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  1 多和田葉子『文字移植』

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空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

10章  揺れ動き重複する空間

 

  1 多和田葉子『文字移植』

  「とめ始に下の目題うい」空論試るす関に輳輻の間ら

れたこの論考も、第十章が最後となる。そこで、発端で取り上げた作家たちがどのように変化していったか、と

いう追尋を試みたい。取り上げたのは二〇世紀の後半に生まれた作家で、その作家活動の初期すなわち二〇世紀

のうちに書かれた作品を選んだ。それでこの論考の結論部に到着しようとするに当たって、同じ作家の二一世紀

に入ってからの作品を取り上げて、十年かあるいは数十 年かの間に、彼らの作品の中になにがしかの変化があったか、あるいはなかったかを検討したい。あらかじめ

言っておくと、私にはある種の変化があるようにみえる。であれば、それぞれの作家たちの変化を確かめるこ

とで、この論考の始まりと終わりを円環のように繋ぎ合わることを試みる。とはいえ、円環を形成し得ないこと

は、あらかじめ分かっている。なぜなら始まりと終わりの間には時間の距たりがあり、そのために食い違いが走

ることになるだろう。その食い違いは、完結し安定しよ

うとする傾向をはぐらかし、逸脱させる。だがそれは結果として書くことをどこまでも持続させる力が働いたこ

空間の輻輳に関する試論   Ⅵ

吉    田       裕

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空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

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との証拠となるにちがいない。   最初に取りあげたいのは、多和田葉子の場合である。

第一章では、彼女を取りあげていない。そのころこの作家をよく知らなかったからだが、その後彼女の作品を読

み、強く興味を惹かれるようになった。だからここでは、彼女の初期の作品と最近の作品のいくつかを検討す

ることにしたい。

  多和田葉子は、出発点とした村上春樹と較べるとほぼ一世代違う一九六〇年生まれで、よく知られているよう

に、大学ではロシア文学科に在籍したが、高校時代からドイツ語を学び、就職先の研修でフランクフルトに行っ

たことをきっかけにドイツ語で詩を書き始めて彼の地の文学賞を受け、以後作品を二カ国語で書き続けている。

これは日本人作家としてはかなり特異な経歴であって、確かにそのためであろうか、空間や国境あるいは言語に

対して特異な感覚を持っているようだ。たとえば後年に次のような回想がある。彼女がフランスのトゥールの語

学学校に滞在していた時、生徒の一人であるアメリカ人 が自分は東ヨーロッパを旅行してきたと語る。するとフランス人教師がその旅行先がモスクワであることを知って、モスクワはヨーロッパではなく、東ヨーロッパというのはプラハやブダペストのことだ、と訂正するのを聞く。同時に彼女自身は、ドイツではこれらの都市は中央ヨーロッパと呼ばれることを思い出し、次のように書きつける。〈どうやら東や西というような境界線はどこか

にはっきり引かれているのではなく、人が移動するといっしょにずれて動いていくらしい。わたしの中で世界

地図がぶれて、また一枚層を増した〉(『溶ける街透ける路』、日本経済新聞社、二〇〇七年。以下この論考で、

引用の出典箇所は、主要なもののみページ数で記す)。

  彼女の中の世界地図にはこのようなずれと複層性への

感覚がある。ただ彼女の中に起きるこのような感覚は、旅行者的なものにはとどまらない。彼女が小説を書く

時、その感覚は、言葉という水準にまで下降し、そこで

変容の動きを確かめ、増幅し、ひるがえって作品の目に見えるところまで上昇させる。彼女は一九九三年に『犬

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空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

婿入り』で芥川賞を受賞し、作家として出発するが、右のような動きに関心を持つなら、同じ年に刊行された

『文字移植』(発表時の題名は『アルファベットの傷口』だったが、九九年に文庫化された時に改題された、河出

文庫)に興味をそそられる。

  作中のあちこちに散らばる情報を拾い集めれば、これ

は小説家になろうとし、同時に翻訳にも興味を惹かれ、

試みている若い女性の話で、『文字移植』という聞き慣れない表現は、翻訳の別名だろう。翻訳しようとして

いるのはドイツ語で書かれた〈たった二ページ〉の短い〈小説〉で(実在の作品らしく、巻末にその題名が挙

げられている)、彼女はそれを日本語に移そうとしている。彼女はこの仕事のために、ハンブルグからカナリア

諸島に来ているのだが、仕事は難航し、訳文は学生のノートのような状態にとどまり、小説の中の何箇所かに

挿入される。そしてその跛行する翻訳活動から発生する動きによって、本体である小説も揺れ動き始める。この

挿入は、冒頭から始まる。二コマ落しの段落がその試訳 であるらしい。    において、約、九割、犠牲者の、ほとんど、いつも、地

面に、横たわる者、としての、必死で持ち上げる、頭、見

せ者にされて、である、攻撃の武器、あるいは、その先

端、喉に刺さったまま、あるいは……。

   わたしは万年筆をナイフでも構えるように持ち替えて窓の

外に目をやった。黒ずんだサボテンがぼつぼつと突き出した

砂色の斜面がどのくらいと尋ねられても答えられない近いよ

うな遠いようなそんな距離ほど続きやがてバナナ園の不気味

な波の中に呑み込まれていくその向こうには海が見えしかし

その海がどこから空になるのか境界線らしいものはまったく

見えなかった。(

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あって、それはしばしば引用され、その結果、作品の構   『字にが品作るれさ訳翻は盤移文の品作ういと』植基

造は重複し始める。どうしてこのような動きが現れるの

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だろう?  翻訳とは、単純に言えば、ある言語を別の言語に移し替えることだ。その作業は、的確に行われれ

ば、速やかに完了し、一つの言語だけが残るはずだ。しかし、この作品においては、作業は跛行し、翻訳は意味

と物語をなすところまで到達しない。それは何か異なったものへと変容する。〈たとえば翻訳はメタモルフォー

ゼのようなものかも知れなかった。言葉が変身して物語

が変身して新しい姿になる。そしてあたかも初めからそんな姿だったとでも言いたげな何気ない顔をして並ぶ。

それが出来ないわたしはやっぱり下手な翻訳家であるに違いなかった〉。

  なぜだろう?  下手な翻訳家であるせいなのだろうか?  そうではあるまい。当たり前のことだが、二つの

言語というものはうまく重ならないのだ。拡大するなら、言語に集約される二つの文化もうまく重ならない。

だがこの状況はもう少し深めることが出来る。それは二つの言語(文化のことでもある)が重ならないのではな

く、基本的には言語とは一つの言語として同定できない のであって、その同定できない部分が、もうひとつの言語と触れ合うところで作用し、露わになってきた、ということだろう。メタモルフォーゼはまさにそこに理由がある。言語が同定可能なありようを持たないというの

は、新しい発見ではない。以前から言われていることだし、この論考で触れてきた作家たちにもさまざまにうか

がわれる認識であって、そうであればこそ、興味を惹か

れてきた。

  多和田葉子が興味深いのは、そのささやかな動きへの

反応の繊細さと、それを増幅する大胆さである。最初に目に付くのは、ゲオルクという男性名にかかわる場合で

ある。冒頭近く、翻訳の二つ目の引用のあとで、その名を持つ男の登場が次のように予告される。〈明朝わたし

を追いかけてゲオルクが島に来る可能性があった。明朝は飛行場も港も国際便で賑わう水曜日、もしゲオルクが

来るとしたらそれは明日以外には考えられなかった〉。

二度目の言及は短いが、三度目は次の様である。〈ゲオルクはわたしが翻訳をするのが基本的に気に入らないよ

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空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

