スペインの庭 ( 1 )
図1 セ ビー リヤ、 ある住宅 パティオ 【著者撮影】
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鳥 居 徳 敏
はじめに
スペイ ンの庭 と言 えば、先ず はパテ ィオ (中 庭) を思 い描 くことであろう。殊 にスペイ ン南 部のアングル シアのパテ ィオ(図1)は有名であ り、
旅行ガイ ドブ ックの紙面 を飾 り、観光 ツアーの 目玉 の一つ にもなって もいる。 しか し、パティ オはスペイ ン南部だけでな く、 同国全土 に隈な く見 られ る半屋外空間であるのみな らず、 ヨー ロッパ、 中近東、およびアフ リカの地 中海沿岸 地域 に見 られ る特徴で もある。それ をコア とす るパテ ィオ型住宅は、極 めて古 い住宅形式の一 つで あ り、古 代 メ ソポ タ ミア の ウル の住居 跡 (BC2000年、図2)や古代ギ リシアのデ ロス島 住居跡 (BC2‑3世紀、図3)で も典型的な住宅 形式 として知 られている1。
図2 ウル、パテ ィオ型住居 と住街 区 図3 デ ロス島、パテ ィオ型住居 と住街
【『都市の世界史1、古代』23頁】 区【『都市の世界史1、古代』96‑97頁】
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古代 ローマ帝国時代の地 中海沿岸地域の住宅 もこのパティオ形式 を典型 とし、
その後、 中近東か ら同地域 に支配権 を広 めたイス ラム圏の住宅 も同形式 を採用 し た。例 えば、モ ロッコの首都マ ラケ シュ (図4)は このパテ ィオ型住宅が際限な く 広がる巨大な低層都市であ り、その航空写真は圧巻であ り、異様で もあろう。
図4 マ ラケシュ (モ ロッコ)、航空写真
住宅の最低 目標は、外敵、および 自然の脅威か ら身を守 る ことにある。後者 に は風雨や寒暑か ら身を守る ことも含 まれ る。住宅 に厚 い外壁は不可欠であ り、 ま た住宅が集約す る都市 には城壁 (市壁)が必要 になるのは このためである。 日本 のような島国では海が外敵侵入の 自然の障壁 になるため、市壁 の発展は見 られな い。 しか し、地続 きの大陸での市壁は身の安全 を守るためにな くてはな らない存 在であ り、それ故、市壁はその都市 の独立性 を表す象徴 にもなった。
窓な どの開口部がな く、厚 い外壁 に囲まれた住宅はよ り一層安全であろう。 し か し、 これでは明か りや新鮮な外気 を室内に取 り込む ことができず、生活 には不 便 になろう。 中庭 を設け、そ こか ら外気 を取 り入れ、間接光で室内を明る くすれ ば、問題は解決す る。特 に、 日差 しが強 く、酷暑の地域では,直射光は禁物で、
間接光は最善の手段であろう。
日本の伝統的な家屋は 「夏 を旨」とし、北か ら南へ風 を通すよ うにしなければ な らない。 これは高温多湿 を特徴 とす る熱帯モ ンスー ンや温暖湿潤地帯での原則 であろう。外壁 に開 口部 を設 け、風通 しを良 くすれば、外敵の侵入 を容易 にして
ノ ♂ ′ ( 1 4 )
安全ではない。 この矛盾 を解決す る方法が外塀 の設置である。公家や武家の屋敷 は外塀で囲まれているか ら、住宅それ 自身は開放的な構造 にできる。 開放的にし た上で、裏庭 に竹林 を作 り、裏庭 に池で もあ しらえれば、通 り風はよ り一層涼 し げ になろう。 しか し、一般大衆 の住宅ではそ うはいかない。貧民は暑 さに耐え身 の安全 を図るしかない。
地 中海や 中近東のように乾燥 した酷暑の地域では昼夜 の温度差がはなはだ しい。
昼は暑すぎて身動き一つできない状態 になるにもかかわ らず、朝夕は結構涼 しく 快適である。特 に 日中の照 り返 しが強 いため、地上近 くの空気は熱風 とな り、そ の熱風 を室内に取 り込めば最悪の状態 になろう。 しか し、パテ ィオか らの空気は 屋根越 しか ら入 る空気であるか ら、街路の熱風 に比べれば、 い くらかは過 ごし易 い。ただ し、40度 を超 える真夏は人の許容度 を超 える。 クー ラーのない時代、 こ の時期 の唯一の防御策は、早朝 の涼 しい空気 を室内に取 り込み、 開口部 という開 口部 を閉め切 り、外気 の侵入 を防いだ上で、ベ ッ ドにまん じりともせず じっとし ていること。 これが、スペイ ン南部 にシエスタ という昼寝の習慣 を生んだ。涼 し くなる夕刻、人々は活動 を再開 し、街 中は賑わ う。スペイ ン人は一 日に二 目持つ と云われる所以である。
イス ラム都市の特徴は、幾重 もの市壁 に囲まれていることに見 られ る。王宮は その市街 区に接 しなが らも、その内部ではな く、外部 に設け られ、 自身の城壁 を 持つ。反乱が起 きた とき、 いつで も容易に外部 に避難できるか らだ。市街 区は市 壁 によ り幾つ もの街区に分かれる。 というよ りも、市壁 に囲まれた旧市街区に新 たな街区が追加 され、都市は増幅 ・反復 しなが ら拡大 してきた(図5)。最少単位 の
図5 グ ラナダ、イス ラム時代 の街 区 とその 図6ダマスクス (シリア)、 ある 市壁 街 区の平面 【Sauvagetによる】
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街 区は一本 の袋小路 に幾つ もの家屋が接続 し、そ の袋小路入 口は門によ り外部 と 隔離 され る(図6)。 ある意味で、連続 した住宅 の外壁が住 区壁 を形成 し、最少の単 位街 区を形作 る。袋小路は最小幅 の狭 い通 りで あ り、それ に面す る住宅外壁 には 開 口部はな く、 ある として も、高 い位置 に小 さな窓が見 られ る程度で あろう。 し か し、各戸 の玄関に入れば、先ずパテ ィオ に通 じるか ら、視界が広 が り、 明るい 空間が見 られ る。そ のパテ ィオ を中心 コア として居間 ・食堂、寝室な どの諸室 に 導かれ る。それぞれの社会的地位や経済 力によ り、パテ ィオの数や規模は変わ り、
