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祭礼の変容と地域社会現在―三池藩大蛇山を事例に [ PDF

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Academic year: 2021

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問題と目的 本論文のフィールドは福岡県大牟田市に伝わる祇園 祭、大蛇山である。中でも三池新町こと三池地区の大字 新町について詳しく調査を行った。三池地区の大蛇山は 17 世紀に祇園宮が勧請されて祭礼が始まった地域であ り、隣町である三池本町こと大字三池と合わせ、この二 山が数ある大牟田の大蛇山の中でも由緒ある山だとされ ている。江戸期には本町が柳川藩、新町が三池藩であっ たため、新町の大蛇山は三池藩大蛇山とも呼ばれる。こ の地域は三池街道の宿場町で交通の要所として栄えてい た場所であった。しかし時代が下り石炭産業の興隆とと もに周辺地域の中心は三池地区から現在の大牟田駅周辺 の大牟田へと移動していく。戦後、1960 年代には三池炭 鉱は三池争議と三川鉱炭塵爆発という大きな二つの事件 が起こる。大蛇山は物資や人材の不足から戦時中やむな く中断されていたが、炭鉱にまつわるこれらの事件と時 を同じくして復興し、以後行政に主導される形で多くの 市民を動員した祭礼へと変化していく。現在では大蛇山 が観光の目玉としての役割をも担っており、会場はアク セスの良い大牟田駅近くの大通りである。祭礼当日には 市内外から多くの人が見物に集り、三池二山も地域巡行 とは別にここまで大蛇山を運んでの六山巡行も行ってい る。大蛇山の歴史からすると三池二山が由緒ある山だと して尊敬を集めているが、現在祭礼が最も華やかに行わ れるのは大牟田の市街地中心部であり、三池新町の大蛇 山は三池と大牟田、歴史と観光や集客、地域巡行と六山 巡行という二つの極を行き来する形で巡行を行っている と言える。現在において祭礼は、旧来の閉じられた儀式 というよりは、観衆に見られる開かれたものとして執り 行われているといえよう。[柳田 2002(1942)] [薗田 1988] これに地域活性化という目的や経済的効果の期待をも含 みこんだ現在の大蛇山の六山巡行はイベントであるとも 位置づけられる。[小松 1997]観客という「第三者的視点」 の導入によって、「儀礼の失敗は天災やら病気やらでは なく、むしろ観客の退屈という形で定義されるようにな」 り、飽くなき観客の求めに応じて、毎回毎回工夫を凝ら して祭礼を派手にしていかなければならない。[福島 1995]新町の大蛇山は一方ではこうしたイベント的要素 を持つ六山巡行に参加し、また一方で伝統的な町内巡行 を行っている。この両者がともに同じ大蛇山として行わ れているのである。 こうした状況の中で三池新町の大蛇山も戦後の復興 の 40 年間で旧来の形式から多くの変化を経て現在の形 になってきている。市街地へ出向く六山巡行、神輿巡行 のみを他地域と共演する神輿祭りなどの祭礼全体の形式 もさることながら、大蛇山の演出の仕方などの細かい部 分に至るまでそのときどきに合った形を選びながら三池 新町の大蛇山は巡行されてきた。調査者のような外部の 人間から見ると、そうした変更点は時として祭礼の伝統 性と対立しているようにさえ思えてしまう。しかし実際 には大蛇山はそうした二面性そのものまで含みこんだま ま行われていくのである。大蛇山はその中でバランスを とりながら巡行されている。 また実際に祭礼の現場でも言われることであるが、祭 礼は「集団の象徴的な再生の現象である」[薗田 1990]と される。祭礼を通して地域の紐帯が確固たるものになり、 その集団が再生産されるとする主張であるが、祭礼によ って地域の共同性が強化されるというより、実際には祭 礼を実行する過程において行われる作業、つまり日々神 社に集まって準備や練習を重ねるという非常に具体的で 地味なものこそが地域に共同性をもたらしている。