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ドイ ツ近 代 国 民記 念碑 につ い て(そ の1)
一 「フ リー ド リ ヒ大 王 記 念 像 」 か ら 「ヘ ル マ ン 記 念 像 」 ま で 一
鈴 木 将 史
序
個 人 や 集 団 の行 為 を称 え,造 形 物 の 形 で 恒 久 的 に顕 彰 す る「記 念 碑 」(。Denk‑
mal")は,広 義 に は既 にエ ジ プ ト時代 の ピ ラ ミ ッ ドや オ ベ リス ク,或 い は 旧 約 聖 書 中 の記 載1に 端 を発 す る極 め て 長 い 歴 史 を持 つ が,中 世 キ リス ト教 社 会 の 記 念 碑 と して 一 般 的 だ った 「宗 教 的 記 念 碑 」2以降,近 代 に至 る まで そ の 世 俗 的 対 象 は専 ら専 制 君 主 とそ の業 績,或 い は 国 家 的 事 件 一 戦 争,君 主 同 士 の会 合,国 家 的 施 設 の 開 設,災 厄,特 にペ ス トの 流 行(こ う した 災 厄 を追 悼 す る意 で 建 て られ た 記 念 碑 を,時 に 「警 告 碑 」 〔。Mahnmal"〕 と呼 ぶ)一 な ど
と とい った もの に限 られ て お り,市 民 又 は市 民 団体 を顕 彰 した 記 念 碑 は非 常 に 少 な い 。 即 ち,時 の政 治 形 態 の影 響 を最 も受 け易 い建 造 物 が 記 念 碑 で あ る と もい え る わ けで,古 代 にお い て例 外 的 に民 主 制 が 確 立 して い た ギ リ シア に
1イ ス ラ エ ル 初 代 の 王 サ ウ ル は,カ ル メ ル で 自分 の た め に戦 勝 碑 を建 て(2.
Samuel.15,12),ダ ビ デ の 子 ア ブ サ ロ ム は,跡 継 ぎが い な か っ た た め,王 の 谷 に 自分 の 名 を入 れ た 石 柱 を立 て た 。(ebenda.18,18)
2中 世 キ リ ス ト教 社 会 で は,名 誉 は ひ とえ に神 が 担 う もの で あ っ た た め,記 念 碑 は本 来 人 間 に捧 げ られ る もの で は な か っ た 。 「記 念 教 会 」 は そ の意 味 で 広 義 の記 念 碑 と解 釈 し得 る 。 当 時 は戦 勝 を記 念 した 「戦 勝 教 会 」 も戦 勝 日 の 守 護 聖 人 や 聖 母 マ リ ア に捧 げ られ て建 て られ た が,純 粋 な宗 教 的 記 念 碑 と し て は,ミ ュ ンヘ ン や トリ ア ー に あ る こ とで 知 られ る 「マ リア 柱 」(。Mariensaule")や,中 世 都 市 の 中 央 広 場 に よ く建 て られ て い た 「市 の 十 字 架 」(。Marktkreuz")な どが 代 表 的 な も の で あ る。これ ら は 当 然 の 如 くキ リス トや 聖 母 を称 え る意 味 で建 設 さ れ た わ け だ が,ミ ュ ンヘ ンの よ う に,慶 事(ミ ュ ン ヘ ン の 場 合 は,30年 戦 争 の被 害 を町 が 免 れ た こ と)を 契 機 に建 立 され た 例 も あ る 。 また,噴 水 も こ う した 「宗 教 的 記 念 碑 」 と して 各 都 市 の 中央 広 場 に建 設 さ れ る こ とが 常 だ っ た 。(Vg1.Reallexikon
zurKunstgeschichte,3.Bd.,Stuttgart1954,S.1262‑1267.)
難 饗
照 欄 灘 難織 ・ 難
馨鱗 黙儲 纏 懸裏舗v鯉 献撚 職鰍
マ ル ク ス ・ア ウ レ リ ウ ス 皇 帝 記 念 騎 馬 像
建 て られた世界初 の市民 を顕彰 す る記念碑
(「ハ ル モ デ ィ オ ス と ア リ ス トゲ イ ト ン 像 [前510]3」)や,中 世 北 ドイ ツ の ハ ン ザ都 市 が 建 設 し た 都 市 の 自 由 と特 権 を象 徴 す る ロ ー ラ ン ト像 な ど は,こ う した 記 念 碑 の伝 統 に あ って は数 少 な い 例 外 とい え よ う4。
逆 に帝 政 が 確 立 した 古 代 ロ ー マ で は君 主 を礼賛 す る記念碑 が盛 んに建設 され,皇 帝 記 念 像(多 くが 騎 馬 像5)を 始 め とし て,凱 旋 門 や 戦 勝 記 念 塔 な ど,近 代 まで 続 く 「宮 廷 記 念 碑 」 の原 型 は既 に この 時代 で 確 立 す る に至 った 。 そ の模 範 とさ れ る記 念 碑 は, ロ ー マ ・カ ン ピ ド リオ 広 場 に 建 つ 「マ ル ク ス ・ア ウ レ リウ ス皇 帝 記 念 騎 馬 像 」 で あ る。
中 世 ヨ ー ロ ッパ の 記 念 碑 は,イ タ リ ア ・ル ネ サ ン ス に お い て 優 れ た彫 刻 家 達 が 現 れ,特 に君 主 の 騎 馬 像 を中 心 に隆 盛 を
3前514年 に,恋 人 同 士 のハ ル モ デ ィオ ス と ア リ ス トゲ イ トン(共 に 男 性)は, 時 の ア テ ネ の暴 君 ヒ ッパ ル コス を 殺 害 し た と さ れ る 。ハ ル モ デ ィ オ ス は 事 件 の 際 に 命 を落 と し,ア リス トゲ イ ト ン は そ の 後 処 刑 され た 。この 暗 殺 は,一 説 に は ヒ ッ パ ル コ ス が ハ ル モ デ ィ オ ス を我 が 物 に し よ う と し た こ と に ア リ ス トゲ イ ト ンが 立 腹 し た た め で あ る と も い わ れ るが,両 者 の 行 為 は,前510年 の僧 主 政 崩 壊 と共
に ア テ ネ 市 民 の 愛 国 心 を惹 起 した 。(Vgl.DerkleinePauly.Lexikonder Antike.1.Bd.,S.566f,2.Bd.,S.940,Stuttgart1964.)
4こ の 他 に,建 設 され た い わ れ は 曖 昧 な が ら,後 代 に伝 わ る伝 説 か ら記 念 碑 的 意 味 を付 与 され た モ ニ ュ メ ン ト も存 在 す る。 こ う した 記 念 碑 の典 型 と し て は,エ ル フル ト大 聖 堂 に あ る グ ラ イ フ ェ ン伯 爵(十 字 軍 に参 加 し,命 の 恩 人 とな っ た サ ラ セ ン 人 の 娘 を,既 婚 の 身 な が ら連 れ 帰 り,故 郷 で 本 来 の 妻 と共 に幸 福 な 「重 婚 生 活 」 を送 った と伝 え られ る 。 「グ ラ イ フ ェ ン伯 爵 」 は,後 の ドイ ツ 文 学 に お け る 重 要 な モ テ ィー フ と な っ た)の レ リー フや,ビ ンゲ ンの 「鼠 塔 」(。Mauseturm":
強 欲 な 大 司 教 が この 塔 で 大 発 生 し た 鼠 に噛 み殺 さ れ た と伝 え られ る)な どが あ る。(Vgl.ReallexikonzurKunstgeschichte,3.Bd.,S.1258.)
