近世日本海海運史に関する若干の史料とその考察
その他のタイトル Certain Materials for the History of Maritime Traffic of the Japan Sea in Modern Times
著者 横田 健一
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 11
ページ 1‑18
発行年 1979‑03‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/16070
近世
日本
海海
運史
に関
する
若千
の史
料と
その
考察
主たる目的であり︑その史料の中の注目すべき事項をとりあげる︒ ー隠岐海士村村尾家文書よりー—’
関西大学が島根大学と共間で隠岐島の綜合調査を行ったのは︑昭
和二十九年から三十二年にかけての四年問のことであった︒この時
に︑島前で︑もっとも豊宮な古文再を所蔵していたのは︑海士村の
隠岐神社宮司村尾益行氏の家であった︒
村尾家は江戸時代三百年を通じて島前の大庄屋であったから︑莫
大な古文書を蔵していたのも当然であろう︒その一部分は昭和四十
三年に刊行された調査報告の大冊﹃隠岐﹄に紹介された︒筆者は文
書の整理の時間の関係上︑私の担当の部分には︑島後釜村の佐々木
家文書と島前の美田村役場所蔵文密および笠置家文書に限られた︒
村尾家文書のうち︑小形の船に関する史料ノートは整理してあった
が︑故井上吉次郎教授が舟に関する論文を書かれるというので︑同
氏に進呈した︒同氏の論文﹁隠岐の舟考﹂所載の統計表︵三六五ー
三七
0
頁︶は私の作製したものである︒その後︑私は昭和三十四年︑四十年︑四十一年の一二回隠岐に赴き︑
村尾家文書を調査したが︑その厖大な古文書の全部を見つくすこと が出来ず︑その若干をノートに写すとともに︑菅谷文則氏と久野邦雄氏の助力を得て︑写真に撮影してもらった︒その全部の整理はできていないが︑私の最も関心を持っている日本海海運史に関するノートの一部分は︑本年三月に︑宮山大学名誉教授・高瀬煎雄博士の古稀記念論文集﹃日本海地域の歴史文化﹄に﹁隠岐を中心とした近世日本海海上交通の一考察~士村村尾家文書を巾心にーー」と題して寄稿した︒これは本年二月一日に刊行された︒この論文は枚数が四十枚に限られていたので︑寛政三年から八年まで︑六年問の短期問の十四通の文書に限定して︑とりあつかった︒それも主として千石船のような大船の海難に関して︑珍しいと思われる記事の見えるものに限った︒
今回の報告は︑前者を補うものであるが︑到底︑村尾家文書の全
貌を語り得るものではない︒前回とやや方面を異にする文書をあげ
て︑解説を加えることにした︒この報告はしたがって史料の紹介が
横
近世日本海海運史に関する若干の史料とその考察
田
健
難解難読の字や虫損の箇所は︱一の中に入れた︒句読点は皆︑私 が故意につけたもので︑これは︑多くの人に読んでもらいたいから
であ
る︒
安 永 四 年 十 一 月 の 船 主 の 規 約 一︑当嶋船手之儀古来より当地土産之薪材木間板類積出商売致来候
処︑近年者船数過分二相増︑当地荷物斗リニ而者渡世難相成候ニ 付︑大船之分者他国江乗渡︑雲伯両国之内二而米鉄干鰯連賃等読 合︑大坂井瀬戸内下関辺江積登リ遠近二随ひ運賃銭取之渡世仕候 処︑船手数艘之内二而者右之稼荷物疎略二仕候船も有之由二而地 方二而者︑当嶋数艘之船一統評判悪鋪相成申候︒ケ様年ミ船手乱 リニ相成候而者︑以来船持相立不申︑至而難敷成様候︒船手之儀 相定リ候法要も無御座︑古来之仕来二取捌候へ共︑年ミ船手我儘
ニ相成︑水主共途中二□趣候て︑順風二相成候而も船頭存寄之通
乗廻し等出来不申候︒左候而者舟商売も相成不申候間︑何卒御憐 慇を以︑船手会所御定被下候而︑毎年早春右船手会所江寄合︑前
ミより被仰付候御定法之緞者不及申︑此度一統申合之上相定候通︑
互二急固相致糾以来若相背候者も有之者︑早ミ御注進申上︑万
御下知可申と奉存候︒
一︑水主賃銭之儀︑古来より仕来も御座候得共︑近年船数も相増︑ ①船手願井諸法度定覚書
御願申上候口上之覚
水主稀二御座候二付︑最初乗組之國印虹仕居候而も︑外船より賃 銭過分を遣し︑内ミニ而屈候得共︑右一喫剪仕候︑船頭江者病気 杯と偽︑乗組不申候二付︑及当惑二無是非順風を乗留︑漸才覚仕 候程之低二御座候︒以来右鉢之儀︑船手頭取江相連︑急度相紅中 度奉存候︒依之此度船持共寄合︑水主賃銭古来之不任仕来︑少々
増越付︑道法遠近又者川湊等之難所越相紅︑増減差略仕候得共︑
古来之賃銭二過分相増候場所も有之︑又者少ミ減候所も御座候︒
則帳面二相認居申候︒是又船持共私之内談差略仕候儀二御座候へ
共︑恐多奉存候得共︑船手中合之趣︑帳面壱冊井水主貨銭差別書
登冊御覧二入申候︒
右之趣船手一統御願申上候︒︷且敷被仰上可被下候︒以上︒
安永四年未十一月
大庄屋文蔵殷 村ミ船主年寄庄屋
以上りの安永四年︵一七七五︶の史料は︑いろいろな点から問題 をふくむ典味ある文書である︒最初の部分に︑当地すなわち隠岐の
