うたことば﹁天雲﹂の用法︵岩下︶一 一 はじめに 前稿︵
1では︑萬葉集内に四十二例を数えるうたことばとしての﹁天雲﹂を概観し︑︶
⑴ 記紀歌謡には見られず︑萬葉集の記載による限り︑初期萬葉には確実な用例がないこと︒
⑵ 年代・作者未詳の例の内︑巻
7︑巻 10〜 13の歌については︑第
3期以降の作とする説があり︵
2︑東歌も﹁和︶
歌の歴史の中で︑貴族文学としての短歌が記載の次元において新たな展開を示す中で︑その一翼を担うべきも
の﹂︵ 3という見解が示されていること︒︶
⑶ 従ってうたことば﹁天雲﹂の確実な例は︑すべて人麻呂以降の例と見てよいとおもわれること︒
を確かめ︑その成立に関わるところで︑人麻呂における用法に即して︑この表現の意味について考えた︒
吉井巌氏︵
4が﹁天雲のよりあひ遠み﹂︵︶
11・二四五一︶︑﹁天雲のそきへのきはみ遠けども﹂︵
4・五五三︶︑などの
表現は︑﹁この世の果てを示す天雲の表現を利用した強調表現であつて﹂︑空間的な距離感を表す﹁﹃白雲﹄の諸表現 岩 下 武 彦
うたことば﹁天雲﹂の用法
二
と同一視することはできない﹂と指摘しているが︑これらと︑﹁神の降臨﹂という特別な文脈で︑﹁﹃特殊な神秘感﹄
を揺曳した﹂祝詞や神話の表現との間にも︑なお同類視できない違いがあることをたしかめ︑福永光司氏︵
5が中国︶
に出典を求めうると指摘することなどを考慮しつつ︑なお上代における﹁雲﹂の表現のなかで︑﹁天雲﹂の表現の性
格について︑見直す事を試みた︒
その結果︑
A うたことば﹁天雲﹂は︑万葉集の記載によれば︑その分布からしても︑用法から見ても︑最初から文字による
うたことばとして︑成り立ち︑展開してきたと考えられること︒
B その内容は景物としての意味もあり︑より神話的な内容を有しているものもあり︑文脈に応じて使い分けられ
ているが︑人麻呂の用例に比べ︑時代を追って次第に対象との距離感を表す比喩的な傾向を強めながら︑他方で
神話的な要素は薄れてゆくことを見通した︒
一方で人麻呂及びそれ以前の﹁雲﹂の表現を辿ると︑万葉集や記紀の歌謡に︑恋人や故郷を偲ぶよすがとして﹁雲﹂
を歌う例が︑斉明天皇︵紀・一一六︶︑人麻呂歌集古体歌︵
11・二四五二︶︑人麻呂歌集旋頭歌︵
7・一二八二︶︑依
網娘子︵
兄 2・二二五︶などにあり︑その背景として︑初期萬葉の歌に︑霊的存在としての﹁雲﹂を歌う例が︑︵中大 1・一五︶︑︵額田王
1・一七︑一八︶などと見え︑人麻呂及びそれ以前の﹁雲﹂の表現の背後に︑霊的なもの
として雲を観る古代的な発想の見られることを確かめた︒万葉集の記すところに従えば︑人麻呂はこのような状況か
ら出発したことになる︒また︑﹁我が面の忘れむしだは国溢り嶺に立つ雲を見つつ偲はせ﹂東歌・相聞︵
14・三五一
五︶のように︑こういう古代的な発想に立つ例は萬葉集に広く見られ︑根強い発想であったことも確かめた︒一方で
変わらない発想が底流としてありつつ︑他方で時代とともに変化していく相を抑えなければならないであろう︒ ここではそれを承けて︑主に人麻呂以後の用例に焦点を当てて︑この表現を改めて検討してみたい︒そのことを通
して︑万葉集における﹁天雲﹂の用語の史的変遷を跡づけることができるのではないかと思う︒
うたことば﹁天雲﹂の用法︵岩下︶三 二 天雲の五百重の下に隠りたまひぬ 万葉集第二期以降の︑﹁天雲﹂の用例について考えたい︵
イ 弓削皇子の薨ずる時に︑置始東人が作る歌一首︿并せて短歌﹀ 6︒人麻呂の用法を受け継いだと考えられる例としては︑︶
大君は神にしませば天雲の五百重の下に︵天雲之五百重之下︶隠りたまひぬ︵
2・二〇五︶
がある︒イは︑人麻呂の後を襲った表現として見やすいせいか︑あまり言及されないが︑人麻呂の後を襲ったものと
しても︑その方法態度について︑尚見ておくべきところが遺されていると思う︒
⑴ ﹁天雲の五百重の下﹂の意味 ﹁天雲の五百重の下﹂の表現については︑﹃沢瀉注釈﹄︵
7に︶
雲が幾重にも幾重にも重なつてゐる奥の意と思はれる︒玉の小琴﹁下は裏にて︑うちと云に同じ﹂︒攷證﹁裏