5中 世 まで に,記 念 像 は そ の 対 象 に従 っ た ス タ イ ル(君 主=騎 馬 像,軍 人=立 像, そ れ 以 外 の者=胸 像)が 定 着 した 。
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誇 る が,一 方 強 力 な 君 主 が現 れ る こ と もな く造 形 美 術 分 野 で も十 分 な 発 達 を 見 て い な か っ た ドイ ツ は,バ ロ ッ ク時 代 を迎 え る まで さ した る作 品 を生 み 出 し て は い な い。 こ う し た状 況 が 大 転 換 を迎 え,ド イ ツが 世 界 有 数 の 「記 念 碑 大 国」 にの し上 が る の は,19世 紀 に な って か らの こ とで あ る 。
記 念 碑 はひ とつ の 彫 刻 作 品,或 い は建 築 物 と も見 な し得 る が,そ こ に は他 に類 を見 ぬ ほ どに 強 い メ ッセ ー ジ性 が 盛 り込 ま れ て い る。 即 ち ニ ッパ ー ダ イ が 指 摘 す る よ う に,「 記 念 碑 は そ の 有 限 な 姿 の 内 に 無 限 を示 唆 す る」6ので あ っ て,そ の 「無 限 」 も,所 謂 芸 術 作 品が 惹 起 す る 「無 限 の 感 興 」で は な く, 思 想 性 を伴 った 「無 限 の理 念 」 な の で あ る。 記 念 碑 を建 立 す る 主体 は現 君 主 で あ り,顕 彰 され る対 象 は過 去 の 君 主 で あ る。そ して 事 業 は 純 粋 に宮 廷 の 「個 人 的 な 」行 為 と解 釈 され た 。 これ が 即 ち,18世 紀 に そ の 様 式 が ほ ぼ 完 成 した
「宮 廷 記 念 碑 」で あ る。 こ う した 「宮 廷 記 念 碑 」に対 して,国 民 が建 立 主 体 と な り,国 民 精 神 を 象徴 す る人 物(こ の意 味 にお い て人 物 が 君 主 で あ って も構 わ な い)を 顕 彰 す る記 念 碑 を 「国民 記 念 碑 」 と称 す る。1786年 に建 設 が 計 画 され たベ ル リン の 「フ リー ドリ ヒ大 王 記 念 像 」 建 設 事 業 は,プ ラ ンの 公 募 が 行 わ れ,服 装 や 装 飾 に つ い て ベ ル リ ン市 民 も巻 き込 ん だ議 論 が 行 わ れ るな ど,
「国 家 的 行 事 」の趣 を示 し た が,当 初 は フ リー ド リ ヒ を天 上 の神 界 に列 せ しめ る純 然 た る宮 廷 記 念 碑 と し て構 想 さ れ た 。 そ れ が 国 王 の 交 替 な どで 建 設 が 1800年 代 にず れ込 む と,対 ナ ポ レ オ ン解 放 戦 争 を経 て 「フ リー ド リヒ大 王 記 念 像 」に託 され た メ ッセ ー ジ性 も変 化 し始 め る。 「私 的 記 念 碑 」との 意 識 を持 つ 国王 フ リー ド リ ヒ ・ヴ ィ ル ヘ ル ムIII世 との 解 釈 上 の 調 整 を行 い な が ら,よ うや く落 成 を迎 え た1851年 に は,像 は君 主 に加 え そ の下 で戦 った 国民 達(当 然 そ れ は軍 人 を指 した が)を も顕 彰 す る 「国 民 宮 廷 記 念 碑 」 と して 国 家 的 祝 典 の も と に序 幕 され た の で あ る。
6ThomasNipperdey:NationalideeundNationaldenkmalinDeutschland .In:
HistorischeZeitschrift,Bd.206(1968),S.538.
国民 記 念 碑 的 要 素 を加 味 した宮 廷 記 念碑
「フ リー ドリ ヒ大 王記 念 像 」
プ ロ イ セ ン王 国 最 大 の君 主 で あ っ た フ リー ド リ ヒII世(大 王)を 顕 彰 す る 記 念 碑 の 建 設 案 は,既 に本 人 が 存 命 中 で あ る1779年 に軍 部 か ら提 案 され て お り,事 実 ル イ15世 騎 馬 像 を全 く模 倣 した 原 型 プ ラ ン も 出来 上 が って い た 。し か し,啓 蒙 君 主 を も って 自任 す る王 は,こ う した 絶 対 君 主 的 計 画 を拒 絶 し,
自 らを神 格 化 す る こ とな く,サ ン ・ス ー シ宮 殿 に飼 い 犬 と共 に ひ っ そ り と葬 られ た い と希 望 した 。 そ こで本 格 的 な記 念 碑 建 設 計 画 は,王 の死(1786)を 待 っ て立 ち 上 が る こ とに な るが,そ の 際 の 新 た な提 案 は,王 が や は り厚 く庇 護 し た 科 学 ア カ デ ミー か らな され,他 の 「通 常 」 の君 主 達 との差 別 化 を 図 る 意 味 で,ま ず 新 発 見 され た76の 小 惑 星 に,王 に 関連 す る名 前 が 付 け られ た 。
そ し て 実 際 の 記 念 碑 とし て は 当初 ピ ラ ミ ッ ド風 建 造 物 が検 討 さ れ た が,抽 象 的 に過 ぎ るた め賛 同 が 得 られ ず,次 に ロ ー マ に滞 在 して いた 彫 刻 家 ト リ ッペ ル(AlexanderTrippe1)と シ ャ ドウ(GottfriedSchadow)か ら3通 りの モ デ ル が 提 案 され た 。 た だ,そ れ ら の いず れ もが イ タ リア風 騎 馬 像 又 は石 棺 彫 刻 で あ り,現 国 王 フ リー ド リ ヒ ・ヴ ィ ル ヘ ル ムII世 を満 足 させ る もの で は な か っ た。 そ こで 宰 相 ハ イ ニ ッツ(FriedrichAntonvonHeinitz)は1791年
に建 築 案 の 公 募 を行 っ た が,め ぼ し い デ ザ イ ン は集 ま らず,何 よ り殆 どの プ ラ ンが 王 に古 代 ロ ー マ 風 衣 装 を着 せ て い た 。 た だ2件 の みが 王 を 古代 ゲ ル マ ン の い で た ちで 描 き,こ れ は シ ャ ドウ の第2案 もそ うで あ っ た が,こ こか ら ドイ ツ の記 念 碑 は よ うや くフ ラ ンス ・イ タ リア の 模 倣 か ら解 放 さ れ て い くの で あ る 。 記 念 碑 に お け る王 が 纏 う衣 装 は この 段 で 大 きな 議 論 とな り,現 国 王 や 貴 族,或 い は ア カ デ ミー 会 員 達 が 古 代 風 衣 装 を主 張 した 一 方,シ ャ ドウ を 始 め と した 芸 術 家 達 や ハ イ ニ ッ ツ,そ して市 民 達 は現 代 ドイ ツ風 衣 装 を推 し た 。 この 議 論 の決 着 が つ か ぬ 内 に無 名 の建 築 家 ク ラ ウ ス(A.F.KrauB)が,
テ ンペ ル ホ ー フ の丘 に フ リー ド リヒ の立 像 ・霊 廟 を持 つ 聖 地 の建 設 計 画 を発 表 す る が,こ の案 は後 の 国 民 記 念 碑 ス タ イ ル を先 取 りす る意 味 で注 目 に値 す
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フ リー ドリ ヒ大 王 記 念 像(ギ リー 案)
る。 こ の 案 に触 発 さ れ た か,1797年 に 行 わ れ た2回 目 の 公 募 で は ゲ ン ツ (HeinrichGentz)と ギ リー(FriedrichGilly)の プ ラ ンが 注 目 を集 め,そ の いず れ もが 大 王 像 や 石 棺 を納 め る神 殿 風 建 築 を メ イ ン と した こ とで,記 念 碑 の建 築 物 的 意 義 を大 き くア ピー ル した(ギ リー案 は,後 のバ イ エ ル ン に お け る 「ヴ ァル ハ ラ」建 設 の 際,大 い に参 照 さ れ た)。 これ らの案 も後 の国 民 記 念 碑 へ と連 な る もの と解 釈 で き よ うが,ま だ ドイ ツ独 自 の建 築 様 式 を確 立 す る に は至 らず,様 式 は ま る ご とギ リシ ア ・ロー マ ス タ イ ル を模 倣 して い る。 こ の 神 殿 風 記 念 碑 構 想 は し か し,そ の 数 年 後 に計 画 さ れ る ヴ ィ ッテ ンベ ル ク の
「ル タ ー 記 念 像 」に影 響 を与 えた と考 え られ る。(「ル ター 記 念 像 」は,落 成 年 か らい え ば最 も古 い 国 民 記 念 碑 で あ る とす る意 見 が 一 般 的 で あ る。)
と こ ろが,1797年 に フ リー ド リ ヒ ・ヴ ィル ヘ ル ムII世 が 没 し,後 を継 い で 即 位 した フ リー ド リ ヒ ・ヴ ィ ル ヘ ル ムIII世 は,国 庫 窮 乏 の 折,記 念 碑 建 築 の 延 期 を公 表 す る。そ うす る内 に1806年,プ ロ イ セ ン は ナ ポ レオ ン に征 服 され, フ リー ドリ ヒ大 王 記 念 碑 建 築 な ど論 外 に な った か に見 えた が,ナ ポ レ オ ン は, フ リー ド リヒ を 自 分 同 様 人 類 全 体 が 共 有 す べ き天 才 と考 え,シ ャ ドウ に改 め て 記 念 碑 建 築 推 進 を命 じた 。 しか し今 度 は シ ャ ドウ 自身 が ナ ポ レ オ ン下 で の 記 念 碑 建 築 を拒 否 した の で あ る 。そ し て この後,ナ ポ レ オ ン に よ る 占領 時代, 続 い て解 放 戦 争 時 代 へ と突 入 す るな か,世 間 は記 念 碑 ど こ ろ の話 で は な くジ 計 画 が 再 浮 上 し た の は よ うや く1829年 に な っ て か らで あ っ た 。そ の 際 も状 況
