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ベッティーナとアヒム・フォン・アルニムの結婚

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ベッティーナとアヒム・フォン・アルニムの結婚

山 下   剛

1.アルニムとの出会いとその後

居心地の悪いフランクフルトの実家で理解者もなく根無し草のような生 活を続けていたベッティーナ・ブレンターノ( 1785 − 1859 )は、ギュンデ ローデとの交友によってようやく心の安定と生きる喜びを見出していた。

ちょうどその頃、 1802 年 6 月初め、アヒム・フォン・アルニム( 1781 − 1831 )がフランクフルトにやってくる。アルニムは大学での勉強を終え、

兄ピットと二人で大旅行の途上にあった。貴族や大商人の家では教養完成 のため子弟にこのような旅をさせる伝統があった。クレーメンス・ブレン ターノ( 1778 − 1842 )とアルニムはこの前年にゲッティンゲン大学で知り 合っていた。アルニムは法学、物理学、数学を専攻し、特に物理学の分野 で注目されていたが、クレーメンスと知り合ってからは文学にも急激に関 心を向けるようになっていった。アルニムは兄との旅行を一旦中断し、ブ レンターノと二人でライン・マイン川旅行に出るために、当地で落ち合っ たのだった。

二人はオッフェンバッハにベッティーナを訪ね、このとき 17 歳のベッ ティーナはアルニムと初対面を果たしている。ベッティーナはアルニムに 乙女らしい恋心を寄せたが、このとき二人の仲にそれ以上の進展は見られ なかった。ベッティーナは二人が船出するとき、フランクフルトの船着き 場まで同行し、後にクレーメンス宛の手紙でそのときの二人の姿を面白お かしく生き生きと描写している 。

アルニムはとてもだらしなかったわ。オーバーはだぶだぶで、袖の糸は

(2)

ほころびているし、旅行用の杖は節くれ立っていて、帽子はぼろぼろで 詰め物の藁が半ば脇から飛び出していたのですもの。お兄さんはとても 洗練されていて優雅だったわ。豊かな黒い巻毛に赤い帽子をちょこんと 被り、とても細いパイプを持ち、ポケットから素敵なタバコ入れを取り 出していたわ

1

。 

ブレンターノとアルニムはこの時代の愛国的な気分に従い、民謡やメー ルヒェンの収集に乗り出そうとしていた。これは 1805 年と 08 年に『少年 の魔法の宝角

たからづの

2

三巻本の出版として結実することになる。 

アルニムは大旅行の途上 1803 年にパリに滞在した後、プロイセンへのつ ながりを強める。プロイセンの貴族として国家への忠誠心をどのようにし て表すべきかに思い悩むようになっていく。 1804 年、旅行中に父が死去し、

アルニム自身も生死にかかわる肝炎でイギリスに足止めを食った。兄ピッ トとの仲もしっくりいかなかった。同年夏、アルニムは祖母の領地ツェル ニコフで療養した後、秋にベルリンに落ち着く。 11 月にブレンターノが民 謡集の作業を進めるためにハイデルベルクから合流し、交友が再開する。

1

IngeborgDrewitz:BettinevonArnim,Romantik---Revolution---Utopie,Dsseldorf/Kln

(EugenDiederichsVerlag) 1969 ,S. 24

2

日本では『少年の魔法の角笛』という訳語が一般化しているが、この民謡集に収めら れた挿絵や冒頭部に掲載されている民謡には「角笛」ではなく、レバーを押すと鈴が 揺れきらきらした音が出る「吹奏楽器ではない楽器としての角」や、無尽蔵に食物や 宝物が溢れ出す「豊穣の角」が描かれている。ただ、ドイツ語圏でも「角笛」という 誤認が広まっているため、本稿では「角笛」のイメージも含めた上で「宝角

たからづの

」という 訳語をあてる。なお、ブレンターノと民謡集の関りについては、拙稿:クレーメン ス・ブレンターノと『少年の魔法の宝角』。日本独文学会編「ドイツ文学」 86 ( 1991 )、

