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「ニュー・カウンセリング」と教員養成教育の方法改善

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Academic year: 2021

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(1)Title. 「ニュー・カウンセリング」と教員養成教育の方法改善. Author(s). 若原, 直樹; 横浜, ミエ. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 47(1): 15-28. Issue Date. 1996-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2131. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部C) 第47巻 第1号. 平成8年8月. i l Se i t i do Un i i t fEduca )Vo lofHokka t onIC J c on( ver s ourna yo ‐1 .47 , No. A川犯s t , 1996. 「ニ ュ ー・カウ ンセリ ング」 と教員 養成教育の方法改善. 若. 原. 直. 樹*・ 横. 浜. ミ. エ紳. *北海道教育大学旭川校教育方法学研究室 “帯広市福祉部児童家庭課. はじめに 多量の教育内容を単元 ごとに刻みを入れて, 前から順にそれを休むことなく次々に子どもに教えていくと いう, 定型的で伝統的な学校教育の方法が, 必ずしも子どもの生きる力を育ててはいず, それどころかかえ こう した批判はもうず って学習意欲を減退させてむしろ子 どもを勉強ぎらい・学校ぎらいにさせている いぶん久しくながく繰り返されている‐ 延々とつづく知育のマンネリ状態を打開すべく, 文部省は平成元年 「こ れか らの 教育 にお い て は に学 習 指 導 要領 を改 訂 して, そ の 後 「新 しい学習 観 に 立 つ 教 育」 を打 ち 出 した‐、 ,. これまでの知識や技能を共通的に身につけさせることを重視して進められてきた学習指導の在り方を根本的 に見直し, 子供たちが進んで課題を見つけ, 自ら考え, 主体的に判断したり, 表現したりして, 解決するこ とができる資質や能力の育成を重視する学習指導へと転換を図る必要がある‐一 (文部省 「新しい学力観に立 平成5年9月) 文部省のこの指導に応じて, 以来学校においては, 「支援」 「援 助」 という新語を多用 して学習指導・授業方法の改善や新しい教育評価の具体的方法をさま ざま に模索して つ教育課程の創造と展開」 い る.. しか し, そ れ にも か か わ らず, こ の 「根 本 的な見 直 し」 や 「転換」 の舵 取り は難 航 して いる よう に見 える‐. 子 どもに 「自ら考えさせたり, 主体的に判断したり表現する能力を育成すること」 は, 教師にとって決して 容易なことではない‐ 実行しようとするとたちまち困難に直面する. 「転換」 するはずの旧来の教師主導の 授 業 か ら 脱 却 す る こ と は 容易 で はな い の であ る. そ の 理 由 は, 「新 しい学力 観」 と は 言 い な が らも, 一 方 に. おいては従来と変わらずに 「基礎・基本の重視」 という項目が厳然と掲げれていて, 教師はなじみのあるそ ちらの方に足場を求めやすいからでもある し, 何よりも, <子どもが自ら考えるように指導する〉 という デ ィ レンマに満ちた教育に見本はなく, 〈感性の教育, 子 ども主体の教育, 個性尊重の教育, 自ら学ぶ力を育 てる教育〉 を, 理念においてではなく実際において理解するための, 安定した範例をもちにくいのである. そう した教育を近未来にになう若い教師の教育にあたる筆者 (若原) は, 〈子ども主体の教育=教えない 教育〉についての一つの参考事例となる教育のあり方を探る必要を感じた‐<教えない教育〉を実行するには, まず教師自身がそのような教育を受けた経験をもっていることが絶対に不可欠だと考える筆者は, その視点 から教員養成教育における教育方法を研究している‐ そこで本論では, 筆者らが数年来かかわってきた 「ニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グ」 につ い て, そ れが 〈教 え な い 教育〉 の ひとつ の 範例 と して成 立 している こ と, そ し. てそれが大学における教育方法に対しても一定の応用可能性をもっ ていることについて論述する. ロージャ ズ (C ・ R ・Roger. の 非指 示 的カ ウ ンセリ ン グか ら発 展 した の である か ら当 然 の こ とと は いえ, ニ ュ ー ・. カ ウ ンセリ ン グの 理 論 は, 本論 で見 る とお り 教 え な い こ と にお い て徹 底 して いる‐ 15.

(3) . 若 原 直 樹・横 浜 ミ エ. 筆者 のう ち, 横 浜ミ エ は昭和50年 から, 若原 は 昭和62年 からそ れ ぞれニ ュ ー ・ カ ウ ンセリ ン グの 研 究 と実 践 にか かわ っ た‐ 本論 の1 (3 の( 1 )1 ま で) では横 浜 が, ニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グの理 論展 開 につ いて 自 分. の仕事 (情緒障害児学級担任教諭) との関連においてそれを時期的経緯に沿って記述する‐ それ以降亘にお いて は, 若原 がニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グの ワー ク シ ョ ッ プにお ける 学習 の 方 法 を 教員 養成 教育 にお い て応用. することの必要性とその可能性について考察する‐. ニュー・カウンセリングとは何か 1, ニュー・カウンセリングの発祥と展開 ニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グは, 伊東 博 が会長 をつ とめる 「人間 中心 の 教育 を 現実 化 する 会」 によ っ て 開 発さ れ実 践 さ れつつ あ る, 新 しいカ ウ ンセリ ン グの 体系 であ る‐. 伊東は昭和2 4年, 戦後初の公式留学生としてアメリカ・ミズーリ大学大学院に留学して, 日本人としては は じめ てカ ウ ンセリ ン グを学 び, 帰 国後の27年 にや はり わ が国 で は じめ ての 『カ ウ ンセリ ン グ』 という 題名 の 本を 出版 し, 以 来45年 に わ た っ て 一 貫 してカ ウ ンセリ ン グの 研究 と普 及 につ とめ て きた. その ー 例 をあ げ る と, 『カ ウ ンセリ ン グ入門』 を 昭和34年 に出 版 し, そ の 半 分 を 書 き 直 したう え で 『カ ウ ンセリ ン グ』 と 題. 名を変えて第二版を昭和38年に, さらにその3分の2 を 書 き直 して 昭和41年 に は 『新訂 ・カ ウ ンセリ ン グ』 と題して第三版を, そしてさらにそれをほぼ全面的に書きかえて平成8年にはその第四版を出版した. この よう に, カ ウ ンセリ ン グの 著書 を継 続 的 に出 版 しつ づ けている こと, そ してそ れ を次々 に新 しい 内容 で 更新 している と ころ に, カ ウ ンセリ ン グ研 究 にお ける 伊東 の 一貫 性 と 発展 性 が端 的 に象 徴 さ れている. こ の 間の 伊東 と北 海道 の 関 わり は, 北 海道 カ ウ ンセリ ン グ研 究 会 主催 の ワ ーク シ ョ ッ プにそ の 世話 人の ひ. とりとして来道したことに始まる‐ 札幌市・旭川市・函館市についで北海道で4番目として帯広市に情緒障 害児学級が開設された昭和48年, 帯広緑丘小学校教員であった筆者 (横浜) は, その担当者に任ぜられた. そしてその年の7月から, 情緒面においてさまざまに不安定な子 どもに対する指導と, その親に対する面接 相談の仕事にあたることとなっ た‐ 教育するというそれまでの立場とはちがって, 関係をつくることの難し い子どもの相手となり, 同時にその親の心理的な相談を受ける仕事に立つことは, 筆者の当時の私的な事情 ともかきなって, たいへんな混乱と苦しみであっ た‐ その事情から道立教育研究所における教育相談研修に 参加 した 同年 に, 筆 者 は は じめ て 「カ ウ ンセリ ン グ」 と いう 言 葉 を知 っ た‐ そ こ に自 分の 求める もの がある. と直感して, 以来カウンセリングの学習を渇望し, すすんで研究会に参加するようにつとめた‐ 同じその年 の層雲峡における北海道カウンセリング研究会において, 日本では伊東とならんで草創期のカウンセリング を育てた友田不二男に会った. そして, 昭和50年の北海道カウンセリング研究会 (札幌定山渓) において, その世話人の一人であった伊東博とはじめて直接出会っ た‐ このとき, この会場で伊東の示した, 純粋性・ 無条件の肯定的配慮・共感的理解という安全な雰囲気に譲られながら, 筆者はその場でクライエントになり きっ て, 新しい自身と直面して自己の未知なる内面に向かうことができた. それ以来しばらく, 筆者にとっ て研究会に参加することは, すなわちクライエントになって自己を見つめる機会であっ た‐ その頃伊東は, 神奈川県の数人の主婦・母親らと学習会をつくり, それを 「人間中心の教育を現実化する 会J と名づけて, 信川実 (広島県公立中学校校長) の く教えない教育〉 についての学習を進めていた. 筆者 も上京して, 同会の主婦らと面談し, 子 どもの教育のあり方について一心に語り合い, 教育に対するカウン セリング的な着眼の必要をいっ そう確信した‐ 伊東は 「人間中心の教育を現実化する会」 で独自のカウンセリング研究を創造し, 同会はその後学習会を 発展 さ せ て, 昭和51年 に 「人 間中心 の教育 の ため の ワ ーク シ ョ ッ プ」 と銘 打 っ て 箱 根 でワ ー ク シ ョ ッ プ (実 16.

