ベッティーナ・フォン・アルニムの社会活動の始まり 山 下 剛
相次ぐ妊娠と育児、財政難と闘いながらの家計の維持はベッティーナを 精神的にも肉体的にも消耗させた。夫に顧みてほしいという望みも満たさ れぬまま、ベッティーナの精神生活は危機的な状況に陥っていった。少女 時代から心に抱いていた内面の自由の追求という理想も日々の生活に押し つぶされ、いまや窒息寸前だった。ベッティーナは 1823 年 11 月のサヴィ ニー宛書簡でこう述べている。
私は 12 年の結婚生活を肉体的にも精神的にも拷問台の上で過ごしまし た。そして配慮を求める私の要求は満たされません。私の展望はすべて の事柄の終わりに至りました。
1夫婦間の手紙のやり取りからは、ベッティーナが自分の状態を自省し、
自立性や自意識を強めていく様子が読み取れる。二人の力関係にも徐々に 変化が現れる。ベッティーナには虚無や孤独から抜け出し、精神の自由を 保つためには、社交や都市生活が是非とも必要だった。アルニムが文学創作 において非生産的になり、田舎に閉じこもりがちになると、それだけ一層 ベッティーナの芸術への衝動は強まった。夫婦の葛藤が深刻化し、別居状態 は増えていくが、それはそれぞれが生活に追われていた結果でもあった。
ベッティーナはまだ混乱の中にいたが、将来への展望をつかみかけていた。
1
Fritz Bttger: Bettina von Arnim. Ein Leben zwischen Tag und Traum, Berlin(Ost) (Verlag der
Nation Berlin) 1986 , S. 167
1.ゲーテ記念像の製作
建築家・画家シンケルとの交友がベッティーナに新たな展望を拓くこと になる。シンケルはベッティーナにそれまでの文学と音楽に加え造形芸術 への関心を呼び覚ますのである。
ベッティーナはミュンヒェン時代に造形芸術家たちとの交流があり、特 に将来を嘱望されていた画家ルーモアからスケッチの手ほどきを受け、造 形芸術の見方において多くを学んでいた。
ベッティーナは 15 世紀フィレンツェの巨匠たちから写実性と偉大さを学 び、それをその精神とともに自作に取り込もうとした。
ちょうどこの頃、ゲーテ記念像建立の話が持ち上がっていた。これはフ ランクフルトの市民たちが郷土出身の偉大な人物であるゲーテの 70 歳の誕 生日を称えるために計画したもので、シュルピス・ボワスレがデザインの 募集を行なっていた。 1821 年秋にこの話はベッティーナの耳にも届いてい たようだ。この案件はしかしなかなか進捗せず、ベルリンの彫刻家である ラウホの許に持ち込まれる。 1823 年秋にベッティーナはラウホのアトリエ で最初の構想に基づいたモデルを見たが、彼女にはそれが「ガウンを着た ご隠居」
2にしか見えず、何とも気の抜けた駄作としか思えなかった。そこ でベッティーナは当代一流の彫刻家たちを相手に自らゲーテ像製作の競争 に乗り出す。
ベッティーナには、時代の偉大な目的に身を捧げたいという昔からの希 望が実現するように思われた。彼女はゲーテ像の製作にゲーテ崇拝の新た な目標を求める。この記念像製作にかかわっている間ベッティーナは自分 を苦しめるメランコリーから解放されるようであった。
1823 年 11 月1日付のアルニム宛書簡でベッティーナはここ数日で数多
2
Ibid., S. 174
くのスケッチを描き、ゲーテ像のデザインを完成したことを、
3その数日後 の書簡ではその出来栄えに自信を深めている様子を伝えている。
4このデザ インはベルリンの芸術家や専門家たちからも高く評価され、一般の人たち の注目を集めた。
ベッティーナはゲーテからゲーテ像製作の同意を取り付け、ゲーテとの 関係を修復するため、 23 年の大晦日に長文の手紙を書き始める。ベッティ ーナは後に『ゲーテとある子供の往復書簡集』( 1835 年)の中で、自作の ゲーテ像についてこう述べている。
創作されるゲーテは次のように表現されなければならなかった。それは 同時にアダムのようであり、アブラハムのようであり、モーゼのようで あり、法学者または詩人のようでもなければならず、単なる個人であっ てはならない。
5ベッティーナのデザインは次のようなものである。
石の玉座、オリンピアの吟遊詩人のような座り姿。被り物を付けていな い頭、乱れた髪、躍動的な衣装、高みへよじ登ろうとしている幼いプシ ケーは、預言者ダニエルのために本を持っている男児の姿として造形さ れている。
