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中央学術研究所紀要 第44号 002眞田芳憲「立正佼成会の「会員綱領」について」

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眞 田 芳 憲

立正佼成会の「会員綱領」について

――森岡清美先生の

「立正佼成会『会員綱領』の一考察―とくに人格完成について―」

の学びを通して聞解・思惟・修習したこと――

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Ⅰ はじめに

 森岡清美先生の論文「立正佼成会『会員綱領』の一考察―とくに人格完成について―」 所掲の『中央学術研究所紀要第43号』が、平成26年11月15日発刊されました。この論 文を拝読した私は、ここで展開されている森岡先生の所論が立正佼成会はもとより、 立正佼成会会員にとっても深く省観すべき信仰上、重要な意義を持つものと痛感いた しました。  そこで私は、直ちに森岡論文をテーマとした研究会の開催を中央学術研究所長川本 貢市氏に申し出ました。川本所長もすでにその必要性を強く感じておられたので即決、 平成27年1月23日、同研究所員一同参加して、研究会が開催されることになりました。  無論、私も中央学術研究所顧問の立場からこの研究会に参加しました。この研究会 において参加された研究所員諸氏はそれぞれ、あるいは哲学的立場から、あるいは仏 教的立場から、あるいは法華経学的立場から、あるいは教団史的立場から、そしてあ るいは立正佼成会員の信仰上の立場から森岡先生の所論を真摯に論究し合い、学び合 いました。  森岡先生の所論は、先生の本論文の末尾の〔付記〕に特記されているように、立正 佼成会教学委員会での講話(2008年7月23日)が原型となっているとのことです。従 って、対告衆は立正佼成会教学委員会であり、その母体である立正佼成会でもあると いうことになります。そうした経緯からすれば、先生のこの講話で展開された所論な

立正佼成会の「会員綱領」について

――森岡清美先生の

「立正佼成会『会員綱領』の一考察―とくに人格完成について―」

の学びを通して聞解・思惟・修習したこと――

眞 田 芳 憲

Ⅰ はじめに Ⅱ 森岡清美先生の「会員綱領」論を聴聞して私自身の信仰を観る Ⅲ 「会員綱領」の「人格完成」を「会員綱領」の中で観る Ⅳ 「人格完成」の絶対的基準と相対的基準を法華経の中から観る Ⅴ 結びに代えて

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り提案については、すでに教団の関係諸機関で検討されたでありましょうし、各機関 もそれなりに見解を用意し、場合によっては対策を講じているかもしれません。  しかし私は、研究所での研究会で所員の方がたの、学問的にも信仰的にも真摯な議 論を傾聴している間に、私の脳裏に一つの想念が湧出してきました。それは、私自身、 「会員綱領」を時には会員の皆さんと共どもに唱和し、そして日々、朝夕のご供養で唱 誦している会員の一人として、仏教的に言えば先生の所論の学びを通して聞解・思惟・ 修習したことについての私の所見を申し述べることが、先生の立正佼成会そして立正 佼成会会員に対するご教示とご提言への報恩報謝の証になるのではないかということ でした。従って、本稿での私の所論はあくまでも一会員としての私の個人的な見解で あって、それ以上でもそれ以下でもないことを付言しておきたいと思います。

Ⅱ 森岡清美先生の「会員綱領」論を聴聞して私自身の信仰を観る

 1 森岡先生は、先生の所論の最後に「『会員綱領』唱和のマンネリ化の克服」「『会 員綱領』の初期化の必要性」「『会員綱領』の活性化」を論じられました(森岡『前掲』 13頁)。そして、結論として「教育基本法」の「人格完成」に言及しつつ、「『人間性の 開発』はまだしも、『人格完成』など現代の教育には荷が重すぎるのかもしれない。そ れはむしろ宗教本来の役割ではないだろうか。立正佼成会の『会員綱領』がこの姿勢 を疑いない形で打ち出したことは、高く評価されなければならない。それだけに、立 正佼成会にたいする期待は大きい。」(森岡『前掲』14頁)と述べられ、論を結ばれて います。  私は森岡先生の所論を学びつつも、私の心に強く問いかけてきたものは、先生がた だ単に「会員綱領」の活性化・初期化を論じているのではなく、「会員綱領」の中に謳 われている法華経の信仰者としての実践のあり方、より具体的に率直に言えば、教団 の教勢を視野に入れた信仰の形骸化・無力化を問うているのではないのかということ でした。  2 「会員綱領」の制定経緯については、すでに森岡先生が詳細に論じられているの で、ここで重ねて論じる必要はないでしょう。現在私たちが唱誦し、あるいは唱和し ている「会員綱領」は下記のものです。     会員綱領  立正佼成会会員は  本仏釈尊に帰依し  開祖さまのみ教えに基づき

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 仏教の本質的救われ方を認識し  在家仏教の精神に立脚して  人格完成の目的を達成するため  信仰を基盤とした行学二道の研修に励み  多くの人々を導きつつ自己の練成に務め  家庭・社会・国家・世界の  平和境(常寂光土)建設のため  菩薩行に挺身することを期す  しかし、はたして私たちは、本仏釈尊を絶対的に信じ切り、心のよりどころとして、 自分の都合の善し悪しとは関係なくすべての現象を仏の慈悲と受け容れる帰依の心を 確立していると言い切れるのか。  はたして私たちは、開祖さまのみ教えに基づき仏教の本質的な救われ方を認識し、 貪瞋痴の三毒の執着を離れ、自分を正し、世の人々を導く努力をしていると言い切れ るのか。  はたして私たちは、在家仏教者として家庭・社会・国家・世界の場で「生活即仏教」 「仏教即生活」の菩薩行を実践していると言い切れるのか。  はたして私たちは、法華経の信仰を基盤とした行学二道の学びを通して「人格完成 =仏性の開顕」に努め、成仏のための生活を実践していると言い切れるのか。  森岡論文が問うている「会員綱領の初期化」とは、「立正佼成会創立の原点に立ち帰 れ」「開祖のみ教えの原点に立ち戻り、私たち会員の信行のあり様を再吟味せよ」とい う森岡先生の願いであり、助言であり、諫言ではなかったのか、と私には思われてな りません。  3 それでは、脚跟下、私自身はどうなのか。「会員綱領」だけの問題ではありませ ん。例えば、朝夕の読経供養において「三帰依」の経文で「當に願わくは衆生と共に」 と、そして「普回向」の結願文で「我等と衆生と皆共に佛道を成ぜん」と読誦し、一 切衆生の救済という一仏乗の誓願を誓っています。しかし、「おいおい、大丈夫かい。 はたして心底からそう誓っているのかね」と、どこからともなく自省自戒を求める声 が聞えてきます。よくよく静思してみると、本当に誓っているのか。時にふれ折にふ れ「人を指す自分」「人を裁く自分」、貧瞋痴の執着から離れられない私の心の卑しさ、 心の醜さに懺悔の思いを深めるとき、単に形だけの誓願ではないのかと、内心忸怩た る思いに沈む時がしばしばあるのです。  この「衆生」の中には、自分の好きな人、自分を好いてくれる人、自分の味方にな ってくれる人だけが入っていて、自分の嫌いな人、自分を嫌っている人、自分を害し

