宗 教 組 織 の 発 展 と 分 派 の
類 型
山
素 光 口
宗教組織の類型としてもっともよく知られているのは︑教会︵
ロ
n F 2
︶と分派︵由
23
の二類型である︒元来このF
類型論は国教会と分派が明確な対照をなしているヨーロッパにおいて︑特にトレルナ︵問︑
H
︐g巴g n
︶などによって
y
発展させられたものであった︒ところがその後アメリカにおいて︑これに色々と修正が加えられたのであるが︑それ
即ち
︑
ヨー
ロッ
パと
選一
つ︑
て︑
ヨーロッパと比較にならないほど多様性を有している事情によるものである︒
アメリカでは非常に多くの大衆的宗教組織が繁栄し︑また︑ はひとえにアメリカにおける宗教が︑
ヨーロッパにおける国教会
︵ 凹
g
同ゅ
のF
5 円
げ︶
も︑
アメリカに移入されると︑包括的なメンバージップをもった確立的教会︵
gE
豆 町
F E n F Z 2 3
にはなりえず︑成員や権力や影響力を獲得しようとして︑分派とのみならず︑他の諸教会と相互に対抗しあうのであ
るQそれらの大多数はトレルチの類型論による教会と分派のいずれとも有効に分類しえぬものであって︑アメリカの
宗教型公巴柱︒
5 B 2 2
ロろを分析するには︑
って
くる
︒
の修正が必要にな教会l
分 派 類 型 論
♀
z
n F
己 吋 各
g z q 3 z m
可﹀
宗教
組織
の発
展と
分派
の類
型︵
山口
︶
宮大経済論集
‑104
ー社会学的研究により一層役立つものに再製しようとする
ω
多くの試みがあるが︑それには大きく分けてニつの撞類がある︒その一つは︑ニーバ1︵H
N W V ω E Z W σ z F 3
によ
ってもっともよく代表されるもので叫彼はトレルチの類型論の類別的なないし静的な性格︵
n E 8 5
見
2
︒ 可
2
a 巳 昨 日
さて
︑
アメ
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にお
いて
は︑
この教会l
分派
類型
論を
︑
n v R R
分派は本来的に不安定で常に教会へ発展する傾向があるという仮説にもとずくプロろを批判し︑
R
ポジショナル・スキlムの中へ︑この類型論を組入れようとする︒このような立場かちすれば︑教会と分派は本質的
そし
て︑
に異なったものとしてとらえられるのではなく︑両者の聞には連続的で動的な発展的関係がみとめられる︒その点で
は分派i教会連続体︵
82
n E E F g E E C C B
︶を構成するとでもいえようか︒それに対して︑もう一つの種類の試
いわばそれらの類型自体の明確化に焦点がおかれるものであり︑その試みはベッカ1
︵ 国
0 4
﹃白邑
∞
R
ゆ
W
る︑
ィ
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l
ハ宮
口宮
口
J E
ロ問
︒円
﹀︑
バ lガl︵
p w g
円∞
ω
品︒吋︶などによって代表される︒彼らはいずれも︑彼らが重要であみは
︑
る考えた諸特質を具現するように︑多くの場合︑単純な分派l教会二分法︵
e n F o
可
g s
︶に
よる
ので
はな
く︑
幾っか
のサプ・タイプを加えることによって︑その類型論を洗練させ発展させてきた︒
もちろん︑両方の試みは全く無関係に行われるものではなく︑深く関連しあい︑相互補完的であるといってよいで
あろう︒前者の試みは当然類型自体の洗練︑明確化に導くであろうし︑後者の試みもまた諸類型閣の動的な関係につ
いての一層綴密な究明を含みうるのである︒その点で︑これら両方の試みが両々相待って︑宗教組織の類型論をより
一層現実にマッチしたものへと修正発展させてきたといえるであろう︒
ところで︑分派の教会への発展については︑すでに宗教組織の世俗化ないし制度化︑更にその過程と社会階層との
関連において︑若干の考察を試みたばしかし︑分派から教会への単純な単一直線的な発展︑即ち︑すべての分派が時
の経
過と
とも
は︑
一様に教会へのプロセスを辿るという一般化は︑必ずしも現実に妥当しない︒通常︑分派とよんで
いるものには︑色々と性格を異にする下位型守口
σ 2 4
胃︶を含んでおり︑その中のあるものは︑すみやかに教会に発
展するが︑他のものはそのま
L
