解放戦争後のベルリンとベッティーナ・フォン・アルニム 山 下 剛
1816 年から 17 年の冬にベッティーナは夫アルニムとともにヴィーパー スドルフからベルリンへ移住する。これはベッティーナの自己主張の行動 だった。主婦と妃の統合であるような領主の奥方になることは、都会育ち のベッティーナには到底無理な話だった。彼女は田舎暮らしで精神の発展 が止まってしまうような気持ちだった。彼女にはベルリンの刺激が必要だ った。移住は学齢に達しようとしていた子どもたちを都会の学校に通わせ たいためというのがベッティーナの表向きの理由だったが、領地経営のた めに田舎に引きこもりがちだったアルニムをベルリンに引き留める機会を 探ることも彼女には重要だった。財政難や家事・育児に追われていても、
仲間に囲まれて機知に富んだ自由なおしゃべりを交わしているとき、ベッ ティーナは息を吹き返す思いだっただろう。文学や芸術に関心がある者た ちは、ベッティーナが語る言葉に根源的なものや美しさを感じ取った。
ベルリンでの生活はミュンヒェンやランツフート時代の延長のようなも のだった。自分の周りにサークルを作り、義兄サヴィニーの家や枢密顧問 官シュテーゲマンの家やライプツィヒ通り3番地のメンデルスゾーン家に も出入りした。 1827 年末からはファルンハーゲン夫妻のサロンにも出入り するようになる。一方で、アルニムとの別居生活は徐々に長期化し、やが て常態化していく。これは相手に対する相互の失望や諦めのせいでもある が、それぞれが生活に追われていた結果でもあった。
1.アマーリエ・フォン・ヘルヴィヒとの交流
ゲーテの妻クリスティアーネが亡くなった後、 1817 年7月 28 日にベッ
ティーナはゲーテとの和解を求め、意を決して手紙を書き始める。8月 18 日に書き継いだ文面には次のような言葉があった。
〔……〕このようにあなたの褥
しとねは私の中に用意されています。これをは ねつけないでください。
1(〔 〕は筆者による。以下同じ)
ゲーテからの返事はなかった。ベッティーナは落胆したが、気を取り直 す。彼女はベルリンの再建計画に従事する画家や彫刻家や建築家と交流し、
自らも音楽の勉強を再開しようと考えた。アルニムが発表した『王冠の守 護者』第一巻の反響を喜び、自ら文章をものして、ヴィルヘルム・グリム に書評を託す。ベッティーナはベルリンでの活動を本格化していく。
とりわけシュタイン夫人の姪であるアマーリエ・フォン・ヘルヴィヒ
( 1776 - 1831 )の土曜サロンはベッティーナの自己形成に大きな力を与えた。
アマーリエは 1816 年に将軍である夫とともにスウェーデンからベルリンへ やってきた。彼女は詩人であり、かつてヴァイマルの宮廷に仕えていたと きに、ゲーテの手ほどきで詩を書き、シラーによってその作品は高く評価 されていた。また、画家マイヤーの下で肖像画と模写の才能を磨いた。結 婚後に移り住んだストックホルムではハイデルベルク・ロマン派の虜にな り、フーケと共著でドイツの古い伝説集を発行し、 1817 年には続編として その北欧編を出版していた。アマーリエはスウェーデンとドイツの文学の
1
Fritz Bttger: Bettina von Arnim. Ein Leben zwischen Tag und Traum, Berlin(Ost) (Verlag der Nation Berlin) 1986 , S. 157
und Ingeborg Drewitz: Bettine von Arnim, Romantik—Revolution—Utopie, Dsseldorf/Kln
(Eugen Diederichs Verlag) 1969 , S. 98
橋渡し役として重要な位置を占めていた。女性との交際を好まなかったベ ッティーナも、不案内だったベルリンの文学事情の先導役として9歳年上 のアマーリエを頼みにしていた。