(4) . 「ニュー・カウンセリング」 と教員養成教育の方法改善. 習中心の学習会) を開催した‐ それ以来今日までワークショッ プをつみ重ねるのであるが, 情緒障害児の教 6年までの間 育という未開拓の難しい仕事のために職場を留守にできないでいた筆者のために, 伊東は昭和5 10回 に わ た っ て 北 海道 でも ワ ーク シ ョ ッ プを 開催 した‐ 昭和52年 か ら は 伊東 は, 数 回 に わ た っ て アメ リ カ にお いても, 学 校視 察 旅行 を 兼 ね た ワ ー ク シ ョッ プを行 ( ) 1 っ て いる‐ こ の 第 1 回 に は筆 者 も 参加 して, そ の 成 果 を 『こ れ が学 校 だ』 の な か にま と め た‐ アメ リ カ ワ ) を 訪 問 した. 同所 は1960年 代 の アメ i l t t ー ク シ ョ ッ プにお い て は, 欠 か さ ず エスリ ン研 究 所 (Esa ns ut e en 工 リ カ にお い て ヒ ュ ー マ ニス ティ ッ ク 心 理学 に大 き な 影響 を 与え て, 心 理 療 法やカ ウ ンセリ ン グに重 大 な 変革 l t t を起 こ した とこ ろ である. 伊 東 は, そこ にお いて シ ャ ー ロ ッ ト・セ ル バー (Char o e Selver) と チ ャ ー ル ズ ・ ブ ル ッ ク ス (Char l es Brook. か ら 「セ ンサリ ー . アウ エ ア ネス」 につ い て 学 び, そ れを 「人間 中心 の 教育. を現実化する会」 の中心的な内容とした‐ この頃にはまた, ヨーガをも同会の活動に積極的に取り入れても いる‐ この よう に, 人 間の か ら だ に接 近 して い っ た こ と が, 他 の 教育 論や カ ウ ンセリ ン グと伊 東 との 大 きな ち がい である. そ して 従 来 のカ ウ ンセリ ン グ研 究 と, か ら だや 感 性 につ いて の 新 しい研 究 と が次 第 に 統 合 さ れて, 伊東 の 中 で 形 をな す に い た っ た. その ため, 従 来 のカ ウ ンセリ ン グ と 自 分 のカ ウ ンセリ ン グと を 区別 して 強調 する た め に, 伊 東 は昭和56年 頃 か らそ れを 「ニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グ」 と呼ぶ よう にな り, 58年 に 2 )を 著 した 伊 東 自 身 は 「『ニ ュ ー . カ ウ ンセリ ン グ はそ の まま の 題名 の 書, 『ニ ュ ー . カ ウ ンセリ ン グ』( 』 . { 3 ) の 出発 点 は, 実 は, 『セ ンサリ ー . アウ エ ア ネス』 にふ れ た こる か ら であ っ た.」 と述 べ ている. そ れで は, 伊 東 の創 始 したカ ウ ンセリ ン グは, ロー ジ ャ ズ の 普 通 の カ ウ ンセリ ン グ と どの よう に異 な っ て. いるのか. まず誰の目にも明らかな差異は, 伝統的なカウンセリングがことばを中心 にしてことばを媒介に して す す め ら れる の に 対 して, ニ ュ ー ・ カ ウ ンセ リ ン グで は, か ら だ を 重 視 して いる こ と で あ る. 「こ れま. でカウンセリングの必要が強調されるときに, 『精神的健康』 という言葉がよく使われてきたが, 『精神的健 康』 と 『身 体 的健 康』 を 分 ける こ と は でき な い, と いう の がニ ュ ー ・ カ ウ ンセリ ン グの 観 点 な の であ る. あ る の は, 『人 間 の 健 康』 だ け な の で あ る‐ 人 間 の こ こ ろ と か ら だ は, い つ で も 同 時 に 働 い て い る の で あ 4に の 観 点 か ら 心 と か ら だの そ のま ま に す な わ ち 身 心 一如 のま ま に 自 他 を 受 け とる た め に ヨ ー る‐一( , , ,. ガやアレクサン ダー.テクニークを実習に採用 して, 自分のからだを使う実習経験を媒介にして学習するの がワーク シ ョ ッ プの特 徴 とな っ てき た‐ しか し, 伊 東 の 中 でニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グは は じめ か ら確 定 して い たも の で は なく, そ の 後の研 究の 進 展 と とも に しだい に変 化 し洗 練 さ れ てき たも の である‐ す な わち 着 想 はワ ー ク シ ョ ッ プの な か に生 かさ れ, ま た ワ ーク シ ョ ッ プ自 体 がそ の研 究 の重 要部 を な して, 次々 に更新 さ れて き たも の であ る‐. 2, ニュー・カウンセリングの理論と実習 (1) 非・操作主義 ニ ュ ー ・ カ ウ ンセリ ン グにお ける ワ ーク シ ョッ プの 場 は, 決 して, 人 間を 「養成」 したり 「訓 練」 したり する 場 で はな い‐ も しそう 意 図 してい る の な ら, そ れ は, か ら だの動 き を通 して 一 定 の 達 成 目標 め ざす, あ. る種の武道や宗教の修業や新入社員研修な どと変わらない‐ ニュー・カウンセリングの方向は, それと対極 }の であ る 支 配 . 服 従 5 的 で ある‐ す な わ ち, 「で き る だ け純 粋 に非. 操 作 主 義 的 の 立 場 に 立 とう と する」( -. という関係はもちろんのこと, 指導・被指導という関係をも退ける. この非・操作主義は徹底していて, 他 人を操作しないだけではなく, 自分自身をも操作しないということも意味している‐ それはすなわち, あり のま ま でい る, と いう こ と であ る‐ 換 言する と, さま ざま な実 習 をする と き に 「正 しさ」 を 求め ない こ と で ある. た とえ ば, 「座 る」 と か 「立つ」 という 実習 がある. そ の とき にも 「正 しい 座 り 方」 や 「正 しい立 ち 方」 を 求める わ けで はな い‐ た だ, 自 分 が どんなふう に座 り ま た立 っ ている か, そ して座 り 方や 立 ち 方 を 変 える 17.

