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アルカデ ィアあるいは遁走す るア レゴ リー

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アルカデ ィアあるいは遁走す るア レゴ リー

江 口 修 ここ数年 ロ ンサール没後 四百年 を記念 して催 された コロ ックの成果 の刊行 が相 次いでい るが、つ いに実証主義 の牙城 を誇 るか に見 えた フランス十六世 紀文学研究 も、議論 か まびす しい現代批評 理論 の影響下 に入 ったか と思わせ る論題 がかな り目につ くようになって来 てい る。1)ギ リシャ ・ラテ ン文学が ほ とん ど絶対 的な規範 として詩 の形式 お よびテーマ を律 す るか に見 えなが ら、

その実、感受性 か ら世界観 にいた るまで、深 く大 きな変動が起 こっていた フ ランス ・ルネサ ンスの時代 は、 ポス ト ・モ ダ ンが叫 ばれ るまさに今我 々 の現 在 と案外通 じ合 う ところが あ るのか も知 れ ない。 この変 動 を形 式 あ るい は

ジ ャンル の問題 として精力的 に精査 し続 け、学会 を リー ドしてい るのが F. ゴロで あ ろうか と思われ るが、1989年、 ア ンジェで催 され たデュ ・ベ レー に ついての国際 シンポジウムでの発表 でG.ジュネ ッ トを援用 しなが ら、デ ュ・

ベ レーの批評 意識 につ い て興 味 あ る指 摘 を行 なって い る ボー ドレール や ヴ ァレ リー によって実現 され た 「大詩人」 と 「第一級 の批評家」 との同居が、

果 た して十六世紀 に、 問題意識 としてで あれ、実際 の詩作 においてで あれ、

検証可能 な形 で存在 す るか、と例 によってか な り刺激 的 な問題提起 か ら始 め、

ロンサールの作品については、すべてローモニエ版全集auvyleSCOmPle7es,Didier Nizet,19131971,20tomesin25vols、に拠った。ローマ数字 は巻 を示す。

1)例 えば、Ronsa71densonZVeCentenai71e,II,Geneve,Droz,1989を参考 までに 見てみると、ArnaudTRIPET,≪Heleneetledegr芭Zrodumythe≫ とか精神 分析の手法 を取 り入れた独特のマニエ リスム ・バ ロック論 を展開し、我々 も大い

に示唆を受 けている C.G.DUBOIS,≪Autourdunom Helene:Doubleetcou‑

ple,similitudesetsimulacles≫など。その他、ジャンル概念やポエティック(ヤー コブソンの流れを汲む、言語の文学的機能 を問う概念)については現代の理論動 向を念頭に置いた上で議論が展開されている。

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72 83

結語 の部分 で次 の ように述べている

以上 の ことか ら、結論 として、 デュ ・ベ レー は文学的経験 の蓄積が新 たな文学 の可能性 を切 り開 くにつれ、 その初期 の理論的立場 を再検討す るようになっていった ように思われ る。 もし全集 の出版 の準備で もで き るよ うなチ ャンスが見込 めたな ら、一連 の未整理 な ままの文学的防径 を なん らかの形 で まとめようとしたので はあるまいか。‑ 中略‑ とも か く、作品集 の構想 は練 られてお り、 それへ の序言 とい うす ぐれてテ辛 ス ト外 的要素 (挿入図的役割) において、多様性 としての レ トリックが 肥大化 す るのが 目撃 され るのである、 それ はどうい うことか と言 えば、

選言命題 的 に (「あれか、 これか」の択一的選択)詩 の方法 を突 き詰 める ことを拒否 し、 ミューズ達 (す なわち、詩 の可能性)が乳樺 を起 さぬ よ う酉己慮 す ることで あ り、改詠詩 (前言 の翻 し) を書 く羽 目に陥 ることな どもの ともせず、 デュ ・ベ レーの批評意識 は詩 の一貫性 とい う何 の根拠 もない確信 を常 に問い直 そ うと身構 えているのだ。2)

(括弧内は筆者による補足)

で はロ ンサール はどうであったか と問 うの も自然であ ろう 一見天性 の詩 人 のように見 えなが らも、かな り周到 な構成への配慮 を見せ るロンサール も

当然 同 じ問題意識 を抱 いていた と考 えて よい。 しか し、 デュ ・ベ レーが 自己 への配慮 を惨 ませ る詩人 で、懐疑 を基調 とす るのに対 し、 ロンサール は表面 上 はひたす ら明 る く自信 に満 ちた詩人である。だが、 ロ ンサールの詩 を第一 義的 な表象 の 目指す ところか ら外れた読解 の可能性 を探 る試 みを行 なって来 た我々 に とって は、 この間題 の処理 は比較 的簡単 である。 もち ろん我々 のア

2)FranGOis RIGOLOT,≪Espritcritique et identit6 poetique:Du Bellay‑

prefacier≫ inDuBellayActesduColloqueZntemationald'Angey:sdu26au 29Mat1989,Angers,Pr.del'Univ.d'Angers,1990,p.297.

