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唐代作家新疑年録の・・‑・厳武・高新・裳度・匂倍・李百薬・李頻・慮輪
植木久行
きよ・つ川威武(字季鷹)
○玄宗開元十四年丙寅(七二六)生‑代宗永泰元年乙巳(七六五)四月末没'享年四十歳。︹論拠︺
①﹃旧唐書﹄巻十1、代宗紀、永泰元年四月の条に'「庚寅︹二十九日︺'剣南節度使・検校吏部尚書厳武卒」とあ
る。
②﹃旧唐書﹄巻二七'厳武伝に、「永泰元年四月、以疾終'時年四十」とある。
③﹃旧唐書﹄巻一九〇下'文苑伝下'杜甫伝に'「永泰元年夏'︹厳︺武卒」とある。
④﹃新唐書﹄巻二一九'厳挺之伝に付す厳武伝に'「永泰初卒'‑‑年四十'贈尚書左僕射」とある。永泰年間
は二年弱(永泰二年十一月、大暦に改元)であり'「初め」とは「元年」を指す。
⑤﹃資治通鑑﹄巻二二三㌧永泰元年四月の条に'「辛卯︹三十日︺'剣南節度使厳武菱」とある。
生年は'②と④の享年「四十」によって逆算。
︹備考︺
欄厳武の死亡日に関して,﹃旧唐書﹄代宗紀(①)と﹃資治通鑑﹄(⑤)は,それぞれ四月の庚寅(ll十九日),同辛卯
(三十日)と記し'一日の差がある。現在のところ'どちらが正しいのかは未詳。生没年自体については'聞一多「唐詩大系」や呉文治﹃中国文学史大事年表﹄旧以下'異説はない。ただし、妾亮夫﹃歴代名人年里碑伝総表﹄だけ
は'没年のみを書いて生年を記さない。︹参考︺
厳武は成都ヂ・剣南節度使在任中'「草城早秋」詩(広徳二年︹七六四︺の作'﹃唐詩選﹄所収)を作り'気概雄壮と評さ
れる。当時'その幕僚(節度参謀・検校工部員外郎)であった杜甫の唱和詩も伝わっている。厳武は'成都に流浪中の杜
甫を厚‑庇護した。清の黄生は'﹃杜工部詩説﹄の巻頭に収める「杜詩概説」のなかで'厳武と十四歳年上の杜甫と
の濃やかな交情について'次のごと‑述べている。
すく杜公︹甫︺は交湛広Lと錐も'能‑その窮を振ひて'善‑これを過せし者は、惟だ厳季鷹1人のみ。故に公のカな知に感ずるの心も亦た'死生替はること勿し。よ2杜甫はまた'厳武の文学に対して'「新詩句句好し」(「奉贈厳八開老」詩)'「詩は清らかにして意を立つること新3ひつぎたなり」(「奉和厳中丞︹武︺扇城晩眺﹄十韻」諸)などと高‑評価する。永泰元年'厳武の霊枢をのせた舟は'華州華陰
県(都長安の東'今の陳西省)の故郷へと帰葬されるべ‑'長江を下った。杜甫は江辺の忠州(四川省東端の忠県)でその4舟を見送り'「素幌流水に随ひ'帰舟旧京に帰る」と歌っている(「芙厳僕射帰槻」諒)。二人の交遊をめぐる有名な
逸話I杜甫は厳武に殺されそうになり'その母親の仲裁でようや‑助かったtは'単なる荒唐無稽の「小説」と5考えてよい。
注
冊「奉和厳武軍城早秋」詩として﹃唐詩選﹄に収める.黒川洋1﹃杜甫の研究﹄(創文社'1九七七年)第El章二の注心(三〇六頁)によれば'杜甫が厳武に贈ったり'厳武について歌った詩は三十一首'厳武が杜甫に贈った詩は三首残るとい
、つ○脚﹃杜詩詳註﹄巻五所収'至徳二載(七五七)の作。価﹃杜詩詳註﹄巻十一所収'宝応元年(七六二)の作。㈱﹃杜詩詳註﹄巻十El所収'永泰元年(七六五)の作.㈲土岐善磨﹃杜甫門前記﹄(春秋社'一九六五年)「杜甫をめぐる残酷物語」'黒川洋﹃杜甫の研究﹄第El章の二「﹃唐書﹄杜甫伝中の伝説について」'陳文革﹃杜甫伝記唐宋資料考弁﹄(文史哲出版社'一九八七年)第三章の董「与李白厳武交情考弁」など参照。
㈲高新(字千里)
○穆宗長慶元年辛丑(八二一)生‑債宗光啓三年丁未(八八七)九月没'享年六十七歳。︹論拠︺