60 − 70 頁参照。

(3)

二人は熱心に集中的に仕事にあたる。ブレンターノは6月の第一子の死か ら立ち直り、アルニムも気を取り直して作家活動に復帰する。このベルリ ン時代はブレンターノとの共同作業も上手くいき、幸せな時代だった。 

1805 年にアルニムは、ブレンターノと別れ、スイス・北イタリア旅行へ 出かける前、『少年の魔法の宝角』出版の手はずを整えるため、二、三ヶ 月にわたって二度目のフランクフルト滞在を行ない、ベッティーナとたび たび近場へ遠足に出かけるようになる。

あるときアルニムはギュンデローデが住む施設を訪れ、ベッティーナと ギュンデローデを夕べの散歩に誘った。一行は突然の雷雨に襲われ、ベッ ティーナとギュンデローデは薄い壁一枚隔ててアルニムと一つ屋根の下で 一夜を明かすことになる。女性二人は美男で気品のあるアルニムに夢中に なっていた。二人は夜中に興奮のあまり喧嘩となった。互いに相手の気持 ちを察し、相手にアルニムを押し付けようとしたのである。翌朝、喧嘩の 中身がアルニムに筒抜けだったことを確信したベッティーナは、アルニム と顔を合わせるのが気まずかった。アルニムも気を利かせて、野で摘んだ 勿忘草

わすれなぐさ

を花束にしてベッティーナに手渡した。ベッティーナはアルニムか ら頼まれ右手袋の親指にできた穴を繕ってやったが、もう片方は記念のた めに本人には内緒で我が物とした。 

翌年秋、ベッティーナは義兄サヴィニー夫妻の最初の子ども、同名のベ ッティーナの洗礼式にアルニムとともに立ち会い、二人で代父母となって いる。アルニムはブレンターノ家に受け入れられ、孤独を紛らわした。

ブレンターノはアルニムと妹を結婚させることによってこの友人との絆

をさらに強固なものにしたいと考えるようになる。ベッティーナとアルニ

ムの間には惹かれ合う気持ちはあったが、それはまだ恋愛と呼べるほどは

(4)

っきりしたものではなかった。アルニムは物理学の出身らしくベッティー ナの本質を「火と磁力」の「高度な合体」と呼んで、彼女の中に自分とは 相反する資質を感じ取った。

3

ブレンターノが読んでみるようにとベッ ティーナの手紙を送ったとき、アルニムはこう書いている。

彼女は永遠に自分自身によってのみ楽しくなれます、そして悲しくも。

僕たちの諸力はすべて逆方向を向いています。〔……〕(彼女の本性は)

芸術へと登っていきます、そしてこの活動の中でしか落ち着きを見出さ ないでしょう。

4

〔( )は筆者〕

アルニムはベッティーナの音楽の才能にもはっきりと気が付いていた。

1806 年1月のブレンターノ宛の手紙には次のように書いた後、歌曲集を作 るように彼女に求めている。

ハ長調の歌を一曲完全に完璧に演奏できることの方が、体系的にすべて の歌をハ長調に定めることよりずっと素晴らしい。一つの歌をきれいに はっきりと書き留めることの方が、 10 の歌を漫然と作曲するよりずっと 素晴らしいことだ。このことを彼女に教えてやってほしい〔……〕。

5

この頃から二人の間では信頼のおける友人同士として長く緊密な文通が 始まる。 

3

Drewitz,S. 26

4

Ibid.S. 26

5

Ibid.S. 37

(5)

フランクフルトの実家では何としてもベッティーナを結婚させようとあ りとあらゆる努力がなされていたが、ベッティーナはそのような現実には 背を向けて、一切耳を貸さなかった。 1803 年 11 月の兄クレーメンスとゾ フィー・メローとの結婚にも批判的で、翌年4月の姉グンダとサヴィニー の結婚にも複雑なものを感じていた。

