原著論文
Abstract
Das Ziel der vorliegenden Forschungsarbeit ist es, von einem Standpunkt, der Simmel als Reformer in Deutschland in der Zeit der Jahrhundertwende zum 20. Jahrhundert auffasst, durch eine Interpretation seiner in den Verhandlungen des Ersten Deutschen Soziologentages veröffentlichten “Soziologie der Geselligkeit” die Bedeutungen und die Möglichkeiten der Geselligkeit im Sport aufzuzeigen.
Die von Simmel beschriebene Welt der Geselligkeit ist ein Raum, in dem sich die Menschen mit einer Form der Rede als Selbstzweck vergnügen und gleichzeitig die ideale Welt eines demokratischen “Schattenreichs”, in der die Individuen sich nicht aneinander stoßen können, während sie von einem tiefen Verhältnis zur Wirklichkeit gespeist werden. Allerdings unterscheidet Simmel diese ideale Welt und die reale Welt klar voneinander. Der realen Welt wird die Tragik, dass der Einzelne für den Gesamtzusammenhang zu leben hat, sowie die Last der Sachforderungen einer modernen Gesellschaft aufgebürdet. Die Welt der Geselligkeit wird als ideale Welt fingiert, die sich von einer solchen realen Welt distanziert, aber gleichzeitig dadurch, dass sie die Verbindung zur realen Welt aufrechterhält, ein “Erlösen” von dem realen Leben sowie die “theōria” des Wesens der Realität ermöglicht.
Falls man dieser Simmels Geselligkeitstheorie folgt, dann kann man die Bedeutungen und die Möglichkeiten der Geselligkeit im Sport unter anderem im Folgenden finden: in der Erlösung der Menschen von der Wirklichkeit, die sie mit einer Über- bzw. Unterlegenheit der sportlichen Fähigkeiten, Sieg und Niederlage im Wettkampf, ernsthaften Diskussionen über Leitungsfragen oder dem Erfolg bzw. Misserfolg bei Wahlen konfrontiert, sowie darin, dass die Geselligkeit die Menschen dazu veranlasst, sich der verschiedenen Probleme im Bereich des Sports bewusst zu werden, für die repräsentativ die übermäßige Industrialisierung steht.
スポーツにおける社交の意義と可能性
-ジンメル『社交の社会学』読解-
1釜 崎 太(明治大学)2
1 Bedeutung und Möglichkeiten der Geselligkeit im Sport -Eine Interpretation vom Simmels “Soziologie der
Geselligkeit”-2 Futoshi KAMASAKI, Meiji University, School of Law, 1-9-1 Eifuku, Suginami, Tokyo 168-8555 Vol. 41(2019),No. 2,p. 101-113
はじめに 20 世紀転換期のドイツを生きた生の哲学者 ジンメルは,ふたつの意味で革新者であった. ひとつには「科学という称号が決して認められ ているわけではない」1)社会学の必要性を訴え, ウェーバーやテンニースらとともに,ドイツで はじめてとなる社会学者会議を開催している. よく知られているように,ジンメルは晩年によ うやく正教授の地位に就くなど,不遇な学者生 活を送ったが,その原因として,ユダヤ人とい う出自,彼自身の権威や伝統への反感,時事問 題を取り上げる斬新な講義スタイルなどと並ん で,この社会学の提唱が指摘されている.ジン メルは,哲学をはじめとする伝統的な学問観と は異なる,新しい社会学の手法に強い思い入れ を持っていたとみるべきだろう. ふたつめに,愛国主義が蔓延する第二帝政 期のドイツにおいて,敵国文化と批判されてい たイギリス生まれのスポーツを,ジンメルは日 常的に愛好し実践していた.例えば,教え子の ひとりであるランドマンは,当時の様子を次の ように伝えている.「普段から彼(ジンメルのこ と:引用者注)は,当時まだ目新しく,まとも な人間なら相手にしなかった自転車に乗って, 半ズボンで大学に出校した」2).この表現からは, ジンメルのスポーツへの愛着と同時に3),ドイ ツで受容されはじめたばかりのスポーツが,好 奇の目でみられていた事実も窺い知ることがで きる.