• 検索結果がありません。

馮夢龍と倭寇物語(上)―『双雄記』を中心に― Wako Tales of Feng Menglong(1) ― Focusing on Wako Drama Shuang xiong ji ―

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "馮夢龍と倭寇物語(上)―『双雄記』を中心に― Wako Tales of Feng Menglong(1) ― Focusing on Wako Drama Shuang xiong ji ―"

Copied!
13
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要 第52号 2021年12月 抜刷 Journal of Humanities and Social Sciences

Okayama University Vol. 52 2021

Wako Tales of Feng Menglong(1)

― Focusing on Wako Drama Shuang xiong ji ―

遊 佐   徹 YUSA, Toru

(2)

馮夢龍と倭寇物語(上)

―『双雄記』を中心に―

Wako Tales of Feng Menglong(1)

―Focusing on Wako Drama Shuang xiong ji ―

遊 佐   徹 YUSA,Toru

目次

1、はじめに 2、馮夢龍への注目 3、倭寇戯曲『双雄記』

4、『双雄記』第三折の分析 5、小結

1、はじめに

 従来は明代史、日本中世史、日明/日朝交渉史、社会経済史、そして軍事史、海運史、船舶史の 領域で、近年にはさらには海域アジア史の学際的範疇において研究されてきた倭寇を中国の文学 の世界において問い返し、中国人、中国社会(そして日本人、日本社会)と倭寇の関係に新たな光 を当てることを目的として取り組み始めたのが私の「倭寇小説の研究」、「倭寇戯曲の研究」であっ た。上述の諸研究が、倭寇の実態とそれに関する事実の解明、またその原因と影響の探究を中心テー マとしているのに対し、文学からアプローチする場合に解明の対象となるのは「倭寇」像、すなわ ちイメージとして人々や社会に共有され受け継がれてきた倭寇ということになる。そうした倭寇は、

あるいは邪馬台国を根城にし、あるいは関白秀吉に率いられ襲来する、という具合に史実と虚構の 間を自由に往還しながら独特の存在感を発揮し続け、明代以降の中国における日本と日本人のイ メージの形成と継承にも一定規模の役割を果たすことになったのだった。

 このイメージとしての倭寇の広がりの実際について最も判り易い指標のひとつとなるのが「倭寇 小説」、「倭寇戯曲」の作品数であろう。私のこれまでの研究によれば、明代および続く清代におい て前者に関しては現存作品9編を、後者に関しては失われた作品も含め39編を数えることができる のである。中国の沿海部居民と王朝に多大のダメージをもたらし、恐怖と怨嗟の的となった倭寇は、

その一方で通俗文学の世界にあっては豊かな題材の供給源となっていたのである。

(3)

2、馮夢龍への注目

 以上のように中国の通俗文学は小説でも戯曲でも数多く倭寇を題材としてきた歴史を持つが、そ の歴史上唯一双方に渡って筆を振るった人物が存在した。それは世に『三言』と総称される短編白 話小説集の編者として中国文学史上に燦然とその名を輝かす明末の文人、文学者の馮夢龍である。

後述するように馮夢龍は倭寇小説においては『三言』のひとつ『喩世明言』(原名は『古今小説』)

のなかに「楊八老越国奇逢」(第十八巻)を、そして倭寇戯曲としては『双雄記』を残しているの である。また、馮夢龍は、その生涯において白話小説、戯曲に加え文言小説や民間歌謡にまで文学 の活動範囲を広げ、さらには経学や史志にも著述を残しているが、それらのなかにおいても倭寇に 関わる記述を見出すことができるという点で特記すべき存在感を誇っているのである。これも「倭 寇小説の研究」、「倭寇戯曲の研究」において馮夢龍が注目に値するもうひとつの理由である。以下、

それらの実際を確認することにしよう。なおその確認の順序はおおむね彼の履歴に沿ったものにな ることだろう。

3、倭寇戯曲『双雄記』

 戯曲(劇種としては伝奇である)の創作、改訂は多彩な馮夢龍の文筆活動のなかでも数量的な面、

そして馮個人の履歴の面において重要な位置を占めるものと見なされている。数量的には彼が関 わりをもった作品は19編を数え、またその関わり方も少壮期から晩年に及ぶというものであっ た。しかもこれから取り上げる『双雄記』は前記19編のうち2編しかない創作作品の一方であり、

しかもそれは彼が本格的に文筆活動を開始した最も初期の作品であるという特徴を有するもので ある。

 従来の研究によれば、『双雄記』二巻三十六折はその別名『善悪図』がよく示している通り「勧 善警俗、闡揚風俗」を旨とした「倫理教化劇」に分類され、またその物語には背景となる一定規 模の事実が存在した、という。まずはそうした点を確認するために物語のあらすじをたどること にしよう