それ らをあ しらう水や緑 の様子 も多様 に変化す る。
図7 グ ラナダ、 コラール ・デル ・ 図8 バルセ ロナ、拡張地 区 【Triangle カルボ ン、14世紀 【著者撮影】 Postals】
したが って、スペイ ンのパテ ィオは地 中海沿岸地域 に共通す る中庭形式であ り、
それは有史以前か ら存在 し、古代 のギ リシアや ローマの住宅形式 として一般化 し てお り、イス ラム勃興後 は同文化 圏の典型 として見 られ る ことか ら、二重 ・三重 の意味でスペイ ンに定着すべ くして定着 した庭 園形式 と見 なす ことができる。
ただ し、パテ ィオPatioの語源 としては、 フランス南部 の古語 オ ック語 の 「共 有牧草地」 とか、 「荒れ地」 とか を意 味す るpatu,patiの可能性が指摘 されてお り、 これは ラテ ン語pactio,pactus(協定、賃貸契約) に由来 し、 これか ら 「賃 貸牧草地」、 さ らには 「荒れ地」 に転 じ、 「建物 の背後や 内部 の空 き地」 を意味す るよ うになった2。 しか し、スペイ ン語 (‑カステ イ‑ リヤ語)では、スペイ ンの
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3言語 (同上、カタル一二 ヤ語、およびガ リシア語)とオ ック語 に共通す るコラー ルcorral(「家畜 を戦わせた り、囲み込んだ りす る場所」、 もしくは 「家屋の傍、
または内部の囲われた屋外」)がパテ ィオに代わる言葉 として使用 されてきてお り、
後者パティオの出現は遅れた。例 えば、 コラール (マ ドリー ドでは女性名詞 のコ ラー ラcorralaを使用)はすべての住戸が中庭 に面す る集合住宅の典型的な形式 を指 し、首都では16世紀以来 の伝統的な住居形式 として定着 し、19世紀 にその最 盛期 を迎えた3。 同形式の集合住宅はセ ビー リヤにも多数残 され4、グ ラナダには イス ラム時代の14世紀 に建設 された コラール ・デル ・カルボン (石炭のコラール、
図7)という穀物取 引所 の遺構が見 られ る。 この3階建ての取 引所 も大 きな中庭 に面 した建物であ り、上階の部屋は宿舎 に想定 されている。 また、1860年 に認可 されたバルセ ロナの都市拡張計画 「サルダー計画案」 の基本で も、グ リッ ド状 に 区画 された各正方形街 区は四周のビルで中央 の中庭 を囲む形式 を取 り、拡張地区 全体がパティオ形式の街 区で構成 されている印象 を与える(図8)。すなわち、スペ イ ンでは戸建て住宅のみな らず、集合住宅か ら都市 を構成す る街区組成 において
も、パティオ という形式が基本であろうと想定できるのである。
本論は このスペイ ンに典型的な庭園形式であるパテ ィオ をイス ラム時代の王宮 建築 を事例 として、その変遷 を明 らか にしようとす るものである。イベ リア半島 へのイス ラム侵入が711年、スペイ ン最後 のイス ラム王国、グ ラナダのナサ リ王 朝の滅亡が1492年であるか ら、中世の約8世紀間の変遷 を扱 うことになる。 また イス ラム王権 の一般的な特徴は先代の王宮 を放棄 した り、取 り壊 した りして新宮 殿 を建設することに見 られ、 この結果、 中世のイス ラムの遺構 は世界的に極めて 少な く、スペイ ンのそれは例外であ り、極 めて重要な遺産 になって もいる。 した がって、 この研究はイス ラムにかかわる研究 において も貴重な事例 を紹介す るこ
とにもなる。
本論 に入 る前にテーマ と密接 に関係する3用語、すなわち 「ウェル トhuerto」、
「ハルデ ィンjardin」、および 「パテ ィオ」 を整理す る必要が あろう。後者は上 述 したか ら、省略するとして、ウェル トはラテ ン語hortus一庭 (園)、複数形で 公園‑ を語源 とし、「小面積 の、一般的 には壁 に囲まれた野菜園、時 には果樹園」 を意味す る。女性名詞 のウエルタhuertaは 「ウェル トよ りも大規模 の野菜 ・果 樹 園」、 または 「潅概農地」 を意味す る。ハルデ ィンは同 じラテ ン語hortus起源
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の古 フランス語jartの縮小辞jardinに由来す る。 したが って、「庭 (園)」と邦訳 され る 「ハルデ ィン」は、語源 的 には 「小 さな ウェル ト」 を意 味 し、現在 では
「装飾 を目的 として植物 を栽培す る土地」 として説明されている。 この後者 の厳 格な意味を理解す るな らば、「パテ ィオの中に庭が存在す ること」が理解 されよう。
なぜな ら、パテ ィオは四周 を囲まれた屋外 を意味す るだけで、そ こでの植物栽培 とは関係せず、ハルデ ィンは装飾 目的の植物栽培の土地 を意味す るか らだ。例え ば、大理石やタイル床張 りのパティオの一角 に植物 を栽培する場所があれば、後 者はハルデ ィン (庭) と呼ばれ ることになろう。 これは 日本語での 「庭」 と 「中 庭」 との関係 に対応 しない。なぜな ら、 日本語の 「庭」 は空間を指 し、植物があ る場合 も、ない場合 もあ り得 るか らだ。 また 「中庭」は空間 としての 「パティオ」