こうしたスポーツへの冷たい視線の存在 にもかかわらず,娘のハンス・ジンメルが振り 返っているように4),叔父から莫大な遺産を受 け継いだジンメルは,自宅にテニス場をつくっ て,男女の交流の場とみなされていたテニス場 での社交を楽しんでさえいたのである. これら日本のスポーツ研究においては看過 されてきたジンメルの革新的な態度に着目して いるのが,アイゼンベルクの『イギリスのスポー ツとドイツの市民』5)である.アイゼンベルク は,ジンメルによって理論化された「競争」と 「社交」の社会化機能を分析枠組みとしながら, イギリスとドイツのスポーツを歴史社会学的に 分析している.彼女の描写によれば,近代化に よって異なる出自を持つ学生たちの交流という 課題を抱えることになったオックスフォードと ケンブリッジでは,社交的活動としてスポーツ がおこなわれた.そのためスポーツは異なる階 級がひとつの「社会(society)」で活動する形 式を持つ文化として定着し,それが新しい産業 形態とともにドイツへと伝播することで-ジン メル自身もこのときにスポーツを受容した-ド イツでも「社会(Gesellschaft)」の形成が促さ れたのである.本稿では,このアイゼンベルク の研究では焦点化されていないジンメルの理論 的な側面について検討するが,これも従来のス ポーツ研究においては軽視されがちであったア イゼンベルクの次のような指摘にも,特別な注 意を払っておきたい. 社会学者のジンメルは,純粋理論的に論証 している.しかし,もし彼がオックスフォー ドとケンブリッジにおける「アスレティシズ ム」の市民的な哲学の発生を調査したならば, 彼は同じスポーツの分析にたどり着くことが できただろう6). 例えば樋口は,ヘーゲル哲学のスポーツ論 への応用に際して,「ヘーゲルならば,いかに スポーツを語るか」という内在的な問いを立て ることの重要性を指摘している7).アイゼンベ
Keywords: theōria, Erlösen, Form, Sportverein, Habermas
ルクもまた,「ジンメルならば」と問うことで, ジンメル社会学の論旨を損なうことなく,彼の 理論をスポーツ研究に適用しえていることを確 認したのである.本稿でも,「ジンメルならば, スポーツにおける社交の意義と可能性をどのよ うに考えるか」という問いを念頭に置きながら, ジンメルの革新的な主張が読み取れる『社交の 社会学』8)の読解を通じて,そのスポーツ論と しての可能性を浮かび上がらせたい. 1. 20 世紀転換期ドイツの時代的・社会 的背景とジンメル 20 世紀転換期のドイツでは,文化だけでは なく,社会そのものが急激な変化に晒されてい た.産業化の進展によって貧富の差が拡大し, 交通革命が地方の人々の移動性を高めることで 大都市が生まれ,身分的・集団的な閉鎖性の弱 体化と同時に,地域的な共同体の紐帯も弛緩し ていた.こうした社会環境の激変のもとで,ジ ンメルは諸個人の相互交流による「社会化」に 特別な関心を抱き,哲学の伝統が強く残るアカ デミズム界において,社会学の必要性を唱えた のである. ジンメルは,先にも指摘したように,1910 年にフランクフルトで開催された第一回社会学 者会議において「社交の社会学」という基調講 演をおこなっている.この「社交」は,ドイツ においてはすでに 19 世紀全体を通して議論さ れていたが,「特に 1885 年から 1914 年までの 30 年間に大きな関心をよんだ」9)テーマであっ た.ジンメルが生きた 20 世紀転換期は,出版 物の数が爆発的に増加した時代でもあり,無数 の著書や雑誌によって,社交がテーマとして取 り上げられていたのである.このメディアを通 じた時代精神の広まりのもとで,ジンメルの基 調講演はすぐに『フランクフルター・ツァイトゥ ン グ(Frankfurter Zeitung)』 に 掲 載 さ れ, 1917 年には『社会学の根本問題』10)の第三章 に「社交-純粋社会学あるいは形式社会学の一 例-」として再録されている.その再録版では 削除されている基調講演の冒頭に,ジンメルは 自らの問題意識を次のように表明している. 社会の本質をめぐる古い論争において,と きに社会は,神秘的なまでに増大させられた 意味を有している.人間のすべての生活にい わば最初に現実性を染み込ませるものは,と きには抽象的な概念だけなのであり,それに よって観察者は個々の存在者の現実性を事後 的に構成する.例えば,木々,小川,草原を「ひ とつの風景」と表現するように.その古い論 争はいずれにしても,社会に二重の意味でひ とつの現実性を与えている.まず,直接的に 意味を持った存在者としての諸個人が,「ひと つの社会」と呼ばれる高度な統一性を構成す る社会化の過程の担い手であること.次に, そのような構成を動機づける-諸個人のなか に息づく(lebendig)-利害関心があること. 経済的・理想的,戦闘的・性愛的,宗教的・ 慈善的な利害関心である.そのような衝動を 満たすために,あるいはそのような目的を達 成するために,社会的な生活の見逃しえない 多様な形式が生じるのである11). ジンメルは,社会概念をめぐる過去の議論 において,社会が「過大な概念」あるいは「抽 象的な概念」として捉えられてきたことを疑問 視する反面,諸個人が「社会化の過程の担い手」 であること,さらにはその社会化の契機が諸個 人の利害関心と衝動に求められていることを評 価したのである.それゆえジンメルは,諸個人 の「心的な相互作用(die seelische Wechsel-wirkung)」が「頻度や強度を増し,それに似 た多くの相互作用と結合する(vereinen)」と ころに社会を見出したのである12).こうして諸
個人を社会の出発点とみなすことで,ジンメル の社会学は個人の語りや知覚などのミクロな視