①﹃旧唐き巻十九下'債宗紀'光啓三年の条に'「九月辛未朔︹盲︺'准南節度使高餅為其牙将庫働塵所殺」と
ある。
②﹃旧唐書﹄巻一八二㌧高駅伝に'光啓三年九月のこととして'
俄而乱卒升階'曳︹高︺餅数之日'「公上負天子恩'下陥揚州民'准南塗炭'公之罪也」。新未暇言'首己堕地臭。
9とある。8‖H
③﹃旧唐音﹄巻一八二㌧畢師鐸伝に'「︹光啓三年︺九月'師鐸殺高餅」とある。
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④﹃新唐書﹄巻九'債宗紀'光啓三年九月の条に'「庫屠殺高断」とある。
⑤﹃旧五代史﹄巻二二四'楊行宮伝に、「其年︹光啓三年︺九月'秦︹彦︺・畢︹師鐸︺害高断於幽所'少長皆死へ同
炊唾於道院北垣下」とある。
⑥﹃資治通鑑﹄巻二五七'光啓三年九月の条に'「甲成︹四日︺'︹秦彦︺命其将劇値悔殺︹高︺餅、井其子弟甥姪無少
長骨死'同炊唾之」とある。
⑦﹃唐詩紀事﹄巻六三へ高断の条に'「生於長慶之首'卒干光啓之間」とある。
はじめ高餅の生年は'⑦の「長慶︹年間︺の首に生まる」によって'長慶元年に確定できる。聞一多「唐詩大系」が「八
≡(長慶元年)生」とするのも'おそらくこの﹃唐詩紀事﹄(⑦)の記載にもとづくものであろ、㌢他方'その没年
は①‑⑥によって'光啓三年の九月になるが'死亡日は﹃旧唐書﹄憤宗紀(①)が一日(辛末朔)へ﹃資清適鑑﹄(⑥)が
四日(甲戊)としへ三日間の異同がある。﹃旧唐書﹄が「辛末朔」の下に「甲成」の二文字を脱した可能性が高いが'
現在のところ'両者の是非を確定できない。
享年は生年と没年によって計算すると'六十七歳となる。
︹備考︺
高断の生没年は'聞一多「唐詩大系」や'周勤初主編﹃唐詩大辞典﹄以下'異説はない。ただ、妻亮夫﹃歴代名人
年里碑伝総表﹄や呉文治﹃中国文学史大事年表﹄山'﹃惰唐五代史﹄(﹃中国大百科全書・中国歴史﹄の分冊口同断の条(,下
孝萱執筆)など'生年を未詳とするものがあるので注意を要する。ちなみに'﹃唐才子伝校等﹄巻九'高餅の条(周祖
讃・呉在慶執筆)にいう'
断之死'﹃新五代史﹄巻一及巻六一均記於中和三年(八八三)'接此大誤。
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と。しかし'この指摘は誤りである。前者(巻lL)の場合は'高餅の死を明らかに光啓111年の条に記す。また後者
(巻六一)の場合も'高餅が中和三年に没したと明言しているわけではない。この条は'「中和三年'唐即拝︹楊︺行2密度州刺史」の語で始まっており'中和三年とは単に楊行密の庭州刺史就任時を指すにすぎない。両者とも年月に関
して行文がややあいまいであるものの'高餅の卒年自体に異説があるわけではない。︹参考︺
高餅は'「山亭夏日」(七絶)で広‑知られ'﹃三体詩﹄には「歩虚詞」一首を収める。﹃太平広記﹄巻二〇〇'高餅しゃはんいんの条に引‑唐末の謝蜂︹隠︺撰﹃雑説﹄には'高餅の文学を'次のごと‑高‑評価する。
唐高餅幼好為詩'雅有奇藻。属情賦詠'横絶常流。時乗筆者'多不及之。故李氏︹唐朝︺之季'餅其首蔦。
撰者の謝蜂は'高餅の死後三'四年めにあたる昭宗の大順年間(八九〇‑'﹃高餅詩﹄一巻の序文を執筆した謝蜂ヽ隠を指すらしい(雇才子伝﹄巻九'高餅の条参照)。隠の一字が脱したものであろう。﹃唐才子伝校董﹄巻十'張鼎の条
(周祖譲・貫晋華執筆)の陪説によれば'前掲の引用部分は'﹃高餅集(高新詩)﹄に附された謝蜂隠の序文の一部でありt