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アルカデ ィアあ るい は遁走 す るアレゴ リー 73

レゴ リー を拡大解釈 した方法 には、当然 なが ら、窓意 的あるい は無意味 な逸 脱 に陥 る恐れが ある 我々 もその ことには自覚 的なつ もりで はい るが、 ここ で確認 の意味 も込 めて、我 々のア レゴ リーの方法的基礎 について まとめてお

こう。

1)直槍が言語 (したが って社会)の変動期 に、言葉 の新 しい可能性 を開拓 す る もっ とも有効 な手段 で ある

2)暗膝 は、直橡 と異 な り、言葉 の 「深 み」 を究 めてゆ く手段 として捉 える ことがで きるだ ろう。 したがって、直境 は水平的広が りを志 向す る と考 えて もよい。

3) しか し、直境 と暗喰 だけで は真 の変動 を引 き起 こす ことはで きない。常 に喚橡 とい う、音韻、イメージ、意味 な どあ らゆる方面で逸脱へ と向か う橡 が二つ を脅か してい る 還元論的立場 に立 たな けれ ば、 この喚境 の逸脱性 こ そ実 は言語 の変動 を引 き起 こす ものなのだ. なぜ な ら一見革命的 に見 える直 橡 にせ よ、既存 の大 き く懸 け離れた二つの言葉 を、暗境 として成立 しない と 判断 され る ときに、直接 「〜 の ような で もって結 び付 ける、つ ま り直喰成 立 のためには明示的 な二項 の存在が不可欠 なのだ。喚愉 において はこの二項 が必ず しも前提 されない、つ ま り一つの言葉 に内属す る可能性 (上 で述 べた 音韻、意味 な ど)の任意 の要素が、 それ 自体 で近接す るものを目掛 けてずれ を起 こす と考 えられ る。 ラカ ンのい う喚境 とシニ イフイア ンの優位 はこうし た自体 を指 しているので はないだ ろうか。 もち ろん この喚境 の逸脱 的運動 を すべで性的要素 に還元 して しまうの は、喚喰以前の単 なる逸脱 で しかない。

さらに、直境 と暗峰 を可能 にしてい るのは、実 は喚愉 なのだ と言 い換 えて もよい、なぜ な らいずれ も喚橡的逸脱 を了解可能 な レベルで押 し とどめた も の と考 え られ るか らであ る。つ ま り完全 に対等 な二項間 に成立す る直膝、暗 愉 とい うのは成立 し得 ない理想状態で あ り、 どち らか丁項が実 はズ レを生 じ

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74 文 研 83

始 めてい るのであって、 それ を 「〜 の ように」であれ 「〜 だ」であれ、 ある ポイ ン トで押 しとどめるのが、直 あるい は暗 ≪喰≫なのだ と一括 して考 える

こともで きる

4) こうして、≪峨‑≫によって言葉 はその領域 を広 げてゆ くわ けだが、最終的 に ≪喰 ‑ずれ≫ を支 えるのが ≪アレゴ リー≫である とす るのが我々の立場 で ある 語 と語 の対応関係 に とらわれ るあ ま り、実際 に ≪愉≫が どの ような働 きをしてい るのか に関 して はあ ま り議論 され る こ とが なかったので はない か。 あるい はヤー コブ ソンが ≪ポエチ ック≫ と命名 した言語 の詩的 (‑文学 的)機能 とは どのレベルで成立す るのか。 そ うした問題 を含 めて、我々 は吹 の様 にア レゴ リー を捉 えようとしている。

a)伝統的修辞学でい うア レゴ リー は、 ある命題 を、構造 はその ままで命 題 を構成す る要素 を別 の ものに置 き換 えるものであ り、「表 向 きの」(仮 の) 命題 は、「隠 された」 (真 の)命題 の代理 である。言い換 えれ ば構造化 され た暗略がアレゴ リーである

b)以前 に も考察 したが、3)このア レゴ リーで前提 され る 「隠 された」命題 は必ず存在す るのか どうか。 もし 「隠 された」 つ ま り究極 において明 らか にされ るべ き (あるい は 「実 は、 こうい うことなのだ」 とい う打 ち明 け話 として示 され るべ き)命題 が、 なん らかの理 由で存在 しないあるい は消失 して しまうと、残 された 「表向 きの」命題 はどうな るのか。

C)しか し、言表行為 につ きま とう 「ある経験 を言葉 を借 りて表現 す る」

とい う代行感覚 こそ、実 は、伝統修辞学 のアレゴ リー観が成立 して しまう 原因 となる虚妄で はないのか。「ある経験Jtを同定 してみ ようと、一 つの暗 境 をきっか けに開始 され る、被代行者 を実 は創 り上 げて行 く、そ うした現 実 の方が はるか に多 いので はないか。 そ うだ とすれば、言語行為 はお しな

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アルカディアあるいは遁走するアレゴリー

ベてア レゴ リーの実践 に他 な らない とまで敷術 で きるか も知 れ ない。3)

75

d)我 々が考 えるア レゴ リー とは、≪喰 ‑ずれ≫が成立す るの は ≪ずれ≫に 方向性 を もた らす構造 の存在 に よるので あ り、す なわち、ア レゴ リー ‑≪喰≫

の構造化 で ある この構造 は概 ね文脈 で あるが、一義的 にそ うで ある とは 言 えない。構造化 の契機 となる もの も様 々で あ り、 その検証 が我 々 に とっ てのポエチ ック とな るで あ ろう

さて、 ロンサール も含 め、実際 に十六世紀 の レ トリック意識 に則 して この ことを考 えてみ よう。直 ちに思 い起 こされ るのが、 フランス語対 ギ リシャ ・ ラテ ン古典語 の対立 にお ける、古典語 の側 の論拠で あ る 真理 はア レゴ リー によって しか伝 え られず、必 ず権威 ある仲介 (‑注解 ) を必 要 とした。 そ し て聖書 はイエスの生 きた時代 の言葉、す なわちギ リシャ語、 ラテ ン語、ヘ ブ ライ語 で書 かれ た もののみが正 しい とされた。 ロンサール もこの議論 を受 け て 「真理 はア レゴ リー のマ ン トに包 まれて‑ 」4)と公言 して はばか らないが、