と同意語であ り、両者 とも植物等の栽培 とは無関係である。すなわち、ハルデ ィ ンの邦訳に 「庭」 は必ず しも適切ではないとい うことになろう。本論文タイ トル の 「庭」は 日本語の庭 を意味 し、スペイ ン語 のハルデ ィンの訳語ではない。 また、
ウェル トには本論文では 「野菜園」ではな く、「果樹園」の訳語 を当てる。なぜな ら、王宮庭園 としての 「野菜園」は 本論文での事例では想定 し難 いか らである。
1. コル ドバの後 ウマイヤ朝モスク スペイ ン ・イス ラムの最古のモニ ュ メン ト、かつ全イス ラム世界 において ももっとも貴重な建築遺産 の一つが、
後 ウ マ イ ヤ 朝 の 首 都 コ ル ドバ の
メスキータ・マヨール
大 モ ス クであ り、780年 に着工 され、
その後3度の拡張 によ り今 日の規模 に なる (第一期、780‑86年 ;第二期、833 年 ;第三期、961‑69年 ;第四期、987‑
90年、図9)。キ リス ト教徒 による再 征服後はモスク内にゴシックとルネサ ンスの二つの大聖堂が挿入 され、今 日 に至 っている(図11)。モス クの原型 は
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図9 コル ドバ、大モスク、平面図
【TbrresBalbasによる】
メデ ィナのムハ ンマ ドの 自邸 とされ、そ れはパティオ を中心 に南北 に広間、西側 に居住部が配 されるものであった(図10)0 前者南側広間の南側の壁がメッカの方向 にあた り、 この方向への礼拝が定式化 さ れ、 この広間が礼拝堂 とされた。 コル ド バの大モスクも、 この例 に従 い、パテ ィ オ南側 に礼拝堂、残 る3方 に回廊が配 さ れている。ただ し、スペイ ンの場合、南 側 にメッカが位置するわけではない。 こ
塞
図10 ムハ ンマ ドの家、平面図 【abd‑
AllahibmJazidによる】
のパテ ィオも礼拝堂部 の増築 に伴 い拡張 されているが、スペイ ンでは もっとも古 い庭の一つ とされている。
ブル ックス による と、 このパテ ィオ(図12)は、1.現存す るヨー ロッパ最古 の庭 園、2.オ レンジの木は潅概水路 によ り整然 と秩序つけ られている、3.グ リッ ド・
プランに果樹 を植 えるという中東 に一般的な方法 を都市内で演 じた早い例、 と言 う5。セ ビー リヤの大聖堂 に併設 されているパテ ィオ も 「オ レンジのパテ ィオ」と 命名 され、かつてはム ワッヒ ド朝時代 に建設 された大モスクのパティオであ り、
同大聖堂の鍾塔 「ヒラルダの塔」 も同モス クのミナ レッ トで、その最上部はキ リ ス ト教徒 によ りルネサ ンス期 に増築 された ものであった。そ して、大聖堂は同モ
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図11 コルドバ、大モスク、1767年 図12 コル ドバ、大モスク、パティオ 【著者撮影】
平面図 【J.P.Arnalによる】
(19)ノ〝
スクの礼拝堂部 を取壊 し、新築 された ものである。 したが って、スペイ ンでは 「オ レンジのパティオ」 と言 うと、モスクのパティオ という印象 を与 える。ただ し、
モスクのパティオを植栽す ることはイス ラム世界の伝統ではなか った。 シリアの 一部の例外 を除き、東アジアやエジプ トな どのモスクのパテ ィオには植栽は見 ら れないのである。
しか しなが ら、 コル ドバ の大モスクの場合、創建 当初か らパテ ィオには植樹が あった と推測 される。なぜ な ら、 アブ ド ・ア ッラフマ‑ ン1世 (756‑788)の時 代、植樹がイス ラム法 に照 らし合法であるかの論議がな されているか らだ。それ か ら2世紀後 の976年、 アル ・ハ‑カム2世 (961‑76)が山か らの用水路 を建設 し、その水 を供給源 とす る洗浄室4つ (東西 に男女1つずつの2組)がパティオ に設置 される。それ までは動物 を動力 とす るノリア (水車) によ り水が水盤 に供 給 されていたか ら、その水源は地下水の井戸水であった。パテ ィオの一角に地下 水層が建設 され るのは第四期拡張工事の10世紀末であ り、正方形9区画 よ りなる その規模は14.5×14.5×高 さ5.57mに過 ぎなか った(図9)。 またキ リス ト教徒 に よ り再征服 され る13世紀 にな り、同パティオに種子が高々 とおい茂 っていた とす る記述が出現す る6。 したが って、ブル ックス による濯概水路 に従 ったオ レンジ の配置 という推測は根拠 に欠 くものであ り、 また同樹木の碁盤 目の配置が中東の 伝統 によるとす る指摘 も必ず しも根拠のある論述 とは言 えない。
いずれにして も、礼拝前の洗浄 を主たる目的 としたパテ ィオを起源 としなが ら も、中東では見 られない植樹 されたパティオはスペイ ン ・イス ラム文化独 自の庭 であった と想定す ることができよう。
2.マデ ィナー ト ・アル ‑サ フラ、10世紀
後 ウマイヤ朝初代カ リフ、 アブ ド ・アッラフマ‑ ン3世 (911‑61)はカ リフと しての権威 を誇示す る ことを目的 に、 コル ドバ の西方約5kmに新 しい宮廷都市 マデ ィナー ト・アル=サ フラを936年 に着工 させ る。945年 には宮廷が遷都す るも のの、造幣局は948年 まで移転できず、都市建設は息子ハ‑カム2世 によ り976 年 に完成 した。ただ し、多 くの部分は初代カ リフの崩御す るかな り以前 に完成 し ていた。規模は1518×745m、約113haと広大であったが、 同王朝末期 の1010年、