63
Vgl. ibid., S. 175
4
Vgl. ibid., S. 175
5
Ibid., S. 175
6
Ibid., S. 175
ベッティーナは上記のゲーテ宛書簡で、ラウホがこのデザインをえらく 気に入ったため、モデルを作らせ、そこから起こした石膏モデルをフラン クフルトへ送る予定であること、それが市民たちやゲーテ自身が気に入っ てくれたら、実物大のものを作る計画であることを書いている。
7これはベッティーナの勇み足で、実際には石膏モデルの製作には至らな かった。そこでベッティーナは別の彫刻家の助力を求め、石膏モデル作り を続行する。そして高さ約 60 cm のものが二基出来上がる。一つはフラン クフルトの芸術家仲間のためのものであり、もう一つはゲーテに見てもら うためのものだった。ベッティーナは 38 歳で彫刻家となった。そしてこれ からゲーテ記念像の完成のために闘うことになる。この石膏モデルは芸術 に関心のある同時代の人たちの喝さいを浴びた。
ゲーテ宛の手紙の返事はなかったが、ベッティーナは意を強くし、ゲー テとの関係修復にさらに一歩踏み込む。ゲーテとの断交のきっかけとなっ たクリスティアーネが 1816 年にすでに亡くなっていたこともベッティーナ の背中を押した。体調不良に苦しんでいたベッティーナは 1824 年7月にシ ュランゲンバートとラインラントへの湯治旅行に出る。そして、その際 にゲーテ訪問を計画する。彼女は石膏モデルとすべてのデザイン画を携え てヴァイマルに向かう。訪問は成功し、ベッティーナはゲーテから二度受 け入れられた。
二度目の訪問についてベッティーナはアルニム宛の手紙でこう報告して いる。
ゲーテは姿も態度も素晴らしかったわ。大きな崇高な威厳をもって私を 見送ってくれました。彼は私の頭に両手を置いて、下のような言葉で私
7
Vgl. ibid., S. 175
を祝福してくれました。彼は包みを解いたデザイン画を見つめていまし た。がしかし竪琴とプシケーが壊れていました。「この作品をお前は私 への一途な愛によって完成することができたのだ。そしてこれは愛を取 り戻すに値する。だから祝福あれ。もし神が私に許してくれるなら、私 が所有するすべての良きことがお前とお前の子孫たちに与えられんこと を」〔……〕彼は階段でも後ろから私に声をかけてくれました。「ごきげ んよう。それからアルニムにもくれぐれもよろしく」と。
8ベッティーナは胃痙攣に苦しみながらカッセル経由で記念像の設置地で あるフランクフルトに向かう。そこには旧知の仲であり記念像計画の委員 長を務める銀行家のベートマンがおり、妹メリーネの夫のグアイタがフラ ンクフルト市長の要職にあった。ベッティーナは大勢の有力者の力を頼み にすることができた。市としても同郷人が記念像を製作することは、歓迎 すべきことであった。ベッティーナの石膏モデルはフランクフルトのシュ テーデル美術館に展示された。1月 16 日には現地の雑誌にベッティーナの モデルを絶賛する長文の論文が掲載された。
9そのためラウホの第2案とベッティーナ案のどちらを採用するか議論と なった。委員にはフランクフルト出身のベッティーナの案を推す声が多か ったが、古典主義の専門家の意見では、ベッティーナ案は装飾的に過ぎ、
絵画やレリーフなら実現可能だが、右手に月桂樹の冠を持ち、左手に竪琴 を持つ姿は等身大の大理石の像として完成するには力学的に無理があると いうものだった。このほかベルリンでもさまざまな意見が述べられたが、
最終的にはフランクフルト市もゲーテもラウホ案を選んだ。ところが寄付
8
Ibid., S. 177
9
Vgl. ibid., S. 178
金が集まらず、決定の1年後にベートマンが死去する。ラウホも他の複数 の記念像の仕事で多忙となり、この計画は頓挫する。集まった寄付金はゲ ーテへのワインのプレゼントに化けた。
ベッティーナはその後も記念像実現を目指して石膏モデルに関わり続け た。臨終のときにもこれはベッティーナの傍らに置かれていた。この石膏 モデルはベッティーナの内面の最も深い経験から生み出されたものであ り、ゲーテへのひたすらな愛に貫かれたものであった。
2.シュライアーマッハーとの交流
財政難に苦しんだ 1820 年代もベッティーナはベルリン生活を諦めなかっ た。表向きは学齢に達する息子たちをベルリンの学校に通わせるためだっ たが、田舎に引きこもり人付き合いとおしゃべりを断念したくないという 気持ちも強かった。
