に対して平等に扱うべきだ。もし黄色人が黄色人に対する中国の特殊地位や 朝鮮の主従関係などを打ち破れないのであれば,どのような面構えで白人に平等待遇を要求 するのか。(34)
黄色人種の将来に関しては希望をもち,黄色人種の団結を呼びかけるという梁啓超と非常によ く似た認識を陳もしていることが分かる。
だが「朝鮮独立運動之感想」を見ると,朝鮮の三一独立運動について「朝鮮民族の輝かしい活 動をみれば,中国民族の恥はさらに明らかである」(35)と述べ,1921年に皆平に宛てた手紙の中に は,「われわれ中国人の脳は数千年の文学や哲学に惑わされ,まるで科学的な頭脳や興味を持っ ていないようである。〔・・・〕さらにいえば,中国だけでなく全世界を含めて,現在はただ科 学だけを研究するべきであって,すでに非現実的な哲学の時代ではなくなっている。〔・・・〕
謡言や夢物語を数千年語って来た中国やインドの大瞑想家たちの宇宙や人生に関する知識は,こ こ百年余りの間に科学者が明かしてきたものと比べて遠く及ばない。いい加減目覚めるべき だ」(36)と書いてあることから分かるとおり,中国の変革が全く進んでおらず,古い状態のままで あることを一番の問題として嘆き,だからこそ伝統的な価値観に縛られない,世界の潮流をよく 知る自分たち新式の知識人が率先して人々を眠りから覚まさせる役目にある,と自認識していた ことが読み取れる。
つまり彼は社会進化論を理論の中心に据えることによって,明らかにその色眼鏡を通して世界 を認識するようになり,中国を「滅びかけの国」と捉え,中国の危機や遅れ,そしてその原因ま でも理解した新式の知識人として危機感が希薄な人々に世界を教え,弱肉強食の世界で如何に中 国が生き残っていくか啓蒙する立場に自分はあると認識していたのだ(37)。
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3.陳独秀の言説における優生学の傾向
陳は中国の後進性を認識し,遅れの原因を民衆の悪い精神に置いた。民衆の「井の中の蛙」精 神を取り払うことが優勝劣敗の世界の中で中国が独立を守り続けていくために必要であると見て 取った彼は,「民主と科学」というスローガンのもとに『新青年』を出版し,青年の思想を改造 し,修養を導くことで人々の意識改革を目指した(38)。「民主と科学」が如何に人々の意識を改革 し,それがどのように中国を世界の中で生存し続ける適者となって亡びを免れようと意図されて いたかについての研究は多くなされているが,意識改革を目指す中で当時世界的に大きな広がり を見せつつあった「優生学」がどの程度陳の理論に影響を与え,彼の救国意識の中でそれがどの ような位置を占めていたのか次に見てみたい。
①優生学の登場と中国における受容
優生学は1883年に探検家であり気象学者であったイギリスのフランシス・ゴルトン(1822−
1911)が,従兄弟であるチャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859)に触発されて提唱した。
そのころの大英帝国は鉄血政策中のドイツとの軍拡競争や莫大な兵力と戦費を費やした南アフ リカ戦争(1899−1902)などで社会が疲弊しており,国際競争力が低下していた。また国内では 都市化や資本主義のさらなる拡大によって貧困や精神障害,アルコール中毒,そして売春による 性病の拡散などによる社会問題が政治的にも重大な関心事となっていたが,特に1899年にマン チェスターで行われた新兵徴募で五分の三の希望者が兵士として不適切と報告された事実は社会 に衝撃を与え,ゴルトンの優生学に注目が集まるようになった(39)。
病気がちで体の弱い子どもより健康で優秀な子孫を残したいという願望は文化や時代の違いを 乗り越えて普遍的に存在する。一方で社会の最下層にいる人々が社会にとって重荷であるという 考えは近世以降常に語られていた。イギリスのトマス・マルサス(1766−1834)は『人口の原 理』(1798−1826)の中で,貧民は家族を養える見込みがなくても結婚し,そのような「一般的 にもっとも価値ある部分とは考えられない社会階層によって〔・・・〕,本来ならばより勤勉で 価値ある人々のものとなるべき分け前を減少さ(せられている)」(40)ため,独立できない貧民は 辱めておくべきであると述べている。その後ラマルク(1744−1829)やスペンサーなどによって