うだった。わたしは翻訳には向いていないから体を使ってもっと活動的なことをした方がいいとかいろいろと文

句ばかり言っていた。でも本当のところはなぜゲオルクがわたしの翻訳をそんなに嫌うのかがわたしには全く分

からなかったしゲオルクにはなぜわたしがそんなにゲオルクを嫌うのかがきっと分からなかったのだと思う〉。

ここまで読んでくれば、ゲオルクとは「わたし」の恋人

だが(後の方で〈いったいゲオルクとは何度寝たことがあるのか〉という一節もある)、意地を張り合う仲だと

推測されるかもしれない。

  だがゲオルクという名前は、全体の三分の一ほどの

ところで四度目に現れる時には、姿形を変える。「わたし」と編集者との電話の会話中で、後者は次のように言

う。〈ああドラゴン退治の伝説ですか。でもどうしてそんな話をわざわざ選んだんですか〉。つまり「わたし」

が翻訳しようとしているのは、中世イタリアの修道士ヴォラギネが蒐集したキリスト教聖人列伝『レゲンダ・

アウレア(黄金伝説)』中の聖ゲオルギウスの物語に基 づく現代作品なのだ。ゲオルグはゲオルギウスのドイツ語名だが、ドラゴンを退治して生贄に捧げられようとしていた高貴な姫君を救う物語の主人公で、のちに殉教して聖者となった。  では多和田のこの作品では、はかどらない翻訳の主人公が、催促のために「わたし」の前に現れてきているのだろうか?  そうかもしれないが、それだけではなさそ

うだ。現れてくるのは、「聖」を冠せられたゲオルクからただのゲオルクの間で少しずつ異なる複数のゲオルク

である。彼らはそれぞれ類似し、交替しつつ現れる。たとえば聖ゲオルクは、〈体は小さくてもすでに聖ゲオル

クの面影を宿〉す少年であったり、〈正面入り口の近くでゴム長靴を履いたもう一人の聖ゲオルグがフェンシン

グで使うような細い剣を使ってしきりと何かをつついていた〉りする。これは竜退治のしぐさであろう。そして

他方では、先に見たように「わたし」の恋人であるかも

しれない「聖」のつかないゲオルクがいる。ゲオルクは、ドイツ語でありふれた人名である。さらに〈ゲオル

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い季節です〉。風は悪の化身であるドラゴンの性格を受け継いでいて、そう呼ばれるのだろう。それは物語の中

に吹き込み、物語を衝き動かす。それに誘われてゲオルグは現れてくる。

  ではこれは伝説の物語を元にした一種のメタフィクションのような作品なのだろうか?  そのような性格が

ないとは言えないが、作品はもっと危うい方向にずらさ

れてしまっているように見える。元になっている現代版の伝説とこの作品がどのように接合されていくかのプロ

セスを検討してみよう。かき立てられるのは、あやうさの感覚である。それは引用で示した冒頭部だが、良く意

味の取れない一節が一コマ下げで示された上で、やがて、それが話者が取り組んでいるがうまくいかない翻訳

の一部分であるらしいことがわかってくる。三分の一近くまで来て、翻訳されているのは聖ゲオルクの伝説に基

づく小説であることが「わたし」の口から語られる。その時すでに聖ゲオルクも、ドラゴンも登場していて、あ

あそうだったのか、と思わされる。そして三分の二ほど クの親友〉まで現れる。  つまり翻訳されようとして抵抗する物語からその主人公が離脱し、複数の層をなして翻訳する「わたし」の物語の中に侵入し、「わたし」の物語は攪乱されてしまう

のだ。そしてこのような浮上と侵入は、ゲオルクに関わるだけではない。「作者」もそこに現れてくる。「わた

し」の住んでいる家の前に溶岩が流れてできた帯状の跡

が残っていて、河のように見えるのだが、〈その黒い河の上をわたしはいつの間にか見知らぬ女性と並んで歩い

ていた。その女性が〈作者〉なのだということは尋ねてみなくてもすぐ分かった〉。彼女は数度に亘って現れる。

  さらに聖ゲオルグに不可欠な敵手ドラゴンも「ドラゴン風」となって現れる。それはこのアフリカ大陸に近い

島に吹く熱風の名前である。雑貨屋の女主人は何も知らない「わたし」にそのような季節風の存在を告げる。

〈あと十三週間くらいたつと何日も続けてアフリカ大陸

からドラゴン風は吹いてくることがありますからね。そうなったらもう家の外には出られませんよ。今が丁度良

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空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

のところで初めて、翻訳で聖ゲオルグの名前の出てくる部分が引用され、さらにもう少し後になって姫君の叙述

が現れる。では、これは次第に謎が次第に解き明かされる物語かと言えば、ことはおそらく反対である。

  そのように思わせる出来事が、最後近くに起きる。「わたし」はどうやら翻訳を仕上げたようで、机にむ

しゃぶりつくようにして最後の文字を書きつけ、翻訳か

ら最後の引用をし、机の上でしばらくの間と思いつつ明け方まで眠ってしまったのち、原稿用紙を折りたたんで

封筒に入れ、郵便局に向かう。郵便局員に便宜を図って貰うためには、九時きっかりに着かねばならない。だが

途中で犬を連れた女、雑貨店の女主人、亀をいじめる少年に出会う。道はまっすぐに進まない。郵便局に近づく

と、さきほどの〈もう一人の聖ゲオルク〉に呼び止められ、〈封筒をこっちによこしな、もっていることは分

かっているんだ〉と脅かされる。物語の主人公は、別の言語の中に送り込まれたくないのだ。それは冗談だと取

りなされ、いっしょにコーヒーを飲む。だが「私」は不 安になって手洗いの奥の窓から外に出るが、ゴミためのようなところに落ちる。気を取り直してそこから抜け出て、郵便局に入ろうとし、次の瞬間気づく。〈その時わたしは恐ろしいことに気がついた。封筒がなくなっていた。わたしが手に握りしめているのは湿ったじゅうたんの切れ端で封筒ではなかった。わたしは切れ端を足元に捨ててあわてて裏庭に出た。ゴミための中でこんな物と取り違えてしまったらしい〉。

  「るつい。ならかつ見が、回わし探を筒封は」したま

り物語の発端であった伝説の現代版は、完成されたところで、怨恨を持つようになったらしいその主人公に奪わ

れそうになり、それをようやくすり抜けたところで、じゅうたんの切れ端に入れ替わり、ゴミの中に消えてし

まう。この元になる短い「小説」にはなにか不確実なものが潜在していたが、その不確実さは、小説自体の消失

という出来事を引き起こしつつ、作品は終わりに近づく

のである。

  だが逆に言えば、『文字移植』という作品は、この不

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確定なものから来る誘惑に応えようとし、さらにそれを増幅して目に見えるところまで引き出そうとする試み