島後は土地の産物として薪・材木・板などが主たる貿易品だったが︑
近年船の数が増加し︑過当競争となった︒それで土地の物産の船荷
ばかりでは渡世できないので︑大船は出実や伯挙
1 1の米・鉄・干鰯を 大庄屋惣七殿 嶋後
近世日本海海連史に関する若干の史料とその考察
というものだ︒
゜
ニ つ ヽ'>
はこぶばかりでなく︑大坂や瀬戸内海︑下関あたりまで出かけてい
き︑運賃をかせぐようになったという︒
ところが隠岐の商船の中には客の荷物の取り扱いが疎略となり︑
評判が悪くなったので︑自戒せねばならぬという︒
その次に面白いのは水主共すなわち船員たちが︑我儘になって︑
その次の文字が不明で読めないが︑順風の時でも船頭すなわち船長
のいうことを聞かない︒すなわち今日でいうサボクージュかストラ
そこで大庄屋に対して船手会所を作りたいと願い出ているのであ
る︒船手会所とは︑船持ち︑すなわち船主たちの合議をする会館か
クラプのようなものである︒早春︑すなわち北前船が動き出す季節
の直前に︑船持ちたちが寄り合い︑いろいろなことを相談したいと
そして特に大きな問題は︑船数が増したのに︑水主が稀だという︒
すなわち船員が足らないので︑水主と契約しても外船1他の地方
の船がよい賃銀を出すと︑船頭に対し病気などと偽の申告をして︑
他船へ乗り替えてしまうので︑せっかく順風になっても︑船を動か
せないことになる︒後で﹁船中日帳﹂という航海日誌を掲出するの
で︑いかに順風が少ないか︑日和待ちの時問ー滞船の期間がいか
に長いかを︑みるならば︑順風に出帆できない口惜しさがわかろう
ここで船持ちたちが水夫の賃銀を協定しようというわけで︑これ ィキのようなことをやるというのである︒ は⑥に掲げる︒
次に掲げるのは︑同じ時に船主たちが一統に申し合わせた規約で︑
これを諸法度と称したが︑上から定められた法令ではなく︑民問で
自主的に申し合せた約束である︒
船主一統申合候事
一︑︵毎年早春往来手形御願中上候節者︑他村之者乗組候ハハ︑其村
之庄屋年寄連印二而︑船往来御手形御願可申上候︑猶又是迄被仰
渡通︑人別宗門証状取之︑願書相添差出︒
一︑︵御点検を請候節︑積荷物品ミ不洩様諏い出シ可申候事︒
一︑︵船往来御手形︑最初相願候乗組人数之内︑病気又者勝手二付︑
乗替リ候而︑是迄被仰付闘候通︑乗セ替御願祖差上可申市︒
一︑︵大坂江乗入候船之俄者︑大小二不限入津出船共︑安治川鍋屋次
兵衛方二相届可申事︒
一︑︵他国江乗渡︑何二不寄運賃租等仕リ候ハハ︑右荷物随分大切ニ
仕︑若又積荷物之内盗取候か︑又者荷物疎略仕リ候ハハ︑相顕レ
次第︑船手会所江相訴︑早春船持惣方売合之時分︑急度相糾含味
可仕
事︒
表紙
平
船主 安永度諸法 年四
月 之 書
1 6 1
一︑他国江乗渡︑地方何連の埃に而も其所御国法之趣相守︑随分船
中穏便二必以□ロロロロロ仕問鋪事︒
一︑類船又者宿二而も︑何二不寄︑賭之諸勝負仕間敷候︒若又左様
之俵仕候船中も有之候ハハ︑類船之船頭水主より吟味可申候︒無
左候而者︑浦ミ長逗留之甚二相成︑元船乗廻し之始二相成候間︑
此段相互二吟味可仕候事︒
一︑船中二而喧嘩口論仕候ハハ︑類船之者共︑右之子細聞届︑船中
被和融︑元船乗廻し之内より宿主江致相談︑後日之妨二不相成様
可仕
事︒
一︑御法度之荷物積出し候者有之候ハハ︑見付次第御注進可申上候
事 ︒
e
︒
一︑他国乗渡︑賃銭其外無拠子細を中立︑水主中致徒党︑元船乗戻リ候儀も不相成︑船頭江難俄致させ候二おゐてハ︑帰帆之上︑船
手会所江相訴︑弥ミ非分二相決候ハハ︑廻船稼共勿論︑魚漁等ニ
至迄︑船手稼一切差留
I I f
申下
︒
⑩ 一︑別帳二相認候水主賃銭之儀︑相定候通相渡シ可申候︒又内ミニ
而増賃銭等遣シ候船頭も有之︑後日二相顕レ候ハハ︑急度相紅其
品二より吟味可仕事︒
⑬ 一︑早春往来御手形御願申上候乗組之内︑正月より十月迄と限リ可
申候︒尤病気か又者無拠子細も有之候ハバ︑船頭得心之上二而乗
セ替︑御願可申上候︒若内ミ外船江契約致し︑又者魚樵等沢山有
之時分︑我儘二揚リ度旨申候水主も有之候ハハ︑其旨船手会所江 相訴可申候︒勿論勝手次第又ミ直二外船江乗組候俵︑不相成候事︒
^J 一︑水主之中病気を申立揚リ居申候而︑先船出船之後二而勝手次第
ニ□船江乗リ候儀︑堅不相成候︒口右之水主致快気候ハハ︑先船
戻リ候節相待候而︑右之船江又ミ乗組可申候︒勿論船頭得心之上
ニ候ハハ︑其品二より取斗ひ可申候弗゜
⑩ 一︑他同より往来手形等所持不仕者乗セ戻リ候儀︑急度不相成候段︑
兼被仰渡候得共︑皆ミ承知之事二候得共︑猶又申合万一乗賃過分
造し候二迷ひ︑内ミ乗セ戻リ候舟有之候ハハ︑聞付次第二其最寄
之船持共より吟味仕︑早速其所之庄屋年寄江相訴可申候︒若又隠
置候而後日二相顕レ候ハハ︑当人者不及申︑其最寄之船頭共迄御
下知を請︑船手仲問はづし可申候市︒
︐
一︑他国より当嶋江商ひに参り候者︑呼ひ往来手形所持致し候共︑壱人二おゐてハ決而乗七戻リ中問敷噴゜
但近国之者杯︑是又決而乗セ中問鋪廿︒A 一︑舟持之外二問板等買置候者有之候共︑右買置之間板︑船持之者