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ようとしている敵は除かれていることはないのか。自分の好きな人であろうと自分の 嫌いな人であろうと、自分を嫌っている人であろうと、敵であろうと味方であろうと、 はたまた人間であろうと、人間以外の動植物であろうと、生きとし生けるものすべて が残らず「仏の境地に達せられますように」、そして「そういう菩薩行ができる私にな らせていただきたい」と誓願しているはずなのに、実際は馴狎の習慣に堕した、形だ けの誓願、お体裁だけの誓願になっているのではないのかと、懺悔の思いを深くする のです。  かつて1994年11月、イタリアで開催された第6回世界宗教者平和会議(WCRP Ⅵ) において、戦火いまだ収らず、人間同士の殺し合いが依然として続けられ、悲惨な生 活を余儀なくされていた旧ユーゴスラヴィアの一国クロアチアから参加した女性代表 リリアーナ・マコヴィッチーウラシッチ女史が壇上から訴えた詩が、今でも私の脳裏 に強く残って離れません。「あなたの敵を愛せよ」(飯坂良明訳)と題するこの詩はか なり長文ですので、前半部分のみを掲げておきましょう(この詩の全文は、拙著『イ ラク戦争 イスラーム法とムスリム』2004年Ⅴ∼Ⅵ頁を参照)。   あんな奴のために祈れって?   とんでもない!神様、それは無理な注文というもの!   私は友達を愛する、そして野原も森も海も……   植物や動物のために私は祈ろう   だって、これらが死んだら、私たちの地球も死んじゃうもの。   だけど、あんな奴やほかの下らない奴のために祈るなんて!   それはあんまりというもの。   いえいえ、あまりなんてとんでもない。   あなたの愛が、自分の親しいものだけに限られて、   あなたの愛が、仲間割れを生み出し、   私たちはこちら、かれらはあちら、   友達はこちら、敵は向こう側というように、   そんなふうに世界を分けるなら、あなたには信仰がない。   あなたには信仰がない、たとえ洗礼を受けていようと、   日曜にミサに出掛けようと、   自分の古着を慈善に差し出したとしても。   自分の友達だけを愛しているかぎり、あなたには信仰がない。   そんなあなたでは、世界は変わらない。   何もかもこれまでと少しも変わらず、

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  あなたの愛で地球は徐々に死んでいくだろう  私は森岡論文を学びつつ、「あなたには信仰がない」「そんなあなたでは、世界は変 わらない」「あなたの愛で地球は徐々に死んでいくであろう」と訴え続けるリリアー ナ・マコヴィッチーウラシッチ女史の詩が想い起されました。そして、この詩を追想 する中で私の信仰のあり様を重ね合わせ、深く内省する機会を与えられたことに心よ り感謝しております。

Ⅲ 「会員綱領」の「人格完成」を「会員綱領」の中で観る

 1 森岡論文の主たるテーマは、そのサブテーマに示されているように「会員綱領」 の「人格完成」の意味にあります。森岡先生は、旧「教育基本法」第1条(教育の目 的)に謳われている「人格の完成」・「平和的な国家及び社会の形成」と、「会員綱領」 に定められている「人格完成」・「家庭・社会・国家・世界の平和境(常寂光土)建設」 との類似性に注目され、後者の文言の由来について教団法規の案文作成者が「綱領」 策定に際し「教育基本法」第1条(教育の目的)の用語が導入されたのではないかと 推測し、その仮説の上に立って「人格」と「完成」の意味について論を展開されてい ます(森岡「前掲」10頁)。  しかし、「教育基本法」と「会員綱領」の語句の上で共有するものがあっても、教育 基本法からの借用という言説は今のところ伝聞証拠にとどまり、それを裏づける直接 的な物的・人的証拠が存在しない以上、推測は推測でしかなく、仮説は仮説の域を出 ないのです。そうであるとすれば、「会員綱領」の「人格完成」の語句の実相に少しで も近づくためには、第一次的には現在私たちが手にし得る資料、そして第二次的には 問題の「人格の完成」を「会員綱領」の中でどのように解釈するのが妥当なのか、こ れについての法華経的解釈論のあり方にかかってくるのではないかと、私は考えてい ます。  2 「会員綱領」の中の「人格完成」の語句について、森岡論文では「元来の佼成会 用語ではない。では、どのあたりから出現したのだろうか。管見のかぎりでは、1954 年の『入会の手引き』が初出らしい」(森岡『前掲』9頁)と論じられています。  ところで、私の知見する限り、すでに1954年(昭和29年)以前から、遅くとも昭和 26年ころには用いられていたのではないかと思われます。開祖日敬一乗大師は、昭和 27年1月号の『交成』「新春を迎えて會員に望む」の中で「一人々々が魂を磨き心を磨 いて人格の陶冶に邁進しなければ再び悔いを千載遺すことになるであろう」と、「人格 完成」という用語こそ用いられていませんが、同意義に近い「人格陶冶」という用語