だったのではないか?  その上で興味を惹くのは、この不確実さから引き出され、かつ不確実さを拡散させた物

語の担い手の行方である。封筒をなくした「わたし」は、ゴミ箱の中をあさるが、そのとき前出の〈ゲオルク

の親友〉つまりゲオルクのさらなる分身のような存在が

現れ、今度は〈内に籠もった恐ろしい声〉で、〈どうした〉と「わたし」を脅かす。すると「わたし」は、原稿

を見出さないまま、海の方へ走り出す。作品の最後の部分は次の様である。

   そちらの方向を選んだのは道が下り坂になるからだった。

坂を駆け登る力はもうなくただ機械的に脚を右左右左と交互

に出して坂を降りていった。そのうちまた砂浜に出てしまう

だろう。それでも止まらなければ海が始まってしまいもう行

きどまりになつてしまう。左右を防波堤と宿泊施設に遮られ

真っ直ぐに進むしかないわたしは海に入っていくしかなくな るかもしれない。そんなことはまさかしないだろうけれど

も。なぜならわたしは二十五メートルしか泳げないのだか

ら。でもわたしは海へ人らずにそれからどこへ逃げるのだろ

う。それは海が目の前に現れてみなければ分からない。海ま

であとどのくらいあるのだろう。海は遠いのか遠くないの

か。わたしはそんなことを考えながらどんどん坂を駆け降り

ていった。(

140)

  中心を欠いた物語は、遠い空間の方へ追放される。

「わたし」は海にぶつかることを、そして自分は二五メートルしか泳げないことを知っている。しかし、それ

でも中に入っていくほかないことを予感する。それは未知の空間を前にした時の不安である。多和田葉子の以後

の作品の内のいくつか、けれども私にとっては興味深いいくつかは、この空間的な拡大の衝迫のうえに構成され

ることになる。

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空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

 

  『変身のためのオピウム』 2

  不確実なものに揺り動かされるようにして、遠方へと

空間を拡げていくような運動が多和田葉子の中に在る。このような動きが次に良く見えてくるのは、二〇〇一年

の『変身のためのオピウム』(講談社)だろう。これはオイディウスの『変身物語』を受けた二二の短編からな

る連作で、それぞれギリシア神話の女神の名前を与えら

れ、そしてそれが題名とされる女性が登場するが、彼女たちは多くの場合、不思議な空間感覚を持つ。

訳てレア』と並んで出くアる。「わたし」は、翻ウダ・   『は『身物語』の名は、実変ン字移植』で、『レゲ文

中の小説が『レゲンダ・アウレア』のうちの一つを典拠としていることを確認して、友人から借りた宿舎のとな

りの部屋にその本があったことを思い出して、捜しに行くが見つからず、代わりに『変身物語』を見出す。〈オ

ウィディウスの〈変身物語〉があったがこれを見て思い違いをしたのかも知れなかった〉。ずれを孕んだこのつ

ながりに着目するなら、『文字移植』から『変身のため の』への過程で、一つの物語から他の物語への移行が再度試みられ、いっそう押し進められたと言えるかもしれない。であれば新しい物語は、どこに通じることになるのだろう?  『

文字移植』が翻訳の困難というかたちで現れた言葉の問題から始まっていたとしたら、『オピウム』にも同

種の問題が現れているのを見ることが出来る。まず第八

話「クリメネ」の場合である。女主人公は語ろうとするといつも、次のような不思議な感覚に捉えられるのだ。

   当時、わたしは、子音と母音が口の中でうまく混ざり合わ

ないので悩んでいた。どんなに早くRとAを発音しても、両

者の間に隙間が感じられるのだった。

   陶酔状態にあると、ここかしこに小さな穴が開き始める。

音と音の間に、吸う息と吐く息の間に、まばたきとまばたき

の間に、連続性というものが信じられなくなる。Rと言った

瞬間、次に本当にAが来るとは限らない。ふたつの音の間に

は中断があり、中断されている間に、すべてが終わってしま

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うかもしれないのだ。ふたつの音の間にかかるのは、どんな

橋だろう。陶酔状態にある時には、このままずっと当たり前

に続いていくのだ、というような話し方をすることができな

い。このまま本当に文が続いていくのか確かめるために、単

語の真ん中で立ち止まって息を吸い込むことがよくある。

105)

  音とは、言葉を構成する一番基本的な要素だろう。クリメネは、語ろうとして、その音と音がうまくつながら

ないという感覚に捉えられる。子音と母音がうまく混ざり合わず、どんなに早くRとAを続けて発音してみて

も、両者の間に隙間が開いてしまう。不思議なのは、この感覚は、むしろ言葉を語り続ける強度が高まっていく

時   陶酔状態   にこそ、明らかになってくるという点である。言葉を語ることの中には、語られる言葉を分

離させ不安定化するだけでなく、さらに下って言葉そのものの成り立たせるもっとも基本的な要素であるはずの

音声さえバラバラにしてしまう作用があるというのだ。 言葉は平衡を失い、裂けてゆく。そこで彼女は立ち止まらずにはいられない。そのとき言葉は一体何になってしまうのだろう

)1

  言葉の中に、音韻さえ分解してしまう作用がある時、

もう少し見やすいところまで浮上することがある。それは第二話「ガランティス」に見えてくるものである。こ

の女性は、友人によって次のように語られる。

   ガランティスはよく病院にお見舞に来てくれた。絵葉書も

何枚かくれた。絵葉書の白い面が奇妙な具合に字で埋めつく

されていた。どうやらガランティスにとっては均整がとれて

いる、ということだけが大切であるらしかった。紙の右の端

に何か覚書を書きつけたら、左端にも何か書かないと、紙が

ひっくりかえってしまいそうに思えるらしい。(

25)

  彼女は学校に通っていた頃、文字や表や数字や絵を紙の左右にバランスよく配分しなければ気がすまなかっ

た。そのせいで計算をする時はいつも正しい答を得るこ

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空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

とが出来た。外国語の授業では文字の書き忘れはなかった。だが均整のとれていない綴りの単語は覚えられな

かった。彼女にとっては、言語は常に不安定だった。それを安定させねばならない。言葉は記号に過ぎず、高

さ、幅、奥行きをもたず、重さも測りようのないものであるはずだが、その配置を工夫することで、彼女は平衡

を取ろうとする。しかしそのように言葉にかかわると

き、言葉の動きは増幅され、かえってその外へと及んでいこうとする。言葉のありようと空間は、不思議な相関

関係にある。

  変容する言葉は空間にその作用を波及させるのだが、

その途上にあるのは、身体である。身体を通過する動きも捉えられている。それは第一話「レダ」である。レダ

は老齢にある女だが、若い頃内側から外側に向かって針の動いていくレコードを集めていた

)2

。そのレコードを掛

けると彼女は次のような経験をする。〈レダがレコードといっしょにまわる。大きな輪を描きながら、まわっ

て、まわって、独楽女の目の前で星がちらちら、粉末状 の奇蹟、医者の許可がなくても買うことができる薬。一番外側の円まで押し出されて、速度が速度を生む。事物の縁が生き生きと輝き始める。もう我慢できない。脳の内部の裂け目のひとつひとつが音に変わっていく〉。彼