そう して実現された祭礼は、それぞれの行為や関係性の束に よって成っているといえよう。さらに実演された可視化 された関係性を参照することによって、次の関係をめぐ る実践へとつながっていく。[松村 2009]こうして関係、 行為、関係というふうに織り重ねるようにして集団は形 作られていく。 現在の新町の大蛇山はさまざまな変化を経験しなが らも継続されている。大蛇山が内部に持っている伝統性 とイベント性という二面性、その中で実践は影響を受け ながら様々に変化していく。本論ではこの実践の変容に 注目し、その実践がどういった関係性を形作っているの かを明らかにしたい。 方法 調査は三池新町において2008 年 10 月から 2010 年の

祭礼の変容と地域社会の現在

―三池藩大蛇山を事例に キーワード:祭礼, 変容, 知識, 実践 人間共生システム専攻 池田 悠南

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8月まで約2年間に渡って現地調査を行った。その中で 祭礼の担い手に対するインタビューと平成 21(2009) 年と平成 22(2010)年の祭礼準備、祭礼本番にて参与 観察を行った。 本論においてはまず三池新町、あるいは大牟田が歴史 的にどのような経緯を経て来たかを詳しく辿ることで、 その中で新町の大蛇山がどのように位置づけられるかを 見た。三池新町は江戸期には三池藩の陣屋がおかれ、三 池街道の要所として栄えた。元和7(1621)年に三池藩 が発足して後、寛永 17(1640)年に祗園寺が三池藩の 祈祷所として勧請される。これが現在の弥剱神社であり、 祗園寺建立当初からなにかしらかの祭礼は行われていた と考えられるが、記録上で大蛇山が登場するのは明治期 に入ってからであり、大蛇山の登場について詳しいこと は不明である。三池藩は江戸時代に多くの変動を経験す る事となった。一時は第六代藩主の種周が幕府閣僚の紛 争に巻き込まれ、現在の福島県に位置する下手渡藩に転 封処分となり、その間隣の藩である柳川藩領ともなった。 この種周の時代に三池では石炭産業が藩によって経営さ れ、下手渡藩の期間には下請であった藤本伝吾によりお おいに拡大していくこととなる。時代が下り明治期に入 ると、明治 22(1989)年に官営だった三池炭鉱は三井 三池炭鉱社によって営業が開始される。時代は戦争の混 乱期にあったが、三池炭鉱は日清戦争と日露戦争期に基 盤を築き、続く世界大戦の時期に飛躍的発展を遂げた。 この当時の三池新町の大蛇山は内藤家によって製作され ており、祭礼が盛大に行われていたという。祭礼で一番 の盛り上がりを見せる目玉争奪戦は戦争に行くことが決 まった青年たちが激しく争うもので、目玉を取ると階級 があがって無事に帰ってくると言われていた。縁起物と しての価値も高かったため町外から目玉を争奪にくる人 間もおり、青竹で叩いて追い払っていたという凄まじい 行事であった。ところが戦争が激しくなって人材や物資 が不足したために昭和 15(1940)年には三池新町の大 蛇山は中止に追い込まれることになる。戦後、空襲にあ った三池炭鉱も傾斜生産方式や朝鮮戦争、第二次中東戦 争の影響を受けて増産、回復したが次第にエネルギー革 命のあおりを受けて企業規模を縮小せざるをえなかった。 そうした中で起こったのが昭和 35(1960)年の三池争 議である。会社側と組合側で大規模な労働争議が起き、 無期限ストライキにより三池炭鉱は機能停止し、町は従 来の労組と新労働組合とで二つに分裂していった。よう やく生産が再開し、三池争議から立ち直りかけた矢先、 昭和 38(1963)年に三川鉱炭塵爆発事件がおこる。死 者458 人、一酸化炭素中毒患者 839 人にものぼった大事 件であった。大牟田の石炭産業は以後縮小の一途をたど り、平成9(1997)年に閉山を迎える。