は 芳 し い もの とは け っ して い え た わ けで は な い 。 即 ち フ リー ド リ ヒ ・ヴ ィル ヘ ル ムIII世は,古 代n一 マ ・ トラ ヤ ヌ ス帝 記 念 円 柱 を模 倣 した記 念 碑 を希 望 した か らで あ る。 この 記 念 円柱 は, 皇 帝 の 数 々 の業 績 を描 い た レ リー フが 塔 外 壁 を螺 旋 状 に覆 い, 頂 上 付 近 に設 け られ た 展 望 台 ま で塔 内 部 の 階段 に よ り登 る こ と が 出 来 る建 築 物 で あ る が,ナ ポ レ オ ンが ア ウ ス テ ル リ ッツ会 戦 勝 利 を記 念 して パ リに建 て た 「ヴ ァ ン ドー ム 広 場 記 念 塔 」(1805) で有 名 な よ う に,当 時 の 記 念 塔 ス タ イ ル と して は模 範 的 な もの で あ っ た 。 古 代 ロー マ か ら フ ラ ン ス を経 て 流 入 した とい え る こ う した 記 念 塔 の 系 列 に は,ハ ノー フ ァー の 「ワ ー テ ル ロ ー記 念 塔 」(1832),或 い はベ ル リン の 「戦 勝 記 念 塔 」(1873)が 含 まれ る が,こ れ ら の塔 に は時 代 に よ る独 自性 が ほ と ん ど見 られ な い。
こ う した 事 実 か ら明 らか な よ う に,当 時 の建 築 界 で は既 に ドイ ツ風 記 念 碑 建 設 へ の様 式 の 模 索 が 始 ま っ て は い た もの の,施 主 で あ る宮 廷 は,記 念 碑 を依 然 と して古 典 的 様 式 を踏 襲iした私 的 な モ ニ ュ メ ン ト と見 な して い た の で あ る。
今 回 記 念 塔 建 築 プ ラ ン を出 す よ う に要 請 さ れ た の は 当 時北 ド イ ツ を代 表 す る建 築 家 で あ った シ ンケ ル(KarlFriedrichvon Schinkel)及 び シ ャ ドウ で あ るが,彼 ら は王 に 案 の 変 更 を求 め
トラヤ ヌ ス帝記念 円柱
る もの の認 め られ ず,1830年 に は彫 刻 家 ラ ウ フ(ChristianDanielRauch) が塔 を実 際 に 設 計 す る こ と とな っ た 。だ が ま た1835年 に な る と,王 は 記 念 塔 さ え経 費 が 嵩 み 過 ぎ る と考 え,簡 素 な 立 像 を 要 請 し直 した の で あ る。 ラ ウ フ は この 案 の修 正 案 と して,臣 下 達 の雄 姿 を描 い た 台 座 の上 に立 つ 大 王 騎 馬 像 を提 案 し,最 終 的 に は この プ ラ ンが 取 り入 れ られ た 。「フ リー ド リ ヒ大 王 記 念 像 」は,1840年 フ リー ド リヒ即 位 百 周 年 に こ う して よ うや く礎 石 が 置 か れ た が,こ の後 も,ど の人 物 を台 座 に描 くか で委 員 会 が 紛 糾 し,完 成 まで に は更
に10年 以 上 の歳 月 を要 した の で あ っ た(除 幕 式:1851年3月31日)。
完 成 した記 念 像 の大 王 は古 代 風 で は な く生 前 時 の 軍 服 姿 を し て い るた め,
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難⁝が
轟 蟻
フ リー ドリ ヒ大 王 記 念 像
ドイ ツ 的独 自性 を相 応 に表 現 して はい る もの の,第1次 公 募 で シ ャ ドウ らの 設 計 した伝 統 的 騎 馬 像 の 域 を大 き く逸 脱 す る も の で は な い 。1848年 の 革 命 失 敗 を鑑 み,除 幕 式 で フ リー ド リ ヒ ・ヴ ィル ヘ ル ムIV世 は,記 念 碑 を 。EinZei‑
chenderVers6hnungfUrAlleundderUmkehrfUrViele"7(「 全 て の者 へ の 融 和 と多 くの者 の 改 心 の 印」)と形 容 した が,国 民 との 融 和 の シ ン ボル に大 王 記 念 像 を位 置 づ け る こ と自体 が,当 時 か ら し て既 に ア ナ ク ロ ニ ズ ム で あ っ た とい え よ う。 大 王 記 念 像 は製 作 過 程 に お い て 国 家 ・国 民 の活 発 な 議 論 を呼 び,途 中 で は神 殿 形 式 を取 る純 粋 な 国 民 記 念 碑 の先 駆 け に な る可 能 性 もあ っ た が,結 果 とし て伝 統 的 な騎 馬 像 とな り,外 面 的 に は 宮 廷 記 念 碑 的 色 彩 が 色 濃 く残 っ た 。 た だ,以 降 の 国民 記 念 碑 に現 れ る形 式 の 多 くが,こ の 像 を制 作 す る に あ た っ て検 討 され て お り,そ れ ら は時 期 尚早 で あ る余 り実 現 し な か っ
7HubertSchrade:DasDeutscheNationaldenkmal . gabe,Mttnchen1934,S.57.
Idee/Geschichte/Auf一
た もの の,少 な くと も大 王 記 念 像 が 国民 記 念 碑 的存 在 に一 歩 踏 み 込 ん だ 宮 廷 記 念 碑 で あ っ た こ と は確 か で あ る。
以 降 の 国 民 記 念 碑 に多 か れ 少 な か れ 付 き ま とい,建 設 進 行 の妨 げ とな っ た 資 金 面 で の 問 題 は,「 フ リー ド リ ヒ大 王 記 念 像 」に お い て は ほ とん ど存 在 しな い 。(こ の点 が 既 に,こ の 記 念 碑 の本 質 的 な宮 廷 記 念 碑 的性 格 を物 語 る。)そ れ に も拘 らず 発 案 か ら完 成 まで65年 もの 歳 月 を費 や し た原 因 とし て,途 中 に 時 代 を大 き く変 え る事 件 が 生 じた こ と も勿 論 だ が,そ れ と共 に本 来 宮 廷 記 念 碑 と して構 想 され た記 念 像 に 国 民 記 念 碑 的性 格 を付 与 し よ う と した た め,関 係 者 の意 見 が 分 裂 した とい う こ と,及 び い まだ に確 立 して い な か っ た ドイ ツ
な らで は の 記 念 碑 様 式 を模 索 した 結 果,設 計 に著 し く手 間 取 っ た とい う こ と が挙 げ られ よ う。 そ して こ う した 事 態 の背 景 に は,解 放 戦 争 を契 機 とし て 当 時芽 生 え っ つ あ っ た民 衆 の ドイ ツ 国 家 意 識 に,フ リー ドリ ヒ大 王 の イ メー ジ が 「か ぶ り に くか っ た 」 点 が 認 め られ る。 解 放 戦 争 に 大 王 は無 論 関 わ っ て は い な い し,大 王 の フ ラ ン ス趣 味 は当 時 か ら夙 に有 名 で あ った 。 国 民 記 念 碑 建 築 ブ ー ム よ り一 足 先 に ドイ ツ に訪 れ る18世 紀 中盤 の 「国 民 劇 場 」設 立 運 動 に お い て も,本 来 中心 地 とな る べ きベ ル リ ン は,フ ラ ンス 文 学 を偏 愛 し ドイ ツ 文 学 を一 顧 だ に しな い 大 王 の存 在 に よ り積 極 的 に動 こ う とはせ ず,よ うや く
国 民 劇 場 が 市 中 心 部 ジ ェ ン ダ ル メ ンマ ル ク トに設 立 さ れ た の は,1767年 に最 初 の 国 民 劇 場 が ハ ンブ ル ク に設 立 され て か ら約20年 を経 た,大 王 が亡 くな る 年 の こ とで あ る。 フ リー ド リ ヒ ・ヴ ィル ヘ ル ムIII世が記 念 碑 建 設 に さ した る 意 欲 を見 せ な か っ た こ と も計 画 遅 延 の 大 きな 要 因 とい え るが,後 の 国 民 記 念 碑 に特 徴 的 な 保 守 的右 翼 市 民 層 に よ る建 設 推 進 運 動 も全 く見 当 た らな い 。 ド
イ ツ統 一 後 に続 々 と国 民 記 念 碑 が建 造 さ れ る中 に あ っ て も,中 世 の神 聖 ロ ー マ皇 帝 フ リー ド リ ヒ1世(バ ル バ ロ ッサ)は その 際 の重 要 な モ テ ィー フ とな っ た が,フ リー ド リ ヒ大 王 は ほ ぼ 閑 却 され た形 とな っ て い るの で あ る。
た だ,大 王 記 念 像 建 設 の後 期 に議 論 を巻 き起 こ した 台 座 の意 匠 に つ い て の 問題 は,こ の 記 念 像 を国 民 記 念 碑 に一 歩 近 づ け る役 割 を果 た した 。 それ まで 記 念 像 に お け る 「台 座 」 とい う存 在 は,単 に像 の土 台 に過 ぎず,精 々 碑 文 を
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5ヱ
