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苑 左 右 田 博 士 と そ の 業 績●
﹃余は丈化便値の濁自性の内に淋しき乍併崇高なる入格の尊嚴を仰ぎ見ん
と欲すろ︒淋しき1何となれば如何なる他のものとの協同︑如何なる丈
化の舞塁も其の意味の本質構成に窮極の素地ななさぬからであるo・:・入
間其のものに淋しい濁自のものである︒入に濁り生れ︑入ば濁り死んで行
く︒﹄i左右田喜一耶(丈化哲學工り観六る壮會主義の協同髄倫理)
O
南 亮
三 郎
●
昭和二年入月十一日︑此の日吾等は永久に︑経濟哲學の開租・法學博士左右田喜一郎先生を地上
から喪ふπのである︒
左右田搏士とその業績四〇九
商學討究第二巻(下)四一〇
博士の重患であられπことは在京の友から屡々傳へて來πし︑私へ宛てられた博士の書翰から竜
その容態の並々でないことは察せられた︒然し︑近親者への制断は動々もすればその客観性を失ふ
ことを誰れ竜が経駿するやうに︑πとひ血のつながうはないにしても學問生活の唯だ一つの導星と
して︑夜となく︑書となく︑案に向へば必ずその崇高温雅なる容姿を想ひ出つるを常としπ私は︑
こんなにも早く︑いとも哀しむべき此の日が私共に迫つて來やうとは思はなかつπ︒ー臆然し︑
博士はつひに他界せられπのである︒
博士の喪は遺志に從つて磯せられず︑遠隔の地に在る私は四日目の朝始めてその卦を知ったので
あるが︑せめては今生の名残うを惜しまむ竜のと葬儀の日取うを問合せカところ︑その日の夕方︑
﹃今日すんだ﹄といふ哀しい返電が着い穴︒iその日博士の遺骸は︑僅かなる近親のみに護もられ
陀︑人を避け世を忍むで横濱郊外蓮光寺の墓地に葬むられたのである︒翌十五日の東京朝日は﹃左
右田博士の愼ましい葬式﹄と題して︑﹃近親︑縁者︑左右田家關係者集まり極めて質素に葬儀を濟
嚢せカ︑葬儀中特に未亡人直子︑遺子五十鈴嬢のい禿いけな姿が人目をひき︑左右田家の愼しみ振
わに涙を誘つた﹄と報じ尤︒輝かしかうし生前の日に比べて︑これは寮禿何といふ痛ましい絡焉で
あつたらうか︒綾ことはやんごとなき時運の推移であつたとは云ふもの\︑最後のその日までも︑
鋭い學者的責任戚を有つて古武士の如く清節を持され完といふことは︑その間の事情を知ウ︑博士
の心境を察し得る竜の\愁膓を挟らずしてあかうか︒ー思へば︑と讐めむと欲する竜と讐め得ざ
る暗涙に︑今もなほ私はむせぶのである︒
在うし日の博士は︑私如き末輩の語う鑑くすべくそれは徐りに大きい存在であつた︒否な恐ら
く︑その人と業績とを︑語b鑑くし味はひ鑑くし得る人は︑今の世に数多くはないであらう︒少く
とも私に取つては︑博士の遣されし業績を味讃し人と共にそれを語ることは︑恐らく績くであらう
私の︑生涯に亙つての學問生活の根本的な一課題であう︑叉さうあうπいと念願してゐる︒今は唯
だ此の小文に於て︑博士に就いて憶ひ出つること\その業績一斑とを誌るしと璽めて︑在うし日の
博士を偲び︑その偉業をπ㌦えπいと希ふに過ぎ澱︒
一一
事の順序として︑先づ博士の略歴を述べると︑博士は明治十四年二月二十入日︑左右田金作氏長
男として横濱に生を享けられπ︒長ずるに及び東京高等商業學校に學び︑明治三十七年同校專攻部
を卒へらる︒東京高等商業學校の卒業論文はマーカンチリズムの研究であつπと傳へ聞くが,同校
左右田博士とその業績四一轡