(5) . 若 原 直 樹・横 浜 ミ エ. こ と によ っ て どんなふ う に感 じが変 わる か に自 分なり に気 づ く こ と である 人 と 向 かい 合う 人の 手 に触 れ . , てみる, 背 中 を合 わせ て座 っ て みる ……. こう した ごく ゆ っ く り と した静 かな 姿 勢や動 きの 中 で 自分 が何を. 感ずるか. このとき,「感ずる」 主体は 「……としてふるまう」 という 日常の社会的役割を捨てた自然なく私〉 , と しての 自 分で ある. ひる がえ っ て通 常 の 学 校 教育 で は こ の 反対 が行 わ れている 教 師は子 ども たち に 「正 しい こ と を教え , 」 . よう と し, 子 ども はま た 教 師 に向 か っ て 「正 しい」 答を 言おう とす る の に懸 命である そ こで は どんなこ . , と が 「感 じら れる」 か が尊重 さ れない も し 「自分 の感 じ」 と 「正 しい 答 と が矛 盾 する とき 子 ども は (教 . 」 , , 「 師 も) 自 分 の 感 じ」 を捨 て て, 「正 しい 答J を 優 先 す る. 学 校 で はい つ も そ の よう に志 向 さ れ て い る が ゆ え に, 教 育 が しだい に表面 的な こ と ばづ ら だけ の よ そよ そ しさ に覆 わ れ てく る . 参加 者 に 一 定 の知 識 内 容を授 ける という 意 味にお ける 「目標」 な ら ば ニ ュ ー .カ ウ ンセリ ン グで は 「目 , 標」 はも た な い. 個々 の 実習 は, 文 字 どお り 実 際 に経 験 してみる と いう 意 味の 「実習 であ っ て ÷ 定 の達 」 , 「 「 成 をめ ざす 訓 練」 でも 演 習」 で も ない. 同 じく ワ ー ク シ ョッ プを主催 す る 世話 人 は 気 づ き が起 こり , , や す い場 を設 定する ため の 「世話 人」 であ っ て 「指 導 者」 では な い . , (2) ア ウ ェ ア ネス 「感 じる こ と を ニ ュ ー ・ カ ウ ンセリ ン グで は 〈気 づ き〉 と か くア ウ ア ネス ( )〉 と も 表 現 ェ 」 awar ene ss , する. 自 分 は 今 どのよう に感 じ, どの よう に動 いて いる か に気 づ い ている こ と ア ウ ェ ア して いる こ と であ , とえ た ば る. , 目 を閉 じ て戸 外をパ ー トナー に添 わ れな がら歩く と いう 実習 があ る. この とき, 日常 生活 に. おいては気づくことのなかったモノ のあり方の繊細さ--気温・湿度・風の流れ 葉ずれの音 芝生の柔ら , , かさ,小鳥や大の鳴き声,その方向や距離, 水のなめらかさ--またその繊細さを感ずるだけの自分の触覚. 聴覚.喚覚の敏感さにも驚嘆する‐ そしてそれらの く気づき〉 をよそにおいては 自分は (そして世界は) , 存在できないことが自然に知れる‐ カー ペ ッ トの床 に仰 向 けにな っ て 目 を つ むり パ ー トナー によ っ てゆ っ く り と 少 しの 高さ だ け自 分の 腕や ,. 脚を持ち上げてもらう実習がある‐ このとき, 自分のからだの内側にどんな感覚が起きるか それはまたど , の 程 度 か, そ れ は 人 によ っ て いろ いろ であ る. そ んな 微 妙 な 動 き の 最 中 に 「どう 感 じた ら 良 い の だろう」 , と か 「よ し, い っ ぱい感 じて みる ぞ」 と 構え ている と そ の 意志 がかえ っ て感 覚 を遠 ざける 反対 に何 も準 , .. 備せずありのままに力が抜けている場合の方が, むしろ気づきが起こりやすい. そして そのかすかな気づ , きを適切な言語に表現することはまた至難である‐ 適当な言葉が見つけられない. それだけに参加者それぞ れがなんとか言語にのせて表明した感覚は, 他者にとっ てはどれも個性的で新鮮に感じられる ‐ 学 校で は どう だ ろう か. 「み ん な は, こ の話 の どこ に感動 しま した か 一 と 教 師 が問 い 子 ども が 「私 は… ‐ , … がす ばら しい な と思 いま した.」 と 答え て いる と き 教 師 や 子 ども は い っ た い 何 ほ どの こ と を 「感 じて一 , いる だろう か. 子 ども は どう かす る と 「こ こ はき っ と感 動 しな けれ ばな らな い箇 所 で ある にち がい な い そ ‐ して, そ の 理 由は… …」 と 「頭 で 考 え て一 発 言 して いる も のであ る. 「感 動 (言 葉 の正 しい意 味 にお い て)」 ま では して い な い こ と は, 子 ども た ち の 表情や か ら だを見 ている と 容易 に知 れる そ れ にも か かわ ら ず ▼そ ‐ ,. の言葉は教師や学級によって是認され賞賛される‐ 今日の教育の世界では,.自分の気づきの有無におかまいなく, 性急に目的達成 に向きがちである‐ もっと も極端な場合には, 目的のためには過程を最短にし, ときには手段も選ばないということが 教育の場で起 , こりう る‐ 結 果 がす べ て なの である‐ ニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グで は反対 に 目標 をめ ざさ ず過 程 を 味 わう こ ,. とそれ自体を尊重する. 例えば, あおむけに寝た状態 で ゆっくりとできるだけゆっくりと自分の片足を自 , 分でほんのわずかに畳から浮かすという実習がある. この微細な動きをも し 「目標」 にするのなら その実 , 18.

(6) . 「ニュー・カウンセリング」 と教員養成教育の方法改善. 現は1秒でできる 簡単なことである‐ しかし, その過程に集中して動く とき, 片足をあげるためだけに, 全 身各部がくまなくそのために協力しあってその動きに参与していることや, 片足の深い重さ, そしてそんな こ と を初 め て知 っ た こ と で湧 い てく る あ れこ れの感 情 な ど にあり あ り と気 づ かさ れる の である‐. (3) 身心一如 ニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グの もう 一 つ のキ ー ワ ー ドは, <身心 一如〉 であ る. 「感動 す る」 とき という の は,. 決して心だけが動くのではない. 胸が高鳴り, 目頭が熱くなり, 口 びるが震えるものである. そういうとき に は, 感 動 して いる 理 由 な どはま だ話 せ な い‐ ま た, 「困る」 とき に は, 息 苦 しく な り, か ら だ が進 退 き わ ま り なく なる の で ある‐ 「他 人 がこ わ い」 と いう こ と は, 実 際 に 自 分 の か ら だ が 他 人 に近 寄 れな い と いう こ と である‐ そう いう か ら だの動 き が先 にあ っ て, そ の 後 そう いう 心 になる の でも な い し, ま た 反対 に, 先 に. そういう心があってそれが原因でそういうからだの動きになるのでもない‐ 両者, すなわち 〈からだと心〉 と は最 初 か ら 同 一 の も の だ と, ニ ュ ー ・カ ウ ンセ リ ン グで は 考 える‐ 〈心 は 自 然 に動 く も の であ り, そ の動 「 き を止 め ら れな い も の である〉 こ と を承 認する の な ら, 「‘・ 」 と いう そ の 語 を か ら だ」 の 語で 表 現 し直 して, 〈か ら だ は 自然 に動 く も の で あ り, そ の動 き は とめ ら れな いも の であ る〉 とも い わなく て はな らない‐ た と え ばか ら だの動 き を無 理 に止 め た と して も, そ して 一見う まく 止 め ら れた かの よう に見 え ても, その ための. 不自然な緊張を強いられるために, からだの別の部分が気づかないうち にコリ固まりはじめるだろう し, そ れを自分 で は止め ら れな い‐ 学校の授業では, 教師の指導に対してたとえ理解できず退屈していようとも, 子どもは長時間の着座と沈 黙 を強 い ら れて いる‐ か ら だ の そ の 固定 は, 休 み 時 間の は じける よう な ボー ル遊 びの 中で 解 放さ れて いる に. ちがいない‐ 学校で正しい言動のみを常に求められるからだは, その窮屈さを脱するために, 放課後や校外 での 粗 暴 な 言動 と いう 反乱 に転化 している の かも しれな い‐ ニ ュ ー . カ ウ ンセリ ン グの 実習 の ひとつ‐ 適 度 に強 いリ ズ ム の 繰り 返す 音 楽を か ら だ に 浴 びている と, か. らだはひとりでに動きだす‐ しかし最初は人目を気にして, それをとめようとする緊張が生まれ, 動きはじ めたからだとの間で葛藤をはじめる. からだのその不自然さは, そのまま心の中に照れや気まずさとなって 我が身をさいなみはじめ, からだの自然な動きを 阻む. つくられた自我が自分の能力の自由な発展を自縛し て いる こと を感 じず にい ら れな い. ま た, 目 を つ む っ て み んな で一斉 に部屋 を歩 き 回る と いう 実習 がある.. 参加者同士がまだよそよそしく疎遠でいるとき にこの実習をすると, 自分のからだが極度 に緊張しているの が知 れる の だ が, お 互い の こ と をい く らか知 り あ っ た 時 点でこの実習をすると今度はからだにさほどの緊張 は なく 他 人 に触 れる の をこ わ が っ て はい な いこ と に自 分 で気 がつく の で ある‐ 学 校 で 生 徒 が 「あ り が とう ご ざいま した.」 と か, 「お も しろ か っ た で す.」 と 言う と き に そう 言う 生 徒 , 「 だ か ら がま は こ で (つ ま り こ ろ か ら」 は) あ り がた が っ て いな い しお も しろ が っ て も いな い こ と が普 通 の の 人 の感 覚 で はす ぐにわ か っ て, 授 業 を 参観 して い てそ の 気 ま ず さ に苦 笑 い する こと があ る‐ と ころ が か ,. えっ て学校の教師の感覚ではそのことがわからずに, ぬけがらのようなその言葉をそれは生徒の心の表現だ と 額面 通 り に受 け取 っ て, 目標 は達 成 さ れた も の と 理解 して先 へ進 む と いう こ と が起 こる ほ と ん どそ れは . 学 校 にお ける 通 常 の 風景 に な っ て しま っ て いる‐ 教 師 に は子 ども の か ら だ がこ わ ばっ て いる ある い は死 ん , で いる こ と が感 じらて いな いの かも しれな い‐ そ して, そう 感 じら れな い の は 教 師の方 の か ら だ が 同 じよ , う にこ わ ばっ て い て 固ま っ て いる か ら な の で はな かろう か.. 19.

