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『桜桃』と『哀しき父』 : 脅かされる父,あるいは父である文学者

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Academic year: 2021

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(1)Title. 『桜桃』と『哀しき父』 : 脅かされる父,あるいは父である文学者. Author(s). 西原, 千博. Citation. 札幌国語研究, 1: 21-31. Issue Date. 1996. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2599. Rights. 本文ファイルはNIIから提供されたものである。. Hokkaido University of Education.

(2) という逆のことが一般であるからだ。では、どのようにこの. 日本の常識や道徳などの体質からいうと﹁親より子供が大事﹂. いう旬で始まっている。何気ない言葉だが、とりようによっ ては親のエゴイズムとも受けとれる。いうまでものなく普通、. この小節の冒頭は、﹁子供より親が大事と思いひたい﹂と. の中で、親と子との関係に注目している。. また、久保田芳太郎氏も﹁﹃桜桃﹄・1子供より親が大事−﹂. ︵森安理文編﹃太宰治の研究﹄所収︶. 親が大事﹂であるはずがない、という市井人の道徳に挑み戦 う一人の芸術家の姿勢、芸術家の道徳を描いたものである。. 公を苦しめるのであるが、それはいい変えれば、﹁子供より. これは、﹁桜桃﹂を貫くテーマである。﹁子供より親が大事﹂ ということが主人公太宰治という小説家の呪育となって主人. について−﹂の中で、この文について次の様に述べている。. 例えば、佐藤郁子氏は﹁¶桜桃﹄・﹃父﹄1特にその﹃義﹄. 供よりも、その親のほうが弱いのだ。. −脅かされる父、あるいは父である文学者−. ﹃桜 桃 ﹄ と ﹃ 哀 し き 父 ﹄. : 太宰治の﹃桜桃﹄︵﹁世界﹂昭23・5︶と葛西善道の哀しき父﹄. ︵﹁奇跡﹂大1・9︶とは、ともに父親をモチーフにした作品 である。しかも、どちらも父親としては駄目な父親である︵太 宰風にいえば、父親失格である︶。さらに、前者の主人公は小. 説家であり、後者は詩人という文学者でもある。この文学者で あることと、駄目な父親であることに何等かの関係があるので はないか、その様な視点からこの両作品について考察を試みて み ょ う と す るのが本稿の目的である 。 Ⅱ 太宰の癌桃﹄について論じられる頂に、常に閉邁とされる の は 次 に 挙 げる冒頭の一節である。 子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古 風な通学者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、何、子. −21−.

(3) ことを解すべきであろうか。まずいえることは、親と子との 血およびその縦の関係の否定であるということだ。 ︵﹁太宰治 5﹂Hl・6︶. ﹁子供より親が大事﹂という言葉に注目すれば、当然従来の. 配給や登録といった、生活に於いて最も重要なことをいっさ. い行わない。生活に於いてはまさに﹁無能﹂な父親である。け れども、子供の事を考えてはいる。. しかし、泣いているのはお前だけではない。おれだって、. 注目したいのは、﹁子供より親が大事﹂という言葉ではなく、. らぬが、しかし、おれには、どうしてもそこまで手が廻らな. に引っ越して、お前や子供たちをよろこばせてあげたくてな. と思っている。子供が夜中に、へんな咳一つしても、きっと 眠がさめて、たまらない気持ちになる。もう少し、ましな家. お前に負けず、子供の事は考えている。自分の家庭は大事だ. それ末続く﹁と思いたい﹂という部分である。さらに、その後. いのだ。. ︵たとえ否定されるも. の﹁その親のほうが弱いのだ﹂という部分である。この作品は、. 妻に﹁涙の谷﹂と言われて、夫である﹁おれ﹂はこのように. ように、芸術家の道徳や親と子との関係. 子供と親とどちらが大事かということが問題なのではなく、そ. 考えている。しかし、﹁考えている﹂とか﹁思っている﹂ばか. が主題として考えられるだろう。しかし、ここで. のように思いたいという、思いが重要なのではないかと考える. られているのは主人公の思いだけである。それに対して﹁まし. のとしても︶. のである。