後 に見 るように、 たち まち正統 か らの逸脱 が起 きる す なわ ち、真理 と平行 す る形 で展開 されな けれ ばな らないアレゴ リーが、真理 とは無関係 に勝手 な 展 開 を始 め るのであ る。 ところで、 フラ ンス語擁護派 は どういった議論 を展 開 してい るだ ろうか。例 えば、匿名 の作 品 だが、女性 の口を借 りる とい うな か なか凝 った趣 向の もので、次 の ような詩 が あ る

私 は生 まれ た国か らして、 フランス人

ギ リシャ語 、 ラテ ン語、ヘ ブライ語 どれ も分 か りませ ん。

3)拙論 「ロンサール、『讃歌集』および 『讃歌集第二の書』について ‑ アレゴリー のマニエラ‑ 』 人文研究」第72韓、小樽商科大学、1986年および≪L'allegorie del'imaginaire≫inRevuedesAmisdeRonsaydI,Tokyo,1988,pp.115‑124 参 照 され た い。

4)Ⅴ,p.50.

(6)

76 人 文 研 究 第 83

女です か ら、信仰深 く

(当然 の努 めで しょう)我が主 を知 りたい と存 じます。

お願 いです、いったい何処 に行 けば よろしいので しょう、

トリ

虚心 に (聖書) を読 みたいので ござい ます、

心 よ りの服従 を こめて読 み とうござい ます。

私 の弱 きを支 えるために、

主 を知 るために読 み とうござい ます。

その本質 は隠 され、意味 は

寓意 で しか語 られぬゆえ、私 は誤解 し

異教徒 になるに違 いない と言われ るか も知れ ません、

どうぞ主 よ (ああ !) それ をお褒 めにな りません ように。

けれ ど、 この ような過 ちが起 りそ うなのは、

フランス語 で よ りもラテ ン語 の方で はあ りませんか。

トリ

驚 くべ き碩学 の博 士、聖 ジェロームが

聖書 をダルマチア語 に移 し替 え られ た とい うのに、

ゴールの言葉 に移 し替 える とい う億幸 を、

だれが妨 げようとす るで しょう。

ダルマチア語で よければ、 ゴール語で も悪 くない はず、

聖 ジェローム も女達向 けに書かれた とか、

そ して救済 に要 る ものだか らと、

女達 の元 に赴 いて は、読 み聞かせ ようとされ ました。

行 なわれている ことに驚 かれ ることで しょう。

(‑)

フランス人 も神 の約束 され し、

目にては知 れず、耳 に聞 いて知 る宝 を

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アルカデ ィアあるい は遁走す るアレゴ リー

自分 の言葉 で知 ろうとして よい はずで ござい まし ょう。5)

77

当時 の議論が見事 に要約 されてい るので長々 と引用 したが、特 に 「その本 質 は隠 され、意味 は/寓意で しか語 られ ぬゆえ、私 は誤解 し/異教徒 にな る

に違 いない‑‑」に注 目すべ きだ ろう。 「神」の本質 について疑 うことは許 さ れ ないが、本質 と意味 とを分離 して議論す るカ トリック教会 の伝統的論法 に は、逆 の意味で落 とし穴が あ る。つ ま り、 あ らゆ る 「神」 をめ ぐる言説 は本 質 を突 けないのであれ ば、 いか に異教、異端 の匂 い を放 とう と、 ア レゴ リー 解釈 でいか ように も逃 れ得 る。事実 プ レイア ッ ド派 の詩人達 に限 らず、ギ リ

シャ・ローマ神話 の盛 んな引用 は、「神」 の真実 を間接的 に語 るア レゴ リー と して弁明 され えた し、詩 であ る限 りは (出版 は勅許 とい う後 ろ盾 を持 ってい たので あ り、 さ らに当時 のフランス王 の尊称 はtreschretien≫ 〔しいて訳せ は 「い とキ リス ト教 的 なる」 だ ろう〕で あった)教会側 も黙認 した ようで あ これ に ≪模倣≫ の美学が加 われ ば、 あ る意味 で はすべてが許 され る こと になるだ ろう

(先人 の)技巧 はほ とん ど模倣 しうるこ とには疑 い をはさむ余地 はな く、

で あ るか らして、古代 の人達 に とって は新 しい もの を見事 に案 出す る こ とが最 も称賛 され ることであった とすれ ば、 まだその言語 が芳醇 の域 に 達 しない者 に とって は、巧 みに模倣 で きることはきわ めて有効 なのだ。6)

さて先 に取 り上 げたF.リゴロは、 この 『擁護 と顕揚』 をデュ・ベ レーの後 に続 く詩作 の総序論 として とらえ、 やがて詩作が進 む につれ、 この序論 の楽

5)Premierscombatspourlalanguefylangaise,ed.deClaudeLONGEON,Livre dePoche,1989,pp.105‑106.

6)J.DU BELLAY,LaDeHenceetZllustylationdelalanguefmncoyse,Paris, Nizet,1970,pp.4546.

