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林竹二の教員養成論と「授業」

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林竹二の教員養成論と「授業」

赤 堀 哲 雄   (1985年11月5日受理)

は じ め に

わたしが東京大学の教育学部の学生だったときの「担任」は勝田守一であった。

わたしが宮城教育大学に助教授として「採用」されてからの最初の6年間,学長であったのは林竹 二であった。

この二人は,わたしの最も敬愛する「師」だが,わたしは,この二人の「弟子」であるとはいえな

い。

勝田,林それぞれに多くの「弟子」がいるわけだが,そうした「弟子」たちの次に,あるいは,そ の外周に「番外の弟子」ありとすれば,わたしはその「筆頭」(それぞれの!)に位するものと自負し てはいるのだけれども。

勝田と林とでは,林のほうが少し年上だが(林が1906年の生まれ)「有名」になったのは勝田のほう がズッと早い。そして,林が宮城教育大学の学長になった年(1969年)の7月,勝田は帰らぬ人とな ってしまった。わたしにとっては,それまで林は「無名」の人であったから,わたしだけの体験とし ては,勝田と林とはリレーされる。

だからといって,ここで勝手に故人の名を使って論を進めることが許されるとは思えないが,いず れキチンとした「弟子」としての研究をまとめることを宣言しつつ,この小論を展開することとする。

勝田守一と林竹二

勝田が京都帝国大学の哲学科を卒業したのは1932年,林が東北帝国大学の哲学科を卒業したのは,

1934年であった。林のほうがオクレテしまったのは,林がキリスト教信仰のため東北学院専門部に進 学したこと,途中,病気をしたりしたことのためである。

勝田が東京大学「教育学部」の教授として発令されたのは1951年,林が東北大学教養部から東北大 学「教育学部」に転じたのは1952年である。「教育学科」の出ではなく「哲学科」の出である二人が,

ともに「ポツダム学部」である「教育学部」の創設に参加することになる。

勝田が東京大学教育学部長になったのが1965年,林が東北大学教育学部長になったのも1965年であ

る。

勝田には,東京大学教養部に籍を置いていた時期もあるが,実質的には,ずっと教育学部の教授で あった。すくなくとも教育学の教授ではあった。

勝田と林とが,はじめてめぐりあいコトバを交わしたのは,おたがいに「教育学部長」になって間

もなくの1965年4月に大阪大学で開かれた「大学院を持つ教育学部の教育学部長会議」のあい間のこ

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2      茨城大学教育学部教育研究所紀要18号(1986)

とであった。もっとも,それまでは面識がなかったということであって,まったくの「出会い」とい うことではない。むしろ,おたがいによく識っていたというべきであろう。文通もしていたのである。

東北大学は1964年12月に「教員養成課程の分離」を強行している。そのとき東北大学教育学部でた だひとり,そのことに反対していた林は,教育学部教授会の票ではなく「教員養成課程」の教官たち の票が集中したために教育学部長にされてしまう。

この時,林は「バリのムシロ」に座わらされていたのである。勝田は東京大学教授として,この東 北大学の「教員養成課程の分離」に反対する運動の組織者であったが,もとより東北大学の外側での

ことであって,内側にある林を直接援助することができる立場にはなかった。勝田は,それらのこと に直接触れることなく,林に「はかないまでにとぼしい,しかし深い思い出」(「勝田守一著作集」月 報2)を残して去る。

林はもういちど勝田に会っているが,そのことについての記録は見あたらない。

勝田は東京大学教育学部教授になるとすぐから,日教組の「全国教研」の講師団の世話人となった り雑誌「教育」の編集長をつとめたり,「教科研」の設立に参加したり(のちには,その委員長)とい うことで,いわゆる「民間教育運動」の中に「教育学者」としての研究と教育の場をつくり出してゆ

く。

また,いわゆる「学者・文化人」たちの,そのときどきの運動の中心的存在でもあり,いっぽう,

日本教育学会の事務局長や,教育哲学会の常任理事であったりもする。

林が勝田と行動を異にするのは,東京大学と東北大学との占める位置(地理的にも文化的にも)の ちがいもあるだろう。だが,林もまた単なる「書斉人」ではなかった。林もまた「行動の人」であっ たといえる。ただ,勝田がどちらかといえば「大学」の外へ向かっていったのに対して,林は「大学」