二人の性格は正反対だったが、多くの共通点があった。どちらも南ドイ ツ出身であり、ヴァイマル文化をこよなく愛し、ハイデルベルク・ロマン 派を熱狂的に支持していた。そして何より二人にはベルリンで一目置かれ る存在になりたいと強く心に期するものがあった。ベッティーナについて アマーリエはこう述べている。
彼女は自然のままで、ほとんどメランコリックな流儀で機知に富んでい ました。性格はいささか嘲笑的で、いたずら好きな小妖精コーボルトの ようでしたけれども。彼女は根本的にとても女性的でありながら、外見 はそうではありませんでした。そのために男性たちは混乱しました。
2ベッティーナは子持ちでありながらほっそりとしていた。アマーリエは まだ若く子どもっぽいところが残る、才能豊かなベッティーナを自身のサ ロンに喜んで受け入れ、グナイゼナウ元帥の茶会にも紹介した。田舎に引 きこもるアルニムを尻目に、ベルリンで因習を顧みず奔放不羈に振る舞う ベッティーナに対し、グナイゼナウ元帥はこう書き送っている。
私もあなたとお近づきになる栄誉を賜る前には、集まりの中であなたに 対して流布していた偏見を分かち持っていました。〔……〕あなたの深 い哲学的な眼差し、見事な、勝手気ままな機知はとうとう私の注目をつ
2
Ingeborg Drewitz: Bettine von Arnim, Romantik-Revolution-Utopie,Dsseldurt/Kln(Eugen
Diederichs Verlog) 1969 , S. 104
なぎ留めてしまいました。あなたがあなたのご主人について話したり書 いたりする高貴なやり方はとうとう私の信頼を勝ち取りました。そして 私はあなたに対するいかなる偏見も取り除き、あなたへの喜びを持ちま した。それは才能豊かな娘に対して父親が持つような喜びです。私が因 習的な形式をないがしろにするあなたをいつも弁護できるとは限らない としても。
3アマーリエも頻繁にベッティーナを訪ね、交友は深まった。アマーリエ が病気のベッティーナを看病したり、ベッティーナがアマーリエの一家を ヴィーパースドルフに招待したりした。そのときには、ベッティーナがア マーリエの留守中におしめが濡れて泣いている赤子のおむつを取り替えて やることもあった。
ベッティーナはスウェーデンの詩人や文人たちが出入りするアマーリエの サロンではドイツ・ロマン派の女予言者ジビレと見なされていた。ただア マーリエのサロンはベッティーナには物足りないものだった。 1818 年9月 7日付けのアルニム宛書簡でベッティーナは社交におけるアマーリエの虚栄 心やグナイゼナウ元帥のお茶会の形式主義などを面白おかしく伝えている が、ベッティーナはこう書いて、アマーリエの社交の態度を残念がっている。
〔……〕彼女の自己満足があそこではまるで陽の光を浴びた孔雀のよう に羽を広げています。彼女がその代わりに自分自身の中に高貴な不信を 持っていたら、きっと自分の才能と芸術への愛でたくさんの興味深いこ とを提供したでしょうに。
43
Ibid., S. 99 ( 1820 年の手紙) 1982 年
解放戦争に勝利した後、戦争帰りの学生たちが 1817 年にイェーナで自由 と祖国の統一を求めてブルシェンシャフトと呼ばれる学生団体を結成する と、ドイツ各地で同様の学生結社が次々と作られた。彼らは 1817 年にヴァ ルトブルクで開かれた宗教改革 300 年祭に集結し、反ドイツ的な書籍を焼 くなどの過激な行動に出た。そして保守派と目されていた劇作家のコツェ ブー暗殺という事件を引き起こし、犯人としてカール・ザントが逮捕され る。このような動きを受け、オーストリアのメッテルニヒがドイツ連邦諸 国の大臣たちを温泉地カールスバートに集め、大学の監視や検閲の強化と いった反動的な決議を行なった。自由主義運動は弾圧され、社会から寛容 さが失われていった。秘密警察が政治的な言動を取り締まり、要注意人物 が厳しい監視下に置かれた。政治論議が交わされるサロンやサークルは 徐々に下火となり、メンデルスゾーン家の「日曜音楽会」のような非政治 的な音楽サロンが人気を集めるようになっていく。アマーリエのサロンが ベッティーナにとってつまらない社交の場に変質していったのもこのよう な時代状況によるのだろう。