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/

8 83

天 的見通 しが変更 を余儀 な くされ た ことを論証 してい るが、 ロンサールの不 変性 と較 べ る際、 その原因 の一 つ を ここに探 れ るように思われ る すなわ ち

模倣≫を奨励 しなが らも、 けっ して ≪翻訳≫を高 く評価 す るこ とのなか った、

いや む しろ 「単 に無益 なだ けでな く、 む しろ ≪有害 な≫ もの と」7)見 なす よ うになっていたデ ュ・ベ レーが、1552年、『擁護 と顕揚』か らわずか3年後 に、

唯々諾々 としてヴェルギ リウスの 『アエーネイス』 の翻訳 に従 ったの はなぜ だ ろうか。 この翻訳作 品の ジャン ・ド ・モ レル卿 に宛 てた書簡体 序文 にあ る ロンサールへ の言及 について リゴロは次 の様 に捉 えている

イー リア ッ ド』以上 の叙事詩が な くとも、 フランス は 『アエーネイス

の素晴 らしい翻 訳 で たぶ ん満足 すべ きだったのだ ろ う そ うす れ ば、

デ ュ ・ベ レー は、 ヴェル ギ リクスの翻訳 の巻頭 に置かれ た ソネでモ レル が デュ・ベ レー を評 して与 えた形容詞、 「穏 やかだが有能 なア ンジェの翻 訳家」にその まま当て はまっただ ろう。だが事実 は、「穏 やか だが有能 な」

デ ュ・ベ レー に対 し天才 の ロンサールが いた。 『擁護 ‑・』 の理論家がなぜ その反一翻訳 の意見 を翻 して もよい とまで思 ったのか。彼 の ≪改宗≫を密 か に動機付 けてい るの は、「長詩」の理論家 と将来 『フランシア ッ ド』を 書 き上 げるであ ろう詩人 との間の表 には現 れて こないライバ ル意識 だっ たので は。8)

ロンサール は、 コクレ学寮か ら出撃 した 「部 隊」 の晴れが ましい突撃隊長 として、翻訳 や理論 は他人 に任せ、ひたす らフランスの誉 れ とな る≪叙事詩≫

を目指 していれ ばよか ったのだ ろうか。詩人 と翻訳家 の内面 に入 り込 んで あ れ これ推測 す るこ とはこれ ぐらい にしておいて、 ロンサール のポエテ ィック 探究 に戻 らな けれ ばな らないだ ろう。要 は、十六世紀宗教戦争以前 の言葉 は、

7)F.RIGOLOT,oP.cit.,p.292.

8)Zbid,pp.294295.

(9)

アルカディアあるいは遁走するアレゴリー 79

教会 や権威 の側 の不可知論 を逆手 に とって、想像以上 に 自由で あった とい う こ とで あ る. そ して、 ロンサ ー)I,の詩 に は一貫 して この言葉 の 自由、 あえて い うな ら 「軽 み」を指摘 し得 るので はないだ ろうか。 『フラ ンシア ッ ド』の構 想 を公言 した ロ ンサール9)は、叙事 詩 にふ さわ しいポエ テ ィ ック探究 を、実作 を重 ねつつ その中で行 なった。 しか し次 の二例 を較 べ てみていただ きたい。

まず は1552年 の 『オー ド集第五 の書』 か ら

口を大 き く開いた深淵 のただ中、

異教 の軍 団が蛮声 を張 り上 げてい る、

巨人族 を平 らげ し神 を、急襲 し 倒 さん と狙 って い る。

程遠 か らぬ、 ほ らあそ こに、

神 の守備 隊が い るで はないか まるで槍 で敵 を

狙 う騎士 の ように

神 は邪 な もの達 にその旋 回す る いかづ ち を投 げ落 とされ る。10)

そ して、 『オー ド集第 二 の書』 か ら。

9)『平和へのオー ド,III,p.9,L IOO及びその脚注 にこの間の経緯 を窺 うことが で きる。 さらに、同巻の 『ミシェル ・オ ピタルへのオー ド』 (p.148,1.522)には

"MonFRANCION"という具体的な名称 も登場 している。ローモニエを始め多数 の指摘があるように、 この時期、ロンサールはギ リシャ ・ローマ神話 をきわめて 意識的に用いているが、それは 『フランシアッド』へ向けた技巧的訓練 と捉 える

ことがで きる。

10)Ⅰ,p.130.原語 で比較 して いただ きたいので最初 の四行 を載 せ て お く。

(Dedanscegouffrebeant/Hurlelatrouppeheretique,/Quiparunassault bellique/AssaillitleTugeant.)

(10)

80 83

お ゝベル リーの泉 の女神 よ、

美 し く、 われ らがニ ンフ達 に いつ くしまれ し女神 よ、

ニ ンフ達 の声 は、お まえの 勝利 を高 らか に告 げる、

森 の響 き、 そ うお まえの泉 のたて る音 そ してお まえが耳 にす る私 の詩行 の 響 きに こだ まして。11)

故郷 に実際 にある「ベ ル リーの泉」をホラチ ウス風 に歌 う ときと、 ギ リシャ 神話 をその ままにフランス語 で重厚 に表現 す る とき、言葉 の 「軽 み」 にか な りの差 が感 じられ はしないだ ろうか。 その差 を生 じさせ る もの はなんであ ろ うか。 ロンサールが故郷 を歌 う とき、 その 「軽 み が ひ ときわ 目立 って感 じ られ る 登場 す る神話 の神 々や その振 舞 い も自然 な もの と映 る。

