20世紀初頭のアルザスにおける「コンコルダのライ
シテ」と教育問題
著者
小山 誠南
雑誌名
教育思想
巻
47
ページ
61-81
発行年
2020-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/00127906
20
世紀初頭のアルザスにおける
「コンコルダのライシテ」と教育問題
小山 誠南(東北大学大学院・院生)1.はじめに―問題の概要
本稿は20 世紀初頭のアルザス地方における「コンコルダのライシテ」の成 立と、それに関連する、教育にまつわる問題について述べるものである。 「ライシテ」(laïcité)とは、日本語では「非宗教性」「政教分離」「世俗性」 と訳される言葉であり、フランス共和国の3 標語である「自由、平等、博愛」 に続く、同国の重要な理念でもある。現行の共和国憲法第1 条に「フランス は、不可分の、非宗教的、民主的かつ社会的な共和国である」1と明記されて いる事実がこれを裏付けている。しかし、現実の共和国がこの理念を十全に 体現しているかと言えば疑問符が付く。というのも、共和国の一部では、「非 宗教的」という形容が当てはまらないからである。この点について、フラン スの立憲主義者たちは「不可分」性に含みを持たせて、「不可分性とは画一性 ではない。不可分性とは、単一の政権が、必要に応じて諸権限を『委譲』し つつ、共和国の領域全体に統治権を行使する」2ことだと述べる。こうした定 義でなければ、フランスのライシテは多くの反証によって矛盾を晒すことに なる。そしてアルザスこそが、その反証の一例となり得るのである。 アルザス地方はフランスの北東部に位置する、ドイツと国境を接する地域 である。現在、同地方はバ=ラン県、オ=ラン県という二つの自治体から成 る。アルザスは古来より「ヨーロッパの十字路」として交易の要衝であり、 多様な文化が交錯する場所であった。宗教に関しても同様で、比較的早い時 代から複数の宗教の信徒が「混在」しており、紆余曲折を経て多宗教の並存 が実現することとなった。 他方でアルザスは、フランスおよびドイツという二つの大国の思惑が交錯 する場所でもあった。大革命を経たフランスが国民国家への道程を歩み始め ると、両国の国家・国民観が最も先鋭な形で表現されることとなり、さなが 1 高橋和之編『新版 世界憲法集』(岩波文庫 白 2-1)、岩波書店、2007、p. 278。原文では « La France est une République indivisible, laïque, démocratique et sociale. » とな る。
らナショナリズムの実験場となった。普仏戦争から第二次世界大戦の間に行 われた4 度の帰属変更はまさにその象徴であり、結果として、「フランスでも ドイツでもないアルザス」の意識を住民に抱かせることとなった。これを宗 教的、また政治的に担保するのが「コンコルダのライシテ」(la laïcité concordataire)であり、それが形成され始めたのが、第一次世界大戦後の 1910 年代から1920 年代の期間であった。 フランスの教育史を辿ると、大革命以降、教育の主導権をめぐって、共和 主義派と教会勢力は国内において対立していたことがわかる。すなわち、教 育から宗教色を排除したい前者と影響力を維持・拡大したい後者との対立で ある。19 世紀中葉までは教会側に分があり、それを象徴するものとして 1850 年のファルー法が挙げられる。しかし普仏戦争での敗北を機に、ジュール・ フェリーの政策などによる急速な脱宗教化が進んだ。世紀が変わってもこの 傾向は変わらず、1905 年には「教会と国家の分離に関する法律」(以下「政 教分離法」)が制定され、国家の宗教的中立が明示された。その影響は教育界 にも及び、聖職者や教会等への、国家による金銭的援助が禁止された。 しかし、こうした一連の動向はアルザスには全く受け入れられないもので あった。というのも、普仏戦争から第一次世界大戦にかけてのおよそ50 年間、 彼の地はドイツ帝国の一部となっていたからである。フランスが成し遂げた 脱宗教化の強要はアルザスを困惑させ、そして激怒させた。激しい抵抗運動 により、フランスは彼の地の特異性を認めざるを得ず、ここに「コンコルダ のライシテ」が芽吹いたのである。その際、教育上の問題も盛んに取り扱わ れ、その議論は紛糾した。 以下、第2 章では先行研究の検討を行い、本稿の目的と位置付けを改めて 明示する。第3 章では、「コンコルダのライシテ」の意味を掘り下げるべく、 « concordat » と « laïcité » の語義に触れる。第 4 章では、アンシャン・レジ ーム末期を含む近代から1920 年代までのアルザス史を基調としながら、宗教 と教育にまつわる事項について記す。その上で最後に本稿を総括する。
2.先行研究の検討
アントワーヌ・プロ3や梅根悟ら4の研究をはじめ、フランス教育史を包括 的に扱う文献は国内外に数多く存在するが、アルザスの教育における言及は 少ない。これに対し、彼らの研究が通史的であるが故の傾向である、という 3 Prost, A. Histoire de L’enseignement en France 1800-1967, Paris, Armand Colin, 1968. 4 梅根悟ほか『フランス教育史』、講談社、1975。反論がなされるのは想像に難くない。ではこうした全体史ではなく、地域史 などミクロな視点からアルザスの教育を捉えた研究に目を向けてみると、そ の主眼が公用語のフランス語と現地のアルザス語の二言語教育に置かれてい ることがわかる5。この教育は、20 世紀の中葉から話者が減少し始めたアル ザス語を保全し伝承するための手段としての教育である。一方で本稿の主題 である、特殊な宗教事情の下で行われる教育について触れる研究は、結局の ところ不足している。 数少ない先行研究の中で、本稿と関心を同じくするものを挙げるとすれば、 以下のようになる。近年の研究で最も重要であるのは、Jean-Marie Gillig の業 績である6。彼の研究は主として19~20 世紀におけるアルザスの教育と宗教 の関係に言及しており、近現代のアルザス教育史を知る上で極めて重要であ る。しかし彼の研究は、本稿が重視する「コンコルダのライシテ」を半ば自 明のものとして特別に説明しておらず、依然、研究の余地を残している。 同じく重要なのはStephen Harp の著書である7。同書は1850 年から 1940 年 までのアルザスの、特に初等教育に重点を置いている。アルザス教育史を主 題に据えた最初期の研究であるという同書の重要性が揺らぐことはないが、 その中心は教育と宗教の関係性よりも、教育とナショナリズムのそれにある ため、本稿が重要視したい事項に触れていない点もある。 わが国の研究にもアルザス教育史への示唆に富む研究は存在しているが、 まず注目すべきなのは市村卓彦の業績である8。この研究はアルザスにまつわ る事象を、古代から現代まで幅広く扱ったものである。広範な領域にまたが るこの研究において、宗教および教育にも相当の紙幅が与えられている。し かしその研究の性格上、事項の羅列に止まる箇所が少なからずあり、個々の 詳細について判然としない部分もある。本稿が対象とする宗教と教育につい ても同様で、両者の関係性についての進んだ議論にまでは踏み込んでおらず、 「ライシテ」という語が登場することもほぼない。 また、アルザスの教育を知る上で重要なのが中本真生子の研究である9。彼 5 寺迫正廣「アルザスの『地方語』教育の取組み―フランス的文化形成の一側面」、『大 阪府立大学紀要(人文・社会科学)』、Vol. 52、2004、pp. 47-62。中力えり「『国境地 域』における言語教育の困難さ―アルザスにおけるイデオロギー論争を通して」、和 光大学人間関係学部『人間関係学部紀要』、No. 10、Part 1、2005、pp. 3-18 など。