初めのうち政治はベッティーナの関心のそとにあったが、メッテルニヒ 体制の復古的で反動的な政治に対する嫌悪は徐々に募っていった。この反 動の時期には生きづらい現実から目を背けるように周りの人物たちの態度 や行動にも変化が見られた。夫アルニムは詩作を離れ領地経営にのめり込 んだ。兄クレーメンスは断筆してカトリック信仰に没入し、聖痕を持つ尼 僧の言行を書き留めるためデュルメンに向かった。義兄サヴィニーもカト リック教会に近づき、学問研究に引きこもった。シュテーゲマンは反動化 した。ベッティーナは彼らに対する批判を強めていった。
4
Bttger, S. 159
知的な話題は、監視の目が光るサロンより、むしろ互いに家を訪問し合 ったり連れ立って散策に出かけたりするようなときに、好んで持ち出され た。そこでは出自や身分の上下は問われず、文学や芸術だけでなく、コ ツェブーを殺害したザントの罪状といったアクチュアルな政治問題も議論 された。ベッティーナ自身の具体的発言内容は残されていないが、そのよ うな対話の場面では誰もが相手の人格や考え方や世界観を認め合いながら 自由に意見を交わした。アマーリエやその仲間たちとの交流におけるこの ような経験は、ベッティーナのその後の活動の自由さと率直さにつながっ ていく。
1818 年夏、5番目の子どもの出産間際になってもアルニムはヴィーパー スドルフから戻らなかった。ベッティーナにとって子どもが増えることは 手放しの喜びではなく、自分の運命に対するいら立ちともなった。
ベッティーナが苦しい家計を支えるために、ウンター・デン・リンデン 76 番地の家で乳牛を飼おうとしたのもこの頃である。一方で、田舎暮らし の喜びを手紙で知らせてくるアルニムを尻目に、シンケル設計のシャウシ ュピールハウスでアルニムの戯曲を上演させようと売り込みに奔走したの もこの頃である。
1825 年秋にスタール夫人がベルリンにやってきたときには、アマーリエ のサロンだけでなく、サヴィニーの家も訪れ、ベッティーナとも対面して いる。スタール夫人は、真っ黒な巻毛を長く垂らし、痩せた青白い顔をし た、手足が小作りで小柄なベッティーナを見て、「彼女は奇妙に見える」
5と 書いている。アマーリエのサロンに出入りしていたスウェーデンの女性
5
Ibid., S. 162
ジャーナリストのジルフフェアシュトルペは、ベッティーナを「機知に富 み、元気が良く、愉しい —— ただとても落ち着きがない」
6と書き、またそ の頃ベッティーナがサヴィニーの家に住んでいたプロイセン将校ヴィルダ ーメートと熱狂的な文通をしていると書いているが
7、確かなことは明ら かになっていない。
2.ラーエル・ファルンハーゲンとの交流
1820 年代も友人は増えていった。 20 年代末のベルリンの人口はおよそ 20 万人を超えていたが、ベッティーナの社交の範囲はごく一部地域に限ら れ、郊外で深刻化しつつあった貧困の問題も、まだベッティーナの関心の 外にあった。ベッティーナはシュテッフェンスやヘーゲルとも知り合った ものの、ヘーゲルをあまり評価しなかった。シュライアーマッハーとの交 友も深まる。
1820 年代後半になり 40 歳を超えたベッティーナは、成熟から反転し、
中年の危機の時期を迎える。彼女は 1826 年 10 月初めからドロテーエン通 り 31 番地に住んでいた。高い家賃は家計に重くのしかかったが、精神の自 由のためにベルリン生活を諦める気持ちはさらさらなかった。 20 年代のベ ッティーナの精神状態は不安定で危機的だった。相次ぐ妊娠と体調不良、
そしてメランコリーがベッティーナを苦しめた。