の内へと向かっていかねばならぬことが多かった。

勝田は京都大学卒業後,旧制松本高校の哲学の教授を経て,第二次大戦中の1942年に文部省の図書 監修官になる。戦後の「民主主義教育」の基礎づくりに,勝田が文部省にあって,どのように参加し たかは,ここでは触れない。わたしが,東京大学の学生として受けた勝田の講義は「社会科教育」で

あった。

その頃の勝田は教育学部の「学校教育学科」に属しており,それは教育内容・方法を研究領域とす る学科であった。「社会科教育」がすぐれて「哲学」的課題であることはたしかだが,勝田は「哲学」

から「教育学」への転進をはかっていたともいえよう。勝田は「岩波講座・教育」(1952年)「岩波講座 現代教育科学」(1960年)を編集するいっぽう,自らの教育学的著作・論文を次つぎに発表する。勝田 は哲学者であるよりは,教育学者,それも教育方法学者に,そしてときには教育心理学者になったか の如くであった。

林には,教育学的著作はなかった。林が「教育学」とは無縁だということはないが,勝田がスッカ リ教育,あるいは教育学のトリコになってしまったのに対して,林は哲学と思想史の研究家としてコ ツコッと研究を積み重ねていたのであった。林が「教育学部」に属することになったのは,たとえば 復員軍人・軍学徒を「再教育」するための講習会を親身になって世話するといった「教育者・林」に 対する評価だといってもいいだろう。

もっとも,勝田が「哲学者」でなくて平凡な「教育学者」になってしまい,林が「哲学者」であり

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続けることによって真の「教育者」になったなどというのではない。教育運動家としての勝田には,

「哲学者」としての深い思索のあとが見られる。それは,勝田の直接の弟子たちの浅薄な運動論や政 治的感覚を引き合いに出すまでもないことだろう。

勝田にあって林にないものを挙げればキリがない。そして,それらはこの稿には関係がない。

林にあって勝田にないものを挙げれば,それは「授業」だろう。林の「授業」そのものについては 後に述べるが,林の「授業」は映画やビデオに残って生き続けている。死してなお大衆の中に感動を 巻き起こしている。

勝田の教育論が林の教育論にくらべてヨワイところがあるのは,勝田が「教育実践」について語る ときに,他人である「現場の教師たち」の「実践」に頼らざるをえなかった点であろう。勝田は詠嘆 調の美文で彼の「教育論」をしめくくらねばならなかったが,林はそこを自らの「授業」で切り拓い ていく。

林の「授業」は彼の哲学の「実践」であった。

林竹二と教員養成

東北大学の「教員養成課程」は,さきにも述べたように1964年12月に「分離」することを決定され

てしまうのだが,実際の手続きとしては,東北大学の「教員養成課程」が「廃止」され「宮城教育大   ・ 学」が「創設」されたのである。「教員養成課程」は「教育学部」の「分校」だったのであって「学部」

であったわけではない。だから茨城大学「教育学部」が「分離」されて「茨城教育大学」として「独 立」するというのとはワケがちがう。チマタでは「宮城教育大学は東北大学から分離・独立した」とい われるのだけれども。つまり,東北大学の「教員養成課程」は「学部」になることもなく,東北大学 から追い出されてしまったのである。

林は(おそらく林だけなのだろうが)ふつう「大学における教員養成」というところを,わざわざ

「総合大学における教員養成」と述べていることが多い。これは,一つには「東北大学における」と いうべきところを「総合大学における」といいかえているように思える。しかし,林が旧帝国大学を 基盤に持ちながら唯一の師範学校を抱き合わせにして「新制大学」になった東北大学での「教員養成」

(小・中学校の,そしてとくに小学校の)に東北大学の教授としてかかわりながら,「東北大学」とい わずに「総合大学」ということのうらには,宮城教育大学のような「単科大学一目的大学」での「教 員養成」を認めることはできないということが意識されていたということだろう。単に「大学におけ る」ということであれば,東北大学であろうと宮城教育大学であろうと同じことになってしまう。