2.アルニムの失恋

1806 年 10 月、イェーナ・アウエルシュタットでのプロイセンの敗北の 後、アルニムはまたプロイセンの現状を座視することができなくなる。プ ロイセンの軍隊に志願するか、官途を求めるか、このまま作家活動を続け るかに葛藤を深めていく。民謡収集においても非政治的なブレンターノと の意見の違いが大きくなり、彼に対するいら立ちが募っていった。アルニ ムは想像力の疲弊を感じ、落ち着きをなくしていった。焦燥感がアルニム をケーニヒスベルクへ向かわせる。そこにはプロイセン王宮が逃げ込んで おり、祖国を立て直そうと高官たちが日々方策を探っていた。アルニムは 商業顧問官シュヴィンクの家に住み、改革者たちと盛んに交流した。彼は シュヴィンクの娘アウグステに恋をし、妻にしようと考えた。しかし彼の 求婚は受け入れられず、ティルジットの和約( 1807 年7月)の後、作曲家 ライヒャルトとともに 1807 年9月末ケーニヒスベルクを去る。アルニムは この顛末をベッティーナ宛の手紙に綴り、こう付け加えた。「やはりあなた に護られているときにだけ私は安らぎを感じます。」

6

ベッティーナからの返 信はなかった。

アルニムの失恋の1ヶ月後に、ベッティーナは憧れのゲーテと初対面を 果たしていた。ベッティーナはゲーテに夢中で、アルニムのことは脇に押

6

MichaelaDiers:BettinevonArnim,Mnchen(DeutscherTaschenbuchVerlag) 2010 ,S. 100

(6)

しやられていた。 

1807 年末に二人はヴァイマルで再会する。ちょうどオーストリアがフラ ンスに宣戦布告した後で、ヴァイマルに集結したブレンターノ一族とその 仲間たちはゲーテの大歓迎を受け、『少年の魔法の宝角』が絶賛される。

その後、一行はクリスマスをカッセルに住むベッティーナの義弟ヨルディ ス夫妻の許で過ごしている。この地でアルニムはグリム兄弟と知り合い、

生涯にわたる交友が始まる。プロイセンに失望してケーニヒスベルクを離 れたアルニムは、民謡集の第二巻を用意していたブレンターノとも再会し、

彼へのわだかまりも解消した。ベッティーナとアルニムの間ではこの頃か ら親称の du で呼び合うようになる。 

1808 年1月、アルニムはハイデルベルクへ移住し、ミュンヒェンとラン ツフートに住むベッティーナとの間で手紙が行き交うことになる。二度目 の妻アウグステとのスキャンダルの後、ブレンターノもハイデルベルクに 戻り、二人の盟友は机を並べて仕事を進めた。この年ハイデルベルクで発 刊された「隠者新聞」は俗物論を巡るフォスとのスキャンダラスな論争の ために短命に終わったが、アルニムはベッティーナにこの新聞への協力を 求めたり、短編小説集『冬の庭』( 1809 年)を献呈したりして、ベッティ ーナへの密かな思いを伝えようとした。ベッティーナは新聞が廃刊に追い 込まれても心が折れないアルニムを誇らしく思ってはいたが、アルニムの 思いには気付かぬままだった。ギュンデローデの死の二年後、アルニムは 現場となったヴィンケルにベッティーナを訪ね、慰めの言葉を手紙に綴っ たが、

7

それはベッティーナとギュンデローデの深い友情を理解していない

7

Vgl.Drewitz,S. 38

(7)

ものだった。アルニムに対するベッティーナの不信が募った。 

その頃のベッティーナはミュンヒェンでティークに熱を上げ、その後ラ ンツフートではサヴィニーの学生であるフライベルクとも親密な関係にな っていた。しかし、ベッティーナは自分自身を束縛する結婚に嫌悪を抱き、

どの男性とも特別な関係を結ぶことはなかった。ベッティーナはケーニヒ スベルクへ向かったアルニムの身の上を案じてはいたが、それは恋愛感情 と呼べるものではなかった。ベッティーナはフライベルク宛の手紙の中で こう書いている。