内戦によ り略奪 ・破壊が始 ま り、 同世紀末 には創建 当初の豪壮な面影 は残 らず廃
ノβノ(20)
壇 と化 した。土 に埋 もれた この宮廷都市の発掘調査は1854年 に着手 されるが、直 ぐに中断され、1911年に正式 に再開 した。 しか し、その全貌は未だ明 らかにな ら ず、今 日に至るまで発掘は続 いている7。
図13 マデ ィナー ト ・アル=サ フラ、全域平面図 【AnotnioAlmagroによる】
発 掘作 業 は全体 の10%程 度 しか進 んで いな い もの の、王宮 主要 部や ジ ャー ミ一 ・モスクのみな らず、宮廷前の庭園部 も明 らか にな りつつある。マデ ィナー ト ・アル ‑サ フラ(図13)は短辺南北方向の傾斜地で、三つのテ ラスが階段状 に広 がった都市であ り、北側 のもっとも高い場所 に配 された王宮部は、す ぐ前の庭園 部 によ り、南側都市部 と分割 され、それぞれは独 自の城壁 をもって区画 されてい た。王宮部の床面 を南側建造物の屋根 よ りも高 くす る ことによ り、手前の庭園越
しに広がる眺望 を享受できるよ う計画 されている。
現在、宮殿前の庭園が二つ判明 して いる(図14)。それぞれ、 田の字型 に道が交 差する四分庭園であ り、縦軸 に相当す る中央南北路の北側 にサ ロン棟 (東側の株 屋は発掘当初か ら 「豪華サ ロンSa16nRico」 (B) として知 られてお り、西側のそ れは単 に 「西側サ ロン」、あるいは発掘 した女性館長 に因み 「セニ ョリータのサ ロ ン」 (D)とか呼ばれる)が配 され、その前に池が設け られる。西側 四分庭園の横 軸東西路端部 には泉が見つかっている。東側四分庭園では中央部北側 にもう一つ のサ ロン棟 「南側サ ロン」(C)が建設 され、その東西南北の四面 に小さな池 を設 置 し、 この地の酷暑 に耐え得 る環境デザイ ンが見 られ る。植栽部は舗装 されたテ ラス部床面よ りも低 く計画 され、階段 によ り両者は結合 され る。 こうした通路部
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と植栽部で高低差の異なる例はスペイ ン ・イスラム庭園での初出となろう8。
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T∴̲̲̲̲̲,P'rJH ‑.:,.三;甘 テ≡這≠嘉‡茄qit‑[‑r=‑ 'LP
図14 マディナー ト ・アル=サ フラ、宮殿部平面図 【AnotnioAlmagroによる】
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(22)図15 マデ ィナー ト ・アル=サ フラ、宮殿部上空写真
チヤパル・バーグ
四分庭園chabarbaghはベル シア を起源 とす る庭 園 とされ、そ の最古 の先例 としてはパサルガダエ (イ ラン南部) にアケメネス朝キ ュロス2世 によ り建設 さ れた宮殿 の庭園 (前6世紀頃、図16)が知 られている。 また、同地イス ラム時代 の9世紀 に建設 されたサーマ ッラーのバル クワ‑ ラー宮殿庭園(図17)も四分庭園 であった9。750年 ウマイヤ朝政権が滅び、ア ッパース朝が樹立すると、首都はシ リアのダマスクスか ら現イ ラクのバ クダー ドに遷都す る。 これはイス ラム政権が
図17 サーマ ッラー、バルクワ‑
ラー宮殿庭園、9世紀
ベル シアの強い影響下 に入 った ことを意味 し、四分庭園はイス ラム庭園形式の雛 型 の一つ として定着す る。マデ ィナー ト ・アル=サ フラの建設 に際 しては コンス タンティノープル とバ クダー ドか ら多数の建築家や工匠たちを呼び寄せているこ とを含 め10、 こうした東方 との密接な関係 によ り四分庭 園が この宮廷都市 に導入 され、 ここか らスペイ ン ・イス ラム圏に伝播 した ことになろう。スペイ ンでは こ の庭園形式 を 「十字路パテ ィオpatiodelcrucero」 と言 い、建物や外壁で囲まれ る庭園 として一般化す る。
マデ ィナー ト・アル=サ フラの十字路庭 園の場合、 「豪華サ ロン」 (ち) の前に池
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を配 し、その水面 に建築 を映 し出す手法や、 あるいは周辺の植栽部庭園の床面 を 下げテラス部 を高 くし、後者 に池や水路 を巡 らす手法な ど、後 のスペイ ン ・イス
ラム庭園の諸特徴が出現する。
宮殿部は前記 したメソポタミアや地 中海の伝統 に従 い、パティオを中心 に構成 される。 これ らのパテ ィオは植栽 された庭園部 を持たず、専 ら大理石 を敷 きつめ 舗装 されて いた。例 えば、現在 知 られて い る宮殿部 最大 のパ テ ィオ (49.30×
52.90m)は東側十字路庭園サ ロン棟 「豪華サ ロン」(B)の北側 に位置 し、5身廓 の大ホール 「ダル ・アル=ユ ン ドD豆ra1‑もlnd」(図14‑A)(内寸法38.88×20.02m、
浮彫装飾がほとん ど見 られない ことか ら、行政 もしくは軍 の関連施設 と推測 され る) に面する広場であ り、総大理石張 りの床 を持つ。 これは、 ソロモ ン王がシバ の女王のために建設 した と伝 え られ る宮殿の、大水面 を表現す る磨 き大理石床の 伝統で従 うもの とも言われる11。 また、十字路庭 園東側 に位置す るジャー ミ一 ・モ ス クのパティオ (K)もワイ ン色 の大理石張 りであ り、その中央 に洗浄用 の泉が あった12。 同じ色の総大理石張 りの舗装は 「大 臣邸」 (H)と推測 されている官邸 部のメイ ンのパティオにも見 られる。その他、宮廷人の住宅 と推測 されるパテ ィ オは表面の粗 い石張 りであった り、 あるいは レンガ床であった りす る13。 しか し なが ら、1977年か ら1980年 にかけて発掘 ・修復 された新 しいタイプのパティオが
