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上海パブリックバンドの誕生 : 工部局交響楽団の 歴史 (その1)

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上海パブリックバンドの誕生 : 工部局交響楽団の 歴史 (その1)

著者 榎本 泰子

雑誌名 言語文化

巻 5

号 1

ページ 93‑113

発行年 2002‑08‑20

権利 同志社大学言語文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004383

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上海パブリックバンドの誕生:

工部局交響楽団の歴史(その1)

榎 本 泰 子

はじめに

上海租界成立初期の1850年代から行われていた音楽活動は、1870年代に至 り活況を呈した。それは租界社会が政治的・経済的に安定し、住民の文化生 活が豊かになったことを反映していた(前稿「上海租界の娯楽活動:パブリ ックバンド成立まで」1で詳述)。1879年、ついに上海パブリックバンド

(Shanghai  Public  Band)が誕生し、従来アマチュア音楽家によって担われて いた音楽活動に大きな転換をもたらすことになる。それは租界行政が住民の 娯楽生活に直接関与するきっかけとなっただけでなく、税金によってプロの 楽団を運営するという、近代的な都市意識の萌芽となった。

上海パブリックバンドはその後幾たびかの改組を経て、1922年に上海工部 局交響楽団(Shanghai  Municipal  Orchestra)としてスタートする。当初メン バーは租界の外国人ばかりだったが、1930年代後半に中国人演奏家を受け入 れるようになり、戦乱の時代を経て、中華人民共和国建国後も生き残った。

今日もなお「上海交響楽団(Shanghai Symphony Orchestra)」として、国内有 数のレベルを誇っている。

ところが中国国内で、このような通史が認識されたのは比較的最近のこと であった。長年にわたって多くの演奏家・指揮者を育て、中国における西洋 音楽の土壌を開拓してきた上海交響楽団であるが、そのルーツが租界時代に さかのぼるという事実は、反帝国主義・反植民地主義を掲げる共産党政権の もとでは、言及することすら難しい時期があった。改革・開放の時代になり、

実証的な音楽史研究が進むとともに、やっとその歴史が認知されるようにな

「言語文化」5-1:93−113ページ 2002.

同志社大学言語文化学会©榎本泰子

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ったと言える。1999年には「創立120周年」を祝うコンサートが行われ、租 界時代からの歴史を振り返る写真集『上海交響楽団建団120周年(1879-1999)

紀念画冊』(編集委員会編、非売品)が製作された。

中国国内での認識が遅れる中で、実証的研究に先鞭をつけたのは海外の学 者だった。台湾出身で、現在アメリカで教鞭を執る韓国Ôは、中国語・英語 を自由に操る利点を生かし、租界時代の英字新聞・書籍や、未公刊資料を幅 広く調査した。その論文「上海工部局楽隊研究」(『芸術学』第14期、1995年 9月。『韓国Ô音楽文集(四)』楽韻出版社(台湾)、1999年所収)は、国内 の研究者がそれまで手をつけていなかった上海交響楽団所蔵の一次資料を徹 底的に調査し、演奏会プログラムや楽団員リストの一部などを初めて公にし た画期的なものであった。これによって、楽団史のアウトラインがほぼ描か れたと言える。

韓国Ôのように言葉の壁を越え、政治的に自由な立場で、世界各地の資料 に容易にアクセスできた者が、この分野の研究をリードしているという現状 がある。その意味で、今後見逃せないのは、欧米在住の中国系研究者だけで はなく、欧米人研究者そのものであろう。

最近イギリスの歴史学者、ロバート・ビッカーズにより注目すべき論文が 発表された。Robert Bickers, “The Greatest Cultural Asset East of Suez” : The History and Politics of the Shanghai Municipal Orchestra and Public Band, 1881- 1946(「「スエズの東における最も偉大な文化的資産」:上海工部局交響楽 団およびパブリックバンドの歴史と政治 1881─1946年」『「二十世紀的中 国與世界」論文選集』中央研究院近代史研究所(台湾)、2001年所収)がそ れである。韓国Ôの研究が音楽学の見地からなされたのに対して、ビッカー ズは租界時代の行政側の記録に着目し、イギリスの植民地経営という大枠の 中で楽団の歴史を捉え直した。その方法は上海市档案館(公文書館)所蔵の 工部局年次報告書や、バンド(オーケストラ)委員会議事録を詳細に調査す るというもので、いずれも膨大な量の英文であることを考えると、やはりネ イティヴの強みが発揮された仕事と言える。ビッカーズの著作から見る限り、

音楽の問題は彼の関心の一部に過ぎないようだが、従来欧米人による近代中 国史研究が政治・経済に偏りがちだったのに対し、文化的側面にも光を当て

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た先駆的研究として評価できる。

以上のような先行研究からは、パブリックバンドおよび工部局交響楽団の 歴史に対しては多様なアプローチが可能であることが確認できる。しかし研 究は基礎的作業を終えたばかりで、いまだ史実の確認にとどまっているきら いがあり、この楽団の上海における、さらに言えば中国や東アジアの文化全 体における意義は明らかになっていない。

筆者は日本人研究者として、特に20世紀前半の上海音楽界と日本の関わり に注目してきた。故・朝比奈隆が工部局交響楽団を振って「世界」にデビュ ーしたように、日本人にとって「シャンハイ」が西洋そのものだった時代が ある。ジャズ等の軽音楽のみならず、クラシックの分野でも、上海から受け た影響の大きさは計り知れない。しかも、日中戦争中の一時期、工部局交響 楽団は日本側によって管理・運営されていた。この間の事情についても、こ れまで十分明らかにされてきたとは言えない。筆者は先行研究を踏まえつつ、

より幅広い資料を用いて、工部局交響楽団を中心とする上海音楽界の実態を 検証してみたいと考えた。

本論は前稿「上海租界の娯楽活動:パブリックバンド成立まで」の続編に 当たるが、ここでは焦点をパブリックバンドそのものに移し、その誕生の経 緯から19世紀末までの活動を追うことにする。使用する主な資料は上海工部 局年次報告書 (英文、年刊、上海市档案館所蔵)で、必要に応じて英字新 聞等を参照した。