1826 年末に三男のキューネムントが猩紅熱に罹ると、ベッティーナは上 の二人の息子をヴィーパースドルフに疎開させ、下の二人の娘を身辺から 遠ざけ、看病にあたった。
この頃新たな妊娠の兆候が表れ、ベッティーナは孤独と体調不良に苦し む。しかしそれ以上に彼女を暗澹たる気持ちにさせたのは、新たに子ども が増えることによって、ますます家事に縛られ、知的生活が追いやられて しまうことであった。それでも春先の体調の良かったときには、子どもた ちの勉強ノートに熱心に目を通したり、晩にランケと疲れを知らずに語り 合ったりする姿が見られた。
ベッティーナは即物的な生活に心身を擦り減らすほど、逆に周りの人た
ちから認められたいという衝動は強まった。他者との交わりによってベッ
ティーナの意識の限界は広がっていったが、精神状態はきわめて不安定で、
昂揚と沈潜の間を絶えず大きく揺れ動いていた。
例えば、 1827 年5月から6月にアウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲ ルの造形芸術の理論と歴史に関する講演が、そして秋にはアレクサンダ ー・フォン・フンボルトの自然と哲学に関する講演が催され、ともに大評 判となったが、ベッティーナはこれらに全く関心を示さなかった。聴きに 行くだけのお金も意欲もなかったためである。
ベッティーナは自由主義神学者のフリードリヒ・ダーニエル・シュライ アーマッハー( 1768 - 1834 )を最も偉大な人物と見なした。シュライアー マッハーはプロテスタントの神学者・哲学者であり、教授としてベルリン 大学で教鞭を執っていた。また、三位一体教会の牧師としてその説教は多 くの人たちの人気を集めていた。ベッティーナは彼の人文主義的な新しい キリスト教観に共感を覚えるところがあった。彼女は彼の説教に知的な刺 激を受け、彼の許に足繁く通うようになる。そして息子たちを彼の授業に 通わせる。
シュライアーマッハーはアルニムと旧知の仲であり、ベッティーナがベ ルリンで生活するうちに交流が深まった。二人は親称の du で呼び合う仲 であり、恋愛関係にあったのではないかと噂されていたが、ベッティーナ 自身が確信的なことを何も書き残していない以上、本当のところは想像の 域を出ない。
以下は主にベッティーナ自身が書き残した文章を基にまとめた二人の関 係である。
シュライアーマッハーは来客の応対に忙しく自分の時間も取れないほど
だったが、ベッティーナは毎日のように彼を訪ねて行き、床に直にまたは
背もたれのない腰掛に座り、心にかかる問題について議論し合った。シュラ
イアーマッハーの話には機知や知性があふれていた。会話の際にベッティー ナが調子に乗って大はしゃぎすると、シュライアーマッハーはこう言った という。「神様が一番上機嫌だったときに、おまえを創ったのだな。」
10シュ ライアーマッハーは初対面の時からベッティーナに好意的で、彼女の本質 を見抜いていた。
シュライアーマッハーが 53 歳、ベッティーナが 35 歳だったとき、シュ ライアーマッハーの奥方が座をはずした隙に彼はベッティーナに接吻しよ うとした。ベッティーナは巧妙にしかもきっぱりとこれを撥ねつけた。
シュライアーマッハーは 56 歳のときにベッティーナを通りで見かけると 後を追ってきて、彼女にもっと親密な関係にならないかと尋ねてくること がたびたびあった。ベッティーナはこう答えたという。「あなたはまだ若 すぎるわ。 60 歳にならなきゃ駄目よ。」
114年後の誕生日にその話が持ち出 されると、ベッティーナはあれは冗談だったと言って一蹴している。シュ ライアーマッハーもこのことでばつの悪い思いをすることもなかったとい う。シュライアーマッハーも必ずしも本気だったわけではなく、ベッティー ナとの他愛のない会話を楽しんでいたのかもしれない。
カントやフィヒテの哲学を批判的に継承するシュライアーマッハーは、
キリスト教の中身を損なうことなくそこから超自然的な形式を取り除こう としていた。シュライアーマッハーが説教壇から語った内容にベッティー ナが疑義を申し立てても、それが正しいと判断したときには、公衆の前で あろうが即座に自分の非を認めた。宗教全般に懐疑を抱いていたベッティー ナには彼のこのような公明正大さが好ましかったのだろう。
10
Bettine von Arnim: Aus meinem Leben. Ein Lesebuch von Dieter Khn, Frankfurt am Main