アルべルキ‑ リヤ
出現 した。 これ は修復 者 ラフ アエル ・マ ンサ ー ノによ り 「小 池 のパ テ ィオ patiodelaAlberquilla」 (G)と命名 される14。
この 「小池のパテ ィオ」 (図18‑G)‑ 前記 した 「大 臣邸」の一角を形成 し、 く つろぎの空間であった と想定 され る‑ は、スペイ ン・イス ラム建築で初出の、長 軸の東西面 に三連アーチのアーケー ドで構成 された柱廊 を持ち、西側 に小池 を配 し、長軸中央路 を挟み南北 に二つの植栽部の庭園を持つ(図19‑20)。 中央路両側 には後者庭園の縁 に沿 って小さな水路が切 られている。おそ らく、庭園植栽 のや り水用であったであろう。対面す る二面 に柱廊 を持つパテ ィオ形式は、東方のサ サ ン朝ベル シア末期 のカスル ・アル=シ リンOasral‑Sir上n (590‑628)にその先 例が見出され、 アッパース朝 のウジヤイデ ィルUjaydir宮城 (8世紀 中頃) とか、
9世紀末 のフスター トFustatにも継承 され る.そ して、スペイ ンではアルハ ン ブラのコマ‑ レスのパティオで最高の作例 に達す る。
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十i図18マディナー ト・ア)L=サフラ、小池のパティオ (G)
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notnioAlmagroによる】図19 マデ ィナー ト ・アル=サ フラ、小池 のパ 図20 マデ ィナー ト ・アル=サ
ティオ フラ、小池 のパティオ、西面
3.サラゴサ、アルハ フェ リア宮殿、 11世紀
1035年、後 ウマイヤ朝が崩壊す ると、スペイ ン ・イス ラム世界は群雄割拠する 小国に分裂 し、政情不安定な時代 に入 った。その小国の一つ、サ ラゴサ王国バヌ・
フ ド朝 (1039‑1110)がマ ドリー ドとバルセ ロナの間に位置す る現サ ラゴサ県 に 出現する。イベ リア半島北部 にあ りなが らも、最 もイス ラム化 された地域 の一つ であ り、再征服後 もイス ラム教徒のムデハルー キ リス ト教圏に住むイス ラム教徒 を指 し、 「納税者」 を意味す る‑ たちが多数住み続 けた結果、イス ラムの伝統 を 色濃 く残す地域である。その例証の一つがムデハル の建築であ り、 この系列の作
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品群が世界遺産 に登録 されている。王国の主都サ ラゴサのアルハ フェリア宮殿は イスラム時代の数少ない建築遺産の一つであ り、特 に11世紀 の作例 としての希少 価値は極めて高い。今 日知 られている宮殿はアル=ム クタデ ィル王 (1044‑82)に よ り再建 された ものであ り、再征服後はキ リス ト教徒 の増改築や現代の改造でか な りの損傷 を受けた、19世紀半ば以来兵舎 にも転用 されていたが、現在では大 々 的な復元 ・修復や再建が図 られ、州議会本部 になっている15。
「歓喜の宮殿、黄金のサ ロンよ。そなたたちのおかげで、我の最高の望みを達す ることができた。我が王国が取 るに足 らないとして も、 これは我 に望み うるすべ てである」、とアル=ムクタデ ィル王は宮殿 を讃美 した。 「アルハ フエリア」と言 う 名称は同王の名前 を取 り、 「ハ フアルChafarの館」 を意味す る。
周 囲 を16本 の 円塔 で 固 め られ た宮殿全体 の平 面規模 は約80×
65mであ り、東西方向に三分割 さ れた中央区画のみに必要諸室が建 築 された。南北方向の奥行 き50m、
幅24mの中央区画は 「サ ンタ ・イ サベルのパティオ」 と現在命名 さ れているが、1991年以来 の発掘調 査 によ り、図21のようなイス ラム 時代の平面形が判明 した。
図21 サ ラゴサ、アルハ フエ リア宮殿、平 面図
中央の長方形パテ ィオを中心 にして、南北 に池 を配 し、池越 しにアーケー ドと 前廊が続 き、北側では両端 にアル コ‑バ (寝室) を持つホール に達す る。前廊東 側 にはモスクがあ り、池の東西面 にも前廓が回 り込み、池の三方向を取 り囲む。
南側の池は相 当に深 く、貯水槽 の役割 を担 った と推測 され る。 このアーケー ド前 に池 を配す るシステムは前項の 「小池 のパティオ」 と関連付ける ことができるで あろう。ただ し、パテ ィオが十字路 を形成 していたのか、 あるいは南北の池 を結 ぶ通路のみであったのかは判明 していない16。
4.ムルシア王国パテ ィオ、12‑13世紀
スペイ ン ・イス ラム世界が小王国 に分裂 した弱体期、モ ロッコに勃興 したム
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ラービト朝がイベ リ
ア 半 島
に侵入 し、イスラム世界を統合 (1086‑1145)する。このムラー ビト朝 を
倒 し 、
同じモロッコに新王朝を樹立 したムワッヒ ド朝もスペ インに入り、
その首都 を セ
ビー リヤ (1145‑1223)に置いた。 この前者か ら後者 王朝への推移期、旧 ム ル シア王国と旧バ レンシア王国、および部分的には現クエ
ンカ県、テルエル県、ア ル メ
リア県までを領有 したマルダニス王国が独立 し、首
都 をムルシア ( 1 1 4 7 ‑ 7 2 )