江買取候儀井運賃等二而積候儀︑仲間申合之上︑限相成不中候︒
万一舟持之内︑法度を相背︑隠シ買候か︑又者隠シ積候者︑其旨
船手会所江相訴︑舟商売︑差留可中ボ︒
⑬ 一︑地方或者何国二而も︑穀物又者干鰯二而も稼候而︑荷堅メ仕候
節︑船頭水主立会︑縄張封印仕リ而︑荷物売払中候場所二而︑船
頭より解不申内ハ︑乱リニ解申問鋪ポ゜到一︑水主共江不法之緞申掛ヶ候船頭も有之︑及難儀候義有之候ハハ︑
四
近世
日本
海海
運史
に関
する
若千
の史
料と
その
考察
安永四年未十一月
この文書の第1条で定められていることは︑往来手形・人別宗門
改の文書を渡海船に発行し︑印を押して証明してくれるように︑庄
屋や年寄に対して︑船主たちが願い出ていることである︒幕府は往
来手形を旅行者に必ず持たせた︒それには切支丹の禁制を厳重に徹
底するため︑本人の宗旨について明瞭に証明するように指示した︒
とくに幕府の天領・直轄領の年貢米や諸大名の年貢米・城米︑すな
わち大坂や江戸へ運ぶ米の運送船の船頭や水主の浦手形・往来手形
には︑寄港するすべての湊の代官・出役・庄屋・年寄・船宿・問屋
などの責任者の証明を要求し︑あとでこれを取り調べたのである︒
そうした船や積荷や人に対する管理は徹底していた︒
第2条は積荷の点検に関するものである︒
第3条は最初乗組んだ人数に変更したばあいの規定である︒第4
条では大坂の湊の出入の船は︑ともに安治川の鍋屋次兵衛︵おそら
く問屋か︶に︑とどけ出ることにしているのも興味がある︒第5条
庄 年 屋 寄
村M船主 嶋後 其訳相糾︑若船頭非分二おゐてハ︑早速船手会所江相訴可申候事︒⑩ 一︑毎年十一月︑十二月︑両月之内︑舟持中船手会所江寄合可申事︒右之趣︑相互二急度相守可申候︒若又申合候趣二洩候鍛出来候ハハ︑御伺申上︑得御下知可申候︒初連判如件︒
でろ
うか
︒
五
には客の積荷を大切にすることの申し合せで︑疎略にしたばあいは︑
春の船主会議で糾して吟味するというが︑どんな処罰をしたのあ早
第6条は︑六字ほど難読のところがあるが︑行った先の地の国法
を守れという規定である︒
第7条は賭博の禁である︒つい湊に長く滞船すると︑退屈な水主
が賭をするらしい︒
第8条の喧嘩口論の禁は当然のことだ︒第9条の御法度の荷物は
具体的にしるさぬが︑鉄砲のごときものやキリシタン関係のものは
むろんのことであろう︒
第
1 0 条は水主が徒党を組み︑船頭に賃銀などのことで迷惑をかけ
たばあい︑帰帆後︑仕事させないというのだが︑何だか今日でもあ
りそうな話である︒第11条は水主の賃銀を協定以上に出す船頭もい
るが︑それは不可というのである︒なお︑船頭は船長で︑今日では
船長と船主は別のものであり︑船長も被雇用者であることが普通だ
が︑江戸時代には︑船主が即船長であることが少なくなかった︒
第
1 2 条は水主を他船に乗せ替る条件について定め︑勝手に外船に
契約することを許さない原則を確認している︒第13条も同じ条項で
水主が病気を理由に他船へ替る時の規定︒
第
1 4 条も水主の他船への乗替関係のもの︒
第
条は他国から隠岐へ商売に来たものは︑往来手形をもってい1 5
ても戻りにのせない︒また近国の者なども決して乗せないとある︒
一︑
同一
一一
貫弐
百文
一︑
同︱
︱一
貫文
兵 庫 行
阿 波 行
但
一︑参宮行若州迄乗賃
行荷物銭拾貫文 戻リ荷物茶壱本 右之外荷物共其品二より賃銭取事
右賃銭之内
こうり壱ッ
Jうり壱ッ 覚
一︑
銭一
一一
貫五
百文 未十 水 永安
ー 主 四
月
夏
賃 年息
書帳大 坂 行
行 五 百 文
戻リ
︱‑
︳百
文
メ 但
越 後 行
表紙
敦 賀 行
次にかかげるのは︑前記のい船主の間の規約で︑水主の賃銀を定 めるという文書に甚づく規定である︒
敦 賀 行
一︑壱貫四百文 一︑壱貫四百文
若 州 行
商売敵に対する警戒は︑まことにきびしいといわねばならぬ︒
第
条は︑舟持ち自身が間板などの木材関係商品を売買してはな1 6 らないという規約らしい︒
第17
条は、積荷の穀物や干鰯は船頭•水主の立会で封印し、売り
払う場所以外では開いてはならぬという︒商品への性質上︑濡れた り損じてはならないので︑非常に大切にしている︒
第
条は水主に不吉な迷惑をかける船頭をとりしまる規定である︒1 8 これなどは︑封建時代にしては︑民主的であるといえよう︒
第
条︑毎年十一︑十二月両月のうちに舟持が船手会所へ集まる1 9 というのは︑早春に集まるという規定と︑どう関係するのか︒早春 以外の定期の集会らしい︒
丹 後 行
但 馬 行
但
出 雲 行
石 見 行
萩 行
筑 前 行
一︑同壱貫八百文
一︑弐貫弐百文
一︑壱貫五百文 一︑壱貫五百文 一︑壱貫三百文
一︑壱貫弐百文
弐人乗リ八百文
一︑壱貫弐百文
一︑壱貫四百文 一︑壱貫四百文 一︑壱貫五百文 一︑弐貫五百文
隠岐国より行戻り
三 瀕戸崎行 国 行
下 関 行
一︑同弐貫八百文 一︑同弐貫六百文
尾之道行 室行 六