の状態で長期間存続するcここにおいて︑分派の組織的な発展との関連において︑分派の概念や分派の下位型の明確化︑それらの特質の究明が必要であろう︒先にあげた教会分派類型論の再裂のため
のニつの方向の試み︑即ち︑宗教組織の類型をその動的な発展的関係において把握しようとする方向と︑類型自体の
明確化に焦点をおく方向の両者の接合が要求されるわけである︒そこで︑宗教組織︑特に分派に焦点を合せて︑分派
の諸類型及びそれらの組織の発展やそれを規定する諸要因に︑少しく照明をあててみようとするのが以下本稿の目的
であ
る︒
註
ω
ロ国
三色
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品同拙
稿﹁
宗教
組織
の発
展と
社会
階層
﹂叶
富大
経済
論集
﹄︑
第十
二巻
第三
・四
合併
号︑
昭和
四十
二年
一二
月︑
三六
六
l
八六
真︒
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ここ
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会︵
円︸
5 5 F C
円 巾
2
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︶︑
宗派
︵色
町口
︒
55
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概念
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拙稿
﹁宗
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団の
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特質
︵下
︶﹂
︑寸
皆同
教文
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︵一
角野
山大
学︶
︑第
七六
号︑
昭和
四一
年九
月︑
四六
t
六C
参照
︒
まず︑分派が時の経過とともに教会の特性を生じ︑分派の特質を喪失していくという仮説の検討からはじめよう︒
ニ ー バ
lは﹁分派的集団はまさにその本質から考えて︑一世代の聞のみ妥当するにすぎない︒第一世代の自発的成
宗教
組織
の発
展と
分派
の類
型︵
山口
︶
富大経済論集
四
‑106‑
員に生まれた子供たちは︑彼らが分別年令に達するずっと前に︑その分派を教会にしはじめる︒というのは彼らが生
れてくるとともに︑分派はその伝統的になりつ
L
ある理想や慣習に新世代を同調させる目的をもった教育的訓練制度の性格を帯びるからである己と述べ︑また︑ベッカlは﹁自意識の強い分派の初期の熱情は︑一般に第二ないし第
世代までには消失しまう︒そして︑信者の子供を訓練するという問題は︑分派発展の初期の段階に特徴的なメンバー
ω
シップに対する厳格な必要条件に何らかの妥協をよぎなくさせる︒﹂と指適しているQこれらは︑分派型の組織がせいぜい一世代の間だけ存続し︑第二世代には制度化がす
L
んで教会に変質することを指適したものである︒宗教組織の類型論において︑前述のごとく分派と教会をいわば一つの連続体の両極としてとらえる立場があるが︑これは分派
が教会へと絶えず変質することをよぎなくされているという現実に即したものである︒この立場は特にニ1バI︑更
︵円
︑目
的円
︒ロ
句︒
匂ろ
など
によ
って
発展
させ
られ
たも
ので
ある
科︑
にそれを受けついでリストン・ポlプインガーもまた
このような分派と教会の関係を強調する︒もちろん︑彼は単一直線的な分派と教会の発展的連続性を是認するもので
はない︒分派が絶えず教会へ発展してゆくという傾向を認めながらも︑彼は宗教組織の類型自体の明確化に多大の関
心を示し︑後述するように︑分派と教会に幾つかの下位型を設け︑それらの特質を究明しようとしている︒
こ こ で
は︑まず︑分派から教会への発展に関するインガIの所説から検討することにしたい︒
さて︑インガ1が使用する分派と教会の両概念は︑もちろんその多くをトレルチに負っており︑トレルチの概念と
