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譲歩しえぬ「もの」

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Academic year: 2021

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始めさせていただきます。ジャック・レヴィです。きょうは『精神分析の倫理』

と題されたセミネールを対象にして話を進めていくということですが、このセミ ネールの中でラカンがはじめて提起する諸問題、改めて定義する精神分析の諸概 念をいまどのように読み返すことができるのか、雑なかたちになってしまうかも しれませんが、いくつかの方向を追って、話していきたいと思います。さきほど 原先生が説明されました、三つの矢と線で画かれるグラフにおけるふたつの段、

その間隔に焦点を当てていきたいのですが、下の段、すなわちシニフィアン連鎖、

またはシニフィアンのゲーム(jeu des signifiants)に該当するラインに対して 上の段のラインは主体、無意識の欲望の主体の存在形態を表し、この二つの段を 分ける狭間(intervalle)が精神分析の実践、そこで形成される経験の場と言っ ても差し支えないでしょう。

さらには、そこに、ラカンによる存在論、あるいは存在論批判とも呼びうる思 考の核心があり、それは主体の非在(non-être)と他者の不在や欠如といったモ チーフによって支えられていくと見なしてもよいのでしょう。しかし、そのこと にふれる前に、最初に合田先生から「経験」という言葉をめぐって刺激的な指摘 がありましたように、この『精神分析の倫理』の一連の講義の中でも、自分の議 論の起点が常に経験(体験という意味も含まれていると取っていいと思いますが)

としての精神分析にあるとラカンが一貫して主張し続けているということに注目 したいと思います。そこで述べられている「経験」は決して「臨床」という言葉 に還元されうるものではなく、それこそ還元・表象不能性の次元に迫る、常に批 判性を通して引き立てられるものです。つまり、精神分析特有の経験であると同 時に、だれもの日常の経験に潜むある普遍性と交錯点をもつ、「存在」や「現実」

の概念を揺るがす、精神分析の言説によってのみ明かされる事実、「もの」がそ

譲歩しえぬ「もの」

ジャック・レヴィ

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こにあるということですね。

『精神分析の倫理』の前の年のセミネール『欲望とその解釈』のなかで主体の

fatigue(疲労)とともにdéfaillance(気のゆるみ)といった問題が取りあげら

れ て い ま す が 、 こ の d é f a i l l a n c eと い う 言 葉 は 、 ラ カ ン が 好 ん で 使 う

évanescence(はかなさ)やévanouissement(フェーディング)と同義語の位

置にあると考えられます、すなわち主体という概念の根底にある「喪失」の性質 を言い表すものです。そこで思い出すことなのですけれども、パスカル・キニャ ールというフランスの作家が『Le mot au bout de la langue』(口の先の言葉)

というエッセイのなかで言語喪失の諸現象をdéfaillance du langageと呼んで、

作家という存在はいかに話し下手であるか、言語に対してある病を抱えていて、

言語を習得していない幼児と同じ立場にいるのだ、といったようなことを述べて います。この言語に対するdéfaillance というフランス語は、気絶、躓き、喪失 といったふうに、様々な訳を受けられますが、それは基本的に「ある」はずの言 葉が「ない」といった事柄を示すのと同時に、そこに隔たりとしての空間が拡が るということを示唆しています。そしてその空間において「体験」されること、

そこでどのように行動すべきかが、精神分析の、極めて空間的な性質を持った倫 理の射程を決定づけることになります。飛躍して言いますと、この空間性は、

『精神分析の倫理』の終わりの方の「二つの死の間におけるアンティゴネ」の中 で述べられているl’entre deux mortsというトポスへとつながるのですが、さら に飛躍していくと、晩年のラカンによる真理の定義をめぐる表現と結びつけるこ とが出来ます。たとえば、『テレヴィジョン』の冒頭で、Je dis toujours la vérité(わたしは常に真実を述べています)と言い出した上での、しかし真理の