というのも、この作品の主人公には思うということ と、行動するということの間に、いささかのギャップがあり、 そのことが最初に述べた駄目な父親ということに結びついてい. な家﹂という生活のためには何もしていないのである。︵無論、. りで、実際上は何も行動をしようとはしない。所詮ここで述べ. ると考えられるからである。さらに、それは主人公が小説家で 駄目な父親の一つの特徴として考えられるだろう?そこで、先. としての主人公を、精神的に圧迫し、脅かしているかのようで. 決めつけている訳ではない。︶そのため、この子供の存在は父. あることとも無縁ではないだろう。また、﹁弱い﹂ということも、﹁どうしてもそこまで手が廻らないのだ。﹂という言葉を嘘と に挙げた﹁思い﹂ということと、﹁弱い﹂という二点に注目し. 分で上げない。そうして、ただもう馬鹿げた冗談ばかり言っ. い気持ち﹂になっていることに気付いているのは、実は自分だ. たっていないのであり、単に、その様に思っている自分を自分 で慰めているに過ぎないのである。つまり、自分が﹁たまらな. になったとしても、実際のところそれは子供には何の役にも. ている。配給だの、登録だの、そんな事は何も知らない。. 実際の父親としての働きや行動を何もしていない。 子供が三人。父は家事には全然、無能である。蒲団さえ自. な が ら こ の 作品を読み返してみたい 。 すらある。まさに﹁子供よりも、その親のほうが弱いのだ﹂と 先に指摘したように、この作品の中で、主人公である父親は、 いう訳である。しかも、どんなに主人公が﹁たまらない気持ち﹂. −22−.

(4) 識的に、或いは意図的に、読者に於いてこの主人公と作者とが. 主人公は作品中で自らを﹁太宰という作家Lと呼んでおり、意. けれども、書いているのは主人公ではなく作者である。しかも、. こそこの様な文章を書いて、弁明をしているとも受け取れる。. けであり、誰もその事に気付いてはいない。︵むしろ、だから. ー人の自分なのである。つまり、もう一人の自分に向かって演. 誰もそんな主人公など見ていないのであり、見ているのはもう. ているから﹁まづそうに﹂しているのだと、見せているのだが、. 様に、最後の﹁極めてまづそうに﹂というのも、子供の事を思っ. の事を考えて廿る事は、主人公自身しか知らないのである。同. 人公はここでも強調しているのである。しかも、その様に子供. ループができており、その中で完結しているのである。そんな. 重なるようになっている。つまり、これは主人公の弁明である そして、この様な自分だけが自分を見ているという、いわば. 自己完結しているような人間が、父親という人間関係の枠のな. 技しているのである。ここでは請わば二人の自分の間で完全な. 一人芝居とも呼べるものは、最後の﹁桜桃﹂を食べる場面によ. かに入った時、大きな乳轢が生じるのは当たり前であろう。. と同時に作者自身の弁明でもあるのだ。︶. く現れている。. 村瀬氏は∃父﹄﹃桜桃﹄−﹁いる﹂ことと﹁成る﹂こと−﹂. という論の中で、この作品の最後の部分を引用した後に次の様. 私の家でほ、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。 子供たちは、桜桃など、見た事も無いかも知れない。食べさ. に述べている。. な特殊な男の、家庭をかえりみない姿を措いているかのよう. 作品の展開は、いかにも飲んだくれの、女たらしの、そん. せたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだ. ろ、つ。 ︵中略︶. にみえるかも知れないが、一歩下がってみれば、﹁社会﹂′の. 中では家族がめったに食べられないような﹁桜桃﹂を食べて. しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまづそうに 食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、. いる光景がたくさんあるはずである。 ︵中略︶. そうして心の中で虚勢みたいに呟く青葉は、子供より我が大. 事。. ﹁子供より親が大事﹂ と私だって思う所がある。. ここでも、主人公は﹁よろこぶだろう﹂と思ってもそれを行 動に移さない。むしろ、よろこぶだろうと思う辛がこの主人公. の発見−倫理と論理のはぎまからー﹄−大和書. ︵言人間失格﹄. この作品の主人公は﹁子供より親が大事と思いたい﹂と言い. 房刊−所収︶. を責めているように読める。しかし逆にこれが主人公の請わば アリバイ工作としても読めるのである。子供の事を考えている ぞ、自分で自分を責めているぞ、反省はしているんだぞ、と主. −23−.