6 Gillig, J.-M. L’école laïque en Alsace et en Moselle, Paris, L’Harmattan, 2017. 7 Harp, S. Learning to Be Loyal, Illinois, Northern Illinois University Press, 1998. 8 市村卓彦『アルザス文化史』、人文書院、2002。
女の研究では、本稿の主題と同時代のアルザスの教育について興味深い言及 がなされている。しかしこの研究は、当時のアルザス人の手稿などを史料と する「(教育)社会史」としての色合いが強く、また宗教についての論述は皆 無である。このように、教育学からアルザス史を扱うものは絶対的に数が不 足しており、また宗教との関係性からみれば、より一層の研究を要するとい える。 教育学ないし教育史的研究が不足している以上、他の研究業績を参考とし なければならい。そこでまずは、本稿がアルザス教育史に組み込みたい「コ ンコルダのライシテ」を提唱したジャン・ボベロを筆頭とする、宗教社会学 に注目する必要が出てくる。彼はプロテスタンティズム研究に軸足を置きつ つライシテを論じていたが、その後より広い視点からライシテを捉えるよう になった。さらに学術研究のみならず、2004 年のスタジ委員会のメンバーに も名を連ねて、「ヴェール禁止法」の是非を問うなど、ライシテ研究の第一人 者としての地位を確立している。その活動の一環として著したのが、前章に 挙げた『フランスの七つのライシテ』であり、その7 類型のうちの一つが「コ ンコルダのライシテ」である。同書ではアルザスにおける教育のライシテに も触れられているが、それを主題としているわけではない。故にごく簡単な 記述がなされているに過ぎず、これのみでアルザス教育史と宗教の関係を熟 知することはできない。 同様の見地からライシテを論じる伊達聖伸は、オーギュスト・コントやエ ミール・デュルケムなどの思想家たちを通じてライシテを探っているほか、 フランスにおけるイスラームについての研究も行うなど、多数の優れた研究 を著している10。しかし、彼の研究はボベロの議論の徹底と深化を特色とし ており、アルザスに限らず、教育学への関心は薄いことがうかがえる。わが 国の他の宗教学者、例えば佐藤香寿美などについても、アルザス地方におけ るイスラームとライシテを扱う研究を残しているが11、やはり教育について の関心の度合いは低い。 また、実証的なアプローチからライシテを捉える歴史学の業績についても 触れておかねばならない。この領域では一次史料を豊富に活用し、往時の共 和国や教会などのカトリック勢力の様子を明らかにすることで、ライシテの 10 伊達聖伸『ライシテ、道徳、宗教学 もうひとつの 19 世紀フランス宗教史』、勁草 書房、2010 など。 11 佐藤香寿美「フランス・アルザス地方の『コンコルダート的ライシテ』と非公認宗 教としてのイスラーム」、『上智ヨーロッパ研究』、No. 8、2016、pp. 61-81。
史的展開を描写することに成功している。アルザスの教育史に触れているも のについては既に述べた通りだが、それ以外で特筆すべきなのは、谷川稔の 業績である。彼は日本でライシテを学術的に研究した最初期の研究者の一人 であり、ライシテを「二つのフランス」の争いのなかに位置づけるなど、重 要な研究を著している。特に本稿の関心と関連するのは『十字架と三色旗』12 であり、近代フランスが紆余曲折を経てライシテを確立していく様を描いて いる。その記述の中で、アルザスをはじめとするフランスの「地方」がライ シテをどのように捉えていたかについても触れられている。教育史にも多分 に有益な同書であるが、あくまでもフランス史が主題であり、アルザスなど を扱った地域史ではないため、やはり批判的に継承する必要がある。 以上のような先行研究の状況を踏まえ、本稿の目的を改めて述べるならば、 それは20 世紀初めのアルザス地方において「コンコルダのライシテ」がいか に成立し、そしてそれと並行して発生した教育問題がいかなるものであった かについて述べることである。そしてその意義は、他の学問領域の成果を摂 取して教育史の間隙を補填するとともに、フランス教育史・地域史に新たな 視点を加えることにある。
3.用語について―concordat と laïcité とは何か
本章では、歴史的事項を具体的に描写する前段階として、本稿において用 いる基本的かつ重要な語の意味を確認する。 ま ず 、 本 稿 の 題 に 含 ま れ て い る 「 コ ン コ ル ダ の ラ イ シ テ 」(laïcité concordataire)は、簡潔にその意味を記せば、「1801 年の政教協約に基づいて 運用される、フランスのライシテ」ということになる。しかしこの説明で終 わってしまうと身も蓋もないので、もう少し詳しく言及する必要がある。 そこで、本章で注目するのは「コンコルダ」(concordat)と「ライシテ」(laïcité) の2 語である。それぞれの語義をわざわざ確認するのは、両者とも時勢によ ってその意味が流動し得る恐れがあり、予めその枠組みを固定しておかなけ れば、「コンコルダのライシテ」という概念も空虚なものになりかねないから である。また、そうすることによって以後の議論の補助となることも期待す る。 12 谷川稔『十字架と三色旗 近代フランスにおける政教分離』(岩波現代文庫 学術 326)、岩波書店、2015。3-1.concordat13 カトリック教会とある国家の双方に関わる事項を調整するために、教皇を 代表とする聖座と国家の間で締結される国際法の効力を有する条約を指す。 「政教条約」または「政教協約」と訳される。 英・仏語ではconcordat、ドイツ語では Konkordat と表記される。