刻 む 下 地 で しか な か っ た も の を,大 王 記 念 像 に あ っ て は,群 像 を設 置 した こ と に よ り,記 念 碑 中 の メ ッセ ー ジ を像 と共 に表 現 す る重 要 な 構 成 要 素 へ と格 上 げ され た の で あ る 。 フ リー ドリ ヒ大 王 記 念 像 で の台 座 の 重 要 性 は,像 よ り
も大 型 化 した そ の サ イ ズ に は っ き り と表 れ て い る。 後 の ドイ ツ近 代 国 民 記 念 碑 に とっ て ひ とつ の ポ イ ン トとな る 「台 座 」 の 扱 い に お い て,こ の記 念 像 は 明 らか に従 来 の 「宮 廷 記 念 碑 」か ら進 化 を遂 げ て い るの で あ る。 従 っ て,「 ブ リー ド リ ヒ大 王 記 念 像 」 は宮 廷 記 念 碑 か ら国民 記 念 碑 へ の 過 渡 期 に成 立 した 典 型 的 な 「宮廷 国 民 記 念 碑 」 に位 置 付 け られ よ う。
本 格 的 国 民 記 念 碑 の 誕 生
「ク ロ イ ツ ベ ル ク 記 念 碑 」 か ら 「ヘ ル マ ン 記 念 像 」 へ
19世 紀 中盤 に入 り,国 民 記 念 碑 の建 設 が い よい よ本 格 化 す る が,そ の 先 駆 け は,や は り トイ トブ ル クの 森 の東 南 端 に位 置 す る デ トモ ル トに建 設 され た
「ヘ ル マ ン記 念 像 」とす るべ き で あ ろ う。 た だ,ヘ ル マ ン像 以 前 に,解 放 戦 争 勝 利 を顕 彰 し た 国 民 記 念 碑 的建 設 物 が シ ン ケ ル の 設 計 に よ り1821年 ベ ル リ
ン ・ク ロ イ ツ ベ ル ク に完 成 し て い る こ と は余 り知 られ て い な い 。 こ の 「ク ロ イ ツベ ル ク記 念 碑 」 は塔 状 記 念 碑 で は あ るが,ト ラ ヤ ヌ ス 帝 記 念 円 柱 の様 式 を用 い た モ ニ ュ メ ン ト とは全 く趣 を異 に し,ド イ ツ特 有 と見 な され た 建 築 様 式 一 ゴ シ ッ ク様 式 一 に よ り築 か れ て い る 点 が 注 目 さ れ る。「ク ロ イ ツ ベ ル ク 記 念 碑 」 に は君 主 像 も付 設 され て
鍼驚 藪 はおら菟 アレゴリ豫 のみが彩
解 放戦 争記 念大 聖 堂(シ ンケル案)る 抽 象 的 な デ ザ イ ン の外 観 は,純
粋 な 国 民 記 念 碑 で あ る か の よ うな 印 象 を与 え る こ とで あ ろ う。 しか し この 記 念 碑 は,本 来 構 想 さ れ た 姿 の 一 部 分 に しか 過 ぎ な い 。 記 念 碑 建 築 の 要 請 は ブ リー ド リ ヒ ・ヴ ィル ヘ ル ムIII世か ら シ ンケ ル へ と もた らさ れ,本 来 は ゴ シ ッ ク様 式 の解 放 戦 争 記 念 大 聖 堂 が 建 設 さ れ る予 定 で あ った 。 大 聖 堂 に は歴 代 君 主 の 騎 馬 像 が 設 置 さ れ,国 家 の英 雄 や 文 化 的 偉 人 を顕 彰 す る大 規 模 な 「国 民 宮廷 記 念 教 会 」 が 設 計 され た が,恐 ら く資 金 難 に よ り,最 終 的 に は(新 た に デ ザ イ ン は設 計 さ れ直 され た が)そ の ゴ シ ッ ク尖 塔 の 先 端 部 の み を建 造 した とい う,竜 頭 蛇 尾 とい わ ざ る を得 な い 記 念 碑 が 「ク ロ イ ツベ ル ク記 念 碑 」 で あ る。 記 念 碑 の設 置 場 所 は,フ リー ド
リ ヒ大 王 記 念 碑 の た め にギ リー が 提 案 した ラ イ プ チ ヒ広 場(ポ ツ ダ ム 広場 向 か い)が 当初 計 画 さ れ,
ク ロ イ ツ ベ ル ク 記 念 碑
ギ リー の プ ラ ン で 用 い られ た 台座 が この大 聖 堂 に も 導 入 さ れ る とい うや や 奇 異 な設 計 を見 て も,「 ク ロイ ツベ ル ク記 念 碑 」は 「ヘ ル マ ン像 」 に連 な る とい う よ り,む し ろ 「フ リー ド リ ヒ大 王 記 念 像 」 の流 れ を汲 む宮 廷 記 念 碑 に端 を発 した モ ニ ュ メ ン ト とい え るだ ろ う。 た だ,19世 紀 初 頭 で あ りなが ら,伝 統 的 記 念 碑 様 式 を踏 襲 し な か っ た 記 念 碑 建 築 とし て,
こ の塔 は異 彩 を放 つ 存 在 で あ る し,プ ロ イ セ ン王 国 が 国 家 的 シ ンボ ル と した 鉄 十 字 を戴 く 「鉄 製 」 の 塔 に は,国 家(た だ し この 「国 家 」 の概 念 は 「プ ロ イ セ ン」 の 域 を 出 な い)自 体 の 名 誉 を顕 彰 す る 国民 記 念 碑 的 要 素 を強 く認 め る こ とが で き る 。 後 に塔 前 面 に造 成 さ れ た 滝 か ら見 上 げ る塔 は,シ ン ケ ル の
ドイ ツ近 代 国民 記 念碑 に つ いて(そ の1)
ク ロ イ ツ ベ ル ク 記 念 碑 (前 景 の 滝 よ り)
魏 筆灘
フ リ ー ド リ ヒ
「教 会 の あ る 雪 景 色 」 (1811)
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作 風 に 強 い 影 響 を与 え た 同 時 代 の ド イ ツ ・ロ マ ン主 義 画 家 フ リー ド リ ヒ (CasparDavidFriedrich)の 描 くゴ シ ッ ク教 会 を彷 彿 とさせ る趣 をた た えて い る。 「ク ロ イ ツベ ル ク記 念 碑 」は現 存 す る記 念 碑 群 に あ っ て は 目立 た ぬ存 在 で あ るが,ド イ ツ独 自 の記 念 碑 様 式 を模 索 した モ ニ ュ メ ン トで あ り,そ の後, ケ ル ン大 聖 堂 建 設 再 開(1842)な ど,ド イ ツ に訪 れ た 「ゴ シ ッ ク ・ル ネ サ ン ス」運 動 の 先 鞭 を つ け る建 築 物 とし て,無 視 で き ぬ存 在 で あ る8。 こ の後 の 記 念 碑 に関 し て も,同 年 に完 成 した 「文 化 人 記 念 碑 」 の 嗜 矢 と され る ヴ ィ ッテ ンベ ル ク の 「ル タ ー 記 念 像 」 を始 め と して,以 降 の 記 念 像 に は好 んで ゴ シ ッ
8Vg1 .Kerssen,Ludger:DasInteresseamMittelalterimDeutschenNationaL denkmal(ArbeitenzurFrUhmittelalterforschung8.Bd.),Berlin/NewYork
1975.
ク風 天 蓋 が 付 設 さ れ た(61ペ ー ジ写 真 参 照)。 そ して,当 初 企 画 さ れ た 記 念 大 聖 堂 が 完 成 し て い れ ば,極 め て例 の 少 な い 「国 民 記 念 教 会 」 の先 駆 とし て非 常 に重 要 な 記 念 碑 建 築 と位 置 付 け られ た筈 で あ る9。
国 民 記 念 碑 を創 作 す る に あ た っ て 重 要 とな るモ テ ィー フ は,国 民 的 ・庶 民 的 英 雄 の存 在 で あ る が,こ う した 英 雄 を生 み 出 し て きた文 学 領 域 に お い て,
ドイ ツ文 学 は フ ラ ン ス文 学 や イ ギ リス 文 学 ほ どの 収 穫 を見 せ て は い な い 。
「リ ュ ト リの誓 い 」に よ り民 族 自立 の 一 大 シ ンボ ル と して後 の シ ラ ー も描 い た ヴ ィル ヘ ル ム ・テ ル は,あ く まで も ス イ ス の 英 雄 で あ り,何 よ り ドイ ツ(神 聖 ロー マ 帝 国)の 支 配 に 反 旗 を翻 した 「逆 賊 」で あ る10。 ジー ク フ リー トに つ い て は,そ の 出 自 で あ る 「ニ ー ベ ル ンゲ ン伝 説 」が そ も そ も悲 劇 で あ る上 に, 彼 自身 の 最 期 も決 し て英 雄 的 な もの と は い え な い 。 後 に は ドイ ツ帝 国建 国 の 立 役 者 で あ る ビス マ ル ク が,国 民 記 念 碑 建 築 の 分 野 で 大 き くク ロ ー ズ ア ッ プ さ れ る こ と にな るが,彼 の 在 任 中(1862‑1890)は,国 民(特 に女 性)の 人 気 をそ れ ほ ど博 す る存 在 で は な か った 。 そ れ まで は,も と も とタ キ トゥ ス の
『年 代 記 』に描 か れ た 人 物 で あ り,西 暦9年 に トイ トブル クの 戦 い で ロ ー マ 帝 国 の 支 配 か らゲ ル マ ン民 族 を解 放 した ケ ル ス カ ー 族 の首 領 ヘ ル マ ン(ア ル ミ ニ ウ ス)が,他 民 族 支 配 か ら ドイ ツ を解 放 す る英 雄 と して,中 世 以 降 主 に文 学 の領 域 で 注 目 を浴 び て い た の で あ る11。解 放 戦 争 直 前 の1808年 に も,ナ ポ
9Vgl .MartinSteffens:K.F.Schinkel1781‑1841.EinBaumeisterimDienste derSchδnheit,K61n2003.S.22f.