 『双雄記』あらすじ

  明代のこと。蘇州呉県の東山のひと丹信、字は重之は、劉双、字は子寿を良き友としていた。あ る日ふたりが白馬廟において龍神に祈りを奉げたところ、道士と化した龍神からふた振りの宝剣 を与えられ、加えてやがてふたりに災厄が降りかかるであろうことを告げられる。そこで県城内 に住まう義侠心に厚い劉双の族叔の方正を頼りふたりして方正宅に難を避けることにする。その 頃、すでに中国で略奪を繰り返していた倭寇は、大々的な中国征服を企て出兵の準備に入ろうと していた。信の叔父の有我、別号を三木員外は、人性酷薄な人物で、信が家産の分与を要求する ことを恐れ、先んじて一家を挙げての杭州への転居を思い立つ。その妻は夫の態度を再三諌めて

(4)

いたものの三木は聞く耳を持たず、そのことを気に病んだ妻は結局身罷る。三木は信を妻の死の 原因と逆恨みし、信を死地に送ることを誓う。そこでやくざ者の留幇興と策を練り、信が伯母を 驚殺せしめたと官に誣告するとともに、他方で欽差給事の賈愛民に賄賂を贈り、遂に信の下獄に 成功する。信の妻、魏氏は真相を探るため方正とともに杭州に向うが、三木は双をも誣告し無実 の罪を着せて入獄させる。その一方で留幇興は杭州の役所に訴え出ようとしていた魏氏を騙し、

船路の途中で故意に船を転覆させ彼女の溺死を目論むが、幸いにも魏氏は龍神の救助を得、しば らく水府に隠れ住むこととなる。時に倭寇の侵入が報じられ、杭厳道備兵使者の太史恵は触書を もって、冤罪を訴える罪冤に冤功冤罪の冤冤を冤える冤冤告を冤する。それを冤った方正が信と 双のために申し冤てるとふたりは出獄を許され、龍神の宝剣を手に従軍する。双の入獄前のこと、

彼は蘇州の妓女、黄素嬢と昵懇となり将来を誓い合う仲となっていたが、蘇州に戻った三木が素 嬢の名を耳にして慕い、我がものとしようと迫る。その危冤を三木を酔い潰して脱した素嬢は男 装して遁走する。同じ頃水府に匿われていた魏氏も男装し陸上に送り届けられていたため、ふた りは道連れとなり、さらに旅店で偶然にも方正に出冤ったことで共に山陰に赴き世を避けて暮ら すことにする。ここにおいて龍神は諸冤の正邪善悪を玉帝に奏上し、留を雷撃にて調伏、三木に 対してはその家産を焼毀せしめ、病に伏す方正には霊薬を冤えて救い応報の理を示す。従軍した 信と双は正千戸の職を授けられ督師進撃、遂に倭寇の巣窟を叩くに及んで官は征東将軍に至り、

凱旋奏功を果たす。それを見届けた龍神は仙童を遣わし宝剣を回収したのだった。故郷に錦を飾っ た信と双はついで山陰を訪れ二女子とめでたく団円する。その後のこと。街なかで物乞いをして いた三木は栄達を果たした信の姿を目にして深く恥じ入り 階きざはしに頭を打ちつけ自死した。

 以上のあらすじからも容易に読み取れるように、『双雄記』は善玉と悪玉を截然と分けなし、神 霊の加護を受けた善玉は苦難を乗り越え奮闘努力の末衣錦還郷、一家団円を果たす一方、悪玉は家 産を失い、身を滅ぼすという典型的な勧善懲悪のストーリー展開を持つ作品である。また、同時代 冤の証言や馮夢龍自身の言葉によれば、主冤公の丹信とその叔父。三木員外との間に生じた骨肉の 争いは万暦二十八、九年に起こった実際の出来事に由来するものといい10、またもうひとりの主冤 公の劉双のラブロマンスについても馮の親友の劉某の経験が写し取られているという11

4、『双雄記』第三折の分析

 それではこうした物語上の特徴を持つ『双雄記』への倭寇の関わり方を確認することにしよう。

倭寇は開巻早々時代背景のひとつとして姿を現わす(第三折、倭奴犯属)が、やがて主冤公の名誉 回復の冤冤提供(第二十三折、劉翁弁枉)と冤身出世を可能とする舞台装置として冤能する(第二 十四折、兄弟従軍、第二十五折、偏師搗穴、第二十六折、双雄奏凱)のでそれが勧善懲悪のストー リーを支える極めて重要なサイドモチーフとして選択されたものであったことが想像できる。ただ

(5)