大牟田に起こっ た石炭産業の大事件と衰退は、日本の戦後の復興と高度 経済成長やバブルと時期を同じくしている。大牟田でも 都市開発が進められ、中止されていた大蛇山巡行もまた この時期から復興しはじめるのである。大蛇山は昭和36 (1961)年には行政が中心となりそれまでの炭鉱祭り、 港祭り、祇園祭りを統合して大牟田夏祭りとして大牟田 駅そばの大正町通りにて開催されることとなる。三池新 町の大蛇山は昭和 46(1971)年に残っていた大蛇の模 型をもとにして製作し復興を果たした。現在では新町で 行われる地域巡行を中心として、大正町通りで行われる 六山巡行、神輿祭り、祇園楽巡行などの行事が祭礼とし て行われている。平成 22(2010)年に三池新町と三池 本町の大蛇が「三池の大蛇山」として大牟田市の無形文 化財に指定された。 こうした歴史的経緯をもつ大蛇山は大牟田市を中心 とした周辺地域に分布している。大牟田市内においては 三池地区にある三池新町、三池本町の二山を中心とし、 二区祇園、三区祇園、本宮彌劔、諏訪を加えた六山が神 社祭礼の行事として大蛇山を運行している。その他にも 地域山として有志団体による大蛇山が 10 基以上存在し ており、大蛇山パレードとして六山巡行とは別に祭礼を 盛り上げるイベントを行っている。さらに三池地区を通 る三池街道筋の各地域にも大蛇山があり、渡瀬祇園、江 浦祇園、中島祇園、南関祇園、崩道の祇園などがあり、 大牟田の大蛇山との交流も見られる。また祇園祭として は博多祇園山笠の影響は色濃く受けており、三池新町か らも有志が山笠に実際に参加した。こうした地理的な広 がりに加え、新町の大蛇山自身が外部に直接アピールさ れることも多い。新聞やテレビなどへの出演やインター ネットの活用、そして度々行われてきた外部地域へ直接 出向いての大蛇山巡行である。中でも京都まつりへの参 加は、担い手自身が静かで華麗な京都祇園と荒々しい大 蛇山との違いを実感し、大蛇山を改めて客観的に見る機 会にもなったようである。 結果 現在の大蛇山は冒頭で述べたように伝統ある祭礼と 観光の中心としてのイベントとの間で揺れ動きながら行 われている。特に、大正町で行われる六山巡行などは観 光客を呼び込み地域を活性化させるという意図を明確に 持っているものであり、大蛇山は観光資源の一つとして 活用されているといえよう。六山巡行の場面においては 数多い観光客にアピールするため派手な動きや華美な演

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出が求められることになる。他地域の山との競合によっ て模倣や差異化が行われ、自らの山を最大限印象付ける ためにさまざまな変容が行われることとなる。もちろん 三池新町にとっては観光客を集めることが目的とは成り 得ない。三池新町の祭礼の目的は神社の行事として毎年 遂行すること、存続していくことである。あくまで本番 は町内巡行であり、六山巡行は付随的なものである。だ がそれでも六山巡行で行われたパフォーマンスはそのま ま地域巡行でも行われるであろうし、現在までの復興後 40 年間の間にも新町の大蛇山には多くの変更要素が認 められる。この変更が可能となっている要因としてあげ られるのが、三池新町においては「~ねばならない」と いった決まり事で語られる規則が比較的尐ないという事 情がある。大蛇の製作においても、一般に言われる「神 さんごとだから(ひれなどのパーツの)数は奇数にしな ければならない」ということくらいであり、むしろ重要 なのは新町独自の意匠であったり、演出の仕方であった りする。三池新町の大蛇山は長い歴史を持つ一方で、三 池新町の大蛇を三池新町の大蛇たらしめてくれる規則は 存在しないのである。さらに新町の祭礼組織にも変容を 可能とするような構造がある。大蛇山は御前山、大蛇、 神輿、祇園楽などの要素から成り立っているが、それぞ れに担当者がいる。