おそ ら く、 この 「軽 み」 こそロンサールのポエテ ィックの要点 の一 つで あ ろう つ ま り神話 を題材 に扱 う場合、叙事詩 に向 けた実践 の場合 は、 どうし て も神話 の意味、 それ は先 ほ ど述 べ た よ うに 「ア レゴ リーで包 まれ た」真実 であるはずで あるか ら、当然直接 的 に表明 され る訳 に はゆか ない。 つ ま り、

解釈 の要請が読 む側 に対 して もな され る、 したが って、意味 の重層化 として のアレゴ リーが展 開 され る ことになる。 さらに故郷 を神話 で染 め上 げてい く 例 を紹介 してお こう

甘 き露が お まえ (ガチ‑ヌの森) に 一 日た りとも欠 ける ことのない よ う、

そ して狩 りの途上、息 を切 らしたデ ィア‑メ

ll)Ⅰ,p.203.同 じ く最初 の四行 は、(0DeesseBellerie,/BelleDeessecherie/

DemosNimphes,dontlavois/Sonnetagloirehautaine.)

(11)

アルカディアあるいは遁走するアレゴリー が一 息つ く風 の絶 えぬ ように。

お まえの裡 に これか ら、

ミューズ達 が集 い住 み、

そ してお まえの木 々が決 して

冒清 の火 を感 じることのない ように。12)

81

これ らは後 の版 で は、神話 の登場人物 が増 や され た りす るが、13)初 出形 の

軽 み」は失 われ ていない。実際 にロンサールが故郷 ヴ ァン ド‑モ ワ地 方の川 や森 にナイアス達 やニ ンフ達 の存 在 を実感 してい たか どうか は置 くとして も、 ここに もっ とも港刺 とした詞姿 を認 め るこ とはで きるだ ろう。重層化 す る神話 のア レゴ リー展 開 に対 し、軽 やか に リズ ミカル にひたす ら至福 へ と駆 け上が る こうしたア レゴ リー (厳密 に言 えば、 なに も 「隠 され た」真 実が存 在 す るわ けで もな く、 また 「日 く言 いが たい」体験 を同定 しようとしてい る

ので もないので あ るか ら、 ア レゴ リー と呼ぶの は不適 当か も知 れ ないが、後 に明 らか にしたいが、 ロンサールの認識 自体 をア レゴ リカルな もの と諾 め る な ら、 こう呼ぶ ことは許 され るので は) をロンサールの詩世界 を駆動 させ る 力 を持 った もの として位置付 ける ことがで きるだ ろう そ して、 この二 つの ア レゴ リーが相 まって こそ、 ロンサールが求 めるフラ ンスの叙事詩が可能 に な るので はないか。実際 の『フランシア ッ ド』が さほ どの成功 を勝 ち得 なか っ たの も、 この辺 りに原因 を求 め る ことがで きそ うに思われ る 叙事詩 の最大 の特徴 は、言 うまで もな く、起源 を語 る最初 の物語 であ る ことにある ルネ サ ンスの息吹 は、一瞬、十六世紀 フランス にそれが可能 で あ るか に感 じさせ

12)I,p.245.

13)例 えば、ガチ‑ヌの森 に住むことになるのは、55年以降の版では、サチュロス であ り森の精 シルウアヌス(ギリシャ神話ではパ ン)そして水の精ナイアスとなっ ている。

(12)

&2 83

た に違 いない。 しか し、 『フラ ンシア ツ ド』完成 にまで要 した二十二年 の年 月 は何 を物語 ってい るのか、 そ して完成 した時 に は、宗教対立 はサ ン ・パ ルテ ル ミ‑の虐殺 とい うクライマ ックス に達 していた。 ロ ンサール の叙事詩 はつ い に不 肖の子、流産 しかか った瀕死 の子 として この世 に生 を受 けた。千二百 四十八行 にわた って、 フラ ンス史 をギ リシャ神話 に重ねて歌 うその力業 は、

二重 の意味で徒労 に見 える。一 つ は、常 にギ リシャ神話 とい う完成 された世 界 が あ り、 いわ ばア レゴ リカル に表現 され るべ き行為が神話 とい う明示的 な レフェラ ンの存在 に よって、単 な る 「比較」 に しか な りえない ことである

言 い換 えれ ば、最初 の物語 が持 つ特権、 それ以前 にレフェラ ン とな る ものが 存在 しない、 そ してそれ以後 のすべ ての物語 に とって この物語 が レフェラ ン とな る とい う特権 を持 ちえず、叙事詩 とい う形式 に こだわ る限 り、 いわゆ る 伝統修辞学 でい うア レゴ リー (暗示 され るべ き系列A/明示 され る系列B) さえ成立 しな くな る地点、す なわち レフェランス関係が充満 し物語 の時系列 的展開 を疎外 して しまう状態 に追 い込 まれて しまわ ざるをえないのだ。 そ し て もう一 つ は、以前 に も指摘 した ことだが14)、生 まれ落 ちた時代 が悪す ぎた、

国 を二分 しかね ない新教 と旧教 のつ ばぜ り合 い を前 に、建 国神話 な ど誰が聞 く気 にな るだ ろう 「この書 は 『イー リア ッ ド』や 『アエーネイス』 と同 じ物 請 (Roman)なのだ」15)として も、 この建 国神話が国論統」 の きっか けにな る