語源たる ラテン語はconcordatum で、これは古典ラテン語 concordāre の過去分詞中性 形である。concordat のフランス語での発音は[kɔ̃kɔʁda]であり、カタカナ で表すと「コンコルダ」のようになる。 歴史上最古の政教協約は、後世ではヴォルムス協約と呼ばれる「カリスト ゥス協約」(Pactum Callistium, 1122)である。しかし、これは教皇カリストゥ ス2 世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ 5 世との間で結ばれたものであるので、 フランスと直接の関係はない。 フランス史の中で特に注目すべきなのは1516 年の協約と、1801 年の協約 である。前者は教皇レオ10 世と国王フランソワ 1 世との間で結ばれたもので、 司教や大修道院長などの叙任権が国王にあり、教皇はこれを承認するという 内容であった。つまり、教会側の特権をキリスト教君主へ委譲するという性 格を持っていたということになる。 1801 年の協約は教皇ピウス 7 世とナポレオン・ボナパルトとの間で締結さ れたもので、世俗国家とカトリック教会との間で結ばれた最初の政教協約で ある。その内容をまとめると、教皇はフランス共和国を承認する、フランス 政府はカトリックがフランス人大多数の宗教であることを承認する、教皇は 教会財産の売却を了承する、第一統領は司教を任命し、司教は政府の同意を 得て司祭を任命する、司教をはじめ聖職者は政府から俸給を支給される、と なる。これは教皇側にとってフランス革命の成果を承認し、カトリックがフ ランスの国教でないことを確認し、アンシャン・レジームの終焉を認めるも のにほかならない。その反面、反教皇的な司教団に代わる、教皇制を承認す る司教の任命と、聖職者本来の活動が可能となったのである14。 この協約以降、両者間で締結される協約は教会の特権の譲渡という性格を 保ちつつ、教会の抑圧または排除を目的とする国家の主張に対して教会がと る法的な手段にもなった。これをもって、「現代的」政教協約の時代が到来し たとみなすことが出来る。フランス語で(固有名詞として)単にle Concordat 13 以下 3-1 については、特別に注を付さない限り、『新カトリック大事典 第3 巻』(研 究社、2002)の「政教条約」の項を参照(pp. 593-595)。 14 市村、前掲書、2002、pp. 281-282。
とした場合、この1801 年の協約を指す15。「コンコルダのライシテ」のコン コルダも正にこれを指しており、いかに同法が特別視されているかを窺い知 ることができる。 3-2.laïcité ライシテ。国教を定めることなく、いかなる既成宗教からも独立した国家 により、複数の宗教間の平等および宗教の自由(個人の良心の自由と集団の 礼拝の自由)を保障する主教共存の原理、またその制度を指す。『小学館ロベ ール仏和大辞典』には、非宗教性、世俗性、政教分離という訳語が掲載され ていて、用例にもlaïcité de l’Etat(国家の政教分離)や laïcité des écoles publiques (公立学校の宗教色排除)とある。このように、国家や公立学校などの公的 領域を脱宗教化することで、私的領域における宗教の自由を保障するライシ テの公私二元論は、宗教的・民族的出自から別離した普遍的市民権のベース にもなっている16。 とはいえ、上記の訳語の間には断層があるのも事実である。例えば、世俗 化が進んでいることと、政教分離が徹底されていることは、必ずしも同義で はないからである。そこで、ライシテを広く認知させるべく、無理に日本語 に訳さずに、そのまま導入しようという動きがみられる。『フランスにおける 脱宗教性の歴史』の訳者である三浦信孝は、「ライシテ」が日本語として定着 することを期待し、あえてカタカナで表記したとしている17。また伊達聖伸 も、フランス語をカタカナのまま連発することは避けたいとしながらも、ラ イシテに関しては「日本語に既存の一語で表すことがどうしても困難である し、カタカナ語として日本語になってほしい」と述べている18。本稿でもこ の立場を支持する。 では、この一語はどれほどの意味を含み得るのだろうか。ここで、前述の 『フランスの七つのライシテ』に示されているモデルを簡単に確認したい。 著者であるボベロによれば、ライシテはもはや一意の理想的規範ではなく、 この語を用いる人物、あるいはそれが用いられる場面によって異なる意味を 15 『小学館ロベール仏和大辞典』、小学館、1988、p. 528。『ディコ仏和辞典』、白水社、 2003、p. 318。 16 ボベロ, J.(三浦信孝;伊達聖伸訳)『フランスにおける脱宗教性ラ イ シ テの歴史』(文庫クセ ジュ 936)、白水社、2009、p. 9。『小学館ロベール仏和大辞典』、小学館、1988、p. 1387。 17 ボベロ、前掲書、2009、p. 9。 18 伊達、前掲書、2010、p. 9。
持つという19。そこで、まず彼はライシテを四つの「歴史的なライシテ」と 三つの「新しいライシテ」に大別し、さらに前者を、いわゆる「政教分離法」 が制定された1905 年を境に「敗れた」ものと「勝利した」ものとに分けてい る。 整理すると、「歴史的なライシテ」の中で、1905 年から退けられ始めたの が「反宗教的なライシテ」および「ガリカニスムのライシテ」、同年から伸張 したのが「個人の信仰を重視するライシテ」と「宗教組織に協調的なライシ テ」20であり、これに「新しいライシテ」として「開かれたライシテ」、「ア イデンティティのライシテ」、そして「コンコルダのライシテ」合わせたのが 「フランスの七つのライシテ」である。 さて、上述の7 類型について、それぞれの定義について詳述することは避 けるが、これらの字面を一瞥するだけでも矛盾が感じ取れる。例えば、一方 で反宗教的でありながら、他方では宗教に協調するというのは相容れないは ずである。ましてや、コンコルダという教皇庁との条約に基づくライシテは、 より大きなずれ、、を感じさせる。こうした断層を承知した上で、上記の諸類型 に通底する概念を探るべく、その語義に立ち返ることにしよう。ライシテの 語義については、いくつかの研究において言及されている。それらの記述を 参照しながら、以下にライシテの語義を記しておきたい。 「ライシテ」(la laïcité)はフランス語の名詞であるが、その形容詞に当た る「ライック」(laïque)からの派生語である。ライックはギリシア語で「遺 産」を表す「クレルク」(clerc)とともに教会用語として生まれ、相補関係に あった。まずキリスト教教団に所属する者のなかで、自ら神を選んで、生涯 教会のヒエラルキー(フランス語ではhiérarchie)を直接構成する全ての人を クレルクと呼んだ。これに対して、それ以外の構成員で教会の職務に直接従 事しない人にライックという呼称を与えた21。このように、元来、ライック