10テ ル 劇 は ,神 聖 ロー マ帝 国の弾 圧 に対 して盟 約 を結 び立 ち上が る民 衆 を描 く以 上,帝 国 首 都 で の 上 演 は論 外 で あ っ た と い え る。 シ ラ ー の 。WilhelmTell"に つ い て も ドイ ツ各 都 市 で は 創 作 年(1804)中 に上 演 さ れ た が,ヴ ィ ー ン で は 大 幅 な 修 正 を 施 さ れ た 上(皇 帝 殺 害 の報 が 流 れ る 第 五 幕 は 全 体 が 割 愛 さ れ た),よ う や
く1810年 に上 演 が 許 さ れ た 。(Vgl.FriedrichSchiller:WerkeundBriefe,Bd.
5,Frankfurta.M.1996,S.746.)
11『 年 代 記 』 は,ト イ トブ ル ク の 戦 い か らお よ そ1世 紀 後 に 著 さ れ,そ の 主 旨 は あ く まで ロ ー マ 帝 国 の 消 長 の 記 述 で あ る 。中 で も ロ ー マ 将 軍 ゲ ル マ ニ ク ス に脚 光 が 当 て られ て お り,ア ル ミニ ウ ス は トイ トブ ル ク の 戦 い 以 降,ゲ ル マ ニ ク ス に 時 に は退 却 し な が ら も執 拗 に 挑 み か か る敵 将 と して,英 雄 的 に は描 か れ て い な い 。 (『年 代 記 』第1巻,55‑7!章 参 照 。)対 して,同 じ作 者 に よ る 『ゲ ル マ ニ ア』 は,
ドイ ツ近 代 国 民 記念 碑 につ い て(そ の1)
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レオ ン の 支 配 す る フ ラ ン ス を ロ ー マ 軍 に,プ ロ イ セ ン をケ ル ス カ ー族 に,そ し て ケ ル ス カ ー 族 と密 約 を結 ぶ ス ウ ェー べ 族 をオ ー ス トリア に見 立 て た との 説 が あ る12ク ラ イ ス トの 『ヘ ル マ ン の戦 い 』が 書 か れ て い る。 従 っ て,解 放 戦 争 勝 利 を受 けて そ の記 念 碑 の モ テ ィー フ と して ヘ ル マ ンが 浮 か び上 が る こ と 自体,ご く自然 な成 り行 き で あ る とい え よ う。 事 実,解 放 戦 争 を記 念 す るヘ ル マ ン記 念 像 の 案 は,既 に1814年 に 出 さ れ て い た が,実 際 に着 手 さ れ る の は フ ラ ン ケ ン出 身 の彫 刻 家 バ ン デ ル(ErnstvonBande1)が 単 独 で,ト イ トブ ル ク古 戦 場 と当 時 目 され て い た グ ロー テ ン ブ ル ク近 郊 の都 市 デ トモ ル トに お い て,1838年 に 「ヘ ル マ ン記 念 像 建 設 期 成 会 」(。VereinfttrErrichtungdes Hermann‑Denkmals")を 設 立 し てか らで あ る。
期 成 会 は,そ の後 続 々 と結 成 され 国 民 記 念 碑 建 設 の原 動 力 とな る民 間 協 会 と は性 質 が 異 な り,規 約 も存 在 しな い ほ どに 未 整 備 な組 織 で あ っ た もの の, そ の 最 大 の 目的 一 資 金 調 達 一 に関 して は有 効 に機 能 した 。初 年 度 に会 は既 に 1100タ ー ラー を集 め て い る。ヘ ル マ ン像 の デ ザ イ ン と して はバ ン デ ル の 手 に よ る図 案 が1834年 の もの か ら残 っ て い るが,こ れ も最 終 案 と大 差 は 見 られ な い 。 最 大 の相 違 と して は,初 期 ヘ ル マ ン像(34・38年)は 通 常 の マ ン トな ら ぬ 「ラ イ オ ン の毛 皮 」 を マ ン ト代 わ りに羽 織 っ て い る点 で あ る(38年 案 で ヘ ル マ ン像 が 羽 織 る マ ン トの結 び 目 に は ラ イ オ ンの 前 足 部 が 見 え る)。これ は明
ア ル ミ ニ ウ ス に つ い て の 直 接 的 な 言 及 は な い も の の,ゲ ル マ ン 民 族 の 素 朴 な 風 俗 と質 実 剛 健 な 性 格 を 称 揚 し た 地 誌 と な っ て お り,人 文 主 義 者 達 に よ る ヘ ル マ ン 礼 賛 の 直 接 的 な 契 機 に な っ た も の と考 え ら れ る 。こ の 書 は ゲ ル マ ン 民 族 の 大 移 動 と
キ リ ス ト教 化 の 中 で 一 旦 紛 失 し,ヘ ル マ ン も民 間 伝 承 の 形 で ゲ ル マ ン 民 族 内 に 伝 え ら れ て い た 。1455年 に 文 献 が 再 発 見 さ れ,程 な く人 文 主 義 時 代 が 到 来 す る と, ヘ ル マ ン は,フ ッ テ ン や リ ス トや ロ ー エ ン シ ュ タ イ ン の 作 品 に よ り,30年 戦 争 以 降 ド イ ツ に 到 来 し た フ ラ ン ス 趣 味 の 強 い 「ア ・ラ ・モ ー ド 」 文 化 に 対 抗 す る 純 粋
ド イ ツ 文 化 の 象 徴 と し て 脚 光 を 浴 び る よ う に な る 。(Vg1.Kindermann,Heinz:
DasWerdendesHermann‑MythusvonHuttenzuGrabbe.In:Jahrbuchder Grabbe‑Gesellschaft3.Bd.(1940),S.26‑50./GeschichtederdeutschenLitera‑
turvondenAnfangenbiszurGpgenwart[DDR],Bd.4,Berlin1985,S.169.) 12Vg1
.Samuel,Richard:Kleists"Hermannsschlacht"undderFreiherrvon
Stein.In:JahrbuchderdeutschenSchillergesellschaft,5.Jg.(1961)
鵡 蟹 一 。\ マ 》
ヘ ル マ ン像(1838年 案)
ほぎ臓婆
識
ヘ ル マ ン像(1841年 案)
らか に 「勇 者 」 と して の ヘ ラ ク レス 像 が ヘ ル マ ン に オ ー バ ー ラ ップ した 結 果 で あ ろ う。
しか しヘ ラ ク レ ス は別 に ドイ ツ 愛 国 精 神 と は直 接 関係 しな い た め,1841年 の プ ラ ン で はバ ン デ ル 自身 が 毛 皮 の マ ン トを省 い て い る。 台 座 は ゴ シ ッ ク様 式 と古 代 神 殿 風 様 式 の 折 衷 案 とな った が,こ こで も国民 記 念 碑 的 特 長 で あ る 台 座 の強 調 が 見 られ,像 そ の もの よ り台 座 は大 型 化 して い る。 そ して,そ の 上 に据 え られ た 簡 素 な 岩 の上 に 立 つ ゲ ル マ ン民 族 的装 い の ヘ ル マ ン は,ま た 古 典 趣 味 の 宮 廷 文 化 とゲ ル マ ン性 を支 持 す る市 民 文 化 の 融 合 を表 現 して い る とい え よ う。 こ の 後 建 築 計 画 の パ トロ ン の ひ と りで あ っ た バ イ エ ル ン 国 王 ル ー ドヴ ィ ヒ1世 側 か ら台 座 にパ ン テ オ ン風 円形 建 築 物 を用 い る こ とが 資 金 提 供 の 見 返 り と して 要 請 さ れ,宮 廷 古 典 趣 味 が 一 層 強 調 され か け た が,バ ン デ ル の 最 終 案 に お け る台 座 はキ ュー ポ ラ構 造 を取 る もの の,全 体 的 に簡 素 で
ドイ ツ近 代 国民 記 念碑 につ い て(そ の1)
柱 の 形 状 な ど も古 典 様 式 に は倣 わ な い 形 と,・ 零 、 なって い る・ しか しな が ら19世 紀 中盤1鴨1驚
贈 磁轟こ 馨ち 罪 灘 鰐 灘
マ ン像 台 座 設 計 にお け る 実 際 上 の ネ ック で あ り,建設 計 画 遅 延 の一 因 と もな っ た 。1838 年 に は,記 念 碑 設 計 の オ ー ソ リ テ ィー と な っ て い た シ ンケ ル とラ ウ フが,従 来 の 彼 等 が手 掛 けた 記 念 碑 同 様,ロ ー マ 風 角 柱 台 座 に剣 を地 面 に突 き立 て る 「静 的 」 な ヘ ル
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マンを提案す礁 鰍 戦争勝利と共に来 雛
る べ き ドイ ツ統 一 へ の期 待 を象 徴 す る像 と ヘル マ ン像(シ ンケル ・ラウ フ案) し て はバ ン デ ル 案 に圧 倒 的 な 人 気 が あ っ