紐﹂︵十一・二四一三︶などの例があげられてゐる︒漢語の﹁雲表﹂﹁雲外﹂などが雲の上であり︑﹁雲底﹂が雲
の奥の意であるやうに︑ここはその雲底と同じやうな氣持で用ゐたものと思はれる︒
として︑︻考︼に﹁これも人麻呂の︑大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも︵三・二三五︶を先縦とす
べきであらう﹂といい︑諸注ほぼ従う︒
天雲の八重雲隠り︵天雲之八重雲隠︶鳴る神の音のみにやも聞き渡りなむ作者未詳︵
11・二六五八︶
ともあるように︑雲に隠れて見えない様子︒
11・二六五八は相手に会えない状態を譬えるのであるが︑﹁天雲﹂に
﹁隠﹂れるとは︑雲に遮られて見えない︵逢えない︶様子を歌っていると解される︒﹁八重﹂でなく﹁五百重﹂ともな
四
れば︑﹃拾穂抄﹄に﹁いをへは千重五百重なと皆ふかき心也﹂というように︑幽明境を異に隔てられた嘆きの深さを︑
大君との隔たりの遙けさで表していることになる︒﹁貴人の死を雲隠ルということの具体的表現︒﹃天雲の八重かき分
けて﹄︵一六七︶を逆に表現した﹂︵﹃新編全集﹄︶と言うとおりであろうが︑他にこういう例はなく︑吉井﹃全注﹄に
文武三年︵六九九︶の弓削皇子の挽歌を置始東人が﹁大君は神にしませば天雲の五百重が下に隠りたまひぬ﹂
︵
2・二〇五︶と歌うのと比較して︑ほとんど類句を用いながら︑人麻呂に到底及ばない⁝⁝
と言う︒﹁ほとんど類句を用いながら︑人麻呂に到底及ばない﹂という評価については︑なお検討の余地があると思
う︒吉井氏の言う﹁類句﹂が︑当時﹁類句﹂としてどの程度一般化していたものか︒また︑その用法に全く工夫の跡
が見られないかどうかということである︒
⑵ ﹁大君は神にしませば﹂の﹁類型﹂性 確かに︑﹁大君は神にしませば﹂という歌い出しは︑この歌の他に︑a 大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも︵
3・二三五︶︵天皇︑雷の岡に出でます時に︑柿本朝臣人麻
呂が作る歌一首︶b 王は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます︵
c 大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海をなすかも︵ 3・二三五左注・或本︶
3・二四一︶︵長皇子︑猟路の池に出でます時に︑柿本
朝臣人麻呂が作る歌一首︿并せて短歌﹀・或本の反歌一首︶d 大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ︵
19・四二六〇︶︵壬申の年の乱の平定まりにし以後の歌二
首・右の一首︑大将軍贈右大臣大伴卿作る︒︶e 大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ︵
19・四二六一︶﹇作者未だ詳らかならず﹈
うたことば﹁天雲﹂の用法︵岩下︶五 などと見え︑類型といえば︑類型といえる表現であるが︑しかし︑万葉集全体でも当該歌を含めて︑計六例しかな
く︑万葉集の記載するところによれば︑その年代も天武朝から持統朝に限られていることになり︑類型として片付け
ることに︑なお疑問も存するのである︒d︑eについて︑遠山一郎氏︵
8が︑︶
壬申の乱後の二首はともに︑下三句に天武天皇による﹁宮処﹂の造営を歌う︒四二六〇の﹁赤駒の腹辿ふ田
居﹂は︑﹁駒が腹這つてゐるやうな平凡な地﹂︵窪田空穂﹃万葉集評釈﹄︶と解するのでは届かず︑﹃万葉代匠記﹄
が例示するように︑馬の足が沈み︑腹まで埋まるような深田︑と取るのが的を射ていよう︑馬に関し︑四二六〇
がとくに﹁赤駒﹂と言うのも︑﹁赤駒﹂が野性味を帯びる馬を指すらしい点を︑歌に生かしている︵伊藤博﹁万
葉歌釈義﹂﹃古代和歌史研究
6﹄所収︶︒﹁赤駒を山野にはかし捕りかにて﹂︵巻二十│四四一七︶と歌われるよう
な︑山野を駆け回る﹁赤駒﹂でさえ︑足を取られる湿田を︑﹁宮処﹂に作り変えた天武天皇が︑当時の土木技術
の常識においては︑﹁神﹂に見えたのであろう︒﹃古事記伝﹄が神に関して指摘する﹁何にまれ︑尋常ならずすぐ