19 Baubérot, J. Les 7 laïcités françaises, Paris, Maison des Sciences de l’Homme, 2015, pp.
15-18.
20 ボベロ自身は、「個人の信仰を重視するライシテ」と「宗教組織に協調的なライシテ」
という呼称を用いていない。彼は両者をles laïcités séparatistes としてまとめ、それを 「1905 年」のものと「今日」のものとに区別している。本稿ではこの違いを明確に すべく、伊達聖伸の著書に従い、このような訳語を充てた。詳細については、伊達 聖伸『ライシテから読む現代フランス―政治と宗教のいま』(岩波新書 1710)、岩 波書店、2018、p. 30 などを参照。 21 石堂常世『フランス公教育論と市民育成の原理―コンドルセ公教育論を起点として ―』、風間書房、2013、p. 204。
に「政教分離」や「世俗化」という意味はなかった。 また、ライシテはギリシア語で「民衆」を意味する「ラオス」(λαός : laós) や「民衆に関すること」という意味の「ライコス」(λαϊκός : laïkós)をも語源 とする22。これらの語は、「聖職者に関すること」を表す「クレリコス」 (κληρικός : klêrikós)」と対になっていて23、両者は一組のものと考えられて いたことがわかる。しかしやはり、この時点で政治的な意味を含んでいたわ けではないことに留意しておく必要がある。 3-3.laïcité concordataire 以上、concordat と laïcité という語の意味を確認してきた。これまでの議論 を基に、本稿の主題である「コンコルダのライシテ」について言及し、次章 へ移ることにする。 「コンコルダのライシテ」は原語ではlaïcité concordataire と記され、その 名の通り、1801 年の政教協約に沿った宗教政策を容認するライシテを意味す る。フランス本土にありながら、フランス法の一部適用外にあるのは、その 歴史的複雑さと地理的条件故である。 冒頭でも述べたように、アルザス地方はフランスの北東部に位置し、ドイ ツと国境を接する。同地は古来より「ヨーロッパの十字路」として交易の要 衝であり、多様な文化が交錯する場所であった。宗教に関しても同様で、カ トリックのほかにドイツ発祥のルター派、スイス発祥のカルヴァン派、そし てユダヤ教徒に代表される複数の宗教の信徒が住んでいた。 フランスに編入されたのは三十年戦争(1618-1648)後のことである。編入 直後にはフランス王国との間で戦闘が行われたこともあったが、17 世紀末に は完全にフランス領となった。大革命以後のアルザスは、普仏戦争によるド イツへの割譲から数えて、4 度の帰属変更を経験する。この間、両国の法制 との整合が図られるも、そのどちらとも完全には一致しないという状態のま ま現代に至る。 アルザスでは1801 年の政教協約と、これに基づく公認宗教体制が維持され ている。他方、フランスでは1905 年の政教分離法によってこの体制は廃され 22 ボベロ, J.(私市正年;中村遥訳)『世界のなかのライシテ―宗教と政治の関係史』(文 庫クセジュ 994)、白水社、2014。 23 満足圭江「現代フランス社会における『ライシテ(政教分離)』概念の変容―イスラ ーム子女のスカーフ問題をめぐって―」、『東洋哲学研究所紀要』、No. 20、2004、pp. 262-261。
た。この矛盾したようにも思える状況にあって、「コンコルダのライシテ」は 次のように正当化される。すなわち、国家は政体として完全に独立し、また 何ものにも影響を受けない。また信徒たるアルザスの住人たちは、宗教的自 由を内省によって縮小する。その結果として「慎ましやかな」宗教活動は展 開することはあっても、それが社会や国家に対し、何か大きな影響を与える ということはない。こうした、政体の独立と信徒の自由を保障するものこそ がライシテであり、アルザスではこの前提に立った宗教活動が行われている ので、何ら問題はないという論理である。 しかしこの言説は、アルザスの住民をはじめとする当事者以外には理解し がたい。事実、フランス国内でも、アルザスの状況は憲法違反ではないのか という声も上がった。2013 年に憲法裁判所が合憲との判決を下したが、その 根拠は曖昧である24。結局、フランスのライシテの中でも際立って異質であ ることのみが明確になっている。 最後に、この「コンコルダのライシテ」の訳語についても述べておきたい。 「コンコルダのライシテ」をはじめとする「フランスの七つのライシテ」は、 あくまでフランス国内にのみ通用する分類である。「ライシテ」は近代国家の 特徴の一つであり、各自実現する原則である。しかし、各国のライシテが須 らく七つの類型を持つとは限らない。つまり、ライシテが七つの類型を持つ ことを、フランス以外で通用する普遍的な原理であるとは断言できないとい うことである。 であれば、その日本語としての使用法にも、細心の注意が必要である。他 の文献では「コンコルダートのライシテ」と表記されている場合があるが、 完全に日本語化していない(英語もしくはドイツ語由来の)外来語である「コ ンコルダート」で、フランス国内の「ライシテ」を修飾することは不適切で はないだろうか。よって本稿では、「コンコルダ」を日本語訳した「政教条約 (協約)のライシテ」か、フランス語由来のカタカナで統一した「コンコル ダのライシテ」と呼称することを提唱したい。これが、聞きなれない「コン コルダ」という語を再三にわたって用いてきた理由である。
4.近代アルザス史と宗教および教育
