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沖縄復帰前後の経済構造

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著者 櫻澤 誠

雑誌名 社会科学

巻 44

号 3

ページ 33‑46

発行年 2014‑11‑28

権利 同志社大学人文科学研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013837

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沖縄復帰前後の経済構造

櫻 澤   誠

1 はじめに―問題設定―

まずは報告の概要を確認しておきたいと思います。報告のタイトルは「沖縄復帰前後 の経済構造」です。「はじめに」で問題設定を行った上で,1950,60,70 年代それぞれの 経済構造の中における「自立経済」論を通してみていきます。沖縄の復帰/返還は 1972 年ですが,その前後をみることによって「自立経済」論が,どう展開していくかという 点を重視して報告を組み立てています。

1.1 「現実主義」は保守だけなのか?

近年,沖縄戦後史を考える際の一つのキーワードになっている「現実主義」は保守だ けの問題なのかについて,まずは触れたいと思います。「保守勢力」については,1960 〜 70 年代前半に発表された比嘉幹郎氏の政治学的検討1)があるのですが,その後しばらく は十分な検討がなされませんでした。

近年,鳥山淳氏の諸研究2)が出されています。その中では,沖縄「保守勢力」の形成 と破綻,また再構築されていく過程について「現実主義」をキーワードにして論じられ ています。経済復興・発展のため,1950 年代は「米国援助獲得論」の推進者,1960 年代 は「日本政府援助獲得論」の推進者であったとして,常にアメリカ,さらには日本から の援助を獲得していこうとする推進者であったと「保守勢力」を位置付けて,批判的な 検討がなされています。「援助獲得論」は「現実主義」として語られているわけです。

その一方で,「保守勢力」の対抗軸として「革新勢力」が位置付けられるわけですが,

「保守勢力」は「革新勢力」が行っている復帰運動に対置されます。しかしながら「現実 主義」というのは,復帰前だけでなく現在に至るまでそうだと思いますが,沖縄にとっ

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て果たして「保守」だけのものなのか,という根本的な疑問が私にはあるわけです。「革 新」とされる人たちも含めて,復帰前であればアメリカの占領下にあって,「現実主義」

的に対応しない人間や組織が存在するのかどうか。当然ながら,米軍政下であることを 前提にして対応せざるをえないということです。そうした部分を,まずは指摘しておき たいと思います。

1.2 沖縄が目指した経済復興・発展とは?

そうした中で,援助を受けながら経済復興をしていこうという際に,沖縄が目指した 経済復興・発展とは何か。近年,日本全体の高度成長期への関心の高まりがありますが,

沖縄の高度成長期も同様に研究が出てきています3)。特に運動史,民衆史,文化史の側面 から検討がなされているわけですが,その一方で経済成長の問題にもかかわらず,経済 史への関心が薄いという特徴があるかと思います。より具体的にいうと,経済計画の検 討がそこに含まれていないわけです。

こうした 1.1 と 1.2 で挙げたような研究状況に対する批判・再検討として,近年,私も 論文を書いています4)。そうした状況をふまえて,さらに経済計画を作成する際に常に前 提とされた「自立経済」論に注目していきたいと思います。

1.3 「自立経済」論への注目

「自立経済」とはどういうものか。本日の報告では,端的に「基地経済」に対置される ものとして「自立経済」を捉えておきたいと思います。

実際,「基地経済」から「自立経済」への移行は,1940 年代末から一貫した課題として 沖縄の中で論じられてきたものでした。そのきっかけはアメリカによる経済自立要求が あったことです。もちろん同時期には本土側に対しても同様の要求が行われていますが,

アメリカが占領している地域,すなわち沖縄自体で経済を自立できるような状態をつ くって,アメリカの援助をいつまでも受け続ける状態から脱してもらわないと困る,と いう趣旨において経済の自立が求められます。

そして沖縄の場合,かつては国家として独立していた歴史があり,独自のアイデンティ ティを有しているわけです。そのため,「自立経済」論は歴史認識に基づく自立意識に融 合する形で展開されていくという特徴があります。「自立経済」論は沖縄の中で党派を超 えて「島ぐるみ」で賛成し得るものであったといえます。