しばしば私はアルニムに言いました。もしもあなたが出征するなら、私 もついていきます、と。彼はそれを彼への愛ゆえのことと考えました。

事実それはそうでしたが、しかしそれ以上のことだったのです。

8

アルニムに対してベッティーナが抱く感情はもはや愛とか情熱といった ものではなく、反ナポレオン支配の感情で一致した信頼感、連帯感のよう なものであった。ベッティーナは自分を広い世界に連れ出してくれる人物 を待ち望んでおり、アルニムにその期待をかけていた。しかしそれは必ず しも結婚という形を取る必要はなかった。アルニムの結婚観はベッティー ナのものとは全く異なっており、双方とも結婚に向かって積極的に歩み寄 ることにはまだ躊躇いがあった。

3.婚約、そして結婚へ

1809 年当時のアルニムがどのように見られていたかを示す興味深い言葉

8

Diers,S. 100

(8)

をヴィルヘルム・フォン・フンボルトが残している。

〔……〕アヒム・フォン・アルニム、あの宝角男は本気で公務に就きた がっているが、私は彼のことも考えてみた。しかし彼はフォスやヤコー ビと派手にやり合っていて、あんな毛皮の帽子を被り、あんな頬髯を伸 ばして、とても評判が悪いので、採用など思いも寄らない。

9

プロイセンの官途に登用されようとして行なったアルニムの働きかけは ことごとく失敗に帰した。また、作家活動も続け、それなりの反響を得て はいたが、今後も筆一本でやっていける自信も大きくなかった。 1809 年8 月末のアルニムのベッティーナ宛書簡において初めて結婚のことが話題に 上る。

僕はときおりこう思う。僕たち二人は一緒にどんな世界へでも行くべき ではないかと。でもそんな世界というのはどこにあるのだろう。そして 僕はほとんど疲れてしまう。もし僕が何らかの市民的な秩序に適合し、

一人の女性を養うことができるなら、僕たちは他の誠実な人たちのよう に三度教会に足を運び、客を招待し、食事を用意し、パンを焼き、結婚 することができるだろう。僕たちはお互いにまだ一度も結婚することに ついて、他の人たちなら普通は何から始めるのか、もっともらしく話す ことはなかったけれど、それでも僕はこう思うのだ。僕にとってと同じ く君にとってもこのような考えはとても馴染みの薄いものではない、と。

9

Drewitz,S. 68

10

FritzBttger:BettinavonArnim.EinLebenzwischenTagundTraum.Berlin(Ost) (Verlagder

NationBerlin) 1986 ,S. 126

(9)

これを書き出してみて僕が大いに奇異の念を抱いたとしても。

10

ここには結婚に対するアルニムの逡巡が読み取れる。一方のベッティー ナも、あらゆる束縛を嫌い、結婚は考えていなかった。 

結婚を巡る状況は 1810 年3月 10 日のアルニムの祖母の死によって思い がけない展開を見せる。

アルニムはブランデンブルク=プロイセンの貴族の家系に生まれたが、

辺境のユンカーのタイプではなく、学問や文学を愛する教養人だった。ア ルニムは誕生直後に母を亡くし、二歳年上の兄カール・オットー(ピット)

とともに祖母フォン・ラーベス男爵夫人の許に引き取られた。祖母はポツ ダムの裕福な商家の出身で、三度結婚している。祖母はアルニムに勤勉さ、

真剣さ、節約などの市民的な美徳を教えた。アルニムはベルリンのヨアヒ ムスタール・ギムナジウムに通い、成績優秀で表彰されている。父はコペ ンハーゲンとドレースデンの公使を務め、後には音楽の才能を見込まれベ ルリンの宮廷歌劇場の運営を任せられた。だが子どもたちの教育にはきわ めて冷淡であったため、アルニムは事実上両親無しで育ったも同然だった。