(7) . 若 原 直 樹・横 浜 ミ エ. 3, ニ ュ ー ・カ ウ ンセ リ ン グの ワ ー ク シ ョ ッ プ (1) ワ ー ク シ ョ ッ プの展 開 以 上 の例 の とお り, ニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グの ワ ー ク シ ョッ プにお いて存 在 する も の は 参 加 者 一 人 ひと ,. りのからだと言葉である‐ からだと言葉--この二つが, 基本的には学習材料のすべてである‐ 他にいくつ か の教 具 の用 い ら れる こ ともあ る が, 原 則 的 に はこの 二つ をめ ぐっ て2 泊 3 日 ない し3泊 4 日が十分に維持 さ れる. さ て, 毎 日 が過 労 の 極 にあ っ た筆 者 は, 上 のよう な 数日 にわ たる ワ ーク シ ョッ プの 序盤 にお い て は, 自 分 の 身心 が ひ どい 硬直 状態 にあ る こ と を自 覚する の がそ の常 だ っ た‐ そ して, セ ッ シ ョ ン (ワ ー ク シ ョ ッ プの. 一つ一つの区切り) がすすんで, 終盤にさしかかる頃にようやく身心が柔軟にほどかれ, 他の参加者の気持 ち を感 じる こ と ができ て, その 話 も 理解 できる よう になる の だ っ た. しか したと え ワー ク シ ョ ッ プの 中 で 身 心 一 如 を実 践 でき たと しても, そ れを現 実 の 日常 の 生 活 の 中で実 行 して いく こ と は たいへ んに難 しい も の で あ っ た‐ そ れ でも, 伊 東 の ワ ー ク シ ョ ッ プ に 参加 す る こ と によ っ て は じめ て, 〈子 ども を指 導 す る〉 の で は. なく, 〈子 どもの気持ちを感じる〉 ことが何よりもたいせつであることを知り納得することができた‐ 登校 拒否〆 学習障害, 自閉症の子どもたちの教育にあたっ ていて, いったん子どもたちを指導しようとこちらが 構えると子どもたちは筆者のそばからスッと離れていっ てしまうことがよく感じられた‐ 心 身一如 の ワ ー ク シ ョ ッ プは,「人 間中心 の 教 育 を 現実 化 する 会」 の活動20年 のう ち に沖 縄. 高 知 . 京都 .. 福井・新潟・北海道などの各地で130回以上蓄積されてきた‐ そのうち北海道では, 下表のように行われた. 回. 数. 年. 月. 日. 場. 所 ・ 会. 場. 参加人数. ) 1(4. 2年1月 9 ~12日 昭和5. 札幌定山渓温泉. 21. ) 2(6. 昭和53年1月 5 ~ 8 日. 札幌東本願寺. 30. ) 3(7. 昭和53年 7月27~30日. 帯広・芽室町新嵐山青少年センター. 19. ) 4(9. 4年1月 5 ~ 8 日 昭和5. 札幌定山渓温泉. 20. 10 ) 5(. 昭和54年 7月28~31日. 帯広・芽室町新嵐山青少年センター. 19. 1 2 ) 6(. 昭和55年1月 5 ~ 8 日. 札 幌アカ デミー 青 少年セ ンター. 15. ) 7( 13. 昭和55年 7月26~29日. 帯広・芽室町新嵐山青少年センター. 26. 17 ) 8(. 昭和56年 1月13~16日. 旭川・美瑛町北海道大雪青年の家. 34. 20 ) 9(. 昭和5 6年8月 3 ~ 6 日. 札幌東本願寺. 22. 10( ) 35. 昭和59年1月 6 ~ 9 日. 釧路・鶴居村国民保養センター. 25. 11( ) 39. 昭和59年 8月16~18日. 帯広・芽室町新嵐山青少年センター. 20. ) 12( 54. 昭和6ユ年 7月26~29日. 滝川 サイ クリ ン グセ ンタ ー. 16. 1 ) 3( 62. 昭和62年 7月27~30日. 滝川 ・沼 田 町パー クハ ウス 白 樺. 20. 1 4( 84 ). 平成 2年 7月27~30日. 釧路・鶴居村. 22. 15( 93 ). 平成3年8月1~4日. 帯広.芽室町新嵐山青少年センター. 26. 16( 101 ). 平成4年8月 6 ~ 9 日. 旭川・愛別町研修館サンライ ズ. 20. 17( 115 ). 平成6年8月 5 ~ 7 日. 旭川・愛別町研修館サンライ ズ. 21. 18( 122 ). 平成7年8月 9 ~12日. 釧路・阿寒町赤いベレー. 20. *回数の次の ( ) 内の 数字は, 全国 ワ ーク シ ョッ プと しての通算 回数. 20.

(8) . 「ニュー・カウンセリング」 と教員養成教育の方法改善. ワークショッ プの参加者として, またその事務局およ び世話人と して経験を積み年齢を重ねながら, 筆者 は しだい に日常 生 活 に お いて も 身心 が離 れず に, そ の どち らも や わ ら かいま ま で い ら れよう にな り, そ れ に. つれて家庭生活における 自分と職場 (学校) 生活における自分とをつかいわけるというそれまでの習慣も自 然 に消 え て い っ た. 「あ り の ま ま に 生 きる」 態 度 が育 っ て き た の であ る. ク ライ エ ン トと して 出 発 した カ ウ ンセリ ン グ研 究 で はあ っ た が, 最近 ではカ ウ ンセラ ー と して の 自 分も そ こ に 同居 しは じめ て いる. 今後も た える こ と なく 自 己と対 面 し, 自 己実 現 をめ ざし て 生 活 してい き たいも の であ る.. 現在は帯広市家庭児童相談員として, 不登校・い じめ・非行の子どもをもつ親からの相談を終日受けてい る‐ 今 日, そ の 数 は日々 増 える 一 方 であ る‐ 相 談 を 受 ける 者 と して は, そ の とき にいつ でも 〈人 間ら しく〉 〈あ り のま ま の私〉 であ る こ と が求め ら れて いる ため, 筆 者 の生 活 のテー マ は, いつ でも どこ ででも 〈自 分 が自 分 であ る こ と〉 であ る‐. (2) ニ ュ ー ・ カ ウ ンセリ ン グのワ ー ク シ ョ ッ プにお ける 学習 と知 識 の 特徴 さ て,.ニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グという 独 特 の 学習 を 経験 した筆 者 (こ こ以 降の 「筆 者」 と は, 若原 をさ す). は, それを新しい教育の一方法として, 大学教育も含めた学校教育全体に応用する可能性とそうすることの 価値について模索を始めた‐ こ こ で, そ の ため にニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グの ワ ーク シ ョ ッ プにお ける 学習 が どの よう な特 徴 をも っ て い る の か要約 して おく. そ れは 「研 修 会」 と か 「学習 会」 「研 究 会」 と は 呼 ばれな い こ と にその 特 徴 があ っ て,. つまり口頭であれ板書や プリントであれ文字による知的な学習を原則的には排除して, ただ実際に経験する こ と によ っ て 学 ぶ と いう 方 法 によ る 学習 機 会 なの で あ る‐ 「学 ぶ」 と いう こ と は 「知 的 な 作 業 (頭脳 労働 と いう 意 味の)」 であ る と 通常 は 考 え ら れて い る け れ ども, こう した ワ ー ク シ ョ ッ プに参 加 しつ づ けて, 実 は. もっ と全人格的な作業であるということが次第に知れてくるのである‐ ワ ーク シ ョッ プにお ける 学習 は, 机 に広 げら れた書 籍 やノ ー ト, 黒 板 に並 ん だ文 字や 図 形を対 象 に した通 常 の 学習 と は, 次 のよう な 大 きな 違 い があ る. 第 一 に, ほ と ん どの 場 合, 文字 (書 き こ と ば) を介さ な い‐ 第 二 に, した が っ て, 概 念 の知 識 を必 要 と しな い‐ 第 三 に, 学習 の材 料 は, 目 の前 で いま 見 た こ と, いま 聞い た こ と, いま 感 じた こ と であ る‐. 第四に, 話しことばが重要な役割をもつ‐ 第 五 に, 自分 の 感 覚 器 官お よ び 「か ら だ」 をつ かう‐ こ れら の 学習 の 「方 法」 にお い て, ニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グは他 の 学習 会研 修 会 と は 決定 的 に異 な っ て い. る‐ この方法で学ぶ知識は, 知識の内容にも次のような特殊性を与える‐ 第一に, 考えられた知識ではなく, 感じられた知識である‐ すなわち, 言葉以前の, まだ言語化される以 前の 「前概念」 の知識である‐ そして, 言語化できたときには, その言語は感覚と正確かつ強力に結びいて いる. たとえすぐには言語化できない場合でも, それは後に言語によっ て学習するときに役立つ資源となる. 第 二 に, そ れは 主 体 の 「経 験」 で あ っ て, 客 観 的 に外 か ら正 誤 を判 断する こ との で き な い知 識 である‐ 第 三 に, 記憶 する 必 要 がな い (他 人か ら 試 験 さ れる こ とも な い という 意 味 で‐ ま た感 覚 と結 びつ い ている の で 記 憶する 努力 も い らず, 忘 れ にく い)‐. 第四に, それは一般化された抽象的知識ではなく, 個別的な場と結びついた具体的な知識である‐ 第 五 に, そ れ は相 手 と 自 分 自 身 へ の 探 究 か ら生 ま れる, 「人 間 につ い て の 知 識」 な い し 「人 間 関係 につ い て の知 識」 である‐. 中村雄二郎は, 「臨床の知」 の特徴 として 「固有性」 「事物の多義性」 「身体性をそなえた行為」 の三つを 21.