に定めた。その王イブン ・サ ッ ド ・イブン ・マルダニ
ス (1172年投)は キ リ ス ト
教徒側か らロボ王と呼ばれ、ムワッヒ ド朝の侵攻に対
し25年間抵抗し た こ と で 知
られる。アルフォンソ7世 (1126‑57)の家臣にもなっ
たこの王はキリス ト
教 諸 王
国との和平協定をするのみな らず、同教徒の傭兵をも 使い、セビーリヤのム ラ ー
ビ ト朝 に敵対した。その
た め 、
イブン・マルダニスは多数
の 砦
を築き後 者 の侵攻 に対 処
す る 必
要 があ った。そ の一 つ
が モ ン
テ アグー ド城であり、隣
接 の
『カステイ
リエーホ』城塞、ア ラ ブ
名のカスル・イブン・サッ
ド ( イ
ブン・サッド宮)も同様の目
的 で
建設された、と推測さ
れてい る 1 7 。
この城塞 (図22、
平 面 規
模 61×3
8 m
)は廃嘘 と化し て い
るも 図22 モンテアグー ド(ムルシア)
、カステイ リェ‑ホ【
JulioNavarroに
よる】のの、スペインの後
ウ マ イ
ヤ朝か らグラナダ王国へのイスラム宮殿の変遷を知る 上でもう一つの貴重な 資 料
を提供する。長方形パティオ (約33×18m)を中心に 構成され、短辺側に小 池 を
配 した十字路パティオであ り、見方を変えると、前記 したマデ ィナー ト・ア ル =
サ フラの 「小池のパティオ」 を左右反転 して併置 した 構成を取る。小池に面 し て
セ ッ トバ ックした壁面開口部の配置か らは、コル ドバ 同様、開口部に三連ア ー チ
のアーケー ドの存在が推測 される。このアーケー ドの 柱廊、 もしくは広間に 面 し 、
壁面中央に展望小間 (約5 . 5
×3.5m)が設置される。玉座が想定されそう
な こ の
小間は後のアルハ ンブラ宮殿で発展されるものであろ うし、その前例は前記 「 小
池のパティオ」の構成に見 られる。 また、十字路交差(27)94
部中央 に噴水の跡があ り、その場所か ら延び る配管 を通 して両側 の小池 に水が注 がれる。
最初 (1934)、 トー レス ・パルバスは 『カステ イリェ‑ホ』 をアルハ ンブ ラの
「ライオンのパティオ」 の先例 と見な し、 回廊が四周 を走 り、小池 の部分は池で はな く、小殿 と推測 した。 また、四分割 された植栽庭園部は十字路舗装面および 回廊床面よ りも1.4m (後 に1mほ どに変更)下がる、 と記 した18。 しか し、1951 年のゴメス ・モ レ‑ ノの見解19を受 け、小殿 を小池 に変更 し、パティオ周辺の通 路の幅がわずか1.2mであることか ら、アーケー ド回廊 の存在 も否定する20。同形 式の十字路パティオはモ ロッコの首都マ ラケシュで発掘 されたム ラー ビ ト朝王宮 (ア リ ・イブン ・ユスフ王 によ り1131年着工) にも見 られる。ただ し、スペイ ン 側か らの影響か、あるいは逆なのか、 さらには直接東方か らの影響 によるものか は明 らかにされていない。
また、イブン ・マルダニスが首都 としたムル シアで も同王の建設になるダル ・ アスニスグ ラDaras‑SugTa(「小邸」)宮 の存在が明 らか になった。 これは1987 年以来のサ ンタ ・クララ ・ラ ・レアール修道院内で現地表面よ り4.5mの深 さに発 掘 されたもので、1145年の記述 に出現す る同王の上記宮殿 と判明 した。宮殿は南 北に配 した約130m2の大 きな長方形パティオ を中心 に構成 され、そのパティオは
バビリオン
短辺側 に2つの池、 さ らに中心 の交差部 に一辺5.7mの正方形小殿 を持つ十字路 パティオであった。 この小殿内には、十字路 に切 られた4つの水路が交わって生 まれる小さな池があった。
前述 したように、 「庭園のなかの庭園」 を意味するベル シア語 のチ ャハル ・バー グは 「四分庭園」であ り、 この十字路庭園の運河の切 られた十字路の交差す る中
パビりオ ン
心には小殿や池な どを設け、その中心性が強調 された。古代ベル シア人たちは こ の庭園に 「水」、 「火」、 「風」、そ して 「地」の神聖な四大要素よ りなる宇宙の表現
パラダイス
を見、宇宙である 「楽 園」の象徴 としたのである 21。 この伝統 を受けたのが 旧約 聖書の世界であろう。旧約聖書では、楽 園であるエデ ンの園 には一つの川か ら4 つの川、すなわちピシ ョン、ギボ ン、チグ リス、そ してユー フラテスが生まれ、
また楽園の中心 には 「命の木」と 「善悪の知識 の木」があった と記 される (「創世 記」Ⅱ、9‑14)。 また旧約聖書 を受 けるコー ランでは、 「楽園の4大河」 として、
「水」、 「乳」、 「葡萄酒」、そ して 「蜂蜜」の川が記 されて もいる22。ベル シアの伝
93(28)
バラダイス
続 を受け継いだイスラム世界では、前者の 「楽 園」か ら庭園を生み、「四分庭園」
のチャハル ・バーグを庭園の雛型にした。なぜな ら、イスラムでは 「楽園」は宇 宙の象徴的な表現であ り、その宇宙は直角に交わる2つの運河 によ り4分割 され、
バピリオン
運河の交差点には噴水、 もしくは小殿が置かれる。 これは宇宙の中心にあるとさ れる山を象徴するか らだ23。
図23 ムルシア、アルカセル ・セギル 【Julio Navarroによる】
したがって、ムルシアで発掘 されたダル ・アスニスグラ宮で はイスラムに典型的なパ ラダイ ス (楽園)の表現 を見ることに なろう。
しか し、サ ンタ ・クララ ・ラ ・ レアール修道院は このダル ・ア スニスグラ宮ではな く、アルカ セ ル ・セ ギ ルAlcacerSeguir (Al‑Qasral‑Sagir、「セギル城」)の廃嘘に建設されたものであった。後者はムワッ