(5) ながら、実際の行動は、﹁家族をかえりみない﹂様な行動で、 結核による弱さ. ︵無力︶. 思いたいどころかその様に振る舞っているかに見える。しかし、 事を指摘している。. が、繊細さや感受性に結びついている. ように、結局この思うと行動とのギャップに苦しめられること. 述べてきたように、この主人公は、社会に於いても家に於ける. 護をしようとする作者の姿勢がうかがわれる。さらに、すでに. か見えず、主人公の思いは他人には解らない。ここでも、その ために子供のことを思っているという事を明らかにして自己弁. 動とのギャップがなくなるのである。しかも、外からは行勤し. り親が大事﹂とは思っていないのであり、まさに﹁思いたい﹂ のである。そのように思うことができれば逆の方向で思うと行. は、いかに子供の事を思っているかである。つまり、﹁子供よ. 芸術家の素養を示しているということになる。つまり、この弱. 明しているように見えて、無力であることが繊細さを強調する 働きをしている。主人公が小説家なので、当然それはすぐれた. であり、父としても無力である。それは一見自分の無能さを表. この作品の主人公は結核ではないが、悲しんでばかりいるの. 特の人物であった。. た性格の持ち主であった。感受性が鋭く、想像力に富む、独. 憂鬱症にかかるのはというか、結核にかかるのは、すぐれ. つまり無力であることは、繊細さと感受性の目印であった。. 悲しみは人をして﹁興味深い﹂対象とする。悲しむこと、. が予想されるのである。村瀬氏の指摘するような一般的な父の. さの強調は一見自己否定の棟であって、実は他者と自分との差. すでに述べたようにむしろこの作品の中で強調されているの. 在り様とは本質的に違うのである。この父とは、常に子供に脅. 異、即ち優越性を暗に示しているのであり、結局は自己肯定に. へどもどしながら書いているのである。書く. る。相手の確信の強さ、自己肯定のすさまじさに圧倒せられ. 私は議論をして、勝ったためしが無い。必ず負けるのであ. ︵中略︶. のがつらくて、 ヤケ酒に救いを求める。. に引き出され、. 無いのである。 極端な小心者なのである。それが公衆の面前. 懸命であった。 もともと、あまりたくさん書ける小説家では. 母も精一杯の努力で生きているのだろうが、父もまた一生. なっているのである。例えば、次の様な描写もそうではないか。. ︵中略︶. かされる父なのである、が、同時に脅かされることが、父とし ての存在証明にもなっているような父なのである。 Ⅲ この思うだけで行動できないということは、主人公の弱さに 通じているのではないか。最初にも﹁親のほうが弱い﹂とあっ たように、この作品では主人公の弱さが強調されている。では なぜ、この作品ではこのように一見自己否定に見えるような主 人公の弱さが善かれるのか。S・ソンダクは、﹁隠喩としての 痛い﹄ ︵みみず書房︶ の中で、結核と芸術との関係について、. −24−.