れたる徳のありて︑可畏き物﹂という性格が︑壬申の乱後に歌われた﹁神﹂にも当てはまる︒二首目が同じ場所
を︑﹁水鳥のすだく水沼﹂と表現し︑明日香清御原の﹁宮処﹂の造営を︑やはり﹁神﹂の行ないとして捉える歌
いかたは︑一首目の表現と軌を一にする︒︵
140〜 142頁︶
というのが改めて注意される︒
なお子細に見れば︑下三句は状況に応じてそれぞれに歌い分けられており︑a︑b︑cのように︑人麻呂の中でも
歌い分けられているところに着目すると︑これらを上二句の表現のみから一概に類型の中に押し込めてしまうこと
は︑表現の特性を読み取り損なうことになりはしないか︒遠山氏の指摘を承けながら︑回り道のようであるが︑少し
この表現に拘ってみたい︒
六 ⑶ ﹁大君は神にしませば﹂を支えるもの これらの中でもっとも年代的に溯るのは︑dとeである︒これらがいずれも︑天武天皇の明日香浄御原宮の造営に
関わって︑その神格化の形象として歌われたことは︑動かないだろう︒この表現が︑当時一定のリアリティを以て受
け入れられ︑人麻呂によって受け継がれたのはなぜか︒また︑他の時代にあまり見られないのはなぜか︒そのあたり
からなお検証する必要があるだろう︒
ⅰ ﹁水鳥のすだく水沼﹂の意味
dとeが︑大君への賛歌として機能しているのは︑大君を神格化した﹁大君は神にしませば﹂の句の創始によるこ
とは言うまでもない︒しかし︑その句の働きを有効たらしめているのは︑傍線部の﹁赤駒の腹這ふ田居を都と成し
つ﹂﹁水鳥のすだく水沼を都と成しつ﹂の下三句の表現であり︑これらの句が︑当時の人々にとってリアリティを以
て受け入れられたのは︑なぜかが問題であろう︒
﹁水鳥﹂の語は︑集内に他に
① 波高しいかに梶取水鳥の︵水鳥之︶浮き寝やすべきなほや漕ぐべき︵ 7例︒
② 笠女郎が大伴家持に贈る歌一首 7・一二三五︶
水鳥の︵水鳥之︶鴨の羽色の春山のおほつかなくも思ほゆるかも︵
③ 三原王の歌一首 8・一四五一︶
秋露は移しにありけり水鳥の︵水鳥乃︶青葉の山の色付く見れば︵
④ 水鳥の︵水鳥乃︶鴨の住む池の下樋なみいぶせき君を今日見つるかも︵ 8・一五四三︶
⑤ 水鳥の︵水都等利能︶立たむ装ひに妹のらに物言はず来にて思ひかねつも︵ 11・二七二〇︶
⑥ 水鳥の︵美豆等利乃︶発ちの急ぎに父母に物言ず来にて今ぞ悔しき︵上丁有度部牛麻呂 14・三五二八︶
⑦ 水鳥の︵水鳥乃︶鴨の羽色の青馬を今日見る人は限りなしといふ︵大伴家持 20・四三三七︶
20・四四九四︶
うたことば﹁天雲﹂の用法︵岩下︶七 の様に見える︒ ﹁水鳥の鴨の羽色﹂を歌う②と⑦︑及び︑やはり﹁水鳥の青葉の山﹂と︑羽色を歌う③を含めて︑①﹁水鳥の浮き
寝やすべき﹂④﹁水鳥の鴨の住む池﹂⑤﹁水鳥の立たむ装ひ﹂⑥﹁水鳥の発ちの急ぎ﹂と︑いずれも水鳥の生態に即
して歌っているのが注意される︒なかでも⑤の東歌︑⑥の防人の歌は︑ともに当時の都から見れば︑辺境の人びとの
日常見慣れた情景に基づいた表現であったろうし︑それが都人の目に清新な響きと受け止められたものであろう︒①
は旅先にあって﹁日は暮れて波高く︑尚続く舟旅の不安に︑船頭に歌いかける歌﹂︵﹃全注﹄渡瀬︶であろうが︑これ
も水面に浮かんだまま眠る水鳥の習性を捉えた表現である︒
それは︑同じように水鳥の生態に拠るとはいっても︑﹁水鳥の鴨の羽色﹂および﹁水鳥の青葉の山﹂と︑もっぱら
その色に眼差しを注ぐ︑笠女郎・三原王・大伴家持らの︑都人の表現とは聊か異なるといわなければならない︒
﹁水鳥のすだく水沼﹂とは︑比較すれば①︑④〜⑥により近く︑水鳥の習性に即して捉えた表現であり︑①は﹁羈
旅作﹂︑⑤は﹁東歌﹂︑⑥は﹁防人歌﹂というように︑都から離れた地域の人びとによって歌われていることも︑偶然
ではないであろう︒水鳥そのものは︑都の近くの水辺にもいたであろうし︑だからこそ都人も①︑②︑⑦のように歌
うのであろうが︑その歌い方の違いは︑無視できないと思う︒
都人の目からすれば︑都からかけ離れた光景である﹁水鳥のすだく水沼﹂が︑そのまま﹁都と成﹂すべき土地でな
いことは︑一目瞭然であろう︒だからこそ︑そういう未開の自然を技術や組織の力で﹁都と成し﹂てしまう﹁大王﹂