(Fischer Taschenbuch Verlag) 2009 , S. 344
11
Ibid., S. 345
二人の親密さはベッティーナ自身が残している次のような文章からも窺 える。
毎週金曜日に彼はギリシア協会の集まりに出かけました。私は彼を家に 送り届けるために、彼を迎えに行きました。なぜならそうすれば、彼に 時間を取らせることなく、彼と話ができたからです。そのとき私たちは 奇妙なことをたくさん話しました。誰がこれを再現できるでしょう。ど んな躊躇いによってもせき止められない熱狂のちょっとした塩分が私た ちの中で沸き起こったときには。私たちはお互いに愛し合っていました。
なぜなら私たちは精神とその影響を感じていたからです。手に手を取っ て私たちは暗い夜または月明かりの下長い道を歩きました。しばしば私 たちは橋の上で立ち止まりそして、水に映る月を見ました。その間私た ちは何事かを話しました。そうして目的地に着くと、彼は私の両手にキ スし、私を胸に抱き締めました。
12ベッティーナはシュライアーマッハーに対し母や妻や恋人や子どものよ うに振る舞った。二人の関係はシュライアーマッハーの妻も気がかりに思 うほどだった。ベッティーナがその気になりさえすれば、二人の関係は容 易にもっと親密なものに変わっていただろうが、ベッティーナは最大の理 解者であり庇護者である彼との気の置けない関係をあえて壊そうとしなか ったのかもしれない。別居生活が長くなってはいてもアルニムとは婚姻関 係が続いており、このことがベッティーナに行動の抑制を求めていたのだ ろう。いずれにせよベッティーナはアルニムとの結婚生活では得られなく なっていた心の安らぎをシュライアーマッハーとの関係に求めていたのだ
12
Ibid., S. 345 f
ろう。
1829 年にシュライアーマッハーが9歳の末息子を亡くしたとき、ベッテ ィーナは墓石に刻まれた彼の感動的な弔辞を書き写し、夫アルニムに送っ ている。
1830 年にパリで七月革命が起こると、シュライアーマッハーは自由主義 運動の先導者だとの評判を広められ、ベルリン警察の厳しい監視下に置か れることになる。彼はパリ行きを計画したが、これを実行に移せば、さら なる迫害を受けるかもしれないとの理由でこれを断念せざるを得なかっ た。
1831 年のコレラ禍においてベッティーナは彼から強力な後ろ盾を得る。
これについては後述する。
1834 年のシュライアーマッハーの死に際して、ベッティーナはピュック ラー宛の手紙で彼の臨終の様子こう伝えている。
彼は私を抱きこう言いました。おまえは私たちの間で起こったすべての ことによって私を幸せにしてくれた、と。この友人は死の時までこのよ うな友人であり続けました。—— このような友人はベルリンでは、ある いはおそらく世界でももう現れません。
13ベッティーナはシュライアーマッハーとの関係についてはこう書いてい る。
13
Bttger, S. 155
彼のそばにいると私の精神は刺激されこの上もなく独創的な認識へと高 められるのを感じ、そしてこれが最高の喜びでした。それから、私が自 分自身と出会うことにおいて進歩を遂げることができたことを彼に感謝 します。彼は私に対してとても良くしてくれました。この世における私 の全運命、日々の生活のあらゆる困窮、さらにはそれどころか私のいら いらした気持ちや私の貧しい心が私に引き起こす心痛を私は彼に伝える ことが許されました。〔……〕私はそれに頼らざるを得ませんでしたし、
彼以外に支えがありませんでした。その後ももう誰も見つけられないだ ろうということを私は知っています。
14また、ベルリンにおける盛大な葬儀について感動的に描写した後、シュ ライアーマッハーから学んだ物事や自分自身との向き合い方を次のように 述べている。
私たちは霊となる唯一の被造物です。ここ地上における私たちの霊的な 基礎能力はあの世における私たちの個性の根拠となっています。—— 学 問における、認識におけるこのような努力は、自己形成を続けていく感 覚的な衝動です。このような衝動が自分自身の中で生きていない人は、
衝動が止まった樹木が枯死するように、死んでしまいます。
15自己形成を続け、常に自分自身を乗り越えていくべしというシュライアー マッハーの教えはベッティーナにとってすべての行動の指針となっていく。
14
Ingeborg Drewitz: Bettine von Arnim, Romantik—Revolution—Utopie, Dsseldorf/Kln