祖母は、最初の夫から相続した領地ツェルニコフの他にヴィーパースドル フの城付きのベアヴァルデの領地を獲得していた。年とともに頑迷で高圧 的になっていた祖母は、アヒムとピットには相続した領地を十分に責任を 自覚して扱うことができないと考え、遺言によってこれらの領地を将来生 まれてくるアヒムとピットの最初の子どもたちに相続させようと考えた。

アヒムとピットには所領の受託管理権だけが与えられた。これによりアヒ

ム・フォン・アルニムは何としても結婚し、子どもを設ける必要に迫られ

ることとなったのである。これらの領地は経営不振に陥り、負債を抱えて

いた。アルニムは貧しい田舎貴族に受け継がれた厄介な世襲財産の犠牲者

(10)

であった。

アルニムはベルリンのフォス伯爵夫人のサークルに出入りし、活発な政 治論議に加わった。アルニムは男性的な美しさと立ち居振る舞いの優雅さ で際立っており、ベルリンの社交界でも大人気だった。アルニムと知り合 った詩人のアイヒェンドルフが次のように書いている。

(彼は)とても背が高く、男性的な美しさがとても際立っていたので、

ある才気に富んだご婦人があるとき彼の姿と名前に熱狂して次の言葉遊 びを叫んだ。「ああ。彼の腕に抱かれたい(Ach,imArmihm!)」

11

だが、アルニムの心の中で結婚相手としてベッティーナの存在が現実味 を増し、自身の理想に反してベッティーナに求婚しようという気持ちが大 きくなっていった。 

1810 年8月、ベッティーナもサヴィニー一家とともにランツフートから アルニムが住むベルリンへ移住してくる。

1810 年半ばにブレンターノがアルニムに宛てた手紙には、ベッティーナ はアルニムとの結婚など考えたこともないと答えたことがあり、フライベ ルクと結婚するつもりでいると思う、と書いている。

12

11

Ibid.S. 120

12

Vgl.Ibid.S. 125

13

拙稿:ベッティーナ・フォン・アルニムとベートーヴェン。東北薬科大学「一般教育 関係論集」 29 ( 2016 )、 29 − 44 頁参照。

14

拙稿:ベッティーナ・フォン・アルニムとゲーテ。東北医科薬科大学「教養教育関係

論集」 31 ( 2018 ) 53 − 68 頁参照。

(11)

ベッティーナは 1810 年5月にベートーヴェンと知り合っており、

13

また ゲーテとの付き合いも深まっていた。

14

ベッティーナは何物からも自由で 自立した人間として音楽に身を捧げたいという気持ちも強くなっていたの である。

アルニムはベッティーナの返事を文書で取り付けようと考えたが、ベッ ティーナは曖昧な答えを返すばかりだった。

〔……〕私自身私や愛について何を知っているというのでしょう? 私 は、善良であり善い行ないをしたいという固い意志を持っています、他 の誰にも増してあなたに対して!〔……〕私たちは神を信頼し、神の思 し召しを待ちましょう。私たちはつかまり合って、離れずにいましょう

〔……〕。

15

業を煮やしたアルニムは、 1810 年7月 29 日にこう書いた。

僕に待て、待てと言うけれど、何を待てというのか、僕に教えてくれ。

僕は結婚しようと言っているんだ。いつ、どこでかって? すぐにだ。

君がピアノを持っているなら、動産はそんなにたくさんは必要ない。僕 には僕の書き物机がある。

16

ベッティーナはおそらく訪問先のテープリッツで心を決め、ゲーテに打 ち明けた。ゲーテは複雑な思いだったが、8月 13 日付の妻クリスティアー

15

Bttger,S. 125

16

Ibid.S. 125

17

Ibid.S. 125

(12)