はほど一致するものとみてよかろう︒すなわち︑教会は世俗的な世界の力を是認する宗教集団であり︑宗教的理想の
純粋性を求めて︑世俗的世界へ影響を与えるのを断念したり︑あるいは世俗的権力を亘接否定して︑その立場を失っ
たりしないで︑むしろ現存する社会の中の主要な要素を容認し︑そして社会の中で︑発言の機会をもつことのできる
立場にとどまろうとする︒それ故に︑教会は妥協を基礎とし︑変通自在︑順応的である︒また教会は普遍性を主張す
るとともに︑個人は自発的に加入するのではなく︑その中へ生み込まれ︑教会と社会は合致する傾向をもっ︒教理も
当然保守的であり︑現在の権力を平和時も戦争時も支持する︒そこで︑教会は﹁世間を支配するが︑それ故に︑世間
また︑教会は﹁国家や支配階級を利用し︑これらの諸要素を自らの生活によって支配される﹂といわれるのであり︑
に織
り込
むが
︑
その時教会は現存の社会秩序の不可欠の部分になる︒そこで︑教会は社会秩序を安定させ︑
︵ト
レル
チ︶
ので
ある
︒
決定す
るが︑そのことによって︑教会は上層階級とその発展に依存するところとなる﹂
他方︑教会の世俗的な力との妥協︑教会的構造の硬直性︑多様な個人や集団の要求を満足させる能力の喪失は︑分
派の発生を促がす︒分派は共観福音書
3 M 1 5 3 w
︒︒
印宮
町︶
に対
する
文字
通り
の忠
順の
承認
︑
個人の完成と禁欲主義を
強調する9そして︑それは急進的な傾向をもち︑持続性を欠如した小集団であってメンバーシァプも自発的である︒
階層的には
τ
層階級と結びつくのが普通であり︑国家に対しては敵対的であるか︑無関心であるかのいずれかであって︑教会的秩序にも対立する︒また︑分派は世俗的権威から自由な俗人の宗教︵−
32E
包c s
であ
り︑
一方
では
︑
禁欲主義において世俗を忘却するか︑あるいは他方では︑急進主義において世俗と闘うことができる︒
々分派は﹁妥協よりも孤立を選ぶ︒﹂といわれるのであち であるから屡
ところが実は︑このような分派も歴史の流れの中で存続︑発展しようとするならば︑次第に現実と妥協し︑はじめ
敵対していた教会へ再び発展しなければならない︒はじめ教会に対立し︑挑戦することによって生じた分派自身が︑
今度は教会に転化することによって︑その存続が保障されるという逆説的な傾向は一体何に由来するのであるか︒
イ
ンガーによれば︑それは宗教集団が本来持っところの免れがたいディレンマ︑即ち﹁宗教的理想の要求と世俗的イン
タレストの要求の聞のシリアスな葛藤﹂︑換言すれば︑﹁宗教的なインタレスト及び忠誠と︑宗教的な教えに屡々矛
盾するその他の強い諸インタレスの聞の対立﹂に由来するというのである︒
宗教組織の発展と分派の類型︵山口︶
五 ー
宮大経済論集
7
ミ‑108 一
一宗教のもつ価値の達成には︑屡々御し難い人聞に対して︑何らかの種類の力︵句︒認めるが必要であり︑
かく
して
︑
宗教的表現は組織のうちに体現されざるをえない︒しかし︑このような宗教の組織への体現は︑世俗的制度によって
使用される方法
l
例えば︑懲戒︑恐怖よる忠順の強制︑分別年令に達しない幼少者の教化のようなl
の採用をよぎなくさ
せる
し︑
また︑同時にもろもろの世俗的インタレストを組織の中へ包み込むことにもなる︒そして︑その組織の
範囲が包括的になればなるほどますますその中に包まれる非宗教的インタレスも多くなってゆく︒このような世俗的
方法やインタレスを包み込みそれらに侵害されることによって︑宗教の本来の目的は大なり小なり挫折されるし︑
ま
た表面上は宗教的機能も世俗的なものの手段となり︑全く世俗的な葛藤のための﹁一つの武器﹂に転化することもあ
る
いずれにしても︑宗教の制度的表現
Q Z E 2 E E C
ロ 巳g M g
丘 g
g
件︒片
足ロ
ぬ窓
口︶
は二組の両立しがたい価値
を顕にするものである︒
一方
は宗
教的
観念
が中
心で
あり
︑他
方は
世俗
的力
︵印
刊の
ロ−
R H
︶O
君 ︒ 吋 ︶
しかも
に中
心を
おく
︒
宗教集団は世俗的諸力を無視するとか︑それらに打ち勝つことはできないのであって︑それらに直面して何らかの順
応をしなければならない︒そこにおいて︑宗教集団は世俗諸カの正当性を認め︑集団の要求がそれらと衝突する場合
あるいは︑世俗的諸力の正当性を認めないが︑それらとの衝突を避けて︑その集団の影響領域が限