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が用いられています。  昭和28年になると、同年10月号の『交成』で、「宗教の本質は安心立命をして、完全 圓満なる人格者たる佛に成ることでありまして…」、同年12月号の『交成』では「個人 の完成即ち各人の安心立命」という言葉が現われてきます。  次いで、昭和29年1月号の『交成』になると、「本會の修行」と題して「古い信者と 新しい信者も共に一體となり、人格完成と苦惱解決にむかって體當りでぶつかって」 という文章の中で、同年2月号の『交成』では「『個人の完成』… それは決して利己的 な自己本位のエゴイズムの考えかたではなくして、自分自体が完全なものになること の意なのであります」という文章で、さらに同年10月号の『交成』で、森岡論文で言 及されている「入會の手引」において「人格完成」という用語が「菩薩道の實践によ る反省と懺悔と、たゆみなき人格完成への精進」(68頁)「私たち人間が完全無欠の人 格を得たいわゆる成仏を得た姿で」〈69頁〉「自己の感性が未来成仏の宿報」(69頁)「仏 教本来の言葉としては『成仏』とは無上の悟りを開いた佛になること、『仏』とは正し い考えや行いに徹しきった完全無欠な人格になるということ」(70頁)といった表現の 中で現われ、そして同年11月号『交成』(10月15日本部ご命日の法話を掲載)で「私共 の教団のように個人の人格の完成を強調し」という文章の中で、「人格完成」という言 葉が用いられてくるようになります。  3 次に、「会員綱領」の「人格完成」について当時の佼成教学がどのように理解し ていたかについて見ておきたいと思います。昭和37年(1962年)5月号・6月号の『佼 成』で「佼成教学の基礎 四諦の法門と人間改造の問題」(本解説は後に、昭和38年1 月∼3月に立正佼成会教務局『教学研修教材 四諦の法門の意義と活用』という書名 が付され、四分冊の単行書として、また同年2月と6月にそれぞれ上下二巻の単行書 として刊行された)の中に「会員綱領」の意義についての解説が論じられています。 ここで展開されている「会員綱領」の教学上の位置づけについての論述は『信仰生活 入門─佼成会員の基本信行─』(1983年初版)よりはるかに詳細を極め、教学上非常に 高度の内容を持っています。しかし、ここには「教育基本法」および「教育基本法」 で明示されている用語は一言たりとも見出すことはできません。  それよりもむしろ興味深いことは、原始仏教を出発点として仏教の種々の歴史的段 階が論じられた後に新大乗運動が論及され、本会の「会員綱領」が新大乗運動の精神 に則るものと位置づけられていることです。そして、「本会の『会員綱領』と新大乗運 動」という項目において、木村泰賢博士『大乗仏教思想論』で展開されている「新大 乗運動の根本方針」と「会員綱領」で示されている立正佼成会の信仰の根本方針とが 比較され、「本会の信仰運動がいかに新大乗運動の精神に合致しているかが理解される と思います。」(「佼成教学の基礎 四諦の法門と人間改造の問題」『佼成』昭和37年5

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月号21頁)と論じられています。  因みに、この解説で引用されている木村博士の「新大乗運動の根本方針」の五カ条 の全文をそのまま紹介しておきましょう(『前掲』20−21頁)。ただし、原文でのルビ は煩雑になりますので、すべて削除いたしました。  第一 個人的安心立命と社会的安心とが、不離にまで一致する思想的基礎の上に成 立すること(上求菩提、下化衆生の真髄)  第二 仏教を寺院及び僧侶の専有物とせず、寧ろ民衆自身のものたらしむること(大 乗運動興起の精神)  第三 大乗相応の地たる日本を中心として、而も之を世界的に普遍化たらしむるの 期待と実行とを伴のうこと(仏教東漸の歴史的事実を更に日本を出発点として新しく すること)  第四 精神生活は勿論新大乗運動の基礎的立脚地ではあるけれども、その精神生活 を以て物質を離れたものとしないで、寧ろ物質に即してこれを実現すること(世間法 即仏法の精神)  第五 理想は勿論永遠の彼方にあるけれども、現実に即して一歩づつ実現し、かく して歓喜と努力、満足と奮闘とが相互にからみ合いて無窮向上の一路を辿るを生活の 根本方針とすること(無窮輪廻を無窮修行と見るの心)  4 次いで、「人格完成」の語義は法華経の方便波羅蜜の教えに基づいて理解すべき ものと、私は考えています。「人格完成」の「人格」という言葉は、言うまでもなく、 日本古来からの用語ではありません。倫理学者によれば、「人格」は西欧語、例えばド イツ語の「ペルゾーン」(Person)または英語の「パーソナリティ」(personality)の翻 訳語であって、しかも明治30年ころになってようやく学問指導者たちの間で定着した ものと言われています(日本倫理学会金子武蔵編『人格』昭和49年233頁)。このよう な翻訳語が仏教教団の、しかも仏教用語が鏤められた「会員綱領」に使用されること 自体、会員の中には違和感を覚える者もいることと思います。  しかし、「人格」なる用語が人文科学や社会科学の諸学において広く用いられるよう になってすでに1世紀以上の歳月が流れています。「社会」とか「権利」といった飜訳 語が今日すでに一般の社会生活において抵抗感なく日常用語として日常会話の中で使 用されているように、「人格」という用語もすでに人口に膾炙しているのではないでし ょうか。それ故か、仏教学者の間でも、例えば水野弘元博士のように、仏教は「人格 の尊厳」を認める「人格主義」と論じれば(『仏教の基本知識』1971年80、88、97頁)、 中村元博士のように、「最初期の仏教では」「人格を完成した人の境地になんぴとも達 しうると考えていたのです(『仏典のことば─現代に呼びかける智慧』岩波現代文庫 2004年251頁)と論じるまでに一般化されるにいたっているのだと、私には思えてなり

