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西南戦争の考古学的研究 要旨
(高橋信武)
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はじめに
1877 年 2 月から 9 月まで九州を舞台に行われた西南戦争も、わが国の歴史の一部であり、言及する 歴史論文も多い。しかし戦争についての記述は多くて数頁程度であり、それも武力による反政府反乱 は鎮圧され、以後の反政府活動は言論による自由民権運動にとって代わられた、と結論付ける前置き のような扱いである。熊本城を始め、玉東町吉次峠や植木町田原坂、延岡市和田越、鹿児島市城山な どは戦場だったことがよく知られているが、大分県が戦場になったことなどを知る人は少ない。歴史 愛好家向けの写真や図・絵付きの本でも西南戦争は扱われ、興味を満足させる内容が盛り込まれたり しているが、それらで戦跡を具体的に理解できるかというとそこまでの説明はない。
自分自身は臼杵市出身で、小さい頃から西南戦争のときは先祖が家の中に畳を立てて弾除けにした とか、戦死した警視隊員の遺品を茨城県の遺族が来た時に渡したとか聞かされてきたので、少しは知 っているつもりだったし、西南戦争物を読むのも好きだったからそれらの内容・概要は理解している つもりである。
ある時、大分県内の中世城館跡分布調査に参加した際、近くだったので佐伯市宇目の黒土峠に行っ てみた(戦跡であることを知っていたから)。そこで森の中に多数の台場跡が存在しているのを見て、
これまで読んだ本は何だったんだろう?台場跡が残っていることに触れたのはほとんどなかった(「戦 袍日記写真集」・「直川村史」くらい)!そうか!台場跡が残っていることをほとんど誰も知らないん だ、と気づいた。それで西南戦争の戦跡分布調査を個人的にやることにし、休日を利用して手始めに 黒土峠から友人と測量を開始し、その結果は「西南戦争之記録」(1~5 号 2002~2012 年)として自 費出版してきた。その間には、勤務先の大分県教育委員会の公務として県内の西南戦争戦跡分布調査 を行うこともできた(西南戦争戦跡分布調査報告書 2009 年)。
そのうちに熊本県では玉東町と植木町で戦跡の国指定史跡化を目指して発掘調査が始まり、数年の うちに指定された。そこでの実績により、考古学的な調査が戦跡の理解に極めて有効であると誰もが 認めるような事態となってきた。戦争初期の重要な戦跡である熊本城跡では開発行為が盛んに行われ、
玉東・植木の調査が始まるまでは関連遺物の報告も、遺構の調査もなかったようであるが、最近は西 南戦争に触れる報告書が出されるようになった。出土した銃砲弾は考古学研究者にとっては目新しい ものであるが、弁解を言ってもいられず銃砲や軍装研究者の成果を借用しなければならない。
以上のように西南戦争を考古学として扱う歴史は浅く、出土する遺物の意味や遺構としてどのよう なものが検出できるのか、これから発掘調査を行おうとする者にとって多くは未知の領域であるとい うことも可能である。遺構としてみれば、中世城館跡や近世城館でもないため城館研究者は調査せず、
近現代の戦跡を扱うと称する活動でも戊辰戦争や西南戦争は抜け落ちていると言っても言い過ぎでは ない。西南戦争に関する現時点での考古学的な集積を自分なりにまとめ、今後の研究のたたき台とし て理解していただければ幸いである。
章立ての説明
第 1 章「研究史と戦争の概要」では研究史と戦争の概要を述べた。研究史とはいうものの考古学 的にはここ数年の蓄積しかない。戦争の概要は言葉通り概説的にとどめた。従軍した兵力は官軍・薩 軍とも 5 万人程度だった。装備については小文の内容を理解するため使用された小銃を中心に説明し た。小銃の種類は 19 世紀の世界の銃の見本市のように多彩で、幕末の動乱時や明治になって輸入し たものであり、まだ我が国独自の小銃は開発されていなかった。
第 2 章「戦跡の状況」では熊本県・鹿児島県・大分県の戦跡の状況を検討した。特に熊本城跡・
玉東町の発掘調査出土遺物は、戦争初期の戦跡として当初の官軍・薩軍の小銃弾薬事情を反映するも
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のだった。その特徴は後期の戦跡である大分県内の遺物と比べると銃弾材料となった金属材料の相違 点が際立つ。田原坂の発掘調査報告書が出ていないのが残念である。熊本県内では発掘調査ではなく 現地の遺構分布調査結果も取り上げた。人口密集地の玉東町・熊本市では台場跡は現状では殆ど消滅 しているとみられるが、周辺の山間部である三の岳や大多尾越には立派に台場跡が残っており、今は 観察できない近郊でも同様の台場が築かれたはずである。屋敷野越について取り上げたが、球磨川流 域には多くの戦跡が残っているとみられる。官軍墓地の発掘調査では埋葬された官軍兵士が被弾した 銃弾が判明しており、その時点の薩軍の銃弾事情を反映していた。
鹿児島県内は踏査した戦跡を扱った。自分の生活圏から遠いので不十分な結果になり残念である が、今後、調査が進展することを期待したい。
大分県内は 880 基の台場跡を確認している。台場跡を個別に捉えるのではなく、戦線を構成して対 峙した状態を明らかにできたと思う。三国峠周辺、重岡と榎峠周辺、城之越・水ケ谷から梓山周辺、