には
妥協
する
か︑
定されるのを進んで認めなければならない︒
即ち
︑
世俗的諸力と対立する宗教的理想の具体的実現を大きく断念し
て︑宗教的要求を変更するか︑あるいは︑宗教的理想への忠誠をどこまでも要求するかいずれかというディレンマに
宗教集団は直面する︒前者を選ぶ場合には︑宗教的理想の多くを捨ててその小部分のみを守ることができるにすぎな
いが︑後者の場合には︑その集団はごく限られた少数の人たちの忠誠を守ることができるにすぎず︑一般社会への影
響力は限定されることになる︒
このようにして︑本来相容れない宗教的目標と世俗的インタレストの両者を抱えこんだ宗教組織のディレンマに対
する反応には︑二つの基本的夕︑イプが生じることになり︑その反応の相違から出てくる集団類型が分派型と教会型で
ある︒即ち︑ある種の集団の成員は彼らの理想を傷つけるのを徹底的に拒否し︑従って︑支配的な社会構造への常態的
な参加は回避されざるをえない︒そして︑彼ちが全体社会を支配しようとして︑世俗的諸力と対立し︑彼らの理想を
妥協させるよりは︑むしろ親密な小共同体の中で︑できるかぎり︑その理想を堅持したいと考える︒そこで︑彼らは
支盟的な社会構造の言わば外側にあって︑その理想と矛盾対立する社会の諸側面に対して︑直接的にか︑あるいは暗
黙的
にか
︑
ラディカ戸な挑戦をする立場にある︒このような集団が即ち分派である︒
とこ
ろが
︑
それに対して︑教会
はその理想を妥協させ︑その宗教的理想に適わなくても︑現状の基礎的なパターンを是認し︑そして支配力に寄り添
いながら自らを確立するのであり︑それ故に︑分派より一層フォーマルな影響力を獲得する︒また︑そのことによっ
て︑限られた小範囲内だけに影響力を維持できる分派とは違って︑教会は社会に広範な影響力を維持できるのであ
る︒しかし︑そのような教会の持つ影響力は︑純粋に宗教的影響力ではなくて︑宗教的衣裳をまとった世俗的力にす
ぎないかもしれない︒いずれにしても︑教会は現状と妥協し︑社会においてより一層重要な地位を獲得するのである
が︑それも妥協という代償を支払い︑その宗教的理想と矛盾対立する基礎的な社会的パターン︵例えば︑奴隷制度︑
不平等︑戦争など︶に直接的に挑戦する能力を犠牲にしてのみ達成されることを忘れてはならない
d
ある種の宗教集団が世俗との妥協の道を選び︑他のものさて︑このような宗教集団の二つのタイプの反応︑即ち︑
は世俗にラディカルな挑戦をしたり︑世俗を回避する道を選ぶというのは︑一体いかなる理由によるのであろうか︒
これには多くの要因が働いていると考えられる︒インガーによると︑その要因には︑宗教的シンボリズムの強さ︑
リ
ーダ
l
シッ
プの
資質
︵官
邸−
5︑
︶
と気質︵
g B H ︶ ゆ
5 5 2 d
︑その集団の伝統︑そして︑なかんずく︑その宗教運動が
訴え︑あるいは訴えようとしている人々の世俗的利害関係と階級的立場があげられるとし亡︑社会i経済的要因︑特
宗教組織の発展と分派の類型︵山口︶
七
宮大経済論集
八
‑110 一
に階級的要因の重要性を強調している︒色々な世俗的なインタレンストを抱え込んだ宗教組織の機能は︑決して純粋
に宗教的でも︑あるいは主として宗教的でもない︒キリスト教内の多様な集団や傾向は︑色々な世俗的な集団やイン
タレストや要求を表現するものであり︑各宗教集団はその世俗的集団の要求を強化するとか︑その立場を正当化する
とか︑あるいはそれを構成する諸個人の要求を満たすような特定の諸要素を強調する︒要するに︑宗教的分化は世俗
的相
関物
︵印
ゅの
巳何
回司
g コ 巾 −
22
︶を有しているのである︒﹁デノミネ1ショナリズムの社会的源泉︵凹on
山 田 −
g z R B
丘含
口︒
s −
D m
注目︒ロ丘
B
︶︺という概念も︑実はこの事情を表現したものであり︑宗教組織が社会的現実ないし世俗と町妥協するか︑妥協を排して理想に生きるかの選択は︑このような要因によって大きく規定される︒
即ち︑世俗的諸力の正当性を認め︑それと妥協してゆくという反応は︑ある意味において︑ォプティミスティック
な反
応︵
︒立
宣伝
門戸
の
B R t g
︶といえる︒それは社会における財や力の国分が比較的よくいっており社会には根本的