「獲得形質遺伝」理論が提唱・確立されると,貧困は遺伝的欠陥から発生すると主張されるよう になる。おりしも宗教が科学にとって代わられ,人間は今後の科学の発達によって自分たちの力 で全てをよりよくすることが可能になると認識されていた時代でもあり,その流れの中でゴルト ンは優秀な子どもを多く生み,また貧困者や精神病者など劣等と看做された人々の子孫(劣等さ は遺伝すると考えられていた)を極力減らそうとする優生学を将来性のある学問として提唱し,
そしてこの新学問は大いに歓迎されたのであった。しかし彼はまだ研究が進んでいないことを理 由に,社会的に劣等だと看做された者たちに対する処置を曖昧にしていたが,ゴルトンの後継者 たちは貧困層や心身障害者たちなどを社会から排除しない限り国際競争力が低下して世界の中で
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生き残れなくなると主張するようになり,断種をその解決方法のひとつとして取り上げるように なった。これらの背景には社会保障費が国家予算を圧迫していたという理由だけでなく,1870 年代以降,欧米先進国では再び国家による経済への介入が行われるようになっていった状況があ り,この流れの中で個人への介入を試みるものとして優生学に関心が高まったのである。
この優生学は早い段階から中国に紹介された。厳復の『天演論』では「択種留良の術」という 語が当てられており,『国聞報』の「保種餘義」(1898)では身体の弱い知識もない人が増え,志 のある人が先に死ぬというダーウィンの進化論の逆の現象が起こってしまっているため,最近は 白人ですらもそれを防ぐために「択種留良の説(=優生学:筆者注)」を実施しようとしている と述べている(41)。梁啓超も『変法通議』の中で今後は白人と黄色人の血戦が待ち構えているた め,「種の戦いに勝ちたいと欲するなら,必ず種の改良から始めなければならない」(42)と書いて いる。このように優生学は社会進化論と同時に中国に紹介され,清末の変法派知識人の間で「種 を改良する方法」としてその存在が認知されていた。
これ以降「壮健」,ないし「健康で健全な身体」というキーワードが啓蒙雑誌の中で語られる ようになる。例えば章士釗(1881−1973)が発 行 し た 陳 独 秀 も 編 集 に 参 与 し た『甲 寅 雑 誌』
(1914)では「人種改良によって善良強壮な男女が結婚するようにすべき」であり,瘋癲や白痴,
身体が不自由な者は結婚してはならないとする論者がいたが(43),これらの主張は中国の儒教社 会が頭脳や知識量に依る士大夫らを何より一番大事にし,肉体労働などを卑劣なものとして軽視 するシステムであることを指摘し,そのシステムを固持しているからこそ中国は西洋に対抗でき ないのだと批判するものであった。
『新青年』においてもその連続性が見られ,「種の改良」は早い時期から紹介されていた。李亦 民という人物が2巻4号の「欧美人種改良問題」の中でゴルトンの名前を挙げ,優生学を「善種 論」や「人種改良学」と訳して「悪質な子孫を社会に溜めることを防止する」ものだと紹介して いる(44)。また英米やロシアの人種改良の現状を紹介して社会悪を消す方法として「悪質」者の 去勢を示唆し,「残酷ではないとはいえないが,よい種を守り,社会を救うためには,戦争や疫 病によって人の災いとなるものを取り除いたり,劣弱な種族を残して他者を踏みにじらせたりす るよりよい」(45)と述べ,社会全体の益を考えれば優生学に基づいた政策が必要であると主張して いる。
また3巻3号の「論中国女子婚姻與育児問題」(陳華珍著)では「優生学」という言葉そのも のは出てこないものの,以下のように述べている。
優勝劣敗の世界の中で中国は,弱い女子が半分を占め,保守的な男子も多数を占めている。
国家に使役することができる健良完全な国民は百の中から一も得られない。故に国勢は日増 しに弱くなっている〔中略〕今日の中国では競って改良を言い,農業が提唱され,商工を興 そうとするが,〔中略〕私は断言するが,健良完全な国民を育てて国家のことを任せなけれ ば,〔両親は:筆者注〕功を為したとは言えない。(46)
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ここで著者はいくら近代的な制度や技術を取り入れても,それを運用する側の人間が軟弱なま までは世界の生存競争を勝ち残ることができないと述べ,健康で完璧な人材を育成する必要があ ると主張している。