のちに﹃雑説﹄のなかにも再録されたものという。とすれば'高餅に対する極めて高い評価も'いちおう首肯できよ
、つ03高餅は晩年'道教に溺れて身を滅すが'この点に関しては'宮川尚志﹃中国宗教史研究(第一)﹄に収める第十章「唐末の節度使高餅と方士呂用之」参照。また'准南節度使在任中に関しては'周藤吉之「唐末准南高餅の藩鎮体制4と黄巣徒党との関係についてー新羅末の雀致遠の著﹃桂苑筆耕集﹄を中心として‑」が参考になる。
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(4日3日2日 1)
注﹃唐才子伝校葺﹄巻九、高餅の条も同じ。﹃資治通鑑﹄巻二五五、中和三年三月の条や、郁賢暗﹃唐刺史考﹄(第三冊)巻7九参照。同朋舎'一九八三年。﹃東洋学報﹄第六八巻第三・四号所収、一九八七年。
刷装度(字中立)
○代宗広徳二年甲辰(七六四)生‑文宗開成四年己未(八三九)三月四日没、享年七十六歳o︹没年の論拠︺
①﹃旧唐書﹄巻十七下、文宗紀、開成四年三月の条に'「丙申︹十四日︺、司徒・中書令輩度卒」とある。
②﹃旧唐書﹄巻丁七〇、裳度伝に︹開成二二年冬、病甚、乞還東都︹洛陽︺養病。四年正月、詔許還京︹長安︺'拝中書令。以疾未任朝謝、詔日‑‑。
又遠国医就第︹都長安永楽坊の私邸︺診視。属上巳︹三月三日︺曲江︹池︺賜宴、群臣賦詩。度以疾不能赴、文宗道中使2賜度諒日、「注想待元老、識君恨不早。我家柱石裏、憂来学丘︹孔子︺祷」。偽賜御札日、「朕詩集中'欲得見卿唱和
詩'政令示此。卿疾志未症'固無心力、但異日進来o春時俗説難於将技。勉加調護'速就和平。千百胸懐、不具一3二。薬物所須、無慣奏請之煩也」。御札及門、而度巳麓、四年三月四日也。上聞之、震悼久之、重令繕写、置之霊
座。
4とある。
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③﹃新唐書﹄巻六三'宰相表'開成四年の条に'「三月丙戊︹四日︺'度菱」とある。
④﹃資治通鑑﹄巻二四六'開成四年の条に'
春閏正月己亥︹十六日︺'非衣度至京師'以疾帰第'不能人見。上労問賜賓'使者薯午︹往来の頻繁なさま︺。三月丙成︹四日︺菱'誼日文忠。
とある。
⑤﹃冊府元亀﹄巻一四二帝王部'念良臣の条に'5文宗開成四年'司徒・中書令非衣度'以疾帰第。帝思其勲旧'労問賜与'中使薯午'偽形於詠言。御札及門'度巳
黄綬。帝震悼久之'重令繕写'置於霊座。
とある。
これらの論拠によれば'非表皮は開成四年の三月に没したことになるが'ただその死亡日に関しては異同がある。﹃旧唐書﹄本伝②'﹃新唐書﹄宰相表③'﹃資治通鑑﹄④は'いずれも「三月丙戊︹四日︺」没とするが'﹃旧唐書﹄文ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ宗紀①のみは「三月丙申︹十四日︺」没とする。⑦丙戊と丙中は誤りやすいこと'しかも㊥同じ﹃旧唐書﹄のなかの本ヽ伝②に明記される三月四日は'丙中ではな‑丙戊であること。この二点を考えると'﹃旧唐書﹄文宗紀の「丙申」は'ヽ論拠③や④のごと‑「丙成」の誤りと考えてよい。さらにこの丙成︹四日︺没を補強しよう。論拠②と⑤は'病気の
ために上巳節︹三月三日︺の祝宴に不参加の非表皮に対する文宗の思いやりを述べて'「御札門に及べば'度巳に菱ず」
(②による。⑤もほぼ同じ)という。この行文は文脈上'上巳節の翌日'すなわち三月四日こそふさわし‑'十一日も後
のできごととはきわめて考えに‑い。﹃新唐書﹄巻一七三'非衣度伝にも'
上巳宴群臣曲江'度不赴'帝賜詩日‑‑。別詔日‑‑。使者及門而度菱。