前章では「コンコルダのライシテ」を、本稿が重視する「コンコルダ」と 「ライシテ」の語義を確認しつつ定義した。これを踏まえて、本章では、その歴史的経緯をアルザスの近代史と照合しながら述べることにする。 ライシテが初めて公的に現れたのは、フランス第三共和政下の1871 年であ るとされている25。それは宗教と政治だけでなく、宗教と教育の関係性につ いても影響を与えた。「少くとも20 世紀の中葉までのフランス教育問題の中 で最も重要なのはライシテ問題である」26と石堂常世が述べるように、ライ シテは教育の問題でもあったのである。しかし、普仏戦争によってドイツに 割譲されたアルザスはこの影響を受けなかった。さらに、ドイツ領期のアル ザスはドイツの他の地方とも異なる法的地位を保っていたこともあって、一 層の特殊性を帯びていた。この特殊性が「コンコルダのライシテ」の確立に 至るまでの変遷と、それに伴う教育に関する問題について以下に記す。 4-1.アンシャン・レジーム末期から第二帝政まで フランスの、そしてアルザスの近代はフランス革命に端を発する。大革命 は、確かに世界史的かつフランス史的に重要な事件であるが、これを過度に 独立したものとみなすのではなく、歴史的連続性のうちに捉える必要がある。 なぜならそれは、旧来のフランスの状況への反動としての側面も当然持つか らである。その状況下には、教育を主題とする教会と国家の闘争も勿論含ま れる。よって本節では、アンシャン・レジーム末期の教育から議論を出発さ せることとする。またアルザス宗教史および教育史は、革命期から第二帝政 期までフランスのそれと軌を同じくしているので、本節は主にフランス宗教 史・教育史の記述になることを断っておく。 アンシャン・レジーム末期の1762 年、124 校ものジェズイット派のコレー ジュが閉鎖を命じられた27。その2 年後には、教団に所属していた 100 以上 のコレージュからジェズイット派が追放される事件が発生した28。この一連 の事件は、教育を統べるのは教会と国家のどちらであるかという議論を活発 にさせた。反教会主義の立場の代表がかの有名なジャン=ジャック・ルソー である。ルソーをはじめとする啓蒙主義者たちは、人間が理性的かつ自然的 存在であると主張し、宗教への服従を迫る教会の強権的な態度を拒否した。 独立した精神を持つ人間が合理的、実証的、科学的に思惟することで、教育 25 伊達聖伸「ライシテの変貌:左派の原理から右派の原理へ?」、上智大学『ソフィア: 西洋文化ならびに東西文化交流の研究』、Vol. 60、No. 2、2012、pp. 108。 26 石堂、前掲書、2013、p. 207。 27 吉田正晴『フランス公教育政策の源流』、風間書房、1977、pp. 8-9。 28 石堂、前掲書、2013、p. 207。
の中立性が担保されるというのである。このように、無知な国民を教会のド グマから保護し、客観的な知識を重視する姿勢は「人権宣言」に反映され、 1791 年に発布された憲法に謳われた「公教育」の思想に引き継がれた。 こうした、いわゆる「啓蒙思想」の普及が大革命の一因であるが、これが 階級を問わずあらゆる人々に知られていた、というわけではない。啓蒙思想 に直に触れていたのはあくまでも上流階級に限られており、農民をはじめと する大多数の住民には没交渉であった。彼らはカトリック的生活習慣を自明 のものとして受容し、毎日を過ごしていたのである。谷川は、フランス革命 がカトリック勢力を敵視したのは、この革命が単に制度の変革だけでなく、 伝統的モラルを破壊し、新たな生活スタイルを創出する「習俗の」変革をも 企画したからだとしている29。 教育の話に戻ると、上記の「習俗革命」の一環として、国家の手による公 教育計画がミラボーにより構想された。しかし彼の構想は存命中に発表され たものではなく、彼の死後、友人のジョルジュ・カバニスがまとめた遺稿に よって明らかとなったため、議会で審議されることはなかった30。その後、 タレイランやコンドルセが国家による教育統制の必要性を議会に訴えたが、 不安定な政情のあおりを受けて、十分な成果を得ることは叶わなかった。特 に初等教育改革については、1833 年のギゾー法の成立を待たねばならない。 政変が頻発した革命政府は次第に支持を失い、国民は公立学校へ失望する一 方で、旧来の宗教的な教育の復活を期待するようになった31。 この期待に応えたのがナポレオン・ボナパルトである。彼が教皇庁との交 渉の末、1801 年の政教協約を結んだことは既に述べたが、国内でもカトリッ クに寛容な政策を採った。しかし、王国時代のようにカトリックを国教とす るのではなく、「フランス人の大部分の宗教である」32と認めたに過ぎない。 カトリックにプロテスタント2 派(ルター派および改革派)、そしてユダヤ教 を加えた4 派が「公認宗教」とされ、それぞれに礼拝の自由が認められた33。 ナポレオンという後ろ盾を得た教会は教育への影響力を取り戻した。小学 校においてカトリック教義の戒律が採用されたこと、リセやコレージュで専 29 谷川、前掲書、2015、pp. 23-24。 30 吉田、前掲書、1977、pp. 20-21、p. 39。 31 石堂、前掲書、2013、p. 208。 32 ボベロ、前掲書、2009、p. 40。 33 同前、p. 41。松嶌明男『礼拝の自由とナポレオン 公認宗教体制の成立』(山川歴史 モノグラフ22)山川出版社、2010、pp. 173-174。
