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能楽復元研究の歴史と現状

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能楽復元研究の歴史と現状

2002年11月9日に行われた横浜能楽堂企画公演「秀吉 の見た卒都婆小町」は、観阿弥原作の人気曲で老女物の 大曲とされる能く卒都婆小町)を、安土桃山時代の技法 を復元して演じた、実験公演であった。シテ山本順之、

ワキ宝生欣哉、ワキツレ殿田謙吉、笛松田弘之、小鼓大 倉源次郎、大鼓柿原崇志、地頭阿部信之、副地西村高夫、

地謡岡田麗史・小野里修・柴田稔・馬野正基・浅見慈 一・長山桂三、後見観世鏡之丞・清水寛二という配役 で、午後の部に現行演出による(卒都婆小町)を、夜の 部に復元演出をまったく同配役で演じた。この公演自体 は横浜能楽堂の企画(担当中村雅之氏ほか)によるが、

記録ビデオの撮影は、演劇博物館21世紀COE演劇研究 センターの研究の一部として行われ、その成果として保 存・活用されている。事業推進者の竹本と、同センター 研究協力者の高桑いづみ東京文化財研究所音楽芸能室長 とが監修に携わった関係で、 COEの復元研究の研究資 材として撮影を許可されたものである。

本発表は、上記の企画公演の基礎研究となった、戦後 における能楽の復元研究を回顧し、本公演の意義を論じ ようとしたものである。

能・狂言の作品を「復元」しようという場合、従来は 現行の所演曲以外の、いわゆる番外曲を復曲上演するこ とが通例‑というより伝統一であった。こうした試みは 江戸時代初期から行われていたからである。例えば慶安 四年(1652)江戸城本丸座敷能(般若窟文庫蔵『江戸初 期能組控』)は、寛正五年(1464)音阿弥・観世大夫正 盛父子による礼河原勧進猿楽の番組中の稀曲復曲を試み たものとされる。五代将軍綱吉・六代将軍家宣の二代に わたり、将軍の意向を反映して番外曲の試演が全国的な 規模で行われたことも著名である。また明治維新後も、

現行曲を拡充する目的で非所演曲を自流の上演曲に新加 した例などが知られている。さらに戦後の復曲の事例に ついては、横道寓里雄・小林貢共著『日本古典芸能と現 代/能・狂言/戦後50年のあゆみ』 ・(岩波セミナーブッ

クス59、 1996年)に詳しい。それを中心に諸資料を参照 して、戦後における主な能・狂言の復曲例を掲げると、

次のようなものがある。

能楽研究所による復曲公演

世阿弥本雲林院(一九八二) ・奏上古式(一九八 四) ・狂言鷺(一九八七) ・鐘巻(一九九二) 国立能楽堂による復曲公演

狂言寝替虎明本(一九八三) ・狂言若菜(一九八七) ・ 武文(一九八七) ・狂言竹松天正本(一九八九) ・ 舞車(一九八九) ・狂言餓鬼十王(°九九一)当

竹 本 幹 夫

願暮頭(°九九一) ・狂言近衛殿の申状(一九九 三) ・雪鬼(一九九三) ・錦戸(一九九五) 東京国立文化財研究所による復曲公演

狂言立山詣(一九九六) 鑑賞団体による復曲公演

狂言川上虎明本(一九七九) ・重衡(一九八三) ・ 布留(一九八四) ・丹後物狂(一九八六卜横山

(一九八七) ・明智討(一九八九) ・諏訪(一九 九七) ・高良山(一九九九) ・婆相天(一九九九) 能役者主催(もしくは主体)の復曲公演

求塚(一九五一) ・狂言月見座頭(一九五五) ・ 泰山府君金剛流(一九六〇) ・富士山金剛流(一九

六一) ・大原御幸金春a (一九六一) ・落葉金剛流 (一九六一) ・鶏立田(一九六一) ・碁(一九大 二) ・正尊金春涜(一九大二) ・桧浦(一九六三) ・ 恋重荷金春流(一九六三) ・砧金春流(一九六三) ・ 愛宕空也喜多流(一九六四) ・陀羅尼落葉喜多ffi.