「すべて」を語ることは不可能である、といった主張です。その「不可能性」、す なわち「すべては語れない」という事実、言葉がそのことに欠けているというこ とが、「真理」を「すべてではない」(pas toute)として定義させるのです。さき

ほどのdéfaillanceも、こうした論理の形象なのではないでしょうか。また、こ

れは神秘体験の問題とも関連するのですけれども、倫理の問題にとどまるのなら ば、そうした空間に身を置いて何を成すべきかということになります。『テレヴ ィジョン』での答えはbien dire ですね。単に言葉を明晰、的確に用いる、雄弁 に語るということなどではなく、ここでのbienは倫理における「善」ですね。

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そ し てd i r e の 方 は 、 言 表 内 容 é n o n c é ま た はd i t に た い す る 言 表 行 為 énonciationまたはdire, discours「語らい」「言説」の次元に該当することにな ります。さらに、この隔たりは、さきほどのグラフにおけるふたつの線、段を隔 てる空間そのものでもあります。

倫理の問題は、こうした空間の経験を通して、「欲望とは何か」という問いに 尽きることになります。というのも、その欲望をどのように解釈するのかは、つ ねに謎としてのこるのです。実は、解釈するということは、必ずしもその謎を解 くということではなく、むしろ、その謎を維持させていくということにあるので はないかという考えが浮上してくるわけです。明晰なラカン解説を書き続けてい る精神分析家ムスタファ・サフアン〔Moustapha Safouan〕は、昨年のセミネー ル『le désir et son interprétation』(欲望とその解釈)について、その題におけ る接続詞etêtre動詞に取り替えて、le désir “est” son interprétation、欲望と はその解釈である、という結論に辿り着くものだと言っています。その後のラカ ンの理論の展開の中では、「解釈」というのは象徴界、想像界と現実界の三つを 結ぶのボロメロの環を一瞬にして解いてしまう効果をもたらす、現実界そのもの に踏みこもうとする、決して無害とは限らない行為として位置づけられていきま す。つまり、精神分析家の責任が問われる域でもあるということです。

そして、まさに、現実界と呼ばれる域を直視するという姿勢を前提に置くこと が、この『精神分析の倫理』の冒頭にある「我々のプログラム」の主張です。法 や道徳の問題は象徴界の領域に属するものだと思われるでしょうけれども、そこ での射程、狙いは現実です、とラカンはあらかじめ述べるのです。フロイトにと っての現実とは何かと問い続けながら、快感原則対現実原則における「現実」と いう概念に批判の焦点をあて、多様に問題化して行くのですが、また同時に、こ うした倫理を真っ向から扱おうとするラカンの姿勢は、1960年のフランスにお ける知的環境を考えた場合、極めて政治的でもあります。つまり、現実réelを射 程に置くことの政治性です。具体的には、セミネールの後半の「隣人愛」と題さ れた章で、進歩主義知識人のbêtise(英語のfoolに該当するフランス語として、

「愚かさ」)と右派知識人のcanaillerie(英語のknaveを訳したフランス語とし て、日本語訳は「悪党」となっています)といった表現で、政治的言説における

「現実」との関係を示唆するまでに至っています。

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しかし、精神分析における「現実」の問題についての議論を進めていく前に、

ふたたび話を戻して、精神分析はどういったものを素材matérielにするのかに ついてふれておきたいです。周知のように、それは無意識の形成物、すなわち夢、

白昼夢、幻想、語失、等々、ということになりますが、それを、ムスタファ・サ フアンが書いているように、フランス語のespritという言葉によって総称するこ とが出来ます。精神という意味ではなく、mot d’esprit機知といったときの espritですね。そのmot d’espritというのは意図的なお笑い、effet comique は異なる、思わず発生してしまった気の利いた、愉快な言葉を指すわけですが、