(6) 身とのあいだに亀裂が生じているのである。この様な人間は、. 全体が、主として次の様な二つの仕方で裂けている人間のこ. ているように見えて、実は自分の級細さを強調し、傷つきなが 他者と. るのである。そうして私は沈黙する。. らも努力していることを示そうとしているのである。そして、. 世界のなかで、︵くつろぐ︶こともできない。それどころか、. とである。つまり第一に世界との間に断層が、第二に自分自. 請わばたくさん書ける作家は、鈍感な人間ということにすらな. 絶望的な孤独と孤立の中で自分を体験する。その上、自分自. ﹁極端な小心者﹂というのは、自分の弱さを示し自己否定し. るのではないか。同時に議論における相手もまた、鈍感な人間. 身をひとりの完全な人間としてではなく、jまざまな仕方で. ︵ともに︶ある存在として生きることができないし、. ということになる。けれども、この主人公は他人が自分と同じ. とによるが、彼の弱さが繊細さ・感受性に通じ、彼の芸術家と. 自分自身がこの思いと行動とのずれに気付いていないというこ. ギャップがあるかもしれないとは考えてはいない。それほ偏に. しか判断せず、他人もまた自分と同じ様に行動と思いとの. り思っていることを強調していながら、他人については行動で. 対する認識が、少し違っている。その違いが最後に示されてい. いるもののことである。ただし、この様なものたちは、自己に. 違うものであり、あくまでも前者は通常の日常生活をおくつて. 最後の一節に注意したい。精神分裂病質と、精神分裂病とは. 以上の自分として−等々。. きが多少ともゆるくなった精神として、あるいはまた、二つ. ︵分裂︶したものとして体験する。たとえば身体との結びつ. しての優秀性に結びついていたことも関係しているのではない. る、身体と精神との分裂︵いささか強く言えば︶、および複数. 様に弱いのではないかとは考えない。自分については、行動よ. か。 のだろうか。いや、そもそもそのような思うことと行動とがず. 想定され得るのである。また、﹁極めてまづそうに﹂と計らに. と﹁する﹂との断絶は、この精神と身体との断裂の延長線上に. の自己ということになる。つまり、これまで述べてきた、﹁思う﹂. れてしまうような人物は、現実に存在するのだろうか。そこで. 向かって演技をす右ことも、複数の自己の現れとして考えられ. では、この様な思うことと行動とのずれはどうして生まれる. 先にこの点について少し触れておきたい。. るのである。.それは、性格というようなものでほなく、自らも. R・D・レインはその著﹃引き裂かれた自己﹄︵みすず書房︶. この主人公が﹁精神分裂病質者﹂かどうかを問題にしようとし. 自分ではどうにもできないものである。ただし、なにもここで、. それに気付くことがないかもしれず、また、気付いたとしても. の中で、﹁精神分裂病質者﹂について、次の様な定義をしている。. ている訳でもないし、また、それをするほど精神分裂病に詳し. Ⅳ. 精神分裂病質者︵scENOid︶というのは、その人の体験の. −25−.

(7) らまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す。. い訳ではない。ただ、この思うけれども行わない、というのが、 引用や、次のような描写にはっきりと現れている。 単に主人公が怠慢だからだとか、﹁エゴイズム﹂だとか、とい うようなレベルでは捉えられないかもしれない、ということを. いささか唐突な感のある文章であるが、この﹁鎖﹂も先の﹁ガ. が重要と考えるような精神の持ち主なのではないか。いや、そ. 学者とは、思う事と行為する事が同じか、むしろ、前者のほう. 文学者の本質を示しているのではないかと考えるのである。文. と呼びたいと考えている。そして、この︵想像的人間︶こそが、. いうのは、あまりに非文学的なので、個人的には︵想像的人間︶. であることと、この傷つきやすいこととは、同義語ともなって. めこの様な文になったと考えられるのである。そして、芸術家. 人公の実体験︵延いては作者の実体験︶が、反映されているた. や描写はまるで為されていないのである。つまり、ここには主. め、ここでは何故とか、何が、というような具体的な問いかけ. ラス﹂と同じように考えてよいかもしれないのである。そのた. 生きるという事は、たいへん虻事だ。あちこちから鎖がか. 指摘したかっただけである。因みに、この﹁精神分裂病質﹂と. もそも、身体との関係がゆるんだ精神をもつ者にとって、どち. いるのである。. このように、この作品で最も注目すべきは、この主人公の思. らが本当の自分かと言えば、それは言うまでもなく精神の方な のである。そして、その精神が自らの存在を現すもの︵存在証明︶. 言葉に現されていたのである。それこそが芸術家の本質を示し. うと行動との亀裂であり、それが最初の﹁と思いたい﹂という. さらに、このような<想像的人間>は、当然として傷つきや. ているのである。最初に引用した佐藤氏は芸術家の道徳という. こ そ が 、 芸 術なのではないだろうか 。 すくなる。レインは先の本の中で次の様にも述べている。 れわれ以上に暴露されており、傷つきやすく、また孤立して. ないだろうか。即ち、この作品は親子の関係や、家庭、社会といっ. 裕すらなく、道徳は精神と肉体との隙間に喪失して行くのでは. にとって、道徳というような余. いると感じている。だから分裂病者が、次のようにいうこと. た、何等かの関係を主題にした作品なのではない。そうではな. が、このような︵想像的人間︶. があるのである。自分はガラスでできていて透明でこわれや. く、関係を持てないこと、関係そのものが傷つけることになる. だが ︵分裂病質者︶とよばれる人々は、他者にたいしてわ. すいので、自分に向けられたまなざしが自分を粉みじんに打. の主人公もまた、父としては無力な. ことをこそ書こうとした作品なのである。 Ⅴ 葛西善道の. コ展しき父﹄. ち砕き、自分を真直ぐにつらぬき通す、と。そして、われわ れは彼がそのとおりに体験していると想像してよい。 このような ︵想像的人間︶ は、特に他人との関係に於いて傷. つきやすいのである。この作品に於いても、それはこれまでの. −26−.