商學討究第二巻(下)四︼二
專攻部にての博士の研究主題は貨幣論を中心としての経濟學研究であつπ︒明治三十入年︑輻田徳
三博士編纂ポ経濟學経濟史論叢の第二冊として刊行されカ﹃信用雰貨幣論﹄は實にその所産であつ
て︑後年の博士濁自の學問傾向と︑到底除人の及ばぎるその頭磯の冴えとは︑既に此の書に表明さ
れてゐるのである︒
明治三十七年專攻部を卒へられπ博士は同年直ちに笈を負ふて渡欧︑英國ケムブリツデ大學に遊
んでマーシヤル︑カンニングハム諸敏授の門を叩き︑思ふところあつて翌年濁逸フラィブルビ大學
に韓學︑後更にチユーゼンゲン大學に轄じ︑心ゆくばかう濁逸精神に親しまる\と共に︑一般縄濟
學に就いては特にカール●ヨハネス︒フツクス⁝敏授に︑哲學に就いては一特にハインリツヒ●リツケ
ルト敷授に夫々私淑されカ︒後段に述べる濁逸文の三著作は此間に起稿されカものであつて︑何れ
竜當時の濁逸學界にいカき激動を與へ︑同時に之れによつて自家學説の堅き素地を作られπのであ
る︒因みに右三著作中の一﹃貨幣と個値・論理的研究﹄は濁逸に於ける博士の學位請求論文であつ
て︑﹃ドクトル・デア・シユターツヴヰツセンシヤフト﹄を享けられπのは明治四十二年(西歴一
九〇九年)︑博士二十九歳の時であつπ︒その後︑ハイデルペルヒ︑メリーの諸大學を周遊し︑通
じて十年︑具さに欧洲文化の精髄を味ふて大正二年蹄朝せられ控︒
'
蹄朝後幾許もなく︑嚴父金作氏死去によう博士は織いで左右田銀行頭取に就任︑その煩務を軟掌
されること\なつ穴が︑傍はら東京高等商業學校專攻部︑及び後ち東京商科大學の講師として敷鞭
を執わ︑特に研究指導に力を注がれ︑後更に京都・東京爾帝國大學哲學科講師を粟務されて今日に
及むだのである︒是れより嚢き博士は︑法學博士の學位を授けられ(大正五年)︑また更に貴族員
議員に勅選されπ︒術ほ博士の事績に就いて特に附記しなければならないことは︑横濱肚會問題研
究所を主宰して肚會問題研究叢書を盈修せられカこと︑及び︑故大西猪之介敷授の遺著編纂を主唱
して自から親しくその監修の任に當られ力乙と︑是れである︒
昭和二年三月︑深く自から決すると乙ろあつて一切の公職より僻退せられ︑爾來蟄居して只管ら
固疾の療養に叢くきれつ\あつπが︑その効なく︑つひに入月十一日午後三時︑多分の天稟を抱い
て長逝されπのである︒行年四十七︒
5
博士の幼時及び學生時代に就いては︑不幸私は語るべき何ものを竜知ら澱︒恐らく凡ての天才に
於けると同標に幼けなき頃よう博士は︑常人とは異なる途を歩綾れπことであらう︒嘗つて幅田博
左右田博士とその業績四=二
商學討究第・二巻(下)四一四
士は學生時代の左右田博士を評して﹃學理討究の上に於て予が始めて遙遁せる抗孚の人﹄①と呼ば
れπが︑以つて︑先輩學者に劃する儀禮は堅く持せられながらも而かも眞理のあるところ寸毫も假
借せられざりし博士の︑眞理追求者としての眞摯なる姿の一面を描くことが出來よう︒が︑私の今
蝕に語う得る博士は︑敷壇に於ける博士であう︑そしてより多く指導室及び自邸に於ける博士に就
いて讐ある︒
①後掲左右田博士第一著︑幅田博士序丈二頁
博士の風半は端麗温雅︑見ゆるものをして畏服せしめ︑深く接する竜のをして慈父の如き戚を懐
かしめ穴︒ま力自から身を持せらる\こと極めて謹嚴︑坐臥進退筍く竜せられず︑人に接するや︑
自邸に於てすらも常に袴を穿力れ︑門弟を逡るときにさへも常に自から玄關に立力れカ︒これにつ