と考 えるの は、 いか にロンサールが詩王 と呼 ばれ よう とも、 い まさ らなが ら 無理 だった ようだ。

14)拙論 「『恋愛詩集』再読 詩論のアレゴリー‑」、「人文研究」第74韓、小樽商 科大学、1988年を参照されたい。

15)ⅩⅤⅠ,p.5.ロンサールもやはり叙事詩が 「物語」に他ならないことを認識 して いたのだろうか。 この 『フランシアッド』の読者への序文 は、ロンサールの歴史 認識 を探 る上で興味深い。た とえばp.4では (L'histoire reeoitseulementla chosecommeelleest,oufut,sansdesguisurenyfard,&lePoetes'arresteau vraysemmblable,acequipeutestre…)と述べなが ら、進行 しつつあった当時

の歴史の過酷で冷徹 な事実をはか りそこねたのはなぜか。

(13)

アルカデ ィアあ るい は遁走 す るア レゴ リー

*

83

ところで、叙事詩 『フラ ンシア ツ ド』 の不首 尾 を分析 す ることが本小論 の 主題 で はない、叙事詩 を目指 して進 め られたポエテ ィックの実験 をふ り返 っ て見 て、 ロンサール のア レゴ リー の至高点 を抽 出 しよう とい うのが我 々 の眼 目であ る。「ホメロスそ してヴ ェルギ リウス に従 い、二人 を模倣 し」、16)その遠 源 において トロイに繋が るフラ ンスの起源 を跡付 ける。 しか しこれ らは必要 条件 で しかない。常 に神 の導 きた る ≪熱狂 ≫(fureur)がな くて は詩 は神性 を 具有 す る ことはで きない。叙事詩 を担 い うるの は 「知」 と ≪熱狂≫ を自在 に 往来 しうる詩人 だ けで あ る こ とは当時 の詩人 が等 し く認 めて い る こ とで あ る。 しか し 「自在 さ」 を手 にす る ことほ ど困難 な ことはないだ ろ う、 デ ュ ・ ベ レーが すで に認 めてい る よ うにロ ンサール は 「ピング ロス の比類 な き手 」17)をすで にその出発 時か ら発揮 してい た として も。 なぜ この よ うに判 断 す るか と言 う と、「知」 と詩的 ≪熱狂≫ とは簡単 に同居 で きる もので はない、

あるい は両者 の詩 にお ける合一 はまさに奇跡 としか言 い ようが ないか らだ。

このあた りの消息 を知 る上 で格好 の材料 を提供 して くれ るのが 『叢林詩集』

(1554年)と 『雑詠集』 (1555年)で はないだ ろうか。気楽 な神話 を題材 に した ア レゴ リーの小手調 べ とふ と漏 れ る詩人 の本音 が ない交ぜ になった詩集 で あ るが、我 々 の探究 に貴重 な手掛 か りを もた らして くれ る。 た とえばナル シス 神話 を展開 して見せ て くれ る中に、

僕 が勝 手 に首 を傾 ける と、

お まえの首 も同 じように傾 く、

16)Zbid.,p.7.

17)Joachim DuBellay,auvresPoeJtiquest.VI,p.254.さらに続 けて :deslabeurs duquel(sil'ApollondeFranceestprospereasesenfentemPnS)nostrepoezie doitespererjenescayquoyplusgrandquel'Iliade.〉 と過剰 と思われるまでの 賛辞 を連ねている。

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84 人 文 研 究 第 83

そ してその ことを話 そ うと真 っ赤 な唇 を弛 め る と

お まえ も喋 るじゃないか、で もお まえの声 は私 の耳 をうつ ことはない0 ようや くわか った 自分が どんな間違 い を犯 していたのか、

僕 は僕 を夢 中 にさせ た者 、 その者 自身 なのだ、

僕 は、 そ う僕 が愛 す る人 、 その人 自身 なのだ、

僕 が水面 に見 てい るの は僕 の影 に他 な らないのだ、

U∴

で も僕 はこの ままず っ と、冷 たい偶像 の ように 水辺 にね そべ って死 を待 つのだ ろうか。

お一、幸せ な死 よ、お願 いだ、早 く来 て くれ、

僕 を一刀両 断 に して くれ ないか、愛 も命 ももろともに、

自分 と一緒 に僕 を死 なせ た ものが滅 んで ゆ くのが 見 えるように (もしそれが喜 び となるのな らば)018)

もち ろん、 この後 す ぐにナル シス は三人称 で語 られ、一人称 で語 られ る こ の部分 もナル シス神話 を迫真 的 に展 開 させ るための技巧 で はあ るのだが、 ロ ンサールの独 白 とは言わない まで も、神話 を語 る ときの真骨頂 ともい うべ き 技巧 の一 つ として捉 える ことはで きないだ ろうか。 アレゴ リー展開中 にふ と 出現 す るエアポケ ッ トの ような、 自然 なそ してそれ 自体 で充足 す る語 り レゴ リー に内蔵 され るアレゴ リーの 「零度」とで も呼 んで良 いか も知 れない、

白熱 しなが らもぽっか りと開 けた谷地 の ような穏 やか な場所。一応 それ を≪ア

18)Ⅴ,p.81.

19)なぜ 「アルカディア」なのか、例 えばロンサール自身アルカディアについて次 のように実際その詩作 に用いている、〈Sim'encroyez,allonsenArcadie,/Et flechissonsdenostremelodie/Roches& bois,tygres,lyons& loups,/Puis quelaFrahceestingrateversnous),IX,p.187。 これに直接刺激 された訳ではな

いが、回帰 と安息の理想郷 という意味合いを持つ言葉なので、ロンサールの 「 レゴリーの原点」 というほどの意味で用いている.