女は空間の動きを逆にすることが出来る。一番外側の円にまで押し出されるというのは、『文字移植』で話者が

最後に海に向かって追放されるのと同じ運動だろうか? このような動きに繰り返し揺さぶられてきたおかげで、彼女は不思議な感覚を持つにいたる。

   それから三十年も経って初めて、自分の身体の中から、独

特なものを開花させることができた。それは皮膚のあらゆる

場所に入り口のあるようなあの感じである。そこを通って、

別の空間へ抜け出ることができるような感覚である。(

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  レダは、自分の中にある何かがくるくると廻り、彼女自身を外側に押し開き、別の空間へ送り込まれてしまう

ような感覚に捉えられるようになる。これは言葉の中に

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開かれる間隙のより一般化された感覚であろう。

  空間の不安定とそれによる拡大   ととりあえず言っ てみる   の姿がもっとも良く見えてくるのは、第二〇話「アリアドネ」の場合だろうか?  女主人公の住む街

に、ある日都市研究家が歴史的重要人物の名前のついた地名板をたくさん入れたトランクを下げてやってきて、

ヨーロッパでのように、大通りから小さな路地まで、名

前をつけようとする。ところが路地たちは抵抗するのだ。

   しかし、路地たちは名前を受け入れなかった。身体をひん

曲げて、目を閉じて、まるで非識字者のような振りをするの

だった。急に二つに分かれたり、お互い溶け合ったり、思い

もかけない箇所で消えてしまったりした。ちょうど地下にあ

る竹の根っこのように、どこから路地が始まってどこで終わ

るのかは、誰の目にも見えなかった。(

231)

  けれども、住民たちはそういった町の性格を困ったも のとも思わなかった。どう行けば自分の家を出て友達の家に着くかは、誰も分かっていた。大抵の場合は、分岐点での自分の気持ちに注目して道順を暗記した。道順は自分の気持ちによって決定され、記憶され、この秘密の道がいつも一番の近道となっていた。そこには次のような効用がある。   道順のシステムが個々人の頭の中にあった方が都合のいい

ことがよくある。たとえばある一家の父親がもうこれ以上父

親の役割を演じるのが嫌になった場合、路地の迷路の中に消

えてしまうことができる。税務署も警察も彼の居所を突きと

めることはできない。ただ、郵便配達人だけが、どうすれ

ば、その路地を探し当てることができるか知っている。どう

やって探し当てるのか、その芸の秘密は教えてくれないが、

彼らは信頼が置けるし、手紙は必ず届く。だから、手紙を書

くのが好きな人は、この迷路の中のどんな一点にも必ず到達

することができるのである。(

232)

(13)

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空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

  ここには都市と言葉という二つの層の間の連動する動きが捉えられている。まず空間の動きだが、街路はいた

るところでもう一つの街路へと溶け込んでゆく。その先には自分だけが知っている、自分だけが到達できる街が

ある。誰一人彼を追跡することができない。それは揺れ動き迷路となった空間である。

  この空間を制御しようとして、通りに名前が付けられ

る。これが言葉に最初に与えられる任務だ。しかしこの任務は、ほかならぬ通りそのものから拒絶される。通り

は身をよじってその名前を振り落とす。自分のあるいは友人の住んでいるところに行こうとして、それは本人以

外に可能ではない。だがそれ以外にその能力を持つ者が一人だけあって、郵便配達人だと言う。彼が運ぶのは手

紙、すなわち言葉で書かれたものである。そこにもう一つの言葉が浮上しているのを認めなくてはならない。言

葉はまず地名の言葉だったが、それらは忌避された。ではこの迷路となった空間は、言葉とどこまでも背馳する

のだろうか?  いやそうでもないようだ。というのは、 この揺れ動く街をわたってゆく言葉が一つあるからだが、それは郵便配達人によって担われる手紙の言葉である。  手紙の言葉だけが目的地に達することが出来るというのは、この未知の街は文学だけが追跡できる空間だということに違いない。言葉は、単独で作用するのではな

く、空間の変容から生まれ、ある時は逆に空間に変動を

促して作用する。地名板のように強い指示性によって時にこの動きを抑圧するような作用を持つことがあるとし

ても、次にはその抑圧をいっそう強く転倒するだろう。多和田葉子の作品を動かしているのはこの二重性であ

る。

 

  『百年の散歩』 3

  多和田葉子の中に言葉に使嗾された動きがあって、そ

れが身体を揺さぶりつつ通過し、人間の空間の意識を変

えていく。私たちはその変化を、『文字移植』に『変身のためのオピウム』を接続することで追跡してきた。具

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体的には、『文字移植』で、「わたし」が海に向かってある軌跡を描いて駆けていく場面を、『変身のためのオピ

ウム』で、名づけられることを拒否する街路の動きに接続出来るのではないかと考えた。とすれば、多和田葉子

に関して私たちが持つ主題は、とりあえず「街路」ということになるだろうか?  ではこの街路は読者をどこへ 導くのだろう?  彼女はすでに多くの作品とさまざまの

主題を持っていて、それらを遺漏なしに検討する余裕はないが、街路という主題を導きの糸にするとき、興味を

そそられる作品が近年に一つある。それは二〇一七年の『百年の散歩』(新潮社)である。

  これも十篇からなる連作集で、話者が住んでいる  多和田葉子もそうだが   ベルリンの町の街路をめぐる

物語である。連作のそれぞれには、すべて実在の通りの名前を題名としている。「カント通り」「カール・マルク

ス通り」「マルティン・ルター通り」「レネー・シンテニス通り」「ローザ・ルクセンブルグ通り」「プーシキン並

木通り」「リヒャルト・ワグナー通り」「コルヴィッツ通 り」「トゥホルスキー通り」、そして「マヤコフスキーリング」である。これではベルリンの紀行文か観光案内のように見えてしまうかもしれない。だがそんなもので終わることはないだろう。  共通点を取り出そう。何よりもまず、つまり目次を見ただけで目に付くのは、これらの通りがすべて人の名前であることだ。ドイツ人が多いが、外国人らしい名も多い。  次に目に付くのは、言葉の不安定さである。地口のような表現は多和田によく見られるものだが、第一話「カント通り」を例に取ると、冒頭〈わたしは、黒い奇異茶店でその人を待っていた。カント通りにある店だった〉で始まり、「大理石」と「総理大臣」が混同されようと

する。より面白いのは、そして他の章でも出てくるのは、タクシーの例である。〈

Taxi

をわたしは「楽しー」

と読んでいて、これは日本語でもドイツ語でも英語でもみんな「タクシー」という苺、イチゴ、一語、に縮んで

しまっているモノリンガリズムを崩すために自分で勝手

(15)

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空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

に造った単語である〉。「タクシー」が「楽しー」にずれる。そのニュアンスは日本語を多少知っているならす

ぐ分かるだろう。そして「一語」は、音はそのままに「苺」あるいは「イチゴ」へと多層化する。十篇の連作

の至る所に作用するこの動きは『文字移植』にも『オピウム』にも見られたもので、言語の深い処から来て、次

第に物語を動かすところまで浮上してくる。

  確かめておきたいもうひとつの共通性は「あの人」と呼ばれる人物の存在である。連作のそれぞれに「あの

人」が現れる。話者である「わたし」は、街頭にいて「あの人」と出会うことを期待しているようだが、どの

「話」にも出てくるこの「あの人」は、誰なのだろう? 冒頭の「カント通り」では、「わたし」は癌にかかった

友人を見舞うために行ったパリから、「あの人」に会うために帰ってきたのだが、それは「あの人」が明日から

また旅に出てしまうからだった。第二話「カール・マルクス通り」では、〈接吻する度に舌と舌が細胞情報を交

換し合うのか、食べ物の趣味はあの人と百パーセント一 致している〉という記述が、第十話「マヤコフスキーリング」では〈だからわたしは、もう二十年も前から同じ家で寝起きして同じパンを切り分けて食べてきた人間をあえて「あの人」などと呼んで〉という記述がある。