林は「総合大学で教員養成をすることになった」ということは「教員養成を総合大学として研究の 対象とし,教員養成を学問たらしめることだ」という。これもまた,ただ一つ,当時の東北大学の,

「教員養成課程」の置かれていた立場なしには語りえないことであろうし,逆に,東北大学のように 旧帝国大学の流れを汲む「総合大学」だからこそ,そして「哲学」の教授だからこそいえたことであ ろう。それは「教員養成」を「教育学部」という一つの学部での問題としてでなく各学部共通の課題 たらしめようとする意図を含んでいる。それは,文部省や都道府県ではなく「総合大学」という政治 的に独立した機関が「教員養成に責任を持つ」ことの具体的な表明にもなる。それは「大学における 教員養成」とは大学への「格づけ」の問題ではなく,教育行政制度の問題なのだから「教員養成大学」

などというものは認められないという意志を表わしていることでもあるのだ。

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4       茨城大学教育学部教育研究所紀要18号(1986)

東北大学時代の林の教員養成論そのものの研究は別稿にゆずろう。「総合大学」で教育養成をするこ とのメリットを環境論的なものに解消するのではなく「(各学部が)おたがいに教員養成を研究の対 象にする」という林の期待は,ほとんど実現されなかった。しかし,こうした林の主張を実践のなか で,だんだん現実のものとなっていくのは,医学部における医師養成の問題と教育学部における教員 養成の問題との「協同研究」である。これは具体的には「医学部長」と「教育学部長である林」とい

うべきことであったのかもしれないが。

医学部における医師養成の問題は,東北大学医学部だけの問題ではなく全国の医学部に共通の問題 であった。それは,ある意味では「大学紛争」の発火点でもあった。(そういう時代的背景を抜きにし ては林の期待が実現されることはなかったというべきなのかもしれないのである。)

医師の「倫理」は,もっともラジカルには「医者と患者との関係」において問われる。それは欧米 の医師養成のなかで反省され,それが日本の医学界にも反映される。西洋医学の源流はギリシャの医 術であり,ギリシャ哲学である。林というギリシャ哲学の研究者が,教育学部長だから,医学部長の 要請に応えることができたので,他の教育学部の教授では,そうはいかなかったのかもしれない。

「医者と患者」の関係と「教師と子ども」の関係の対比もまたラジカルな図式として成立する。そ れを,わが国における医師養成と教員養成の対比という図式にまで持っていったところに林の「総合 大学における教育養成」についての執念の深さが読みとれよう。

医学部における6年の課程は,教育学部における4年の課程よりも2年多い。そして教育学部がさ らに2年の課程を余分に持つということは現実的ではない。しかし,林は,医学部における基礎研究 と臨床研究と同じように,教員養成にも基礎研究と臨床研究とがあるべきだと考え,そこから,教員 養成のカリキュラムを考えるようになる。

だが,これは林の「片想い」であって,医師養成の側からの教員養成への提案ではない。

林が宮城教育大学の学長に選ばれたことは,林の教員養成論にとって大いなる矛盾となるわけだが 実際には,林東北大学教育学部長は,創設当時の宮城教育大学の教授会が発足するまでのあいだ人事 委員会の委員をつとめ,「総合大学」で果せなかった「教員養成の対象化」を追求できるような人事の 推進にあたっていたのである。それにしても1969年5月末,宮城教育大学の教授会が林を学長に選ん,

でしまったのは,林の学長就任を要請に行った者が林に語った如く「申しわけないこと」であったろ

う。

宮城教育大学学長としての林が,宮城教育大学の「改革」をどのように推進したかについては多く の人が記述している。林にとって,「宮城教育大学」そのものは認められないものだったのだから,そ れを「解体」することに努めるのは当然のことだったのだろう。多くの人は林の功績を讃えるが,林 は6年間の学長生活のおわりには,宮教大に「絶望」を感じている。だが,林自身が自らに「絶望」