(Eugen Diederichs Verlag) 1969 , S. 146
15
Bttger, S. 155
3.コレラ流行とベッティーナの社会活動
1831 年1月の夫アルニムの突然の死はベッティーナに激しい痛みをもた らした。しかし、その2、3ヶ月後には友人に宛てて次のように書いてい る。
私は幸せです。神様が私の溢れる涙で私のみすぼらしい汚れた衣装を洗 い清めてくださろうとしたのですから。〔……〕私は幸せです。私は故 郷に、自分自身の心に戻ることができたのですから。というのも〔……〕
彼の死という犠牲が悪いそして間違ったさまざまな性向を私から取り除 いてくれたのですから。
16ここには夫の死の悲しみの中に安堵にも似た希望の光を感じ取ることが できる。ベッティーナは夫との別居生活も長かったため、夫を亡くした喪 失感や痛みは彼女の日常生活を大きく変えるものではなかった。ベッティー ナは夫を亡くした悲しみに落ち着いて耐えた。義兄サヴィニーがアルニム 夫妻の子どもたちの後見役となり、教育も続けられた。ヴィーパースドル フの領地は長子のフライムントに相続され、農地は小作人に課された。ベッ ティーナはアルニムの遺稿を管理し、全集の編纂をヴィルヘルム・グリム に依頼した。これはベッティーナの決定的な助力によって 1839 年から 57 年の間にそれぞれ約 20 巻からなる3種類のアルニム全集として世に出るこ ととなる。
1831 年夏にベルリンでコレラが大流行したとき、ベッティーナの新たな
16
Konstanze Bumer/Hartwig Schultz: Bettina von Arnim, Stuttgart/Weimar(Verlag J.B.Metzler)
1995 , S. 60
道が拓かれる。彼女はベルリンの貧民問題に関わることになる。ベッティ ーナは夫の死を乗り越え、新たな発展段階に入っていく。内面の自由の追 求というそれまでの目標に、社会問題に対する関心が結び付くことになる。
1807 年のティルジットの和約の後、フランス占領下のプロイセンでは宰 相シュタインとハルデンベルクによる近代化は始まっていたものの、ウィ ーン会議によって広大な領地を獲得したプロイセンの内部では中央集権的 な国家体制が重大な問題に直面していた。プロイセンはザクセン北部、ラ インラント、ヴェストファーレン王国を獲得することにより経済大国とな ったが、豊かな工業地帯であるラインラントを含むエルベ川以西の地域で は、フランスの影響が強く、都市の自治意識が旺盛だった。そこではプロ イセン王を頂点とする中央集権的な国家体制に取り込まれることを潔しと しない市民階層が増大していた。シュタインやハルデンベルクの下で農奴 解放やユダヤ人の解放、ギルドの特権廃止といった自由主義的な改革も行 われたが、 18 世紀末にイギリスで始まった産業革命による産業構造の変化 への対応が遅れ、社会不安が増大しつつあった。
産業革命は地方の家内工業や手工業に大きな打撃を与えた。マニュファ クチュア生産によって職を失った手工業者や、農奴解放によっても土地を 得られず日雇いや奉公人として極貧の生活へ陥る者が増えていった。職を 求めて都市に向かう者たちが増え、市の城門の外に定住し、貧民地区を形 成し始める。都市の内部でもギルドの特権廃止という改革が行われ、職業 選択の自由は広がったものの、失職し生活を持ち崩す者も多く、貧困問題 が深刻化しつつあった。大陸封鎖による物価の上昇とカールスバートの決 議以降の反動勢力の巻き返しにより、上からの自由主義的改革が不徹底に 終わり、制度の整備も追いつかない状況だった。
シュライアーマッハーが家宅捜索を受け教会での説教は監視された。体
操の父ヤーンが逮捕され、多くの書籍が発禁となった。自由主義者やナシ ョナリストにとっては息が詰まるような 20 年代が続いていた。
コレラは露土戦争で発生し、ロシア経由で西に拡がり、ヨーロッパで大 流行した。コレラはヨーロッパでは未知の感染症であったため、ユダヤ人 が泉に毒を撒いたせいだといった荒唐無稽な説明が様々になされた。コレ ラ蔓延の前からベルリン市当局は物乞いの撲滅や貧民地区への秩序の導入 などに取り組み始めてはいたが、貧民問題には総じて及び腰だった。貧民 地区の不衛生で劣悪な住環境がコレラ蔓延の原因との説もあった。市当局 は感染者の出た家を囲い込み、検疫を実施し、交通も制限したが、どれも 不徹底に終わり、感染拡大を食い止めることはできなかった。有効な治療 法もなく、医師たちは病気の予防に終始し、ありとあらゆる薬が試された。