に邪悪なものは存在しないと信じ︑それ故に︑とにかく妥協も決定的なものではないとするものである︒それに対し
( て
i ~
= 俗
宮 と
お・ の
4 妥
。 恥ヂ
75
言即
t手 、
それへの挑戦ないし回避の道を選ぶ反応は︑世俗についてのペシミスティックな見解
そこには妥協してはならない根本的な邪悪が存在するとの確信にもとずくものである
といえる︒そして︑このような両者の反応の社会的背景を探るならば︑前者が上層ないし支罰階級に訴える宗教の道
であるのは決して偶然ではない︒社会の所得やプレスティ1ジにもっとも大きく与る集団が︑その社会を本来善であ
ると認めるのは当然であり︑それ故に︑その宗教的理想を比較的容易に妥協させるのも驚くべきことではあるまい︒
また︑後者のラディカ戸な分派的反応は︑もっとも特権を与えられない貧しい無産者︵忌ゆ℃︒︒門出口弘色町
E F m
氏 件ε
︒によって通常選ばれるものであることも偶然ではない︒彼らをそのように貧しい立場においている社会の布置に︑彼
らの非常に崇高な目的を妥協させることはできない︒結局︑彼らは﹁世俗﹂を回避し︑世俗的力の影響が全くないと
ころにおいてのみ宗教的理想は維持できると考える︒そこに純粋に宗教的な集団︵分派︶へと自らを形成するのであ
る︒もっとも︑分派的推進力公
SUE g 2 S
ュ−− 印 巾 ︶
が全く宗教的であるかぎりは︑そのような世俗の回避は比較的
効果的であるといってよいが︑しかし︑それが個人の問題を越えた道徳的要素︑即ち︑社会改革への願望のごときを
含むかぎりは︑明らかに世俗を回避するだけでは直接的な効果は持ちえないのは当然である哨
いずれにしても︑宗教組織の行動は宗教的インタレストだけによって推進されるものではない︒宗教的インタレス
だけによるものであれば︑富者の宗教も賞者の宗教と同様に分派的であるであろう︒しかし︑現実はそうではない︒
分派の成員たちが富を獲得し︑
︵ ﹁
紘 一
円 ︒
ロ 司
O
℃ぬ
︶
上層へ移動する時に︑分派は社会へのラディカルな挑戦から︑その社会構造の容認へ
このような分派の推移はそのことをよく示しており叫
によって詳細に究明されたところである︒ とその態度が変化してゆくが︑その点については︑
ポ l プ
このようにして︑宗教組織には︑大別して︑世俗との妥
協を排して理想にあくまで生きるか︑あるいは︑理想を犠牲にしてでも世俗と妥協し社会に大きな影響力を確立する
かのいずれかの道があるが︑前者の道は世俗的な権力と衝突し︑往々にして迫害され︑あるいは無視されて︑その存
続が保障されない事態さえもおこりうるQそこで︑宗教組織が存続発展しようとするならば︑多く後者の道を選び︑
その宗教組織は分派から教会への発展の道を辿ることになる︒
以上︑宗教組織の直面するつアィレンマ﹂︑それへの反応︑その結果として出現する宗教組織の分派型と教会型に
ついて︑主としてインガーに従って考察してきた︒しかし︑分派と教会の二類型をもってしては︑たとえ両者を連続
体上の両極としてとらえたとしても︑あまりにも概括的すぎて︑現実の分析の正確さを達成することは不可能であ
る︒そこで︑それらのもとに幾つかの下位型を設定して︑宗教組織の類型論をより一一層構綴なものにするとともに︑
更に︑分派から教会への単純な発展関係にも︑色々と修正を加える試みがなされたわけである︒
宗教
組織
の発
展と
分派
の類
型︵
山口
︶
九
1110
;同
S Niebuhr, op. cit., PP. 19 〜 20.
§ Becker
,Four Types of Religious Organization
,in Logan Wilson and William L. Kolb, Sociological
Analysis, 1949, p. 657.
§: Liston Pope, Millhands and Preachers, 1942. SE Yinger, Religion, Society and the Individual, 1957,
§ Ibid., pp. 145 〜 146.
§ Yinger, Religion in the Struggle for Power, 1946, E Ibid., pp. 219 〜 220. § Ibid., pp. 25 〜 26.