任司祭によって礼拝義務、教理問答(catéchisme)の優先を規定した政令が 1808 年に出されているが、これは公認宗教体制の確立と同様に、国家と宗教 の接近を意味している。付言すれば、この時期の帝国内の小学校は完全にキ リスト教の影響下にあり、教員の養成も修道会に一任されていた34。 しかし、かつてのように教育全般を掌握するには至らず、中等、高等教育 の事情は初等教育のそれとは異なっていた。1806 年の法令によって帝国ユニ ヴェルシテ(Université)35が組織され、そこでは宗教をも議題に含めた自由 な(時に批判的な)議論が可能とされていたからである。初等教育がこの管 轄から外れているのに対し、中等教育以降は自律性を確保していることにな る。この点から、ボベロはナポレオンを教育が非宗教化していく道筋をつけ た人物と捉えている36。 第一帝政以降、復古王政時代から第二帝政にかけても、初等教育は教会と 聖職者に引き続き委ねられていた。これは国家が後ろ盾となることで実現し ており、教育修道士会を優遇していたことや司祭に小学校教員の任命権を認 めていたことなどは、教会と国家の紐帯が強固であったことの証左である37。 教会と国家の連帯は、共和主義者やプロテスタント、ユダヤ教徒から批判 された。彼らにとってみれば、革命によって威厳を失ったはずのカトリック が復活し、公認宗教体制に基づいて対等であるはずの自らの宗教を圧迫して いるように感じられたからである。彼らを中心として教育の世俗化が訴えら れたが、1848 年に起きた二月革命における混乱の時期を経て、1850 年に成立 したファルー法によって封殺された。この法律では初等教育と師範教育の水 準が引き下げられた上で、中等教育が大学から切り離され、初等教育におい ては宗教教育が徹底された。またカトリックの目標であった教育の自由が実 現し、私立学校に通う生徒のリセ通学義務が解除された。こうして、カトリ ック教育は公教育の場で伸張したのである38。 34 ボベロ、前掲書、2009、p. 208。 35 中等教育と(高等師範学校のみを含む)高等教育の行政機関のこと。同時に、教職 員の同業組合的団体でもある。詳細については、前田更子『私立学校からみる近代 フランス―19 世紀リヨンのエリート教育』、昭和堂、2009 を参照。 36 ボベロ、前掲書、2009、pp. 42-45。 37 石堂、前掲書、2013、p. 208。 38 同前、pp. 208-209。
4-2.ファルー法:「コンコルダのライシテ」との親和性 ここで、ファルー法について詳しく説明しておこう。1850 年、バロ内閣の 教育相であった王党派のド=ファルー伯爵の主導で、この法は成立した。そ の成立に至るまでの経緯を、少し前の年代に遡って追うことにする。 1830 年以降の七月王政期における教育政策はその世俗化を念頭に置いて いたが、成功例といえるのは1833 年のギゾー法くらいであり、共和派には不 満であった。他方、敵視される側のカトリックも七月王政には当然批判的で、 時には共和派と連携して王政に対峙することもあった。 とはいえ、彼らが完全に調和するはずもなく、潜在的な対立の火種は燻っ ていた。これに点火したのは、1848 年、ファルー法に先立つ教育政策を打ち 出したイッポリト・カルノーである。ド=ファルーの前任の教育相である彼 は、農村などの地方における教会勢力の影響力が依然として強いことに危機 感を抱き、教育の無償化と義務化を定めた法案を提出した。しかし教会勢力 と共和派の双方ともにこの法案には難色を示し、身動きの取れなくなったカ ルノーは辞職に追い込まれた。この後任にド=ファルーが就いたのである。 カルノーの辞職後も彼の法案は審議が続けられたが、ド=ファルーはこれ を廃案とすべく、財政的な見地から無償化は不可能だとした。また、社会秩 序の観点から義務化も否定した。つまり教会や市町村を超えた、国家の国民 への直接の教育は過度な中央集権化を招くというのである。一見もっともら しい主張に思えるが、その裏には教会が社会規範の要となることへの懐古と 憧憬がある39。 幾度の妥協の末、ファルー法が可決される。その内容は85 条もの条文から なり、ここにその全てを記すことはできないが、概ねカトリック側に譲歩し たものと考えればよい。その中で、本稿と特に関連する点を挙げるならば、 次の2 点である。すなわち初等教育における宗教の尊重、そして初等教育監 督権の(教会または司教への)大幅な委譲である。そして、これらこそが「コ ンコルダのライシテ」と教育問題の核心であるといって差し支えない。 4-3.ドイツ帝国下のアルザス 1870 年にドイツへ割譲されたアルザスは、1871 年のフランクフルト講和条 約以後「エルザス・ロートリンゲン帝国領」へ編入された。同時期のドイツ 帝国の宗教問題としては、ビスマルクによる1872 年の文化闘争が知られてい 39 谷川、前掲書、2015、p. 173。
る。当時の教皇ピウス9 世が発した「誤謬表」を発端とするこの騒動は、神 学闘争というより政治闘争としての様相を呈しており、その余波はアルザス にも及んで教育界にも影響を与えた。同年3 月に学校監督法が発布され、カ トリック学校が閉鎖に追い込まれるなどして、国家が教育の主導権を握った のである。ドイツ国内のカトリックとプロテスタントの間に亀裂が生じたよ うに、アルザスでもイエズス会が国外追放されるなどして緊張が走ったが、 ピウス9 世の死去とともに緩和した40。 ドイツで多数派であったプロテスタントはアルザスでもストラスブールや ミュルーズといった都市を中心に居住していたが、アルザスの全人口のうち 2 割ほどであった41。ストラスブール帝国大学プロテスタント神学部では牧師 が養成され、教階制度が整備された。こうしたキリスト教諸派の変化に対し、 ユダヤ教に特筆すべき変化は起きなかった。 こうした宗教情勢を背景としたアルザスの教育とはいかなるものであった か。上述したように宗教への介入も辞さなかったドイツ当局であったが、併 合後のアルザスにおける、「コンコルダのライシテ」とファルー法に基づく教 育を黙認した。また1872 年にストラスブール帝国大学が創立された当初カト リックの神学部は設けられていなかったが、1903 年、カトリック側の要請に より増設されている。このようにドイツ帝国時代のアルザスでは、フランス 第二帝政までの宗教・教育制度と連続性のある政策が行われていたというこ とができる42。 4-4.アルザス割譲から回復までのフランス 第一次世界大戦後に正式にフランスへと復帰したアルザスだったが、かつ てのフランスとの断層に困惑せざるを得なかった。彼の地がドイツ帝国に属 している間、第三共和政下でフランスの教育制度は激変していたからである。 そこでアルザスの問題に立ち入る前に、普仏戦争以後のフランスの教育の状 況について、以下、簡単に触れておく。 既に述べたように、ライシテが公的に登場するのは1871 年であったが、そ の教育への反映は1881 年のフェリー法によってなされた。この法は首相ジュ 40 市村、前掲書、2002、pp. 342-343。 41 同前、p. 342。 42 しかし、現場の教職員に対しては「正しい」ドイツ語での授業を行うことが厳しく 求められ、特に中等教育に関して、これに対応できない者はフランス内地などへと 転任した。市村、前掲書、2002、pp. 338-339。