の﹁神﹂としか讃えようのない業が際立つのであろう︒
ⅱ ﹁赤駒の腹這ふ田居﹂の意味
念のために﹁赤駒の腹這ふ田居﹂の意味も確かめておこう︒﹁赤駒﹂も︑集内に他に
10例と︑日本書紀に
1例︒次
のように見える︒① 天皇︑海上女王に賜ふ御歌一首
八 赤駒の︵赤駒之︶越えむ馬柵の標結ひし妹が心は疑ひもなし ︵
② 世間の住み難きことを哀しぶる歌一首︿并せて序﹀ 4・五三〇︶
⁝⁝ますらをの男さびすと 剣大刀腰に取り佩き さつ弓を手握り持ちて赤駒に︵阿迦胡麻尓︶倭文鞍うち置き 這ひ乗りて遊びあるきし⁝⁝︵
③ 武庫川の水脈を早みと赤駒の︵赤駒︶足掻く激ちに濡れにけるかも︵ 5・八〇四︶
④ 赤駒が︵赤駒之︶足掻き速けば雲居にも隠り行かむぞ袖まけ我妹︵人麻呂歌集 7・一一四一︶
⑤ 赤駒の︵赤駒之︶い行きはばかるま葛原何の伝言直にし良けむ︵ 11・二五一〇︶
⑥ 赤駒を︵赤駒︶伯に立て黒駒を伯に立ててそれを飼ひ我が行くごとく思ひ妻心に乗りて高山の峰のたを 12・三〇六九︶
りに 射目立てて鹿猪待つごとく 床敷きて我が待つ君を犬な吠えそね︵
⑦ 赤駒が︵安可胡麻我︶門出をしつつ出でかてにせしを見立てし家の児らはも︵ 13・三二七八︶
⑧ 赤駒を︵安加胡麻乎︶打ちてさをびき心引きいかなる背なか我がり来むと言ふ︵ 14・三五三四︶
⑨ さわたりの手児にい行き逢ひ赤駒が︵安可故麻我︶足掻きを速み言問はず来ぬ︵ 14・三五三六︶
⑩ 赤駒を︵阿加胡麻乎︶山野にはがし取りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ︵ 14・三五四〇︶
⑪ 十二月の癸亥の朔乙丑に︑天皇︑近江宮に崩りましぬ︒癸酉に︑新宮に殯す︒時に︑童謠して曰はく︑ 20・四四一七︶
赤駒のい行き憚る眞葛原何の傳言直にし良けむ 其三︒
などと見える︒これらも︑①﹁赤駒の越えむ馬柵﹂︑③﹁赤駒の足掻く激ち﹂④﹁赤駒が足掻き速けば﹂⑤﹁赤駒の
い行きはばかるま葛原﹂⑥﹁赤駒を伯に立て﹂⑨﹁赤駒が足掻きを速み﹂﹁赤駒のい行き憚る眞葛原﹂のように︑﹁赤
駒﹂の生態に即した表現と︑②﹁赤駒に倭文鞍うち置き﹂⑦﹁赤駒が門出をしつつ﹂⑧﹁赤駒を打ちて﹂⑩﹁赤駒を
山野にはがし﹂のように﹁赤駒﹂の使用に即して表現されていることに注意しておきたいのだが︑就中﹁赤駒の足
掻﹂を歌う例が③︑④︑⑨にあり︑目に付く︒殊に④︑⑨は︑﹁赤駒が足掻き速︵し︶﹂を共通にしている︒﹁赤駒﹂
は︑栗毛で騎乗用の元気のよい雄馬をいうとする﹃全注﹄などの指摘のとおりであろう︒
うたことば﹁天雲﹂の用法︵岩下︶九 ①の﹁赤駒の越えむ馬柵⁝⁝﹂は︑﹃釋注﹄に﹁うっかりすると元気な赤駒が飛び越えて逃げる柵をしっかと結い
固めるように﹂とあるように︑﹁妹が心は疑ひもなし﹂と言いつつ︑﹁心離れなどさせないぞ﹂と﹁挑みかけた﹂のに
対し海上女王は︑
梓弓爪弾く夜 よ音 との遠 とほと音にも君が御幸を聞かくし良しも︵
4・五三一︶
と和 こたえる︒﹁赤駒﹂が狩猟などの際に乗馬として用いられることからの連想で︑﹁梓弓﹂を歌い出しに用い︑﹁御幸﹂
のことを︑﹁かすかな噂にでも伺えれば﹂と応じる︒﹁﹃心離れなどさせないぞ﹄などとおっしゃって︑滅多に訪れて
も下さらないではありませんか﹂と見事に切り返していることになる︒応答の要は︑馬柵など越えてしまいそうな
﹁赤駒﹂を︑奔放な心の喩えとして︑懸命に閉じ込めようとすると歌う①に対して︑﹁梓弓爪弾く夜音の遠音﹂と︑か
すかな音に擬えているのが︑女王の機知でもあろう︒
②で︑﹁剣大刀腰に取り佩きさつ弓を手握り持ちて赤駒に倭文鞍うち置き 這ひ乗りて遊びあるきし﹂というの
が︑﹁ますらをの男さびす﹂る表現とされるのも︑﹁ますらを﹂の血気盛んな様子が﹁騎乗用の元気のよい雄馬﹂であ
る﹁赤駒﹂の様子と呼応しているからであろう︒
﹁赤駒﹂がそういう特質を持っているとすると︑⑥に︑前半の男の立場の叙述と︑後半の女の立場の叙述と立場を
異にしながら︑一貫して狩の発想で通底していることも相応しい︒
⑦も︑元気のよい﹁赤駒﹂が︑﹁門出をしつつ出でかてにせし﹂という様子に︑家族との別れを惜しみ︑後ろ髪を