多くの住民がベルリンを離れ、旅に出た。ベッティーナも子どもたちをフ ランクフルトの親戚に預けたが、ベッティーナ本人はベルリンに留まり、
患者の世話や貧民の救済に乗り出す。
ベッティーナが後の 1847 年に被告として臨んだ自身の裁判において、コ レラが蔓延した 31 年当時のベルリンがいかに酷い状況で、自分がどれほど 懸命に現実と闘わざるを得なかったかを訴えている。
コレラは下層階級に最大の打撃となっていた。ベッティーナはコレラと 闘うだけでなく、病人たちがさらされていた諸問題にも気づき、社会的支 援の必要性を痛感するに至った。
ベッティーナは医学の知識を家庭医のカール・ヴォルファールトから得
ていた。彼はメスメリスムの熱狂的な信奉者としてベルリンでも有名だっ
た。ベッティーナは自然療法、ホメオパシー(同種療法)、動物磁気療法
の信奉者だった。いずれも当時流行していたもので、その有効性ははなは
だ疑わしく際物扱いするものも多かったが、コレラに対する有効な治療法
がなかっただけに、藁にもすがる思いでこれらに飛びつくものも少なくな かった。裕福な家では塩素蒸気による消毒が行われた。世間ではさまざま なものが特効薬として取り引きされた。ベッティーナはベラドンナに予防 効果があると考えた。ベッティーナ本人も全く予想していなかったことだ ったが、ある朝、ベルリンのありとあらゆる同業組合に属するプロレタリ アートが慈善で配られるベラドンナを求めて、夜明け前からベッティーナ の家の玄関前を取り囲んでいた。ベッティーナはそれまできわめて閉鎖的 な同業組合に大いに手こずっていたため、この展開は誠に意外だった。こ の薬がどの程度効き目があったのかはわからないが、薬を摂取した組合員 からは一人も感染者が出なかったとしてベッティーナは後に同業組合の代 表団から感謝の言葉を得た。
薬以上に重要だったのは、衣服、宿所、食料の問題だった。ベッティー ナは他の夫人たちと協力して慈善事業を組織し、募金活動によって衣料品 や食糧品の調達と分配に取り組んだ。 47 年のベッティーナの裁判用のメモ には次のように記されている。
彼女〔ベッティーナを指す。原文は客観性を持たせるため、三人称で書
かれている。〕は買い出しと物資の調達を引き受けました。……修道院
通りの靴の市場はちょうど荷造りの最中でした。一人のご婦人(クライ
ン嬢、絵描き)が同行していました。私は最初の店で靴全部を貧しい人
たちのために1足当たり6 sgr.〔ジルバーグロッシェン〕でゆずってく
れないかと尋ねました。取引はすぐにきまりました。スタンドから竿が
外され、何人かの男の子がまるでカナンの男たちが大量のブドウの房を
運ぶよう靴をびっしりぶら下げた竿を肩に担いで私の前に立って進みま
した。このようにスタンドからスタンドへ進み、とうとう市場はすべて
買い占められました。それらをこの値段で貧しい人たちに引き渡すこと
に抵抗する人はいませんでした。まもなく1台の馬車にそれらが積み込 まれました。夜になっていました。私たち二人は疲労困憊して馬車に乗 り込み、取り引きの成功に意気揚々とサヴィニー邸の既製品を治める倉 庫に乗り付けました。
17靴職人に提示した工賃が受け入れられなかったときに、ベッティーナは 自分の家に工房を創り、 24 時間以上市内に留まることを許されていない貧 しい靴職人を大勢雇い入れて仕事をさせた。
以前から交流のあったシュライアーマッハーがベッティーナの社会活動 に大きな力を与えた。シュライアーマッハーの許には救済を求める貧民か らの大量の手紙が届けられた。彼はそれらを定期的にベッティーナにもた らした。
シュライアーマッハーの大きな後ろ盾があったとはいえ、ベッティーナ の活動をキリスト教精神から来るものと考えるのは誤りだろう。ベッティ ーナ自身はカトリックの家に育ったが、キリスト教のどの宗派に対しても 批判的であり、特定の信仰心は持っていなかったからである。彼女の行動 は市民としての義務感から生じたもので、弱者の存在を見過ごすことので きない人類愛に支えられたものである。
ベッティーナは貧困の実態を知っただけでなく、同業組合(ツンフト)
の私利私欲や教会の慈善活動の胡散臭さも目の当たりにした。