宣
Ibid., pp. 220
〜221. :8: Ibid., p. 18.
~ AJ 兵士 ~I\
−て戸Qjiii'螺制rnQ民マ
ιミ'f‑1‑,9
;♀向。
~ Yinger, R. S. P ., p. 26. a Pope, op. cit., ch. Vll. pp. 144 〜 145.
(~ドー笹 1同 R. S. P.
〕p. 25.
宣Ibid. p. 220. :g Ibid p. 28.
Ibid., p. 221. (~ド司法~ R. S.
I.〕
0
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Q榊Religion in the Struggle for Power, 1946?c よおユ ν 総司目 ..>J
キミ民士:£110 Q 刊臨 ~:!<;:14\i~ か 「ホ目玉
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て社会的統合機能への注意の程度﹂のニつの基準をもとにして︑ユニバーサル・チャーチ
︵ ロ ロ
Z2 ・
mm
Ln
yz 吋
の︸
戸︶
とカ
ルト︵
2F
︶を両極とする連続的な六段階の類型に分類される︒そこではユニバーサル・チャーチがもっとも多くの
社会成員を包括して普遍性が高く︑社会の統合機能も大きいと考えられ︑
また
︑
カルトはその一反対の特質を示すとさ
れる
わけ
でき
る︒
そのうち最初の三つの類型は一括してトレルチの教会型とほぼ一致するもので︑それぞれは教会型の下位型という
ことができる︒ここでは︑もちろん分派を中心に考察をすすめたいが︑一応これらの教会の下位型の特質を簡単に要
約しておくことにする︒
ユニ
バ
1
サー
ル・
チャ
ーチ
︵ロ
昆︿
ゆコ
出回
目︒
F5
1n
y ︶
代表されるもので︑社会の統合を支持する面でも︑社会のあらゆる水準の諸個人の要求を満足させる面でも︑比較的 十三世紀のロ1マカトリック教会によってもっともよく
そして︑宗教の主要な二つの機能︑即ち︑
個人の要求に対する機能と社会の統合機能が密接に関係しあっているという事実の両方の点において普遍的であると 成功しているタイプであって︑一社会の全成員を包含するという意味と︑
され
る︒
(2)
エク
レシ
ア︵
巾の
江市
田宮
︶
これもユニバーサル・チャーチと同様に︑社会のあらゆる水準に向って伸びてゆ
く︒しかし︑それは有力な支間的諸要素には順応し︑現存の社会体制を補強するが︑多くの信奉者︑特に下層階級の
要求を十分満たしえない︒その点において︑前者ほど普遍的でないといえる︒このタイプとしてはスカンジナピア諸
国の国教会がその例である︒
︵
の
E
8 5 2 n F 2
己
S
O B
E−
昨 日 ︒ ロ ︶
﹂のタイプはエグレシアクラス・チャーチないしデノミ︑不l
ショ
ン
(3)
よりもさらに普遍性の達成に成功していない︒それは階級︑人種︑地域的境界によって限定され︑また︑若干の分派
宗教
組織
の発
展と
分派
の類
型︵
山口
︶
宮大経済論集
‑114
ー的傾向をとどめているけれども︑世俗的権力と︑不完全ではあるが︑事実上妥協し︑それと調和的関係にある
d
以上はインガIの分類した宗教集団の六類型のうちの最初の三類型︑即ち︑教会の下位型の特質の要点であるが︑
残り
の一
ニ類
型は
︑
いわば分派型の下位型である︒
以下
︑
イン
ガ
lの論述の順に従いながら︑分派教会連続体の教会
に近い方から︑それらの分派の下位型の特質を明らかにするが︑現実に宗教組織の発展からすれば︑彼とは逆の順序
で ︑
ユニバーサル・チャーチからもっとも隔った極にある普遍性のもっとも低いカルトから説きおこされるべきであ
ろう
(4) ︒
エスタプリシュト・セクト︵
S S
−
E
∞﹃ ゆ仏
82
︶これは後述するセクトやカルトから発展したものであるQしかし︑それらがすべてエスタブリシュト・セクトに発展するというのではない︒セクトは小さい非妥協的な集団で
あり︑非常に不安定である︒そこで︑その成員たちが死亡すると分解するか︑あるいはより一層フォーマルな構造に