このように「種を改良する学問」は『新青年』において社会の負担となる分子を減らす最新の 学問として紹介され,同時に有機体と看做されていた国家が競争の中で生き残っていくために は,構成員一人ひとりが子孫を自分より劣化させないよう人間の改良に注意を払うべきであると 主張されていたのである。ただしゴルトンの関心事が国民の質の劣化を抑える点にあった一方,
『新青年』の主張の中には近代化に必要な人材を人為的に育てようとする意識の違いが確認でき る。
②陳独秀における優生学の傾向と周囲の反応
陳独秀は『新青年』を通して人々を啓蒙し,国民意識を持たせることで中国の植民地化を防ご うとした点や,優生学が清末の知識人から『新青年』に至るまでその存在や内容が知られていた ことは既に述べた通りであるが,では彼自身は優生学を如何に評価し,理解する傾向があったの だろうか。
『安徽俗話報』は彼が辛亥革命前に一番長く,持続的に文章を載せていた場であったが,この 中で「亡国」を防ぐための言葉として「富強」「強盛」「興旺」などを使っており,そのために中 国人の悪い習慣や意識を打破する必要性を語っているものの,優生学につながるような言説は見 られない。一方他の論者の文章では「衛生学」や「体育」など,人間個人の肉体的,精神的強化 と近代化の関係性について論じているものは存在する。その中で注目すべきは銕仁が著した「女 子教育」の以下の文章である。
国民の身体は母親の胎から生まれるのであり,しばしばよい根はよい苗を育むと言われるよ うに,母親の身体が強壮であれば生まれる子どもも必ず母親と同じく強壮である。現在の中 国女子の身体が強壮であるとはいえないだけではなく,か弱くない者も多くはいない。この ような国民の母からどうして強壮な国民が生まれるだろうか。この競争時代にこのような生 気の無い民族が亡国滅種の大禍を免れようとするのはかなり難しいだろう。(47)
この著者は獲得形質遺伝の理論に基づいて,教育によって心身とも改善された健全な母親から は必ずよい子どもが生まれると主張し,後の文章では,よく生まれたその子どもをよく教育して よく育てる必要性を語る。ここでは優生学という言葉こそ出ていないが,遺伝や身体の改造の重 要性を指摘している。
一方,人々が国家の存在や概念を知りさえすれば外国勢力を撥ね退けることが可能になる,と いう単純な論考をベースとした主張を当時の陳独秀は繰り返す傾向が強く,確かに明快で分かり やすい一方,具体性があまりない。当時多くの志士たちが中国を変える方法を模索していたとい われているが,陳についても理論にまだ深みがなかったと考えてよいであろう。優生学について
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も彼は一言も述べておらず,『安徽俗話報』の「教育」の中で,中国の教育は体育を重視してこ なかったために種が弱いと述べるものの(48),心身と国家の関係についての記述はこの一回に留 まり,彼の思想の中で優生学や人間の身体に関する問題はほとんど注意が払われていなかった。
だが『新青年』を出版するころになると彼の言説の中で徐々に身体や精神の強化と国家の進化 の関係性について意識されるようになる。1巻2号の「日本全国之青年団」の中で,彼は日本の
「青年団」について,「蓋し青年団は青年を修養する機関であり,健全で高尚な国民を養成するこ とを目指している。各団員は自然と愛国心を育み,向上力と健全な体力を以って〔中略〕国家の 進歩を扶助させ,その精神を育てる」(49)と報じている。その上で2巻1号の「新青年」では中国 の現状について「青年の体が弱く,また不衛生で,疾病死亡率は日増しに増えている。浅化(=
退化:筆者注)する民は必ずこうなる」(50)と描写し,英米や日本の青年がみな力強いのに比べて 中国の青年は病弱であり,「そのような民族がどうして生存を図れるのか」(51)と述べて強健な身 体を持った青年の必要性を主張している。
親が獲得した能力や性質が子に遺伝するかどうかに関して,1巻6号の「通信」の中の輝!へ の回答の中で,「なぜ異族結婚では恵まれた健康な子孫が多いのか?」という輝!の質問に,陳 は自身も異族結婚の主張者であると述べたのち,「およそ一族には一族の,一姓には一姓の優れ た点と劣った点がある。同族同姓の優れた点が同種の優れた点が加えられることでより優れ,同 様の劣った点がより甚だしく劣ってしまう。この理は明らかなものであり,故に異族異姓の結婚 が人種進化の大きな原因である」(52)と述べ,人間が獲得している能力や性質の善し悪しが次の世 代に遺伝すると彼は理解していたことが窺える(53)。