1 パブリックバンドの設立

1874年、2代目ライシャム劇場の開設とともに、上海租界の演劇および音 楽 活 動 は 隆 盛 を 迎 え た 。 ア マ チ ュ ア 音 楽 家 に よ る 管 楽 器 協 会 ( W i n d Instrument  Society)がパブリック・ガーデンで野外コンサートを始めたのも この年だった。このコンサートは夏の夜の娯楽として好評を博していたが、

チケット収入が得られないために、赤字状態が続いていた。他の娯楽団体と 同様に、管楽器協会も運営資金の一部を上海娯楽基金(Shanghai Recreation Fund )の援助に頼らざるを得なかった(以上は前稿を参照)。

この時期、住民の娯楽生活の中で音楽に対する需要が急速に高まり、アマ

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チュアの自主的な活動だけでは、すでに十分対応することができなくなって いたことがうかがえる。そこで、租界行政の積極的な参加を得て、一つの楽 団を運営したいという機運が生まれてきた。

1878年、管楽器協会の指揮者レミュザJ. Rémusatが、フィリピンのマニラ で14人の音楽家をスカウトしてきた2。レミュザは同年12月にマニラで演奏 会を開いているので、同時期のことだろう3。翌79年には「上海パブリック バンド (the  Shanghai  Public  Band)」を運営するため、住民8人による委員 会(the Public Band Committee, 本論では以下バンド委員会と呼ぶ)が作られ、

これらの音楽家と契約を結んだ4。バンド委員会は、工部局参事会から2人 の参加を要請しており、この年は当面参事会議長が加わることで合意してい る。バンド委員会は工部局に資金提供を求める際、新たなバンドの設立が

「個人的な利益のためでなく」、「市民の関心をうながす」ためであることを 強調した。そして、バンドが工部局義勇団のパレードなど、公の行事に優先 的に演奏することを約束している。工部局義勇団(Shanghai Volunteer Corps ) は1854年に設立された住民による防衛組織で、租界が太平天国軍の攻撃を受 けた時は実戦に参加した。多国籍からなる租界住民の結束の象徴であり、

1870年からは参事会の管理下にあった。参事会は、防衛委員会と義勇団の団 長にはかった結果、工部局として年間1000テール、また夏の野外コンサート のためにさらに100テールを与えることを決定した。

これまで租界の音楽活動は、アマチュア演劇公演の伴奏に始まり、徐々に 単独のコンサートを開くまでに発展してきた。それは住民有志による娯楽活 動であり、多少のチケット収入はあったにせよ、報酬を得るような性質のも のではなかった。新たなバンドの設立にあたり、「娯楽」を前面に押し出さ ず「公」の意識に訴えたことには、二つの目的があるだろう。一つは工部局 から資金を獲得し、演奏家を雇用する制度を作ること、そしてもう一つはバ ンドが住民全体に奉仕するものという新たな位置づけである。その意味で、

新しいバンドのメンバーが全てフィリピン人だったことは、従来とは異なる バンドの性格を象徴していると言える。

新メンバーの獲得に当たったレミュザは、管楽器協会だけでなく、同じく アマチュアによる交響楽協会(Shanghai  Philharmonic  Society)でも指揮者を

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務めたフランス人音楽家である。彼ははじめ香港かマカオで適当な音楽家を 見つけるつもりだったが、よい人材が見つからず、結局マニラまで行ってフ ィリピン人の音楽家たちを雇って来たという5。フィリピンは1571年から300 年以上もスペインの統治が続いており、カトリックの布教によって欧州文化 の強い影響を受けていた。音楽の方面でも、伝統音楽が衰退し、西洋音階に よる歌や踊りが民衆レベルまで広く浸透していた。

フィリピンでスペイン統治が始まったのとちょうど同時代(安土・桃山時 代)の日本では、一時キリスト教を受け入れ、教会で賛美歌が歌われたりし たが、江戸時代の禁教・鎖国政策によって、その流れは断絶した。(一部の 信徒が「隠れキリシタン」となって賛美歌を伝承していたことは、第二次大 戦後に明らかになった6。)つまり日本が鎖国政策を取っていた長い年月、フ ィリピンの人々はずっと西洋音楽に慣れ親しんできたわけで、楽器の上手な 人材も豊富だったのである。ちなみにフィリピンは、この後1898年からアメ リカの統治下となり、今度はアメリカの軽音楽、特にジャズが急速に普及す ることになる。20世紀の前半、大型客船が寄港する都市ではどこでもフィリ ピン人音楽家の姿が見られたといい、彼らによってマニラから香港、上海、

神戸、横浜へと、ジャズが広がっていった。フィリピン人音楽家、そして彼 らがもたらした楽器や楽譜、レコード等が、日本の音楽界に与えた影響は小 さくない。

話は上海に戻るが、アマチュアで構成されていた管楽器協会の中にもすで に「有給のメンバー」がいたとされ、これがすなわち早くから上海で生活の 糧を求めたフィリピン人音楽家ではないかと推測される(前稿参照)。パブ リックバンドが成立した背景に、フィリピンという西洋音楽の市場が大きく 関わっていたことは興味深いが、当時の西洋人たちの耳に、植民統治下の有 色人種による演奏はどのように響いたのだろうか。

1879年1月8日の『ノース・チャイナ・デイリー・ニュース(The North

China Daily News)』には、同月16日にライシャム劇場で行われたアマチュア

演劇クラブ(Amateur Dramatic Club)の公演広告が掲載されている。そこには レミュザの指揮のもと、「新しい街のバンド(the  New  Town  Band)」が登場 することが予告されており、これが初のお目見えであったことがわかる。こ

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の時上演された劇はロバートソン T.  W.  Robertson  の『わが軍 (Ours)』 だっ たが、バンドの初演奏に対する批評などは残念ながら見当たらない。