「あの人」とは「わたし」の恋人なのだろうか?  だが「わたし」は「あの人」に会うことがない(例外は擬似

的だが第十話だけである)。「カール・マルクス通り」の

末尾は次の通りである。〈でもこんなにたくさんの人がいて、自分の会いたいたった一人の人とは会えるんだろ

うか。時間を決めて、場所を決めて、待ち合わせして、約束の時間を楽しみにして、会った後は、そのことを日

記に書いて、何度も思い出して、霞のように消えてしまいそうな出逢いをしっかり固めていこうとするのだけれ

ど、都市は水のように指の間からもれて、人間たちは気体になって蒸発し、期待して、待っても、今日、あの人

はきっと来ないだろう〉。「あの人」と「わたし」は、親

しいが恋人同士ではない。

  こうした記述を読むと、ある想像を促される。それぞ

(16)

空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

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されていく。第三話「マルティン・ルター通り」では次のようである。

家つて、〈招待状を貰ったもとりになってあの人のしう   「いたし」はこの通りにわよ花屋の前を通り過ぎる。

に押しかけて行っても良いような気がして〉、つい花を買ってしまう。その花束を抱えて「わたし」は、歩き始

め、通りの店を覗いていく。ギリシャ・レストラン、古

本屋、公園。その公園に劇場がある。「わたし」はその中に迷い込んでしまう。すると高校生の芝居の稽古が行

われていて、それはショル兄妹

)3

の劇だった。「わたし」は、彼らがこの通りに住んでいたことを思い出し、持っ

ていた花束を後ろの席において外に出る。だがこの芝居を見たことは、予告だったかもしれない。

  劇場の外に出た「わたし」は、また歩き始め、今度は〈場違いにカラフルな看板〉を掲げた小さなレストラン

に入り、バナナパンと紅茶(白茶)を飲む。そしてその店を出たところで、思考が凍結するような思いをする。 れの「話」で「わたし」が入っていくのは、先ほど確認したように人の名前のついた通りだが、「あの人」と

は、この名前の人なのだろう。その名前が付いている以上、その人はその通りに居るはずだ。そのひとに会おう

として、「わたし」は通りに入っていく。しかしその人は、名前がそこに記されているにもかかわらず、そこに

現れることがない。

  私たちは、『百年の散歩』の解釈を『変身のためのオピウム』の「アリアドネ」の章における通りの名前にか

かわる問いを延長することから始めたが、それでは、郵便配達人のようにその通りの住人であるはずのその名前

の持ち主に出会うことは出来たのだろうか?  だがその前にこの探索の途上で、起きる出来事に注意を払ってお

かねばならない。

  これら十篇の中で何が起きているのだろう?  すべて

が場所の名前を主題としていることから推測されるよう

に、空間が不安定に動かされているように見える。この動きは第一話、第二話ではまだ潜在的だが、次第に拡大

(17)

63

空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

   その隣には小さな花屋があった。内側から紫色の蘭に覆い

尽くされて中が見えない。身をよじって苦しむ蝶のようなあ

の蘭である。もしかしたらマフィアが、と思った途端、全く

別のものが視界に入って、脳内の話題が豹変した。つまずき

の石だった。アパートの入り囗の真ん前にはめこまれている

のですでに無数の靴に踏まれ、字がかすれている。それでも

まだ読めないことはない。マンフレッド・ライス、一九二六

年生まれ。殺されたのは一九四二年、アウシュビッツ。(

75)

  通りには、そこを歩いて行く人の思考を混乱させるスポットのようなものがある。ベルリンの町を歩く「わた

し」は、第三話でそのようなスポットにぶつかる。それはホロコーストというかたちを取って現れた。以後の

「話」の中でも、このようなスポットは現れるのだろうか?  そしてそれはユダヤ人虐殺と常に結ばれているの だろうか?  それともそのような限定を受けないものであるのだろうか?  ルターとの関係はよく分からない。

エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』でプロテスタ ンティスムがナチズムに結びつく経路を解き明かしたが、そのような連想があるのだろうか?  以下簡潔に、空間の動きが起きるかどうか、検討してみる。第四話「レネー・シンテニス通り」で、レネーは彫刻家で、一九三〇年代のナチの時代に作品が差し押さえを喰らったこともある。彼女は動物の彫像を幾つも

作っており、ベルリン映画祭の金熊賞の熊も彼女の作

で、彼女の作品集を見た「わたし」は、ほかにもブロンズの子馬像があるのを知る。その記憶が「わたし」に甦

る。通りの先には同名の広場があって、玩具屋があり、「わたし」がそこを通りかかると、店先にたてがみが茶

色いフェルトでできた木馬が置かれていて、それがひとりでに動き始める。「わたし」はあわてて後を追う。木

馬は、広場の真ん中にある公園の中に入っていく。するとそこにブロンズの子馬が立っている。「わたし」は次

のように思う。〈わたしは何度この広場を訪れたことだ

ろう。広場の楕円形をたどり、そこからあらゆる方向に伸びる道を丹念に歩き、また広場に戻るということを何

(18)

空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

64

ワープの現象なのだろうか?

ロレタリア階級の中に移動している。同じ場所に留まっ   「わたし」はおそらくプ

ている人間は足首に足枷がはめられていることに気づくことがない、というローザの言葉が引用されている。

  第六話「プーシキン並木通り」の舞台になる通りには、大きな公園がある。「わたし」がそこに入っていく

と、第二次大戦中にベルリン解放の戦闘で死んだソ連軍

兵士(プーシキンの末裔たちである)の記念碑がある。ドイツ=ベルリン解放のために一番多く死者を出したの

はソ連軍だが、ベルリン市民は、自分たちを救ったのはアメリカ軍だと思っている。「わたし」は、赤軍兵士の

功績を示す壁画群を辿っていく。それは固定された記憶を覆すこと、別の記憶の層の中に入っていくことであ

る。

  私たちは、これまで読み取ってきたことを反省的に総

括しなければならない。共通して言えることは、「わたし」がベルリンのある場所を歩いていると、別な空間へ

墜落してしまうような経験が起きるのである。そのよう 度繰り返しただろう。それなのに広場の真ん中に子馬が立っていることには今この瞬間まで気がつかなかった〉。

「わたし」は、見慣れた風景の中にいながら、これまでとはよく似ているが、どこかが異なる空間へと導き入れ

られたのだ。

  第五話「ローザ・ルクセンブルグ通り」の表題になっ

た通りには、バビロン映画館という名の映画館がある。

そこではポーランド映画祭が行われていて、「わたし」はワルシャワ(ローザはそこで生まれたユダヤ人で、ベ

ルリンで死んだ)を舞台にした映画を見る。「わたし」は別の日にまたこの通りにやって来て、今度は近くにあ

る「人民舞台」という名の大きな劇場の建物を眺めていると、いつの間にかその中に入っている。〈気がつくと

人民舞台の中にいた。最前列の席だった。借金に追い詰められた人たち、遺産目当てに早く死ねばいいとみんな

が思っているけれどまったく死にそうにない老女、借金

から人を救うために賭博をする青年などが次々舞台にあらわれた〉。これはいわば場所を不意に移動してしまう

(19)

65

空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

な経験はなぜ起こるのか?