『新青年』の中で優生学について初めて記述されるのは,筆者の調査に基づけば1巻6号の
「人口問題與医学」であるが,陳独秀が初めて優生学について語るのは,筆者の知る範囲では2 巻3号の中で,読者である莫芙卿からの質問に答えるときである。莫は陳に対して早婚の害につ いて意見を求める。中国の親は子どもに完全な人格を具えさせるのではなく,早く結婚するよう に急かすため,青年たちは学問,根気のよさ,資本,経験,身体の強健さを備えることができ ず,彼らにも社会にもプラスにならないと論じる。それに対して陳は「脳や体力の疲弊を以って 択種留良の術(=優生学:筆者注)を推進し,悪劣分子の結婚を禁止すべきだ。早婚だけが問題 ではない」(54)と答える。
早婚について陳は孔昭銘という人物から中国の家族制度と結婚に関係する質問に答える場面で このように述べている。
早婚主義は嗣宗主義,つまり家族主義に起源があり,宗族嗣宗主義は儒教,祖先崇拝主義に 起源がある。儒教を大破壊しない限り中国の一切の政治,道徳,倫理,社会,風俗,学術,
思想はみな解決することはできない。早婚だけが問題なのではない。(55)
『人口の原理』の中でマルサスは中国の結婚に対する異常な奨励を批判しており(56),中国人自 身も「早婚」を中国の悪習として捉えるのは当時新しいことではなかった。しかしこれまで列挙
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してきた点から分かるとおり,陳は早婚だけを批判するのではなく,家族という社会の最小単位 に存在する古い制度や習慣などを根源から変えることによって人々の思考や性質を変え,それら を通して彼が本来目指していたより高い次元である社会や政治を改革しようとしていたのであ る。そしてその文脈の中で優生学は,伝統的な結婚制度を否定しようとする彼の主張を正当化す る理論として登場しているのである。
『新青年』の2巻は1916年9月から1917年2月にかけて出版された。1915年末に袁世凱は帝 政を宣言し,また康有為は黎元洪総統の政府に儒教国教化の上書を提出し,翌年の1917年6月 には張勲の復辟運動に参加した。このように次々と旧来の制度が復活されそうな状況に反感を抱 いた陳は「憲法與孔教」(2巻3号)や「孔子之道徳與現代生活」(2巻4号)を執筆し,中国社 会や人々の意識の中に潜む旧来の制度や風習を「民主と科学」というスローガンによって完全破 壊を目指した。その背景の中で各論として家族制度や結婚について論じ,それらを支える主柱思 想として儒教を批判し,説得力を増すために優生学を自身の理論の中に取り入れたのである。
では陳の周囲はどのような反応をしたのであろうか。
2巻1号の「新青年」について2巻3号で李平が,青年に体育を提唱することに賛意を表して いる。そして花柳病に関して,自身だけでなく子孫も弱くしてしまい,劣種が伝われば国力は日 に日に緊迫する,だからこそ男女ともに貞潔を大切にすべきだと提案する(57)。
3巻5号の「説青年早婚之害」(鄭佩昂著)では早婚の害について,父母の子孫重視が国家と 種族を滅ぼすとまとめており(58),胡適も5巻3号の「随感録」の中で中国の親は子を生むだけ で教育の責任を負わない,これからは「子の父」ではなく「人の父」が必要だと主張する(59)。
6巻6号では唐俟(魯迅)が「我們現在怎様做父親」という文章を掲載するが,古い習慣や古 い思想の「毒」が如何に根深いかを指摘し,そして家族関係について「父母のもつ欠点は子孫が 滅亡する伏線であり,生命の危機である。〔中略〕しかし恐ろしいのは梅毒ではなく遺伝である。
多くの精神上体質上の欠点を子孫に伝えることができ,しかも時間が長くなるほど社会も影響を 被る。〔中略〕将来学問が発達して社会改造をするとき,彼ら(=欠点をもつ父母:筆者注)が 運よく残した子孫は善種学(Eugenics)の処置を免れ得ないだろう」(60)と述べ,原始の単細胞生 物を例に挙げて,彼らが自分よりよい子孫を残そうとしなかったならば人類は生まれなかったと 家庭や家族の改造を正当化するのである。