こうした議論が成立する前提には,そもそも沖縄戦以降の米軍による分断統治があり

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ます。本土と分断された中で,一国単位の貿易(外)収支を前提として成立する「特異」

な状況,つまり占領期の沖縄は一国的管理をされていて,国民経済といえるような状況 が成り立っていたわけです。そうした中で日本,つまり本土側を最大の貿易相手国とし た上での経済自立が考えられていました。ただ,確認しておきたいのは,そこに至るま での日米両政府からの経済援助自体は,どの沖縄の政党も前提とせざるを得ないもので あったということです。

経済史の先行研究にもすこし触れておくと,「自立経済」論を含む経済構想をめぐる検 討は,復帰前後で分断されていると思います。復帰前については,松田賀孝氏や琉球銀 行調査部などの研究5)がありますが,運動史を主流とする沖縄戦後史とは連関性は薄い ということがあります。復帰後については,宮本憲一氏などによる継続的な検討6)がな されてきましたが,復帰以前の経済構想への関心が希薄なために,復帰後の経済計画に それまでの沖縄側の要望がどのように反映されたのかまでは十分議論が及ばないという ことがあります。

こうした復帰前と復帰後に関わる研究の問題点を前提としつつ,「自立経済」論によっ て復帰前後の分断を克服しようというのが本報告の課題だといえます。

2 1950 年代の「自立経済」論

2.1 一貫した「自立経済」への願望Ⅰ

1950 年代の「自立経済」論についてですが,現在でいえば県知事クラスの首長の立場 であった平良辰雄と比嘉秀平の発言から,一貫した「自立経済」への願望に関する初期 の状況をみたいと思います。

まずは平良辰雄沖縄群島知事が,1951 年 3 月に沖縄群島議会において発言したもので す7)。平良は「自立経済は独立を前提として考えているのではない,例えば日本に沖縄が 属している場合,沖縄自体として自立経済を立てなければならん」と主張します。沖縄 戦後史に詳しくないと文脈がわかりにくいのですが,彼は早い時期から復帰論を掲げて いた人物です。その彼が「自立経済」を主張し,その際に「独立を前提として考えてい るのではない」と言っている。そして続けて「沖縄自体の産業,沖縄住民の生活のこと を考えて,輸出入のバランスを取ることは当然である,帰属の問題と何等関係がない」と 言うわけです。さらに「而もこの経済政策の内容は御承知の通り,日本との貿易の取引 が中枢になっている」とします。復帰をする場合でも日本との貿易取引のバランスを取っ

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た「自立経済」は必要であるという立場を明確にしているわけです。

続いて比嘉秀平琉球政府行政主席が,1952 年 4 月に立法院での施政方針演説において 発言したものです8)。比嘉は「自治という事は単に政治上の自主権を持つというだけでな く,経済的にも自立し得る状態に立たなければならない」,さらに「行政主席としては自 治獲得の近途としての琉球経済の振興という点に,最大の努力を結集して行きたい」と 言うわけです。自治獲得のためには「経済自立」が不可欠であるという明快な主張です。

比嘉の発言からもわかるように,「自立経済」を論じる際,1950 年代には第一に占領さ れていたアメリカからの自立が意識されていたことが特徴だといえます。

2.2 軍用地問題との関連

1950 年代の沖縄といえば,軍用地問題が大きなトピックとしてあります。1953 年 4 月,

米国民政府から「土地収用令」が公布され,さらに 1954 年 3 月,米国民政府から「地代 一括払い」方針が発表されます。軍用地代を一括で払うことは,事実上,土地の買い上 げではないかということで,沖縄の中で大きな反発を生むことになります。その方針が 出た直後に,立法院という,現在の県議会に類似しますが当時は法律を制定する権限も 持っていたところが,「軍用地処理に関する請願」を全会一致で採択し,さらに「土地を 守る四原則」を提起します。四原則とは,一括払い反対,適正補償要求,損害賠償請求,