(9) . 若 原 直 樹・横 浜 ミ エ. 6 )の だ が ワ ーク シ ョ プはま さ に そう した 知 識 が生成 する 場 であ る 自 分の 感 覚 詳 述 して いる( ッ にも と づ い , ‐. てその上に築かれる知識であり, 自己の歴史性に裏打ちされた知識である. 通常の学習は, 社会の中で生き てい〈ために知的な自我を形成していくことを目的とした左脳中心の学習である. 言うまでもなく, 現在の 教育はそれの一辺倒 で, 生徒はそこでの能率的な学習へと脅迫的に追い立てられている‐ それに対してワー クショッ プでの学習は, 人間は自然によって生かされていることを直感 (直観) する, 右脳重視の学習なの である と言 っ て も よ い‐. ロ. ニユー・カウンセリ ングと教員養成教育. 1, 教員養成教育の課題 (1) 今日もとめられている教員の資質 7に よる 若い教師が日頃の教育実践の中でどのような問題に悩みながらつとめているかを調査した研究( と, 2 5才以下の若い教師においてその上位3項目は, 「ほめ方しかり方, 学級経営 (子ども集団の把握), 問 題児の指導法」 であり, それに対応して 「教職生活の中で重要なもの」 の上位3項目も 「学級経営の力量, 子どもの学力・悩み・要求等を適切 に把握する力量, 子どもに対する話し方」 である‐ どれも, 教科に関す る知的能力ではなく, 学級における教師-子ども関係にかかわる能力なのである. )にお い て も 三 者 とも に 一 致 して 「新 し 8 大 学 教員 ・ 現 職 教員 ・ 学 生 の 三 者 を 対 象 に した別 の 調 査 研 究( , ,. い時代の教育者に求められる力量19項目」 のなかで第一位 にあげられたのは 「豊かな人間性」 である‐ 同じ 9 )にお い て 「21世 紀 に 向 か て重 要 く, 「新 教 育 職 員 免 許 法 下 の 教 員 養成 カ リ キ ュ ラム に 関 す る 調 査 研 究」( っ. と思われる教師の力量は何かJ との問いに対して90%の回答者が選んだ第1位の項目は 「豊かな人間認識. 「 人間性や人間理解教育の能力」 である ( 82 .5%で第2位も, 同種の 子 どもへの深い理解や子 どもの立場. 内面に即した教育の能力」 ) . このように今日の教育事情のなかでは, 教師の人間的な能力が広く嘱望されているのだが, 問題は, では こう した資質を, 若い教師や教員志望学生にいったいどのようにすれば 「養成」 できるかということである‐ たとえば現職教員に大学時代 の教員養成教育を回顧させて, それが現在にどれほど有益だったかを尋ねた 調査が多数あるのだが◎⑪◎, これらの調査ではどれも, 大学における教職科目にはおおむね消極的な評価 が与えられていて, 反対に肯定的であるのが経験的な学習である. 「教師になる場合, 大学で特に何を勉強 する必要があるとあなたは思いますか‐一 という 問いに対する回答 (記述形式) で最も多かったのは, 「教育 実習 等 で 実 際 にや っ て みる こ と が必 要 だと思う-」 と いう も の であ る‐ こう した 意見 が 学 生 に遍 在 して いる. のは, 多くの調査にあまねく見られる傾向である‐ この種の調査はもはや十分に収集されたといっ てもよく, 大学教師からの一方的な講義による知識の伝達だけではなく, 教育の実際や子ども理解をテーマにした講義 とそれに対する主体的な参加を学生が求めていることは, もはやどんな調査でも繰り返し指摘されている‐ すでに今は, それらの調査結果を生かして大学教育がそれに応えて実行すべき段階に入っている‐ (2) 大学における授業の弱点. ① <人間〉 の不在 しかし大学の教員養成教育においては, これらの要請にこたえる上で難点がある. 第一に教育内容上の難点である. 教員養成教育においては伝統的に各教科に関する知識が専門的に教えら れる. それは教科指導という, 教師の日常の主たる教育活動として不可欠の仕事に向けた準備である. とこ ろが一方今日の教育上の諸問題は, 相対的に言って教科においてよりもむしろ子ども個人および子ども集団 22. ..