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ません。  立正佼成会の所依の経典である『法華経』の経文には「方便波羅蜜」「知見波羅蜜」 という仏語が教え示されています。開祖日敬一乗大師は、前者について「人と環境と 時代に応じて、それぞれにもっとも適切な教えかたのできる自由自在な能力を完成し ていること」であり、後者は「知恵を完成していること」と説いています(庭野日敬 『新釈法華三部経(以下『新釈』と略)2序品・方便品』昭和39年199頁)。  そして、智慧から発する「方便」の重要性について「方便についての三つの教え」 として次のように説かれます。すなわち、「一、人生の大導師としての資格は方便力を 持っている。二、方便は必ず真理につながっている、三、人間は方便によらなければ 真理を知ることもできず、すべての修行は、本当の涅槃につながる方便である。」(庭 野『新釈2』238頁)  「会員綱領」の「人格完成」の用語は、まさしく法華経の方便力に拠らしめるものと 言えるのではないかと、私には思えてなりません。後にも言及したいと思いますが、 立正佼成会では上述の開祖日敬一乗大師の法話等からも明らかなように、「人格完成」 を「成仏」と解しております(庭野『新釈3譬諭品・信解品』401頁以下、「四諦の法 門と人間改造の問題」『佼成』昭和37年6月号18頁、『信仰生活入門』25頁)。こうした 解釈は、ひとり立正佼成会にとどまらず、学問上すでに一般的に普遍化されているの ではないでしょうか(例えば、中村元監修・峰島旭雄責任編集『比較思想事典』2000 年271頁)。その意味において、「成仏」よりも「人格完成」のほうが、現在という社会 に生きる人々にとって親しみ深く、理解されやすい用語であり、それ故にこそ「人と 環境と時代に応じて、それぞれにもっとも適切な教え」の表現となり得ているのでは ないかと、私は思うのです。  事実、前掲の「四諦の法門と人間改造の問題」(『佼成』昭和37年6月号)は「人格 完成の目的を達成するため」の項目の解説にあたって、何故に「人格の完成」が必要 かを論じ、その政治的・社会的必要性と課題として人類文化の偉大な功績としての民 主主義憲法の基本的人権の保障と、他方、国民の道徳的頽廃・教育の無力化と青少年 の犯罪の横行・政治的経済的な派閥闘争・選挙における種々の不正行為等の日常茶飯 事に見られる五濁の悪世の現実を提示し――その依って生ずる原因は国民各人の我欲 による権利主張とそれに対する義務の不履行、いわば人間としての責任の放棄にある と説き示しています(17頁)。そして、「今や問題は国民各個の自覚にかかっているの であります。それを敢えてなし得るものは、真に正しい宗教より外にはないでありま しょう」と論じ、五濁悪世の社会に生きる佼成会員に対し「人格完成」の自覚の覚醒 を求めています(18頁)こうした現実問題に即応した解説は、まさしく「人と環境と 時代に応じた」方便説法というべきでしょう。

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 5 さらにまた、「人格」という概念はきわめて多義的であり(日本倫理学会金子武 蔵編『前掲』15頁以下)、これを用いる論者によって概念内容を異にします。従って、 「人格」とか「人格完成」という概念を旧「教育基本法」で用いられている「人格」「人 格完成」の意味するものに一義的に収斂させることは論議に混乱をもたらすことにな りかねません。しかし、100歩譲って、仮に「会員綱領」の「人格完成」の用語が旧 「教育基本法」第1条(教育の目的)からの転用されたものとしても、それをもって直 ちに両者の概念内容が同一であると規定することは危険であり、避けるべきことであ ると、私は考えます。「会員綱領」の「人格完成」という用語は、「会員綱領」全体の 法華経の一仏乗の精神の脈絡の中で理解しないと、「樹を見て森を見ず」の過ちをおか すことになりかねないのではないでしょうか。  開祖日敬一乗大師は、法華経を学ぶ上で、「義に依って語に依らざれ」の重要性を説 いています(庭野『新釈1無量義経』3頁)。私の専門とする法律学における「法の解 釈」においても同様です。「法律の真義に徹することは、法律の裡に法の神性(Gottheit) を認識することである」(Joseph Kohler)という有名な言葉があります。それは、あた かも私たちが神仏の像を通して、その像の内奥にある永遠絶対なる神仏それ自体を拝 していると同じように、法の解釈は法規の条文の文言に依拠しながら、その文言の内 奥に秘められている「法そのもの」、いわば「法の神性」を発見することにあるので す。  確かに、法華経には性差別、職業差別、疾病差別、身体障がい者差別と受け取られ かねない、いわゆる差別用語が説き示されています。しかし、それは法華経が説かれ た対告衆の「人と環境と時代に応じて」最もふさわしい形で説かれているためであっ て、そこで説かれている教えの根本にある精神、すなわち法華経の一仏乗の教えとい う「義」を観ずることなく、差別を想起せしめる「語」に拘泥すると、大きな過誤を おかすことになるのです。  「会員綱領」の「人格完成」の場合も、これと同じことが言えるのではないでしょう か。「人格完成」の用語それ自体を論ずる前に、釈尊ご出生の本懐経である法華経、そ してこの法華経を宇宙の絶対的真理として、また何ぴとも理解し得る普遍的真理とし て教導された開祖日敬一乗大師の教えという脈絡の中で、「人格完成」という言葉を理 解すべきでありましょう。  これについては、先に掲げた「四諦の法門と人間改造の問題」(『佼成』昭和37年6 月号)の一節を文証として引用しておきたいと思います。    「仏教においては、人間の人格に相当するものはすなわち『仏性』であります。仏 性とは仏と同じ性質であって、仏性を完全に磨き現わされて成仏の模範を示された のが教主釈尊であらせられました。

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   仏性の内容は智慧と慈悲にいたる本性であり、何人もそれを内具している。その 仏性を磨き現わして成仏にいたる方法、すなわち修行の道が上求菩提・下化衆生の 菩薩行に外ならないのであります。上求菩提とは個人の完成ということです。しか し個人の完成とは社会から遊離した個人の完成でなく、あくまでも下化衆生すなわ ち社会の人びとを強化育成し社会自体を浄化向上せしめる実践と即応するところに 仏教の本質があるわけです。個の完成が社会浄化の原動力となり、また社会を浄化 しようとする慈悲心が、ひるがえって個の反省と個の完成への努力精進となるので あります。」(18頁)