(一九六五) ・胡蝶金春流(一九六五) ・巻絹金春流 (一九六八) ・鷺金春流(一九六八) ・狂言祖父俵 (一九六八) ・長柄(一九六八) ・木賊金着流(一 九六九) ・檎垣金春流(一九七〇) ・狂言独り松茸 (一九七一) ・狂言眉目吉(一九七二)狂言獅子聾 (一九七二) ・伯母捨金春流(一九七三) ・狂言川上 地蔵虎明本(一九七九) ・谷行(一九七九) 大般若(一九八三卜治親(一九八四) ・松浦佐 用姫(一九八四) ・檀風観世流(一九八五) ・三 山観世流(一九八五) ・恋重荷彩色(一九八六) ・ 水無月破(一九八六) ・苅萱(一九八六) ・生賛 (一九八七) ・多度津左衛門(一九八八) ・実 方河野本(一九八八) ・くるす桜(一九八八) ・維 盛(一九八九) ・最上川(一九九°) ・北条(一

九九〇) ・鵜羽(一九九一卜一夜天神(一九九 一) ・求塚金春流(一九九一) ・雲林院金春流(一九 九二) ・世阿弥本弱法師(一九九二) ・護法(一九 九三) ・美方西野胡田本(一九九二) ・伏見(一九 九四) ・梧天狗(一九九四) ・松山天狗観世流(一 九九四) ・渇水龍女(一九九五) ・逢坂物狂(〟

九九六) ・敷地物狂(一九九七) ・吉野詣(一九 九八)・長柄の橋(二〇〇〇)・花軍(二〇〇

〇) ・泰山木(二〇〇〇)

横浜能楽堂の(卒塔婆小町)復元(二〇〇二) これを一見してわかるように、戦後の復曲活動を画期 するのは、 1982年の法政大学能楽研究所による世阿弥本 (雲林院)の復曲上演である。それまでは能役者の主催 による公演での復曲が圧倒的に多かった。とくに金春流

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家元金春信高の活躍が目を引く。しかし波及効果という 意味では、能楽研究所の実験の意義は大きい。能楽研究 所が(雲林院)復曲後、数年を隔てて何度かにわたり実 験公演を継続したことが、研究者の監修による実験的復 曲の例を増加させ、また役者主催の公演においても、研 究者と能役者との協力関係が模索されて、復曲の方法論 の基碇が固められた印象が強いからである。能楽研究所 の公演が毎年というわけではなかったのは、予算上の制 約にもよる面も当然あろうが、それ以上に、準備期間が 十二分に用意され、選曲から台本校訂、作曲・作舞、演 出検討、さらには稽古に至るまで、かなりの時間をかけ ていたことにもよる。入念な準備が必然的にきわめて質 の高い舞台を提供する結果にもなり、以後の復曲活動全 般のあり方にも大きく影響を与えたのである。これ以 後、能楽研究所の実験の後を追う形で、国立能楽堂の企 画公演が連続するようになり、能・狂言役者と研究者と

の共同作業を興行主体が提供するという形の、丁寧な舞 台作りが復曲の常識となった。その結果、復曲という珍 しさにひかれて集まった観客も充実感を満喫することと なり、能・狂言に対する一般の理解を高め、能楽ブーム をさらに継続させるという副次的効果もあったように思 う。そのような活況をもたらした情夫という意味で、能 楽研究所の復曲公演はまことに意義深いものがあったわ けである。これがそれほど回を重ねることがなかったの は、短期間ですみやかに成果をあげたからであり、げん に質の高い自主的な実験公演が国立能楽堂以外でも恒常 的に行われて、現在に至っている。

能・狂言役者と研究者との共同作業が、復曲という分 野で速やかに成立したのは、双方のそれぞれに動機があ ったことによる。役者にとっては、新たな上演曲の拡大 という従来の目的に加えて、古典的な曲を演じる場合と は異質の曲作りの醍醐味を味わえるというのが、大きな 魅力であったように思う。一方の研究者の側は、世阿弥 時代の能で現在廃薗化している作品への興味や、非世阿 弥的な作品・非幽玄能への興味が根底にあった。研究者 のこうした発想の源は、世阿弥本(雲林院)の復曲にあ たって大きな影響力を持った、横道寓里雄の研究に根ざ すものではあるまいか。同氏は国立能楽堂の復曲公演に も深く関わることがあったが、そのような作業を通じ て、近年の復曲作業の選曲に明確な方向付けを行ったよ うに思われる。すなわち非幽玄能に注目し、その分野か ら魅力的な非所演曲を発掘していこうという方向であ る。いわゆる世阿弥的幽玄能の名曲が非所漬曲として埋 もれている例は、世阿弥自筆本の場合を除き皆無に近い し、従来の作品研究自体が幽玄能中心で、非幽玄能研究 の開拓が時代的要請になるべきであったという研究状況 に照らしても、氏の方針は妥当であったといえよう。近 年の復曲作品に、珍曲・稀曲の類が並んでいるのは、幽 玄能否定の志向が働いているわけではなく、研究上の要 請と番外曲の曲柄分布の現実との産物なのである。