そこで肝腎なのは、そのシニフィアン連鎖のなかで、大他者が一瞬現れ、その大 他者の望むことが充足される瞬間を意味することであり、また「享楽」という分 領の一つの源でもあることです。これもまぎれもなく経験の次元です。無意識は 常に閉ざされていて、その伴痕を一瞬開くことが分析の目的である、といったよ うなことが『四つの基礎概念』の冒頭で述べられていますが、そのespritとも呼 びうる、束の間にして拡げられる空間は当然特異なものであり、最初に言及しま した「はざま」défaillanceにおいて、虚構としての形を取りながらも、常に現実 界へと赴こうとする無意識の欲望の主体の場でもあります。それを実現化されて いないもの、生まれなかったものの場ともラカンは呼ぶのですけれども、文法的 なたとえで言えば、現実界は直説法ではなく、一種の絶対的条件法が支配する論 理の場であるともいえましょう。いずれにせよ、重要なのは、精神分析によって 優位性を認められるのは決して「精神」や「心」という意味のespritではなく、

無意識の思考と呼ばれる次元です。そして、その分領に置いて、主体という存在 の自立性が強化され、その理論化がはじめて観念的なもの、「幻的」なものでな くなるのです。つまり、非在と非知に身をさらしているが故に、その「現実性」

が保たれているということですね。また、そうした無意識の主体の欲望を引き起 し、不滅なものにさせるのが、ラカンが自分の唯一の発明と呼んだ概念、欲望の 原因としてのobjet petit aが、この「非在」と存在の間に置かれた主体の自立性 をいわば確保してゆくのですが、それは「対象」と名づけられてはいるものの、

鏡像化され得ない、本質的にに喪失された対象であり、対象関係理論の袋小路を 解消するために設けられ、さらに言えば、「純欲望」といった形で顕れる欲望を めぐる議論とその矛盾を解決するものでもあります。すなわち、原先生から明晰

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な説明がありましたように、要求(demande)と欲望の弁証法の展開なかで、第 二の段において、純粋なかたちで欲望が切り離されうるのは、このpetit aが現 実界への窓としての特異な存在としてあるからです。大他者(その弁証法のなか では母ということになりますが)の欲望に対して、主体は完全にhilflos、途方に 暮れた状態にいると。要求の無限の循環から逃れるのには、防衛が不可欠になり、

防衛としての欲望が発生するのがその時点であるわけですね。したがって、要求 から引き離されうるかたちとして顕れた欲望は、やはり精神分析の体験もしくは 選択という枠において、非在としての現実界と赴こうとする、運命そのものです。

それを、ラカン派のジャルゴンでは、le choix du désêtreといった言い方をする のですが、この「脱存在」désêtreはどうも砂漠désertという言葉とも似ていて、

彷徨いの美学とも取れる響きをもっています。

こうした現実界へ赴く欲望のあり方とその主体の運命としての自律性が精神分 析の倫理の前提としてあるのだとすれば、もうひとつの核心になるのが欲動とそ の目的、「昇華」の問題です。いっぱんに性向、性癖、tendance、とよばれる、

いわば人間が人間としてもつ本能をめぐって、フロイトのTriebの翻訳に関する ラカンの議論が極めて重要になってくるのと同時に、かなり複雑な解釈が強いら れるようになります。初期は本能instinctとフランス語で訳されていたドイツ語

Triebpulsion、すなわち欲動と訳すべきであると一貫して彼は主張するもの

の、この『精神分析の倫理』のなかでは、「死の欲動」に対してはinstinctとい う言葉が残されています。そのことをどのように理解すればいいのか難しい問題 ですが、一つ言えるのは、極めて「思弁的」とされるフロイトの「死の欲動」の 概念を、ラカンは、無意識の発見と同様に決定的な「反復」、反復脅迫の導入に 伴う必然性と見なしていて、Bichatの「生命とは死に抗う機能の集合である」と いう定義からならって、「死の欲動」が「生命」の性質そのものを表していると 読み替えている節があります。主体性がいわば生命の内在性とシニフィアンによ るその生命の内在性からの離脱の狭間に位置づけられているという図式のなか で、欲動と生命の内在性を混同してはならないというのがラカンの主張です。