新しいバンドがどのような機会に、どのような曲を演奏していたのかを知 るために、新聞記事を調査してみた。例えば同年3月27日に行われたアマチ ュア演劇クラブの公演では、幕があく前にバンドがオペラ『ルクレツィア・

ボルジア(Lucrezia Borgia)』から一曲演奏し、幕間には『アンゴー夫人の 娘(La Fille de Madame Angot)』から一曲演奏した7。後者は当時欧州で人気 を集めたオペレッタの作曲家、ルコック C.  Lecocq  の作品である。あとで述 べるように、パブリックバンドが管楽器中心のいわゆる「ブラスバンド」で ありながら、オーケストラ作品を演奏できることは一つの特徴だった。しか しこれまで交響楽協会の演奏に慣れてきた観衆には、それでもある種の違和 感があったようだ。同年6月のアマチュア演劇クラブの公演に関する記事で は、バンドの演奏に対して苦情が呈せられている。「最後にバンドに対して 一言。会話することも不可能だったし、静寂をだいなしにした」8。つまり音 量が大き過ぎたということなのだろう。

それに対して、野外での演奏には、バンドは本領を発揮した。「パブリッ クバンドは金曜日に、パブリック・ガーデンで最初の夜のコンサートを行っ た。気持ちのよい暑さで、空には明るい月が出ていた。たくさんの人々が集 まり、音楽も良かった」9。春と秋に開かれる恒例の競馬大会でも、バンド の演奏が花を添えた。同じ1879年4月30日、5月1日の二日間にわたって開 かれた競馬大会では、各日昼の間、舞曲などの楽しい小品が10曲演奏された10

バンド委員会が工部局に資金提供を要請した際約束した、義勇団のパレー ドでの演奏というのも確かに行われている。同年5月30日金曜の夕方5時過 ぎから行われたパレードでは、バンドが先頭に立ち、武器を手にした90人ほ どの団員が河南路の工部局庁舎から競馬場まで行進した。沿道には数千人の 住民が見物していた11

フランス人レミュザに指揮されるフィリピン人演奏家たち─住民は、彼 らのことをマニラメン Manilamen  と呼んだ─は、こうして租界の風景に 登場したのである。

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2 都市の発展と楽団の意義

パブリックバンドが成立した時組織されたバンド委員会は、住民代表によ る一時的なもので、工部局に属する組織ではなかった。また工部局から資金 提供を受けていたが、財政基盤は依然として上海娯楽基金にあったようであ る。1881年、共同租界の意志決定機関である納税者大会で、工部局参事会が バンド委員会からバンドの運営を引き継ぎ、予算を支出することが認められ た。そして参事会が新たな委員会 (the  Sub-Committee  for  the Public  Band)

を組織し、参事会メンバーから2人、フランス租界公董局から2人、その他 納税者の代表数人が参加した12。これで初めて、パブリックバンドは名実と もに「公の」楽団になったのである。

ここで注目すべきなのはフランス租界公董局(行政当局)の関与である。

パブリックバンドが共同租界だけのものでなく、フランス租界にも関わるも のとして認識されていたことを示している。1881年の年次報告書によれば、

同年のバンドの総経費は、団員の給料等も含め合計4354.15テール。そのう ち1000テールはフランス租界から援助されており、工部局からは3000テール が拠出されていた。一方、バンド自身の収入はわずかに348.94テールで、や はり営利目的の活動ではなかったことがわかる13。(バンドがどのような機 会に収入を得ていたのかは後述する)。フランス租界は1862年以来独自の行 政を行ってきたが、パブリックバンドのような音楽活動に対して、当初から 理解を示していたことは興味深い。指揮者レミュザがフランス人であったこ とも、当局の理解を得るのに役立っただろう。公董局からの資金援助は、20 世紀にパブリックバンドが交響楽団に再編され、活動を拡大していく間もず っと続いた。住民の文化生活の向上という点に関して、共同租界・フランス 租界が一致して取り組んだよい例と言える。

1880年代になって、パブリックバンドが工部局の予算によって運営される ことになったのは、租界の財政が好転したためとも考えられる。租界成立初 期、工部局の税収が安定しておらず、住民の福利厚生を顧みる余裕がなかっ た時代は、私的に設立された上海娯楽基金がその役割を担ってきた。上海租 界はかつて1860年、62年と二度にわたって太平天国軍の直接攻撃を受けたが、

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この時期に始まる中国人難民の流入で、人口が急激に増加した。1870年から 95年までに人口は17万人も増え、外国人居住者との比は50対1にまでなった という14。軍事的な必要から租界の外に向かって建設された「越界道路」は、

事実上居住地域を広げていき、街は絶えず拡大していた。1870年代から1880 年代にかけて、都市のインフラ建設も着実に進んだ。電信(1871年)、鉄道

(1876年、短期間で営業停止)、電話(1882年)、電気による街頭照明(1882 年)、水道(1883年)などのサービスが開始され、人々の暮らしの質も向上 していった。

このうち電気による照明の敷設は、パブリックバンドの活動にも大きく関 わっている。毎年夏の恒例となった野外コンサートは、黄浦江に面したパブ リック・ガーデンで行われていた。この公園には音楽堂 (Band Stand)と呼 ばれる演奏用の舞台があったが、電気会社は1882年の6月、まずここに見本 用の電灯を建てたのである15。トランペットやホルンが明るい電灯に照らさ れてきらめくのを見て、住民たちは大いに驚いたに違いない。その後この電 気会社は、ガス会社等との激しい確執を経て、翌年には目抜き通りの街頭照 明の契約を勝ち取ったという。この音楽堂は1888年には新しく立て直された が16、それはあらかじめ電灯を組み込んだものだったかもしれない。明るい 電灯の普及は、上海の夜の娯楽を活気づけ、コンサートに繰り出す人はます ます増えたことだろう。