引かれる思いが強く表れているし︑⑧に﹁赤駒を打ちてさをびき﹂というのも︑一筋縄ではいかない心を︑はやる馬
の様子にたとえたものとして巧みである︒それは︑一端手綱を放したら﹁取りかに﹂なって︑捕まえがたいほど元気
な⑩の﹁赤駒﹂の表現とも通うであろう︒
⑤と⑪は︑同じ歌詞であるが︑⑤は元気一杯の﹁赤駒﹂でさえ﹁い行きはばかる﹂と歌うことで︑恋路の困難さを
強調し︑もどかしさを表しているのに対し︑日本書紀歌謡は⑤の女が男をなじる言葉を天武を激励する声のように転
用し︵﹃全注﹄︶て﹁童謠﹂としているのである︒
一〇 以上︑いずれも野趣溢れる﹁赤駒﹂のイメージが生き生きと捉えられることで︑一首の表現が生きてくるのだと思 う︒ ﹁赤駒の腹這ふ田居﹂という表現も︑そういう表現の範疇に入ると言ってよいであろう︵
9︒いずれにしても︑それ︶
は﹁風 みやび流﹂︵
4・七二一︶とか︑﹁都の手振り﹂︵
5・八八〇︶とはかけ離れた情景の表現であったろう︒
⑷ 喪失の嘆き 以上見たように︑﹁赤駒の腹這ふ田居﹂︑﹁水鳥のすだく水沼﹂と歌われる土地は︑当然ながらそのままでは決して
都に相応しい土地ではない︒そういう未開の自然に働きかけ︑組織や技術の力によって︑改造してしまう天皇の偉大
さを︑体感していたからこそ︑﹁大君は神にしませば﹂という表現が一定のリアリティを以て受け止められたのであ
ろう︒ a︑b︑cについては遠山氏前掲論に論及があり︑前稿にも触れたところであるが︑イはそういう﹁神﹂の系譜に 連なる﹂﹁王 おほきみ﹂を失った喪失感の大きさが︑﹁天雲の五百重の下に隠りたまひぬ﹂と︑天上遙か彼方に去ってしまわ
れたという嘆きとなって表現されているといえよう︒
三 天雲のそくへの極み
ロ 石田王の卒る時に︑丹生王の作る歌一首︿并せて短歌﹀
⁝⁝天雲のそくへの極み︵天雲乃曽久敝能極︶天地の至れるまでに 伺つきもつかずも行きて⁝⁝︵
3・四二〇︶
ロの﹁天雲のそくへの極み﹂︑およびこれに類する表現は︑A 丹生女王︑大宰帥大伴卿に贈る歌二首 天雲のそくへの極み遠けども︵天雲乃遠隔乃極遠鷄跡裳︶心し行けば恋ふるものかも︵
4・五五三︶
うたことば﹁天雲﹂の用法︵岩下︶一一 B 阿倍朝臣老人唐に遣はされし時に︑母に奉りて別れを悲しぶる歌一首 天雲のそきへの極み︵天雲能曽伎敝能伎波美︶我が思へる君に別れむ日近くなりぬ︵
C 葦屋の処女の墓に過る時に作る歌一首︿并せて短歌﹀ 19・四二四七︶
⁝⁝玉桙の道の辺近く 岩構へ作れる塚を 天雲のそきへの極み︵天雲乃退部乃限︶この道を行く人ごとに 行き 寄りてい立ち嘆かひ 或る人は音にも泣きつつ 語り継ぎ偲ひ継ぎ来る⁝⁝田辺福麻呂歌集出︵
9・一八〇一︶
と見え︑また︑D 惑へる情を反さしむる歌一首︿并せて序﹀
⁝⁝天へ行かば汝がまにまに 地ならば大君います この照らす日月の下は 天雲の向伏す極み︵阿麻久毛能牟迦 夫周伎波美︶たにぐくのさ渡る極み 聞こし食す国のまほらぞ⁝⁝︵
て短歌﹀ E 天平元年己巳︑摂津国の班田の史生丈部龍麻呂自ら経きて死ぬる時に︑判官大伴宿祢三中が作る歌一首︿并せ 5・八〇〇︶
天雲の向伏す国の︵天雲之向伏國︶もののふと言はるる人は 天皇の神の御門に 外の重に立ちさもらひ 内の重 に仕へ奉りて 玉かづらいや遠長く 祖の名も継ぎ行くものと⁝⁝︵
3・四四三︶
なども類想としてよいと思われる︒さらにF 白雲のたなびく国の 青雲の向伏す国の 天雲の下なる人は︵天雲下有人者︶⁝⁝作者未詳︵
13・三三二九︶
も加えることができようか︒これらの表現のそれぞれの特徴を︑確かめていきたい︒
⑴ ﹁天雲のそくへの極み﹂
まず︑A〜Cの﹁天雲のそく︵き︶への極み﹂について考えたい︒前稿にも引いたとおり︑早く吉井巌氏︵
10が︑︶
﹁白雲﹂と﹁天雲﹂の表現の違いについて︑﹁白雲﹂は︑﹁ここにして家やもいづち白雲のたなびく山を越えて来にけ
り﹂︵石上卿
3・二八七︶や︑﹁白雲の千重にへだてる筑紫の國は﹂︵
5・八六六︶︑﹁白雲の五百重がくりて遠けど
一二
も﹂︵
10・二〇二六︶等﹁人と人との遠さ︑この世に於ける地域間の距離をあらはすものとして使用されて﹂いると