(8) しき父﹂と呼んでいか。. 弱さ、繊細さが強調されている。そして、この父は自らを﹁哀. 摘の代表とも呼べる存在であり、この作品に於いても、自らの. 父である。しかも彼は結核であり、まさに、先のソングクの指. いる。. のである。S・ソングクは先の引用に続けて次の様にも述べて. 彼の個人的な理由によるのではないか。すべては文学のためな. る。家族を残して都会で働くものは多いだろうが、この場合は. なしとげた。芸術家にも、そうでない人々にも、ボヘミアン. しかしながら結核の神話は想像力を説明する以上のことを. やましくあった。そしてまた彼はひとりの哀しき父なので. の生活の重要な範型を提供したのである。結核患者はドロッ. 孤独な彼の生活は何処へ行っても変わりなく、淋しく、な あった。哀しき父−−−彼は斯う自分を呼んでいる。. が自分を言葉で規定し、なおかつその規定が文学的であるとい. はめて、自己規定をしているのである。︵このもう一人の自分. な姿よりも言葉としての﹁哀しき父﹂というものに自らを当て. の自分が見ていて、ある戟念に当てはめている。自分の現実的. 思いたい﹂に繋がるものがあるのではないか。自分をもう一人. 生活をしている。すでに、結核を通して文学とこのボヘミアン. うわけではないが、この主人公も故郷を捨ててボヘミアン的な. 必ずしも都会というのは、結核患者にとって健康な場所とい. のである。. しい理由に、旅から旅の生活を送る新しい理由になりもした. 浪者ともなった。一九世紀の始めから、結核が故郷を去る新. プ・アウトとなり、さらにまた健康な場所を求めつづける放. うことは、私小説の一つの特性を示していると考えられる。︶. 的な生活というのが結びついたとも考えられるだろう。そのた. の﹁と. しかも、﹃桜桃﹄同様、自らを﹁哀しき﹂というだけで、その. めに、この後﹁彼﹂は、﹁海岸行き﹂を考えたりしているので. ﹃桜桃﹄. 様な状態を改善するような、何等具体的な行動は取らないので. ある。さらに、︵想像的人間︶にとっては芸術は非日常︵精神︶. この﹁自分を呼んでいる﹂というのは、先の. ある。それ故、結果的にはここからは伝わってくるのは感傷の. のものであり、当然それを生み出すためには非日常の場が必要. 食べていたように、この﹁彼﹂も、子供のためにという演技を、. そして、﹃桜桃﹄の主人公が﹁桜桃﹂を﹁極めてまづそうに﹂. き父﹂なのであり、むしろやはり﹁思いたい﹂のである。. 供より親が大事﹂となっているかのようだが、一方では﹁哀し. そが非日常的な場なのである。ともあれ、ここではあたかも﹁子. だとも考えられる。子供の居る故郷は日常の場であり、都会こ. みである そして、この主人公が﹁哀しき父﹂であるのは、郷里に子供 を残して都会で暮らしているからである。 彼はまだ若いのであった。けれども彼の子供は四つになっ ているのである。そして速い彼の郷里に、彼の年よったひと りの母に護られて成長しているのであった。 ﹁彼﹂は詩人として生きるために子供を郷里に残して都会にい. −27−.