このように陳独秀の主張やその論理は一定の支持を得,同じような主張をする論者も周囲には いたのである。彼らの主張は古い社会の「縛り」を破壊し,家父長制や男尊女卑,家族主義など 社会の末端から変えようとしていた点で共通しており,優生学やそれに近い思考を単に社会政策 として取り入れることで社会の不良分子と看做された人々を減らそうとしたのではなく,普遍的 な真理(とされたもの)を提示することによって,如何にこれまでの中国のやり方が不合理で遅 れているのかを証明し,正しい方向に進むための改革が必要であることを説明する道具として用 いたのである。
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③マルクス主義者陳独秀としての変化
20世紀初期当時,「優生学」はゴルトンによって提唱されてから約20年経っていたが,1907 年に優生教育協会が設置され,1912年にはロンドンで第一回国際優生学会議が行われた。また 第一次世界大戦後の荒廃による「西洋の没落」と日本とアメリカの国際社会における台頭が目に 見えて分かるようになると,ゴルトンの後継者たちはゴルトン以上に社会の負担になっていると 看做された人たちへの統制を強め,場合によっては隔離や断種を主張するようになった。1907 年にアメリカのインディアナ州で世界初の「断種法」が成立し,その後他州や他国で断種法が成 立していく。アダム・スミス(1723−1790)の時代から低い階層は多産であるという概念があ り(61),彼らの人口を抑制することで社会の負担を減らそうと医学,社会学,心理学などさまざ まな角度から学際的に研究がなされ,その研究結果を国家政策に取り入れさせようとし,政府も 積極的にそれを政策に取り入れようとした。1909年から発行される『優生学批評』や1911年の
『リヴァプール内外科学ジャーナル』の「優生学特別号」などはその一例である(62)。
一方陳独秀は第一次世界大戦後の平和会議の経過とその結果を知り,欧米列強に失望してマル クス主義に傾いた(63)。この転換は彼にとって大きな変化であったが,このとき陳の優生学に対 する態度に変化はあったのか,そして如何に優生学を評価したのかについて見てみたい。
7巻4号は「人口問題号」として,当時ヨーロッパで議論されていた貧困や人口問題について 議論しており,陳独秀は二つの文章を掲載している。その一つは「馬爾塞斯人口論與中国人口問 題」であるが,この中で陳はマルサスの人口論は理論として貧困の原因を説明してはいるが,食 糧生産と人口増加に注目しすぎており,他の要因を全く無視していると指摘する。そして以下の ように続ける。
たとえ人口過剰が貧困を生む唯一の原因でそれ以外に別の原因が無く,人口制限でなければ 貧困は救えないとしても,下層貧民だけが制限される理由にはならず,上流の富裕階級が好 き放題生んでよい権利を持つのもおかしなことである。
〔中略〕
貧民に子が多いことは確かに社会上一種の悲惨な現象であり,救済する方法を設けなければ いけないが,その救済方法は人口制限のような簡単なことではいけない。〔中略〕貧民の子 孫の中から往々にして多くの偉大な人物がでるのであって,もし貧民の多産を制限すれば社 会は絶大な損失を受けるのではないか?富んだ人の子弟に放蕩な者が多く,貧民の子弟に勤 勉に働く者が多い。もし貧民の多産だけを制限すれば,社会には放蕩者が徐々に増加し,勤 勉に働く者が徐々に減る。これは恐ろしいことである。
優種論(=優生学:筆者注)は個人の自由や人権の平等などと多少衝突するが,人口論に比 べればまだましである。なぜなら優生学が淘汰しようとするのは社会の悪劣分子であり,貧 富による分別ではまだ無いからである。(64)
これまで西洋列強各国や中国において貧民には悪い性質があり,それが遺伝によって子孫に継
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承されてますます種が弱くなり,結果として国が滅びてしまうかもしれないと言われていた。し かしここで彼は貧民をポジティブに,富者をネガティブに捉え,それまで貧民を一方的に劣等者 と看做す解釈に反対する。そして彼らの貧しさや環境の劣悪さを社会や制度の問題と捉え,真面 目に社会のために働く本当に必要な人材と放蕩に耽って社会の重荷になる不必要な人材を分ける 優生学に期待を寄せていることが分かる。つまり彼にとって貧富を基準に優劣を判断する方法は 本当に優秀な人材を生かすことができず,一部の利益享受者たちにとって都合良く作られた理屈 なのであった。