いい︑一方︑﹁天雲﹂にも︑﹁天雲のよりあひ遠み﹂︵
11・二四五一︶︑﹁天雲のそきへのきはみ遠けども﹂︵
4・五五
三︶︑﹁天雲のそきへのきはみ﹂︵
19・四二四七︶など︑﹁白雲﹂と似た表現があるが︑﹁三首ともに︑第一・二句は︑
この世の果てを示す天雲の表現を利用した強調表現で﹂あつて︑﹁〝天雲の千重にへだてる筑紫の國は〝或いは〟白雲
のそきへのきはみ〟と言ふ表現は︑全く見出し得ない﹂ように︑相互に互換不可能であつて︑﹁天雲﹂と﹁白雲﹂と
は︑﹁その發想の根底において︑異なつた意識が持たれてゐた﹂とする︒
その指摘自体は正しいと思うけれども︑翻って﹁天雲のそくへの極み﹂や︑それに類する表現は︑人麻呂には見え
ない︒つまり︑類例の中でAは初出と言うことになる︒そのこと自体考えるべき問題をはらんでいると思う︒
ロに原文﹁天雲乃曽久敝能極﹂とあり︑Bには原文﹁天雲能曽伎敝能伎波美﹂とある︒﹃時代別国語大辞典 上代
編﹄︑A﹁天雲のそくへの極み﹂と訓み︑A︑Cは﹁ソキヘとも訓めるが⁝⁝丹生王︵四二〇︶と同一人と思われる
のでここもソクヘと訓むのがよかろう﹂という︒いずれにしても︑﹁そきへ﹂﹁そくへ﹂両形行われていたことを知り
うる︵﹃全注﹄巻九・一八〇一︶︒
なお子細に見ると︑ソクは︑﹁離れる︑遠のく﹂の意の四段活用︒ソクヘは﹁遠く隔たった所﹂︵﹃時代別国語大辞典 上代編﹄︶とすると︑ソキヘは︑特殊仮名遣いの観点からも︑ソクの連用形の体言修飾︑もしくは連用形の名詞
化した形ととることもできよう︒意味としてはいずれにしても﹁遠く隔たった所﹂ということになろう︒
あるいは︑ロ︑A︵第二期〜第三期︶とB︑C︵第三期〜第四期︶との年代的な差異の影響もあるかもしれない︒
さて︑その内容であるが︑ロ﹁天地の至れるまでに 伺つきもつかずも行きて﹂︑A﹁遠けども﹂︑A﹁心し行け
ば﹂︑C﹁この道を行く人ごとに﹂と︑いずれも空間的な距離の遠さを誇張して言う︒A﹁遠隔乃極﹂︑C﹁退部乃
限﹂という表記に示されるとおりである︒﹁この世の果てを示す天雲の表現を利用した強調表現﹂という吉井氏の指
摘を改めて確かめておきたい︒
ただしBについては︑﹃新編全集﹄頭注に﹁そきへの極み︱︱ソキヘは遠く隔たった所︒ソクヘとも︒時間的に無
うたことば﹁天雲﹂の用法︵岩下︶一三 限の遠い将来を︑空間の無限遠点で表した︒﹃天地の寄り合ひの極み﹄︵二七八七︶ともあった﹂という︒確かに﹁我
が思へる君に別れむ日近くなりぬ﹂と続く文脈からは︑単に空間的な距離感を表すというだけでは把握しきれない意
味合いが看取される︒
2・一六七の﹁天地の寄り合ひの極﹂について︑﹃全注﹄に二七八七を挙げ﹁確かに時間的な
永遠性をあらわすのに空間的表象によっている︒それらと同種の表現と思われる﹂といい︑﹃新編全集﹄にも﹁天と
地とが無限のかなたで寄り合う︑その極点まで︒この表現は空間的広がりの無限大を表すが︑同時に時間的悠久をも
意味する︒﹂という︒神話的な表現など文脈によっては︑時空に渉る内容を表現することも考え得ることを確かめて
おくべきであろう︒
見方を変えれば︑人麻呂の神話表現の中で︑時空に渉る表現として用いられた﹁天地の寄り合ひの極﹂などの詞句
が︑一面でその表現を承け継ぎつつ︑他面では時間と空間とに分節化され︑より空間的な広がりに傾いた表現として
﹁天雲のそくへの極み﹂という表現に受け継がれたともいえよう︒
⑵ ﹁天雲の向伏す﹂
D︑Eは︑﹁天雲の向伏す﹂を共通項とする︒これらと類似の表現として︑例えば a 皇神の見霽 はるかします四方の國は︑天の壁 かき立つ極み︑國の退 そき立つ限り︑青雲の靄 たなびく極み︑白雲の堕 おり坐 ゐ向伏す 限り︵祝詞・祈年祭︶b 皇神の見霽 はるかします四方の國は︑天の壁 かき立つ極み︑國の退 そき立つ限り︑青雲の靄 たなびく極み︑白雲の向伏す限り ︵祝詞・六月月次︶
などを挙げることができる︵﹃全注﹄など︶︒D ﹁天雲の向伏す極み﹂とは︑﹁天雲の垂れている涯まで﹂︵﹃和歌大系﹄︶とされる︒類似の表現の﹁祈年祭祝詞﹂