点から,近代の社会変容といったマクロな事象 を説明するという独自性をおびることになった のである.なかでもジンメルは,諸個人の相互 交流を促すひとつの形式として社交を分析した 自らの研究を,純粋社会学の「研究の全体像の 一つのシンボル」13)と高く評価している. このジンメルの社交論にもとづいてスポー ツを捉えようとする場合,ティータイムをとも なうような社交の場-ジンメル自身が自宅のテ ニス場で享受していたであろうような-として 形式化されていた当時のスポーツをイメージす るのが,まずはわかりやすいだろう.だが,相 互交流の形式は,「国家と地域社会,教会と経 済的同業組合,家族とクラブ(Vereinen)に おいて」14)みられるものというジンメルの記述 からも窺われるように,クラブ(Verein)にス ポーツが位置づきはじめていた当時の制度的な 状況も念頭に置くべきだろう15).スポーツ実践 の後に飲食をともなう会話が日常的に楽しまれ るようなスポーツクラブでの社交である. 例えば,現在のドイツには 9 万前後のスポー ツクラブが存在しているが,その多くのクラブ において飲食会やクリスマス会などの社交的な 催しが頻繁におこなわれている.ある調査では, 「クラブの活動とは心地良い社交のことである」 に 85% が賛成し16),スポーツクラブに関しては, 3 分の 2 の会員が社交的な交流を経験している という調査結果もある17).こうした側面を捉え てフロイデンタールは,「社交はクラブに不可 欠な条件であり,活動目的は単なる誘引に過ぎ ない」18)とまで表現している.イギリスで形式 化され,ドイツに伝えられたスポーツの社交は, 現代ドイツのスポーツクラブにも受け継がれて いるのである. 2. 社交の相対的自立性 では,その社交を取り上げた基調講演にお いて,ジンメルは一体何を主張していたのであ ろうか. ジンメルはまず,他者との交流を欲する諸 個人の衝動に,社交の契機を見出している.け れども,諸個人が相互交流する場では,諸個人 の行為を調整し,秩序を形成する倫理的諸力が 必要になる.それゆえ,諸個人によって営まれ る社交の世界においては, 「マナーの感覚(Takt-gefühl)」が重要になると言う. ジンメルが「マナーに反する行為」として 戒めているのは,ひとつには,地位,学識,名 声,業績などの外的な意味や,貧富の差などの 物質的な条件を社交の世界に潜り込ませる行為 である.例えば,自らの富を利用して指導的な 立場に立とうとしたり,名声のある人物の知己 を得るために誰かとの会話を画策したりする行 為がマナー違反とみなされているのである.だ が,その場合にも,外的な意味や物質的な条件 が,社交に「リアリティだけが付与されうる程 度に,あの影のような軽いニュアンス」19)とし て入り込みうることにも注意を促している.例 えば,サッカーの試合の後に催される社交的な 集まりに有名なサッカー選手が参加しているよ うな場合,その有名人の名前を偽ったり無視し たりするならば,その社交からはリアリティが 失われることになる. ふたつめに,現実的な目的や個人の気分, 不機嫌,興奮などを社交に持ち込むことも「マ ナーに反する行為」として戒められている.社 交の世界では,外的な意味や物質的な条件と並 んで,個人の気分を持ち込むこともマナーに よって制限されるべきなのである.例えば,ス ポーツの試合の後の社交的な集まりにおいて試 合の結果やプレーを振り返るときに,自らの高 揚した気分や興奮,真剣な議論などを持ち込む ことも,適切ではないと言うのである. しかしながら,ジンメルによれば,このよ うなマナーによる制限は消極的規定に過ぎな い.ジンメルは,さらに強い拘束力が付与され る積極的原理として,カントの定言命法を引い
ている. 各人は誰もが,自らが感じる最大の社交的 価値と一致するような,最大の社交的価値(喜 び,気晴らし,生き生きとしていること)を 他者に与えるべきである.あのカントにもと づく法がまったくもって民主的であるように, この原理もあらゆる社交の民主的な構造を指 し示している.この民主的な構造はもちろん, 各社会層の自己内部においてのみ実現しうる ものであり,まったく異なる社会階級のもと では,この民主的な構造は社交をしばしば矛 盾に満ちたものや気まずいものにする.しか し,社会的に平等である人々の間でも,彼ら の社交の民主主義は演じられたものなのであ る.社交は,ひとつの理想的な社会学的世界 を創造する,と言ってもよい.と言うのも, 社交における-上述したあの原理から-個人 の喜びは,他者と対立する感情という代償を 払って自らの喜びを見出すことは誰にもでき ず,他者の喜びでもあるということと,まっ たくもって結びついている.それは他者の生 活形態を超えた倫理的な定言命法によってで あり,直接的に生活様式の固有的で内的な原 理によって排除されているのではない20). ジンメルは,法の原理を「各人は誰しも, 他者の自由と両立しうる程度の自由を持つべき である」という命法に求めたカントにならって, 「各人は誰しも,自らが感じる最大の社交的価 値と一致するような,最大の社交的価値を他者 に与えるべきである」という命法に,社交の原 理を見出したのである.多様な階級や集団に属 する人々の交流が原理的に妨げられない近代社 会においては,社交の世界での平等な交流は, 矛盾に満ちたものや気まずいものになりやす い.しかし,民主的な社交の世界において,自 らの喜びを,他者と対立する感情という代償を 払って見出すことは許されないのであるから, 社交を構成するための原理たる定言命法が必要 だ,とジンメルは考えたのである. この定言命法に端的に示されているように, ジンメルが描いている社交の世界は,極めて形 而上学的な理想の世界に過ぎない.社交の世界 は,「ひとつの理想的な社会学的世界」を創造 するものであり,「まったく純粋な人格的なも のを超えたひとつの地盤のうえに保たれてい る」21)のである.この民主的な理想の世界を生 み出すためにこそ,第一のマナーとして規定さ れていた,外的な意味や貧富の差などの物質的 な条件を社交の世界に潜り込ませる行為が制限 されるのでもある. しかしジンメルは,この理想的な「社交の 世界」を直接的に「現実の世界」へと延長しう るものとは考えていなかった.例えば,現実の 生と社会の課題は,「個人が全体の関係に組み 入れられ,全体の関係のために生きなければな らないこと,しかし全体の関係から再び個人へ と向かう価値や利益の逆流がなければならない こと,個人の生が全体の目的にとっての迂回路 であり,全体の生は個人の目的のための迂回路 であること」22)に求められ,それらの課題が持 つ「要求の深刻さ」を,ジンメルは「何重もの 悲劇性」と表現しているのである23).つまり, 倫理的諸力によって,ある種の個人性を犠牲に せざるをえない悲劇性の指摘である. さらにジンメルは,世紀転換期のドイツ社 会に広がりはじめていた物質主義にも批判の目 を向けている.ジンメルによれば,近代社会の 人々は「物質的な要求によって過度の負荷」を 負い,「多くの物品や客観的な内容物をむりや り勝ち取る必要」に迫られている24).つまりジ ンメルは,現実の生の世界を,何の争いもない 理想的な世界などと考えていたわけではない. ジンメルは,「個人が全体の関係に組み入れら れ,全体のために生きなければならない」とい う倫理的諸力が持つ「何重もの悲劇性」を,あ るいは「多くの物品や客観的な内容物」を求め