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アルカディアあるいは遁走するアレゴリー 85

レゴ リー のアル カデ ィア≫19)と呼 ぶ こ とに してお く。す る と似 た ような谷地 が あち らこち ら見 えて くる

泉 にで きるだ け近 く テー ブル を置 け、

酒 のい っぱい入 った瓶 を 泉 の底 で冷 やす のだか ら

そ うした ら私 の額 のた めに セ メ レ‑が息子バ ッコスの、

踊 りの ときにかぶ る冠 に負 けぬ 美 しい冠 を編 んで お くれ。20)

あ るい は、多少技巧 が過 ぎる きらいが あ るか も知 れ ないが、

だが、詩人 で あ る私 は他 の どんな神 々 よ りも かの善 良 なバ ッコス を愛 し、愛 す るほ どに 葡萄 の収穫 を どん な快楽 よ りも喜ぶ。

この紫紅 のマナが、酒造 りの素足 に 踏 み潰 され て大桶 の中 に流 れ落 ち るの を 見 る こ とのなん と心地 よい こ とか。21)

20)ⅤⅠ,pp.106107.『コリドンへのオ ドレッ ト』は三篇あ り、 この引用 は第三篇。

コリドンとはローモこエの脚注 によれば、ヴェルギ リウスの 『農耕詩』の登場人 物か ら取った、架空の人物だが、彼 を相手 にした会話 (一方的なものなのだが) は くつろいだ雰囲気 を持っている. これを簡単 にロンサー)I,の打ち明 け話めいた 心情吐露 と受 け取 るべ きではないだろうが、 コミカル ・アレゴリー とで も呼べ る 詩的試みにふ ともらす本音 として見 ることもで きるであろう。

21),p.12

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86 人 文 研 究 第 83

後者 はペ ス トに追 われ た、 『恋愛詩集』 の出版元 で あ るモー リス ・ド・ラ ・ボ ル ト未亡人 の長男 ア ンブロワーズに宛 てた書簡詩 の一節 である 死 に神 カロ ンの暴虐が あ ろう と、大地 は葡萄酒 とい う 「癒 し」 と 「快楽」 を必ず秋 には もた らして くれ る。前年や は りア ンブロワーズ に宛 てた 『人 間 の悲惨 につい てのオー ド』22)の暗 さ一辺倒 の調子 とは好対照 であ ろう。ロンサール は必ずバ ラ ンス を取 る ことを心が けてい る とで も言 うかの ように。

多少 の比境 を許 していただ けるな ら、 こうま とめる ことがで きるだ ろう

す なわち、壮麗 な神話 のア レゴ リーが山並 となってそび える一 方で、激 しい 恋 の叙情 が河 となって流 れ る、 そんな景色 の中 ここか しこに、 山か ら降 りた あ るい は これか ら上 ろうとす る者 が しば し憩 う谷 あいのぽっか り空 いた 日だ ま り、 そ して河 の流れが急 に澱 む 「深 み」。我々が言 う 「アルカデ ィアのアレ ゴ リー」 とはまさにそ うい った役割 を果 たす ものなのだ。 あ るい は、充満 し きった 《熱狂≫ を 「ガス抜 き」 す る役割 と言 うべ きか も知 れない。 ロ ンサー ル に分裂 の気配 を示す二 つの傾 向が存在 す ることは誰 も否定 しない事 実であ ろう 一方 には 『ミシェル ・ド・ロ ピタルへ のオー ド』23)か ら 『フランシア ッ ド』へ と突 き進 む知 の ≪熱狂 ≫、古代叙事詩 の創造神話 の再生 とい う使命感 に あふれ た探究。 そ して もう一方 には、歳 を追 って率直 さを増 してゆ く拝情 ‑ 恋 の ≪熱狂 ≫。 ダ ンテにおいて恋人 との世界 の真実 ・神秘探究 とい う形 で、か ろうじて統一 され ていた この二 つの ≪熱狂 ≫ は、ペ トラルカにあって は 「 巡」 となって崩 れかか る。 フ ィレンツェのプラ トン ・アカデ ミーで フ イチ‑

22),pp.192‑196.

23)Ⅰ,pp.118‑163.816行に及ぶ この大作 はまさに 『フランシアツド』の完成作 よ り優れた習作 と見なすべ きものである。 しかし、古代神話に借 りたアレゴリーの 畳みかけは圧倒的であるが、やはりドク トの匂いが強い。その中か らロンサール

のポェティツタの具現 と思われる箇所を紹介 しておこう。くLedesirquilespous se&pousse/Avalecontrebasleurfront,/Toujourssondantcevieilrepaire, /Tantqu'ellesvindrentauChasteau/Del'Ocean, quidessoubzl'eau/

DonnoitunfestinaleurPere.,(1bid,p.125.)先へ先へ と 「冗進」する ≪熱狂≫

の リズムの典型が ここにある。

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アルカディアあるいは遁走す るアレゴ リー β7

ノが理論的 に この両者 を統合 し新 プラ トン主義 の哲学 を完成 させたか に見 え た とき、実際のポェ ジー において は二 つ は破局へ と向か うのである。ロンサー ル を もって して ももはや両者 の和解 は不可能 だった よ うだ。 この とき彼 が ローマのデュ ・ベ レーに宛 てた詩が思い出 され る

U∵E

ア ンジューの娘が僕 を虜 にしたよ

乳首 に口づ けしたか と思 えば、

明 け方 ようや く寝入 ったその両 の目に も、

(人が言 うには)僕 は世間体 な どかな ぐり捨 て幸福 の絶頂。

さて この詩 を読 んだ らマニー に言 うだ ろう、

「なん と !またロンサールが恋 に落 ちただ と ?