近世日本海海運史に関する若干の史料とその考察 メ 荷物付候賃銭
一︑同壱貫四百文 飯代者一日米壱升払
一︑但州城崎江参リ候者︑右同所賃銭取可申゜
‑ f T
一︑雲州松江玉造江入湯二参候者︑乗賃/共六百文戻
贔 鱈 詞 詞 庫 襲
一︑地方江各船賃弐貫五百文
一︑若州小浜行各船賃四貫文
戻リ船二荷物積戻リ候節︑水主二心付貨銭之覚
一︑銭壱貫弐百文
是ハ瀬戸内より塩井穀物惣而何品二不寄︑壱艘向積戻候節︑雲州︑
但州江乗廻候賃銭
一︑同壱貫文
是ハ右同所より当地江戻リ候賃銭
一︑
同壱
貫一
︳一
百文
是ハ右同所より丹州︑若州之内に戻リ
是ハ右同所より三国江居け候賃銭
一︑雲州江荷積二渡リ荷役不相成空船二而戻リ候節半貨相渡可申事︒
一︑若州より茶其外何品二不寄︑壱艘向積戻リ候節者︑心付銭見合
ニ可
仕事
︒
七
右之通船持中一統相談之上︑相定申候︒以上
安永四年未十一月
これを読んでいくと︑水主すなわち船員の賃銀らしく︑航海で遠
距離へ行くほど︑高額の報酬をもらえるのは当然のように見える︒
しかし読み進んでいくうちに︑水主の貨銀だけでなく︑船客の乗
船賃のように見える記述がある︒すなわちfIIより以後は乗賃
"とある︒故に確かにメ以後は乗客の迎賃であろう︒
前にも︑出雲行・壱貫弐百文︑但し弐人乗り八百文とあるのをみる れる︒すなわち出雲まで一人ならば壱貫弐百文のところ︑二人のる
と一人あて八百文に割引きし︑二人ならば壱貫六百文となるように 思える︒すると水主賃銭之書帳とは何を意味するのか︑水主が持た
されている乗客の運賃表ではないのか︒
雲州松江︑玉造江入湯に参候者乗貨などは︑まさに出雲へ渡り玉 造温泉へ隠岐から湯治に行く人は︑行き戻りとも六百文で壱貫二百 文になり︑はじめの覚の壱貫弐百文︑出雲の規定に合うではな
いか︒だから私は︑この帳は水主の貨銭の規定ではないと思う︒
すると︑参宮行若州迄乗賃行五百文︑戻三百文は旅客の運賃で︑
但行荷物銭拾貫文︑こうり壱つは︑銭拾貫文はかなり重量があるが︑
それ以上銭をもてば追加料金をとられるのだし︑こうり二個もてば︑
その余分の一個分をとられることを意味する︒帰りの荷物に茶壱本 と ︑
覚以下"メまでも乗客の運賃表ではあるまいかと思わさ
"
f以
船持中
次に非常に詳しい日々の航海記録をもつ筑前国残嶋の船頭小七の
船が大坂を出帆して新潟に至り︑会津藩の大坂への廻米︵籾も含む︶
を積み︑帰途に能登沖で難破したという一件の書類をのせる︒
村尾家文書には︑隠岐附近で難破した船や︑乗組員が航海中死亡
したので隠岐へ寄港して葬った証明書の類が多く所蔵されているが︑
この小七の船ほど︑毎日の天候や帰港した先々の状況をしるした一
件書類を他に知らない︒
最初に掲げるのは小七の船が難破して︑隠岐島前の浦之郷村に入
港して取り調べを受け︑これを大森の役所へ注進した書類である︒
航 海 と そ の 日 誌 に つ い て
寛政一ー一年筑前国残嶋船頭小七の船の て︑港名のない行先きも多いが︒ とあるのも面白く︑隠岐には茶を産しないので︑隠岐の人が島外に出ると皆︑帰りに茶を買ってくるということらしい︒飯代は一日に米壱升というのは︑今日の我々からみると︑一日に壱升は︑大変な分量だが︑江戸時代の人はそれくらい食うのが標準だったのであろうか︒それ以後の各地への運賃の記事も︑皆旅客のための規定であると考えられる︒
なお︑大坂・兵庫をはじめとする行き先きの中には︑当時の代表
的な西日本の港をあげている︒もっとも︑漠然と国名があがってい この小七の船は七反帆で乗組員七人という︑積荷も二百石余で︑
大体︑二百石積み位の北前船としては小型に属する︒村尾家文書で
みると︑千五百石積︑千三百石積などの大船が︑日本海を寛政年間
には航行していたのである︒
④ 寛 政 三 年
越後国去戌御年貢米大坂御廻︑筑前国残嶋匝乗船頭小七船御改一途
前M大森御役所御注進書拍も入
亥十月五日
七反帆船七人乗可預御勘造者也
寛政二年八月九日花房丈右衛門
花房喜三右衛門印 松平雅之助内
所M御番衆中
来︵去の誤か︶亥九月切︑筑前国残嶋浦船頭小七難船筑前残嶋
直乗小七船能州紬倉嶋江漂着之上︑輪嶋江漂着之上︑輪嶋海浦江
致着船︑積立申付候二付渡送状︒
元積高米籾五百拾五石本夕共ニ
右積立大坂御廻米
一︑御米百六拾五俵但四斗入辻上乗船頭水主炊共二船乗申付候
此石六拾六石但本廻新潟湊送状返
八
印 浦之郷村
近世日本海海運史に関する若干の史料とその考察 米八俵 一︑御籾弐百七拾俵
右之外米八俵
一︑金三両者於輪嶋浦二船頭預之上貸金︑是者難船二付︑舟修
覆井船頭具相調候︒入用先達而御領主役人中江預之上金四
拾両致許借相調候由之処︑勘定之上事面之金高不足二相成候
由二付︑許借之儀預出候間︑吟味之上︑手形取貸渡候間︑着
船之上︑大坂渡運賃金二而︑御差引可被成候︒
右者会津御領所越後国魚沼郡去戌御年貢︑当亥大坂廻御城米籾積船︑
筑前残嶋直乗小七上乗︑越後国魚沼郡三郎丸村作右衛門於新潟湊ニ
御米籾積渡︑北国廻之積六月廿日出帆申付候処︑七月十六日松平加
外 外 七俵
船頭根米相残之分
船頭根米於輪嶋買入候分