したわけではない。(こうした場合,人は「背信」というコトバを想起するであろう。それは「信頼関 係」を誤用することである。)

わたしは大学の学長という職がどのようなものであるかを知らない。

林は,およそ学長としては破格の学長で,他の大学の学長たちからすれば,学長としては認められ ない人物だったのかもしれない。わたしは林学長しか知らなかったから,その後の学長たちの無能ブ

リにはバラを立てていたが,どうやら,その方々のほうがアタリマエらしい。

林は学長の任期が終わる直前の1974年に(1975年度の)「概算要求」として宮城教育大学大学院につ

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いての構想をまとめ上げる。それは林自身の手になるものであった。これより先,林は国大協の教員 養成制度特別委員会に「教員養成大学における大学院の問題」にたいする「意見」を提出している。

これらのものは,r学ぶということ』(国土新書)に収録されているが,その一部を引用しておくこと にしよう。

「教員養成大学が,単に教員養成課程であってはならないことも,またその固有の任務を果たすた めに大学院を必要とするという主張もそれとしては正しい。しかし,後者には条件がつく。教員養 成大学の場合,大学院を学部の教育を補完するごとき機構を持つものとして作り上げるのには,特 別の困難iがある。一・教員養成教育の基軸となるべき,臨床的な教育の学が,まだ作られていない からである。……教員養成と医師養成の教育との間には,本質的な点で類似がある。ところが,医 学教育の中で重要な役割を引き受けている,研究教育の組織としての臨床部門と,医療実践とそれ に即した研究教育の場としての附属病院に当るものが教員養成教育の中には,欠けている。臨床的 な教育の学が欠けていることが,この事態をもたらしているといえるだろう。……この大学院構想 にとって,附属学校の根本的な脱皮が必要である。附属学校の教官は,大学学部,大学院の研究教 育の組織の中にくみいれられなければならない。さらにそれ以上に緊要なことは,大学の教官,少 くともその臨床部門に属する教官が,教育の実践を通じて,すなわち医療活動における診断や治療 に見合う教育活動を通じて自己の学問の再造,学問的再出発をせまられなければならないことであ ろう。……臨床的な教育の学問が,ほとんど欠けている現状では,大学院の学生は,大学を出て一 旦教職についたものであることが望ましい。教育の現場で,教育の実践を通じて深められ具体化さ れ,鋭くされた生きた問題意識をもつ学生には,より深い教育の学問的な研究への動機とともに,

専門諸学科との,より深い取組みへの動機もつよくあることが期待される。新たに臨床的な学問を つくりだす任務をもつ大学院においては,教師と学生とが一緒になって教育の諸事実と問題にとり くむ過程の中でこそ,学生は,教帥から何か実質的なものを学びとることができるだろう。……教 員養成大学の大学院は……現職教育を目的とするというのとは,本質的にまったく別の……あくま でもきびしい学問,教育の場である。……この大学院では,臨床的な学問が核心的な役割を引受け なければならないといっても,充分な力をもつ基礎的なそれぞれの領域の研究者の活動は,やはり そこでの研究教育の根底をなすものである。学生は研究者として病院における診断や治療の仕事に 当る,教育実践(授業)にたずさわりながら学問的訓練をうける。これを通じて彼等は,学問を根 底とした,より高い教育の実践にたいして用意されることになるだろう。」(意見書)

「教員養成の教育と医師養成の教育との間には,大きな類似点がある。ところが,医学教育の中で 重要な役割を引受けている研究教育の組織としての臨床部門と,医療実践と,それに即した研究教育 の場としての附属病院にあたるものが,教員養成教育の中に欠けている。どの附属学校も現在のと ころその機能を有していない。臨床的な教育の学が欠けていることが,この事態をもたらしている といえるだろう。この欠陥を埋めるための地道な努力を抜きにしては,学問的な根底をもつ教員養 成教育は成立しない。」(概算要求書)

林は(宮城教育大学の)学生たちを前にして,くり返えし「大学は二度入るところ」と説く。もち うん,これは反語であって「教員養成に責任を持つ」ということの,なかみをいっているのである。