(9) 自 分 の た め にしている。 金魚を見ることは、彼の小さな世界へ焼鏡をさし入れるも. この主人公が、父らしい行為をするのは、郷里にたまに送金. する程度である。. そして都合がついたら孫の服ひとつ送るようにと云うので. あった。孫は洋服を着たいと云ってきかない、そしてお父さ. のであらねばならない。彼は金魚を見ることを恐れた。そし て彼はなるべく金魚の見えない通りを︿と避けて歩くので. た。. んはいやだ、何も送って呉れないからいやだと云うのであっ. あったが、うっかりして、立ち止まって、ガラスの箱なんか にしな︿と泳いでいるのに見入っていることがあった。そ. 供と暮らしていた時に子供と一緒に飼っていたからである。こ. 子供と結びついているからである。それは、まだ郷里に居て子. 金魚を見ることが焼鎧を差し入れるようなのは、この金魚が. ﹃桜桃﹄. には何も残らない。子供のためにできる最後のことであった。. ﹁小箪笥﹂は彼の唯一の荷物であり、これを売ってしまうと後. 疲れた彼の胸には、母の手紙は重い響きであった。彼は兎 に角小箪笥を売って、洋服を送ってやることにした。. ︵中略︶. こで金魚を見てつらく思うことは、即ち子供のことを思ってい. の役割を少しではあるが果たしているかに見える。しかし、こ. して、気がついて、日のカン︿照った午後の往来を、涙を 呑 ん で 歩 いているのであった。. るという証拠になるのである。しかし、﹁なるべく﹂とか﹁涙. の仕送りが父としては最後の行為である。. い。まさに﹃桜桃﹄の主人公の様に、自分がもう一人の自分に. そんなことには気付いていないし、当然子供には何の関係もな. まで避けてもつき纏うて来る生活と云うこと、また大きな徴 菌のように彼の心に喰い入ろうとし、もう喰い入っている子. と云うことの際限もないと云うこと、世の中にはいかに気に. 彼の胸にも霧のような冷たい悲哀が満ち溢れている。執着. の主人公よりも、この作品の主人公の方が、父として. を呑んで﹂というのも、自分だけがそう思っているだけで誰も. 対して演技しているようなものなのである。そして、金魚を恐 れるということは、子供の存在を恐れるということであり、こ の 父 親 も 子 供に脅かされているので あ る 。. 供と云うこと、そう云うことどもが、流れる霧のように、冷. に繋がっている。こんなにも繊細で傷つきやすいのは、感受性. ているのであり、それはこの主人公が詩人を目指していること. 結核であり、まさにソングクの言うような弱さ=繊細さを示し. 兄弟となり、教育者となりたいとも思うのであった。. もって、最も元始の生活を送って、真実なる子供の友となり、. 子供の許に帰ろうと、心が動いた。彼は最も高い貴族の心を. たい悲哀を彼の疲れた胸に吹きこむのであった。彼は幾度か. 入らぬことの多いかと云うこと、暗い宿命の影のように何処. また、ここには傷つきやすさも示されている。この主人公は. が豊かで詩人としてふさわしいという訳である。. −28−.