新規接収反対のことです。当時の比嘉主席も含めて軍用地問題に対しては四原則をもっ てアメリカと交渉していくことになります。

そうした最中,琉球政府は「基地経済」脱却を目的として,米国経済援助を前提とし ない「経済復興第一次五カ年計画」を作成していきます。米軍側との調整は前提ですが,

戦後初めて沖縄側が独自に全琉レベルでの経済計画を作成することになり,1955 年 6 月 に完成します。

軍用地問題の中で,実際に大きな動きになったのは,1956 年 6 月のプライス勧告以降 の「島ぐるみ」闘争といわれるものですが,その前段階で土地の強制接収が伊佐浜や伊 江島など各地で起こっていくわけです。そういう中でこの経済計画がつくられていきま す。

そこでどういうことが述べられていたか。計画書の中では「われわれは,われわれの 努力と米国の直接間接の援助によつて今日の発展を見ることができた。しかしいつまで も援助に頼ることはゆるされることでもないし,またそれでは自立できない」と明確に 述べています9)。そして琉球政府は「基地経済」から「自立経済」への段階的な移行をし

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ていくための具体的な計画を立てたわけです。

特に,対外収支の構造,産業構造の改善を図っていくことが重要とされました。具体 的には,第 1 次産業を復活させ,第 2 次産業のうち特に製造業を伸ばす。それにより,沖 縄の中での自給自足を増やすことで輸入を減らすだけでなく,沖縄で賄う以上のものを 輸出することによって対外収支構造を改善していこうということで,輸出産業の育成が 目指されることになります。

実際,1953 年度を基準とした,生産所得構成比(%)の計画・実績は次の通りです。

第 1 次産業 第 2 次産業 第 3 次産業

1953 年度(基準) 21.2 19.4 58.6 (海外決済除く)

1960 年度(目標) 35.4 18.5 45.5 (海外決済除く)

1960 年度(実績) 15.0 12.1 73.0 (『戦後沖縄経済史』による)

第 3 次産業については,その後の実態と比べれば,まだまだ割合は低いわけですが,

1953 年度の段階ですでに 58.6%になっていました。目標としてはそこを減らして,その 一方で第 1 次産業を復活させ,第 2 次産業の質を向上させていこうという計画になって いたわけです。

ところが結果として 1960 年度の実績値を見てみると,計画通りには全くいかず,第 3 次産業がますます肥大化し,第 2 次産業がそれほど成長していないという状況になって いくわけです。第 1 次産業も当初の目標とは異なる形で 1960 年度の実績値が出てしまっ た。十分な財源がない中で,計画としては失敗したと言わざるを得ないわけですが,と もあれこうした形で戦後初めて沖縄側が主体となって経済計画が作成されたのであり,

そこには「自立経済」に向けた理念というものが含み込まれていたわけです。

3 1960 年代の「自立経済」論

3.1 援助を前提とした経済計画

1960 年代になると,どういう形で「自立経済」論が展開していくかをみていきます。

「島ぐるみ」闘争,軍用地問題への対応の中で,1950 年代末頃からアメリカの沖縄に対す る統治政策が転換していきます。その中で経済問題が重要視されていきます。1960 年 7 月,アメリカ連邦議会で「プライス法」が制定されて,対沖縄援助に関するアメリカ本 国の基礎法ができる。加えてケネディ大統領が就任すると,沖縄へのケネディ新政策と して,日本政府からの援助を沖縄に入れることを認めていこうという動きが始まってき

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ます。池田・ケネディ会談を受けて,1961 年 7 月からの 1962 会計年度より,日本政府援 助の受け入れが開始されます。「キャラウェイ旋風」の時期はありますが,日本政府援助 は増加を続け,1967 会計年度には日米の援助費が逆転しました。

1960 年代,日本とアメリカとの関係の変化に伴い,沖縄の扱いが段階的に変わってい く中で,その変化に即した形で沖縄でも経済計画が立て続けに作られていくことになり ます。そのうち 1960 年代の最初に米琉合同で作られたのが 1960 年 5 月の「長期経済計 画」で,生産所得構成比(%)の計画・実績は次の通りです。

第 1 次産業 第 2 次産業 第 3 次産業

1960 年度(基準) 17.9 14.0 68.1 (推定値)

1965 年度(目標) 17.5 22.7 59.7

1965 年度(実績) 15.8 16.8 67.4 (『戦後沖縄経済史』による)