林の「大学院」の構想は「総合大学」での教員養成を超え,「総合大学」の「大学院」をも超えてし

まっている。

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6       茨城大学教育学部教育研究所紀要18号(1986)

林竹二と「授業」

林の「授業」は彼の哲学の「実践」であった,と前に書いた。もちろん,林がそういったわけでは ない。林の「授業」は「教育学の実験」でもあったといったらおかしいだろうか。もちろん,林がそ

うと意識していたかはわからないが。

林の「大学が責任を持つ教員養成」での「臨床的な教育の学」ということのなかには,宮城教育大 学の教科教育や教授学の研究者たちを中心とした「教授学研究会」の活動もイメージとしてあっただ

ろうけれども,林自身が「臨床的な教育の学」としてアタマに描いていたものは,もうひとつ違った ものだったにちがいない。だからこそ,自分自身で「授業」を実践してみることになる。勝田のよう に,他人の実践を語ることでもよかった筈なのであるが。

林も「大学は二度入るところ」といっていた時代は,それについての他人の実践を語っていたので ある。(もちろん,勝田とはテーマが違っていたが。)だがやがて,自分の「授業」の実践について語る ようになる。そして自分の「授業」そのものについてしかいわないようになる。

子どもたちが,いかに集中し,そして「浄化」されるかを。そして「学ぶ」とはなにかを。

「授業」を始めた頃の林の授業ぶりは,ほんとうに板につかず下手だった。わたしは,小学校の教 師を5年半ほど勤めたことがあるし,養護学校にも9年いた。だから,授業のコッは,知らず知らず のうちに身につけてしまっている。それで,発問のしかたなど,ご指導もうしあげたこともある。こ

ういうときの林は実に素直で,

「じゃあ,そうやってみますか」

といって,次の「授業」のときには,発問を変えてみたりするのであった。

ベテラン教師たちにとって,林の「授業」は内容にしては,非常に秀れているのに,授業としての 盛り上がりに欠けていることが問題であった。だが,外からは盛り上がりに欠けると見えるのに,子 どもたちのココロの中に非常な充実感をもたらしていることがわかってくるにつれて,ベテラン教師 たちは口をつぐみ,林は教師たちの助言を必要としなくなる。いったい何が起こったのか。

林の「授業」を受けた子どもたちは,

「また,林先生と勉強したいです」

と手紙(感想)を書くのである。決して

「また,人間について勉強したいです」とか「開国について勉強したいです」

とはいわないのである。

こうした子どもたちのコトバは,あまりにも重い。この子どもたちの指摘は,教師たちの日常の授 業を批判し,自らに学ぶ意志のあることを表明する。

斉藤喜博を宮城教育大学の教授として迎えることにしたのは林ではない。斉藤を迎えようというこ とになったときに,林は斉藤のしごとの「吟味」を始めたのである。林は斉藤の著作集を読み,斉藤 を学長官舎に招いて,それを話題にして教育について語る。斉藤が知名度が抜群であったから「礼を つくす」というのではない。学長林として,斉藤を招ぶという教官たちの心情のありかを確かめるの である。

林は,宮城教育大学の「斉藤喜博教授」の授業をなんども見る。彼の研究会にも参加する。そして

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いっしょに呑み,語る。わたしも何度か同席させてもらったが,林は斉藤の授業を見ながら,ひそか に自分の「授業」にっいての自信を深めていっていたようであった。そして,斉藤と,そのトリマキ たちを突き抜けていっζしまう。斉藤をとりまく現場の教師たちや「学者」たちが,いいかげんなも のだというのではない。斉藤たちが,日本の教師たちの水準を,はるかに超えたところにいるという 事実は認めていいだろう。

斉藤が宮城教育大学教授であったことを,もっともよく利用し吸収したのは林だろう。林が自力で コッコッと「授業」を積み重ねているだけだったら,もう少し「まわり道」をしてくれて,林が何を しようとしていたのかをわかりやすくしてくれただろうに。

わたしが宮城教育大学の授業分析センターの例会で「林竹二先生と授業」という話題提供をするこ とになったとき(1981年12月)林は,わざわざ次のような私信をわたしに寄せた。