た 。1840年 以 降 は「ラ イ ン危 機 」(ト ル コー エ ジ プ ト問 の 領 土 紛 争 に端 を発 し た ラ イ ン右 岸 を巡 る独 仏 間 の対 立)に よ り独 仏 間 の 緊 張 が 高 ま り,そ れ に伴 っ て 高 揚 した 愛 国精 神 の も とに 「ヴ ァ ル ハ ラ 」の 完 成 や 「解 放 記 念 堂 」の 定 礎, 或 い は 「ケ ル ン大 聖 堂 」の建 設 再 開 な どが 相 次 ぐが(共 に1842),ヘ ル マ ン像 も1841年 に 台 座 定 礎 式 が行 わ れ た 。 と ころが1846年 に は台 座 が 完 成 す る も の の,そ の後 ほ ぼ16年 間 に亙 って 建 築 は中 断 す る 。そ の 原 因 と して は,資 金 不 足,48年 の革 命 と そ の後 の 動 乱 期,バ ンデ ル と地 元 デ トモル ト協 会 の不 和 (資 金 を思 う よ う に集 め ぬ協 会 にバ ンデ ル は業 を煮 や し,ハ ノ ー フ ァー に移 り 住 ん で し ま う)な どが 挙 げ られ よ う。 よ うや くハ ノ ー フ ァー 協 会 に よ り記 念 碑 建 築 再 開 の 募 金 活 動 が 始 ま った の が1862年 の こ とで あ る。62年 は 奇 し く
もビ ス マ ル クが プ ロイ セ ン の 宰 相 に就 任 した 年 で あ り,こ の年 か ら ドイ ツ愛 国 精 神 は最 終 的 な段 階 に入 る と も い え よ う。 こ の時 期 以 降,プ ロ イ セ ン宮 廷 の支 援 も加 わ り(1869年 に は つ い に 国王 ヴ ィル ヘ ル ム1世 自 らが建 設 現 場 を 視 察 す る),逆 に記 念 碑 は宮 廷 色 を強 め た小 ドイ ツ主 義 統 一 精 神 の 象 徴 と見 な さ れ始 め,却 っ て リベ ラル 主 義 者 達 の 反 発 を買 った 。 しか し1871年 の 普 仏 戦
争 勝 利 に よ り新 た な 国家 的 象 徴 性 を付 与 され た ヘ ル マ ン像 は,建 設 中 で あ り な が ら1870年9月4日 に セ ダ ン会 戦 勝 利 記 念 式 典 の会 場 とな り,こ の行 事 は 第 一 次世 界 大 戦 まで 続 け られ る ので あ る。この 後 は国 家 リベ ラル 層 が 像 の 「国 家 的記 念 碑 」 化 を進 め,ハ ノー フ ァー協 会 か ら建 設 へ の 国 庫 支 援 要 請 が政 府 に 出 さ れ る と,紆 余 曲 折 の す え 国 庫 よ り10000タ ー ラー,加 え て 皇 帝 よ り 9000タ ー ラ ー の 援 助 が 寄 せ られ た 。
ニニ晶 箭 潴際 淵 讃ビ 繋1警'詳 雛 即
く除 幕 式 を連 え る に 至 っ た の で あ る13。
「フ リー ドリ ヒ大 王 記 念 像 」が,も と も と は純 粋 な宮 廷 記 念 碑 と して 計 画 さ れ,制 作 過 程 にお い て 国 民 記 念 碑 的 理 念 が 追 加 さ れ た モ ニ ュ メ ン ト で あ る の に対 し,「 ヘ ル マ ン像 」は一 人 の彫 刻 家 が 愛 国 心 の 証 と して構 想 し,そ の 基 本 理 念 は最 後 ま で変 化 す
の 一 部 を まか な っ た 最 初 の記 念 碑 が
「ヘ ル マ ン像 」で あ る。 た だ,制 作 期 間 の 後 半 で は民 間 だ けの 資 金 で は足 り な くな りプ ロ イ セ ン宮 廷 の援 助 を 受 けた こ とで,像 は 宮 廷 記 念 碑 的 な
側 面 も併 せ 持 っ こ と に な る。 そ の た ヘル マ ン記念像
13Vgl .AndreasD6rner:PolitischerMythosundsymbolischePolitik.Sinn‑
stiftungdurchsymbolischeFormenamBeispieldesHermannmythos.
Opladen1995.S.223‑236.
ドイ ツ近代 国民 記念 碑 につ い て(そ の1)
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「ヘ ル マ ン記 念 像 」 除 幕 式(1875年8月16日)
め 除 幕 式 は皇 帝 を始 め と して ドイ ツ の 諸 侯 が 臨 席 す る な ど,フ リー ドリ ヒ大 王 記 念 像 除 幕 式 に劣 らぬ 公 的 式 典 とな った が(も っ と も,以 降 の 大 規 模 国 民 記 念 碑 除 幕 式 に も皇 帝 は参 加 し続 け た),式 典 の ク ラ イ マ ッ クス は皇 帝 とバ ン デ ル の 握 手 で あ り,式 典 の 正 式 名 称 も「ドイ ツ国 民 へ の ヘ ル マ ン像 引 渡 し式 」
とな っ て い る。 また,式 典 の 正 式 参 加 者 で は な い が,当 日は2万 人 以 上 の 市 民 が会 場 周 辺 に集 ま り,ビ ー ル や 菓 子 や 像 の ミニ チ ュ ア等 々 を売 る 出店 が 現 れ る な ど,正 に 国 民 記 念 碑 の 除 幕 式 に ふ さわ しい祭 りの盛 況 を呈 した と,当 時 の メ デ ィ ア は伝 え て い る(上 の 図 の右 に演 壇,向 か い合 わ せ て 左 の天 幕 に 鉄 十 字 の 紋 章 の も と,皇 帝 席 が 設 え られ て い る の が 分 か る)。
「ヘ ル マ ン像 」 はバ ンデ ル とい う熱 烈 な愛 国 者 が ほ ぼ単 独 で 立 案 ・制 作 した 記 念 碑 で あ る た め,直 接 的 な メ ッ セ ー ジ 性 を よ り強 く有 して お り,当 時 バ イ エ ル ンで 建 設 され た 「ヴ ァル ハ ラ 」な どに 現 れ 始 め,以 降 の記 念 碑 が 併 せ 持 っ た建 築 物 的 要 素 は当 初 ほ とん ど考 慮 さ れ て は い な か った 。 しか し設 計 の過 程 で生 じ た 台 座 に 関 す る議 論 の 末,円 蓋 を持 ち な が ら当 時 の ス タ ン ダ ー ドで
あ った ロ ー マ 神 殿 風 様 式 とは一 線 を画 す る簡 素 で 力 強 い 台座 が 誕 生 す るの で あ る。 この 台 座 の デ ザ イ ン は後 の 「ビ ス マ ル ク 塔 」 に繋 が る も の で あ り,像 に劣 らず 台座 につ い て もヘ ル マ ン像 は ドイ ツ独 自の 新 た な様 式 を 開拓 した こ と に な る 。像 そ の もの も,ロ ー マ軍 を象 徴 す る鷲 と執 政 官 の 斧 を左 足 で 踏 み 据 え,右 手 に剣 を高 く掲 げ る ポ ー ズ は,対 案 で あ る シ ンケ ル の 描 い た 古 典 主 義 的 ヘ ル マ ン に較 べ る と極 め て挑 発 的 で あ り,ド イ ツ解 放 の戦 いが まだ 道 半 ぼ に あ る こ と を 明 示 し て い る14。 「戦 い 」 と は 当 然 ド イ ツ 統 一 へ の 戦 い を 指 す が,統 一 成 っ た 後 で 計 画 ・建 設 さ れ た 「ニ ー ダ ー ヴ ァル ト記 念 碑 」 が,こ れ に対 し て剣 を下 ろ し て い る点 は象 徴 的 で あ る 。 ニ ー ダ ー ヴ ァル トの ゲ ル マ ニ ア も,ヘ ル マ ン同 様 右 手 を差 し上 げ て い る が,そ こ に は剣 な ら ぬ ドイ ツ 皇 帝 冠 が 掲 げ られ て い る の で あ る。 そ して,結 果 的 に ドイ ツ統 一 後 に落 成 した へ ル マ ン像 が 振 り上 げ る剣 は,更 な る フ ラ ン ス との 最 終 決 戦 に向 け,国 民 の 士 気 を鼓 舞 す る もの とい う,新 た な解 釈 が 付 与 され た 。 当 時 の 独 仏 関係 は,そ
14「 ヘ ル マ ン像 」 が 取 る ロ ー マ 執 政 官 の斧 を踏 み つ け る と い う ポ ー ズ は,後 代 ま で 保 存 さ れ る 近 代 記 念 碑 と し て は,そ の 品 位 が 疑 わ れ る ほ ど直 情 的 な もの だ が, こ う し た 姿 勢 は,古 代 ギ リ シ ア の 戦 勝 記 念 碑 「・トロパ イ オ ン」の 伝 統 に連 な る も の で あ る 。 「トロパ イ オ ン 」 とは,敗 軍 が 敗 走 し た 地 点 に戦 勝 の 証 と し て,木 に 戦 利 品 を ぶ ら下 げ モ ニ ュ メ ン トと し た もの で,後 の 「トロ フ ィ ー 」の 語 源 と な っ た 。戦 勝 記 念 碑 の こ の ス タ イ ル は 長 い 間 踏 襲 さ れ,素 材 の 一 部 を 戦 利 品 か ら調 達 す る と い う手 法 は 近 代 に至 る まで 一 般 的 な もの で あ っ た 。例 え ば ケ ル ン大 聖 堂 の 大 鐘 「カ イ ザ ー グ ロ ッケ 」(1874)は,普 仏 戦 争 で 戦 利 品 とな っ た フ ラ ンス の 大 砲 か ら鋳 造 さ れ た鐘 で あ る 。(Vgl.DerkleinePauly.LexikonderAntike,Bd.