Ⅳ 「人格完成」の絶対的基準と相対的基準を法華経の中から観る

 1 森岡先生は、「人格完成」の判断基準として「どこにでも通じる(べき)一つの 絶対的基準」と「それぞれの特定の事例に適用される個々別々の相体的基準」を提示 しています。そして、後者についてさらに敷衍して、「完成の絶対的基準を適用すれ ば、完成と判断されうる人は稀有であろう。一般の人々は皆落第であり、人間とは人 格完成の絶対的基準に合格できない存在という、人間観が成立する。これは悲観的人 間観というより、現実的客観的人間観というべきものであろう。絶対の壁に向かって なお挑戦する修行者もいるが、その多くは敗退し、敗退を承認できない場合しばしば 欺瞞に陥る。そこには救いはない。」と論じられています(森岡「前掲」11頁)。  森岡先生のこの所論は、先生の「会員綱領」の「人格完成」についての関心、すな わち「人格は、非常な努力を積めば完成されうるものだろうか。これが私の問いであ った。私は自問し、人格完成は不可能なりと自答して、それが有限相対の人間の宿命 であると観念するほかなかった。…誰も達成できないような目的は、およそ目的とす るに値しないのではないか。人格完成など、その好例であろう。」(森岡『前掲』2− 3頁)という問題関心が前提となっていると見てよいでしょう。  しかし、ここで説示されている人格完成不可能論ならびに人格完成の絶対的基準論 については、法華経における「成仏=人格完成」という仏教論的理解からすれば、直 ちに同意できないものがありますが、これについては後述(15頁以下)に譲ることに します。ともあれ、森岡論文では旧「教育基本法」で教育の目的とする「人格完成」 の判断基準は、立法過程では相対的基準ないし部分的絶対的基準として理解されてい たとし、一方、立正佼成会の「人格完成」が前提とする基準は、「絶対的基準を立てて いることは疑う余地がない」と論じられています。私もこの点については全く同感で、 「疑う余地がない」ものと受け止めています。  2 しかし、問題は森岡論文で、立正佼成会において、その後「会員綱領」の「人

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格完成」についての解説に相対的基準論が出現していると指摘されていることです。 その証拠として、『躍進』(1984年7月号56−57頁)に掲載された教務部教育課編「仏 教の根本義と私たちの生活 ⑪ 世のため人のために生きる使命を教える『会員綱領』」 の解説が挙げられています。森岡論文で引用されているこの解説の当該箇所の文章を 私なりに再度引用してみたいと思います(傍点は筆者)。    これまで、「立正佼成会会員は――」から「――在家仏教の精神に立脚して」まで を学んできましたが、そのような仏道修行に励むのは何のためかといいますと、そ れは「人格完成」のためです。    「人格完成」――すなわち「成仏」です。ここに立正佼成会会員のみならず、全仏 教徒が仏さまの教えに基づいて修行する究極の目的があります。    この成仏という言葉を聞くと、あるいは皆さんの中に、(わたしがどんなに修行し ても、すべての執われから解き放たれて、心は真理で充満し、真理そのものと合致 してしまわれたお釈迦さまのようなお心にはとてもなれない)と思われる方もたく さんいるのではないでしょうか。    確かにお釈迦さまのような人格になることは、仏教徒の理想であり、大いなる目 標であるわけですが、ここでいう4 4 4 4 4 「成仏4 4 」とは4 4 、お釈迦さまのような完全無欠の人4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 間になることではありません4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 。    人間、十人いれば、十人の人がそれぞれの特性をもっています。頭脳にすぐれた 人がいれば、だれとも親しく交われる心のやわらかな人もいます。もの事をすばや く実行して短期間に完成させる人もいれば、一つのもの事に腰をすえて取り組む人 もいます。そのように現実の人間として現れる姿や特性は千差万別ですが、どの人 の特性も、他の人とは違ったかけがえのない豊かなものが秘められているのです。 その特性を発見し、すくすくと伸ばし、完成させていく――それが成仏なのです。  上記の解説について、森岡先生は、「絶対的基準による人格完成を全否定しているか に見えるところは、同意を控えたい」と婉曲的な表現で批判しています(森岡『前掲』 12頁)。私もこの批判は正当な指摘であり、まさに正鵠を射たものと賛意を表したいと 思います。  3 この解説の傍点部分の一文、「ここでいう『成仏』とは、お釈迦さまのような完 全無欠の人間になることではありません。」に注目したいと思います。「人格完成」= 「成仏」の絶対的基準の否認を含意するものと思われるからです。しかし、法華経には これを証明する文証は説かれているのでしょうか。  よく知られていますように、法華経は「授記経」と言われています。開祖日敬一乗 大師の解説によれば、「法華経は一切衆生に授記されるお経であります。いいかえれ

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ば、一切衆生がすべて仏になりうるという真実を、あるいは理論的に、あるいは実例 をあげ、あるいは譬諭を引いて、こまごまと説きあかしてくださったのが法華経にほ かなりません。」(庭野『新釈4薬草諭品・授記品・化城諭品』118頁)  例えば、法華経譬諭品第三では釈尊の最高の弟子である舎利弗に成仏の保証が与え られ、授記品第六では摩訶迦葉・目犍連・須菩提・迦旃延に、五百弟子授記品第八で は富樓那・憍陳如たち千二百人の弟子に成仏の保証が与えられています。  さらに、授学無学人記品第九では阿難・羅睺羅たち二千人の弟子、法師品第十では 仏滅後に妙法華経の一偈・一句を聞いて「一念も随喜せん者」たち、提婆達多品第十 二では悪人の提婆達多はもとより、竜宮界の僅か八歳の竜女、勧持品第十三では釈尊 の叔母摩訶波闍波提と釈尊の太子時代の妃耶輸陀羅の二人の比丘尼およびその眷属た ちにそれぞれ成仏の保証が与えられています。  その上、何よりも興味深いことは、「心常に懈怠を懐いて 名利に貪著せり 名利を 求むるに厭くこと無くして 多く族姓の家に遊び 習誦する所を棄捨して通利せず」 の故に「求名」とあだ名をつけられた者に対してすら、成仏の保証が与えられている ことです(法華経序品第一)。  釈尊による「万人成仏」の保証の経文は、法華経の中に表現を変えて随所に現われ ていますが、授記することの真実については変わることはありません。その一例を挙 げれば、「声聞若しは菩薩 我が所説の法を聞くこと 乃至一偈に於いてもせば 皆成 仏せんこと疑なし」「我本誓願を立てて 一切の衆をして 我が如く等しくして異るこ となからしめんと欲しき 我が昔の所願の如き 今者已に満足しぬ 一切衆生を化し て 皆仏道に入らしむ」「若し法を聞くことあらん者は 一りとして成仏せずというこ となけん」(法華経方便品第二)「毎に自ら足の念を作す。何を以てか衆生をして無上 道に入り速かに佛身を成就することを得せしめんと。」(如来寿量品第十六)  釈尊は、「仏の悟りを成就したとき、一切の人間を私と同じような仏の悟りに導きた い。すべての人びとを私と異るところのない人間に教え育てたい」と大誓願を立てら れているのです。これこそが、釈尊がこの世に出現された─大目的、「一大事因縁」で あったのであり、釈尊自らがこれをお説きになっているのです(法華経方便品)。それ にもかかわらず、釈尊から「仏の子」との言葉を与えていただいている私たちのほう が(法華経譬諭品第三・従地涌出品第十五・如来寿量品第十六)、「お釈迦さまのよう な完全無欠の人間になることではありません」と言うようであれば、「親の心子知ら ず」というべきか、あまりにも卑屈で、小乗的発想による解説としか言いようがない のではないでしょうか。  開祖日敬一乗大師は、「一切の衆をして 我が如く等しくして異なることなからしめ んと欲しき」の一偈を次のように解説しています。「お釈迦さまは、『わたしをみよ、 わたしのようになれ』と、生きた手本を示しておられるのです。このお釈迦さまのこ