またこうした試みを可能にするだけの研究上の実績 が、近年の復曲活動の背景にあることも、忘れてはなら

ない。すなわち、歴史的研究の進展、文献研究と演出史 研究の充実、音楽的研究の高度化、という研究実績が、

復曲の内容と方法に大きな影響を与えたのである。横道 寓里雄による能の構造理論や演出要素の体系化、表章に よる能楽資料の網羅的研究と資料収集事業、それらの研 究を支えた東京国立文化財研究所(当時)や法政大学能 楽研究所という研究機関が、これに続く世代の作品論や 演出研究を導いたのである。それら近年の研究成果の 一々については省説する。

竹本・高桑に、発音復元のために後から加わった坂本 活恵玉川大学助教授の、三人が監修したく卒都婆小町)

は、以上に述べた復曲の諸相とはさらに趣を異にする。

すなわち従来の復曲活動は、非所演作品の試演が目的で あり、「その作品が現代まで演じ継がれていたとしたら、

どのようであるか」、または「現行曲であるためにはど のように演じるべきか」という発想で復元されている。

これに対してわれわれの(卒都婆小町)復元作業は、具 体的な目標時点を定め、その時代における技法の復元を 総合的に目指すものである。以下、どのような手法でそ

れを行ったかを述べよう。

(卒都婆小町)という選曲が行われたのは、 2000年12 月である。それ以後、準備研究が開始された。復元目標 を秀吉時代に設定したのは、それが現時点における技法 復元の限界点であると認識したためである。この時代 は、現代の能の技法に直結する、技法の祖型が成立した 時代であると考えられている。謡本や型付、その他の演 出資料がほぼ出揃うのが秀吉時代であり、その記述の多 くは現代の能のそれと共通部分が多く、理解しやすいも のが少なくない。さらには文献資料以外でも、この時代 にすでに制作されていた楽器や能面には、現在でも使用 可能なものが少なからず残っており、衣裳についてもか なりの種類が復元可能なのである。これより古い時代の 資料になると、体系性を理解できる程度には残っておら ず、断片的な資料に限られてくるので、技法の復元は不 可能なのである。

復元にあたっては、まず台本の校訂から行った。これ には作曲の復元作業も伴っている。シテ方が観世流であ ったために、観世流の(卒都婆小町)諸本中ではもっと も誤りの少ない、鴻山文庫蔵「堀池淵田百十五番本」を 底本とした。これは秀吉とほぼ同時代の節付の謡本であ

る。またワキ方が下掛り宝生流であったために、同流の 謡本と基本的に一致する金春流の古本である鴻山文庫蔵

「下問少進手沢草屋謡本」をワキセリフの底本とした。

少進もまた秀吉御前でもしばしば能を演じた、秀吉愛顧 の役者の一人である。また節付については、五線譜に翻 訳可能な「富商角徴羽」の五音を補助的に追記している 例が、前記「下問少進手沢草屋謡本」に多数確認されて いた。そこで同本の五音書き込みを種々の曲目中より採 集し、それらを(卒都婆小町)の節付に対応させること

により、 (卒都婆小町)全体の節付を復元した。従来は 曲の一部しか復元できなかったのであるが、今回は少進

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本により秀吉時代の謡音階復元に成功したわけである。

またそれらがどのように発音され、どういうアクセント を持っていたかということも重要である。それについて は、近世初頭の発音・アクセント体系に基づき、セリフ の部分も節のある謡の部分も、共に復元した。また謡の 部分のうち、拍子合(ヒョウシアイ)と呼ばれる定律・

破律の韻文のリズムについては、現代式の柏をずらし た、 「近古式」と呼ばれる地拍子様式に変換した。また 拍子合の謡はすべてツヅケ謡を原則とした。

シテやワキの所作については、観世文庫蔵『宗節仕舞 付』、鴻山文庫蔵『童舞抄』、岡家蔵『江戸初期仕舞付』

などを参照し、適宜の所作を組み立てた。嚇子について は、笛頭付、大小鼓伝書の記事を集成したが、なお一曲 全体の輝子付を構成するに足るだけの資料はなく、断片 的なものに止まったので、謡のあり方に合わせて、嚇子 方には適宜にあしらって頂くこととした。シテの衣裳に ついては、関市春日神社の縫箔を、山口能装束研究所所 長山口憲が復元した。ワキの衣裳は通常のものを用い、