ざるをえない近代社会の現実を,いわば形而上 学的な社交の世界と対極にある現実の世界とし て引き受けていたのである25). ジンメルは,そうした悲劇性を持つ現実の 世界のなかで,社交という理想の世界は,「社 交的存在として平等であり,彼と相互作用する 他の存在が同じようにそれを獲得できるという 条件のもとで,各人が自らのために社交の価値 を獲得しうるように,人々を擬制」26)しなけれ ばならないとも明言している.社交の世界はあ くまでも一種のフィクションであり,現実の世 界からは自立した,民主主義的で非物質的な理 想の世界として人工的に擬制されるものなので ある.それゆえ社交の世界は,「物質的なアク セントがない」純粋な相互作用によって「民主 主義が摩擦なしに可能」27)になる唯一の「影の 国-影はまさに互いにぶつかり合うことができ ないのであるから-」28)と表現されているので ある. この民主的で非物質的な人工の世界として の社交の性格を端的に表現しているのが,社会 遊戯と呼ばれる男女のコケットリだろう.ジン メルによれば,社交の世界においては,女性は 真剣になることなく,男性の手の届きそうなと ころに「成就するもの」を近づけることで,コ ケットな振る舞いが「イエス」と「ノー」の間 を揺れ動く.両極のどちらかに決定されるなら ば,それは言葉の正確な意味において,もはや コケットリではない.真剣な恋愛という現実的 な重荷をすべて下ろすことが,この「漂うもの, 離れているもの」という性格をコケットリに付 与するのである.だが,男性がコケットリの魅 力を拒んだり,その揺れ動きに引きずられる犠 牲者である限り,コケットリはまだ社交に固有 の形をなしていない.社交の根本原則である, あの自由な相互作用と諸個人の平等性に欠けて いるからである29).男性が「遊戯以上のもの」 を求めないときにはじめて,社交は社会遊戯と して成立する. だが,このような社交の世界のフィクショ ン性が,すぐに非現実につながるわけではない. 擬制された人工の世界は,「現実から離れざる をえない遊戯あるいは芸術が嘘でないのと同じ ように,嘘ではない」30).内在的法則を持つ遊 戯や芸術と同じように,社交も自らの外側に何 らの目的も認めない自立性を有している.しか し,その人口の世界は,現実の世界との結びつ きを完全に離れるわけではない.例えば,「芸 術が空虚で虚偽的な効果にならないためには, 現実との深くて誠実な関係から養分を得なけれ ばならない」のと同じように,社交も生の現実 と結びついているのであり,社交に活動性を与 える源泉は,「リアルな個人の生命性に,彼ら の感覚と魅力に,彼らの衝動と信念の豊富さ」 のなかに求められているのである31).社交の世 界は,個人の現実の生から養分を得ることで, その生命性を維持しているのであり,逆に,生 の現実から「完全に離れると,社交は遊戯から 空虚な形式を持ったもてあそびへ」32)と陥るこ とになる.つまりジンメルは,芸術論や遊戯論 を参照しながら,社交の世界は現実の世界から は自立した理想の世界でありながらも,個人の 生を媒介として現実とのつながりを保つことで 自らの生命性を獲得するという,いわば社交の 相対的自立性を指摘しているのである33).この 相対的に自立的な関係から,社交の意義と可能 性が生まれることになる. 3. スポーツにおける社交の意義と可能性 社交という理想の世界は,芸術や遊戯と同 じように,現実の世界から離れた独自の法則性 を持っている.しかし,それは完全に現実の世 界から切り離されているわけではない.この相 対的自立性がもたらす社交の可能性を,ジンメ ルは次のように表現している. 私たちは,単に目を逸らすことで生から救
済されるのではなく,生の諸形式の一見まっ たく独断的な遊戯において,生の現実性その ものなしに,生の最も深い現実性の諸力と意 味を形成し体験することによって救済される. あらゆる瞬間に生の重圧を感じるような,と ても深い人たちにとっては,もし生の真剣さ の単なる一時的な破棄や生からの自己逃避で あったならば,社交がこのような自由を与え てくれるもの,救済的な陽気さを含むものと は思われないだろう.(中略)けれども,より 深い人間ならば,解放してくれるものと心を 軽くしてくれるものを社交に見出すのである. その社交においては,生のすべての課題とす べての重荷が生じる共同での生活と相互交流 が,芸術的 (artistisch)な遊戯として享受され, 洗練化されると同時に希薄化しながら,しか もなお現実の内容を付加する諸力がかろうじ て遠くに感じられ,現実の重荷がひとつの魅 力のなかに蒸発するのである34). 生の真剣さからの自己逃避に陥ることなく, 生の最も深い現実性の諸力と意味を形成し体験 すること,つまり社交の世界において諸個人を 調整する倫理やその意味を理想的なかたちで体 験することで,複数の人間の交流から生じる現 実の課題や生の重荷から「救済」される.この 救済の思想に,ドイツのスポーツクラブにおい て頻繁に見受けられる社交の意義を認めること もできるだろう.スポーツの後の社交によって, スポーツの技能の巧拙や試合の勝敗にしたがう かのような人間関係が反故にされるばかりでは なく,クラブ運営や練習法などをめぐる真剣な 議論の後の社交においても,異なる意見をもつ 人々が会話を純粋に楽しむことで救済されうる のである.例えば,地域の小さなスポーツクラ ブの会長選挙に落選したクラブ会員が,以前と 同じようにクラブの運営に協力的であることは 容易ではない.しかし,民主的な社交の世界で, 飲食をしながら語り,歓談することで,現実の 重荷から解放されうる. ジンメルの基調講演が,この救済の思想に よって結ばれていることからもわかるように, ジンメルが最も強調したかった社交の可能性 は,この救済の思想にあると言うべきだろう. しかし,現代のスポーツにおける社交の可能性 を探究しようとするとき,ジンメルのもうひと つの主張に,より注目すべき可能性が見出せる ように思われる.