しその倭寇との戦いについては従来の研究において特定の侵犯の事実を指摘するものはなく、また ストーリー展開上そのようなリアリティーを追求する必然性は確かに作者馮夢龍にもなかったこと だろう。とはいえ創作に当たっての作者による倭寇への注目の理由を明末の時代性や抗倭で名を揚 げた文人、徐渭への憧れといった間接的要因にのみ帰してしまう12には些か躊躇を憶える。それは 彼の倭寇の描写がなかなか情報量豊富なものであり、その分析を通して初めて『双雄記』への倭寇 の関わり方の実像を解明できると考えるからである。

 次に、『双雄記』における倭寇描写について原文で引いたうえで分析を加えることにしよう。

 物語において倭寇が初めて登場する第三折、倭奴犯属は、以下のように中国侵略を企てる倭将が 曲うた

と白せりふの両方で日本の地勢、政体と侵略の能力・理由を述べたてる形で展開する。(なお引用に当たっ ては、ト書き部分は〔 〕内に、曲調・曲牌は【 】内に、曲うたは[ ]内に示した。その他の部分 は白せりふである)。

第三折 倭奴犯属

〔丑扮倭将上〕

【北双調・清江引】[A琵琶地勢B三千里、C西首東為尾。山城海作池、国富兵尤鋭、直搶到錦中華 方是喜。]你看喒日本好雄壮也。但見D隔海為城、依山開土。E旧居日向筑紫、今遷羊馬失羅。F東 高西下、管轄著G筑前筑後、豊前豊後、肥前肥後、越前越後、備前備後。水的水、陸的陸、錯錯落 落、殷殷庶庶的H五百余州。皇尊吏卑、排列著I大仁小仁、大義小義、大礼小礼、大智小智、大信 小信、文的文、武的武、世世家家、冠冠冕冕的十有二等。設界奠皇都、J南界至琉璃国、北界至月 氐国、東南界至毛人国、西北界至朝鮮国。……

K因風分寇路、北風入広東等、東風入福建等、東北風入温州等、東南風入淮陽等。那残残疾疾、老 老幼幼、怎当俺刀是刀、箭是箭、銃是銃、兇兇狠狠的将勇兵良。俺擺的陣、是L蝴蝶陣、M長蛇陣、

N雞鳴而食、O金扇一揮風雨至。俺使的刀、是那先導刀、大制刀、P魚貫分行、Q海螺数響鬼神愁。

R自漢将滅高麗、始通海貢、迨宋運移胡虜、養就天驕。雖曾納款中朝、時懐勧望。也曾大利望海、

尋肆剽攻。可奈朝鮮国王、世服中朝、毎毎失礼俺国。俺待起六十二島之衆、掃蕩王京、直入中原、

是吾願也。頭目們那有。

【其二】[多奴、未納、恝打俚、法古、法古計、其奴瞎咀郎、快都河河水、客打乃、弾俄皮外、耶裏。]

【其三】[挨里番助、山山水、所個尼、坡水水、明哥多那革答、烏礼加高高的、何南蛾、何何水、

於牌水。]

 この部分に盛り込まれた日本と倭寇に関する情報はかなりのボリュームに上るが、それはそのま ま『双雄記』執筆時の馮夢龍の日本と倭寇に対する知識量の指標として理解することができよう。

そこで問題となるのが、彼がどのようにそうした知識を獲得することになったのかという点である。

(6)

実はその点に対する答えを見付けるのはそれほど難しい作業ではない。なぜなら引用した記述に関 しては明らかな材源の存在を指摘することができるからである。それは倭寇の頻繁な侵入に伴って 明、嘉靖年間以降急速な高まりを見せることになった日本研究の産物である日本情報書である。馮 夢龍は当該部分を書くに当たって明らかにそれらのなかのいくつかを参照していたのである。具体 的に示すと、いわゆる後期倭寇が猖獗を極めた嘉靖年間の終わりに鄭若曾によって著わされた『日 本図纂』(嘉靖四十年[1561年]序刊本)、もしくは鄭によるその拡充版の『籌海図編』(嘉靖四十 一年[1562年]序刊本。『日本図纂』は『籌海図編』の一部となった)と万暦二十年(1592年)に 李言恭と郝杰によってまとめられた『日本考』である。

 それでは前引の第三折の原文に伏したアルファベット付き下線を目印にする形で馮による両書の 参照の実際を検証してみることにしよう。

 「日本国論」

  日本即古倭国也。去中土甚遠、D隔大海依山島為国邑。隋書記在百済新羅東南水陸B三千里、地 勢F東高西下。其国君以王為姓、以尊為号、後改称皇。E初居日向筑紫宮、後徙山城国。文武僚 吏皆世其官、有I徳仁義礼智信大小十二等及軍尼伊翼諸名。R漢武帝滅朝鮮、使訳始通、自後歴 代貢献不常、宋末職貢不入。元世祖屡遣使諭之無功、討以舟師弗克、致溺十万衆於五龍山。終元 之世強梗弗順。