覚
太 田 半 兵 衛 殿
木沢伊左衛門殿
九
此石百三拾五石
八俵 但中廻右同断
皆濡米
此石四石此分吟味之上御廻籾二難相成所御払取斗申候
五 百 四 俵 四 斗 海 中 打 捨 籾
此石弐百五拾弐石四斗 寛政三亥年九月十一日
会津御領所
大坂御廻米調役人
但四斗入
但五斗入 越後国去戌御年貢米大坂御廻
一︑御米百六拾五俵
此石六拾六石
一︑御籾弐百七拾俵
此石百三拾五石
一︑根米六石四斗
内米三石弐斗︑九月三日能州輪嶋湊二而︑御米積請候日より
十月五日迄︑日数一二十二日︑上乗船頭水主炊共二拾人狼米 但五斗入能州輪嶋崎浦御用先
会津家中
中嶋太左衛門 此石弐石八斗此分吟味之上御廻米難相成所御払取斗申候︒百
三 拾 七 俵 海 中 相 捨 米
此石五拾四石八斗
皆濡米
賀之守様御領分紬倉嶋江瀕着之上︑輪嶋崎浦江致着候二付︑右為吟
味拙者罷出候処︑吟味相済︑書面之四百三拾五俵船積立申付︑大坂
廻取斗申候︒尤本廻其外共二︑几而新潟湊送状之趣申度相廻候問︑
着船之上右俵数御改之上︑御請取被成︑且御払米二取斗候分︑井打
米等有し候分共︑後渡御運貨金二而︑御指引御究可被成候︒以上︒
年寄 隠州嶋前知夫里郡浦之郷村
庄 屋 亀 之 進 殿 和左衛門殿
同十一日巳上刻出船仕候︑筑前国残嶋
寛政
一︳
一年
亥十
月五
日
︵貼
紙︶
一︑船足御極印より足軽
残
三石弐斗
一︑筑前国残嶋
一︑越後国魚沼郡三郎丸村 一︑水主炊共八人乗 吟味二付︑此段御願申上候︒
直 船 頭 小 七 印
上乗作左衛門印
往来手形七人乗二御座候処︑越後国於御米積所二増水主弐人︑
無往来二而被仰付候二付︑九人乗二相成申候︒別往来之儀御 右御城米積船十月五日申中刻︑隠岐嗚前知夫里郡油之郷村湊江入津
仕︑船足井船頭水主炊共二人数送状二引合︑御改被成候処︑相違無 御座候︑尤何二て茂︑外荷物無御座候二付︑順風次第出船仕候様被
仰付候︒以上︒
越後国魚沼郡三郎丸村
直乗船頭小七 上乗作左衛門 船 頭 帥 貼 紙 あ り 一別行にしるす
戌年大城御城米積空船於大坂御改之上︑御送状之丸船印被成御渡︑
出帆被仰付︑日和待汐を津々祁々御留子細其所之庄屋年寄中江相断 往返共此
H帳二記︑印形御取之旨被仰渡候御事︒大坂出帆より御米
着岸迄︑朱之丸船印立請二可致︑日和津ミ浦ミニ而私用二付致逗留 積取而於連参者︑後日被及御聞候共︑急度可被仰付旨︑被仰付候御 事 ︒ 右之趣︑船頭乗組之者迄︑堅被仰渡候間︑津こ浦ミ入津出帆逗留之 子細︑往返とも此帳面二記︑可被相渡候︒以上︒
右空船改済出帆申付候問︑入津出帆逗留之訣︑其浦々二而相記致印 形︑於積湊御米積立出帆申付候節︑立会役人此目録二印形いたし︑
御米着岸之閻︑津ミ祁こ滞留出帆之訣訳︑其所庄屋年寄致印形︑可 す ︒
寛政三亥年二月廿三日
亥二月 固寛政三年
空船弐帆 往返日帳 御米着岸迄
廻船御用達
銃前残嶋直乗
船頭小七
節屋久兵衛
いの文古は次にしるす伺の文古の﹁往返
H帳﹂を要約したものと いえるから︑論ずることは固の後に行うことにして︑次に⑮をしる
紙数拾五枚
10
近世日本海海運史に関する若千の史料とその考察 天気能当浦出帆仕候
右之通相違無候以上
寛 政 一
︳ 一 亥 年 二 月 廿 三 日 年 寄
一︑亥二月廿︱︱一日御送状奉請取候処︑西風相成滞船︑同廿四日雨天
滞船︑同廿五日天気能︑大坂木津川口出帆仕候
右之通相違無御座候︒
一幾
日
一幾
日
二月廿五日 竹垣三右衛門
^ r
同 脚
一幾
日
一幾
日
同 何 雨 当 風 か 浦 か 江 断 滞 入 船 津
網干屋市左衛門ク十一日
ク断
ク十二日
ク断
已上大坂船問屋
同 十 日 北 風 同 断
節屋久兵衛
兵 八
廻船役所
津ミ浦ミ庄屋 相渡候︒尤御米着船之上︑此日帳支配役人より大坂廻船役所江被相返候筈二候間︑可得其意候︒
於大坂送状相渡候日より積取井綱所着岸迄海上往返
但之内津ミ浦ミニ而致滞船候訣︑毎H天気之様子左之通相認事
案文
一何月幾日
右案文之通︑浦ミニ而入津以後出帆難成天気之訣︑毎日相記幾日
でも一日宛之所︑一判宛銘ミ浦役人致印形︑尤名印茂可致候
羽倉権九郎 l何浦役人一
何浦役人誰印
一︑亥三月八日牛刻筑前国残嶋浦へ入津 二月六日 一︑亥二月廿五日申刻兵庫津着船
同廿六日︑雨天滞船︑同廿七日︑日和にて合滞船
同廿八日天気能卯刻出帆
右之通相違無御座候︒以上︒
一︑亥三月朔日当嶋入浦
同二日︑天気能当嶋出帆仕候︒
右之通相違無御座候︒以上︒
御用二付大坂罷在 塩飽与嶋庄屋
右筑前残嶋直乗船頭小七乗︑三月六日長州赤問関下着︑
御城米船改役人
同 日 巳 刻 出 帆 河 野 藤 右 衛 門
一︑於長州赤間関︑空船井乗組人数相改候処︑相違無御座候︒以上︒
御直府廻船御用達
同九日雨天滞船
同 所 組 頭 孫 七
次郎左衛門 摂津兵庫津御城米積問屋鍋屋︱︱︱右衛門
右之通相違無御座候︒以上︒ 一︑四月九日牛刻長州竹ノ子嶋入津 右之通相違無御座候︒以上︒
クニ
日
年 寄 仁 左 衛 門
ク十日卯刻出帆
庄屋喜左衛門
右之通相違無御座候︒以上︒ 一︑ク七日卯刻日和出帆仕候