形成されるかのいずれかである︒後者の方向へ進むと︑最初の世代にみられた強烈な宗教的情熱は衰えてくるし︑ま
た︑彼らの階級的地位も改善されてくると︑社会的秩序への直接的な挑戦や対立は鎮まってくる︒
しか
し︑
セク
トが
このような変化を辿っても︑すべてがデノミネーションとかエレクシアへと発展するとはかぎらない︒例えば︑
メ
ソジスト派︵冨
2 y
︒ 門出
m B
︶とクエーカー派︵
ρ
ロ 同
W
2 2 8
︶は共に分派的抗議として発生し︑数世代を経て大きく変貌
をとげてきたけれども︑今日︑両者を同一の類型として把握することはできない︒インガーによれば︑前者はデノミ
ネージョンヘ発展しており︑後者はエスタプリンシュト・セクトに発展しているというのである︒では︑このような
対照は何によるものであるか︒他にも色々と要因は考えられようが︑根本においては︑むしろそれはその分派が発生
する起原になった最初の抗議からみたその分派の性質の相違に由来するとインガ1は考える︒即ち︑現実の杜会体制
に対しては何ら重大な疑問を示さず︑主として純個人的な要求に注目し︑個人的な不安︑苦悩︑困惑あるいは罪の重
荷を軽減し︑また︑個人的な再生︒ロ品目
4EZ
包
m 括
g q
E
芯ロ︶を強調するセクトはデノミネーションへ発展する傾向をもっ︒このようなセクトの基盤になるのは中産階級であり︑そのセクト出現の条件となるのは︑経済的ハンディキ
ャップでもないし︑社会に対する不正感でもない︒むしろ︑それは彼ちの不充足感︑高度に変動的な世界における諸
標準の混乱︑あるいは罪や肉体的苦痛であって︑これらの諸困難を癒そうと試みる宗教運動は︑社会や教会へ鋭い挑
戦をする必要性を持たない︒この種のセクトは教会におけるこれらの諸困難ないし諸要求に対する注意の欠如に抗議
するにすぎず︑社会の構造についての真剣な疑問も提出しないし︑教会がもっている世聞についての見解の根本的な
再組
織も
要求
しな
い︒
セクトの表現する抗議が︑世俗的社会構造への鋭い挑戦でもないし︑また︑宗教的パターンの
再組織の要求も持たないならば︑そのセクトは制度化の過程を進むにつれて︑社会に支配的な宗教的流れに容易に吸
収され︑デノミネーションへ転化してゆくことになる︒このような宗教集団の例としては︑
ャン・サインエス︵
n v ユ
田 広
田 口
82 ω n −
︶な
どが
あげ
られ
る︒
メソジスト派やクリスチ
とこ
ろが
︑
クエーカー派やメノl派︵冨
g o E Z
⑦やレベラ
lズ
︵
FOz
0 − −
2
︶のような集団では︑その本来の関心その社会の邪悪の改革こそ根本的な問題であると
考える︒彼らを苦悩に落し入れている社会とそれを正当化している教会は邪悪であり︑それらに鋭く挑戦する︒そし
て︑彼らは社会的な正義や改革を要求したり︑あるいはある種の義務を拒否するとか︑孤立的共同体を確立して社会
を回避したりする︒これらのセクトも時の経過とともに制度化の過程を進むが︑世俗への非妥協的態度は先の諸集団 は主として社会の邪悪公︸
M o m − −
∞ 色 o 白 a 2 5
に対
して
であ
り︑
とは具った道を歩ませる︒これらは容易に世俗ないし社会への順応を果しえず︑社会の基礎的パターンに対する敵対
が残存し続けるのであって︑デノミネーションに包括することはできない︒インガーはこれらをむしろエスタプリシ
ュト・セクトと分類して︑広い意味の分派に入れるべきものとしている︒
宗教
組織
の発
展と
分派
の類
型︵
山口
︶
富大経済論集
四
‑116‑
ところで︑現実に分派と称されている集団も多くは︑その成員たちの自発的創造によるものではなく︑このような
制度化されたエスタプリシュト・セクトであるといってよい︒それは純粋に自発的︑感情的︑非構造的な集団ではな
くて︑その成員たちは︑すでに確立された制度︵
g g
ぽE
宮品
目ロ
丘町
同口
氏︒
ロ﹀
にな
った
分派
に加
入し
てき
たの
であ
る︒
彼らが加入した時︑すでに確立された理論や実践のパターンが存在しており︑彼らはその設定された所与の生活様式