ジンメルは,救済の思想とは 別に,社交の相対的自立性がもたらす可能性を 次のようにも表現している. 社会的な交流の表面性(強調原文)を人々 が嘆くのには,正当な場合もあれば,不当な 場合もある.すなわち,以下のことは,精神 的な存在者の最も重要な事実である.もし我々 が存在の全体から何らかの諸要素を結合して, 全体の法則ではなく,それ独自の法則にした がって管理されている,自らの国にまとめ上 げるとすれば,その国は,もちろん全体の生 からは完全に切り離されていて,内的には完 全であるのに,空洞化して宙に浮いた本質を 示すことがある.しかし,量りえないものに よって変化しただけで,距離を取らずにより リアルに把握しようとする何らかの試み以上 に,より完全に,より統一的に,より意味に かなって,まさにあらゆる直接的なリアリティ からの距離のなかに,直接的なリアリティの 最も奥深い本質を示しうることもしばしばあ るのである35). 社交の世界が,現実の生から完全に切り離 されるならば,「空洞化して宙に浮いた本質」 を示すこともある.だが,社交に活動性を与え る諸個人の生命性,すなわち感覚,魅力,衝動 の豊かさなどの「量りえないもの(Impondera-bilien)」によって社交の世界が変化するならば, 現実からの距離のゆえにこそ,現実の生の本質 を穿つことが可能になる.例えば,現実から距
離を取りながらも,現実との深い関係から養分 を得ている芸術が,個人の衝動の豊かさなどに もとづいて,直接的な現実性よりも奥深い本質 を描き出すことがあるのと同じように-例え ば,現実の富士山からは,物理的にも心理的に も距離を取ることで,現実には存在しないよう な「赤富士」の絵によって富士山の本質を描き 出すことができるように-,スポーツの現実と 接続された社交の世界は,一方では現実のス ポーツの世界から養分を得ながら,他方ではそ こから距離を取ることで,スポーツの本質や現 実を浮かび上がらせることができると言うので ある. 実践から離れて「観る」自己目的的な活動 という意味において,「観想(theōria)」と呼 ぶべきこの可能性は,現代のスポーツ論に置き 換えれば,樋口が批評のための「虚点」と表現 している機能を備えるものでもある.「スポー ツが世界の相対性の中において虚構の絶対性を 確保している小世界だから(中略)スポーツと いう小世界を批評する場合,その虚構の世界の 外に出て,冷めた目でスポーツを見返せばよい. そして,それが世界そのものを批評する架空の 点,虚点を生み出す」36).この虚点の機能,あ るいは観想の可能性を,ジンメルは社交に求め たのである. 樋口が指摘するように,スポーツの内側は ルールや構造が絶対性を持つ世界であるが,そ のスポーツの世界を客観的に捉え,批評するた めには,スポーツの外側からスポーツそれ自体 を相対化しなければならない.樋口は,このス ポーツの遊戯性がもたらす虚点の欠如によって, 「さまざまな弊害が引き起こされてしまう」37) ことを指摘している.現代のスポーツを俯瞰す るならば,樋口が言う「遊戯性」あるいは「虚 点」の欠如による弊害は深刻であると言わなけ ればならないだろう.スポーツを道徳や健康の めたに手段化しようとするイデオロギーが強ま れば強まるほど,スポーツの遊戯性が軽視され ることになる.現代では,スポーツが現実の産 業と無批判に結びつけられ,際限のないショー 化やメディア化が繰り広げられてはいないだろ うか.現代のドイツでは,日本よりもはるかに スポーツの産業化への市民の抵抗は大きいと言 わなければならないが38),ジンメルならば,そ の要因をスポーツの現実を「観る」ための「社 交」の存在に求めるだろう.このようなジンメ ルの捉え方は,例えばスポーツの産業化への抵 抗の拠点を市民の「批判的な論議(批判的公共 圏)」に求めるハーバーマスと鋭い対照をなし ている.ここではジンメルの特徴を際立たせる ために,ハーズーマスの批判的公共圏の特徴に も簡単に触れておこう. ハーバーマスは,彼の主著『公共性の構造 転換』において,公権力に対峙しうる市民の批 判的公共圏のひとつの理念型を 18 世紀後半の 「読書クラブ(Lesevereine)」に見出している. そこではフランスの啓蒙思想に学んだドイツ市 民たちが,生産や消費の循環に支配されない自 立性を獲得し,対等な交流や多数決での議決と ともに,雑誌や新聞で読んだ内容を議論すると いう「論議する公衆(das räsonierende Publi-kum)」を形成していた39).この文脈のなかで ハーバーマスもまた,ジンメルと同じように, フランス宮廷の社交に言及しているが,ジンメ ルが「王室に吸い尽くされた貴族」の「純粋な 会話と作法の形式」に芸術と同じ相対的自立性 の可能性を認めたのとは対照的に40),ハーバー マスはフランス宮廷の社交に「論議する公衆」 への橋渡しの役割を付与しながらも,「人々の 精神はまだ貴族的接待者たちの権威から解放さ れず,会話を批判へ,警句を論理へ転化させる 自立性へ発展することができない」41)世界で あったと否定的に捉えている.あくまでもハー バーマスは,社会的な相互行為のひとつである コミュニケーション的行為-複数人の行為調整 の役割を果たし,社会統合の源泉となる発話行 為(Sprechhandlungen)-を重視し,コミュニ
ケーション的理性にもとづいて合意を形成しよ うとする「論議」に批判的公共圏としての可能 性をみているのである42). ハーバーマスによれば,18 世紀後半のドイ ツに萌芽した公共圏は,文化消費が拡大する 19 世紀以降,マス・メディアによる情報や消 費文化の浸透を受動的に受け入れ,公権力や市 場経済への批判的論議を欠く「受容的公共圏」 へと崩壊していく43).ここで詳しく実証する余 白はないが,この批判的公共圏から受容的公共 圏への歴史的変遷は,ドイツのスポーツクラブ の歴史とも一致しているように思われる.19 世紀初頭のヤーンらによる体操クラブの形成が 国家主義と強く結びついていた史実はよく知ら れているし,20 世紀初頭におけるスポーツク ラブの形成が新しい産業形態やメディアの発達 と密接に結びついていた史実も,アイゼンベル クによって明らかにされている.しかし,ハー バーマスが『公共性の構造転換』の新版に寄せ た序文において,自発的な市民によって運営さ れるスポーツクラブの可能性に言及したのと同 じ 1990 年代には44),プロサッカーリーグの商 業主義やサポーターたちの移民排斥の動きに異 議を唱えるスポーツクラブの取り組みがドイツ 国内で広く知られるようになっている.