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の大誓願を思えば、もしわれわれが精進を怠ったり、邪道へそれたりしたら、それが どんなにもうしわけない所行であるかということを、しみじみと感せずにはいられま せん。われわれがお釈迦さまの弟子であり、子であるかぎり、その大誓願をふみにじ るようなことをして、お釈迦さまを悲しませてはならないのです。」と(庭野『新釈4 薬草諭品・授記品・化城諭品』324−325頁)。  また、このようにも説いています。「仏の教えは、われわれとおなじ人間として生ま れた方が、人生の喜怒哀楽をつぶさになめられたうえで悟られた教えですから、われ われの胸にじかにひびくのです。… 仏さまという生きた手本があるために、教えのと おり行なえば、かならずわれわれも悟ることができるという確信をもつことができま す。」(庭野『新釈4』273頁)  法華経が、森岡先生の説かれる絶対的基準を眼目として、それを志向するものであ ってみれば、絶対的基準を否認する、あるいは少なくともこれに消極的な評価しか与 えない上記の教務部教育課の解説は、存置するのであれば存置するなりの理由につい て、少なくとも修正ないし、撤回の是非についての検討が行なわれる必要があるので はないでしょうか。これをそのまま放置すれば、歴史的資料として「会員綱領」につ いての真の理解に影響を及ぼし、「会員綱領」の解釈に混乱をもたらすことになるから です。  4 しかし、このことは森岡先生の説かれる相対的基準を必ずしも否認するもので はありません。釈尊はいつの場合であっても「あなたは仏である」と説かず、「あなた も仏になれる」、「上求菩提・下化衆生」の修行を続ければ「仏になれる」として授記 しているからです(庭野『新釈4』119頁)。法華経における授記は、すでに明らかな ように、修行者に対して単に未来の世に必ず仏になる」ことを予言したものではなく、 「一切衆生悉有仏性」の真理に基づいて、さらに仏道精進を重ねていけば「仏になれ る」ことを保証したものです。釈尊は授記を与える際には、必ず「今後こういう修行 を続ければ」という条件をつけられています。  先に述べた「求名」の授記について言えば、「諸仏を供養し 随順して大道を行じ  六波羅蜜を具して 今釈子師を見たてまつる 其れ後に当に作仏すべし」〈序品第一〉 とあります。また、舎利弗の場合は、「舎利弗、汝未来世に於て無量無辺不可思議劫を 過ぎて、若干千万億の仏を供養し、正法を奉持し、菩薩所行の道を具足して、当に作 仏することを得べし。」(法華経譬諭品第三)とありますし、この品に続く五百弟子授 記品第八や授学無学人記品第九等においてもいささかも異なることはありません。  このように成仏の保証には時間を超えて無限ともいうべき長い歳月の「修行」の結 果によるという条件がついているのです。それでは「修行」とは何か。開祖日敬一乗 大師は次のように説いています。「修行とは、第一に、教えをしっかり受持していく決

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意を念々に新たにすること、第二に、教えをくりかえして学ぶこと、第三に、それを そらんじることができるほど心に植えつけること、第四に、人のために解説してあげ ること、第五に、できるだけひろく世間にひろめることの五つです。」(庭野『新釈5 五百弟子授記品・授学無学人記品・法師品・見宝塔品』176頁)  私たちは、いわゆる地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道の輪廻から出離で きない凡夫です。しかし、善き師の正しい教えをいただき、善き導きに恵まれ、そし て修行の善友の励ましの中で菩薩行の実践をしていけば、いつしか六道輪廻から出離 して声聞・縁覚の境地に至り、そして仏の衆生済度の手足となって修行を重ねて、仏 の世界に近づくことができるのでありましょう。  その意味において、法華経化城諭品第七で説かれている教えは、私たちの修行に勇 気を与えてくれるものです。    譬えば五百由旬の険難悪道の曠かに絶えて人なき怖畏の処あらん。若し多くの衆 あって、此の道を過ぎて珍宝の処に至らんと欲せんに、一りの導師あり。…   所将の人衆、中路に懈退して、導師に白して言さく、我等疲極して復怖畏す、復進 むこと能わず。前路猶お遠し、今退き還らんと欲すと。導師 …   方便力を以て、険道の中に於て三百由旬を過ぎ、一城を化作して、衆人に告げて言 わく、汝等怖るることなかれ、退き還ること得ることなかれ。今此の大城、中に於 て止って意の所作に随うべし。若し是の城に入りなば快く安穏なることを得ん。…   爾の時に導師、此の人衆の既に止息することを得て復疲倦無きを知って、則ち化城 を滅して、衆人に語って、汝等去来、宝所は近きに在り。向の大城は我が化作する 所なり、止息せんが為のみと言わんが如し。   諸々の比丘、如来も亦復是の如し。今汝等が為に大導師と作って、諸の生死・煩悩 の悪道、険難長遠にして去るべく度すべきを知れり。若し衆生但一仏乗を聞かば、 則ち仏を見んと欲せず、親近せんと欲せじ。便ち是の念を作さん、仏道は長遠なり。 久しく勤苦を受けて乃し成ずることを得べしと。  この化城諭品で説かれる「本城」こそ、森岡先生が言われる人格完成の「絶対的基 準」であり、「化城」が「相対的基準」と比擬することができるのではないでしょう か。森岡論文での「おそらく人格完成は絶対的基準と相対的基準という二つの中心を 持つ楕円で表しうるのだろう。ただし、この楕円は絶対的基準が強力な地場をもち、 相対的基準の地場を支配するとともにこれを支える構造をなす」という説論〈森岡『前 掲』12頁〉は、まさしく化城諭品の教説と揆を一つにするものと言えるでしょう。  5 これまで留保してきた森岡先生の「人格完成」不可能論ならびに「人格完成」 の絶対的基準の達成についての悲観的・否定的評価(前出10頁)、さらにまた「人格完