ところで、パブリックバンドは管楽器によって構成されたブラスバンドで あるが、この時代に「街のバンド(the  Town  Band)」が生まれた背景につい て、もう少し考えてみよう。租界成立当初の上海で、音楽と切り離せない場 として重要なのは軍隊と教会である。上海駐留のイギリス軍には当然軍楽隊 があり、軍事・外交などの公的行事に演奏したはずだ。それは租界=植民地 においては国威発揚の場であり、国歌演奏などを通じて植民者たちの愛国心 を高め、被植民者に対しては優越感を抱かせただろう。パブリックバンドは、

義勇団のパレードでの演奏を重視していたことから見て、機能的には軍楽隊 と似た面がある。しかし一方で、演劇公演の伴奏や、パーティーのダンス音 楽を担当するなど、住民の日常生活に音楽を提供するという役割があった。

細川周平「世界のブラスバンド、ブラスバンドの世界」では、イギリスで

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の先行研究を踏まえ、19世紀末のイギリスに3万から4万のブラスバンドが 存在したことを指摘している17。管楽器は習得が比較的容易であることから、

当時ブラスバンドは労働者階級の代表的な音楽活動になったという。楽器や 楽譜の普及、そして競技会の隆盛が「美感覚、衣装、レパートリーなどの均 質化をうながし」、「優秀なブラスバンドを持つことは地元の誇りとなった」。 細川論文は植民地主義とブラスバンドの関わりを論じて興味深いが、そこで は言及されていない上海パブリックバンドも、イギリスを中心とする世界規 模のブラスバンド活動の一端と見ることができよう。上海パブリックバンド が使用した楽器、楽譜、制服なども、おそらくイギリスから輸入されていた ものと思われる。

上海パブリックバンドの特殊性は、「地元の」バンドでありながら、メン バーが住民ではなく、雇われたフィリピン人だったということだ。しかし先 述の経緯から見て、バンドに期待された役割は、すでに住民の趣味活動を超 えたところにあった。つまり、従来の管楽器協会の活動は、住民どうしの腕 前の披露に過ぎなかったが、今回は不特定多数の「市民」に対し、幅広く音 楽を提供することを目的としていたのである。これは工部局の都市経営の一 環であり、税金によって「街のバンド」を運営すること自体に、市民の間に 共有された近代的な都市意識を見ることができる。

政治的・経済的基盤が安定したあと、文化政策が意識され始めたのは、住 民の世代交替が進む上海で、文化的アイデンティティの確立が必要とされて いたからとも考えられる。初期のイギリス商人にとって、上海が金儲けの場 所であり、人生の通過点に過ぎなかったのに対し、今や上海で生まれ育ち、

欧州本国を知らない世代が出現していた。中国の地にあって、植民者たる者 は本国の文化伝統を維持し、文化的優越性を保たなければならない。行政が 直接楽団経営に乗り出した背景には、このような目的もあったのではないだ ろうか。音楽は年齢、性別、職種などのへだてなく、誰でも楽しむことがで き、演劇や舞踊、詩などとも結びついた芸術として、欧州文化の一つのかな めと言える。また音楽そのものには言語の障壁がなく、イギリス人、フラン ス人、ドイツ人など多国籍の住民を一つにつなぐことができる。パブリック バンドがその形態を変えつつ、長年にわたって存続していくのは、行政側の

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みならず、市民の間でもそのような「効用」が意識されていたことを推測さ せる。

今日の視点からは、パブリックバンドの演奏者がフィリピン人であったこ とは、西洋文化の継承という意味では大きな矛盾のように感じられる。しか し長いスペイン統治の間、文化的に相当西洋化が進んでいたことから、フィ リピン人は当時の上海で「準西洋人(semi-Westerner)」と見なされていたと いう18。あとで述べるように、フィリピン人なら低賃金で雇うことができ、

集団でスカウトしてきて共同生活をさせるという経営上のメリットがあっ た。その反面、期待していたほど演奏レベルが高くなく、メンバーの入れ替 わりも激しいという問題を常に抱えていた。年次報告書所載のバンド委員会 のレポートは、当局や住民の、バンドに対する冷静で実利的な視線を反映し ており、それはアマチュア管楽器協会に対するものとは本質的に異なると言 えよう。

3 演奏活動の実態

1880年、パブリックバンドの指揮者に就任したばかりのレミュザが亡くな った。欧州で一定の名声を得ていた音楽家が、晩年を上海のアマチュアたち の指導に捧げ、帰国することもなく生涯を閉じたことには意外の感がある。

しかしだからこそレミュザは、上海音楽界の歴史に記念すべき最初の名を刻 んだのだった。

翌年後任の指揮者となったのがメルキオール・ヴェラ Melchior  Vela  であ る。増井敬二『日本のオペラ─明治から大正へ』によれば、ヴェラはミラ ノ・スカラ座のコンサートマスターで、夫人のマティルデ Matilde  Milani- Vela  はスカラ座の第一歌手であったという。彼らは「イタリア王立座

(Royal  Campagnie  Italienne)」というグループで1881年3月に来日し、横浜ゲ ーテ座および築地訓盲院等で演奏した。当時の新聞報道では、ヴェラのヴァ イオリンの腕前が盛んに賞賛されている19

1879年12月24日の『ノース・チャイナ・ヘラルド(The North China Herald)』 には、交響楽協会の指揮者としてヴェラの名前が登場し、ヴァイオリンを弾 きながら指揮をする「弾き振り」を務めていることがわかる。ヴェラの足ど

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りについては明確でないが、最初に上海を訪れたのがこの頃で、晩年のレミ ュザに替わり、アマチュアたちの指導を期待されたのではないかと推測され る。1881年の工部局年次報告書には、ヴェラが同年のはじめに上海にいなか ったので、パブリックバンド指揮者としての契約が遅れた(5月15日から契 約)ことが記されている20。つまり日本への演奏旅行を果たし、上海に帰っ てから指揮者に就任したということだろう。

この時期になると、上海には複数の職業音楽家が在住していた。先行研究 には、イビュール J.  C.  H.  Iburg(ヴァイオリンなど)、フェンタム G.  B.