そこに ハーバーマスならば,疑いなく,コミュニケー ション的行為にもとづく論議とコミュニケー ション的理性にもとづく合意から成る批判的公 共圏の存在を認めるだろう. だが,ジンメルならば,「物質的なアクセン トがない」45)社交の世界での生き生きとした語 りや歓談の経験から,人々が現実世界の政治や 産業と一体化したスポーツの問題を観る(=観 想)ことの意義を強調するだろう.ジンメルが 直面し,問題視していた現実世界の課題のひと つが,近代の産業化にともなう物質主義であっ たことも示唆的である. このジンメルの社交論が,ハーバーマスの 公共論と鋭い対照性をなしているのは,「(現実 から距離を取る)人工的な影の国」と「(現実 に接近しようとする)真剣な論議」,あるいは 芸術論にみられるような「観想」と理性的な「合 意」の対比という意味においてだけではない. ハーバーマスの批判的公共圏が政治や経済とい う論議の「内容」を重視するのに対して,ジン メルの社交は,内容の目的化や現実化を忌避す ることで抽象化が可能になる「形式」を重視し ているのである.例えば,社会化を促す諸個人 の相互交流は,国家,経済,科学などにおいて もみられるものである.しかし,それらの団体 が織りなす社会はいずれも「特別な内容」と結 びついている.それとは逆に,社交は遊戯や芸 術と同じように,「物質的な目的にとっての単 なる煩わしい必要性」を超えて,諸個人の衝動 にもとづいて,純粋に自己目的としての語りや 歓談によって営まれる「形式の国」46)なのであ る.ジンメルは,次のように明言している. 社交においてはしかし,語ることが自己目 的になる.純粋に社交的な会話において,話 題は,話の生き生きとした相互交換が生む, それ自体として展開する魅力の不可欠の運び 手に過ぎない.あらゆる形式によって,この 交換が実現する.つまり,論争と両者に承認 された規範へのアピール,妥協による講和と 共通の信念の発見,新しいものを有り難く受 け入れることと互いに理解できそうにないも のからは離れること,こうした会話の相互作 用のすべての形式は,通常,無数の内容と人 間的な交流のためにおこなわれることではあ るが,ここではその意義はそのもののなかに ある.つまり,束ねることと解くこと,勝つ ことと負けること,与えることと奪うこと, といった諸形式が複数の個人の間に生み出す 関係の戯れの魅力に意義があるのである.「歓 談(Sich-Unterhalten)」(強調原文)という言 葉に,ふたつの意味(「楽しむ」と「話しをする」: 引用者注)があることには理由がある.この
遊戯が形式それ自体に付随している楽しみを 維持するためには,内容が固有の重みを獲得 してはならない.議論が実質的なものになる やいなや,その議論はもはや社交的ではなく なる.真実の探究が-それはまったくもって 議論の内容(強調原文)を形作りうるのであ るが-議論の目的(強調原文)になるやいなや, その議論は目的論的な鋭さを逆転させること になる.そうなると,その議論は,真剣な論 争が先鋭化する場合と同じように,社交的な 歓談という性格を破壊するのである47). 先に指摘したように,ジンメルは現実的な 目的や個人の気分を社交に持ち込むことをマ ナー違反とみなしていた.それはこの語りと歓 談の「形式」を重視するからである.例えば, テニスやサッカーの試合の結果やプレーを振り 返るときに,自らの高揚した気分や興奮,真剣 な議論などを持ち込むことは不適切なのであ る.現実的な目的や個人的な価値を中心にする ならば,社交が内容に従属してしまい,形式だ けで完全な意味を持つ純粋な社交が成立しない からである.内容が目的になってしまえば,そ れはもはや反省会や作戦会議と呼ぶべきものに なるだろう.もちろん,社交的な語りや歓談の 内容がどうでもよい,と言うのではない.ジン メルが言うように,「内容はまったくもって興 味深く,魅力を持ち,それどころか意義深いも のであるべきである.内容は歓談の目的そのも のを形成してはならない,と言うだけのことで ある」48).内容が目的ではなく,語りと歓談が 目的であるからこそ,スポーツの活動に参加し ていないひとであっても,社交的な活動には参 加できるのである.「話題を簡単に素早く交換 しうること」は,語りと歓談の本質的な要素で もある.話題は語りや歓談という目的の「単な る手段」49)に過ぎない. ハーバーマスが政治をめぐる真剣な論議と 合意を求めるのとは対照的に,ジンメルの社交 は,語りや歓談の「内容」に関係なく,その「形 式」を自己目的とするがゆえに,悲劇性を持つ 現実からの「救済」や現実の「観想」を可能に するのである. おわりに ジンメルが言う社交とは,芸術や遊戯と同 じように,現実の世界とは異なる自立的な法則 性を持ち,民主的な世界として人工的に擬制さ れながらも,個人の生を媒介としながら,現実 の世界から養分を得ることで活気を得ている世 界である.この相対的に自立的な性格を持つ社 交の世界において,諸個人が語り,歓談し,交 流することで,現実の重荷から「救済」される だけではなく,現実の本質を「観る」ことも可 能になる.例えば社交は,スポーツの技能の巧 拙や試合の勝敗,運営をめぐる真剣な議論や選 挙による当落などの現実から人々を救済すると 同時に,社交が現実の世界から距離を取るため の虚点となることで,現実を相対化させ,現実 の世界に埋没したスポーツの諸問題に人々が気 づく契機ともなりうるのである. こうした社交の意義と可能性は,例えばハー バーマスの批判的公共圏の思想が,いわば現実 へ接近する「論議の内容」を重視するのとは対 照的に,現実から距離を取る「語りの形式」に よってもたらされるものである.この語りの形 式に相互交流の意義を見出すジンメルの指摘 は,現代のコミュニケーション空間を考えるう えでも示唆的だろう.例えば,ハーバーマスの ように論議の内容を重視するならば,メールや SNS による論議でも内容が充実していれば, 批判的公共圏を形成しうることになる.実際に ハーバーマスは-「公共性の民主的なポテン シャルのインフラ構造が,電子メディアによる 選択の強制力の増大に枠付けられている」とい う問題点を指摘しながらも-,電子メディアに よる公共圏の拡大の可能性を認めている50).し