(10) も主人公は現実的な生活を改善するような何等の働きかけもし ていない。ただ単に現実を感傷的に捉えているだけである。そ. 性の豊かさ、文学的資質へと結びついている。そして、ここで. られている。それらは言うまでもなく先のソングクのいう感受. ここでも生活に対しての無力さ、また、傷つきやすさが述べ. な父は﹁直接の父﹂にはなり得ないのである。彼の﹁偉大なる子﹂. はないだろうということである。けれども、生活に於いて無力. ると、これは主人公の虫のよい青いぐさとも取れるのである。. 対して現実的な行動が必要になることが想像される。そう考え. で年よった彼の母の許にいるのである。当然この子供の将来に. つまり、子供に取って今必要とされるのは﹁直接の父﹂以外に. のため、ここでも子供の存在はあたかも非現実的な存在のよ、7. が﹁彼の死﹂によってその子に﹁真実﹂を伝えるように、この に﹁徴菌﹂として述べられている。また、生活の無力さは父と しての無力さへも繋がっている。ここで﹁彼﹂は、自らを﹁友﹂、主人公もこの時点では唯一、子供に示すことができるものは、. ﹁兄弟﹂、﹁教育者﹂として規定しているのは、亭っまでもなく 彼の死以外にはなかったのではないか。しかしながら、それは これらが、子供の生活を保証しなくてもよい存在だからである。 単なる死ではない。子供に示すことのできる死でなければなる. ﹁彼﹂は子供に対して生活を負担せずに接することのできる立 まい。それは、詩人としての死以外にはないだろう。 このような主人公は、﹃桜桃﹄ の主人公に類似していると言 場に自らを置こうとしているのであり、唯一﹁彼﹂の示せるも のは﹁最も高い貴族の心﹂という精神的なものだけなのである。 えるだろう。けれども、﹃桜桃﹄ の主人公が最後まで現実の父. という存在に未練を残していたのに対して︵というよりも、自. 己肯定に未練を残していたというべきかもしれないが︶、この. こ こ で も 、 父は脅かされているので あ る 。 しかし、虐後に至ってこの主人公は、むしろこの精神的な存. 作品の主人公は最後に現実の父としての存在を放棄しているの. ﹃善造を. ﹁文芸﹂S15・4−等に書いているように、葛西にひ. おとなになるだろう⋮⋮﹄. ﹃自分もこれでライフの洗礼も済んだ、これからはすこし. この後、﹁彼﹂は喀血をする。. えられるのではないか。︶. かれていた。それはこのような葛西のもつ強さの故だったと考. 思う﹄▲−. 品にはない、葛西の作品のもつ強さがある。︵太宰は. であり、自己肯定をも無視しているのである。ここに太宰の作. 在としての父に、自らを規定しょうとするかのようである。 けれども偉大なる子はけっして直接の父を要しないであろ う。彼は寧ろどころまでも自分の道を求めて、追うて、やが て簸るべきであるそしてまた彼の子供もやがては彼の年代に 達するであろう、そうして彼の死から沢山の真実を学び得る であろ、7 見 方 に よ っては大変潔い生き方か も し れ な まさに﹁最も高い貴族の心﹂でもって接しょ、ツとしていると言 えるだろう。しかし、すでに指摘したように、この子供は郷里. ー29−.

(11) 父としての役割を果たせなくなったということによって、父と. なったのである。さらに、喀血したことにより実際開港として. 一種のアリバイに過ぎなかったのであり、もうその必要が無く. られる。あくまでも金魚というのは﹁彼﹂にとって父としての. すでに父としての自己肯定を放棄してしまっていることが考え. この変化は何故か。まずその理由として、先に述べたように、. 最後には、あれほど見るのを恐れていた金魚を飼っている。. 彼は静かに詩作を続けようとしている。. いでいる。. 窓際の小机の上には、数匹の金魚がガラスの鉢にしなしな泳. しれない。あまりにこの作者たちはこの弱さを無条件に受け入. の自己肯定ということに関しては、いささかの問題が残るかも. これらの作品の作者自身の自己肯定に繋がっている。この作者. のである。さらに、その自己肯定は、単に作中人物だけに限らず、. 感受性の豊かさや繊細さを示し、自己肯定へと結びついていた. 強調も、一見自己否定に見えて、文学と結びつくことによって、. それは自らの弱さの強調にもなっていた。しかし、この弱さの. とによって子供から脅かされることになるのである。一方で、. のために、逆にその存在は脅かされることになる。父であるこ. は最後にその様な自己肯定は無視されているが。︶ところがそ. れは一種の自己肯定のためでもあった。