ところが、欲動の流動性、漂流を言い表しているとして、ラカンが好む、

Triebのもうひとつの訳があります。英語のdriveです。我々を駆り立てている

このdriveとは何か。そこで、「昇華」という欲動の特異な運命をどのよう説明

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すればよいのか。そこで、欲動の働きを考える際、その「対象」(Objekt)とそ の「目標」(Ziel)を識別するフロイトの姿勢に重点が置かれます。ただ、目標が 変化した、性的であったのがもはや性的でなくなる、それが昇華であるという、

すなわち性的リビドーは脱性化されたという安易な結論付けに対して、ラカンは 異議を唱えます。昇華は欲動にとっての従来の目標とされものとは異なる満足を もたらすことによって、逆に欲動の性質を顕わにすると言うのです。 その性質 は、本能や生命の内在性のことではなく、「対象」ではなく「もの」das Ding 関わることであり、「もの」は欲動の場、その目標によって囲まれるもの、そし てこれはこのセミネールの核心を示しているとも言えますが、「現実界に置いて シニフィアンを受苦するもの」として定義されるのです。つまり、その意味にお いて、欲動は生命の内在性とは異なった位置に置かれることになるのです。

ここで、欲望désir と要求demandeがどの時点で引き離されるのかという問 題を再び参照したいと思います。大他者、母の欲望に飲み込められることを防ぎ、

主体としての受任assomptionを可能にする唯一のよりどころは、防衛défense としての欲望になるわけですが、このdéfenseというフランス語には、「禁止」

という意味もあります。なるほど、恐怖症によって形成される症候symptômeは、

ファルスが「禁止」として浮上するという現象を呈しています。また、それが他 者の無限定の欲望から身を守る、主体におけるシニフィアンとのつながり、同一 性をかろうじて維持させるボーダーの役割を保ち、抑圧された欲望としての「法 則」の原形でもあります。しかし、その「禁止」の背景にあるファルスは、主体 における原始的な、ゆるぎない願望としてあるのですね。母の欲望の対象に同一 化しようという願望ですが、それをラカンは、être le phallus、ファルスであろ うという願望として定義してきました。ファルスである母、母にあるファルス、

異性としての女性が占めるファルスの場。そこで、去勢を通して得られる、ファ ルスの所有、avoir le phallus、を目指す、少なくともその権利としてのシニフィ アンに、自我理想の成立とともに至る過程を分析する重要な論考があるのですが、

晩年のフロイトが『終わりある分析と終わりなき分析』のなかで述べているよう に、精神分析を終わらせることを妨害してしまうひとつの謎として、ファルスで あろうとする諦めきれない願望、ファルスであることのノスタルジーが常に去勢 コンプレックスあるいはペニス羨望を支えていて、乗り越えられないものにして

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いるという問題に、理論は常にぶつかってしまうのです。こうしたファルス願望 の病因からどのようにして、欲望の主体は逃れることが出来るのかという問いも、

当然、この『精神分析の倫理』と題されたセミネールのひとつの前提としてあり ます。

ところで、御存知のように、ラカンのセミネールの出版をめぐって、様々な議 論が起きているのでけれども、ラカン自身、この『精神分析の倫理』に関しては、

自らの手で書き直したい、そういった願いをしばしば表現しています。『Encore』

と題されたセミネールの冒頭では、Il m’est arrivé de ne pas publier l’éthique

de la psychanalyseと切り出しています。つまり、自分に起きたひとつの体験と

して、『精神分析の倫理』を出版させなかったということですね。そして、その ことをje n’en veux rien savoir(文字通りには、「そのことに関して何も知ろう としない」、どのような説得にも応じないといった意味ですね)と、自分の症候

symptômeとして紹介しています。書物、書かれたものにすることがどういった

結果を招くのかという問題と、さらには、精神分析理論における文字の審級や書 字(écrit)をめぐって展開される理論とも関連するものでもありますが、この

「書く」écrireというのは、もし『精神分析の倫理』の主題と連想して考えるな らば、抑圧された欲望としての道徳法則と異なる、『アンティゴネー』の解説に よって引き出される、「書かれていない」法をめぐる論考や、死の「本能」の再 定義とカント対サドという読み合わせによって形づけられていく「享楽」の概念 の成立、それら全てと結びついています。そこには、構造上、書かれることのな いものを敢えて書くという(ラカンの)欲望が働いているのではないでしょうか。