に自らを適合さ性てゆくのであって︑新しい生活様式や彼らの要求に適ったパターンを自らで創造するものではな
エスタプリシュト・セクトは個人に対して客観的な社会環境を準備し︑個人に対して色々な拘束を課す
のであって︑成員たちの自発的表現もある程度訓練され︑そして︑宗教的熱狂も制度的に認められた通路に従って型
取られることになる叫このようにエスタプリシュト・セクトはある程度制度化の過程を進むかぎり︑教会の特性を生
じるのであって︑インガ1の言葉を借りれば︑もっとも低いカの教会の特性の多くを共有することになる︒しかし︑
ぃ︒
そこ
で︑
二つの類型の集団は︑それでもなお分離的集団官
m g
ロ也知官立︶とみなされるが故に︑分派と分類するのが正確で
ある
とい
うの
であ
る︒
(5)
セク
ト︵
凹
0
︶
2
エスタプリシュト・すで
に︑
セクトにはデノミネーションへと発展する傾向をもつものと︑
セクトへ発展する傾向をもつものがあることが示唆された︒そこで︑インガ1は更にそれを掘下げてセクトを︑これ
らを発生させた欲求の相違︑そして特に彼の言葉によれば︑望まれざる事態に対する反応の相違に従?て︑即ち︑
セ
クトがその事態に対して受容的か︑攻撃的か︑あるいは回避的かのいずれの反応を示すかに従って︑一二つの下位型に
分類している︒もちろん︑これらの三つの反応は︑何らかの程度において︑すべてのセクトに見出されるところであ
るが︑そのうちのどれか一つの反応が優位を占めていると考えられる︒
A
受容
型︵
白
R
3 S D B
︶これは現存の社会的パターンにあまり挑戦しないで︑それを受容する傾向をもっ型で
あり︑階層的には中産階綾によって担われたセクトである︒その成員たちは社会に支配的な教会がその問題解決を援
助してくれない重大問題に宜面していると感じるけれども︑それらの問題を社会的なものによって説明しようとしな
ぃ︒彼らは社会を根本的に邪悪なるものとは考えやす︑彼らの個人的な罪や欠点が解決のかぎになる障害であると信ず
るのである︒この型のセクトの例として︑
イン
ガ
1は
オッ
クス
フォ
ード
・グ
ルー
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動︵
︒止
︒邑
のき
巴匂
富︒
︿
O H H M g d
をあげているが︑このようなセクトは容易に世俗と妥協し︑デノlミネlションに転化する傾向を持っていることは
いう
まで
もな
い︒
B 攻 撃 型
m
公m 5 g s s
この型は現存の社会秩序に対して攻撃的なものであり︑階層的には下層階級に担われ︑
貧困や無力の問題をもっとも強く表現するセクトである︒これらの成員たちは︑彼らを落し入れている社会は邪悪で
あり︑それ故に︑真の宗教は社会を再組織しなければならぬと考える︒そこで︑社会に非妥協的であり︑攻撃的態度
を持続しようとするが︑しかし︑社会に挑戦し続けることはなかなか不可能なことであり︑結局︑この型のセクトは
消失するか︑あるいは次の逃避型に変形するかのいずれかであるとインガ1はしている︒この例としてはアナパプテ
ィス
ト︵
﹀口
問
σ ω
耳目
的仲
田︶
があ
げら
れる
︒も
ちろ
ん︑
この型が消失ないし他の型へ変質しない場合は︑
エス
タプ
リジ
ュ
ト・セクトへ発展する傾向をもっとも多くもっているとしてよかろう︒
c
逃避型
︵ 国
4 0 5 ω
ロの
ゆ︶
また攻撃型のように社会に挑戦し改革もしも受容型のように社会を受容できないし︑
しようという希望を抱きえないらば︑現世の生活の価値を言わば切り下げて︑希望を超自然的世界へ投入し︑そして
同じ心の仲間たちの共同体を形成することによって生活上の諸困難を解決しようとする︒インガーによると︑攻撃的
一 1 1 7 . ‑
抗議はその本質において宗教的であるよりもむしろ世俗的であって︑今日︑逃避型の抗議がもっとも一般的な分派的
抗議であるとされる︒また︑この型は社会と対立葛藤するよりは︑むしろ社会に無関心であり︑その故に︑社会の主
宗教
組織
の発
展と
分派
の類
型︵
山口
︶