(10) . 「ニュー・カウンセリング」 と教員養成教育の方法改善. の学校生活上の領域で生じている‐ それに対応して先の調査 にみられる とおり, 教員養成教育に強く求めら れているのは, 人間理解を深める知識分野の教育なのである‐ もちろん大学では, それに相当する教育学や 教育心理学の知識が教育課程の一部において従来からも教えられてきた‐ そしてなおかつその改善充実をは かって, 新免許法では 「生徒指導・教育相談及び進路指導に関する科目」 を必修単位化した‐ それでも, そ れらは免許取得のための単位数全体の中では決して十分ではない‐ それらの知識分野の単位数の少なさに加えて, 二つ目の問題は, それを大学で教授する際の教育方法上の 難点である. 一般 に教員養成教育においては, 将来の教職生活において適用されることを期待して, それに 先立って必要な知識を座学の形で学生集団に向かって一斉に言語概念を通して伝授する‐ しかし, その方法 が通 常 の 「講義」 である か ぎり な お 不 十 分で ある と言 わ な けれ ばな らな い‐ という の はそ の 場 合, そ れらの. 体系だっ た知識の中に, 〈私〉 とか くあなた〉 という生きた人間が登場しないこと, そしてそのために人間 理解の実感を経験できないことである. 講義で学んだ知識を将来 「適用」 するにしても, 適用する場面では, 〈私〉 という人間が 〈あなた〉 という人間に向かって 「適用する」 わけである‐ このとき, 実際には く私・ あなた〉 という人間の要素がその場における最大の条件である. ところが講義においては, 「将来適用され る であ ろう 知 識」 は 登 場 して も, 「適用 する 主 体」 と 「適用 さ れる 主 体」 はリ ア ル な 論 題 と して 登 場 して こ. ない‐ したがっ て主体同士の く関係〉 も登場してこないのである‐ しかし人間性に関する学習で必要なのは 学問的知識の理解とその記憶だけではなく, 学生個々人が自分の対人感受性や対人応答性の程度や特性に気 づ く 学習, そ して そ れの 成 長 する 実 感 を持 てる, 生 き た 学習 である‐. ②感覚の不在~言葉と感覚を結びつける必要 1 却による と最も効 教師としての自分の力量を向上させる機会とは何であっ たかを現職教師にたずねた調査{ 果 的 で あ っ た の は, 「先 輩 ・ 同僚 教 師の 個 別 的 ア ドバイ ス」 だ っ た いう‐ こ の 事 実 は, ある 具 体 的な 状 況 に. おいて自分の力を実際にためし, そしてその場でその結果を受け取るときに人はもっ ともよく学習すること を示している. 実際に体験にしたときに自分のからだの内に生れた感覚と, 先輩教師から与えられる言葉と が間をおかずにすぐ結びついて, 感覚と言葉の結合がおきるためによく学べるのである‐ 反対に大学におけ る教育が, 学生や卒業生から 「役に立たない」 としばしば辛抹に評されるのも, この反対の事情を意味して いる. 大学 で は, 学習 の 時点 か ら, そ れを実 際 に試 してそ こ か ら 教訓 を得る という フィ ー ドバ ッ ク の 時点ま で が遠 す ぎる の であ る. 一 般 に学習 と いう も の は,「いつ か将 来 役 に立つ はず」 という 想 定 で 行 わ れる の だ が, そ の 「いつ か一 があ ま り に遠 す ぎる と学生 の 学習 意 欲 を 減 退さ せる. つ まり 学習 にお い て は 「いま す ぐに役 に立 っ て (実 行 して), い ま す ぐにそ の 適否 が知 れる」 に越 した こ と は ない‐ 大 学 にお ける 講 義 で は学 生 に 「感 覚」 の な い ところ で 「知 識」 を与 える の で, 知 識 が学 生 の か ら だに錨 をお ろ す こ となく, そ の ため に 「身 に つ か な い」 の であ る (そ の 「身 につ か な い」 感 覚 そ れ 自 体 の方 は, 学 生 に は きち ん と感 じら れて いる)-. ③からだの不在 ニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グの ワ ー ク シ ョ ッ プと大 学 にお ける 伝 統 的な 講義 を比 べ て みる と, そ の 差異 は, 大. 学の特に大講義においては, 広い教室に存在するのは一人の, つまり教師のからだと言葉だけだという点で ある‐ そこでは圧倒的大多数の参加者たる学生のからだと言葉は凍結している‐ 学生には椅子の座面と机の わずかな面だけが与えられ, 口を自由に開くことさえ禁じられている (も しくは自制している) ‐ 学生の側 にせ い ぜい 存在 している の は, そ の <あ たま〉 であろう‐ 机 の 配列 に 沿 っ て 〈あ たま〉 がず らり と並 ん で い. て, 〈からだ〉 の方は存在しないも同然である‐ 象徴的なことに大教室では講義だけしかできないよう に椅 子と机は固定されていて, 講義はまるで野菜畑のような風景である (机は畑の畝で, 頭はその間にじっ と並 んだ野菜の列) , この比職で言うと, ほんとうに大切なのは目には見えない土の下の根, すなわち 〈あたま〉 の下の くからだ〉 の働きを活発にすることである. 23.

(11) . 若 原 直 樹・横. 浜 ミ エ. 筆 者 は かつ て100人以 上 の 講義 で, ニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グに学 ん で 発 想 した か ら だ に は た ら き か ける ,. タイプの学習を学生に経験してもらったが, そのとき学生が 「こんな授業を受けたのは, 小学校以来はじめ てだった」 と感想をもら した. 学生は小学校高学年から大学までの長い学校教育の中で, からだをじっと固 めて頭だけをはたらかせるタイプの 「知育」 を受け続けている‐ そうした静的で受動的な教育を長く受け続 けてきたために, 大学にきてもなお, 講義の場合はもちろんのこと少人数の演習形式の授業においてさえ , 依然として無口な野菜と化 して, もっ ぱら忙しく活躍するのは教師だけという主客転倒 の状態となることは 普通である‐ 大学の4年間でもこの教育を繰り返していけば, 学生がやがて教師となっ たときに 自覚的で , あれ無自覚的であれ, 自分の経験した教育をひな形として, 今度は自分が学級の子 ども に向かって同様の , 「 子どもを静かにただ受け身にさせる教育をすすめていくことは想像に難くない. 新しい学力観に立つ教育」 を求められて, たとえその意義を頭で理解したとしても, 自分の浸かってきた 「旧い」 教育観を批判してそ れを脱することは難しい‐ 思い切って未知の, 子ども主体の教育を実行してみても, そんな教育は無秩序・ 放任・非効率の, ただ 「学力」 を低下させるだけの教育であると違和感をおぼえて長続きできないかもしれ . そう考えると, 大学において学生に向かって〈新しい教育の意義と必要を旧い教育方法によっ て教授する〉 ことは, 論理的に矛盾している ばかりではなく実際的にも無意味であると言わなければならない‐ 2, 大学教育の改善をめざして (1) <いま> を教材にする教育 先に述べたよう に, 大学における教育が学生の教育要求に十分にはマッチしていないことや教員の力量形 成 が大 学 にお い てよ り も 現職 にお い て 実 現さ れる こ と が, 各 種の調 査 によ っ て明 らか にさ れて いる‐ しか し. 一方, そうかといっ て大学が現在の学校教育とそれをめぐる諸々の状況を無批判 に前提として, それに追従 適合することをめざして 「実践的能力」 を養成する機関へと変質することは, 学問の府としての大学の自殺 行為だという強い意見が一方にはある‐ ここで筆者はこの意見を理解しながらも, 同時に, 教員養成大学に おける 「学問」 の, 時代にあわせた見直しや不断の更新の必要をも感じるものである. すなわち, 過去の遺 産としての学問を学生へ伝達するという役割だけではなく, それに加えて今日の教育現実のかかえる深刻な 諸問題と緊張関係をもった研究を教える必要もやはり否定できない‐ もちろん, 講義や演習の中に教育実践記録や現実の教育問題を教材としてもちこんでそれを論じる教育方 法があり, その方法は今日の大学教育の中ではすでに盛んに行なわれれている‐ そうした教育においては, 大学の中には教育の現実がないので小中学校の教育の現実を書き留めた文献やビデオテープを持ち込んで研 究する・講義する形をとっているのだが, しかし, ここで筆者が着目するのはそれとは異なる. 実は大学そ れ自体の中にも, それが教育であるかぎり, 教育の現実が存在しているのである. つまり大学の外から借用 してきた教育現実ではなくて, 大学の中の くいまそこにある教育現実〉 を研究する道があると思う のである‐ 小中学校における教育 にも大学における教育にも, どちらにもそこに人間がいる. <人間〉 を研究すること, それも書物に描かれた人間をではなく, 教室の中に現にいる教師・学生という生身の人間を持ち出すことこ そが, 教員志望の学生の人間関係の能力を養成する重要な方法になると考える. この場合の人間を研究する とは, 具体的に言うなら ば, 授業に参加する学生の くことばやからだ (感覚)〉 を浮き彫り にして, それを 見つめることである. 言葉や感覚というものは, 〈いま, ここで〉 生まれるものだから, 間髪を入れずにす ぐにそれを教材に転化すると人間理解のための大きな教育力をもつ‐ そうすることによっ て, 「教育につい 「 て学 ぶ 講義」 か ら, 「教育 を 学ぶ 講義」 , 教育 か ら 学ぶ 講義」 へ と 変 貌させる の であ る‐. 24.