︵﹃哀しき父﹄において. うとする。つまり、父ということにこだわっている。また、そ. いうものに対するこだわりから、より一層解放されたとも考え. れすぎていないだろうか。たとえ、︵想像的人間︶ということが、. ︵中略︶. られる。やっと故郷の子供にとらわれず、﹁静かに詩作﹂を続. 芸術家の本質に繋がるとはいえ、すべての芸術家がこの隠な行. 動できないということを受け入れている訳ではないのである。. ︵想像的人間︶という. の都合もあり、一応指摘しておくにとどめることにしたい。. ことの特性の違いということもあるだろうから、ここでは紙面. ただ、実際には個々の作家によってこの. ︵1︶. けることが可能になったのである。. Ⅵ ﹃桜桃﹄ の主人公にせよ、﹁哀しき父L の主人公にせよ、ど. ちらも思うだけで行動をしようとはしない。共に生活に於いて. 動しないのではなくできないのである。また、思うけれど行動. それは、彼等が︵想像的人間︶であることによるのである。行. しれない。単なる甘えやエゴイズムと考えるやもしれない。し. 或いは多くの読者が、この様な父の在り様に反発を覚えるかも. も理論的な仮説に過ぎない。そのため実際の読書に於いては、. ︵想像的人間︶というのは、あくまで. しないのではなく、思うから行動できないのである。彼等にとっ. かし、R・D・レインは先に引用した本の序に次の様に書いて. ただ、現段階ではこの. て最も重要なことは思うことにあるからだ。しかし、彼等はそ. いる。. 無力であり、父としての現実的な役割をまるで果たしていない。. の事に気付かずに家庭、親子という関係に自らをリンクさせよ. ー30−.

(12) のよい﹂状態があまりにもしばしば恍惚の放棄、われわれの 其の可能性への裏切でありすぎるということである。われわ. かくて私が強調したいのは、われわれの﹁正常﹂な﹁適応. 借越なことだ。ましてそれを人に押しっけるにいたっては!. ない自分を信じるということは、あうゆる点で、人間として. うとする操作は、私には自己欺瞞に思われる。どうにもなら. ぐらい知っている。しかし弱点をそのまま強味へもってゆこ. 水摩擦や規則的な生活で治される筈だった。生活で解決すべ. 太宰のもっていた性格的欠点は、少なくともその半分が冷. れの多くは、﹁にせ﹂の現実に適応するために﹁にせ﹂の自 の方が﹁にせ﹂の現実に適. 己を獲得するということに成功しすぎている。 ︵読者︶. きことに芸術を煩わしてはならないのだ。いささか逆説を弄. 反発を感じるのは、我々. 応していからなのかもしれない。これらの主人公・作者たちは. すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がな 0. あくまでも真の可能性を求めていたとも考えられる。或いはそ. ヽ■. −V ︵中略︶. れに気付くからこその反発もあるのかもしれない。自らが何時 のまにか放棄してしまったものを、未だに求め続けているもの. この男には、世俗的な虻のは、芸術家を傷つけるどころか. 芸術家などに一顧も与えないものだということが、どうして. −31−. に対する嫉妬の様なものもそこにはあるのではないか。少なく と. 人間のようなところがあった。. もわからなかった。自分で自分の肌を傷をつけて、訴え出る. い場合もあるということは確認しておこう。いやむしろ、その 反発を逆に自分を省みるチャンス上すべきであろう。なぜなら、. 三島の指摘するように﹃桜桃﹄では、弱さが強調されており、. 体を鍛えることで精神と肉体との結びつきはいささかでも強く. それがまたそのまま自己肯定にもなっていた。もしかすると肉. 小説を読むことによって読者が成長していく可能性がそこにあ るからだ。 かくて私が強調したいのは、芸術家と呼ばれる人々は、︵想. なるのかもしれないが、その本質にどれほどの遠いをもたらす. か。 の. まとう不自然さは、このことと関係していたのではないだろう. ではなかったろうか。敢えて言えば、彼の肉体の鍛え方に付き. 像的人間︶と呼ぶべき、我々︵読者︶とは異質の精神構造をもっ. ︵S30・11講談社刊︶. かは解らないのである。また、三島自身も本来︵想像的人間︶. ﹃小説家の休暇﹄. た 人 々 な の だということなのである 。. 注1、三島由紀夫は. 中で太宰を評して次の様に述べている。. 私とて、作家にとって、弱点たけが最大の強味となること. ..

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