ール・フェリーが主導したもので、ファルー法に代わる、共和国の新たな教 育上の指針であった。その主な内容としては、初等教育の無償化、中立化、 義務化であり、フランスの教育三大原則が確立したのである。また教育課程 から宗教教育が外され、教育の世俗化が断行された。それまでの宗教の時間 に代わり、「道徳・公民教育」が導入されて公教育の場から宗教が阻害される 一方で、家庭における宗教教育が十分に行えるように、日曜日以外に週1 日 の休日が設けられたのである43。こうした施策の背景には、公立男子中等教 育がカトリック系私学との競争により生徒数確保に苦慮していたという事情 がある。これを見たフェリーは1880 年の政令によってイエズス会を追放する 強硬策を既に採っていたが、フェリー法はこれをさらに推し進めたものとい える。また、初等教育が世俗化されことで、宗派教育に代わる新たな宗教教 育が必要になり、大学の教員による「教育科学」が大学で教えられることに なった44。 フェリー法による改革以外にも、重要な改革は存在する。例えば1879 年の ポール・ベール法によって、初等師範学校が整備されたことを皮切りに、初 等教育と師範教育が拡充した。また、1880 年のカミーユ・セー法では、公立 女子教育が初めて制度化された45。フェリーによる改革は、このような大き な変化の最たるものであったと見ることができよう。 フェリーは宗教を全面的に否定していたわけではない。彼が求めていたの は教育における宗教的中立が確立されることであった。普仏戦争に敗北した フランスでは国民の再統合が喫緊の課題となっており、そのためには実証主 義に基づくモラルが必要であると考えたからである。しかし、国民に「非宗 教的な」教育を「義務」化し、「無償」で受けさせることで共通の道徳基盤を 築き上げるという理想は、一筋縄ではいかぬものであった。例えば、メーヌ・ エ・ロワール県の公立学校では、1900 年代でも相変わらず教理問答を教えて いたし、ドゥ県ではキリスト像が教室のシンボルであった46。このように教 育のライシテは画一的なものではなく、地域差のあるものだった。 ドレフュス事件がフランス世論を二分し、ドレフュスを弾劾する軍部、王 党派、教会勢力と彼を擁護する共和派の衝突した頃から、教育は急速に脱宗 教化を志向するようになる。結果としてドレフュスの潔白が証明されると、 43 石堂、前掲書、2015、p. 209-210。 44 上垣豊『規律と教養のフランス近代』、ミネルヴァ書房、2016、p. 17。 45 同前、p. 17。 46 石堂、前掲書、2013、pp. 210-212。
共和国政府は教会への態度を急激に硬化させた。1901 年には教団系学校に対 する政府の認可を必須とし、翌1902 年には 2500 以上の教団系学校を閉鎖し た。さらには、1904 年の法律で教団系学校の設立を禁止している47。そして、 1905 年に「政教分離法」が成立した頃、共和派とカトリックの対立が頂点に 達した。 学校における影響力を剥奪された宗教勢力は、その代替物である公立学校 の中立性に疑いの目を向け、「教理問答の神、、、、、、を義務、、によって置き換えたにすぎ ぬ」48と批判した。19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて、フランスでは従来の 社会秩序が崩壊したことに伴うモラルの解体が顕著であったため、新たな社 会秩序とモラルが求められていたのである。一方で、信心深い人々の間では、 宗教と教会のより一層の重要性が確認された49。結果、ライシテをめぐる政 治的また市民的な対立が生じ、教育がそこから逃れる術はなかった。 宗教を教育から排する改革の一環として、高等教育では文学部、理学部の 充実が図られ、「総合大学」が復活した。しかし、この「総合大学」では学部 (faculité)が基礎にあったために形骸化した。中等教育でも、1902 年のレイ グ改革によって、ギリシア語のないコースやラテン語のないコースが設けら れた。古典人文学を核とする教養教育は依然として優位を保っていたが、近 代人文学がこれに比肩し得るほど成長した。初等教育では、1905 年に師範学 校教育が行われた。しかしこれと同時に行われた一連の改革、特に新しいソ ルボンヌ大学と近代人文学、そして「教育科学」は、左右両派から批判され、 共和派内部に亀裂を生じさせた。こうした帝国ユニヴェルシテの不和は、従 来のカトリック対共和派の構図に収まらない、新たな対立となった50。 以降は1930 年代まで比較的安定した時期が続く。この時期で注目すべきは、 第一次世界大戦から1920 年前後にかけて発生した、第三共和政初期のユート ピア的な教育改革への反動である。例えば、1919 年にソルボンヌ大学におい て「教育科学」が廃止され、1920 年には師範学校が 1887 年の体制に戻った。 他方で、女性の中等教育、高等教育への進出が顕著となり、これを受けて1924 年のベラール政令では、男女中等教育の同格化が実現した51。アルザスの教 育問題は、こうしたフランス国内の変化との齟齬を一因として発生したので 47 同前、pp. 213-214。 48 同前、傍点原著、p. 214。 49 同前、pp. 214-215。 50 上垣、前掲書、2016、p. 17。 51 同前、p. 17。