ま た は 、「 性 的 関 係 は あ ら ぬ 」 と い う 現 実 (r é e l) を 追 っ て 語 ら れ て い る

『Encore』というセミネールの言葉を借りるならば、Ce qui ne cesse pas de

s’écrire, 「書かれるのをやまない」(すなわち、必然性、あるいは「法則」とい

ってもいいでしょう)の彼岸に位置づけられる、(不可能としての現実界の定義 に当たる)Ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire、「書かれないことをやまない」

という分領を射程にした欲望ともいえるでしょう。その分領に踏みこむことこそ が「解釈」という行為であり、それは、「書かれないことをやまない」を書くと いう「不可能」に等しい、ラカンが築き上げようとしていく理論の核心なのでは ないでしょうか。

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そこから、『精神分析の倫理』におけるこうした議論の正当性を支える、現実 原則を論じるフロイトのテクストの参照のなかで、フロイトの決定的な直観であ るとラカンが主張する、「罪過の魅力」に焦点が当てられていきます。これは、

罪を犯すことや、「侵犯」という問題ではなく、むしろ、いわゆる罪の意識、そ の罪が取るに足りないものであればあるほど、人は苛まれるという事実をめぐる 考察ですね。つまり、「罪」という語は、完全に「欲望」の同義語として機能し ていて、フロイトの直感は、倫理の問題を欲望の次元なしでは語りえないという ことを裏付けるわけです。すなわち、抑圧された欲望であるかぎり、法は欲望で あるということです。それが前提とされたうえで、ラカンは「純粋欲望」とも名 づけられ得る欲望の概念の定義へと向かうのですが、そうした「純粋欲望」に応 えるのが、大文字の「法」、書かれていない法です。さらにいえば、従来の抑圧 された欲望と違って、「純粋欲望」は「対象」をもたないのですが、その「対象」

の代わりにある「現実」、「空洞」、「無」、「非在」にあたるものは、フロイトの

『心理学草稿』から借りた、das Dingという名称を受けることになります。フラ ンス語では、大文字を使うことによって記されるla Choseですね。ただ、大文 字の法に準じて、「もの」を顕わにしていく欲望の悲劇的構想を、このセミネー ルのモチーフ、一種の「物語」として捉えることもできるでしょうけれども、そ の後のラカンはこのような構想の理論を強化することもなく、むしろ放棄してい くようにも見えます。いずれにしても、この「もの」das Ding, la Choseの導入 の狙いははっきりしています。哲学における倫理と呼ばれる思想の揺るぎない中 心となる「至善」という概念の批判なのです。つまり、アリストテレスからヘー ゲルへいたるまで、「善」と同様、「美」は、常に己のplaisir快楽の追求と結び つけられている、すなわち己にとってもっとも「よい」ものの追求の形を取らざ るを得ないといった批判から、この至高の善は「非在」である、実は「ない」の だというラカンの考えがここで展開するわけです。あるいは、「至善」とは現実 界の回避であるという主張ですね。そして、他方では、フロイトの『文化におけ る不満』への重要な言及があります。この論文は文化論の枠に留まるものではな く、貴重な作品であると、繰り返しラカンは言い続けるのですけれども、「不満」

はフランス語では、malaise、「居心地の悪さ」となっていて、この言葉は特別な 意味合いを含むものとして重視されていきます。この『文化における不満』によ

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って提起される問題はふたつあります。ひとつは文化によって超自我が異常な発 展を遂げてしまっているということですね。その要求に主体は耐えきれないと。