かしジンメルならば,電子メディアの可能性に は否定的だろう.語るという直接的な相互交流 の「形式」に欠けているからである.例えば, ハーバーマスの「相互行為」の原語である I インターアクティオーネン nteraktionen というドイツ語が,諸個人の「間 (inter)」でおこなわれ,それぞれが接続する 「(意識的な)行動(Aktionen)」を指すのに対 して51),ジンメルの「相互交流」の原語である Wヴ ェ ク セ ル ヴ ィ ル ク ン ゲ ンechselwirkungen は,諸個人の語りの「交換 (Wechsel)」を意味し,男女のコケットリにみ られる機微のような「(無意識的な)作用(Wir-kungen)」を含んでいる.ジンメルは何よりも, 現実から距離を取りうる虚構の世界を求めなが らも,生き生きとした養分を得るための「現実 との繋がり」を重視しているのである. もちろん,電話やインターネット回線を利 用した会話おいても,諸個人の語りの交換は可 能かも知れない.このような疑問は,ジンメル が「見る」「聞く」「嗅ぐ」「感じる」などの知 覚に着目していた事実へと,私たちの目を向け させる.例えば,「語りは少なくとも双方的で あり,事によると,『お互い見つめ合う』とい う例外を除いて,おそらくはあらゆる社会学的 な現象のなかで最も純粋で最も昇華した双方的 な形式」52)とジンメルが指摘している「見つめ 合うこと」の意味へ,そしてジンメルの知覚論 を応用することで直接的なまなざしの交換が持 つ社会的な意義を明示したベンヤミンのメディ ア論へと,私たちは歩を進めなければならない だろう.アイゼンベルクが「社交」とともに, 重要なスポーツの要素としてジンメルから援用 した「競争による社会化」の検討とともに,今 後の課題としておきたい. 注および引用・参考文献 1) Simmel,G.(1917)Grundfragen der
Soziologie. Individuum und Gesellschaft. Walter de Gruyter. Berlin und Leipzig. Zweite Auflage(1920). S.5. (ジンメル/清水
幾太郎訳(1979)社会学の根本問題 個人と 社会.岩波文庫.p.11)
2) Landmann,E.(1958)Erinnerungen an
Simmel. in: Buch des Dankes an Georg S i m m e l . B r i e f e , E r i n n e r u n g e n , Bibliographie. Zu seinem 100. Geburtstag am 1 März 1958. Hg. von Gassen,K. und Landmann,M. Dunker & Humbolt. Berlin. S.208.
3) 自転車も新しく伝播したスポーツ種目のひ
とつであった.
4) Simmel,H.(1976)Auszüge aus den
Lebenserinnerungen. in: Ästhetik und Soziologie um die Jahrhundertwende: Georg Simmel. Hg. von Böhringer,H. und G r ü n d e r , K . V i t t o r i o K l o s t e r m a n n . Frankfurt am Main. S.255.
5) Eisenberg,C.(1999)„English sports“ und
Deutsche Bürger. Eine Gesellschaftsgeschichte 1800-1939. Schöningh. Paderborn/München/ Wien/Zürich. 6) Ibid., S.56. 7) 樋口聡(2011)ヘーゲル哲学とスポーツ論 の可能性.思想.1050 号.p.63. 8) S i m m e l , G . ( 1 9 1 0 ) S o z i o l o g i e d e r
Geselligkeit. in: (1969)Verhandlungen des Ersten Deutschen Soziologentages vom 19.-22. Oktober 1910 in Frankfurt a.M. Verlag Sauer & Auvermann KG. Frankfurt am Main. 9) Eisenberg,E.(1999), S.146-147. 10) Simmel,G.(1917), S.50-71; ジンメル(1979), pp.67-92. 11) Simmel,G.(1910), S.1. 12) Simmel,G.(1917), S.21; ジ ン メ ル(1979), p.20. ジンメル自身が意識的であったとは思 われないが,「諸個人の結合」と言うとき の「結合」に,クラブを意味する Vフェアアインerein と同じ語源を持つ Vフ ェ ア ア イ ネ ンereinen が使用されて
いることも興味深い. 13) Ibid., p.40. 14) Simmel,G.(1910), S.1. 15) ジンメルが基調講演をおこなった第一回社 会学者会議において,ウェーバーが「クラ ブ(Verein)」をひとつのテーマとして論 じていることも,偶然ではないように思わ れる.ここでは詳しい説明は避けるべきで あろうが,ウェーバーが「クラブ組織の社 会 学(Soziologie des Vereinswesens)」 を 差し迫ったテーマとみなし,ドイツにおけ るクラブの事例にケーゲル(ドイツ式ボー リング)クラブを,イギリスの事例にスポー ツクラブをあげていることも興味深い事実 である(全体としてはアメリカのクラブが 典型例として注目されているのだが).こ のウェーバーの講演については,別の機会 に 詳 し く 論 じ た い.Weber,M.(1910) Geschäftsbericht von Professor Dr. Max W e b e r , H e i d e l b e r g . i n : ( 1 9 6 9 ) Verhandlungen des Ersten Deutschen Soziologentages vom 19.-22. Oktober 1910 in Frankfurt a.M. Verlag Sauer & Auvermann KG. Frankfurt am Main. S.39-62.