ある。 4-5.「コンコルダのライシテ」と教育問題 1918 年、第一次世界大戦が終結し、アルザスはフランスへと再び帰属する こととなった。ドイツ帝国下でもファルー法を維持してきたアルザスは、フ ランスへの復帰を悲願としていた。それだけに、その変貌ぶりは受け入れが たく、共和国への失望が募った。他方、フランスにとってもアルザスとの再 会は至上命題であったが、そのドイツ的要素の否定も不可避の作業であった。 こうした両者の不調は宗教および教育の領域で顕在化した。 ファルー法を維持してきたアルザスでは、前節の末尾で触れたように、教 会勢力が初等教育監督権を握っていた。特に宗教教育用のテキストであるカ テシスムに対する影響は強く、教会にとって有利な記述が多いのは当然であ った。 しかし中には、幾度もの政変の末に誕生した第三共和政フランスにとって 看過できない類のものもあった。例えば、ドイツ人司教アドルフ・フリッツ ェンの出版許可を得たカテシスムでは、啓蒙思想家であるヴォルテールが「教 会の破滅を願った不俱戴天の仇である」と非難された。また、「高潔で寛大な る王」ルイ 16 世とその臣下たちが、「自由、平等、博愛を絶えず口にする」 「暴徒たちによって処刑された」フランス革命は、残虐極まりないものと糾 弾された。これら以外にも、アルザスは祖国ドイツの一部であるというよう な、親ドイツ的かつ反フランス的な記述がなされている箇所が数多く存在し た52。 当時のアルザス行政は、同地の宗教的および教育における特異性と、劇的 にライシテ化したフランスとのせめぎ合いの中でいかなる対応をとったのだ ろうか。アルザスの中心であるストラスブール市長のジャック・ペロットら は親ライシテ派としての立場から、カテシスムにある「不適切な」記述がな されているページを破り捨て、それを報告するよう各初等教育機関に通達し た。多くはこの通達に従ったが、修道院系の教育機関ではこれを保留し、そ の後シャルル・リュク司教の命で不服とした。1921 年、カテシスムの最終ペ ージにある「ドイツはアルザス人の祖国である」という部分が削除され、新 たな補遺の付いた新版が出されたものの、大革命が教会と絶対王政を破壊し たというような記述には手つかずで、共和派にしてみれば不満の残る結果と
なった53。 こうした問題の根本的な解決を図るべく、1924 年、フランスのエドゥアー ル・エリオ内閣はアルザスにおける政教協約の廃止と、脱宗教化政策の実施 を宣言した。つまりは、聖職者への俸給、宗教学校への補助金、そして公立 学校での宗教教育の廃止を意味している。かねてより多宗教が共存し、ドイ ツ帝国期にもそれを保持してきたアルザスにとって、政教協約はある種の象 徴となっていた。これを廃することにアルザスは強硬に反対したのである。 その中心人物は、前段に記したリュク司教であった54。第一次世界大戦にも 従軍した彼はアルザスに拠点を置くカトリック団体に対し、教団組織の再編 成、信徒の動員、メディアによる広報活動などの具体的な策を採るよう助言 した。さらにプロテスタントとユダヤ教の諸団体にはたらきかけ、3 宗教 4 宗派による抗議活動を行った。彼らの運動にアルザス地方選出の議員までも が加わり、その規模は5 万人に上った。エリオ内閣はこうした動きを黙認で きず、結局、政教協約廃止を撤回することになった。しかしアルザスに芽生 えた不信感を完全に払しょくすることはできず、1920 年代の後半にかけて自 治運動が展開することになる。そしてこうした中で、「コンコルダのライシテ」 が確立していくことになったのである55。
5.おわりに
以上、20 世紀初頭のアルザスにおける宗教と教育について論じてきた。ア ルザスは、第一統領ナポレオン・ボナパルトと教皇ピウス7 世との間で締結 された政教協約と、1850 年に成立したファルー法を基本とする宗教・教育政 策を講じてきた。普仏戦争後のドイツ帝国時代もそれは変わらず、諸制度と 住民意識を保持したまま、1918 年にフランスへと復帰した。しかしアルザス が「不在」の間に、フランスは脱宗教化を徹底的に求める国家へと変化して いた。その変化は教育においても同様で、宗教色は廃されることとなってい た。フランスはアルザスにも同じ姿勢で接したが、アルザスはこれに困惑し、 そして反発した。こうした抗議の中で政教協約はアルザス人の拠り所となり、 「コンコルダのライシテ」の確立へ至ったのである。 以上から二つの結論を得ることができる。一つは、20 世紀初頭のアルザス における教育を「コンコルダのライシテ」とみなすことが必ずしも適切では 53 Ibid., pp. 103-105. 54 しかし実際には、彼は親フランス的な人物であった。ないということである。既に述べたように、アルザスの宗教と教育の関係を 特殊たらしめたのはファルー法(およびドイツ帝国領時代のいくつかの法令) であって、「コンコルダのライシテ」ではない。後者が近代アルザスの教育に 直接影響していたというよりも、その理念を現実化した前者を介して、間接 的に機能していたとする方が正確である。しかしこの点に関しては、ファル ー法とドイツ帝国法令のより精密な読解が必要であるため、引き続き検討せ ねばならない課題でもある。 もう一つの結論は、アルザスは近代を通じて最も「フランス」らしい地域 であったのではなかったか、ということである。第三共和政期、特に20 世紀 以降に急進化した共和主義に迎合せず、むしろライシテ化に反対したアルザ スは、一見すると、フランスの国民国家としての在り方を動揺させているよ うですらあった。しかしその在り方故に、「一にして不可分」でありながら「画 一的」でないというフランスの国家観を体現していたのである。この論理が 後世の学者たちの手による辻褄合わせではなく、当時の知識人らにも見られ たことが、その証左である56。
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