そして、それと対になるのが、キリスト教におけるいわば定言的命令とも位置づ けられ得る戒律、tu aimeras ton prochain comme toi-même「汝の隣人を汝のご とく愛せよ」という命令です。この隣人愛を前にして、フロイトはぞっとするの ですが、なぜそれは受け入れられないのか、これをラカンが、「神への知的愛」

(amor intellectualis dei)という感情と対比させて、非常に鋭く追究していく姿 勢は、このセミネールの、もう一つの大きな魅力でもあります。

さて、お配りしたいくつかの『精神分析の倫理』からの引用に沿って話を進め ていくことにしますが、まずは昇華の理論において検討される目的の変化につい てもう一度ふれておきたいと思います。「昇華は対象を〈もの〉という尊厳にま で引き上げるのです」という、多くのラカン論でよく引用される定式が含まれて いる最初のくだりです。特定の欲動を充足させる、従来の「対象」は決して「リ ビドー経済の核心に位置する「もの」のことではない」という指摘のうえで提起 される定式ですね。しかし、いかなる過程によって「もの」の次元に達成しうる のでしょう。ラカンはいくつかの実例を取りあげていきますが、その中でも、宮 廷愛における貴婦人la dameという表象がもっとも詳細な分析を受けます。一言 でいいますと、乗り越えることのできない障害を自らつくって、恋愛の対象を囲 むことによって、その対象を「もの」の尊厳に引き上げるということです。これ は昇華のひとつのモデルとして近代の恋愛小説にも当然当てはまるのですが、そ

こでla Choseは、人間の術、営みとしてのシニフィアンによって切り離されて

いく、現実界の空洞化といった性質を濃くしていくことになります。

そこで「昇華のバネ」をどこに探すのかという問題が出てくるのですが、フロ イトの場合、原始の要求の過程のなかで完全に喪失されたの愛の対象を昇華を通 してどのように再現するか、再び「対象」にどのようにして遭遇していくかとい う図式が現れます。ところが、ここではラカンははっきりと「この対象はすでに 実際に失われていたとは言えない」といって、「対象とはその本性上再発見され た対象」であるとつけ足すのですね。それが母の身体であれ、何であれ、最初に

「対象」が存在するわけではないと、もしそう考えてしまった場合、神話を築く ことになるのだと。実は、何かが失されたとも限らないと述べて、「対象」とい

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うのは本性上何かを複製するという作用をもっている、何かが失われていると思 いこむ仕組みによって形成されているのだ、という言い方をラカンはします。す なわち「喪失」はひとつの虚構にすぎないということですね。そこで、むしろ注 目しなければならないのは、構造において「もの」は(退屈と祈りのディスクー ルが求める)「他のもの」によって表されるということです。この性質は、リビ ドー経済の核心に位置づけられた「もの」が、シニフィアン(すなわち、無意識 の「表象代理」Vorstellungrepräsentanz)の連鎖によって輪郭を得ること、そ の「もの」を囲む「表象」がシニフィアンそのものの可能性によって組織化され ていることと関係するのですが、ここで無意識と前意識を隔てる境界の問題を連 想させる、「彼岸」としての領域が描かれていきます。つまり、快楽原則の対照 ではなく、その補足としての、生体保存の機能をもつ現実原則の「現実」の次元 の彼岸に拡がるトポスですね。ここからは、「反復」そして「享楽」の分領とし ての「死の欲動」をめぐる諸問題が語られていくわけです。己の欲望をさらすと いう行為は、そうした彼岸に身をさらすことに等しいのですが、芸術、宗教、科 学、それぞれのディスクールはこうした「空」としての「もの」への対応、防衛 を提供するとラカンは述べます。芸術は「全て、この空をめぐる組織化の一様 態 」、 宗 教 は 「 こ の 空 を 避 け る た め の 全 て の 様 態 」、 そ し て 科 学 は 、「 不 信 」