の名前の付いた場所であることが重要だろう。名前が今   「わたし」のいるのが、人 回なぜそのような作用を持つか?  それは彼らが歴史上何かをなし得た人であって、そのことは、彼らが現状を

固定するのではなく変化させたということであって、彼らの名前はこの力を潜在的に持つからであり、今回「わ

たし」が彼らに会おうとすることは、その力をもう一度

動態化することにほかならない。結果として、動きの中に在る過去のあるいは別の姿がそこに現れてくる。

  私たちはこの論考で、空間が多層化し、せめぎ合い、相互に嵌入し合うのに関心を向けてきたが、それはある

点で観念的な操作であるように見られてきた。しかし、この動きは実は、もっと実践的な動きだということが、

『百年の散歩』には現れている。空間を動かすことは、歴史的な意味を揺るがすことにどうしても突き当たる。

『百年の散歩』は、ベルリンという町を舞台に、この必然をより良く示している。この意味でそれは、都市の成

り立ちに対する実践的な批判である。   批判は、場所の名前の選択にまず見ることが出来る。十の名前のうち、カール・マルクス、レネー・シンテニス、ローザ・ルクセンブルグ、トゥホルスキーはユダヤ人である。そのほかにも、第三話「マルティン・ルター通り」がそうであったように、ユダヤ人のイメージがしばしば喚起される。それはもちろんドイツとベルリンには、ユダヤ人の存在の重さがあるからだが、この偏重もまた相対的である。他方で、題名だけでも、プーシキン通りやマヤコフスキーリングが挙げられるからだ。前者では、今見たように、ベルリン解放のためにいちばん貢献したのはアメリカ軍よりもソ連軍だということが提示される。しかし『百年の散歩』は、そのような個別的な問題には限定されない。  もう一段下って確認しよう。興味深いのは、第一話「カント通り」のある部分である。「わたし」がタクシー

を「楽しー」と呼んでいることは先ほど見たが、ある時

「楽しー」に乗った「わたし」に、運転手は次のように言うのである。

(20)

空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

66

多いけれど、という女主人との会話は次の様である。〈   当てずっぽうに、「あなたはドイツ人ではないので

すか」と訊いてみた。女はすました顔で、「わたしはドイツ人よ」と答え、それから「母はフランス人で、父は

東プロイセンの出身」と付け加えた。「それじゃあ典型的なべルリン人ですね」と言うと、初めて嬉しそうに頬

を崩してうなずいた〉。母がフランス人で典型的なベル

リン人、と言った時、それはベルリン成り立ちを仄めかしているのだろう。このフランスあるいはユグノーとい

う主題は、第四話「レネー・シンテニス通り」とも共通している。〈名前から判断すると、レネー・シンテニス

はたぶんベルリンに移住してきたユグノー派フランス人の家系だったのではないかと思う〉とある。

  これらがなぜ興味深いかと言えば、ベルリンを相対化するからである。この町はドイツ第二帝国と第三帝国の

首都であり、汎ゲルマン主義のみなもとであり、戦後の分割と統合を経て急速度で再びヨーロッパの政治的・経

済的中心となった。このゲルマン民族の中枢であると見    ユグノー派の人々がフランスから逃れてこの土地にやって

きた時には、まだ

Berlin

という都市があったわけではなく、

いくつかの村が集まっていただけだった、と楽しーの運転手

は語り始めた。まるで最近の出来事を語るような口調だけれ

ども、実際はもう三百年も前の話だ。「

Berlin

を都市にした

のはフランス人ですよ。今でもベルリン人の五人に一人には

フランスの血が流れている。わたしのようにね」と言った。

16)

  これは事実であって、フランスでは一六八五年のナン

ト勅令の廃止によって、ユグノーと呼ばれるカルヴァン派の新教徒はオランダ、イギリス、スイスに逃亡し、一

部は当時のプロイセン王国のブランデンブルグに住み着き、そこからベルリンの発展が始まる。フランスの話

は、第三話「マルティン・ルター通り」でも浮上する。「わたし」はカフェで紅茶を注文するが、女主人は「白

茶」を持ってくる。ドイツ人には白茶を知らない人が

(21)

67

空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

なされている都市を、フランス人によって建設され、ユダヤ人の記憶を保っている町として取り出すことで、そ

のアイデンティティと単一性が相対化され、そこには複数の空間が整合的でなく重なり合っていることが示され

る。後半の四つの話は、そのようなパースペクティヴの中で、読めるだろう。

  第七話「リヒャルト・ワグナー通り」は、反ユダヤ主

義の問題が取りあげられるのではないが、現代ドイツの移民問題が浮かび上がる。冒頭は、八本の細い柱になっ

て水が噴き上げている噴水の記述から始まる。それはこの通りにあるドイッチェ・オパーと呼ばれるベルリンの

オペラ座のテラスであるらしい。噴水の下には、池のように見える水面が拡がっているが、それは細い排水溝で

囲まれた平面のうえに水が流れているのであって、 〈表面張力の助けを借りて水がかすかに盛り上がっている  深さではなく高さのある池〉、つまり倒錯的な水の層である。

  そこに別種の液体が重なってくる。最寄りの地下鉄駅 で〈立ちション事件〉というのがあって、これは立ち小便をしていた老移民を、女子高生たちが女性への侮辱だとして殴打したという事件だが、事件を知った「わたし」は、都市の中に清浄な水ではない液体の層があることを考える。〈都市を濡らしているのは清らかな水だけではない。恐れに震えながら排出されたものすごい量の尿が地面の下を流れていく。尿だけではない。洗剤や消毒液や殺虫剤を含む汚水が無数の建物から排出されて、地下を流れていく。それでもその汚い水が地下でおとなしくしている間は、わたしたちは地下の存在さえ忘れて日々の生活にまみれている〉。

  そして彼女は、水位の上がったヴェネツィアのように、いつか町が水に覆われてしまう日が来るという話を

ラジオで聞いたことを思い出す。水に対するこの恐怖は、「あの人」と共有のものでもある。そうして二人は

スイスの山の中に引っ越すことを考え始める。これは都市の地層が位置替えをするという幻想であろう。

  第八話「コルヴィッツ通り」では、もうひとつの世

(22)

空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

68

界はより明瞭に現れる。「わたし」はいつも通り町を歩いていて、気がつくと家とは全く別の方向にあるコル

ヴィッツ通りに来てしまっている。なぜこんなところに来てしまったのか思い出せない。通りの南端にある自然

食料品店に入ると、彼女は不思議な経験をする。

   その時、後ろから手を握られた。ふりかえると、子供の幽

霊が立っていた。幽霊はまばたきもせずにわたしの手を勢い

よく引っ張って、店の奥に進んだ。幽霊なのでその手は温か

くはないが離してしまいたくなるほど冷たくもなかった。

181)

