ガーナームイ
ー沖縄・豊見城の伝説いくつか
中村史
人 文 研 究 第107輯 ヱ88(1)
とみぐすくいとまん豊見城市は︑沖縄本島南部︑那覇市のすぐ南︑そして最南端の糸満市の北側に位置し︑都市と農村の性格をあわ
せもつ町である︒最近とみに大都市の様相を示してきた那覇市に隣あい︑豊見城市も急速に変わりゆく観がある︒
さんぎん長いあいだほとんど日本最大の村として存続していたが︑二〇〇二年四月︑ようやく市となったのである︒三山時
なんざんぐすく代(十四世紀初〜)には南山に属してその出城である豊見城城を擁し︑統一(一四二九年)後の第一尚氏時代を通
まぎりユじ︑また︑つづく第二尚氏の王府時代には豊見城間切として︑那覇・首里の中央と南部をむすぶ重要な地でもあっ
た︒あの沖縄戦に際して︑激戦地となって多くの犠牲者を出したことも付けくわえておかないわけにはゆかない︒
いまをさかのぼる十数年の一九八九年(平成元)と一九九〇年(平成二)の夏︑二度にわたる民間説話の集団調査
が行われ︑二十世紀も十年を残すのみのこの時期としてはまずまずの成果を挙げている︒その後著者はこの仕事を
受け継ぐこととなり︑資料整理︑追跡調査︑またそれ以外の調査をも行って︑いくつかの調査報告と論文を公刊し
ている︒今回︑いまだやり残している仕事のいくつかをまとめておくことにしたいが︑本稿は︑前述の集団調査に
ロリく よって得られた豊見城の民間説話資料のうち︑﹁伝説﹂の性格をもつ三話についての考察である︒
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ガ ー ナ ー ム イ
ガーナームイ
すばガーナームイんでいるムイグワーが︑ムイグワーがね︑海ん側んかいあたんよ︒あんさーに︑このムイはね︑
まだんばしんかかじみさぷ神様がやたらわからん︑真玉橋向かて︑﹁真玉橋くわーくわー︑嘉数くわーくわー︑根差部くわーくわー﹂︒あ
ていんみいんさくとう︑これなi︑うとうかーてならんもんでやーま︑空から︑神さまが︑三ち石落すたんでい︒尻尾︑
みい尻尾んかい︑三ち石落すちゃくとう︑なー︑﹁真玉橋くわーくわl﹂しーちーふーさなやーま︑うりからなー︑
かかじ﹁真玉橋くわーくわー︑嘉数くわーくわl﹂さんたんでいる話︑おばーたーや︑伝えちぢゅるばーやさ︑姉さん
たー︒むいかかずねさぶかつて︑ガーナームイという海のなかの森(山)が︑豊見城の集落である真玉橋と嘉数︑根差部を喰らおうとして
いたが︑﹁神さま﹂が三つの石を尻尾のうえに落としたのでそれはやんだ1大勢のご老人方が集まっておられる集
団調査の場で︑語り手・金城千代さん(真玉橋・大正三年生)は︑聞き取り調査に訪れていた女子学生たちにむかっ
うちなセぐち て︑沖縄口(方言)でこんなふうに語られた︒沖縄口で昔話を語るなどその当時すでにめったにないことであった
のかもしれない︒ご自分でも自信なさげにとつとつと語りはじめ︑まわりに坐っているお仲間のお年寄りたちもちゃ
んと聞いてはいない︒しかし︑語りが順調にすべり出してゆくにつれ︑まわりの人たちもこれに気づき︑金城さん
を尊重して耳を傾けはじめた︒そして︑金城さんが﹁おばあたーや︑伝えちぢゅるぼーやさ︑姉さんたー﹂(日おば
あたちは伝えてきているわけさ︑姉さんたち)と女子学生たちに呼びかけて語りおさめたとき︑たちまち笑いと拍
手喝采がこれを迎えたのである︒このことをあとから知った著者も︑昔話再生の場にいあわせた者の気持ちを体験
した︒こくばがわまん現在ガーナームイがあるのは︑国場川下流にある漫湖の︑その那覇港側の口にかかる那覇大橋の西側のたもと︑
おおのやま県道二二一号線をはさんで奥武山公園のむかいあたりである︒ガーナームイを見つけるべく︑著者もその周辺を歩
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藍灘.