や﹁六月月次祝詞﹂の場合は﹁白雲の堕り坐向伏す限り﹂﹁白雲の向伏す限り﹂と︑いずれも﹁白雲﹂であり︑﹁皇神
の見霽かします四方の國﹂という文脈に即していると思われるが︑﹁天の壁立つ極み︑國の退き立つ限り︑青雲の靄
一四 く極み﹂と︑版図の極限を表す点で︑﹁この照らす日月の下は 天雲の向伏す極み たにぐくのさ渡る極み 聞こし
食す国のまほらぞ﹂という表現と重なるといえよう︒憶良のこの歌は︑﹁国守として管理責任を負う憶良の︑律令官
僚らしい教化的発想を示す﹂︵﹃新編全集﹄︶というとおりであるが︑そういう官人としての意識を体現する者として︑
大 おほ王 きみの版図の隅々まで貫く道理︵﹃釋注﹄︶を説くのである︒E ﹁天雲の向伏す国﹂は︑﹁雲が遥かかなたに横たわっている遠い国﹂︵﹃新編全集﹄︶の意味であるが︑一首の中で
は摂津国の班田の史生丈部龍麻呂について︑﹁天雲の向伏す国のもののふと言はるる人﹂というのである︒
丈部龍麻呂については︑村田右富実氏︵
11が︑︶
丈部氏は︑⁝⁝東国を中心に分布した︑宮廷の警護などに携わっていた氏と思われ︑龍麻呂も東国出身である
可能性が極めて高い︒また︑歌の上でも両親が﹁母父﹂と表現されており︑﹃全歌講義﹄が詳しく述べるように︑
その用例は東歌や防人歌に特徴的な偏りを見せる︒少なくとも作品内においては︑丈部龍麻呂は東国出身者とし
て造形されているといってよい︒
38頁
というのに尽されよう︒
﹁天雲の向伏す国﹂とは︑﹁遠い国をいう慣用句﹂︵﹃全注﹄︶であるが︑単に﹁遠い﹂のではない︒﹁限りなく遠い﹂
というのであり︑誇張といえば誇張であるが︑Eの文脈に即していえば︑故郷を離れて客死した丈部龍麻呂の︑二度
とは帰れぬ故郷を想う心情を思いやった作者の意識が働いていよう︒先の村田論︵
12が︑冒頭から第一四句目︵﹁祖の︶
名も継ぎ行くものと﹂︶まで︑龍麻呂の発話とみる通説に対して︑
己の出身地を﹁天雲の向伏す国﹂と表現するであろうか︒先に見た用例は︑いずれも都を中心として東国をその
中心から遠く離れた僻地として捉える発想を前提としている︒勿論︑東国出身者が時としてそうした発想に基づい
うたことば﹁天雲﹂の用法︵岩下︶一五 た発話をしないとはいえないが︑ここは︑出発時にあたって︑﹁母父に妻に子ども﹂に対して自己の矜恃を述べる︑
いわば決意表明の場面である︒到底本人の発話とは思えない︒
一方︑生身の作者を考慮の枠内にいれた場合︑都人が東国を﹁天雲の向伏す国﹂と表現してしまうのは︑中原意
識の現れとすらいえないほど当然であった可能性が高いであろう︒
というのを思い起こすべきだろう︒
以上﹁天雲の向伏す﹂という表現は︑無限の距離感を表すものとして︑﹁天雲のそくへの極み﹂と共通する面を持
つが︑幽明境を異にした作中人物の心に即くことにより︑地上の距離感を越えて︑隔絶させられた心情を表現する方
向に展開したといえよう︒
⑶ ﹁白雲のたなびく国の 青雲の向伏す国の 天雲の下なる人は﹂
Fに近い表現として︑c 高天の原は︑青雲の靄 たなびく極み︑︵祝詞・大殿祭︶
などを見るが︑祝詞には﹁天雲﹂の表現は見えない︒前項のa︑bは﹁四方の國﹂に関わる叙述であるからか︑とも
思うが︑cは﹁高天の原﹂に関わって︑﹁青雲﹂と叙される︒その﹁青雲﹂は︑
一書に曰く︑天皇崩ります時に︑太上天皇の製らす歌二首︵一首略︶
北山にたなびく雲の青雲の︵向南山陳雲之青雲之︶星離れ行き月を離れて︵
2・一六一︶
とある他三三二九︑三五一九︑三八八三︑四四〇三︵アヲグム︶の︑万葉集に計
5例あるが︑中国文学の﹁青雲﹂
が︑﹁五行思想を支へとして﹂多様に展開しているのに対し︑上代の日本では︑﹁外来語としての新奇さと︑上代人の
青色に對する感情によつて使用された﹂という︵
13︒︶
より具体的には︑林田正男氏︵
14が︑﹃新編全集﹄に﹁漢籍から借りた語﹂︑﹃古典集成﹄に﹁﹃青雲﹄を天皇にたと︶
一六
え︑皇后たちを残して亡くなってしまった悲しみを述べた歌︒当時の天文学の知識を踏まえた歌か﹂などというのを
引き︑﹃世説新語﹄補棲逸に︑﹁陶貞白︑幼有二異操一︑年十歳︑得二葛洪神仙伝一︑晝夜研尋︑便有二養生之志一謂レ人 曰︑仰二青雲一︑観二白日一︒不レ為レ遠矣︒﹂とあることから︑