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成」への取組みについて「絶対的基準をクリアできる人はまずいないという現実に、 どう対応するか。第一は完成をめざしての精進こそが尊いとして、クリアできるかど うかをしつこく問わないことである。」(森岡『前掲』13頁)という問いの提起に対し て、2つの視点から、すなわち社会規範としての宗教の特性の視点と法華経信仰の視 点から私見を述べたいと思います。  第一に、宗教は社会規範の一つであるということです。よく知られていますように、 ルールには規範と法則があります。規範が法則と異なるのは、規範が単なる事実の世 界に属する法則と異なり、当為すなわち価値の世界に属し、価値に関係づけられてい るところにあります。価値とは、物質的または精神的存在に対する人間的欲求の射影 または照明であります(小野清一郎『刑法と法哲学』昭和46年19頁)。人間の欲求は、 歴史的・社会的に制約されるものでありますから、価値を本質とする規範は人間の意 思や欲求によって、ある時は破られ、ある時は修正・変更されて、多様に変化し、所 期の目的がその目的通りに実現され得ないのが規範たることの本質上当然のことなの です。法則においては1+1=2であることは絶対的真理ですが、規範においては1 +1=0の場合も、1+1=3の場合も、1+1=10の場合もあり得るのです。  社会規範に属するものとして流行・習慣・習俗・法律・道徳・宗教といった当為規 範があります。これらの規範は、その目的実現性に対する規範意識にそれぞれ強弱が あり、それによって規範目的の実現達成の困難度に相違が現われてくるのです。流行 という規範はその目的達成度が最も容易であるとすれば、宗教規範は最も困難なもの と言えましょう。宗教規範の場合、達成度が低ければ、社会規範としての宗教の存在 価値は失われていくのです。  法華経譬諭品第三に、「諸苦の所因は 貪欲これ本なり 若し貪欲を滅すれば 依止 する所なし」とあります。人間の根本的な三毒、貪瞋痴への執着は、愚痴蒙昧な凡夫 の常であり、これからの解放、解脱が人間存在の永遠の課題でありましょう。このよ うな最も困難な難事を克服し、真の自由を、真の幸福を、真の涅槃寂静の道に達する ためには、上求菩提・下化衆生のたゆまざる精進しかないのです。それ故にこそ、宗 教規範においては、修行という精神的・肉体的努力、仏道精進ということが他の諸々 の社会規範よりはるかに強く求められることになるのです。  第二に、「成仏=人格完成」の道は、確かに「長遠」なることまさしく無限無辺で す。しかし、釈尊は舎利弗に次のように語っています。「我昔會て二万億仏の所に於 て、無上道の為の故に常に汝を教化す。汝亦長夜に我に随って受学しき。… 舎利弗、 我昔汝をして仏道を志願せしめき。汝今悉く忘れて、便ち自ら已に滅度を得たりと謂 えり」と。  釈尊の最高の弟子である舎利弗ですら無数の生死をくりかえし、「無量無辺不可思議 劫」にわたって「若干千万億の仏を供養し、正法を奉持し、菩薩所行の道を具足し」

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(法華経譬諭品第三)て仏となったのです。いわんや愚癡凡夫の私たちをやです。その 私たちに、釈尊は次のように教え説いています。「是の諸人等は已に會て十万億の仏を 供養し、諸仏の所に於て大願を成就し、衆生を愍むが故に此の人間に生ずるなり。… 若し人あって、何等の衆生が未来世に於て当に作仏することを得べきと問わば、示す べし、是の諸人等は未来世に於て必ず作仏することを得んと。」(法華経法師品第十)  まことに「成仏=人格完成」の道は果てしなく長遠です。しかし、すでに前述(12 頁以下)した法華経各品における「受記」の経文に見られるように、釈尊より「必ず 作仏することを得」と受記されているところに、闇の中に光を得たりとも言うべき救 われと希望の燭光を見出し、挫折と絶望に耐える勇気が与えられるのではないでしょ うか。それ故にこそ、私たちは凡夫であっても自暴自棄に陥ることなく、ひたすら「上 求菩提・下化衆生」の修行の道を歩み続けることができるのではないでしょうか。「人 格完成=成仏」の絶対的基準をいかにクリアするか――「仏」の受記を信じ、「仏の 子」たることの自覚を強め、「仏の子」たるにふさわしい菩薩行を修する、「会員綱領」 に従えば、「本仏釈尊に帰依し、開祖さまのみ教えに基づき、仏教の本質的な救われ方 を認識し…菩薩行に挺身する」ことでありましょう。  最後に、「仏の子たることの自覚」に焦点を合わせ、開祖日敬一乗大師の教えを学ん でおきたいと思います(庭野『新釈3』401−403頁)。ここで引用する「人格完成」の 信解「十箇条」は、長文にわたりますので、若干省略することをお許しいただきたい と思います。  一、 なぜ、衆生は仏の教えに背を向けて、迷いの世界にさまよいでるのか?それは、 自分が仏の子であることを知らず、そのため煩悩具足の世界に魅力を感ずるか らである。  二、 迷いの世界をさすらいあるいていても、なぜ、しらずしらずのうちに本国(仏 の教え)のほうへ足が向くのか?ほかでもない、たとえ自分は気がつかなくて も、まさしく仏の子であるからである。  三、 仏さまはつねに衆生をお忘れにならない。われわれを生かす仏の大慈悲は、い つもわれわれの身のまわりに満ち満ちている。  四、 仏さまは、最初から最高の教えをあたえようとお考えになるのだけれども、衆 生のほうにそれを受けるだけの機根がないので、まず程度の低い教えにはいら せて、だんだんと機根を引き上げてくださる。  五、 ほんとうの信仰者というものは、たとえ機根の程度がいっこうに進歩しなくて も、何十年でも根気づよく修行をつづけられるものである。そうすれば、いつ かはかならず最高の悟りへ到達することができる。  六、 ほんとうの悟りというものは、〈仏さまと自分とは他人ではない、血のつながっ