Fentum  (オルガン)、ド・ヴィヤール Robert  A.  de  Villard(ピアノなど)ら の名前があげられており21、個人教授で生計を立てていたと見られる。これ らの人々は亡くなったレミュザと同様、欧州で音楽の専門教育を受け、演奏 旅行で訪れた上海に何らかの事情で定住したものと考えられる。ヴェラはこ れらの音楽家の代表格で、その後1899年に帰国するまでの約20年間、上海音 楽界の中心にあった。

パブリックバンドがヴェラのもとで新態勢に入った1881年からは、年次報 告書にバンド委員会の報告書が必ず掲載され、その年の概況、決算、翌年の 予算などが記されている。83年からはヴェラ自身のフランス語によるレポー トも付されており、これらを通じてバンドの活動の実態を知ることができる。

ヴェラは指揮者就任にあたり、従来のメンバーを入れ替え、自らマニラへ 赴いて新たな人材を獲得したというから、その意欲がうかがえよう22。新し いバンドの総数は21名。当初メンバーの宿舎兼練習場は虹口(ホンキュウ)

警察の中に予定されていたが、練習には不適当だったので、新たな建物が建 設されることになった。虹口は旧アメリカ租界の地域で、のちに日本人が集 中して住み着いたことで知られている。しかし共同租界の中心である黄浦江 に面した一帯からは少し離れており、当時それほど開けていた土地とは言え ない。ヴェラの自宅からもおそらく遠く、練習に通うのには不便だったろう。

メンバーは一年契約で、見積もられた予算から計算すると月給は約16テー ル。ヴェラの月給は120テールだから、待遇の差は明らかである。逆に言え ば、フィリピン人演奏家を雇うことによって初めて、少ない経費でバンドを 養成することが可能になったということだ。1882年の年次報告書によれば、

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当初彼らの態度および音楽家としてのレベルは決して満足のいくものではな く、長期計画で訓練をするためには二年契約が適当であるとの見方が示され ている23。しかしヴェラの精力的な指導により、翌年には大きな進歩が見ら れ、夏はブラスバンド、冬はオーケストラとして多くの演奏を行った。

パブリックバンドは1879年の設立当初から、オーケストラのために書かれ た作品も演奏していたが、これらはレミュザによってブラスバンド用に編曲 されたか、あるいはイギリスなどで出版された楽譜を使っていたと考えられ る。注目すべきなのは、ヴェラが指揮者に就任して間もなく、弦楽器そのも のの導入を図っていることである。本来管楽器奏者としてスカウトしてきた メンバーに、新たに弦楽器を与えて訓練し、短い期間でかなりの成果をあげ ている。楽器は上海娯楽基金およびフランス租界当局が所有していたものを 借りるという形式を取り、足りないもの、たとえば大型のダブルベースなど は新たに欧州に発注した。新しい楽器に慣れてくると、毎月新しい曲に取り 組めるようになり、楽器の編成に応じてヴェラ自身が編曲に取り組んだ。フ ルート奏者だった前任のレミュザと異なり、ヴェラはもともとヴァイオリン の専門であるから、弦楽器の扱いには慣れていたはずだ。

メンバーが複数の楽器を演奏することができ、一つの楽団がブラスバンド としても、またオーケストラとしても編成を変えて演奏できるという形態は、

20世紀に入ってからもずっと受け継がれた。それは租界生活における音楽的 需要に柔軟に対応できるようにするためだけでなく、経費節減のためにも重 要だったと考えられる。

それではパブリックバンドはどのような場面で演奏活動を行ったのだろう か。年次報告書や新聞報道などからまとめてみるとおよそ以下のようになる。

①パブリックガーデンでの野外コンサート(夏)

②屋内でのコンサート(冬)

③アマチュア演劇クラブ公演での演奏

④競馬大会や各種娯楽団体のイベントなどでの演奏

⑤義勇団のパレードなど公的行事における演奏

⑥個人の邸宅で開かれるパーティーなどでの演奏

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⑦営利目的の興行における伴奏など

①〜⑥は従来のアマチュアたち(交響楽協会、管楽器協会など)の活動と 重なり、住民が音楽を必要とする場面において自ら演奏してきたケースであ る。それをパブリックバンドが仕事として行うようになり、アマチュアたち の負担は大幅に軽減された。(おかげで活躍の場が減ったというマイナスの 見方もできる)。なお、パブリックバンドが設立されて以来、管楽器協会の 活動は新聞等では確認できないが、おそらく租界住民の中で楽器が扱える者 は限られており、そのメンバーは交響楽協会と重なる部分もあったのではな いだろうか。つまり管楽器協会は消滅したというより、交響楽協会に吸収さ れて、活動を続けていったと考えられる。

年次報告書には、パブリックバンドのメンバーとの間に交わされた具体的 な契約内容は示されていないが、①〜⑤については租界住民全体に対する奉 仕という意味で、仕事の内に含まれていたのではないだろうか。それに対し、

メンバーに特別手当が支給されているのは、⑥のような私的な場での演奏に 関わるものと思われる。この場合、依頼主がどのような基準で出張演奏料を 払っていたのかはよくわからない。一方、決算報告で Services と称され ているのは⑦の仕事にからむものであろう。ここでどれくらい演奏の需要が あるかどうかが、バンドの財政を左右したと見られる。

1883年の年次報告書によれば、この年は期待されていた劇団やサーカス団 などの訪れが少なく、たった一件、ロフタス一座 (the  Loftus  Troupe)の公 演『イオランテ(Iolanthe)』(人気作曲家サリヴァン A. S. Sullivan の喜歌劇)

に出演しただけだった。しかもこの一座はバンドに対して報酬を支払わない まま出港してしまい、結果としてこの年の収入が前年より700テールも少な い1211.86テールにとどまったことを、レポートの筆者は残念そうに記して いる24