 「日本紀略」

  日本溟渤之東、其A地形類琵琶、東西数千里、南北数百里、C九州居西為首〔G肥前、肥後、豊前、

豊後、筑前、筑後、日向、大隅、薩摩〕、陸嶴居東為尾。※〔 〕内は割注部分

  若其入寇則随風所之、東北風猛則由薩摩或由五島至大小琉球而視風之変遷、K北多則犯広東、東 多則犯福建、若正東風猛則必由五島歴天堂、官渡水而視風之変遷、東北多則至島沙門分䑸或過韭 山海閘門而犯温州、或由舟山之南而犯定海、犯象山、奉化、犯昌国、犯台州……若在大洋而風歘、

東南也則犯淮陽、犯登莱。……

H 畿内部……右共統五十三郡、

 畿外部   道七

 東海道……右共統一百一十六郡  西海道……右共統九十三郡  南海道……右共統四十八郡  北陸道……右共統三十郡  東山道……右共統一百一十二郡

(7)

 山陽道……右共統六十九郡  山陰道……右共統五十二郡  海曲部……右各統二郡

 両書を比較して見ると、下線部A~IそしてKとRは、馮夢龍が『日本図纂』(もしくはそれをそ のまま収録した『籌海図編』巻二下)の日本概説部分に当たる「日本国論」と「日本紀略」のなか から――しかもほぼそれぞれの冒頭部から――適宜文章や単語を選び出し、それに多少の脚色や変 更を加えつつ編集して作った文章であることが判る。

 それぞれに対して必要なコメントを付しておくことにする。

 Aの「琵琶」は日本の地形的特徴を形容する以外にも、中国では湾曲した形状の比喩として用い られてきた。

 B、「日本紀略」には「東西数千里、南北数百里」とあり、こちらの方が数字による地理的特性 としてふさわしい記述と思われるが、曲うたの構成に都合がよい百済、新羅から日本までの距離を示し た数字の方を採ったのであろう。

 C、後掲の日本情報書『日本考』(万暦二十年[1592年]刊)にもその「倭国事略」のなかに同 一の条を見付けることができる一方、該書ではそれに対して「旧云、陸嶴為頭、薩摩大隅為尾者、非。」

という注を付している。「旧云」の典拠は不明であるが、中国では日本の地勢的特徴に一種の秩序 を与えて理解しようとしていたこと、そしてその解釈に揺れがあったことが判る。

 Dは有名な『魏志』「東夷伝・倭人」の「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。」を踏襲する 記述である。

 Eはいわゆる「神武東征」神話に基づく記述である。『宋史』「外国伝・日本国」には「凡二十三世、

並都於筑紫日向宮。彦瀲第四子神武天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮、即位元年甲寅、当周僖王時 也。」とある。「羊馬失羅」は「山城」の日本の読みの漢字による表記で『日本図纂』(『籌海図編』)

中の「寄語島名」欄に載る漢字対音を借用したと思われる(「寄語」とは「訳語」の意味である。

一般的に日本寄語資料は、漢語語彙を提示したうえでそれに相当する日本語をその発音の漢字対音 によって示す体裁で構成されている。例えば「雨」に対して「挨迷」[アメの漢字対音]を充てる ように漢語語彙の日本語発音に注目した語彙資料集が日本寄語であるといえる。ただし、「寄語島名」

の場合は、日本において漢字を用いて表記されている地名を提示したうえでその発音を漢字の対音 形式で表記する体裁となっている。馮夢龍は本作品において日本の地名を引く時「日向」、「筑紫」

……のように普通は日本の漢字地名表記をそのまま使用しているので、「山城」を「羊馬失羅」と 表記したのは異質な処理であったといえるのだが、「山やましろ」が漢語の普通名詞の「山城=山地にあ る都市」と紛らわしいと考え、敢えて「寄語」が載せる発音表記を用いたのかも知れない。

(8)

 F、日本の地勢を「東高西下」と称するのは『隋書』「東夷伝・倭国」に始まり歴代継承された ものである。

 G、「肥前肥後、豊前豊後、筑前筑後」までは「日本紀略」の割注部分と重なるが、その後に続 く「越前越後、備前備後」は「日本紀略」の他所から「○前、○後」でセットになる地名を探して きて加えたのだろう。

 H、一般的に数字を用いた日本の規模を示す表現は奈良時代以来の「令制国」に基づく「五畿七 道六十4 4余州」であるが、馮夢龍は「五畿七道」が統括する「郡」数を積算して「五百4 4余州」という 数字を見出したと思われる。

 Iは推古天皇十一年(603年)に制定された「冠位十二階制」についての紹介である。中国がこの 制度に始めて言及したのは『隋書』「東夷伝・倭国」の「内官有十二等、一曰大徳、次小徳、次大仁、

次小仁、次大義、次小義、次大礼、次小礼、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定数。」である。