つまりこの歌の青雲は天仙︵昇天する最も高い位にある仙人﹃抱朴子﹄︶となる天皇を青雲にたとえたもので
ある︒神仙︵天皇︶に対する畏敬とそれを習い慕う気持が含まれている︒⁝⁝この歌の青雲に寄せる観念は天仙
となることを意味した畏敬の歌である︒崩御された天皇は青雲となり︑北斗七星のある北に向かう︒そこには仙
界の最高神である﹁皇天上帝﹂が北に在るからである︒道教の教典である﹃北斗本命延正真経﹄︑﹃北斗三十八章
経﹄︑﹃七星移度経﹄などにこの具体的な記述がある︒﹁皇天上帝﹂は二章の序論に挙げた大祓の祝詞に見える皇
天上帝と全く同一の神格である︒︵
60〜 61頁︶
という︒前稿に掲げた祝詞の例や︑当該歌の例も林田氏の指摘のとおりと理解してよいであろう︒ただ︑この歌の場
合︑﹁白雲の⁝⁝﹂﹁青雲の⁝⁝﹂と重ねて︑﹁天雲の下なる人﹂と畳み掛けることで︑広い世間に唯一人︑という語
感を際立たせている︒
更に︑この歌が﹁挽歌﹂の標題の下に収められ︑後に﹁⁝⁝この九月を我が背子が 偲ひにせよと 千代にも偲ひ 渡れと 万代に語り継がへと⁝⁝﹂などとあるのに照合すると︑冒頭の﹁﹁白雲の⁝⁝天雲の下なる人﹂という表現
と両々相俟ってEと同様︑幽明境を異にした寂寥感を強調しているとも解されよう︒
四 残された課題
なお︑﹁天雲﹂の用法の展開全体を見通すには至らないが︑限られた用法をとおしてではあるけれども︑人麻呂に
うたことば﹁天雲﹂の用法︵岩下︶一七 よって創始され︑時空に渉る表現として︑独自の神話的表現に昇華されたうたことば﹁天雲﹂が︑人麻呂以後︑その用法を受け継ぎつつ︑一面では時間・空間それぞれの面に分化して︑新たな表現をうみ出してゆく様相の一端を確かめ得たと思う︒ 集内の残された例についての分析と︑作者未詳歌の年代推定等︑なお残された課題も多い︒続稿を期したい︒
注
︵
1︶ 岩下武彦﹁うたことば﹃天雲﹄の成立﹂中央大学文学部紀要﹁言語・文学・文化﹂一一三︵通巻二四九︶二〇一四・三︒
︵
2 ︶ 渡瀬昌忠﹃萬葉集全注
7 ﹄有斐閣一九八五︒
遠藤宏﹃古代和歌の基層﹄笠間書院 一九九一︒
阿蘇瑞枝﹃萬葉集全注
10 ﹄有斐閣一九八九︒
神野志隆光﹁万葉集巻十一︑十二覚書﹂学大国文 二三 一九八〇︒
曾倉岑﹃萬葉集全注
13 ﹄有斐閣二〇〇五︒
︵
3 ︶ 品田悦一﹁万葉集巻十四の原資料について﹂萬葉一二四一九八六︒
品田悦一﹁万葉集東歌の地名表出﹂国語と国文学 六三・二 一九八六︒
︵
4 ︶ 吉井巌﹃天皇の系譜と神話﹄塙書房一九六七︵
271〜 273頁︶︒
︵
5 ︶ 福永光司﹃道教と古代日本﹄一九八七︒
︵
6︶ 以下︑本文の引用は︑次のテキストを基本として︑諸本により校訂を加えた︒複製のあるものは︑それによった︒
﹃万葉集﹄は︑西本願寺本を基とし︑訓み下しは﹃和歌文学大系﹄および︑未刊部分は﹃新編日本古典文学全集﹄を基とし︑
諸説を勘案して採択した︒なお︑歌番号は︑松下大三郎﹃国歌大観﹄による︒
﹃古事記﹄は真福寺本を基とし︑訓み下しは﹃新編日本古典文学全集﹄によったが︑私見を以て改めたところもある︒
﹃日本書紀﹄は︑﹃日本古典文学大系﹄︑井上光貞校訂﹃日本書紀﹄中央公論社︑﹃新編日本古典文学全集﹄等を勘案して採択
した︒
﹃祝詞﹄は﹃日本古典文学大系﹄によった︒
一八
︵
︵ 7 ︶ 以下万葉集の諸注については︑前稿に従って適宜略称した︒
出 一九九一︒ 8 ︶ 遠山一郎﹁﹃大君は神にしませば﹄を共有する歌﹂︵﹃天皇神話の形成と万葉集﹄第二章第三節塙書房一九九八・一︑初
︵
9︶ 注︵
8︶参照︒
︵
10︶ 注︵
8︶参照︒
︵
11 ︶ 村田右富実﹁丈部龍麻呂挽歌の冒頭部について│訓釈を中心に│﹂言語文化学研究︵日本語日本文学編︶六二〇一一・
三︒
︵
12︶ 注︵
11︶参照︒
︵
13 ︶ 吉井巌﹁青雲攷﹂﹃萬葉集への視覚﹄和泉書院一九九〇・一〇︑初出一九五二・一〇︒
︵
14︶ 林田正男
﹃万葉集と神仙思想﹄
﹁第二章
神仙思想と万葉びと﹂
﹁
3
天武
・持統朝と神仙思想﹂笠間書院
一九九九
・
一〇︒