ネへの手紙に、「アルニムとならきっと上手くいくだろう。」

17

と書いた。 

しかし婚約が成立するまでにはまだ紆余曲折があった。 12 月3日にフラ イベルクに宛てたベッティーナの手紙にはこう書いてある。

昨日アルニムが来ました。あなたの手紙を受け取った直後でした。私は 彼に、これはフライベルクからの手紙だと言いました。彼は顔面が紅潮 し、私を腕にきつく抱くと、目を伏せて尋ねました。君はいったい僕と 婚約しているのか、と。私は彼に尋ねました。決してゲーテに焼餅を焼 かないと約束してくれますか、そうしたら次の天気が好い日にあなたと広 い野原へ出かけ、あなたが望むことを何でも固く約束しましょう、と。

18

実際には、晴天を待たず、この手紙の翌日に婚約が成立した。

ベッティーナは 1810 年のクリスマスにゲーテに宛てた手紙にこう書いて いる。

12 月4日は寒く、ひどい天気でした。雪と雨と雹が交互に降ってきまし た。そのとき私はアルニムと婚約しました。戸外で、夜の8時半、とあ る中庭でのことでした。そこには背の高い木々が聳え、そこから風が私 たちの上に雨を振り落としました。それは偶然落ちてきたのです。

19

そしてこの手紙は、「あなた、私に死をつらいものにするただ一人のお

18

Ibid.S, 127

19

Ibid.S. 127

20

Drewitz,S. 83 f

(13)

方!〔……〕さようなら

、私の母のただ一つの遺産」

20

という言葉で締め 括られている。 

クリスマスにはサヴィニー夫妻とツェルターの立ち会いの下で婚約指輪 が交換された。ベッティーナはカトリックのヘートヴィヒ教会で、アルニ ムはプロテスタントの古い孤児院教会でそれぞれの婚姻予告が認められ た。

結婚式は、 1811 年3月 11 日、子どもの頃からアルニムを知っていた高 齢の牧師の家でひっそりと執り行なわれた。ベッティーナもアルニムも、

結婚式を俗物的な因習として忌み嫌ったからである。すべてはハプニング 続きの中、極秘で進められた。唯一の証人として牧師の妻が立ち会った。

この女性はベッティーナに流行遅れの、シルクでできた造花のミルテの花 冠を貸してくれた。この緑のシルクがベッティーナの黒髪によく映えた。

アルニムはこの日の晩もいつものように何食わぬ顔でサヴィニー一家の許 を去るふりをしながら、サヴィニー家に同居しているベッティーナの許へ 急ぎ、一夜を彼女の質素な、花で飾られた部屋で過ごした。二、三日後、

おしゃべりなベッティーナがサヴィニー夫妻に結婚式を挙げたことを打ち 明けると、夫妻は大いに戸惑った。新居はベルリンのヴィルヘルム通り、

フォス伯爵のお屋敷の裏手にあるガルテンハウスと呼ばれる小さな家であ った。結婚は出会いから9年後のことだった。ベッティーナは 25 歳になっ ていた。

二人の結婚はロマン派風の情熱に身を任せたものではなく、互いに対す る友情と共感と信頼によるところが大きかった。二人を結び付けたのは、

自然や芸術に対する愛、ゲーテ崇拝、反ナポレオンという共通の価値観で

あった。結婚は新たな愛の始まりだった。

(14)

本文中では言及しなかったが、執筆にあたって参考にした主な文献は次のとおり。

Bettine von Arnim: Aus meinem Leben, zusammengestellt und kommentiert von Dieter Khn, FrankfurtamMain(InselVerlag) 1982

Jetta Sachs: Mein Geist ist feurig... Bilderbogen um Bettine Brentano, Heilbronn(Eugen Salzer Verlag) 1987

Konstanze Bumer/Hartwig Schultz: Bettina von Arnim, Stuttgart/Weimar(Verlag J.B.Metzler)

1995

Bettine von Arnim: Aus meinem Leben. Ein Lesebuch von Dieter Khn, Frankfurt am Main

(FischerTaschenbuchVerlag) 2009

Bettine von Arnim Werke und Briefe, 4 Bnde, hrsg. von Walter Schmitz und Sibylle von

Steinsdorff,FrankfurtamMain(DeutscherKlassikerVerlag) 1986 - 2004

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