 K、倭寇の来寇経路は、『日本図纂』(『籌海図編』)に限らず類書における最も関心の高いテーマ であるためそれらにおける記述は詳細を極めるが、馮夢龍はそれを大胆に編集している。また次稿 で改めて分析する「楊八老越国奇逢」においてもこの記述がそのまま活かされていることは注目に 値する。

 R、「日本国論」ではこの条はその後の明代における日本の入寇とそれに対する海防の必要性へ とつながってゆくが、『双雄記』では日本側が入寇を目論んだ理由、目的が語られている。

 以上の比較検討からだけでも『双雄記』の倭寇に関する記述がその多くを『日本図纂』(『籌海図 編』)に拠っていたことは明白である。加えて残りのJおよびL~Qについても同様に『日本図纂』(『籌 海図編』)の他の部分に根拠となる記述を見付けることができる。

 J、『日本図纂』は目次後に4葉に渡って「日本国図」を載せている。それは令制国を俵型、繭型 の形状で並べるいわゆる行基式地図の体裁で日本全図を描くとともに、疆域外の世界を地図の周辺 部に文字情報の形で書き記したものである。馮夢龍はその文字情報6種類、すなわち「東北至毛人 国界、北至月氐国界、西北至朝鮮国界、東南至東女国界、南至大琉球界、西南至福建界」から4種 類を選び出し地理的な日本と異境との関係を書き記した(ただし、琉球を琉璃に書き誤っている)。

ところで、このうち「朝鮮国」と「大琉球」(現在の沖縄を指す)は理解可能であるが、「毛人国」

と「月氐国」はどこの国なのだろうか。「毛人国」は「蝦夷」のこととされ、『宋書』「夷蛮伝・倭国」

にすでに「毛人五十五国」という記述が見えているし、宋代以降の中国の地図にもその名称は頻出 する。一方の「月氐国」は空想上の国である。研究者によれば、この「月氐国」とは日本中世の日 本地図に現われ江戸初期まで継承され続けたふたつの想像上の海外地域、「羅刹国」と「雁道」の 後者の中国製日本地図における呼称だという(「羅刹国」は中国では「東女国」に変化する)13。  L~Qは倭寇の戦術を記した「寇術」に基づく記述を見出すことができる。

(9)

 「寇術」

  倭寇慣為L 蝴蝶陣、O 臨陣以揮扇為号、一人揮扇衆皆舞刀而起、向空揮霍、我兵倉皇仰首則従下 砍来。

 又為M 長蛇陣、前耀百脚旗、P 以次魚貫而行。最強為鋒、最強為殿、中皆勇怯相参。

  N 賊毎日鷄鳴起、蟠地会食、食畢倭酋拠高坐、衆皆聴令、挟冊展視、今日劫某処、某為長、某為隊、

隊不過三十人、毎隊相去一二里、Q 吹海螺為号、相聞即合救援。……。

 これらに対しても必要なコメントを付すことにする。

 L、M、「蝴蝶陣」と「長蛇陣」は倭寇が得意とする陸上戦の陣法である。それぞれに続く記述 はその具体的な戦闘手法であるとともに名称の由来の説明ともなっている。すなわち「蝴蝶陣」は 戦闘に際してひとりが扇を揮って合図すると伏兵が刀を抜いて立ち上がり一斉に空に向ってそれを 振り回しながら包囲戦を仕掛ける戦法――伏兵があちこちで突然立ち上がる様、もしくは包囲戦を 仕掛ける伏兵の配置を「蝴蝶」になぞらえたという14――で、中国の官兵はその様に気を取られ上 を仰ぎ見ているうちに下方から斬られてしまうことになる。また「長蛇陣」は百足をデザインした 旗を先頭に倭寇が一列に連なって行軍する陣法であるが、その際、最強者を先頭と 殿しんがりに配置し、

間に戦闘力の劣る者も交えながら頭が討たれれば尾が応じ、尾が討たれれば頭が応じるという臨機 応変の戦法である。従って、L「蝴蝶陣」とO「金扇一揮風雨至」およびM「長蛇陣」とP「魚貫 徹分行」は一体の表現でなければならないはずなのであるが、馮夢龍は『双雄記』でそれらをバラ バラに配置してしまったことになる。

 Qの「海螺」は法螺貝のことで、倭寇が集団戦闘行動の際法螺貝の音を合図にしていたことは明 代末期に描かれたと推定される極めて有名な倭寇図像資料『倭寇図巻』(東京大学史料編纂所蔵)

にも描かれている。

 さて、これまで馮夢龍が『双雄記』第三折の倭寇に関する記述をどのような資料に基づいて書き 進めたのかについて検討を重ねてきたが、まだ折の最後を飾るふたつの曲うたの分析が残っている。そ の作業に取り掛かる前に改めてそれを提示する(断句は底本に従う)と、