Unglaubenを元に、空を排除、閉め出す様態であると。

すると、精神分析のディスクールはこの空を前にして、何に挑むのかといった 問いが浮上します。『精神分析の倫理』の冒頭では、精神分析が今までどういっ た理念を掲げてきたのかが検討され、「人間愛」、「本来性」、そして「非─依存」

と呼ばれる三つ理想が取りあげれれ、批判されています。人間愛の理想というの は、治療の理想ですね、人を治すという医者の理想です。本来性の理想は真実の 追究です。すなわち本来性こそ、精神分析の実践がめざすべき次元であると。そ して、そのような理想がフロイトにおいて見いだすことができるとかというのは 問題視されていますけれども、多くの精神分析家が掲げる理想として、依存から の解放があげられています。この三つとも精神分析の経験に特有なものではない とラカンは批判するのですが、とすれば精神分析の経験に特有なのは、何かとい うと、やはり主体なのですね。すなわち、欲望の主体、他者の不在を前に、非在 にさらされる主体ということになるのですが、そこで、姿を見せまいとしながら

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も輪郭を示してくる「法」の形をつかもうとするのがラカンの姿勢なのではない でしょうか。そこで、欲望の問題をカントの定言的命令と照らし合わせて論考を 進めていくのですけれども、それは、ヘーゲルからカントへ、いわば退いて、さ らにカントをサドによって裏返すという手順であると、このセミネールを論じた 人たちからよく言われています。つまり、ここでサドが登場するのは、直にエロ スの問題ではなく、彼のdigressionpamphletのなかで展開されていく理論的 議論が、見事にカントの論理そのものを受け継いでいるからであり、ラカンにと って、Sade est plus vrai que Kant、サドはカントよりも真実に近いという主張 が決定的な筋立てになっていきます。いかなる情念、パトスに準ずることなく、

maxime、格率が示す動機のみによって、その格率が普遍的格率と見なされるよ う行動すべしという、つまり万人にとっての法原則でありうる意志の格率として のカントの道徳法則における普遍性の論理の場を、享楽の権利とすり替えるサド の論理がいわばヒントを与えるのです。その延長上、サドによって身体の死の彼 岸にあるもうひとつの死の輪郭がはっきりと示されることになります。そして、

それがラカンの言うla seconde mort、第二の死という次元へと導くのです。

言語との関わりのなかで、主体の存在、その一者としての純粋な形態がどうい った行為によって守られるのかということが、このセミネールの後半の『アンテ ィゴネ』の解釈が迫ろうとするもう一つの問題なのです。兄を埋葬するという、

それ自体極めて象徴的行為への揺るぎない意志は単に兄の存在を象徴の次元にお いてのみ受けとめさせるだけでではなく、シニフィアンと現実界との関係、すな わち現実界において象徴的機能を受苦する「もの」に目をそむけないこと、その 限りにおいて存在が存在足り得るのだということを前提にした欲望の現れだとい うことですね。欲望とその対象の解釈のなかで、そうした「境」にまで欲望のシ ェム、先験的図式を引き上げられるのかが精神分析の倫理であると。また、この セミネールで導入された「もの」の概念は、その後のラカン理論における「対象 a」(objet petit a)という「発明」の力学と流動性にとって重要なターニングポ イントを示すものと考えてられます。つまり、欲望の原因となるこの対象aには plan de franchissement、通過の境へと赴く可能性が含まれるようになるのでは ないかということです。この「a」というのはimaginaire、想像的他者と、主体 にとって鏡像化不能な身体部分の両方を示すのですが、その想像的機能のなかに