前掲増井敬二『日本のオペラ』によれば、ロフタス一座は1883年10月に来 日して横浜ゲーテ座でオードラン E.  Audran  のオペレッタ『マスコット(La

mascotte)』などを上演している25。しかし詳細はわからないながら、あまり

レベルは高くなかったようで、上海の一件から見ても、少し素性の怪しいグ

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ループだったと言えよう。

バンドの収入が伸び悩む一方で、人件費、必要経費は次第にふくらみ、

1884年には工部局の支出は約7500テールと、当初の見込みの倍以上になって しまった。そこで85年の納税者大会では、バンドを工部局の予算で維持する ことへの疑問が提出されるに至った。

その背景には、フィリピン人メンバーの演奏レベルがあまり高くないこと への不満があったようだ。年次報告書によれば、メンバーはヴェラの指導に よりめざましい進歩を見せる者がいる一方、死亡、帰国、解雇(再契約の拒 否)などの理由でしばしば顔ぶれが変わっている。フィリピンからスカウト されてきた彼らにとっては、上海は所詮出稼ぎの場に過ぎなかったのだろう か。演奏レベルを向上させるため、83年からはダ・コスタ da  Costa(文脈か らポルトガル人と見られる)という元プロのコルネット奏者と契約し、ヴェ ラと共に管楽器の指導に当たらせている(1888年まで)26。84年からはもう 一人西洋人演奏家が加わり、特にオーケストラとしての演奏が向上したとい う27。納税者大会での投票の結果、バンドの存続は「ほぼ満場一致で」認め られたというが28、財政問題はこの後もずっと当局の頭を悩ませることにな った。

4 上海のバンド、天津のバンド

時期は少し下るが、19世紀末に中国を訪れた日本人が、パブリックバンド と思われる楽隊について言及している。

「天津の紫竹林なる外国人居留地には、公園の設ありて、一週間に二夜の奏 楽あり、四近の蕭索たる景物の中に、此処のみは緑樹蓊鬱として、いと心地 よし。此の公園内に入るべからざる者二種曰く支那人、曰く狗。形装凛々し き支那人巡査は、園門を守護して、其の同胞が園内に入り来るを欄遮しつゝ あるなり。上海の公園は奏楽毎夜にして、楽手は葡萄牙人なれば、我が邦人 と見まがふことあり。其の支那人を入れざるは、天津に同じ、但だ外国人の 子守を勤むる支那婦人は嬰児の御威光にて入ることを得べし。……」29

これは1899年の8月末から約3か月中国を旅行した内藤虎次郎(湖南)が、

その旅行記に記したものである。ジャーナリストからのちに京大教授となり、

(16)

東洋史の一大学派を育てた内藤の、最初の訪中であった。内藤は海路天津に 渡り、北京周辺をまわったあと、再び海路上海に渡り、長江流域を遊覧して いる。

まず「上海の公園」で演奏していたのは、間違いなく上海パブリックバン ドだろう。演奏しているのが「葡萄牙(ポルトガル)人」で、日本人と見間 違えることがあると書いているのは興味深い。バンドのメンバーがいわゆる 金髪碧眼の西洋人ではないことから、このような誤解が生じたのだろう。フ ィリピンは先述のように長年スペインの植民地だったので、人々の間には混 血もあり、名前もスペイン風の者が多かった。スペインは言うまでもなくポ ルトガルの隣国であり、西洋の事情に疎い当時の日本人にとって、区別がつ きにくかったのは無理もない。

それでは天津で演奏していたのはどのようなバンドだったのだろうか。天 津は1860年の開港以来、イギリス・フランス・アメリカの租界が作られ、中 国北部における貿易・商業の中心として発展してきた。また首都北京に近い という地理的条件から、政治・外交の舞台として重要な役割を果たしていた。

イギリス等の列強から見れば、天津は上海と並び、中国進出のための拠点で あったと言える。

天津租界の文化生活は、時代のずれこそあれ、上海租界とほぼ同様の発展 をたどった。例えば1888年5月には、天津イギリス租界の「ライシャム劇場

(Lyceum  Theatre)」でイギリスのプロ劇団の公演が行われたという30。上海 租界の文化生活の中心であった劇場と同名の劇場が、天津にもちゃんと存在 していたのである。1887年にはビクトリア女王の治世50年を記念したビクト リア公園がオープンし、殺風景な湿地帯だった天津租界の憩いの場となった。

内藤虎次郎が「いと心地よし」と実感を込めて描写した公園は、ここを指す と考えられる。今に残るビクトリア公園の写真31を見ると、上海のパブリッ ク・ガーデンの音楽堂とそっくりの建造物があり、楽隊の演奏がここで行わ れていたことを推測させる。

先行研究によれば、1887年(ビクトリア公園開園と同年)天津に「公共の 楽隊」が誕生したというが32、他の資料から考え合わせると、これはイギリ ス人ロバート・ハートRobert Hart による私設楽隊(もしくはその分隊)のこ

(17)

とと思われる。ハートは清朝の税関総務司を務め、政府高官の信頼を得て、

外交顧問のような立場にあった人物である。彼は長い異国暮らしの中でヴァ イオリンを弾くのを趣味としていたが、1885年頃から楽隊養成にのりだした。

そのきっかけは、天津税関の西洋人職員の中に楽隊指導(管楽器の演奏また は指揮などを指すか)ができる者がいると聞きつけたことだった。彼はまず 天津に中国人の若者を集めて楽器を一から学ばせ、そのうち8人を北京に招 いて、新たに募集した隊員の指導に当たらせた。ハートはロンドンの代理人 を通じて楽器・楽譜・制服などを次々に買い入れ、当初管楽器中心だったの に加えて弦楽器も導入し、幅広いレパートリーを誇った。北京の私邸で催す パーティーで演奏させ、集まった西洋人客をあっと言わせただけでなく、宮 廷の外交行事にも貸し出して、西太后の前でも演奏したという33

北京で活動したハート楽隊と、天津の公園で演奏していた楽隊の関係につ いてははっきりしないが、天津の「公共の楽隊」指揮者として名前のあがっ ているドイツ人ビーゲルBigel  は、ハート楽隊初期の指導者の名と同じであ る。先述のハート楽隊発展の経緯と照らし合わせてみると、最初に集められ た隊員はのちに北京に移った者と天津に残った者に分かれ、天津に残った者 がビゲルに指揮されて公園で演奏していたとも考えられよう。これが上海パ ブリックバンドのように、財政的にも公に運営されていたのかどうかは、天 津租界の行政史料等をさらに調査する必要がある。