16) Agricola,S.(1997)Vereinswesen in
Deutschland. Eine Expertise im Auftrag des Bundesministeriums für Familie, Senioren, Frauen und Jugend. Kohlhammer Verlag. Stuttgart. S.82.
17) Schlagenhauf,K.(1997)Sportvereine in
d e r B u n d e s r e p u b l i k D e u t s c h l a n d . Strukturelemente und Verhaltensdeter-minanten im organisierten Freizeitbereich T.1. Hofmann Verlag. Schorndorf. S.95.
18) Freudenthal, H.(1968)Vereine in
Hamburg. Ein Beitrag zur Geschichte und Volkskunde der Geselligkeit. Hamburg. Museum für Hamburgische Gesichte. S.27.
19) Simmel,G.(1910), S.4-5. 20) Ibid., S.6-7. 21) Ibid., S.11. 22) Ibid., S.12-13. 23) Ibid., S.12-13. 24) Ibid., S.7-8. 25) 例えば田島は,理想と現実,善と悪の両面 を透徹して描き出すベンヤミンに「両義的 態度」を認めているが,まさにジンメルは その両義的態度の体現者であったと言うべ きだろう.田島正行(2008)≪アウラの喪 失≫の意味.クラーゲスの思想から見たベ ンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』. 岩野卓司・若森栄樹編.語りのポリティク ス.彩流社.p.123. 26) Simmel,G.(1910), S.7. 27) Ibid., S.7. 28) Ibid., S.10. 29) Ibid., S.9-10. 30) Ibid., S.8. 31) Ibid., S.14-15. 32) Ibid., S.14-15. 33) ジンメルは,社交が持つ相対的に自立的な 性格を「Sシ ャ ッ テ ン ケ ル パ ーchattenkörper(影のような肉体)」 (Ibid., S.11)という繊細な造語を使って表 現している.Sシ ャ ッ テ ンchatten は社交が実体を持た ない影のような世界であることを表現して いる.これは「摩擦のない影の国-影はま さに互いにぶつかり合うことができないの だから-」(Ibid., S.13)に対応する言葉で もある.とは言え,社交が現実に何の足場 も 持 た な い わ け で は な い. そ の こ と が Kケ ル パ ーörper という,実体としての肉体を意味す る言葉によって表現されている.社交は, 影(理想・精神)と肉体(現実・物質)の 両義性を有する世界を構成しているのであ る. 34) Ibid., S.15-16. 35) Ibid., S.15.
36) 樋口聡(1995)スポーツ文化のエコロジー. 斎藤稔編.芸術文化のエコロジー.勁草書 房.pp.267-268. 37) Ibid., p.261. 38) 例えば,ドイツのプロサッカーリーグでは, サッカークラブの企業化に対する市民の抵 抗運動の結果として,非営利法人である総 合型地域スポーツクラブが営利企業である プロサッカークラブの議決権を所有しなけ ればならないという特別ルールが定められ ている.この特別ルールをめぐっては,そ の撤廃を求める企業と,クラブの地域性を 守るためにルールの維持を訴える市民の間 で大きな摩擦が生じているが,2018 年 3 月, プロサッカーリーグの会長が,「抵抗運動 に敬意を評する」という声明とともに,特 別ルールの維持を宣言している.釜崎太 (2017)スポーツ組織の倫理学.友添秀則編. よくわかるスポーツ倫理学.ミネルヴァ書 房.p.131. 39) Habermas,J.(1990)Strukturwandel der
Öffentlichkeit. Untersuchungen zu einer Kategorie der bürgerlichen Gesellschaft. Suhrkamp. Frankfurt am Main. S.140-141. (ハーバーマス/細谷貞雄他訳(1994)公 共性の構造転換.市民社会の一カテゴリー についての探究.未來社.pp.103-104) 40) Simmel,G.(1910), S.14. 41) Habermas,J.(1990), S.91; ハ ー バ ー マ ス (1994), p.50.
42) Habermas,J.(1998)Fakzität und Geltung.
Beiträge zur Diskustheorie des Rechts und
des demokratischen Rechtsstaats. Suhrkamp Verlag. Frankfurt am Main. S.33. (ハーバーマス/河上倫逸・耳野健二 訳(2002)事実性と妥当性.上巻.未來社. p.34) 43) Habermas,J.(1990), S.139-141, 248-266, 343-352; ハーバーマス(1994), pp.102-104, 215-231, 321-329. 44) Ibid., S.45-49, pp.XXXVii-XL. ハーバーマス は,「国家にとりこまれてしまった政党」 とは異なり,「ジャーナリズムの影響をつ うじて政治的な効果をもたらす」アソシ エーションのひとつとして,教会や学術団 体などと並んで「スポーツ,および余暇ク ラブ(Sport- und Freizeitvereine)」をあげ ている. 45) Simmel,G.(1910),S.7. 46) Ibid., S.10. 47) Ibid., S.10-12. 48) Ibid., S.10-12. 49) Ibid., S.10-12. 50) Habermas,J.(1990), S.49-35; ハーバーマス (1994), pp.XL-XLii. 51) Habermas,J.(1998), S.33; ハ ー バ ー マ ス (2002), p.34. ハーバーマスもまた,同じペー ジで,「話し手と聞き手の役割を果たしつ つ,共通の状況解釈について意見を交換」 する必要性を指摘しているが,ハーバーマ スは「交換」そのものよりも,それが合意 へと至る「了解過程」であることを重視し ていると言えよう. 52) Simmel,G.(1910), S.12 受付 2019 年 1 月 7 日 受理 2019 年 4 月 11 日