中国を外国に抵抗できるだけの力を持った国に進化させようとし,しかも資本家 たちに政治を独占される限られた民主主義では無い国のあり方を考えていた彼にとって,「労工 神聖」,つまり労働こそ国を支える原動力であり,労働者は低賃金で社会的には虐げられている とはいえ国のために「働いている」ことに変わりなく,一方で一部の利益享受者が保身のために 社会に不合理な圧迫を与え,自らの労働によらないお金で放蕩に耽っているような,しかも本来 あるべき国家の姿に進化しようとするのを邪魔しようとまでする彼らの行為に陳独秀は目をつぶ ることはできなかっただろう。優生学はそのような図式を打ち壊そうとする理論の中で持ち出さ れたものであった。
同じ巻号のもうひとつの文章「人口論底学説変遷」では,新マルサス主義に関する批評の最後 の結論部分でこのように述べる。
〔新マルサス主義は〕理論上,社会から人口過剰の弊害を解決するために,特に下層社会で 産児制限を推進しようとするものであるが,実際には個人の享楽利益のために上流社会が採 用しているものである。〔中略〕現代国家は生存競争の時代に人口増加を制するべきではな い。競争が消滅し,世界国家が出現した時代になれば,以前主張されていた種々の弊害も消 滅し,人口制限に反対するのも妥当ではなくなる。しかし単純に人口を制限してはいけな い,優種論と平行すべきである。(65)
この文章はもともと日本の論文であった。ここで彼は上流社会が利益を守るために編み出した 理論として新マルサス主義を批判し,その後将来全世界がひとつの共同体となったときにこそ優 生学を駆使して能力のある善良な者を増やし,人口の過剰による弊害が増えないようコントロー ルすべきだと述べているが,この文章を『新青年』に載せたという点から考えて,少なくとも陳 独秀はこの論文の内容に反対していなかったことが読み取れる。彼にとって優生学とは今ではな く将来になってから使える学問とも捉えていたのだ。
また7巻5号の「新文化運動是什麼?」では社会や文化は不断に進化をし続ける必要があると 論じる文脈で,「私たちはいくらでも先駆者となってもよいが,後継者がいないのではいけない。
私たちはもとより自分の父親に勝ることを望み,自分の息子に勝らないことをより望む」(66)と述 べている。進化論を絶対的な理論と認識し,社会主義を政治的にも民衆の立場からも良いものだ と認識し始めていた彼にとって,国家や社会の進化のために世代間でもより上を目指して進歩す ることが必要であると考えていたのである(67)。
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陳は中国社会を二つのグループに分けた。ひとつは中国の近代化に貢献できる人々のグルー プ,もうひとつは自己中心的な理由で発展を妨げようとするグループである。そしてこの二つの グループを対立させ,社会をよりよくしていくためには前者を増やすことが必要であり,彼らに よって理想的な国家を建設しようと考えていた。そしてそこにはやはり優生学という当時最新の 学問がその思考や理論を支えていたのである。
お わ り に
『安徽俗話報』期の陳独秀は理論的な深みが欠けていたが,『新青年』以後,時代背景に合わせ た批評を行い,思想的な指導者として中国を滅びの道から救おうとした。そんな彼が優生学を語 る時には3つの傾向があった。第一に改革や革命を正当化する理論として優生学を持ち出してい た。第二に国家があるべき姿になろうとするのを妨害しようとする人たちこそ社会にとって不必 要な存在であることを説明する場面で,つまり上流階級の人間では改革は成し遂げられず,国民 の多数を占める下層の労働者こそ中国の将来を担える人々であると主張する場面で登場してい た。そして第三に勤労に勤しむ人々に支えられた国家にとって本当に必要な国民を肉体的,精神 的に強化することによってより強い後代を育成し,独立した個人としての人間一人ひとりを新し くすることで,真に強固な国民国家を建設しようと述べる文脈で,言い換えるなら本来ゴルトン が意図していたものに近い意味の優生学が陳独秀においても意図されていた。
しかし忘れてはならない点として,彼はあくまで救国運動に生涯を捧げた人物であり,自然科 学の専門家ではなかった。三番目の点について彼の思想の中に確かに存在したが,彼にとって理 論の中心はやはり一番目と二番目の点であった。