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こそ、通過の境を探さねばならない、社会が提供してくれる幻影を突き破る対象 の彼岸、「もの」を求めなければならないということですね。そして、その対象 との関わりのなかで常に分割されている主体性は、「外」としての無意識を前に して追い続けられることになります。これは当然、治療の理想としての幸せ、

bonheurとは懸け離れたところにあるものでもあります。『アンティゴネ』が求

める「アーテー」の次元ですね。「アーテー」は限りなく不幸malheurに近い意 味を持つわけですが、それがアンティゴネが目指すリミットの通過です。そして、

そこでは、書かれていない法に支配されるのだ、それがアンティゴネーの訴えで もあるわけですね。が故に、service des biens、善(財)への奉仕の名の下、共 同体の管理者としてのクレオンがとる立場、味方を然るべきかたちで埋葬し、敵 の埋葬は拒むという主張に真っ向から対立すことなのです。

悲劇をめぐって当然ラカンはカタルシスの問題にもふれます。purger、余計な ものを流し落とすという、医学的な響きをもつ意味と、purification、浄めると いう作用の意味、その両義性を焦点にしてカタルシスについて考えていくのです が、その議論はカタリ派の紹介を機に、整理された悪の根元をめぐる三つの選択 と直に結ばれています。悪の根元は人間の営みであるというルーテルの教え、悪 の根元は質量であるというカタリ派の立場、そして悪の根元は「もの」にあると いう、ラカンによる、サド、フロイト、さらには悲劇の解釈。すなわち、カタル シスは「美」の根元が「悪」であることを露呈するのと同時に隠す作用をもつと いうことですね。したがって、「もの」が善なるものより、はるかに悪malに近 いという事実を、アンティゴネの輝き、美しさが、顕わにすると同時に覆ってし まうと言うのです。

二つの死の間という地帯が描かれ、「アーテー」というリミットの絶対性と第 二の死を越えることの困難が論考された後、『精神分析の倫理』の結論のほうで 言及される、英雄と普通の人を対峙する図式があります。第一の段階では、普通 の人、l’homme du communには、憎悪が原動としてあると。この「憎しみ」

haineはクレオンの善(財)への奉仕という立場から必然的に強いられるものとし

てあります。それにたいして、英雄は死への存在être-pour-la-mortという位置 にいます。すなわち、「もの」、アーテー、第二の死に向かって突き進むという立 場にいるということです。普通の人の場合、憎しみによって生じるのは罪悪感で

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あるのに対して、英雄に置いては欲望が示されている。さらに、その代償として、

英雄は没我renoncementを覚悟し、普通の人は「おそれ」crainteを背負う運命 にあるという図です。ただし、ラカンは、この両者を人類の二種族と見なしてい るのではないとことわって、「誰のなかにも英雄へと向かう道があり、その道を 普通の人としてたどる」のだと念を押しています。ここの普通の人の「おそれ」

とは、まさにフロイトが引き立てた文化における「不満」malaise、すなわち、

超自我の要求がますにまして、人に与える苦しみですね。が故に、超自我という のは、「享楽」の命令形であるという命題がラカンによってその後呈されます。

そこで、最後になりますが、「汝は汝の欲望にしたがって行動したか」や「己 の欲望に対して譲歩してはならない」といった表現をめぐる問題があります。共 同体における超自我の論理に吸収されないためには、こうした命題は命令形であ ってはならないという、それこそ「倫理のパラドックス」がそこで働くわけです が、ラカンが提案する言い回しは極めて慎重です。「罪があるといいうる唯一の こととは、少なくとも分析的見地からすると、自らの欲望に関して譲歩したこと だ、という命題を私は提出します」と言っています。また、英雄の定義とは、裏 切られてもひるまない者であるといって、普通の人間の場合、常に生じる裏切り は善(財)の奉仕へと彼を決定的に投げ返すとも言っています。そして、こうし た己の欲望との関係は、シニフィアン連鎖において、メトニミーとして働く欲望 が顕わす主体の欠如と、不在としての大他者のシニフィアン、その間に拡がる地 帯で、常に「計算」され、必ず「つけ」として跳ね返ってくる、回帰するという ことを、欲望の還元不能性として、また「解釈」における分析家の欲望のありか たとして、問い続けることが精神分析の理論と体験の倫理であると、このセミネ ールは訴えつづけています。ありがとうございました。

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参照

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