  子供は、鼻の下が乾いていて無数の皺があり、付け根

からやっとぶら下がっているような細い腕を持ち、薄い胸とふくれたお腹をしている。この子は今の時代の子で

はない、と「わたし」は気がつく。食料品店を出ると、町の光景が白黒絵画に変貌していて、自分がいつの時代

を生きているのか分からなくなる。「わたし」は数人の 子供たちに囲まれ、一人が〈病気になったらお医者さんに行けばいい。お金がなくてもコルヴィッツ先生が見てくれるから〉と言う。コルヴィッツは貧民の救済に尽くした医師であって、それが通りの名前になっているのだが、「わたし」は子供の言葉を聞いて、医師の妻で画家でもあったケーテが残した、子供の飢餓を訴える有名な一九二〇年代のポスターを思い出す。子供たちはこのポスターから出てきたにちがいなかった。「わたし」は、百年前の時代に移行してしまったのである。さらに「わたし」外に出て老女と出会うが、彼女はケーテであって、第一次大戦に送り出して戦死してしまった次男を悼み、そのままイエスの死を悼むマリアの像に変身してしまう。それを見て「わたし」ははっと我に返る。  第九話「トゥホルスキー通り」も、良く似た経験を語っている。トゥホルスキーは、一八九〇年生まれの作家(三五年死去)で、同時代の社会に対する風刺に満ちた作品を発表する。彼の名を受けた通りを「わたし」が

歩いていると、ユダヤ教のシナゴーグがあり、そのとな

(23)

69

空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

りに、ダビデの星のシールを窓に貼った店がある。そこに入ってペパーミント・ティを飲み、リンゴ・ケーキを

食べる。用を足したくなってトイレに行くと、ドアが三つある。どれが婦人用なのか見当が付かないまま、当て

ずっぽうに一番奥のドアを開けると、教室があって、本を読んでいた十五人くらいの園児が一斉に顔を上げて

「わたし」の方を見た。間違ったドアをあけるほど、恥

ずかしいことはなく、代金を払って逃げるように外に出て早足で歩く。すると疑問が湧いてくる。

   逃げながら一つ気になることがあって、気持ちが落ち着い

てくるとそれが言葉としてかたちを成してきた。今見た子供

たちが身に付けていた服は戦後のものではなかった。あれは

店に飾ってあった写真の時代、ほぼ百年前の子供たちだった

のだ。トウホルスキー通りがまだ大砲通りと呼ばれていた

頃、このゲマインデ(コミュニティ)に集まってきていた人

たちだ。幼稚園を作ってヘブライ語の字を教え、本を読むこ

とを教えた。(

207) たれら取め絡瞬一に界世のはそ」したわ「る。あで上の 第二次大戦によって消滅したユダヤ人コミュニティの浮   これも明らかに百年前には存在し、そしておそらくは

だ。

  第十話「マヤコフスキーリング」は、最後に置かれて

いるだけあって(いや次のことがあるために最後に置か

れたのだろうが)、興味深い。これはリングつまり環状になった通りであって、この循環性のために、通りが持

つ別の世界への通路の意味をむしろ自分のうえに反復させ、強化して浮上させる。大通りをはずれて一度この輪

の中に入ってしまうと、エンジンの音がすべて消えて、静まりかえってしまうというのは、そこに働く力の集約

を示すのだろう。そのことが新たな局面を切り開いてみせる。実はマヤコフスキーはベルリンには何度か来てい

るが、この通りには特に関係はない。しかし、このような集約力を持った地形に詩人の名を与えることで、今回

は詩人を実際に出現させてしまうのだ。

(24)

空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

70

がえ人」に会うことを考る。あ通りには大きな公園の「   「やたし」はこの通りにわにて来て、いつものようっ

あり、そこに「喜劇役者の休息所」という奇妙な名前のレストランが出来るが、それは潰れる。「わたし」が

行ってみると、建物は残っていて、マヤコフスキーの名前を採った新しい店になっている。このようなへんぴな

ところには「あの人」は来てくれないだろうなどという

思いに捉えられたあとで、「わたし」は中に入り、誰もいない店の中でテーブルに着き、詩人の履歴とりわけ

リーリャ・オーシプとその夫の絡む三角関係の恋愛譚を反芻する。その時背後で物音がして、「わたし」の注意

はそちらに引き寄せられる。

   がちゃんと音がしたので振り返ったが、奥にあるドアは開

く気配もない。もしそのドアが突然開いたら、入ってくるの

は誰だろう。あの人が入ってくるところを思い浮かべた途

端、生暖かい息を額に感じてぎょっとした。わたしの隣にす

わっているのはマヤコフスキーだった。ありえないことだけ れども、彼はやっばりここにいるらしい。   「ドアが開いて、あの人があらわれる」

   とマヤコフスキーがぼそっと言った。(

236)

  ではこれはついに地名の保持者を見出したということなのだろうか?  いやそう簡単には言えそうにない。

「わたし」がマヤコフスキーに「誰があらわれるんです

か」と尋ねると、〈僕の親友でもあるし、リーリャの夫でもあるオーシプという男」という答が返ってくる。マ

ヤコフスキーであったはずの「あの人」は、ずれながら別の人物へとアイデンティティを移していく。

  すると今度はいつの間にかマヤコフスキーが消えている。「わたし」もまたリングから大通りに出てみると、

詩人の遠ざかっていく姿が見え、通りを渡るが、その姿を見失う。ただ酒場のドアが開いていて、中を覗い

て「あの人」を見つけたように思うが、それはリーリャで、その夫オーシプと一緒にいる。〈中を覗くと、真ん

中のテーブルにあの人がすわって、こちらを見ている。

(25)

71

空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

そんなはずはない。目をこすって、もう一度よく見ると、そこに坐っているのは、リーリャだった〉。リー

リャは目だけを「わたし」の方に向けて合図をするが、〈たぶんわたしをマヤコフスキーだと思い込んでいる〉。

そこで「わたし」は、マヤコフスキーとなって彼らのテーブルに着く。そのあとは次の様である。

   リーリヤはわたしのセリフを無視して、夫の目の中を覗き

込んで、ねばっこく微笑んだ。オーシブは包み込むような微

笑でそれに応え、それからわたしの方に同じくらいやさしい

視線を向けて、

   「詩は書けたかい?」

   と尋ねた。全く嫉妬していない。わたしをマヤコフスキー

だと思い込んでいることは確実だが、そのわたしが妻を奪う

可能性など計算に入れていないようだった。オーシプの顔は

どこか、あの人の顔に似ている。

   「いっしょに何か食って行けよ」

   とオーシプがマヤコフスキーの顔をしたわたしに言った。   この場面でリーリャは「わたし」をマヤコフスキーだと思い込み、オーシプもつられてそう思い込み、他方でオーシプは「あの人」に似始める。つまりこの第十話を通して、マヤコフスキー、リーリャ、オーシプの関係の中で、その三角関係という軋み合いを利用し、それぞれが自己を喪失して「あの人」となり、さらに、本来は