嚇子方・地謡・後見は烏帽子・袴を着用した。地謡は嚇 子方の背後に着座した。シテ小町の面は梅若六郎家蔵の 名品「老女小町」を借用し、小鼓の筒には春日大社蔵宮 増弥左衛門自署小鼓筒を借用した。大鼓は当時の習慣に 従い、事前に革を倍じなかった。現代はかならず炭火で

悟じるのである。

秀吉時代の能は現在の能に比べ、上演時間が60%程度 の短さであったことが指摘されている。上記の台本を近 古式リズムで演じたところ、通常は90分かかる(卒都婆 小町)を約50分で演じ終えることができた。ほぼ60%と

いう目標がたやすく達成されたことになる。スピードア ップされたことと、謡が音階を備えたメロディックな様 式に変貌したこととが相まって、現行の能のような力強 さには欠けるものの、よりリアルな親しみやすい舞台表 現となった。また謡のアクセントが京言葉に近い印象に 変わったことで、一つ一つの言葉の意味が明確化し、聞 き取りやすくなるという意外な効果が生じた。 (卒都婆 小町)という能のテーマがいっそう明確になったことも 収穫の一つである。何よりも舞台自体が魅力的で面白い 内容であった。従って実験としては十二分の成功を収め たことになる。なお、本発表を踏まえて上記実験公演の 意義をより詳しく分析・紹介するため、 2003年8月28

日、ワルシャワ大学で行われたEATS (ヨーロッパ日本 学研究集会)大会の演劇セッションにおいて、竹本と高 桑の共同で、口頭発表「(卒都婆小町)復元」を行った ことを申し添えたい。

しかしながら今回の復元実験には、次のような課題が

古もID.一蝣

秀吉時代の能が舞台上でどのような姿勢を保ち、どの ように歩行をしたか、カマエ・ハコどの復元は、現時点 では不可能である。当時の能の絵図は若干残っている が、カマエを正確に復元できるほどではないようであ

り、ハコビについても、摺り足がすでに成立していたか どうか、定かでない。また今回の謡の復元はあくまで音

階とリズムの復元で、現在のような謡独特の発声法が当 時どのようであったか、またツヨ吟・ヨワ吟に大きく別 れる吟型の区別が当時存在したかどうか、いずれも不明 確である。同様に、磯子の手についても資料がなく、復 元不可能であった。最後に、舞台の大きさが、秀吉時代 は今日の三分の二程度であったかと想像されているが、

現存の能舞台で演じたために、演技自体に当時とは相違 が生じた可能性もある。舞台の構造が当時どのようであ

ったかも、よくわからない点がある。おおむね以上のよ うな限界もあったことを申し添えたい。

今回の実験により、能作品の歴史的変遷の実相を感覚 的に把握できたことの意義は大きい。 (卒都婆小町)は 老女物の一類であり、老女物は「老い」の表現を眼目と するのであるが、それは荘重な位で演じることにより達 成されると、常識的に信じられていた。しかしながら復 元能く卒都婆小町)では、速度が現行の60%に短縮され るために、荘重に演じることが不可能であり、どのよう にして「老い」を演じるかという課題が生じる。今回の 実験ではそこまで実演することはなかったが、当然、 「老 い」の表現はより写実的であったろうし、百年の老婆小 町に採草の少将の霊が取り悪いて狂乱するという、本曲 後半の趣向においては、役者の演じ方にはっきりと差異 が生じ、老女に若い男が乗り移ることでより複雑な表現 になったであろうことが推測可能なのである。現行(辛 都婆小町)は、幽玄能志向の下で演じられてこそ効果を 上げる能となっているが、この曲にはもともと歌舞の要 素がなく、幽玄に演じることがむつかしい構想を備えて いる。ここからも、より写実的な「老い」の表現という 方向が導き出されるはずであろう。いずれにせよ、 (辛 都婆小町)のテーマ解釈に、大きな変更を迫る結果とな った。このように技法の復元ということが、能の作品解 釈にもたらす影響は、はなはだ大きいのであり、そのゆ

えにこそ、実験としての意味もあると考えたい。以後、

能の復元作業は、技法の復元が中心課題になるに違いな い。そういう意味で、復曲中心の現在の復元研究を一歩 進めたのが、今回の実験公演であったといえよう。

なお、今回の復元作業に終始献身的な参加を惜しまな かった、出演能楽師諸氏、又このような機会を与えられ た横浜能楽堂に、深甚の謝意を表したい。

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参照

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