『新青年』は政治改革のためにまず人々の意識改革を行うことを旨とし,当時優生学は全世界 的に広がりを見せてはいたものの,それを紹介することはあっても正面から取り上げて議論する ことはなかった。「択種留良」,「国民衛生」,「人種改良」,「善種学」,「優種論」と優生学を指す 言葉はいくつもあったが,優生学そのものに関して筆者が数えた範囲では8つの文章の中にしか 見られず,それに加えて心身の強化や社会的劣者を減らすことを主張する文章を含めたとしても 登場回数は決して多くない。しかし注目すべきはそのいずれの文章にも共通して,「意識改革」
という目的を後押しする理論として使われ,それを実現させるための具体的な道具として優生学 が登場している点である。「文学改良」「女性解放」「自由恋愛」「結婚・家族論」など,社会の根 底を変えようとした背景の中で,優生学は頻度こそ少なかったとはいえ,国や社会を変える手段 の一つとして確かに用いられており,それは論者たちのコンセンサスでもあった。
陳独秀に関して言うならば,彼は中国を守るためには,「社会進化論」など進んだ西洋の各学 説をよく知る自分たち知識人が責任を持って人々を啓蒙して導いていく必要があると認識してい た。そして当時西洋で最新の学問であった優生学に関しても,中国を変えるために用いることが 可能であると理解し,その有効性に期待をしていたのだ。
優生学はのちにナチス・ドイツによる民族浄化のために利用され,その結果多くの命が奪われ
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ることになった。確かに極端に優生学を進めていけばそのような悲劇が起こる面は存在した。し かし現在のわれわれが健康や美容のためにさまざまな研究結果を大いに参考するのと同じよう に,当時の人々は国家や社会をひとつの有機体として捉え,社会の健康と美容のために最新科学 であった優生学に期待していた一面もあったのである。だからこそ陳独秀は彼の理論の中で優生 学を持ち出すとき,断種や隔離に注意を向けて語るのではなく,社会を良くしようと論じる中で それを持ち出したのであり,そしてそれは同時にその時代の潮流でもあったのだ。
20世紀初期の思想的指導者が自分の理論を支えるために優生学を用いていたという点は興味 深いことである。その後中国では1920〜30年代にかけて優生学の導入をめぐる論争が行われる が,この論争はこの時期に突如発生したものではなく,清末から五四期までの長い伏線があり,
優生学の発祥地であるイギリスや政策面で進んでいたアメリカである程度形になったその時期に 至ってようやく本格的な議論ができるようになったのである。
中国の改造を促し,社会を次の段階に進化させようとしていた中で,その社会を構成する人間 一人ひとりの肉体的,精神的強化の不可欠性はすぐに関連づけられ,それを意図的に達成しよう とする優生学に清末以降の中国知識人が常に興味を持っていたのはある意味当然のことであっ た。そして陳独秀にとってそれは同時に古いとされた儒教などの伝統を根から破壊する根拠とし ても用いられたのであった。だからこそ筆者が注53で指摘したように,彼は科学の理論を詳し く論じるのではなく,彼が否定しようとしたものを「科学」によって否定し,その説明が不十分 であったとしても,その不備をその後あらためて補足説明しようとはしなかったのである。中国 の変革を模索していた彼にとって,優生学は彼の思想を下で支える非常に都合のよい便利な道具 であったのだ。
共産党を結党したのち,陳はマルクス・レーニン主義の宣伝・教育や無政府主義者との論戦を 始め,社会主義国家を建設するというゴールに向かうことが中国の近代化につながると確信する ようになった。平行して筆者が知る限り『新青年』の7巻4号以後,心身の強化や優生学が彼の 文章の中で語られなくなる。マルクス・レーニン主義というよりインパクトの大きな理論を自己 の思想の骨組みにしたことは,彼が意識や身体の改良の必要性を感じていたとしても,その議論 を二の次にさせた。なぜなら資本家にとって都合のよい便利な人材を育成することは,そもそも 彼の反対する所であっても,社会にとって本当に有能な人材を育成するためには,資本家らが国 や世界を牛耳っていると彼が看做した当時の制度下では不可能であったからである。つまり彼に とって社会主義国家の建設が最大の関心事になったのである。