ヒ ド朝末期 の小国ムル シアのイ ス ラム王イ ブ ン ・フ ド ・アル=ム タ ワキルIbn Hudal‑Mutawakil(1228‑38)の時代 に再建されたものであ り、前者の地層よ り 1.5m程上で発掘 された。 この13世紀 に再建 された王宮のパティオ (図23)は、南 北方向に延びた長方形であ り、その軸 に沿って長い池が配 され、両側 に植栽庭園 があった とナバーロ ・パ ラソンは推定する。短辺の南北にはアーケー ド、前廊、
および両端 にアルコ‑バ (寝室) を持つホールで構成 され、南棟 には、 さらに、
正方形の玉座 らしきものが見 られる。ただ し、東西の株屋中央 にも正方形の部屋 があることか ら、ボソ ・マルティネスは十字路パティオであった可能性 も示唆す る
2 4 。
中央 に細長 い池 を配す るパテ ィオは同 じ13世紀 に建国 され るグ ラナダ王国の 庭園で頻繁に見 られ る形式 として定着す る。その代表例がアルハ ンブ ラ宮殿の
「コマ‑ レスのパティオ」であ り、別名 「アラヤーネス (銀梅花)のパティオ」、
あるいは 「アルベルカ (池)のパティオ」 とも呼ぶ。
(29)
〟
4.コル ドバ、キ リス ト教徒新王宮、1328年着工
コル ドバは1236年 フェルナ ン ド3世聖王 (1217‑52)によ り再征服 され、キ リ ス ト教徒の街 となる。少 し時代が下 るが、これよ り約90年後 の1328年、アル フォ ンソ11世 (1312‑49)によ り新王宮AIcazarRealの建設が着工 された。 この当時 建設されたパティオが前項の『カステ イリェ‑ホ』に極めて類似 した十字路パティ オであった ことは、注 目に値す る。年代的には次項で述べ るセ ビー リヤ王宮のパ テ ィオよ り遅い出現だが、余 りにも類似 していることか ら、 このパティオを先に 扱 うことにす る(図24‑25)0
この十字路パテ ィオの平面規模 は37.8×24.2mと 『カステ イ リェ‑ホ』 のパ テ ィオよ りも広 いが、小池の大 きさ5.7×3.3mと5.3×4.5mは後者 の規模約5.2
×5.5mよ りも小 さい。 円形 の噴 水が十字路交差部のセ ンター他、
長軸先端部 に一つずつの計3個設 置 され、後者の水は大理石床 に切 られた細 い水路 を通 り小池 に注が れる。 この小池 に面 して両側 にア ル コ‑バ (寝室) を持つ長方形の 広 間 (20.6×3.85m)が あ り、そ の前 と小池 の間に柱廊 の存在が推 測 される。十字路 と長軸両側の通 路 には陶板が敷かれ、四つの植栽 部庭園 との境 にはタイル製の水路 が走 る。 これ ら植栽部の床面が通 路面か らどの程度下がっていたか は定かでない25。
このコル ドバの十字路パティオ は、キ リス ト教徒 によ り建設 され たものとはいえ、場所的にはイス ラムの伝統が根強 く、 またイス ラ ム教徒のムデハル職人の手になっ
91 (30)
図24 コル ドバ、新王宮、十字路パテ ィオ
図25 コル ドバ、新王宮、十字路パティオ
たであろうことは大 いに推測できることで もあるか ら、ある意味で同時代 ・同地 域 アングル シアのイス ラム世界、すなわちグ ラナダ王国のパテ ィオ と類縁関係 に あるのは否定できないであろう。少な くとも、 このパティオは 『カステイリェ‑
ホ』のパテ ィオを先例 とし、 また、恐 らく14世紀後半に建設 されたであろうアル ハ ンブラの 「コマ‑ レスのパティオ」や 「ライオ ンのパティオ」 と類縁関係 にあ る ことは間違 いない。二つの池 を繋げて大 きな池一つ にすれば、 「コマ‑ レスの パティオ」 になるだろうし、二つの池 を小殿 に置 き換 え、 中央の噴水 をライオ ン 像で支えてやれば、 「ライオ ンのパティオ」 の構成が得 られよ う。
(続 く)
1べネ‑ヴォロ、 レオナル ド :『都市の世界史1、古代』 (佐野敏彦/林寛治訳)、
相模書房、平成4年、pp.23,96‑97
2Corominas,Joan:Brevediccionarioetimolo'gicodelalenguacastellana,Madrid;
EditorialCredos,1990(3a.ed.),p.444
3■■corrala",http://es.wikipedia.org/wiki/Corrala(2008‑ll‑24検 索)
4 V孟zquez Consuegra,Guillermo:GutadeayquitecturadeSevilla,Sevilla;
JuntadeAn dalucl'a,1992
5ブル ックス、 ジ ョン :『楽園のデザイ ン、イス ラムの庭園文化』(神谷武夫訳)、 鹿 島出版会、1989、p.46
6 TorresBalb孟S,Leopoldo:I‑Arte HispanomusulmAn.Hasta la cal'da del califatodeC6rdoba"enHi'storiadeEspahaVIEsPanamusulmana(dirigida por Ram6n Menendez Pidal),Madrid;Espasa‑Calpe,1957,日Capl'tulo IV Laampliaci6n delaMezquitadeC6rdobaporAlmanzor",pp.579‑82 / Salcedo Hierro,Miguel:LaMezquita Catedralde Co/rdoba,C6rdoba;
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8 Manzano Martos,Rafael:l'Casasypalacios en la Sevilla almohade.