【其二】[多奴、未納、恝打俚、法古、法古計、其奴瞎咀郎、快都河河水、客打乃、弾俄皮外、耶裏。]

【其三】[ 挨里番助、山山水、所個尼、坡水水、明哥多那革答、烏礼加高高的、何南蛾、何何水、

於牌水。]

の第三折の最初の曲うたと同一の曲調、曲牌で歌われるこの2曲が対象となるのだが、目を這わせてみ

(10)

ても意味を理解する手掛かりの全くない呪文のような文字の羅列という印象しか浮かばないことだ ろう。この「呪文」は果たして解読可能な代物なのであろうか。

 実は私はこの「呪文」のなかの一部を他書で見掛けたことがある。それは、かつて「倭寇小説」

を研究していた際に読んだ明末の陸人龍の短編白話小説集『型世言』(崇禎年間刊)の第七回「胡 総制巧用華棣卿、王翠翹死報徐明山」内で倭寇が放ったせりふ「依也其奴瞎咀郎」においてであっ た。下線部はまさに上掲の【其二】の中盤部分の文字列と完全に一致していることが判るであろう。

その『型世言』の倭寇のせりふについては、研究のなかで、それが先に取り上げた「山城」=「羊 馬失羅」と同様日本語語彙の発音を漢字対音で示した「寄語」であり、複数の「寄語」資料を利用 することで陸人龍が倭寇に日本語で「殺してはいけない」と叫ばせる創作上の工夫であった(実際 は、陸人龍は文法的に大きな誤解を犯していたのでその意図は失敗に終わったのであるが)ことを 論証した15こともあって、馮夢龍も同様の手法を用いたのだろうとすぐさま推測できたのであった。

 こうして、『双雄記』の「呪文」を解読する見通しは容易に立ったのであるが、次に問題になっ たのは、解読に当たってどの「寄語」資料を利用すべきなのかという点であった。というのは、馮 が『双雄記』執筆時に頼った『日本図纂』(『籌海図編』)が収録する「寄語」資料ではすべてを解 読することはできなかったからである。しかし、この難点は今回定本として使用した崇禎刊墨憨斎 刻本の眉批が重要な手掛かりを与えてくれていたことでたちまち解消することになった。眉批は「呪 文」が『日本考』を出典として組み立てられていることを個々の「寄語」と漢語を対照する形で示 してくれていたのである。『日本考』が収録する「寄語」は同類の日本情報書のなかでも多く、ま た網羅的であり、『日本図纂』(『籌海図編』)のそれに比べ、馮にとっては遥かに使い勝手がよかっ たのだろうと考えられる。

 それでは、『日本考』第四巻「語言」を利用して、懸案の2曲を解読してみよう。解読の形式は、

始めに解読対象の「寄語」を示し、それに続けて推定される日本語発音、対応する漢語語彙、そし てその『日本考』「語言」上での分類項目を《 》内に示した。またさらに説明が必要な場合は( ) 内に記した。なお、解読に当たっては、渡邊三男『訳注日本考』(大東出版社、1933年、東京)お よび汪向栄、厳大中校注『中外交通史籍叢刊 日本考』(中華書局、1983年、北京)所収の訓釈成 果も利用した。また、大木康氏も渡邊三男『訳注日本考』に拠って解読を試みている(『明末のは ぐれ知識人 馮夢龍と蘇州文化』[講談社選書メチエ、1995年、東京])。

【其二】

多奴   :トヌ(ノ)、老爹、《君臣》

       (汪向栄、厳大中は「爹」は「爺」であるべきという。『日本考』の「寄語」では「多 奴」は称謂としての「老爹」と人を呼ぶ[人に呼びかける]行為の「叫人」の2ヶ所 に現われる。眉批は後者とするが、「多奴」を「殿」のことと考えれば日本語的には

(11)

どちらもあり得る。曲うたの意味の解釈[後述]にとっては「老爹(爺)」の方が相応しい。

眉批作成の際に混乱が生じたのであろう)

未納恝打俚:モノガタリ、説話、《人事類》

法古   :ハコ、走、《人事類》

法古計  :ハコケ、快去、《人事類》

其奴瞎咀郎:キルシアタロ、殺、《人事類》

       (かつて『型世言』で読解を試みた際にも記したように、この「寄語」は読みにくい。

他の「寄語」資料によれば「キル」と「ハタス」のふたつ――どちらも「殺」の意―

―に分けて読むことも可能である)

快都河河水:カズオオシ、多、《人事類》

客打乃  :カタナ、腰刀、《武具》

弾俄皮外 :ダンゴビヤ、鳥銃、《武具》

       (「外」は「也」の誤記と思われる。眉批は「外」を「助語」とするが採らない。なお

「弾俄」[ダンゴ]は弾丸の意である)

耶裏   :ヤリ、戈鎗、《武具》

       (「裏」は『日本考』では「里」、また『日本考』の漢字対音は革脈耶里[カマヤリ]