能州珠洲郡飯田村
ママ
肝煎多右衛門
ク村組合頭
勝兵衛
ク国ク浦
ク七
日
ク三日天気能出帆
ク四日雨天
天気能出帆 ク廿三日雨西風ク断
右之通相違無御座候︒以上︒
一︑五月六日牛刻能州珠洲郡蛸嶋浦江入津
ク五
日
ク断
ク六日戌亥風ク断
ク 廿 九 日 天 気 能 出 帆
ク断
ク廿八日
ク断
ク三日北風二て出戻滞船
ク廿七日
ク ク ク 断
庄屋喜左衛門
ク 廿 六 日 雨 北 風 滞 船
右之通相違無御座候︒以上︒
筑前国残嶋浦
ク廿五日
//
ク断
肝 煎 五 左 衛 門
ク 廿 四 日 右
ク断
毛 利 市 左 衛 門 平井弥之右衛門
四月朔日
ク断
ク断
小宮山佐次右衛門
ク廿九H雨天ク断
ク晦
日
ク断
ク廿八日
ク断
ク廿五日
ク断
ク廿六日戌亥風ヶ断右之通相違無御座候︒以上︒ ク十七日辰巳風ク断ク廿三日
ク廿七日戌亥風ク断一︑四月廿二日当埃入津 雨天ク断ク廿四日
ク断
ク廿一日
ク断
ク廿二日辰巳風ク断
ヽ //
十九日卯刻出帆
ク十九H
ク断
ク廿
日
ク断
ヽ /,,
十八日雨天滞船
ク十八日北風ク断 ~ ヽク十七日
ク断
ク 十 五 日 雨 天 ク 断
ク十六日
ク断
ヽ /,,
十六日雨天滞船 ク十三日雨天ク断ク十四日北風ク断一︑四月十五日戌刻入津
越前国敦賀町年寄
ママ
但州美田含郡下湧村
庄屋与二左衛門
‑ I
近世日本海海運史に窓する若干の史料とその考察 一︑廿六日南風滞船 曇天
能州輪嶋村肝煎
理右衛門 一︑ク十五日雨天 一︑ク十二日雨天 一︑ク九日南風高浪一︑ク十日ク断一︑ク十三日雨天
一︑
ク六
日
雨天 一︑ク八日雲空滞船一︑ク十一日雨天一︑五月十四日牛刻入津仕候一︑ク十九日空船御見分一︑五月廿六日雨天一︑ク廿九日雨天一
︑ク
三日
播磨九右衛門
ク九日大下リ風滞船ク十日ク断
ク十二日卯刻天気能︑出帆仕候
一︑ク廿四日御積立ク廿五日雨天
一︑ク廿七日東風一︑ク廿八日曇天
一︑六月朔日高浪一︑クニ日高浪
一︑ク四日曇天
一︑ク七日雨天 一︑ク五日雨天
一︑ク八日曇天
一︑ク十一日雨天
一︑ク十四日雨天
一︑ク十六日雨天
一
︑ ク 十 八 日 一
︑ ク 十 九 日 曇 天
一︑そ廿日天気能越後国新潟湊牛上刻出帆仕候
右 之 通 相 違 無 御 座 候 以 上 新 潟 湊 御 船 宿
古崎喜兵衛 一︑ク十七日曇天
一︑亥六月廿五日申刻能州輪嶋崎浦江入津仕候二付︑手船四艘水主
‑=
拾弐
人為
乗引
入申
候以
上︒
~
吉郎右衛門
前組
合頭
弥一
二郎
//
理右衛門三郎兵衛
~
久兵衛 雨天前組合頭市右衛門
ク断
一︑
廿七
日
一︑廿九日日和見之為滞船
右御船ク晦日申刻日和仕 一︑ク廿八日日和見為滞船
出船仕候二付︑手船弐拾四人為乗
三艘二引出申候以上
右御船遭難風申鉢二て楠等も無し︑七月十六日能州紬倉嶋口瀕着仕
候二付︑手船数拾艘指出引入申候以上︒
能州輪嶋海士
ママ
亥七月六日遭難風︑ク七日揖祢リ打檀伐捨︑沖合御米御籾打捨︑ク
十六日巳刻能州紬倉嶋江漂着仕候二付︑委細船頭手前相尋︑金沢表
へ注進仕候処︑御役人衆中輪嶋浦迄被罷出候︑然処ク廿五日夜差入
置申縄摺如流出候二付︑紬倉嶋より手船数艘を以為引候得共︑汐路
早ク︑何分嶋へ難引入︑無拠地方江為引候︒廿六日酉刻能州輪嶋崎
口問近相見へ申候二付︑手船四艘水主三拾弐人為乗引入申候︒以上︒
能州輪嶋村肝煎 肝煎右左衛門
~ //
口屋
同 一︑五月七日申刻佐州小木湊入津小木御番所付
三郎兵衛所組合頭
権四郎
久之丞
右
ク断
右ク断 一︑ク廿一日雨天滞船
右ク断
右ク断一︑廿六日 右之趣二付︑船中御米御籾為取払︑決手之分干立被仰付︑銘ミ仕訳之上︑御蔵入置︑尤船修覆等相済︑九月︳︱‑日船積被仰付︑夫ミ□捌
相済申候以上︒
一︑九月三日沖風滞船︑ク四日西風滞船︑ク五日ク断︑ク六日ク断︑
ク七
日ク
断︒
一︑九月八日南風滞船︑ク九日ク断︑ク十日ク断︒
一︑十一日ク断︑同十二日西風滞船︑ク十三日ク断︑ク十四日ク断︒
肝煎理右衛門
右御船︑ク十五日酉刻日和能出帆仕候二付︑手船一︳一艘水主弐拾四人
一ク
十八
日
一︑廿三日
一︑
廿五
日
一︑
廿七
日
一︑
ク七
日
能州輪嶋村
一︑ク廿四日
一ク
廿八
日
西風滞船右ク断
一︑亥十月五日申中刻︑隠州嶋前補之郷村へ入津
一︑ク六日西風差吹滞船
一路
一︑ク廿日南風滞船
一︑ク廿二日南風滞船
右ク断 とになった︒船は朱之丸という名であったらしい︒ 右ク断
一︑ク十九日南風滞船 一︑亥九月十六日中刻︑能州福浦淡江入津一︑ク十七日西風滞船前肝煎五郎兵衛 一︑ク十一日東風順風能出船仕候
以上の文書によると︑りの最初の条にみえるように︑小七の七反
帆の船は︑寛政二戌年八月九日に勘造の許可が︑松平雅之助の家中
花房丈右衛門︑同喜一=右衛門から出ているから︑その完成は寛政二
年の年末であろう︒すると︑九州筑前残嶋から大坂へ二月に廻航し
たというのは︑この船の初航海であったといえるであろう︒
一方︑会津藩は︑藩領越後国︑魚沼郡︱︱一郎丸村の寛政二年収穫分
の年貫を︑大坂へ運ぶ船を探していて︑この船をチャークーするこ