いては︑い虎く私共の胸をうつ博士病中の一逸話がある︒それは七月下旬︑日銀総裁井上準之助氏
が博士の病氣見舞に訪ねられた時のととである︒輻田徳三博士の追悼文からその一節を借うると︑
﹃當時博士の病は︑旦夕を圖られざる状に陥う︑患部の苦痛は︑實に堪へ難いものであつπ︒然る
に博士は︑自から病床よう起き出で︑洗面調髪含漱の後︑衣服を改め︑袴まで着用して︑わざわ
ざ︑慮接室まで︑辛ふじて歩を運んで総裁に封面せられπ﹄ωといふことである︒以つて博士浮素
︑
, の用意の︑如何に周到であつπか里窺はれよう︒
0ウ昭和二年九月一日登行如水會々報第四十六號所載﹃左右田博士の逝去に際して﹄二頁
博士が敏壇に立力れたのは極めて稀で︑一年一度の特別講義の揚合だけであつ完が︑少数の門弟
のの爲めに隔週三時間︑時には五六時間もぶつ通して開かれπ研究指導を通じて私共の受けた戚化と
印象は︑到底生涯に亙つて寸時竜忘る\を得ない耗深く︑氣高く︑また門生に野せられ穴態度は頗
る謹嚴律義であつカ︒博士への入門の手績は︑他の多くのぜミナールに於けるとは全く異なつて︑
豫め課せられたる論文を提出するにあつカ︒カントの謂はゆる﹃荊棘に富んだ批割の小穫﹄を私共
はもう︑入門の第一歩から選ばされπのである︒私共はそこに︑玲朧玉の如き︑眞理の化身のやう
むな博士を見力︒人としての博士の一面に私がよわ多く燭れ控と思ふたのは︑寧ろ博士のそばを離れ
てから後のことであつπ︒昨年の夏三年振釦でゐ目にか\つて︑私は當時︑學友の一人に次のやう
な所威を認めて逡つカことがある︒
﹃左右田博士にむ目にか\つたのは九三年振うでしカが︑僕は今度初めて人間としての博士に會
ふπやうな喜びをゐぼえました︒どの偉大なる學者竜然うであらう如く左右田博士はその門弟に劃
して極めて嚴格なる態度を持せらる\のであうます︒二年間ゼミナールに参じて只の一度も學問以
左右田博士とその業績四一五
商學討究第二巻(下)四一六
外の言葉を聞いπことのない僕は︑その最後の日に僕を指しまねいて﹁小樽へ行くんですつてね︑
母校だからしつかうゐやりなさい﹂と誠め給ふπ言葉なかりせば︑學校に於ては遽に永久に︑人間
としての博士の片鱗にすら燭れる乙となくして止んだか竜知れません︒が︑幸に竜今度の族は僕
に︑學問以外の博士の生活の一面に充分燭れる機會を與へて臭れまし尤︒いつであつπか僕の或る
知人は﹁書物を通じて得π印象はその人から受ける印象と著しく異なるものだといふことを初めて
左右田博士に見た﹂と云ふて來πことがあうまし尤が︑僕自身も亦︑科學的認識の領域を越えた全
的人格の一面に燭れて︑新尤なる畏敬の念と今迄でには懐き得なかつ力親しみの念とをすらゐぽえ
πのであうます︒﹄
博士はその後進を誘抜せらる\こと頗る懇切︑嘗つて土方成美敷授の批評を受けられカとき態々
腕車を騙つて同敷授を訪ね仔細に自説を説明されたといふ之とは︑當時學界の美談として東京朝日
の傳へπと乙ろであるが︑他方博士は︑如何なる煩務に軟掌せらる\時と錐も︑喜んで後進の原稿
ゆを閲讃し︑主要なる論黙に一々詳察なる批評を加へられ尤るのみならず︑細末の僻句に至るまで朱
筆を加へられπ︒さ5して博士自から毛ツトーとし︑同時に後進に向つて繰返へし與へられ力警告
は︑論文は一年に一同にてよろし︑登表の爲めに磯表する勿れ︑學問的良心の満πさる㌦まで︑練