他人であるはずの「わたし」も、その中に引き入れられる。「あの人」について言えば、彼は潜在的に「わた

し」の同居人であり、マヤコフスキーであり、さらにリーリャでもオーシプでもあり、「わたし」でもあり、

だから本当はそれらのうちの誰でもない。

  こうした重複によって、「わたし」も含めてこれらの

諸人物は、至る所に存在し、浮遊し、アイデンティティを交換する存在なのだ。それは『文字移植』のゲオルク

が聖ゲオルクとただのゲオルクの間でさまざまの濃度をもって現れたのと似ているが、それがもっと複雑化され

た姿だろう。またそれは『変身のためのオピウム』の郵

(26)

空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

72

便配達人の打ち当たる経験となるのかもしれない。十篇の物語で明らかにされるのは、このような揺れ動く存在

であり、ひるがえって言うなら、発語者たちのこのようなあり方がこれらの物語を動かしていたのだ。

 

  4 村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』

  この論考は、現状の世界がどこかで別の世界へと落ち

込んでしまう、あるいは逆に、ある裂け目から別の世界が呼びかけてくるという現象に否応なしに惹きつけられ

てしまう人間がいる、という理解の下に、幾人かの作家たちを検討している。その一人に村上龍を数え、冒頭

で「コンビニにて」(二〇〇一年)を取り上げ、ルームトーンを聴くというかたちで、もう一つの世界からの呼

びかけに耳を傾けてしまう若者の姿が描かれているのを見た。この作品は短編であって、それだけ簡潔に特徴を

読み取ることは出来たが、この作家の本領はたしかに長編にあるので、この種の作品の中で、彼におけるもう一

つの世界との関係を確かめてみたい。取りあげたいのは 一九八〇年の『コインロッカー・ベイビーズ』(講談社刊、上下)である。これは村上の初期に属する作品だ

が、今でもその衝迫する力は変わらず、彼の最良の作品の一つであり続けている。

  一九七二年夏、コインロッカーに赤ん坊が発見される事件が続発する。多くの場合赤ん坊は死んでいたが、生

きて発見される場合もあった。作品中では、後者には二

つの例があったとされ、これは酷暑の夏のコインロッカーを生き延びて発見された二人の赤ん坊の話である。

彼らは横浜の乳児院に収容され、キク(関口菊之)とハシ(溝内橋男)と名づけられ、双子のように   キクの 方が兄貴分で、ハシを保護する   育てられる。

  彼らは、その出自のためか、幼年期に異常な行動を起

こす。キクはジェットコースターから降りないというふうに、〈地面の上で動かずにいることが不快でしょうが

な〉いと感じる子供だった。ハシは、内に籠もってジオラマ造りに熱中する。心配したシスターは、二人を精神

科医に見せる。医者は、彼らがコインロッカーの酷熱を

(27)

73

空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

生き延びたことで自分に異様な力が備わっていると感じていると考え、その力を、彼らがそれをコントロール出

来る年齢になるまで封じ込める治療を加える。つまり、彼らに睡眠誘導剤を服用させて穏やかな熱帯の映画を見

せ、その間に、胎児が聞くという心臓音を聞かせ、力の暴発を緩和しようとした。治療は成功し、彼らは普通の

子供となり、その結果小学校入学の前の夏に、二人揃っ

て炭鉱のあった九州の離島に住む夫婦に引き取られ、そこで少年時代を過ごす。

  作品は、彼らが自分の中に封印されたこの力をどのように見出し実現するかを語る物語となる。その力はキク

においては暴力として、ハシにおいては音として現れてくる。二人はまず対等で、隠された力と音は表裏一体を

なすものとして叙述される。その意味で、これは二重になった物語と見なすことが出来るだろう。しかし、それ

ぞれの発見と実現の過程は、次第にハシの側に力点を置いて追及されていくように見える。以下に見るように、

変化が起きる時、それは概ねまずハシにかかわって起き るし、また最後の実現はハシを通して捉えられるからである。『コインロッカー・ベイビーズ』は長大な作品

で、登場人物も多いが、この封印された力の二人における探求に絞って読むことにしよう。

  最初の場面は次の様である。中学生になった時、小さくなった服の代わりを買おうとして養母の和代は、二人

を連れて佐世保の町に出てくる。デパートで買い物を

し、そのあと屋上に出ると、アトラクションが行われている。そこでハシは催眠術を掛けられることによって、

かつて精神科医のところで同じ催眠術によって封じ込められていたあの力を解き放ってしまう、少なくとも、触

知してしまう。ハシは催眠状態から戻らないまま、会場から逃走し、行方をくらまし、気を失った状態で発見さ

れ、以後、家に閉じこもり、テレビにかじりつく。朝から深夜放送までテレビの前から離れない。だがそれには

理由があるのだ。ハシはキクに次のように話す。

   キク、僕はね、別に狂ったわけじゃないんだよ、ある物を

(28)

空間の輻輳に関する試論 Ⅵ

74

捜してるんだ、憶えてるかい?  病院に行って、映画を見た

だろう?  波や、グライダーや、熱帯魚の映画だよ、あの時

のことを、催眠術をかけられた時に思い出したんだ、あれ

ね、音なんだ、僕達ね、あそこで音を聞いてたんだよ、その

音を僕は催眠術の中でもう一度はっきり聞いたんだ、驚いた

ね、キク、きれいな音だよ、死にたくなるようなね、きれい

な、それでね、僕、テレビの中からその音を捜してるの、全

部の音を聞こうとしてるんだよ、料理番組でね、ガラスのお

皿とグラスが触れ合ったり、熱いフライパンの上で卵が固

まったり、そんな音、拳銃や爆弾、飛行機や夙の音、アコー

ディオンやチェロ、楽器の音は全部頭に入れたよ、ドラマの

中で女のスカートがはためく音、キス、ハイヒールが鉄の階

段を叩く音、そう、僕ね、テレビを見ながら目を閉じたり開

けたりしてるんだ、この世の中のね、ね、音を全部憶えたい

んだ、あの、僕達が、病院で開かされた音の正体がわかれ

ば、僕、学校に行くよ。(上

48)

  ハシは自分の中の封じ込められた力を音として探り当 てる。だがそれが何の音であるかはわからない。それを知ろうとして、彼はテレビにかじりつく。しかし、テレビの音は、粗雑に操作され改変された〈豚の鳴き声〉に過ぎない。だが彼は諦めない。学校へ戻ってからも彼は耳を研ぎ澄まし、ありとあらゆる種類の音と音楽を開くようになり、音階やリズムや和音の初歩的な勉強も始める。その結果彼は歌手になりたいと考えるようになる。  他方キクは、小学校に入学したばかりの時に、校庭を通りかかった老婆をお前の母ちゃんだろうとからかった同級生を半殺しにする。彼はこの出来事によって暴力に目覚める。体を動かすことに快楽を感じ、廃墟に住む男ガゼルから〈人を殺したくなったら、このおまじないを唱えるんだ〉と言われ、「ダチュラ」という不思議な言

葉を教えられる。

  高校に入って、キクは高い身体能力を見せて棒高跳び

に熱中し、ハシは音楽に対する感受性を示す。その頃、もう一つの出来事が起きる。彼らは捨て子として当然な

がら母のことを考え続けているが、ある時ハシは、テレ

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泥炭ブロック等により移植した植物の活着・生育・開花状況については,移植先におい