この船は二月二十三日に大坂で送状を受けとり出帆すべきところ︑
西風や雨天のためにおくれて︑二十五日に木津川口を出帆し︑
積荷のない空船のままで瀬戸内海を西へ向った︒大坂の船問屋は網
干屋市左衛門である︒同日申刻には兵庫津についた︒二十八日卯刻
兵庫を出帆したが︑その証明者は兵庫へ御城米積問屋鍋屋三右衛門
である︒一二月一日には塩飽諸島の与島につき︑二日に同島を出帆し 為乗引出申候以上︒
~
郎兵衛 隠州嶋前知夫里郡浦之郷村
︳園圏和左衛門印
庄 屋 亀 之 丞 印
右之通相違無御座候以上 一︑ク九日右一︑ク十日西風大風雨滞船
ク断
一 ク 八 日 右
ク断
一 四
近世
日本
海海
運史
に関
する
若千
の史
料と
その
考察
た︒証明者となるべき庄屋は大坂へ出張中で︑組頭の孫七がそれを
代行した︒庄屋が大坂へ行っているというのも面白い︒
三月六日には赤問関へついた︒このあたり帆船としては︑なかな
か速い順調な航海といえよう︒ここでも証明者は廻船御用達の節屋
久兵衛という商人であり︑庄屋ではない︒八日に残島へ入津してか
ら四月三日までずっと滞船している︒天気がしるされていて︑風雨
のせいだとあるが︑家族のいる本拠地へ入港したので︑ゆっくりし
て一か月近くも滞在していたように思われる︒旧暦の四月初めの季
節は︑今の五月頃の日本海の最も快適な頃である︒三日に一旦出港
して︑また舞いもどり︑北風や雨天で滞在︑七日に改めて出帆した︒
結局︑一か月間残嶋にいたことになる︒
み な ざ
四月九日に長州竹ノ子嶋へ入津︑翌日出帆︑十五日但馬の美含郡
下湧村に入津した︒美田含の田は誤りであろう︒十九日に出帆し︑
二十二日に越前国敦賀に入津︑廿九日に出帆したが︑証明者の敦賀
町の年寄が小宮山︑毛利︑平井など苗字を持っていて︑ただ肝煎だ
け苗字をもたない点が注
n
される︒敦賀・三国湊などは近世日本海岸でも屈指の商港で︑その年寄といえば︑相当の豪商であろう︒
五月六日能登国珠洲郡の蛸嶋浦に入津し︑七日卯刻に出帆してい
る︒そして即日申刻︑佐渡の小木湊へ入った︒非常に速い快調な航
海である︒ここの証明者も播懇九右衛門という苗字をもっ人である︒
十二日出帆︑十四日に新潟へ入港した︒五月十九日に空船の見分が
行われた︒二十四日には城米の積立が行われた︒積荷は︑米が百六
l五 十五俵︵一俵四斗入︶︑六十六石︑籾が二百七十俵︵一俵五斗入︶︑百三十五石︑それに船頭水主の根米が六石四斗︑合計で二百七石四斗
であ
る︒
帰途には︑これまでの七人の他に︑越後国魚沼郡三郎丸の作右衛
門が上乗りした︒年貢を納める現地の責任者であろう︒なお文書の
貼紙によると︑往来手形のない水主二人が乗り︑九人乗りになった
とある︒作右衛門のほかにもう一人乗ったらしい︒米を稽んでから
天候が悪く六月十九日まで︑ちょうど一か月新潟に滞船した︒毎H
雨天がつづいているところをみると︑梅雨にかかったせいであろう︒
六月二十日に新潟を出帆し︑二十五日に能登国輪島へ入った︒六
月三十日に出帆したが︑二十四人が乗った一二艘の手船に引かれて出
港している︒そして七月六日に難風にあい︑揖が折れ︑租荷の米や
籾もいくらか捨て︑十六日に能登沖の紬倉島に漂着したというから︑
十日問もの問︑漂流していたことになる︒ところが二十五日夜︑更
こう
して
みる
と︑
につないでいた縄が切れて標流し︑紬倉島へひいていけないので︑
輪島へ手船四艘で引いてもらった︒七月六日の難破から二十日問の
長期にわたり︑船が破損し︑漂流したことになる︒その後荷物を蔵
に入
れて
置い
たが
︑九
月=
︱
‑ H
に船に荷物を稼みこみ︑九月十五日に
輪嶋湊を出帆し︑能登国福浦へ入り︑九月二十八日までおり︑十月
五日隠岐の浦之郷村に入津︑十一日に出帆したという︒おそらく︑
七月六日の難破は殿風にあったものであろう︒
一か所の湊にいることが非常に長いが︑船体の
庄屋八郎左衛門殿 強さに自信がないので︑徹底的に好天気を待っしかなかったようであ
る︒
次に紹介する⑱り⑱の三通の資料は︑航海中に病気で死んだ水主
が︑隠岐島前の美田村に葬られた事件に関するものである︒泉佐野
は江戸時代後期には富豪の多い︑ゆたかな港湾都市であった︒
⑱ 御 注 進 申 上 候 御 事
一︑泉州佐野浦六兵衛舟船頭水主炊共拾四人乗組︑泉州五月廿二日
出船仕候処︑不順二付︑漸く六月十六日羽州塩越浦江入津仕︑自
分買積米九百五拾石積受︑七月二日順風二付︑同所出船仕候処︑
同五日午刻時分より水主之内与吉と申者︑歳三拾五オニ罷成申候︑
此もの儀︑俄二拙瓶指起リ甚難儀仕候得共︑沖相之儀二而致万茂
無之︑所持之薬共相用罷在候処︑同十二日美田村江入津仕︑早速
宿主七郎右衛門相頼︑医師玄盛老相頼︑薬用仕候得共︑養生不相
叶︑卯刻時分病死仕候︒尤宗旨一向宗二御座候得共︑当村二同宗
無御座候間︑当村真言宗長福寺相頼葬度奉頼候︒此段宜敷被仰之
可被下候︒以上︒
寅七月十四日
船 頭 六 兵 衛
⑲ 美 田 村 宿 主 七 郎 右 衛 門
⑲
泉州佐野浦.