ベッティーナはヘンリエッテ・フォン・バルデレーベンのところでラー エル・ファルンハーゲン・フォン・エンゼ(旧姓レーヴィン) ( 1771 - 1833 ) と知り合っていた。ラーエルはすでに 1810 年代初めにベッティーナを自分
6
Ibid., S. 162
7
Vgl. ibid., S. 162
と対等な存在だと感じ取っていた。ベッティーナと 14 歳年上のラーエルと の交流は熱狂的なものにはならず、おずおずと進んだ。二人の性格は対照 的だった。ラーエルがサロンにおいて友人たちの文章や思想を俎上にあげ てじっくりと議論したのに比ベ、ベッティーナはさまざまな事象について 風刺の利いたおしゃべりを楽しむことを好み、時にその饒舌は疲れを知ら ないほどだった。ベッティーナは永遠に発酵し続けるポエジーそのものと いった様子であり、ラーエルは明澄な哲学へ向かって成熟する自立した精 神であった。二人の間には時に不和や緊張も生じたが、ラーエルはベッ ティーナに寛容の精神で接し、ベッティーナも尊敬の気持ちを失わず、柔 軟な態度でゆっくりと友情を育んでいった。
ゲーテ崇拝においてラーエルはベッティーナに先んじており、その名声 は誰もが知るところだったが、祭祀としてはゲーテの陰の存在として控え めに振る舞った。ゲーテに関するラーエル書簡集が企画されたとき、ラー エルは匿名での出版を望んだ。一方のベッティーナはラーエルのサロンに おけるゲーテに対する態度には批判的で、ゲーテとの交際やゲーテへの情 熱を熱狂的に語った。ゲーテの『詩と真実』への情報提供者としてゲーテ の想像力を刺激する役回りであることも吹聴して回った。
ラーエルが妊娠中のベッティーナを無理やりティーアガルテンへ散策に 連れ出し、田舎暮らしのアルニムを非難したり、ベッティーナの妊娠を喜ば ずあれこれ口出しをしたりして、ベッティーナの怒りを誘うこともあった。
子どものないラーエルには、多くの子どもに恵まれ、苦しいなりにも充
実した生活を送っているベッティーナを羨む気持ちもあった。それでも子
どもの教育観や子どもとの接し方についてラーエルはベッティーナに理解
を示し、 29 年1月末の夫ファルンハーゲン宛の手紙でベッティーナを賞賛
している。
8また、ラーエルはベッティーナを「自分のすべての知り合いの
中で最も才気溢れる女性」
9と述べている。
二人の交友は死の床に就いていたラーエルをベッティーナがかいがいし く看病したことで最高潮に達した。ベッティーナはラーエルが死の床にあ ったとき訪ねることを許された数少ない人物の一人だった。ベッティーナ は 1831 年8月のラーエル宛書簡に次のように書いている。
私は昨日思いがけずあなたとお会いしたとき、あなたによって私に与え られたあらゆる良いことを思い出しました。すべての厚情、すべての賞 賛、これらはあなたの自省的な寛容さに感謝しなければなりませんが、
これらの他にあなたの精神的な近さも刺激となり私の本質のまだ未成熟 な資質や使命へと私を常により深く導いてくださいました。このように 私はあなたによって楽しみと利益を得ました。これは容易に他と置き換 えられるものではありません。
10ラーエルは改宗ユダヤ人であり、また解放的な女性としてさまざまな偏 見に取り囲まれ、根無し草的な生活の中で孤独とメランコリーに取り憑か れていた。ベッティーナはラーエルに自分の境遇を重ね合わせ、そのアウ トサイダー的な心情に共感を覚えたのだろう。ベッティーナはラーエルの 感激する能力、率直さ、偏見のない自由な精神に驚嘆していたし、ユダヤ 人や女性にまつわる問題の提起者としても尊敬の念を抱いていた。
ラーエルの死後ベッティーナはラーエル書簡集の出版のために寡夫ファ ルンハーゲンの仕事を手伝う。この経験は後の『ゲーテとある子どもの往
8
Vgl. ibid., S. 182
9
Hermut Hirsch: Bettine von Arnim, Reinbeck bei Hamburg(Rowohlt Taschenbuch Verlag)