(12) . 「ニュー・カウンセリング」 と教員養成教育の方法改善. (2)<人間〉 を学ぶ教育 そのように 〈人間〉 について教育する ための方法を教員養成段階において開拓しよう とするのが, 本論の 意 図で ある‐ ニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グか ら多 く を学 ん だ筆者 は大学 の授 業 を改 善 する ため に, や はり 「1, 3. ニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グの 理論 と 実習」 で 述べ た3 点 に沿う こ と になる. いま はま だ試行 の 段 階で ある. ため, 筆者が実際に大学の授業でその3点を徹底できた場合もあるし, 無理をせずにいくつかの点で譲歩し た場 合もあ る の だ が, こ こ で は 論点 を 明確 にす る ため に, ニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グの 精神 を 貫徹 できる と想. 定して, <人間〉 を学ぶ教育の要点を述べる. 第一に, 非・操作主義の立場に立つ‐ これを具体的に言う と, 特定の目的に向けて学生を計画的に指導したり, 特定の知識の教授を意図しては 授 業 にの ぞま な い と いう こ と である‐ どこ に 向 か っ て学 習 が進 む か は, 学 生 の 意思 の 決める こ とである‐ 授. 業の中では, 教育を論じた (描いた) ビデオ教材や印刷 教材を示した後, 「これについて何か感想 (質問・ 意見・提案・動議) がありますか‐ どんなことでもどうぞ.」 という教師(筆者) の呼びかけで授業を始める. その発言をきっかけにして次々と発言の生まれることを期待する‐ 学生の発言は教師がものを言う場合より も, はるかに他の学生の耳目をよく引きつけることができる‐ もしその発言が疑問形で終われ ば, 別の学生 がその答えを探しはじめる‐ そのように学生個々人の胸の内で活発に思考が始まり, それを発表しあるいは 質問して学習を自己の責任において自主的に進める経験を持つことが, 学生自身を成長させると考えるので あ る (しか し, 以 下 に述 べる よう に, そ れ は討 論 形 式の授 業 に 変 える という 意 味で はな い)‐. 学生の自主性・主体性を何よりも重んじるために, 教師は学生の発言内容の正誤・優劣を評定したり指導 した り する こ と は しな い‐ た だ, 発 言 の 言いま ち がいや 聞 きま ち がい の 訂正 な ど, 授 業 の コ ミ ュ ニケ ー シ ョ. ンの円滑な進行の保証につとめる (同時にまた後述する第二・第三のポイントに注意する) . 教師は発言内 容に対する調整や操作をいっ さい加えず学生の意思にまかせるので, 授業がどんな方向に進んでいくか, ど んな知識が自分に必要とされるかはあらかじめ知ることができない‐その場で臨機応変に対処するしかない. も し教 師 が発 言 を促 しても 学生 の 感 想 (質 問 ・ 意見 ・ 提 案 ・動 議) がいつ ま で た っ て もい っ こう に 出て こ. ないときにはどうするか‐ その場合でも, 特に操作はしない. 時計が終了時刻を告げるまで, おそらくその 状態 (沈黙と不動) が続くのみであろう‐ 反対に, どんなに活発に展開していてもやはり時間がくれば, 自 動的に打ちきりにする. 学生の発言を求めるときに, 教師にとっ て大切なことは司会者のようにただ発言を 促すのであっ て, 決して特定の答えを期待して質問したり, 自分のすでに得ている学問的知識へと引き入れ る よう に問う わ けで はな い‐ そ れは ワ ー ク シ ョ ッ プにお ける 世話 人の 場 合 と 同 じであ る‐ も しそ んな 問 い 方. をすれば, それは質問という形式をとっ た操作である し, そのことは学生に敏感に察知されてあたかも口頭 試問を受けているかのように解釈されてしまい, 学生は自分を操作しはじめるから, 結局のところ教師の目 的 は達 せ ら れな い‐ 第二 に, <ア ウ エ ア ネス (気 づ き)〉 を 尊重 する‐. しかし本論で強調したいことは, 学生に活発に議論させることで教育学や教育方法学の深い認識を学生に 実 現さ せる こ とを 主 目 的 に してい る わ け で はな い. む しろ そ れ は同 時 に達 成 さ れる 副 産物 の方 である‐. 一般 に教師が口数を少なくして教えないでいると, それだけ学生の感覚は敏感にまた豊かにはたらく. 教 室に沈黙がおとずれることを授業のタブーにする必要はない‐ そういうときこそ学生は (教師もまた) 必ず 何 か を感 じ始め る‐ 生 き て いる 限り, か ら だは感 じる の をや める こ と は な い. 沈 黙 の 中 でも, ある い は一 人. の発言のさなかでも学生は何かを感じつづけている‐ それは必ずしも, この授業に対して協力的で積極的な 発言を生むような, 教師にとって好都合な感覚であるとは限らない‐ むしろ反対であることの方が多い. 授 業の奇異さにとま どう感覚, その非効率にイライラする感覚, 発言する学生への郷撤・嫉妬・羨望, 無責任 25.

(13) . 若 原 直 樹・横. 浜 ミ エ. な (そう見える) 教師への不信や嫌悪, 気まずい雰囲気 に叫びだしたくなるような居心地の悪さ 自分で何 , らかの 行動 を起 こ すべ き かい な か の葛 藤 … …‐ た と えそ の感 覚 が どんな もの であ っ ても そ れこ そ がす べ て , の行動 の源 泉 であ り, そ れ に しっ か り と 自 分で気 づ い ている こ と が出 発 点 である .. このようにアウエアネスを尊重するというところが, 学生主体の教育として一般的に例示される討論・議 論・ ディ ベー トと は異なる と ころ であ る‐ そ れらの 場 合 では も っ ぱら発 言する こ と を重 視 し あ る テ ー マ , ,. に関する多面的な認識や深い理解, また論理的思考力などの知的能力の訓練をめざしている‐ しかし ニュ , ー・カウンセリングに学んだ筆者は, 相手を論駁することに対してではなく 自分が他者や論題に対してほ , んとうには何を感じているか, 自分が世界とどう向き合っているかについて注意を向けるよう一人ひとりに すすめる. ここが, 知識重視の教育と人間重視の教育の岐路である‐ そして これまで述べてきたよう に本 , 論は後者の教育を志向することが今の教員養成教育に求められている, との認識に立っている. 第三に, 人間は身心一如であるとの立場から, 教室の中で教師も学生も自分の気持ちのままのからだ か , らだのままの気持ちでいることにつとめる‐ 上に例示したさま ざまな感覚は, そう感覚している教師や学生 の目の輝き・表情の揺らぎ・上体や下肢のおさまり等に必ず変化を及ぼす. というよりも, そのような変化 とともに感覚されているはずである‐ そして 〈人間〉 を学ぶ教育のためには 教室の中で学生と教師がその , 感覚のままに言動を起こすことが重視される. 人間を尊重するということ 人間関係能力を育てるというこ , と は, そう いう 原 初 的な から だ の 感 覚- - 自 分の感 覚 につ いて も 他 人の 感 覚 につ い ても- - を は っ きり と 認. 識して, それをそこなわないよう に生かすところから始まる‐ 授業中の教室の中に生まれる, 自他のそうい う感覚の明滅や往来に最も敏感でいなくてはならないのは, 誰よりも教師自身である‐ そしてなおかつそれ に加えて, 教師はもちろん学生も作為的にそれを操作 (抑制・歪曲・演出) することなく, その感覚をあり のままに表出するよう勧められる. そうすることによって, その人固有の感情やものの見方・考え方を知っ たり, それらが交流することによっ て生まれる反感や共感のダイナミズムを経験できて 人間というものを , , 実感 を とも な いつ つ 理解 で きる か ら である.. 自分がからだの自然な動きのままに行動するときに, 相手がそれをどう感じてどんな反応を表出してくる のだろうか. 決して知的に相手を操作支配しようとするのではなく, そのように自分のからだに正直に生き るという経験, 自分の気持ちと行動を一致させる経験を豊かにもつことを学生にすすめたい‐ 将来教師とな って子 ども に自己開示を迫るであろう学生自身は, 他人に対して自らそのように自己開示できなくてはなら ないはずである. 少なく てもそう した経験を経ていることが教師には必要であろう‐ 感覚と言動との間のズ レや不一致が学生に生まれたと 「感じた」 瞬間に, 教師は自分のその感覚を表明し て み る‐ た とえ ば 「でも, な ん だ か ほ ん とう にそう 思 っ て い る よう に は 聞 こ え ま せ んよ.」 と 素 直 に表 現 し て みる (こ れ は 「私 は, ほ ん とう の あ な た が知 り た い‐一 と いう 意 味 で 言 っ て いる の であ っ て も し 「嘘 を , つ い て はい けま せ ん‐一 と いう 意 味で そう 言 っ たの な ら, 教 師は そ の とき 不 一 致 である)- 表 現さ れた 言葉 の. 上でのやりとりで知識や相手を理解したつもり になる (ディ ベートや討論形式の授業ではえてしてそうなり やすい) のではなく, その言葉の生まれる源泉 (=からだ) を理解することの大切さを, 学生の発言のやり とりの中で実際に経験する授業としたいのである.. 26.