1920年以降の中国を牽引する人物らの多くは『新青年』を読み,文章を投稿していた(68)。優 生学は陳独秀において議論の中心ではなく,のちに語られなくなるが,他の論者たちによって引 き続き議論されていくことになった。だが例えそのように展開していったとしても,中国の近代 化と優生学の展開,そしてその連続性についてみていく場合,陳独秀や『新青年』は決して無視 できるものではないだろう。
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注
⑴ 伊藤秀一「進化論と中国の近代思想(一)」,『歴史評論』123号(丹波書林,1960年11月)や伊藤秀 一「進化論と中国の近代思想(二)」,『歴史評論』124号(丹波書林,1960年12月)
⑵ 區建英「中国における進化論の受容−厳復の『天演論』を中心に−」,『新潟国際情報大学情報文化学 部紀要』2号(新潟国際情報大学情報文化学部,1999年3月)
⑶ 石川禎浩「梁啓超と文明の視座」,狭間直樹(編)『梁啓超−西洋近代思想受容と明治日本−』(みす ず書房,1999年11月)
⑷ 横山宏章『陳独秀』(朝日新聞社,1983年5月)
⑸ 周程「陳独秀における「民主」と「科学」−五四新文化運動期を中心に−」,『思想』905号(岩波書 店,1999年11月)
⑹ 游国栄「陳独秀の政治思想−辛亥革命,五四運動,国民革命−」,『大東法政論集』8号(大東文化大 学大学院法学研究科,2000年3月)
⑺ 坂元ひろ子「恋愛神聖と民族改良の「科学」−五四運動新文化ディスコースとしての優生思想−」,
『思想』894号(岩波書店,1998年12月)
⑻ Sun, Lung-Kee(孫隆基), THE CHINESE NATIONAL CHARACTER −From Nationhood to Individuality
− ,An east gate book,United States of America, 2002
⑼ 溝口雄三「知識人のえがく農民像」,東京大学文学部中国文学研究室(編)『近代中国の思想と文学』
(大安,1967年9月)
⑽ 水田洋(編)『社会思想史』(有斐閣双書,1973年7月)p.128−129参照
⑾ 康有為「春秋微言大義第六下」『春秋董氏学』巻六下,1896年,(宏業書局,1976年9月)参照
⑿ 梁啓超「論中国之将強」(1897),『飲冰室文集』第二冊(台湾中華書局,1970年)。以下,特に表記が ある場合を除いて,引用文は全て筆者によって翻訳されたものである。
⒀ 梁啓超「論変法必自平満漢之界始」『変法通議』(1896),『飲冰室文集』第一冊(台湾中華書局,1970 年)
⒁ この文章は彼が26歳のときのものであるため,彼は十代の頃の自分について話している。
⒂ 三愛(陳独秀)「説国家」『安徽俗話報』第五期(人民出版社,1983年)
⒃ 三愛(陳独秀)「亡国篇」『安徽俗話報』第八期(人民出版社,1983年)
⒄ 三愛(陳独秀)「瓜分中国」『安徽俗話報』第一期(人民出版社,1983年)
⒅ 三愛(陳独秀)「悪俗篇」『安徽俗話報』第三期(人民出版社,1983年)
⒆ 三愛(陳独秀)「中国歴代的大事」『安徽俗話報』第四,五,七期(人民出版社,1983年)参照
⒇ 陳独秀「安徽愛国会演説」(1903),任建樹,張統模,呉信忠(編)『陳独秀著作選』第一巻(上海人 民出版社),1984年9月
三愛(陳独秀)「瓜分中国」『安徽俗話報』第一期(人民出版社,1983年)。原文は「受洋兵!踏」
三愛(陳独秀)「説国家」『安徽俗話報』第五期(人民出版社,1983年)。原文は「被外國欺負」
三愛(陳独秀)「亡国篇」『安徽俗話報』第十三期(人民出版社,1983年)
三愛(陳独秀)「亡国篇」『安徽俗話報』第十三期(人民出版社,1983年)
三愛(陳独秀)「亡国篇」『安徽俗話報』第十七期(人民出版社,1983年)
三愛(陳独秀)「説国家」『安徽俗話報』第五期(人民出版社,1983年)
鐵郎「保養身体的法子」『安徽俗話報』第八期(人民出版社,1983年)
『新青年』2巻5号の「通信」欄で,陳独秀は褚葆衡に「社会主義は理想が高く,学派が複数に分かれ ている。興っているとはいえ,中国はヨーロッパより産業が未発達であり,まだ必要ではない」と簡 単に答えている。
陳独秀「吾人最後之覚悟」『新青年』一巻六号(大安,1962)
陳独秀「敬告青年」『新青年』一巻一号(大安,1962)
陳独秀「法蘭西人與近代文明」『新青年』一巻一号(大安,1962)
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