シュライアーマッハーは貧民問題への助言者として有名な市参事会員の 名前と住所をベッティーナに教えた。この男は毛織物会社の支店を持ってい るから、ここから毛布を安く買い付けるようにと助言したのである。ところ がこの男はとんだ食わせものだった。ベッティーナはこう書き残している。
17
Bttger, S. 198
彼女がこの倉庫の中で目当ての品を求めると、こう言われました。在庫 切れだ。コレラのせいですべて買い取られた。だが男はもう数百点を調 達しようと約束しましたが、売値があまりに法外だったので、彼女はす ぐにくるりと背を向けドアに向かいました。参事会員は彼女の後を追い、
こう断言しました。あなたはこのような毛布はどこに行っても見つけら れないでしょう。これらは全域で売り切れなのですから。彼女はパタパ タと足を鳴らしてこう言いました。私は靴からほこりを振り落としてい るのよ。だって私はちゃんとした人の家にではなく、殺し屋の巣窟、貧 民の慈善行為にかこつけて私腹を肥やそうとする悪徳業者の巣窟に落ち てしまったのですから、と。後に彼女はゲオルク教会墓地にある毛織物 工場に行くように勧められました。そこでは毛布は見つかりませんでし た。それでも、衣服用の色とりどりの毛糸を大量に買い付けました。そ れらを売るためにすでに玄関ホールの中に建てられていたあそこの売り 場には何があるのですかと尋ねました。あれはすべて自分たちの倉庫に あった毛布ですよ。あれはすべて P 参事会員からの注文ですよ。これら の毛布は貧しい人たちのものです。彼女は工場価格を支払い、そしてす ぐに馬車の他の物資の間に積み込ませました。
18ベッティーナは貧民に対する連帯の気持ちから、個人の利益を越えて公 の領域に踏み出した。彼女は身の周りに起こっているさまざまな問題に気 付き、自分に可能なことを勇猛果敢に行なった。しかしそれらの現象に潜 む根本的な問題にまでは思い至っていなかった。
評伝作家のベットガーはベッティーナの行動をおおよそ次のように解釈 している。
18
Ibid., S. 200
食料品や日用品を安く買い求めたり、病人の看護にあたったりすること は伝統的に女性の役割とされており、ベッティーナもその点では女性に求 められる役回りに忠実に従ったのである。ここから病人や貧民のための施 設を創設することも不可能ではなかったが、ベッティーナはこの道を取ら なかった。それはもっと別の、人類にとってもっと意味のある分野で社会 に貢献したいと考えたからである。コレラ流行の際の行動は、今後本格化 するベッティーナの社会活動の一つの逸話にすぎない。
19コレラは 31 年の冬までに 1 , 426 人の死者を出して終息した。これが今後 展開されるベッティーナの社会活動の始まりであった。
4.シンケルを支援する
アルニム夫妻とカール・フリードリヒ・シンケル( 1781 - 1841 )は特に 親しい間柄で、シンケルはフリートムントの代父でもあった。夫妻は彼を
「すべての人たちの中で最高の人物」
20と述べ、ドロテーエンシュタットの シンケルの家で開かれる晩の集いにベッティーナとクレーメンスは頻繁に 出かけていった。
解放戦争後、社会の雰囲気が変化し、 30 年代には日常生活や文化・芸術 にも新たな規範が求められるようになる。ベッティーナは、偉大な古典主 義の時代はゲーテの死によって終わったと感じた。これは当時の多くの詩 人や芸術家も抱いていた感慨であった。ベッティーナは退潮する文学に代
19
Vgl. ibid., S. 201
20
Hermut Hirsch: Bettine von Arnim, Reinbeck bei Hamburg(Rowohlt Taschenbuch Verlag)
1987 , S. 118
わって絵画や彫刻が芸術の主流になると考えた。ベッティーナはベルリン で催されるすべての展覧会に足を運び、多くの画家や彫刻家と交流を持っ たが、とりわけシンケルとの交友を通してこの考えを強めるに至った。解 放戦争後、プロイセンではシンケルの下で王都ベルリンの再建が進行して いた。シンケルの建築物は古代ギリシア・ローマに範を求めながら、決し て反動的にならず、端正な美しさをたたえている。ベッティーナはしかし 建築家としてのシンケルより、画家としてのシンケルを高く評価していた。
彼女はシンケルの大きな風景画に、当時のベルリンで流行していた自然の 模倣を超える魅力を感じた。そこには見事な構成力と詩的な想像力が感じ られ、描かれる対象に神秘的な神々しさを与えていると思った。