1987 , S. 75
10
Bttger, S. 183
復書簡集』( 1835 年)の執筆・編集に生かされることになる。
ベッティーナはアルニムの作品『田舎暮らし』に好意的だったカール・
アウグスト・ファルンハーゲン・フォン・エンゼ( 1785 - 1858 )と親しく なり、経験の幅を広げていく。ラーエルと並行して自らもサロンを主宰し ていたファルンハーゲンは辛辣で旺盛な批評によって政治の世界や社会の 不条理にベッティーナの目を開かせた。ベッティーナはラーエルに気兼ね することなくファルンハーゲンとも交流したが、決して恋愛関係にはなら なかった。二人は性別を超えた関係であり、互いを同志として尊重し合う、
当時としてはきわめて現代的な意識で結び付いていた。ファルンハーゲン はベッティーナの後半生に決定的な存在となっていく。
3.ランケとの交流
1820 年代末のベッティーナにとってのもう一人の重要人物が歴史家レオ ポルト・フォン・ランケ( 1795 - 1886 )である。彼は 1825 年にベルリン大 学に招聘された若き教授だった。ベッティーナは彼とファルンハーゲン夫 妻のところで知り合い、交流を深めた。ベッティーナは彼の豊かな学識と 偏見のない態度に好感を持った。若いランケにとってベッティーナは霊感 や預言を与えてくれる女性となる。 1827 年2月にランケが弟宛に書いた手 紙がベッティーナの家での晩の会話の様子をよく伝えている。
この女性はピュティア〔太陽神アポロンの女祭祀〕の本能を持っていま
す。あのような立て板に水の弁舌を私はこれまで聞いたことがありませ
ん。しかし誰が彼女の言うことをすべて信じようとするでしょうか。彼
女には優雅さ、わがままさ、愛らしさがあります……そしてそうでない
ことも〔……〕私はもう何度もそこで本当にすばらしい晩を過ごしまし
た。私は時に H.v.A〔フォン・アルニム氏〕が帰宅する 12 時まで居座る
こともあります。
11また、 1828 年4月8日付のファルンハーゲン宛書簡にはこう書いている。
このきわめて驚くべき被造物はいわば自然の激しい共感状態に巻き込ま れています。彼女はそもそも独りで寂しく暮らしているのですが。彼女 はしばしばダウジングの棒を手にして彼女の考えを持って、長いことあ ちらこちらを歩き回ります。そして何かを探り当てると、彼女の説教は 預言となり、溢れんばかりの生が彼女の中に甦ります。そうなると彼女 はすばらしい子どもとなり、比類の無いやんちゃ坊主になります。それ が一つの快楽なので傍若無人で、気立てが良く、彼女がどんなに滲めな 状況にあろうと恐れを知りません。
12ベッティーナは 1826 年8月末から9月初めまで二週間ヴァイマルのゲー テの家に滞在し、ゲーテとの和解を取り付けた。彼女はそれを誰かに話し たくて仕方なかったが、アルニムは虚実がない交ぜになったベッティーナ の話を本気に取ろうとしなかった。アルニムはサヴィニー宛の手紙で不快 感を露わにしている。
エグロッフシュタインからもらったミルテの枝とバラの蕾、ゲーテから もらった月桂樹の枝、公爵からもらった樫の木の枝。私はしかしこう考 えます、彼女はこれをどこかでこっそり切り落としてきたのであり、こ れらの贈り物をそういった人たちからもらったのだとこじつけているの
11
Ibid., S. 183
12
Drewitz, S. 130
だと。
13じっくり耳を傾けたのがランケだった。ランケは二人の教養豊かな女性 ラーエルとベッティーナから特に大きな影響を受けたが、年齢的に自分に 近いベッティーナの方により近しさを感じた。ラーエルはこの二人の関係 を羨んだ。ランケはベッティーナに話のきっかけを与える役割を果たし、
二人の間で交わされた会話から数多くの話題が『ゲーテとある子どもの往 復書簡集』に採録されることになる。
これらの人物との出会いと交流はベッティーナの憂鬱やメランコリーの 解消に一役買った。
13