このそれぞれの担当者は基本的に担 当外の要素に口を出すことはなく、それどころか「それ がどういうやり方でやられているかを知らない」ことが 多い。例えば実行委員長であっても大蛇製作がどのよう に行われているかその工程を事細かに知っているわけで はないし、古くからの神輿の取り扱い方についても一部 の人間しか知っていない。このようにそれぞれが知識を 持っている自分の担当のみに注力しており、祭礼はそれ ぞれが担当した要素を持ち寄る形で祭りが成立している。 こうした状況が大蛇山の変容を可能にしていることを踏 まえ、具体的な変更点について考察を加えていく。 考察 本論では大蛇山の変容の性質について便宜的に4つ の区分を設けた。つまり歴史的要素、中央的要素、新し い要素、現在では廃止された要素である。このうち歴史 的要素、中央的要素は既にある、あるいはかつてあった ものの再現や援用であり、「こうするのが正式なやり方 である」という模範ともいうべきものである。歴史的要 素の事例としては三池山のツガニと大蛇の伝説を大蛇山 の由来という位置づけで語ったり、以前は子どもが遊び として行っていた神輿くぐりを縁起の良い行事として再 生させたりということがあげられる。中央的要素として は京都祇園の八坂神社への参拝、博多祇園山笠からの影 響などである。これらの要素は大蛇山という祭礼の伝統 性を補強するための試みであると考えられる。歴史的要 素については由緒ある大蛇山を強く印象付けるための演 出として用いられているといえるだろうし、中央的要素 についても同様である。祭礼の当事者は伝統のリアリテ ィを維持するために、「唯一の歴史」という時間軸の存在 を前提にし「共時的に存在する・別個と考えられうるも のごとを通時的に並べ直しながら、それらから一つの共 通性を見い出す」という「実践的推論」を行う。[足立 2000:150]大蛇山は神社の神事、京都祇園、博多祇園山 笠を一つの時間軸上に配置し、その系譜として大蛇山が 存在していると定置することで伝統性にリアリティを持 たせていると言えよう。これらの要素は祭礼に正当性を 与える一方で非常に説得的な言説である。担い手が要素 を「間違いである」「納得できない」と否定することは非 常に難しい。住民にとって説得的な言説は生活環境主義 の文脈の中で近代知に対する生活知という知識のあり方、 つまり必然から便宜へ向かう知識のあり方として提唱さ れている。「その地域において選択(option)の幅として 許容されているこれらの慣用的な「説得と納得の言説」 をイディオムと呼」び、このイディオムを操るのが生活 地であるという。[松田 1989]ただ大蛇山に見られる祭礼 の変容は生活環境主義が立つような近代への抵抗の手段 という切実な状況のみにあるようには思われない。大蛇 山に見られる新しい要素や廃止された要素はむしろ偶然 や思い付きによって行われた変更点のようにすら見える。 一方で新しい要素や現在では廃止された要素は復興後の 新しい変容である。それぞれの事例を見ると、新しい要 素としては雄大蛇と呼ばれる三池本町と雌大蛇とされる 三池新町の交尾であったり、福を呼ぶ大蛇として大蛇が 結婚式に登場する事例などがあげられる。廃止された要 素としては大蛇ではなくスサノオノミコトでの巡行や大 蛇山からシャボン玉を飛ばしたシャボン玉大蛇などがあ る。こうした変更は大蛇の交尾であれば二つの大蛇が偶 然巡行中に出会い盛り上がったことがきっかけであった り、シャボン玉大蛇であれば個々の担当者の比較的自由 な裁量で行われたものである。そしてこうした新しく出 現した要素が採用されるか廃止されるかはそれが説得的 な言説であるかという点にかかっているといえよう。雌 雄の大蛇の存在は交尾や子大蛇の出産を担い手にイメー ジさせ説得的な言説となるし、縁起物である大蛇は結婚 式にも登場可能である。しかし大蛇山を巡行してきた地 域でのスサノオノミコトの巡行は祇園という点で結びつ きはあるものの十分な説得性を持っていなかった。シャ