(14) . 「ニュー・カウンセリング」 と教員養成教育の方法改善. (3) 教師が教えない教育=学生が経験する教育 便宜的に, 誤解を恐れずに授業の方法を下表のように分類してみる. 法. 方. 目標. 教材. 直接 は教えず, 援助する. 教えない. ○. A. 有. B. 有. 有. C. 有. 有. D. 教師が直接教える. ○ ○. 有. E. ○ ○. 上の表で言う と, もっ とも旧式の講義はAである‐ 教師が頭の中に講義内容をもち, ことさら教材や教具 を用意することもなく一方的に口頭で話す型である‐ それだけでは学生にはわかりにくいので何らかの教材 や教具を準備してそれを活用 しながら話すのがB型‐ C 型 は, 教 師 がB よ り も さ ら に退 い て, 学 生 が 教材 や 教具を自由に使う度合いをふやして, 教師はそれを側面から援助しア ドバイスして, 最終的には自分の設定 した目標へと学生を導く型. 一般に小中学校における授業研究で良く評価されるのはC型の授業であり, 最悪とされるのはA型であろ う‐ おそらく 「新しい学力観に立つ教育=支援する教育」 も, このC型を意味していると理解される‐ しか 「 しC型には, 「誘導する」 , すなわち 腕曲的に教える=教えないようにして実は教える」 という中庸 (中途 半 端?) の ア ンバ ラ ンス さ が, 教 師を常 に葛 藤 さ せ 緊張 さ せる と いう 難 しさ をは ら ん でい て, そ れ がこの 教. 育を安定させない大きな理由であろう. 近 年 で は 大学 にお ける 授 業 改善 の 実践 にお い ても B 型 や C型 の 報告 が見 ら れる よう にな っ て き てい る. そ して前 述 したとお り, ニ ュ ー ・カ ウ ンセリ ン グの ワ ー ク シ ョッ プは, D 型 お よ びE 型 であ り, そ れに学 んだ 筆 者 が行 な いつ つ ある の は, C 型 はもちろ んの こ と, い ま はD 型 を 試行 しつ つ あ る (そ して 理想 的 には, E 型 を 目 指 して いる)‐ 表 中, D 型 にお い て 「目 標 がな い」 と いう 意 味 は, 学 生 が講 義 を 通 して どんな 結 論 に. 到達するかをあらかじめ決めることはできないという意味であって, 講義に臨んで私がなんの目標も持って いないというわけではない. (2) で述べたとおり筆者にはその講義中に学生のからだと言葉をできる だけ 活 性 化さ せ る と いう 目標 があ っ て, そ れ は上 の 表 の 「目標」 と は 次元 が異 な っ て いる た め, 表 中の 同一 平面 に は 記せ な い‐ ま た 「教 材」 につ い て も, 講義 の 教材 と して は プリ ン トや ビ デオ を用 意する の で 「有一 と し て はある が, ほ ん とう の 教材 は, そ れ ら プリ ン トや ビ デオ を め ぐっ て動 き始 める, 学生 の か ら だと 言葉 その も の である. か ら.だと 言葉 の 教材 も ま た次 元 が異 なる の で, や は り 表 中 には書 けな い‐ E型に教材がないと. いうのも教師は教材をあらかじめ準備することはしないという意味であっ て, 目標も教材も学生自身が決定 して いく 教育 であ る‐ DおよびE型では教師の役割は, 学習のための場面設定とその維持と活性化につとめ る こ と であ っ て, 学 生 の 認 識 する 知 識 内容 に対 して は 口 を はさ むこ と は しな い‐. もちろん学生に旺盛な学習意欲が横溢している場合にはA型やB型の講義でも意味があることは認められ なければならない‐ ただ筆者がD型やE型をめざすのは, 今日の学生は長い学校教育を受ける中で講義型教 育にはすっ かり食傷していて学習意欲を沈潜させていることが一つの理由である. どんなに善意からであっ ても, 相手の学習意欲に見合った教育からスタートしなくては相応の教育効果は生まれない. もう一つのほ んとうの理由は,(2)で述べたとおり, 求められない限りは知識を教えないでいることによって, 教室に〈人 27.

(15) . 若 原 直 樹・横 浜 ミ エ. 間> という教材が立ちあらわれてくることである. 一般に授業中の教室には, 知識という観念やモノと, そ れを教え教えられる人間との二者が存在しているのだが, <人間的な力・人間関係 の能力〉 を教育方法学の 授業の論題にしようとする筆者は, この二者のうちの後者を教材にするのである‐ 普通は, 前者が 「図」 で 後者 が 「地」 とな っ て 大 学 の 講義 は進 め ら れて いる. そ れを 反 転 させ て 後 者 を 「図」 に 前 者 を 「地」 に , ,. して授業をつくる試行である‐ それが, 教員養成に求められている人間性の湧養, 人間理解の教育のあり方 を探る本論の問題意識であっ た‐ 人間の理解のためには, 〈今, そこに生きている人間〉 のありように学ぶ こ と が, 一 番 だと 考 える‐ 〈未 来 の ため に, 過去 の こ とを 学ぶ〉 と いう タイ プ の 概念 による 講 義 では なく , , 〈今の ため に, 今 の こと を学 ぶ〉 と いう タイ プの, 経 験 に よ る 授 業 をつく る. そ の ひとつ の 可 能 性を ニ ュ ー ・. カウンセリングの理論と実践に学んだ次第である. しかしD型・E型の教育にはまた独特の難しさがあるのも事実である‐ そう した教育の具体的な実行と反 省 の 考 察 につ い て は, 稿 をあ らた め て 論 じた い‐. 引. 用. 文. 献. 1, 伊東博監修・人間中心の教育を現実化する会著 『これが学校だ』 大阪心理出版 昭和52年 2, 伊東博 『ニュー・カウンセリング』 誠信書房 19 83年 3, 伊東博 『カウンセリング 第四 碗 誠信書房 199 6年 p 4 .19 「 4, 伊東博 ニュー・カウンセリングの理論と実際」 人間中心の教育を現実化する会 19 90年 p .1 5, 同 上 p .7. 6, 中村雄二郎 『臨床の知』 岩波書店 19 92年 7, 南本長穂 「教師の専門的技能と教職意識に関する調査研究」 愛媛大学教育学部紀要29 第一部 1 98 3年 『日本教師教育学会年報 第3号』) 19 8, 黒洋英典 「大学改革下での教育者養成のカリキュラム編成」 ( 9 4年 9, 三輪定宣 「新教育職員免許法下の教員養成カリキュラムに関する調査研究 ( 1 99 1年度科学研究費補助金研究成果報告書)」 (文献8か らの再引用) 「教員養成教育を基礎とした教師の職能成長の在り方と問題点 1 0 高木正太郎ほか 98 2年 o 」 京都教育大学紀要 N , ‐60 1 「 『 『 1 1 若原直樹 教職専門科目における 講義 と 北海道教育大学紀要 実習 の関連について 第一部C 第 4 2 巻 第1号 199 1 』 』 一 , 年) 12 , 新井孝喜 13 , 7に同じ. 「学生の教職観と教師教育への期待 『日本教師教育学会年報 」. 参 考. 文. 第2号』. 199 3年. 献. 『援助する教育』 明治図書 伊東博・藤岡完治 『こころとからだの体験学習』 伊東博. 明治図書 『 伊東博 現代カウンセリング論』 人間中心の教育を現実化する会 J・ポリセンコ 伊東博訳 『こころに聞いてからだを調える』 誠信書房 C・ブルックス 伊東博訳 『センサリー・アウエアネス』 誠信書房 C・ロージャズ 友田不二男・伊東博訳 『新 創造への教育』 藤岡完治 『感性を育てる看護教育とニュー・カウンセリング』 池見酉次郎・弟子丸泰仙. 『セルフ・コントロールと禅』. 岩崎学術出版社 医学書院. 日本放送協会出版社 (若原直樹. 本学助教授. 旭川校). (横浜ミエ 帯広市福祉部児童家庭課家庭児童相談員). 28.

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