わがベ レー よ、恋 して るんだ僕 は、や は り恋 していたいんだ。

恋が不幸 な ものだ と告 白なぞす るものか、

いやた とえ不幸 だ として も、 えーい、喜 んで

不幸 に生 きてや ろう、か くも美 しい非惨 な らば。24)

変わ らないロンサールが ここに現れている そのポエティック成立 のため には恋 の拝情 が、枯 れかか ろうとも、恋 の ≪熱狂≫が不可欠 な ことを知 って いるのだ。デ ュ ・ベ レーにした ところで、詩 に書 いている以上、決 して 「 れた り」 な どしてい るはず はない。 『悔恨詩集』 は、つい に、デ ュ・ベ レーが 到達 した彼 のポェチ ックの披涯 で もあ る ロンサールが神話 のアレゴ リー に 拘泥 し続 け、ヘルメス主義25)を追求 し続 けた (少 な くとも 『讃歌集』まで は)

24)Ⅴ,pp.118‑119.

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88 人 文 研 究 第 83

の に対 し、彼 は自己 の内面 に反映す る世界 に賭 けるこ とを選 んだ。 どち らが 現代 の我 々 に とって近 しい ものか は間 うまい。ロンサールのヘル メス主義 が、

次代 で淘汰 され る運命 にある こともここで は置 いてお くとしよう。 ここでや は りデヱ・ベ レーの作品か らそのサ トウルメス的傾 向 を見 てお くべ きだ ろう

私 は恋 を書 かない、恋 を していないか ら、

私 は美 を書 か ない、美人 の恋人 がいないか ら、

私 は優 しさを書か ない、辛 さしか知 らないか ら、

私 は喜 び を書 か ない、 自分 を悩 ましい奴 と思 うか ら

ト ∴E

私 は友情 を書 か ない、見 せか け としか思 えないか ら、

私 は徳 を書 かない、 そんな ものひ とか け らも見 当た らないか ら、

私 は知 を書 かない、教会 の人 間 だか ら。26)

二篇 の詩 を並べ な くて も、終生 ヴ ェニ ュスの加護 を信 じて求 め続 けたロ ン サール に対 す る、 当て こす りとも感 じられ な くはない、 デュ ・ベ レーの嘆 き 節 で ある。 しか し、 もともと教会 の もので ある リタニー (連帯) の形式 を利

25)AndreCHASTEL,MwsilFicinetl'Art,Droz,Geneve,1954参照O十五 ・十 六世紀の新プラ トニスムに関 しては、フランスの当時の議論がある意味では弛緩 していたため、フィレンツェのアカデミーにおけるフイチイ‑ノを検討 してお く 他 はない。ロンサールのポエティックの理想 もおそらく次のように表現 されるの であろう。

L'universvivant,ordonneえlamanifestationdelabeautecommeえSaraison d'etreabsolue,sereveleaumomentlesmysteriapldtonicas'approfondissent dansl'exaltationdel'Amour.(.)/ Vさnus、quidesignel'universpacifieet

souriant,lapuissancepacificatricedel'amour,devenaitainsil'unedes grandesdivinitesducercleplatonicien;ellefaitcontrepoids畠1'ariditede Saturne;(pp.118119)

26)J.DuBellay,LesRegyletSetautreSα‰VyleSPOetiques,Droz,Geneve,p.150.

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アルカデ ィアあるい は遁走 す るアレゴ リー 89

用 した見事 な詩で もある この二人 を並べて検討す るだけで も、 フランス ・ ルネサ ンスの詩 の開花が どれ ほ どの広が りを持 っていたかが分か る 形式的 可能性 の問題 はソネが中心 となってい るようだが、 もっ とこういった面 か ら

も検討 されて よいので はないだ ろうか。

さて、 ロンサールのア レゴ リーについて一応 まとめて置 くべ きか と思われ 先 に も述べた ように、古代叙事詩 の再現が まず至上命題 としてあった。

そのための方法的戦略 として考 え られ たのが、 フイチ‑ノの説 く新 プラ トン 主義的神秘主義 に発 す るアレゴ リーで あった。「寓意 こそ、神話的詩 とそれ を 実現す る賢者達 の創作物語 を縦横 に駆 け巡 ることを、我々 自身 の欲求 に合わ せて さ らにそれ らを開拓 して ゆ くこ とを可能 にす る」、27)しか しA.シャステ ル も指摘す る とお り、 このアレゴ リーの実践 は、学識 に富 み としか も鋭敏 な 詩的直感 に恵 まれた者 にしか味わ うことの出来 ない、宗教 的 と言 って もよい

秘儀≫である 知的探究 と精神 的悦楽 の合一 はコタレの学寮 にあって は実現 可能で あっただ ろう、 しか し ≪部隊≫ として俗世間の征服 を目指 し意気揚々 と出撃 していったロンサール達 を待 ち受 けていたの は、 ご く限 られた理解者 と大方 の無理解で はなか ったか。 ここで我々 は本小論 での検討か ら一つの推 測 を導 くことにな る。

1) ロンサール は 『フランシア ッ ド』を ともか く完成 させねばな らなかった。

しか し、 そのためには古代叙事詩が素朴 な、すなわちアレゴ リー として一次 段階 にあるのに対 し、『フランシア ッ ド』はこの一次 レベル にさらにもう一段、

フランス史 をめ ぐるアレゴ リー を重ね合 わ さねばな らない。習作段階で は可

27)Lbid.,p.141.

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