である)

【其三】

挨里   :アレ、他、《人事類》

番助山山水:ハズサシシ、羞愧、《人事類》

所個尼  :ソコニ、這里

       (この日本語は巻四「語言」には収録されていないが、巻三の「歌謡」と題された「和 歌」を多数収録し、その漢字対音化による音読法と意味を記した資料集のなかに見付 け出すことができる)

坡水水  :ホシシ、要、《人事類》

明哥多  :ミゴト、極好、《人事類》

那革答  :ヤカタ、大将軍、《君臣》

烏礼加  :ウリカイ、買売、《人事類》

高高的  :ココチ、好、《人事類》

      (高高的姚鎖盧:ココチヨサルの一部分)

何南蛾  :オナゴ、婦人、《人物》

何何水  :オオシ、多有、《人事類》

(12)

於牌水  :カンバシ、香、《人事類》

       (「於」は「干」の誤り。原文の「干」を「于」と取り違え、さらにそれを同義同音の

「於」に書き成したことによる)

 以上の作業結果に基づき『双雄記』第三折の日本語の曲うたを中国語に「翻訳」すれば、【其二】は「老 爺説話走快去殺多腰刀鳥銃戈鎗。」と【其三】は「他羞愧這里要極好大将軍買売好婦人多有香。」と なる。もちろん中国文としては全く体をなしていないのだが、倭将が【其二】「俺様は命じるぞ。とっ とと行って奴等を山ほど殺してこい。さあ刀だ銃だ鎌槍だ。」と配下をけしかけ、一方【其三】「こ ちらにゃ凄い大将がいて極上の美人をさらってゆくのを奴等は恥じることだろう。」とすでに勝利 の美酒に酔ったのかのような大言壮語を吐いた内容であることは十分理解できるレベルといえる。

馮夢龍が倭寇に歌わせた曲うたは決してでたらめに「寄語」の日本語語彙を並べたものではなかったの である。

5、小結

 『双雄記』では、第4節の冒頭に示した通り、第三折以外にも倭寇が登場するシーンがある16が、

それらはほぼ状況説明のなかで倭寇が取り上げられるに過ぎず、丹信、劉双による倭寇征討が成功 する(すなわち両名の立功贖罪がかなう)第三十二折、双雄奏凱においても倭寇そのものと倭寇の 行動については新しい情報は盛り込まれず、予定調和的に戦いが決着することになる。『双雄記』

において倭寇の形象を創造する馮夢龍の努力は作品の冒頭部に大きく注がれた訳であるが、その際 の努力は複数の日本情報書を使用し、また曲うたを「日本語」で織り成すなどかなり意欲的なものであっ たことが判った。

 馮夢龍がそうした努力およびそれによって得た知見を『双雄記』以降の彼の倭寇認識、倭寇物語 にどのように活かしていったのかについてついては次稿で論じることにする。

1 .従来の倭寇研究の状況、概要については、田中健夫『倭寇』(教育社、1982年、東京)参考文献、桃木至朗 編『海域アジア史研究入門』(岩波書店、2008年、東京)第Ⅱ部、第9章、倭寇論のゆくえ、その他を参考にし た。

2 .「倭寇小説の研究」としては、「明清「倭寇小説」考(1)」(『岡山大学文学部紀要』第23号、1995年)、「明清

「倭寇小説」考(2)――『戚南塘勦平倭寇志伝』について」(『岡山大学文学部紀要』第33号、2000年)、「小説 に描かれた倭寇――明清「倭寇小説」概論」(『「倭寇図巻」、「抗倭図巻」を読む』[勉誠出版、2016年、東京]

所収)が、「倭寇戯曲の研究」としては、「明清「倭寇戯曲」目録(初稿)」(『中国文史論叢』第15号、2019年)、

「倭寇戯曲作品あらすじ:明清古典戯曲版」(『岡山大学大学院社会文化科学研究科文化共生学研究』18号、

2019年)、「倭寇戯曲『蟾宮操』について」(『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』第50号、2020年)、「明 清「倭寇戯曲」目録(補)およびあらすじ」(『岡山大学大学院社会文化科学研究科文化共生学研究』第20号、

2021年)がある。

(13)