一し拠脚㌻趨
ムイの写真を見るときに︑そのうるわしい光景が目の当たりよみがえる思いがする︒
浮いていたガーナームイが真玉橋の集落を︑
なのだろうか︒ここで︑もうひとつの語りを待って︑
昔︑ガーナームイといってですね︑
つあったんですけれども︒戦後︑いまの鏡原町ですね︑
川のまんなかです︒いまは︑北側に水路があってですね︑
原町です︒こちらも海で︑戦前まではいまの垣花から奥武山までは南明治橋と︑橋があったんです︒奥武山か
らいまの旭町までが北明治橋と︒戦前はこういうようにですね︑両方の橋があって︑その奥武山公園がまんな
簿 馨 一:1:1
難麟 羅
ガ ー ナ ー ム イ 。右 肩 に見 え るの は 小 禄 高 校 。背 後 に 那 覇 大 橋 が あ る(二 〇 〇 三 年 三 月 、 同 行 者 ・平 井 孝 典 撮 影)。
いてみた︒このときに住宅街のなかに見たガーナームイは︑みすぼらし
い小さな丘の姿をしていた︒昔日のおもかげもなく︑忘れさられた存在
となりながらかろうじて生き残っているようであった︒しかし︑このム
イは戦前まで︑現在よりもはるかに大きかった漫湖のなかに浮かぶ美し
い小島であったのだ︒その隣には明治の末から公園となっていた奥武山
も島の姿で浮かんでいた︒漫湖の埋めたてによってふたつの島はともに
陸地の一部と化したのである︒金城千代さんはまたおっしゃる︒
ガーナームイは怪獣の形をしていて﹁尻尾﹂も長あーく尾を引い
ていた︒天から落ちた三つの石もあってそれがどこからも見えよっ
たよー︒(要約)
と︒そのように聞いて︑戦前に撮影された漫湖に浮かぶ奥武山やガーナー
かつてそのような姿で漫湖に
そして嘉数︑根差部の家々を喰らおうとしたとは︑一体どういうこと
さらに﹁ガーナームイ﹂の世界をひろげることにしよう︒
おろくいまの小禄高校の西側に︑いわゆるムイがあったんですがね︒ま︑ふた
きょうはらちょう鏡原町は漫湖(のなか)ですよ︒いまの奥武山公園は
昔は奥武山はまんなかにあって︑こちらがいまの鏡
かきのはな
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ガ ー ナ ー ム イ
かにあったんですねえ︒その奥武山公園の東側にふたつの︑岩があってですね︑いわば島ですね︒小さい島で
すよ︑あって⁝⁝︒
その当時︑昔は︑﹁真玉橋を食いつぶそう﹂と︑また︑﹁嘉数の部落の人たちを食いつぶそう﹂というような
ことがあって︒もうその部落民は︑刀や棒をですね︑たずさわえて︑それに手向こうというような︑ことになっ
たんですがね︒もう︑ガーナームイの︑ものは︑あれですよ︑力が強くて︑部落民としてはどうしようもない
と︒もうそれを心配︑食いつぶされる寸前まで︑来たんですね︒その当時に︑天から︑大きい石が︑尻尾に落
ちましてね︒そのガーナームイはもう︑身動きもとれないということにですね︑なりまして︒天がそういうこ
とを︑食いつぶそうということを見ておったのか︑それはわかりませんけれども︑天のしわざで︑とうとう大
きい石を尻尾に︑されたもんだから︑とうとうその後は︑真玉橋を食いつぶそうとはしなかったということで
すね︒
それで︑真玉橋と嘉数の部落はむこうのガーナームイに向けてシーシですね︑獅子を︑いま︑シーサーを向
けて︑悪魔をよけるということですね︒
これは村の知識人・金城信夫さん(真玉橋・大正十五年生)の語りである︒金城信夫さんは︑真玉橋と嘉数ではいっ
たん鎮められたガーナームイに向けて﹁悪魔﹂よけのためにシーサーを置いているとおっしゃった︒
そもそも︑かつてなにかのおそろしいものが村々を﹁クワークワー(11食おう食おう)﹂と言って脅かしていたと
いう伝承は︑豊見城村にちかい沖縄本島の各地で耳にすることができる︒それらのものの活動がとどめられたあと︑
現在の安定と秩序がもたらされたと語られるものである︒おなじように村に向かって﹁クワークワー﹂などと叫ぶ
たばるりつぼがわ岩を破壊して︑安寧を得たという場合もある︒たとえば︑那覇市田原には︑おなじガーナームイが小禄︑壷川︑そ
して豊見城を食おうと言っていたという伝えがある︒その話によれば︑ガーナームイははじめ﹁恐しい生き物﹂だっ
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しまじりさしきが じゃむたが︑死んでのち森になったのである︒また︑おなじ展開をもつ︑島尻の佐敷町で採録された﹁我謝クエー石﹂の話
は大変興味深い︒
にしはらがじゃおがマじゃ西原町の我謝にむかって獅子の格好をした小さい石がある︒昔この獅子は﹁我謝クエクエ(11食え食え)﹂と
言いながら天を飛んで歩いていたが︑あるときそこに落ちると同時に石になった︒そのために我謝は栄えなく
ぬなった︒(要約)
な ざとうお今度は︑この石が向かっている我謝は繁栄しないという点に注目しなければならない︒﹁宮里クエー石﹂の話︑また︑
ひゃてぐんめみやざと﹁比屋根クワークワー﹂の岩の話も聴くことができるが︑やはり︑これらの石︑岩がかつて向かっていた名護市宮里
ひやごんと沖縄市比屋根は栄えなかったという︒なお︑﹁宮里クエー石﹂は﹁我謝クエー石﹂とおなじく獅子の形をしている
じゃ とのことであり︑﹁比屋根クワークワー﹂の岩は下顎が﹁蛇の口﹂のようになっていたという(このあとすぐに挙げ
る話とのかかわりで注目される)︒
きんそんそこで︑これらの石︑岩の話を橋渡しとしてつぎに挙げたいのは︑金武村(現在金武町)で採録された﹁ロフラ
レチャー﹂の話である︒
おんなそんあふそなかま昔︑双樹のロフラチャーという大蛇がいた︒その口が恩納村の安富祖と名嘉真に向いて﹁安富祖ックワー︑
名嘉真ックワー﹂と胞えるので︑安富祖と名嘉真では毎年不作であった︒しかし︑尾が向いている金武村では
豊作であった︒そこで金武村の一青年がこの蛇の喉を射て殺した︒ロフラチャーはいまでも大きく口をあけ︑
四つあった牙は欠け︑背中には木が生えて︑あっちに曲がりこっちに曲がりしながら金武の岬まで続いている︒
(要約)
このようにして見ているうちに︑ロフラチャー︑我謝クエー石︑そしてガーナームイがおなじ思想をそれぞれの背
景に持つ︑ひとつらなりの話群だと推測されてくるのだ︒