ハート楽隊は、専門的な訓練を受けた中国人奏者による初の西洋楽隊だっ たことから、近代中国音楽史の上でも注目されている。ハート楽隊と、成立 時期の近い上海パブリックバンドを並べて論じたものはないが、こうして見 ると両者には何らかの影響関係があるのではないかと思わされる。税関業務 の総責任者として絶大な力を振るったハートは、上海をはじめとする開港地 の事情に詳しかったはずだし、上海パブリックバンドのことも当然聞き知っ ていただろう。音楽好きの人物ならば、それに刺激されて楽隊創設を思いつ いたとしても不思議はない。

ハート楽隊は奏者が中国人だったことで画期的だが、少なくとも当時にお いては、その活動が中国の一般民衆に直接影響を与えたとは考えられない。

内藤虎次郎が指摘したように、外国人居留地の公園に中国人が入ることは禁

(18)

じられていたし34、外国人の集会に中国人が参加することはまずなかった。

上海の街では、義勇団のパレードなど、不特定多数の人間が見物できる機会 はあったが、大音量のブラスバンドに対しては、普通の中国人は違和感を覚 えたのではないだろうか。伝統的な中国音楽は、木や竹で作った楽器を用い、

音量も小さく、少人数で演奏するのが基本である。単旋律が中心で和音に乏 しいのも特徴で、豊かなハーモニーを旨とする西洋音楽とは本質的に異なる。

20世紀に入り、教育の現場で西洋音楽が導入されるまでは、中国人が自ら楽 器を手に取る機会はなかった。

さて、内藤虎次郎が中国を訪れた1899年の秋、パブリックバンドの指揮者 ヴェラはすでに上海を離れていた。ヴェラ夫妻は同年3月の末に最後のコン サートを開き、惜しまれつつ欧州に帰国したのである。

「火曜の夜にライシャム劇場で開かれたコンサートは、音楽的には成功して 楽しいものだったが、どこか沈んだ空気があった。これは上海におけるマダ ム・ヴェラのお別れコンサートであり、ヴェラ氏と夫人は数日後にこの地を 離れるのであった。18年にわたってヴェラ氏はほとんど全ての音楽的行事に 深く関わってき、それらは今日の発展を見るに至った。それは氏の偉大な音 楽的才能によるだけではなく、事業を成功に導くすばらしい才能のおかげだ ったのである。氏がほかに何もしなかったとしたら、交響楽協会がただ一つ の実例になっただろう。氏は、上海が誇る交響楽協会の、生命であり魂だっ たのである。だから、交響楽協会のメンバーが火曜の夜ライシャムの舞台に 集まった時、長年彼らの演奏を楽しんできた多くの聴衆は大変残念に思った に違いない。これが、お世話になったマエストロの指揮棒による、最後の演 奏だからだ。……」35

長年にわたってヴェラはアマチュアたちの指導にあたり、またパブリック バンドの指揮者として上海の音楽界を引っ張ってきた。新聞記事の中で Commander  Vela と呼ばれているように、正に「指揮官」として敬愛され てきたのだろう。お別れコンサートでは交響楽協会の演奏に続いて夫人が歌 い、多くのアマチュア演奏家たちもここぞと腕前を披露した。お開きのあと で、夫妻に対する感謝のしるしとして記念品(銀のお盆とティーセット)が 贈呈され、万歳三唱で締めくくられた。

(19)

ヴェラがパブリックバンドの指揮者を務めた18年の間に、バンドは徐々に 規模を大きくし、1898年には30人のメンバーを擁している。レパートリーも 大幅に増え、序曲40、選曲(オペラの一部などか)80、ワルツ95、カドリー ル・ポルカ・ギャロップ(いずれも舞曲)50、行進曲80、その他50の計395 曲に及んでいる。演奏の機会も多くなり、ブラスバンドとしての活動が年間 171回、オーケストラとしての活動が135回だった。その内訳は以下のとおり だが、19世紀末の租界生活において、どのような場面に音楽が流れたのかを うかがうことができる。

(1)ブラスバンドとしての活動 (2)オーケストラとしての活動 パブリック・ガーデン(昼) 61 プライベート・サービス 52 同        (夜) 35 2、4、8名での演奏 83 フランス租界   (夜) 8 計 135(回)

競馬場 9

義勇団パレード 9

レガッタ 3

クリケットクラブ 20 フラワーショー 1 プライベート・サービス 25

計 171(回)

(1898年の年次報告書による36

このうちフランス租界での演奏は、公園での野外コンサートを指すと見ら れ、「プライベート・サービス」は先述のように、個人の邸宅で催されるパ ーティー等での演奏だろう。また「2、4、8名での演奏」は室内楽形式の ものと思われ、弦楽器の演奏レベルが向上していることが推察される。この 統計から見ると、ブラスバンドとしての演奏は、公園や各種娯楽イベントな ど公的な性格の場において多く行われ、オーケストラとしての演奏はより私 的な場で行われていると言える。つまりパーティーが開けるような富裕な

(20)

人々の間では、オーケストラに対する需要が大きかった。これは19世紀の欧 州で、経済の発展とともにコンサート音楽(今日の範疇では「ポピュラー」

に対するいわゆる「クラシック」)の愛好者が一つの層を形成したのと、同 じ動きと言えないだろうか。

草創期のバンドの育成に尽力したヴェラの帰国は、楽団にとって一つの節 目となった。20世紀に入ると、バンドの形態をよりオーケストラ化する動き が強くなる。地元在住の西洋人音楽家、そして雇われたフィリピン人による 植民地的色彩の濃い楽団は、やがて欧州から招聘されたプロによって、大き く姿を変えるのである。そこでは多国籍の音楽家たちの新たなドラマが生ま れるのだった。