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ボン玉も「なぜ大蛇からシャボン玉が出るのか」という 疑問に答えるイディオムが存在しなかったといえよう。 歴史的要素や中央的要素が正当性という権威をもって説 得的な言説で説明されるのに対して、新要素が異なるの は「雌雄の大蛇がいるから―交尾する」というような自 明な論理しか必要でなく、こうした共有されている知の データーベースにアクセスできるような性質をもった要 素であれば、わざわざ言葉を尽くして説明される必要が ないといえよう。偶然や気まぐれによる変更にはそうし た知のあり方の存在が示唆されていると考えられる。 祭礼の場では想像以上に自由度の高い実践が可能と なっている。現代においては「切迫した生存感覚」が消 滅し、祭礼自体も厳密性が薄れてきている。そもそも現 代における祭礼の目的は、祭礼の遂行と存続―つまり繰 り返すことにある。こうした「ルーティンには、必ず(中 略)振動の幅、すなわちミクロの事件がある。」[福島 2001:35-36] ミクロの事件とは儀礼の枠からわずかに外 れた要素のことである。これが先の新要素などを生み出 す偶然の機会となるのであるが、儀礼が「そうしたミク ロの事件を組織的に圧殺する」のに対し、ルーティン化 した祭礼はそうしたミクロの事件をも含み、新要素を取 り込み拡大したり、ある要素を廃止したりして縮小した りを繰り返しながら祭礼として成立し続けている。 大蛇山は時代や社会状況に合わせて様ざまにその姿 を変えてきた。現代社会において祭礼は以前の強力な力 を失っているように思える。近代に入り社会の発展と共 に各都市では開発が進み、地方では人口の流出が問題と なった。かつての地域社会の紐帯は大牟田においても三 池炭鉱の事件や都市開発の失敗、高齢化の進行によって だんだんと崩れつつある。ギデンズはそうした状況をポ スト伝統社会と呼び、そこでは「どのように生き、どの ように振る舞うのかを自分で決める以外他に選択の余地 がない」[ギデンズ 1997:141]とした。再帰的近代化の訪 れた社会において、大牟田では伝統的な祭礼である大蛇 山の持つ権威を核として、伝統そのものも自ら選択を重 ねて作り上げていかなければならなかった。三池新町に おいても信仰や伝統といった祭礼の核を継承しながら、 そのときどきの時代によって、担い手それぞれの意図を 織り重ねるようにして祭礼を執り行ってきたのである。 大蛇山はまさに地域社会で祭礼を担う人たちの生きる姿 を、その堂々とした姿に映しながら巡行しているといえ よう。 主要引用文献 足立重和2000「伝統文化の説明―郡上おどりの保存を めぐって」『歴史的環境の社会学』シリー ズ環境社会学[三]、片桐新自編、132-154、 新曜社 ギデンズ、アンソニー1997(1994)「ポスト伝統社会に 生きること」ギデンズ、アンソニー他編 『再帰的近代化―近現代における政治、 伝統、美的原理』小幡正敏訳、105-204、 而立書房 薗田稔1988「祭りとマチ文化」『都市のフォークロア』 現代日本文化における伝統と変容4、井 上忠司編、113-125、ドメス出版 1990『祭りの現象学』弘文堂 松平誠1990『都市祝祭の社会学』有斐閣 松村圭一郎2009「<関係>を可視化する―エチオピア 農村社会における共同性のリアリテ ィー」『文化人類学』73(4):510-533 森田三郎1990『祭りの文化人類学』世界思想社 福島正人1995「儀礼から芸能へ―あるいは見られる身 体の構築」『身体の構築学』福島正人編、 67-99、ひつじ書房 2001『暗黙知の解剖 認知と社会のインター フェイス』金子書房 柳田國男 2002(1942)「日本の祭り」『柳田國男全集 13』211-430、筑摩書房 山下晋司2007「文化という資源」『資源と人間』資源 人類学01、内堀基光編、47-74、弘文社

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