5,Mttnchen1979,S.986f./Nipperdey,Thomas:DerK61nerDomals
Nationaldenkma1.In:HistorischeZeitschrift,Bd.233[1981],S.595‑613.)だ
が,こ の よ う な 姿 勢 は 時 代 が 下 る と共 に敗 者 へ の配 慮 が 足 らぬ 行 為 と し て 慎 ま れ る よ う に な り,20世 紀 に入 る と そ の 例 は 皆 無 と な っ た 。(「ニ ー ダ ー ヴ ァ ル ト記 念 碑 」[1883]建 設 時 に も,戦 利 品 利 用 の議 論 は あ っ た が,最 終 的 に却 下 さ れ た 。)
と こ ろ が,戦 後 東 ベ ル リン ・ト レ プ トウ公 園 に 建 て ら れ た 「ソ ビ エ ト兵 士 顕 彰 碑 」 (1949)の 兵 士 は,新 生 東 ドイ ツで あ る幼 児 を 左 腕 に抱 き,左 足 で ハ ー ケ ン ク ロ イ ツ を踏 み つ け る とい う,「 ヘ ル マ ン記 念 像 」 と類 似 した ポ ー ズ を取 っ て い る 。 し か も,こ の 鍵 十 字 は,ナ チ ス 総 統 府 正 面 に 掲 げ られ て い た 実 物 を使 用 した もの で あ る。公 園 内 の 他 の モ ニ ュ メ ン トも総 統 府 の 建 材 か ら制 作 さ れ て お り,こ の 点 に ソ連 の 記 念 碑 制 作 に お け る思 想 の 「後 進 性 」 が 指 摘 で き る と も い え よ う。
ドイ ツ近 代 国 民 記念 碑 につ い て(そ の1)
6ヱ
れ ほ ど緊迫 の 度 を加 えて いた の で あ る。
以 上 述 べ た よ うに,ヘ ル マ ン記 念 像 は, 宮 廷 の主 導 に よ らな い初 の純 然 た る国 民 記 念 碑 と位 置 付 け る こ とが で き る。 確 か に, 王 侯 ・貴 族 以 外 を顕 彰 した記 念碑 で あ れ ぼ, 既 に1801年 に提 案 され21年 に ヴ ィ ッ テ ン ベ ル ク で 序 幕 され た 「ル ター 記 念 像 」 が そ の 嗜 矢 とさ れ て お り15,以 降1837年 にマ イ ン ツ と トー ア ヴ ァル ト セ ン に 完 成 し た
「グ ー テ ンベ ル ク 記 念 像 」,1840年 完 成 の
懸 ニ ュ ル ン ベ ル ク 「デ ュ ー ラ ー 記 念 像 」,そ し
、℃κら
て1857年 に 序 幕 さ れ た ヴ ァ イ マ ー ル の 馨 鞍 ゲ ー テ ・シ ラ ー 像 とい っ た 記 念 碑 が ヘ ル マ ル ター記念 像 ン像 よ り も先 に現 れ て い る。 こ う した ドイ ツ 精 神 文 化 の 偉 人 達 に捧 げ られ た記 念 碑 を ニ ッパ ー ダ イ は 「文 化 的 国 民 記 念 碑 」 と名 付 け,「 フ リー ドリ ヒ大 王 記 念 像 」 に代 表 さ れ る 「宮 廷 国民 記 念 碑 」 に続 い て ドイ ツ統 一 前 に現 れ る 国民 記 念 碑 タ イ プ に分 類 し て い るが,こ れ らの 記 念 碑 建 設 は,た と え市 民 層 か ら発 議 さ れ た もの で あ る と して も,建 設 活 動 の 主 体 は あ くまで も時 の 支 配 者 層 だ った の で あ る 。
加 え て19世 紀 中 盤 に多 数 制 作 さ れ る文 化 的 国 民 記 念 碑 は,解 放 戦 争 後 の反 動 体 制 や,二 月 革 命 の 失 敗 に よ る政 治 的 閉 塞 感 に も起 因 した ひ とつ の 「代 償 昇 華 行 為 」 で あ る とみ な す こ とが で き よ う。 この 意 味 に お い て,文 化 的 国 民 記 念 碑 は,絶 対 君 主 制 を打 破 で きぬ ま ま,ド イ ツ精 神 文 化 の 中 に豊 か な 地 域 性 を見 出 そ う と した ドイ ツ ・ロ マ ン主 義 と同根 で あ る。 バ ン デル は,当 時 も
尚 芸術 家 栄達 の 王 道 と され た 宮 廷 に よ る お抱 え芸 術 家 とな る こ とを潔 し とせ
15Vg1 .Schrade:DasDeutscheNationaldenkmal,S.30‑36.
ず,1834年 に ハ ノー フ ァー へ と移 っ て きて お り(註17参 照),翌 年 に は近 隣i に位 置 す る ゲ ッテ ィ ン ゲ ン大 学 の教 授 達 と親 交 を持 ち,彼 らの 国 民 自 由主 義 思 想 に 大 い に鼓 舞 され た と伝 え られ る16。そ の ゲ ッテ ィ ンゲ ン大 学 で,ロ マ ン 主 義 の 泰 斗 で あ るグ リム兄 弟 が 当 時 教 鞭 を取 っ て い た事 実 は偶 然 以 上 の意 味
を持 つ で あ ろ う し(バ ン デ ル が グ リム兄 弟 と面 識 が あ った か ど うか は定 か で は な い),国 民 記 念 碑 建 設 を 目指 す 「ヘ ル マ ン記 念 像 建 設 期 成 会 」設 立 の前 年 (1837)に,リ ベ ラル な新 憲 法 破 棄 に抗 議 して 「ゲ ッ テ ィ ンゲ ン7教 授 事 件 」 が 起 きた こ とな ど を鑑 み る と,1837か ら40年 に か け て の 時 期 は ドイ ツ統 一 へ と至 る国 民 自 由 主 義,ひ い て は ドイ ツ愛 国 精 神 の胎 動 を示 す 時期 と して特 別 な期 間 に位 置 づ け られ よ う。
一 方,政 治 的 な事 件 を契 機 と し て市 民 の 総 合 的 意 思 に よ り ドイ ツ国 家 ・国 民 を顕 彰 し,愛 国心 の 直 接 的 な鼓 舞 を 目 的 に建 設 さ れ た 「ヘ ル マ ン像 」 を始 め とす る 「民 主 的 国 民 記 念 碑 」 は,国 民 記 念 碑 の究 極 的 形 態 と もい え るが, そ の本 格 的 な建 設 気 運 は,ド イ ツ統 一 に光 明 が見 え始 め た1860年 代 以 降 に よ うや く訪 れ た 。 と りわ け1863年 は解 放 戦 争50周 年 に当 た るが,こ の 年 に ラ イ プ チ ヒで 大 規 模 な 祝 典 が 催 され た 際,国 民 記 念 碑 を建 設 す る べ く,礎 石 が 同 地 に置 か れ て い る。 しか し,普 仏 戦 争 まで 続 くそ の後 の一 連 の 国 家 的 紛 争 に よ り,記 念 碑 完 成 は叶 わ な か っ た。 また,63年 に は別 にバ イ エ ル ン 中部 の ケ ル ハ イ ム に も 「解 放 記 念 堂 」 が 完 成 す るが,こ れ は記 念 碑 的建 造 物 を殊 更 好 ん だバ イ エ ル ン王 ル ー トヴ ィ ヒ1世 の個 人 的 な意 向 に よ る もの で,厳 密 な 意 味 で の民 主 的 国民 記 念 碑 とは 呼 べ な い。 また,そ の建 築 様 式 も,先 に述 べ た ル ー トヴ ィ ヒ の も うひ とっ の記 念 碑 建 築 「ヴ ァル ハ ラ」 同様,古 代 様 式 の 全 くの模 倣 で あ る(「ヴ ァル ハ ラ 」=「パ ル テ ノ ン」,「解 放 記 念 堂 」=「パ ン テ オ ン」。 た だ し,「 ヴ ァル ハ ラ」背 面 に は戦 うヘ ル マ ンが 描 か れ て い る)17。従 っ
16Vgl
.HeinrichDittmar:ErnstBandelsvaterlandischeDenkmalsch6pfung.