「私の授業についてお話し下さる由で恐縮しております。参考までに,もっとも最近執筆しました 朝日に寄稿した短文をお目にかけます。夕刊で仙台では見られませんので。なお私はかつて授業を

●   ●.  ●   ●   ●

研究の対象として考えたことは一度もなかったと感じておりますことも念頭においていただければ 幸いです。一・・。」(傍点は林自身による。)

この「朝日」(1981年12月1日付夕刊)には次のように書かれている。

「……授業は私に人生の新しい地平を開いた。その新しい地平のなかで,かつて私が人生や学問で の出会いを経験した人たちが,新しい生命をもって立ち現われてくるのを見た。私は授業ではじめて

●   ●

子どもたちの内面にふれた。それは私が,教育という営みにはじめてじかにふれた経験であったとい ってもよいだろう。

私が授業ができたのは,私が曲がりなりにもソクラテスの勉強をしていたおかげだろう。ソクラ テスにとって問答法は,魂を裸にして眺めるしごとであった。もっとも深い意味において,それは 教育であった。しかし「教える』ことではおよそなかった。私には授業で何かを教えるきもちはな かった。だから私は子どもたちに出会えたのだと私は思っている。ソクラテスが,私に授業で子ど

もたちに出会う道を用意していてくれたわけだ。……。」

晩年の林には「講演」を頼まれると,必ずといってよいほど「授業」をすることを条件にしていた 時期があった。それは,講演のほかに(講演とひきかえに)「授業をさせろ」ということではなくて,

講演のうちに「授業」が含まれているということであり,やがてときには「授業」そのものが「講演」

になった。

それは「授業」でも「講演」でもなく「説法」ではなかったのか。林の「授業」は林の哲学そのも のの実践だったというべきだろう。

しかし,それはそれとして,林の「授業」は林の,のっぴきならぬ立場での教員養成論,そして「臨 床的な教育の学」ではなかったのか。

「教育の理論の問題は,そもそも哲学者にとってひとつの中間的な問題なのではないのである。…

一哲学者とは哲学的に行動せねばならぬところの,いわば人類を理性的な(思惟能力のある)存在

にするために行動せねばならないところの人間である。……この意味において,偉大な哲学はいず

れをとってみても,全体としては一種のバイデイアーすなわちr全面的な教育』であると定義さ

れるのである。したがって哲学者は,教育学のもろもろの科学的実践にかんする理論的総合化の仕

事を引き受け,それに責任を負うばあいでも,自分がある意味で教育の理論についての議論の先導

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8       茨城大学教育学部教育研究所紀要18号(1986)

看であってたんなる与えられた個々の問題へのr回答者』ではないことを,銘記しておくであろう」

(ラファエル・レヴェーク/フランシーヌ・ベスト「教育哲学の擁護」:ドベス/ミアラレ編波 多野完治ほか監訳r現代教育科学1/教育科学序説』白水社。1977。P146)

お わ り に

林が彼の「授業」で明きらかにしたものが何であったかを,林の「授業」を「教育学的実験」とし て捉えるとすれば,それはいたって簡単なことで「子どもたちはみな学ぶ力を失わずにいる」という ことであろう。

林にとっては,大学生たちがモエカスのようになっていることが問題であった。もしも,現在の学 校教育が,ほんとうに大学生をモエカスにしてしまっていれば,教員養成に明日はない。だから,大 学の教師としての林は,大学生を「自ら学ぶ」存在たらしめようとして「授業」をしていた。それが 彼の小学校での「授業」へと発展していったのである。「大学は二度入るところ」の一度目については この「子どもたちはみな学ぶ力を失わずにいる」ことから,大学生であるなら当然「深く学ぶ」こと ができるだろうし,それを為すことによって大学を出ていくことでいい筈なのである。そして,そういう卒 業生でありさえすれば,「現場」で「臨床的な教育の学」に目覚めることができるということであろう。

そして,そのとき「大学」は「二度目に入るところとして機能できるか」ということが問われるわけ

だ。

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