泉 佐 野 浦 六 兵 衛 船 の 乗 組 水 主 病 死 の 一 件
右之通訴出候二付御注進申上候︒以上︒
民助様
伊藤次左衛門様
⑦ 指 上 申 御 定 覚
一︑泉州佐野浦六兵衛舟船頭水主炊共拾四人乗組︑当五月二日佐野
浦出帆仕︑不順付漸く六月十六日塩越浦江入津仕︑同所二而自分
売積米九百五拾石積受︑七月二日順風二付塩越浦出船仕候処︑沖
相二而水主之内与吉と申もの俄二茄瓶指起リ候問︑順風二御座候
得共︑無拠御当国美田村之内大津浦江︑七月十二日午刻時分入津
仕︑早速宿主七郎右衛門相頼︑医師玄盛老相頼薬用仕候得共養生
不相叶︑今卯刻時分病死仕候間︑庄屋年寄衆江宿主を以御断申上
候処︑早速御役所様江被仰上候由︑御役人様御出被成︑船頭水主
人数井宗旨船往来御改被成︑向に軽敷儀茂有之哉と段々御尋被成︑
乗組之内船頭水主仲間二而喧嘩口論杯仕︑意趣逆恨之もの無之哉
と段々御吟味被成候得共︑毛頭左様之儀無御座候︒病死仕候事紛
無御座候︒尤与吉兄新助と申もの水主之内乗組罷在候間︑被為呼 神谷
大 庄 屋 官 蔵 殿
年 寄 忠 左 衛 門 殿
右之通紛無御座候間御注進申上候︒以上︒
大 庄 屋 官 蔵
⑲
年 寄 忠 左 衛 門
⑲ 庄 屋 八 郎 左 衛 門
⑲
一六
近世日本海海運史に関する若干の史料とその考察 庄 屋 八 郎 左 衛 門 殿
寅七月十四日
美田村宿主
船 鑢 頭
六 兵 衛
⑲
七郎右衛門⑲
仁 助
⑲
寛政五癸丑年三月十日
諸国津々浦々
一七
御奉行衆中
この一件は泉州佐野浦の六兵衛の船が出羽国塩越浦へ赴いた帰航
の途に起った︒この船は前記のような大名の城米運送のためでなく︑
取 弥 左 衛 門
⑲
久米市右衛門
与 吉 兄 新 助
⑲
岡部美濃守内
儀 八
⑲
庄三郎
⑲
右者泉州佐野浦者共二而御座候︒尤宗旨以下吟味仕候問︑海陸御
通シ可被下候︒為其如件︒
甚
‑‑‑'‑‑‑ ノ
⑲ 勘 次 郎
⑲
水 主 利 兵 衛
⑲
伊右衛門⑲
藤 次 郎
⑲
炊 亀 松
⑲
神 谷 民 助 様
伊藤次郎左衛門様 泉州佐野浦
一︑与吉当寅三拾五歳罷成候︒尤宗旨者一向宗二而御座候得共︑御 当村一向宗旨寺無御座候問︑真言宗当村長福寺相頼結縁候︒以土 中葬申度旨奉願処︑願之通身隠被仰付︑難有仕合二奉存候︒与吉 兄新助乗組在候二付︑御浦状等御願不申候問︑願之通被仰付可被
下候
︒以
上︒
寛政六年
大 庄 屈 官 蔵
⑲
逸之御賜被成候得共︑意趣等含もの毛頭無御座候︒
年 寄 忠 左 衛 門 殿
右之通私共立会相渡候処相違無御座候︒以上︒
大庄屋官蔵殿
右之通吟味仕候処相違無御座候︒願之通被仰付︑被為下候様奉願
候︒
以上
︒
⑱
一︑弐拾端帆 覚
船頭六兵衛舟 壱艘
水主
拾一
l一 人
庄屋
美 田 村 年 寄 忠 左 衛 門
⑲
八郎右衛門⑲
に非常に速いスピードである︒ 自分用の米を買うという私的な商売のための船で︑寛政六年寅年五月二十二日に泉佐野を出帆し︑六月十六日に出羽国塩越浦に入港した
︒そ
の間
︑
ード
であ
る︒
またこの船は九百五拾石の米を猿受けたとあり︑③によると弐拾
端帆で︑乗組拾人とあるから︑大きい船で︑おそらく千石船に近い
大きさであろう︒帰途につくのもはやく︑七月二日には出帆したが︑
三十五歳になる与吉という水夫が茄瓶の病気になった︒おそらく胃
腸の痛む病気で︑瓶といえば胃ケイレンのごときものとされていた︒
七月十二日に隠岐国島前の美田村に入港したというから︑往路同様
ここで玄盛という医師にみてもらったとある︒村尾家文書をみる
と︑こうした航海中の旅客の死亡したものだけでなく︑流人の死亡
の証明書を庄屋と医師と僧侶の車臼いた屯
類が多数ある︒どの村にもF l
医師がいたらしく︑今日の方が︑かえって辺境に無医村が多いこと
を考えあわせると︑不思議なくらい︑医師が普及していた︒僧侶は
むろん宗門改と関係があり︑どの村にも寺があり︑僧侶がいた︒
このばあいでは︑本人は一向宗だが︑この村には真言宗の長福寺
があった︒これら医師と僧侶と宿主を通じて頼んでいることも注意
される︒また与吉の兄新助が水主で乗組んでいて︑本人の死が決し
て殺人などの故殺ではなく︑病死であることを確認したとの証言と から新潟まで三か月かかっているのにくらべると︑非常に早いスピ 一か月もかかっていないから︑前記の小七の舟が大坂
が少なくないが︑次回にゆづりたい︒
四 お わ り
に
もってあり︑なかなか慎煎である︒江戸時代の地方の官吏も済実な
行政
家で
るあ
︒
⑱は六兵衛の船の往来手形であるが︑この船が弐拾端帆で︑水主
拾人とあるから︑その大きさがわかる︒
村尾家文粛から日本海海上交通に関して︑一二群八通の文害をあげ
てみた︒第一は船主たちの船手形会所に関するもので︑船の運賃に
関するものを伴っている︒第二は船中日誌によって︑航海の詳細な
実態の分るもの︑第三は船員航海中の病死に関するものであった︒
︱︱︱者は関連はないが︑近世後期日本海海上交通の諸相の若干を明ら
かに出来たものと思う︒村尾家文康日には他にも未だ紹介すべきもの
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