1 榎本泰子「上海租界の娯楽活動:パブリックバンド成立まで」『言語文化』第4 巻第1号、同志社大学言語文化学会、2001年、39〜55頁。

2 Shanghai Municipal Council, Annual Report 1879, p.p. 110-111.

3 『ノース・チャイナ・デイリー・ニュース(The North China Daily News)』1979 年1月4日の記事による。

4 注2に同じ。

5 工部局交響楽団1942年5月31日の演奏会プログラム(英文、上海交響楽団所蔵)

による。管見によれば、ここに掲載されたオーケストラ小史が、楽団の歴史に関 する最初のまとまった記述である。なおレミュザのマニラ行きのくだりについて、

典拠を1878年度の年次報告書としているが、どこを指したものか不明。

6 横田庄一郎『キリシタンと西洋音楽』朔北社、2000年を参照した。

7 『ノース・チャイナ・ヘラルド(The North China Herald)』1879年4月4日。

8 『ノース・チャイナ・ヘラルド』1879年6月24日。

9 『ノース・チャイナ・ヘラルド』1879年7月8日。

10 『ノース・チャイナ・ヘラルド』1879年5月6日。

11 『ノース・チャイナ・ヘラルド』1879年6月3日。

12 Robert Bickers, “The Greatest Cultural Asset East of Suez” : The History and Politics of the Shanghai Municipal Orchestra and Public Band, 1881-1946,『「二十世紀的中国與 世界」論文選集』中央研究院近代史研究所(台湾)、2001年所収、843頁。同論文 で主な資料とされているバンド委員会議事録 Town  Band  Committee,  Minute  Book は、筆者は未見。なお工部局交響楽団の歴史を1881年からとしているのは、工部

(21)

局参事会がパブリックバンドの運営を引き継いだ年から数えたもの(本論参照)。 13 Annual Report 1881,p.133.

14 村松伸『上海・都市と建築 一八四二―一九四九年』PARCO出版、1991年、

78頁。

15 F. L. Hawks Pott, A Short History of Shanghai, Kelly&Walsh, Ltd.,1928, p.111.

16 Annual Report 1888, p.189.

17 細川周平「世界のブラスバンド、ブラスバンドの世界」阿部勘一ほか『ブラス バンドの社会史 軍楽隊から歌伴へ』青弓社、2001年所収、62頁。

18 前掲 Bickers, 844頁。

19 増井敬二『日本のオペラ─明治から大正へ』東京音楽社、昭和59年、52頁。

なおヴェラの名の原綴りは、上海工部局年次報告書所載のもの(ヴェラの報告書 のサイン)にしたがった。

20 Annual Report 1881, p.132.

21 中村理平『洋楽導入者の軌跡─日本近代洋楽史序説』刀水書房、1993年、650 頁の音楽家リスト参照。資料として用いられているのは『ノース・チャイナ・デ イリー・ニュース』『ノース・チャイナ・ヘラルド』を含む、極東地域で発行さ れた英字新聞など。

22 Annual Report 1881,  p.p.132-134.  ヴェラはミラノ・スカラ座のコンサートマスタ ーだったという経歴からイタリア人と思われたが、Bickers  によればスペイン人 だという(バンド委員会議事録に基づく)。とすれば、フィリピン人演奏家のス カウトや、その後の指導にも言葉の問題はなかったはずで、逆に考えれば、この 利点を買われて指揮者に任命されたという仮説も成り立つ。

23 Annual Report 1882, p.101. 

24 Annual Report 1883, p.p.177-178. 

25 前掲増井敬二『日本のオペラ─明治から大正へ』54頁。

26 Annual Report 1883, p. 176.

27 Annual Report 1884,  p.189.  Mr.  Hegrat  というこの人物は、ヴェラが休暇で不在の 時などに指揮を務めた。

28 Annual Report 1885, p.188.

29 内藤虎次郎「鴻爪記餘」冒頭「支那人と狗」の項。『支那漫遊 燕山楚水』博文 館、1900年所収。「鴻爪記餘」は旅行記本編「禹域鴻爪記」の余録。筆者が参照 したのは『幕末明治中国見聞録集成 第四巻』ゆまに書房、1997年所収のもの。

同書255頁。

30 『天津租界社会研究』尚克強、劉梅岩主編、天津人民出版社、1996年、252頁。

31 『天津史』天津地域史研究会編、東方書店、1999年、139頁所載の写真。「ビク トリア公園(当時のポストカード)」とあるが、正確な年代は不明。

32 注30に同じ。

(22)

33 ハート楽隊については韓国Ô「中国的第一個西洋楽隊─北京赫徳楽隊」『音楽 研究』1990年2期を参照した(『韓国Ô音楽文集(一)』楽韻出版社、1990年にも

「赫徳楽隊研究」として収録)。また楽隊メンバーの回想等については榎本泰子

『楽人の都・上海 近代中国における西洋音楽の受容』研文出版、1998年、第1 章第1節を参照されたい。

34 いわゆる「犬と中国人は入るべからず」という看板の真偽については、前稿

「上海租界の娯楽活動:パブリックバンド成立まで」で言及した。

35 『ノース・チャイナ・ヘラルド』1899年3月27日。

36 Annual Report 1898, p.p.125-126.

The History of the Shanghai Municipal Orchestra (1)

Yasuko ENOMOTO Key words:the Shanghai Municipal Orchestra, the Shanghai Public Band,

the International Settlement

The forerunner of the Shanghai Municipal Orchestra was the Shanghai Public Band established in 1879. It was the first professional band founded by the residents of the International Settlement, later managed by the Municipal Council from 1881. All the performers of the Band were Philippine musicians and the conductor was the only Westerner. They performed at many recreational events and parades of the Shanghai Volunteer Corps, in place of the former amateur Wind Instrument Society.

The establishment of the Shanghai Public Band reflected the ongoing prosperity of Shanghai in the end of the 19th century. It appears that the residents approved the use of tax for the municipal management for the Band so that they could maintain the tradition of European Culture in the colonial settlement.

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