3 .根ヶ山徹「馮夢龍『墨憨斎重定三会親風流夢伝奇』における『牡丹亭還魂記』の変改」(『日本中国学会報』

第52集、2000年)。

4.注2に同じ。

5 .徐朔方『晩明曲家年譜・馮夢龍年譜』(『徐朔方集』[浙江古籍出版社、1993年、杭州]第2巻)参照。

6 .後年、王驥徳『曲律』に馮が寄せた序に「余早歳、曾以双雄戯筆、售知於詞隠先生。」とある。研究者はそ の時の馮の年齢を26、7歳から35歳の間に想定している。

7.郭慶財「馮夢龍伝奇的双線平行叙事」(『中国戯曲学院学報』2011年第3期)。

8.聶付生「《双雄記》、《万事足》創作論略」(『湘潭大学社会科学学報』2000年第2期)。

9.以下、『双雄記』を論じる際の底本としては、『古本戯曲叢刊二集』所収の明崇禎刊本を使用した。

10 .『曲海総目提要』巻九に引く「双雄記伝奇総評」(馮夢龍自身の手になるともいわれる)に「世俗骨肉参商、

多因財起。丹三木之事、万暦庚子辛丑間実有之事。是記感憤而作。雖云傷時、亦足以警俗。」とある。

11.葉明生「試析馮夢龍与《双雄記》」(『戯曲芸術』1987年第3期)。

12.注10に同じ。

13 .秋岡武次郎 『日本地図史』(河出書房、1955年、東京)第1編、第1章、第3節、3、羅刹国と雁道、青山宏夫「雁 道考――その日本地図における意義を中心にして――」(『人文地理』1992年第5号)。

14 .注1田中健夫『倭寇』5、十六世紀の倭寇の活動と特質、王永勝「袈裟斬、蝴蝶陣与鴛鴦陣」(『書城』2018年 第4号)。

15.注2遊佐「明清「倭寇小説」考(1)」、「小説に描かれた倭寇――明清「倭寇小説」概論」。

16.それらの概略を以下に示す。

 【第二十三折】劉翁弁枉  〔老旦扮官、雑随上〕

  目下倭夷叛乱、各処召募東征、我想用人之際、豈可限於一途……。

 【第二十四折】兄弟従軍  〔二生軍装帯剣上〕

 【(闘黒麻)其二】〔二生〕仗自己生平、朝廷洪福、不滅尽倭奴、誓不反轂。

 【第三十一折】偏師搗穴  〔小生戎服引衆上〕

  ……小将征東副将劉双是也。勇号冠軍、謀能料敵。……三年之中、我哥哥丹重之掛征東大将軍将印、小将除 授今職……昨日在哥哥帳中会議、部署已定、小将欲独領一軍、直搗巣穴、遏其帰路、絶其救援、倭酋不日授 首矣。不免激厲将士一番、叫衆将官。〔衆応介〕〔小生〕我受朝廷大恩、当以死報国、即今欲直搗倭巣、進則 有生、退則有死、成則封妻蔭子、敗則粉骨砕身。你們願随我去者左袒、不願者右袒。〔衆左袒介〕皆願随将軍。

……〔小生〕既如此、即日整備水陸船馬、抜寨前去。〔浄〕得令。〔衆掌号作行介〕

 【第三十二折】双雄奏凱  〔生領衆上〕

 〔衆応下、丑領倭卒下〕

  【(中呂・紅繡鞋)其二】倭奴狡猾多端、多端、要将地換天搬、天搬。蝴蝶陣、擺団欒、刀銃手、一斉攢。若還 殺敗忙逃竄、若還殺敗忙逃竄。〔生衆接上如常問介〕你東海波囚、幸天朝不忍殄滅、苟延残喘足矣。何故反来 侮我属国〔丑随意答介、戦介〕〔老旦、二浄扮各国兵輪戦、丑敗走介〕〔小生接上〕、你好不如死活。巣穴已 破、還不早降。〔戦縛丑介〕〔丑〕不要殺、不要殺、放我帰去、願奉朝貢。〔二生〕奉命討罪、権不自専、檻送 京師、候旨発落便了。〔衆応介〕〔生〕伝令各国兵将、悉還本処、待露布入朝、自有褒労。

 〔付記〕本稿は、2021年度科学研究費補助金・基盤研究(C)・研究課題「倭寇小説、倭寇戯曲の研 究」(課題番号18K00354)の研究成果の一部である。

参照

関連したドキュメント

高血糖による活性酸素種(ROS)産生の亢進は糖尿病性腎症の発症・進展に関与すること

補題14すべての推論 S\rightarrow T に対して \Vert S\Vert\geq\Vert T\Vert が成り立つ.また,Decompose 規則が適用 されている推論 S\rightarrow T に対して, \Vert S\Vert>\Vert

Tomiyo Izumi 1) , Yukiko Hashimoto 2) , Hitomi Kurogi 3) , Emiko Fujii 3) , Kazuyoshi Tukamoto 3) , Toshimi Yokomoto 3) , Tokiko Iwanaga 3) , Sumiko

によって書かれなければならなかったことは︑恥ずべきことで

その他のタイトル Certain Materials for the History of Maritime

 佐藤も 2018 年、『「神国」日本──記紀から中世、そしてナショナリズムへ──』(講談社、初刊

それに対して、高校の場合は、戦後直後から使用されていた「進出」の語が踏襲されて