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(
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(31)90
Gayden‑EchoesofPwadise,Wachigton;MagePublishers,2004.ただ しバル クワ‑ ラー宮殿庭 園の場合、1983年か らのよ り現代的な発掘調査 による と、四 分庭 園 を推 測 で き るよ うな考 古 学 的根 拠 は見 つ か って いな い と言 う (前注 Manzan0‑1995,p.321)。
10注6の書TorresBalb孟sl1957,p.432 11注8の書ManzanoMartos‑1995,p.323 12注6の書TorresBalb丘S‑1957,p.435
13 G6mez‑Moreno,Manuel:ElayteEhabeesPaholhastalosalmohades.Arte mozirabe(ArsHispaniaeIII),Madid;Edr itorialPlus‑Ultra,1951,pp.69‑73 14注8の書ManzanoMartos‑1995,p.324
15http://www.cortesaragon.esm irtual/index.htm (2009‑1‑20検索)
16Abbad Rios,Francisco:CatilogomonumentaldeEsPaha:Zaragoza,Madrid;
CSIC,1957,pp.36‑40/ChuecaGoitia,Fernando:mstoriadelaarquitectura esPahola,EdadAnti'guayEdadMedia,Madrid;Dossat,1965,pp.116‑18 http://www.enciclopedia‑aragonesa.com/voz.asp?voz̲id=678(200911120検索) 17 Navarro Palazon,Julio,yJimenez Castillo,Pedro:"EICastillejo de Monteagudo:Qasrlbn SacdH,en CasasyPalaciosdeAIAndalus,Madrid ‑ Barcelona;LunwergEditoresS.A.,1995,pp.63‑103
18TorresBalb丘S,Leopoldo:"Monteagudo 《EICastillejo》,enlavegade Murcia'‑,en ObradispersaI‑AIAndalus,Madrid;Instituto de EspaAa, 1981,pp.25131/enAl‑Andalus,Madrid,1934,pp.364‑72(28‑36)
19注 13の書G6mez‑Moren0‑1951、pp.279‑82
20 Torres Balbas,Leopoldo:●‑Patio de Crucero",en ObradispersaI‑AI Andalus,Madrid;Instituto de Espa元a,1983,γol.6,pp.300‑23 /en Al‑ Andalus,Madrid,1958,Vol.XXIII,pp.171‑92(29‑50)
21 Daneshdoust: ●■Islamic gardens in lranH,in Islamic Gwdens,2nd InternationalSymposium on Protection and Restwation ofHi'storicalGardens, organizedbyICOMOSandIFLA,Granada,October29thtoNovember4th,1973, Granada,1976,pp.71‑81
22注5の書ブル ックス‑1989、p.19
89 (32)
23Pope,ArthurU.andAckerman,Phyllis:ASurveyofPersianArt,Oxford, 1939,p.1427 (Chueca,Fernando:HR丘pidas consideraciones sobre los Jardines‑huertos en la Espaaa‑1in Islamic Gardens,2nd Zntemational SymPosium on Protection andRestoration ofmstorical Gardens,organized by ICOMOSandlFLA,Gylanada,October29thtoNovember4th,1973,Granada,
1976,pp.130,137)
24 Navarro Palazon,Julio:I‑Actuaci6n arqueo16gica en la Murcia del sigloXIII:Al‑Qasral‑SagirH,CasasyPalaciosdeAIAndalus,SiglosXIIy
XI I I ,
Madrid‑Barcelona;Lunwerg EditoresS.A.,1995,p.179/HLa Alham‑
braylaarquitecturacastellanaH,Ideal,Granada,8febrero2008、および EscueladeEstudiosArabesのHIlhttp://www.eea.csic.es/index.php?
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agename=FundacionMurcia%2FC2043Proyecto%2FC2043TempProyectosA‑
mpliada2&idioma=ES&cssName=patrimonio/http://www.patrimur.com/arch‑
ivos/memopatri6/pdfs/monasteriodesantaclaralareal.pdf(2008‑ll‑24& *) InstitutoCervantes:Eljardinandalusi(CentroVirtualCervantes,Actos culturales),http://cvc.cervantes.es/actcul巧ardin̲andalusi/ (2008‑12‑24検 索)
25注20の書TorresBalbasl1958,pp.183‑86(41144)
(33)88