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ている親子だ〉という実感を得られたときに、はじめて成就する。  七、 そういう実感を得るには、まず「自分はだめな人間だ」という卑屈な精神をな げうつことが大切である。  八、 そういう大自信を植えつけるいちばんの近道は、この法華経をくりかえしくり かえし学び、理解し、信ずることにほかならない。  九、 〈自分は仏と一体なのだ〉という自己の尊厳さを発見すれば、同じく仏性をもつ 他人の尊厳さもわかってくる。そうなると、ひとりでに、わるい行ないによっ て自分を汚すこともできなくなるし、ひとを不幸にしたり堕落させるような行 ないもできなくなり、そこに自他の人格の完成が実現する。  十、 〈すべてのひとがひとしく仏性をもった仏の子だ〉という実感を得れば、いまま で他人にたいしてもっていた対立感が消え失せ、〈みんながきょうだいなのだ〉 という一体感がわいてくる。そうなると、すべての人間が心から愛しあうよう になり、この世にはじめて完全な平和が成就する。(原文のルビはすべて削除し ました。)

Ⅴ 結びに代えて

 森岡先生は、最後に「会員綱領」について「唱題を繰り返すなかで必然的に生じる マンネリ化をどう克服するか、佼成会が担う課題の一つであることを強調してやまぬ ものである。」と論じ、先生の所論を結んでいます(森岡『前掲』14頁)。そして、こ のマンネリ化克服の一方策として先生の海軍兵学校時代の体験を通して傾聴すべき提 案をしています。この提案に対しては、すでに述べたように、立正佼成会の関係諸機 関においてすでに検討がなされていると思いますし、またそうであって欲しいと願っ ています。いずれにせよ、いかなるものであれよく精査し、佼成会の教勢発展に善き ものであれば積極的に受けとめ、活用し得るものは活用するべきであろうと思います。  しかし、他方において重要であることは、いかなる場合であれ、いかなる方策であ れ、「慣れ」は「狎れ」に転化する危険をいつも内含しているということです。いつ、 いかなる場合であっても、時の流れの中で初心を忘れると、直ちにマンネリ化に堕し てしまうのではないでしょうか。信仰の初心に帰る――立正佼成会と結縁し、善き指 導者そして修行の善き友の慈悲により悩み苦しみから解き放たれ、生きる勇気を取り 戻したあの時の歓喜・感激・感謝、「導き・手取り・法座」を通して悩み、苦しむ人々 と共感し、磨き合い、救い救われの縁を結ぶことのできたあの時の歓喜・感激・感謝 をいつも心にとどめ、事あるたびにその心に立ち帰ることでありましょう。  今日、立正佼成会に入会する新しい会員のための手引として『ようこそ立正佼成会 ――新しい会員のあなたへ』が用意されております。今回の森岡論文の学びを通して

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『交成』の昭和29年10月号に掲載された「入会の手引」を読む機会に恵まれました。昭 和29年と言えば、私が立正佼成会との結縁をいただいた年です。その意味では、この 「入会の手引」こそ私の信仰の原点となるものです――もっとも、その当時の私には法 華経信解品第四の「長者窮子の譬え」の窮子のように、法華経の信仰はもとより、会 員たることの自覚さえもまったくありませんでしたが。しかし今回、森岡先生の導き により昭和29年の「入会の手引」を初めて熟読してみて、私の信仰の原点を想い起こ す機縁となりました。  その一部分を、特に「会員綱領」唱和のマンネリ化に関連して三思三省、反芻する 必要があると思われる「法座」の部分を再録、引用し、拙論の結びに代えたいと思い ます。法座こそ、会の創立以来「立正佼成会のいのち」と言われてきたものであるか らです。     みんなが円い輪になって、両先生4 4 4 (注、会長庭野日敬先生と副会長長沼妙佼先 生)の教えを聞かせていただこうという求める態勢4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ――法座の輪すなわち心の 和であります。     異体同心の和の中に自分もとけこんで、小さな話の中からも大きな4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 「まこと4 4 4 」 を汲み4 4 4 、他人の懺悔や体験も互いの心に照らして受け取る姿4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ――このいつも新 しい感激が大切です。     家庭へ帰っても職場でも、どんな場合にでも4 4 4 4 4 4 4 4 「是れ即ち道場なり4 4 4 4 4 4 4 4 」と4 、常に御4 4 4 法にハリツク気持4 4 4 4 4 4 4 4 なら、念ずる心が湧き信が得られる――理論よりも先ず素直 な実践行からです。     「ばかになれ4 4 4 4 4 」という下がる心4 4 4 4 4 4 4 の法座の諭しは、持って生まれた我の個性を捨て て大我に生きる道順である。悪因縁を転換するためには、あらゆる心の修行を 求めなければならない。――いやなこと4 4 4 4 4 、つらいこと4 4 4 4 4 、すべて佛様のお慈悲の4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 鞭と喜んで受けて4 4 4 4 4 4 4 4 、正しく磨かれる4 4 4 4 4 4 4 のが法座の修行であります。(傍点は筆者)  この「入会の手引」を読んで今、私の心に去来するものは、「受記」を与えてくださ っている仏のみ心に、赤子のようにすべてを委ね、「人格完成=成仏」なることはすべ て放下し、ただひたすら「ご供養」「導き・手取り・法座」「ご法の習学」の基本信行 に徹し、舎利弗をはじめ、その他無量千万億の菩薩たちが説き、実践されたこと―― これをいかに自覚し、いかに行ずるかということであり、これこそ今、私が自らに問 いかけ、これからも問い続けていかねばならないと念じているものであります。

参照

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