1826 年にベルリンを訪れたスウェーデンの女性ジャーナリストのジルフ フェアシュトルペは、ベッティーナが著名な詩人の妻であり多くの子ども の母でありながらシンケルと「常軌を逸した」
21付き合いをしていることに 驚嘆している。
当時、王都ベルリンの再建に多額の資金を投入していたプロイセンは、
芸術支援から徐々に手を引き、芸術活動に出資を渋り始めていた。この影 響は、遊歩庭園に建造される予定だったシンケル設計の博物館にも及んだ。
必要とされた高価な資材の使用が却下され、数多くの円柱がひときわ目を 引く正面の、入り口の間
まを飾るはずだった壁画の製作も撤回された。この 芸術への無理解に怒りを感じたベッティーナは、抗議の論文を書き、ピュ ックラーが出版しようとしていた本に匿名で投稿する。 1834 年、これがベ ッティーナの作家デビューとなる。シンケルの作品は裸体表現によって物 議をかもすことがあった。 1823 年に製作が始められたスケッチは、完成す
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Drewitz, S. 124
ればシンケルが設計する博物館の入り口の間を飾る壁画となり、またシン ケルの「画家としての最晩年の代表作」
22ともなるはずだった。ベッティー ナもスケッチを提供するなど、画家として制作に協力していた。ところが この作品も裸体表現が問題とされた。
国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世を公然と批判することははばから れたため、ベッティーナは間接的なやり方を取る。それは、ヴァイマルの カール・アウグスト公を芸術の守護者の模範としてほめたたえ、プロイセ ン王をカール・アウグスト公になぞらえることによって同様の役割を果た すように王を仕向けるというものだった。ベッティーナはこう書いている。
ポエジーに酔って人生により高い跳躍を、より高い意味を与えることが、
ゲーテの時代の条件であったように、現時点においては造形芸術を盛り 立てることが、理想的な教育のために調達されうるすべてを造形芸術の ために役立てることが条件であるように思われる。つまりそれゆえ本物 の芸術としてこの精神を実現するものを自分自身の中に受け入れるこ と、そしてこの理念の新しいことを否定するのではなく、ともに感じる こと、ともに発展させることも、この時代の努力でなくてはならない。
23シンケルのような規格外に偉大な芸術家が現れれば、そこには一般の人 たちが集まり学ぶ芸術の学校が形成される。博物館の入り口の間にシンケ ルの二枚の壁画が描かれれば、若い修業中の芸術家が勉強のためにイタリ アに行く必要もなくなる。ベッティーナはこう訴えている。
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Hirsch, S. 118 f
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Bttger, S. 246
それ〔博物館〕はどんな魅力を私たちの町にさずけることだろう。芸術 の町としてどれほど高い地位をそれはこの町に与えることだろう。それ はこの町を訪れる客たちにとってどれほど魅惑的なことだろう。
24ベッティーナの呼びかけが優柔不断でけちなフリードリヒ・ヴィルヘル ム三世を動かすことはなかった。しかし、 1840 年に新王フリードリヒ・ヴ ィルヘルム四世が即位すると、状況が変わった。壁画の製作が再開され、
この仕事はナザレ派の画家コルネリウスとその弟子たちによって引き継が れた。 1844 年に入り口の間の左側の壁画が、 47 年には右側の壁画が完成す る。シンケルは製作が再開されたとき、半盲で体も麻痺していた。彼は製 作再開の翌年に「精神錯乱」
25でなくなっている。
この二枚の壁画はもはや存在しない。第二次大戦中の空爆によって博物 館が破壊され、戦後の再建時もこの壁画が復元されることはなかった。
ベッティーナの呼びかけは、王自身だけでなく、側近たちや芸術政策の 権限を持つ役人たちにも向けられた。市民による新たな芸術にベッティー ナは大きな関心を持ち、例えば、病気の画家ブレッヒェンをも精力的に支 援している。
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Ibid., S. 247
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