In:HermannderCheruskerundseinDenkma1,Detmold1925,S.33.
17ル ー ト ヴ ィ ヒ1世 は
,1818年 に 訪 れ た ロ ー マ に 感 銘 を 受 け,ミ ュ ン ヘ ン を 芸 術
の 都 と す る べ く 大 改 造 し た こ と で 知 ら れ て い る が,そ の 際 の モ ッ トー は,「 こ の
ドイ ツ近 代 国 民 記念 碑 につ い て(そ の1)
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て,文 化 人 で も君 主 で も な い伝 説 の 英 雄 ヘ ル マ ン を記 念 した 「ヘ ル マ ン像 」 は,統 一 前 に計 画 さ れ た 記 念 碑 と して 飛 び抜 けて 先 進 的 な 民 主 的 国 民 記 念 碑 だ っ た わ けで あ り,そ れ は ひ と え に一 市 民 の 発 想 と熱 意 が 成 せ る業 で あ っ た とい え る 。 そ し て 当 然,建 設 が 中 止 さ れ か け るの も,従 来 の記 念 碑 建 設 の常 識 に反 す る計 画 と建 築 主 体 ゆ え にで あ り,62年 か ら再 着 工 さ れ た事 実 は,未 完 の ラ イ プ チ ヒ会 戦 記 念 碑 と 「解 放 記 念 堂 」 同様,19世 紀 半 ば に芽 生 えた ド
イ ツ全 体 の 国 民 ・国家 意 識 が,こ の 時 期 あ た りか ら よ うや く本 格 的 に醸 造 さ れ 出 し た こ と に他 な らな い 。 この意 味 で 「ヘ ル マ ン像 」 は,君 主 礼 賛 の意 味 合 い を全 く含 まず,し か も極 め て早 期 に制 作 され た もの とし て,民 主 的 国 民 記 念 碑 の ア ル フ ァ で あ り,ま た オ メ ガ と呼 び 得 る存 在 で あ る。
また,「 ヘ ル マ ン像 」に よ り,都 市 郊 外 型 記 念 碑 が 初 め て 現 れ た点 も見 逃 す こ と はで きな い 。 それ ま で の 記 念 碑 は,人 々 の 目 に触 れ させ る 目 的 で,ま た, 建 設 母 体 が 宮 廷 で あ っ た り市 当局 で あ っ た り した 関 係 で,市 街 地 に建 設 され る こ とが 常 で あ った 。対 して 「ヘ ル マ ン像 」 は,建 設 地 の 必 然 性 を 重 視 した 個 人 の 自 由 な 意 思 に よ り,デ トモ ル ト郊 外 に建 設 さ れ,記 念 碑 を見 学 し よ う
とす る者 は,そ の 目 的 の み の た め に,わ ざ わ ざ当 地 まで足 を運 ば ね ば な らな くな った の で あ る。 従 っ て ドイ ツ近 代 国 民 記 念 碑 に は,周 囲 を と り ま く自然 の景 観 との マ ッチ ン グ を従 来 の記 念 碑 以 上 に配 慮 す る必 要 も生 じて きた 。 も と よ りそ の民 族 性 と も相 倹 って,自 然 と一 体 化 した モ ニ ュメ ン トは ゲ ル マ ン
上 な く偉 大 で 崇 高 な 題 材 を選 び,形 式 に お い て は簡 素 で 力 強 く,そ れ で い て 感 動 に 溢 れ 思 索 と構 成 に富 む こ と こそ 『ドイ ツ 的 』 な の で あ る 」 と い う新 た な ドイ ツ 様 式 の 模 索 で あ っ た 。 こ の理 念 の も と,王 は ロ ー マ で 知 り合 っ た ドイ ツ人 画 家 コ ル ネ リ ウ ス(PetervonCornelius)や,パ リで 知 っ た 建 築 家 ク レ ン ツ ェ(Leovon Klenze)な ど に ミ ュ ン ヘ ン の 中 心 的 建 築 物 の設 計 ・装 飾 を委 ね た が,そ の 理 念 と
は う ら は ら に,新 た に建 て られ た 建 築 群 は,極 め て 古 典 主 義 的 傾 向 の 強 い も の で あ っ た 。 コル ネ リ ウ ス の 友 人 で あ っ た バ ン デ ル も初 期 に は ミ ュ ンヘ ンで 活 動 し,
「ヴ ァル ハ ラ」 内 の 胸 像 作 成 に携 わ っ た り も して い るが,国 民 芸 術 に対 す る解 釈 の 違 い や,臣 下 の芸 術 家 達 を職 人 とみ な し,そ の 独 立 性 を認 め よ う と し な い ル ー トヴ ィ ヒの 態 度 に疑 問 を抱 き,1833年 に は ミュ ン ヘ ン を離 れ て い る。(Vg1.Ditt‑
mar:S.29‑32.)
シ ラ ー 記 念 碑
(フ ィア ヴ ァ ル トシ ュ テ ッ タ ー 湖)
系 民 族 の 好 む と こ ろで あ る。 先 に紹 介 した 前 庭 を持 つ 「ク ロ イ ツベ ル ク 記 念 碑 」 で も この傾 向 は顕 著 に見 ら れ るが,19世 紀 半 ぼ以 降 に お い て,
リュ ト リ近 隣 フ ィア ヴ ァル ト シ ュ テ ッタ ー 湖 畔 の 巨 岩 に碑 文 を掘 り込 ん だ 「シ ラ ー記 念 碑 」(1860),或 い は ドイ ツ統 一 後 国 内 の至 る所 に植 樹 さ れ た 「平 和 の柏 」 或 い は 「平 和 の 菩 提 樹 」 な ど,特 に 「景 観 記 念 碑 」 (。Landschaftdenkmal̀̀)と も 呼 び 得 るモ ニ ュ メ ン トは,そ の代 表 的 な 例 で あ る18。「ヘ ル マ ン像 」 は,こ う した 景 観 記 念 碑 の概 念 を更 に進 め,建 設 地 を 「聖 地 」 化 す る期 待 も担 っ て い た 。 デ トモ ル ト郊 外 が,ヴ ァ ー リス 率 い るロ ー マ 軍 を ア ル ミニ ウ ス が 撃 破 した トイ トブ ル ク古 戦 場 と し て聖 地 に 選 ぼ れ た わ け だ が(実 際 の 「トイ トブ ル クの 戦 い」 は,現 在,「 ヘ ル マ ン像 」か ら 北 西 に約60km離 れ た オ ス ナ ー ブ リ ュ ッ ク 郊 外 で 行 わ れ た と推 定 さ れ て い
る),そ の 際,記 念 像 に式 典 を想 定 した集 会 用 広 場 が併 設 さ れ た 点 も,近 代 国 民 記 念 碑 の一 特 徴 で あ る。 と ころ が,「 ヘ ル マ ン像 」に限 り,広 場 は像 前 方 で は な く,像 後 方 に設 置 され た 。 先 に 紹 介 し た 除 幕 式 の光 景 に は,像 の後 姿 が 描 か れ て い る こ とか ら も この 事 実 が 了 解 され よ う。 これ は 「民 衆 を率 い る英 雄 ヘ ル マ ン」 の イ メ ー ジ を,ま さ に像 と集 会 用 広 場 の 位 置 関係 で 表 現 し よ う
と した も の で あ る。
以 上,「 ヘ ル マ ン像 」は,こ れ よ り後 続 々 と量 産 され 始 め る ドイ ツ近 代 国 民
18Vg1 .Tittel,Lutz:Monumentaldenkmalervon1871bis1918inDeutschland.
EinBeitragzumThemaDenkmalundLarldschaft.In:Kurlstverwaltung, Bau‑undDenkmal‑PolitikimKaiserreich(hrsg.v.EkkehardMaiu.Stephan Waetzoldt),Berlin1981,S.215‑275.