赤松峠・陸地峠周辺等々では台場跡の分布状態から、戦記に対応する戦線を復元することができた。
官軍が攻撃して敗退した椎葉山の発掘調査では、薩軍陣地の前方に設けられた柵列の位置を推定で き、銃弾・薬莢の分布状態を図化して戦闘の状況も復元できた。短期間の調査だったので小範囲にと どまったのは残念だったが。
第 3 章「戦跡・史料による戦闘推移の検討」では、戦争末期の 8 月に延岡市北部に包囲された薩 軍と、終結した官軍とが決戦を行った和田越一帯の戦跡、およびその後に薩軍が脱出した可愛岳の戦 いに絞って史料も参考にしながら検討した。広範囲の戦跡の分布調査を行った結果、これまで確認さ れなかった包囲・対峙の状態を浮かび上がらせることができた。8 月 15 日の和田越の戦いでは東西 方向の山地全体を薩軍が占めた状態で戦いが始まったとされてきたが、実際は前日から東部には官軍 が陣取っていたことが判明した。その日の敗戦後、薩軍本営があった俵野を取り巻く薩軍の防衛線を 東(老田岳北部)・北(長井山)・西(可愛岳)・南(高畑山・小橋山)で確認した。同じく官軍の 包囲網も明らかになった。薩軍が 18 日に行った可愛岳の戦いは従来の説明(「征西戦記稿」)は間 違っていることを明らかにした。午前 4 時半に可愛岳南方での戦闘があり、午前 6 時頃に官軍第一・
第二旅団本営攻撃があったのをひっくるめて記録していたことが分かったのである。さらに脱出した 薩軍のその後の足取りと官軍の対応を長野越・黒原越・矢立峠・杉ケ越で確認した。
第 4 章「野戦構築物と銃砲・火箭の使用」では両軍が築造した台場を三種に大別した。一つ目の 弧状・弓場土塁の台場は最も多く両軍共が築いている。二つ目の長大な塹壕は、史料にはしばしば登 場するが実物が残るのは大分県旗返峠だけである。全長 170mと 500mの例が尾根線に連続して存在 している。最後は稜堡系台場である。圧倒的に少なく、大分県と宮崎県の県境尾根にある大原越・宮 崎県舟の尾凸角堡・宮崎県長尾山一本松の三ヶ所に遺構が存在し、記録上は熊本城籠城中の熊本鎮台 工兵隊が城内や周辺の城下町にも築いている。戊辰戦争で北海道に旧幕府軍工兵隊が稜堡を築いてい るが、それに属していた旧幕臣の筒井義信が熊本鎮台工兵隊隊長として同類を西南戦争で熊本城や大 原越に築いていたのである。大砲用の稜堡であったとほぼ確実なのは舟の尾だけで、これは土塁の外 側に堀をもっており、外側を掘りくぼめた台場跡は唯一である。稜堡が効果的だったのかは疑問があ り、官軍が推奨したのは戦争中に急遽発行した「塹溝堡築設教法略則」に示される土塁と内側の窪み からなる簡単なものである。立射用の他、浅い伏射用があった。
戦跡で検出された銃弾・薬莢は官軍にあっては補給の逼迫、薩軍にあっては金属材料の不足が影響 していた。戦争直前に官軍は鹿児島にあったスナイドル弾薬製造器械を大阪の砲兵支廠に移そうと試 み、戦争の直接の原因となってしまった。製造器械は紆余曲折を経て移送され、従来はその後順調に
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スナイドル弾薬を製造したと考えられてきたが、そうではなかったらしい。欧州からの購入も行われ たが、輸送には最短でも二ヶ月はかかり、製造期間も必要であったため、8 月になって本格的に到着 し始めている。その間、官軍はスナイドル銃の替わりにエンヒールド銃の使用が奨励された。2 月か ら 4 月に戦場だった玉東町の戦跡では官軍はスナイドル銃を使い、エンフィールド銃は例外的な存在 だった。ところが 6 月から 8 月の戦場である大分県宇目ではスナイドル銃弾と共にエンフィールド銃 弾を官軍が発射している。この時期には鉛不足の薩軍は鉛に錫を混ぜたり、軽い銅製銃弾、やがて鉄 製銃弾を使うようになっていた。薩軍は、鉛製や鉛に錫を混ぜた銃弾はペンチ状の銃弾鋳造器で製造 したが、銅製銃弾は和同開宝や天保通宝を作るような枝銭状のものから折り取って製作していた。枝 弾と称することにしたそれは、靖国神社遊就館の展示品に実物を確認した。
官軍の戦記には、火箭あるいはロケットを使った記録があるので、江戸時代からの火箭類について 検討した。江戸時代、我が国では抱えて打つ大型の火縄銃型のものから羽根のついた火矢を発射する 棒火矢が存在した。幕末の内乱や戊辰戦争で双方が使用している。これとは別に薩英戦争や四国艦隊 下関砲撃事件では、外国艦隊がコングリーブ式の自力推進の棒火箭を発射していた。明治になると我 が国は英国から新式のヘール火箭を導入し、西南戦争で使ったことがアジア歴史資料館蔵の史料から 判明した。しかし、火箭の戦果は低く評価され、その後軍用の火箭は消えてしまい、復活したのは第 二次大戦であった。ただ、信号や輝飾用だけが存続したのである。
おわりに
西南戦争を考古学的にみることによりこれまで漠然と理解するだけだった面に焦点が当たり、新た な知見が生じ、事態の進行を具体的に理解できるようになった。まだ、果たして当時の遺物であるの かさえ不明の遺物や種類が分からない砲弾破片等もあり、今後も詳細不詳の遺物が出土すると考えら れる、調査を継続するうちに次第に明らかになって行くことを期待したい。そのためにも、積極的な 発掘調査の継続と着実な報告書の発行が望まれる。