1960 年度の基準年に対して,第 2 次産業を大きく拡張していこうということが見てと れる計画になっています。その後,日本政府援助の拡大に対応して経済計画が更新され ていくため,直結した結果とは言えませんが,1965 年度の実績値をみてみると,第 2 次 産業は目標には届かないものの 16.8%と上昇しています。上昇の理由としては,サトウ キビやパイナップルなどをもとにした製糖やパイン缶詰関連が第二次産業の製造業に入 りますが,1960 年代前半にそれらがかなり成長したほか,その他の食品関係の製造業が,

一定程度,伸びたことなどが挙げられます。

3.2 援助に対する政党の方針

この時期,援助に対して沖縄の政党はどのような方針を持っていたのでしょうか。

まず沖縄自由民主党の方針ですが,『祖国への道』という 1960 年に出されたパンフレッ トでどう書かれているかをみていきます10)。そこでは「基地依存の消費経済から一日も 早く脱却して,生産を高め,貿易収支の著しい不均等を矯めて自立経済に立て直し,復 帰の暁には,沖縄県として立派に地方自治をまかなつてゆけるだけの経済基盤を築くこ とをも併せ考えてこそ正々堂々の復帰論だと思う。(中略)米国の援助金や基地収入で得 た金を資本として,生産の増強や経済の拡大を図り,一日も早く基地依存の消費経済か ら抜け出すよう経済自立への施策の急務を,我党が住民に訴える所以のものである」と 論じています。前提として,1960 年 4 月に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成され,

復帰運動が盛んになっていきます。そこに沖縄自民党は参加をしなかったのですが,だ からといって復帰自体に反対しているわけではありませんでした。大衆運動ではなく,あ

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くまで日米両政府による交渉の中で復帰を実現していこうという立場をとります。復帰 協に対する明確なアンチテーゼとして,こうした議論をしていくわけです。つまり,復 帰論には米軍引揚を前提とした経済論が欠如していることを批判し,復帰までに援助や 基地収入を元手に経済を拡大させ,基地依存率を縮小し,「基地経済」から脱却して「自 立経済」を構築することを主張しているわけです。

それに対して当時の野党側ですが,まず沖縄社会大衆党(社大党)はどういう考えだっ たのか。次の言葉は,安里積千代委員長が 1962 年 10 月の臨時党大会で述べたものです11)

「われわれは米国の援助やその増額を反対し否定するものではありません。米国の必要か ら軍事基地として多くのものを住民から取りあげ,不本意ながらその権力に服せざるを 得ない立場に置かれていることに対し米国は施政権者として当然の責任負担をすべきで あり,従来アメリカは権利を主張するに急であって義務を尽すのに消極的であることを われわれは常に指摘しております」。一方,「日本政府が沖縄に対する援助を従来より積 極化したことは喜ぶべきことでありますが,これ又米国の援助増額の所でのべたと同様 に現状を是認する前提に立って為されては沖縄県民にとっては喜ぶ訳にはいきません」

とも述べています。

さらに当時,極左に位置付けられる人民党などは,どういうふうに考えていたのか。例 えば 1962 年立法院選「統一基本綱領(案)」では次のように述べられています12)。「日本 政府の国庫支出や沖縄復興特別措置法などをもって真に日本の一県としての体制を築く 財政支出を要求し,さらに米国政府に対しては,軍事植民地的支配に基ずく一切の不利 益の補填に要する経費を支出することを要求する」。これは人民党・社会党が社大党と共 闘を模索した時のものです。与野党を含めて,しかるべき財政支出は日米両政府に当然 要求すべきものであり,そのあり方の中身が問題だとされていたわけです。

3.3 一貫した「自立経済」への願望Ⅱ

それでは 1960 年代における一貫した「自立経済」への願望とはどういうものなのかを,

当時の財界の中心人物の主張からみていきます。

まずは具志堅宗精琉球工業連合会会長が 1963 年 11 月に機関紙で行った議論です13)。具 志堅は,「日本復帰が沖縄住民の願望であることは事実である。(中略)本土政府の閣僚,

政党首脳の政治家から,「沖縄の産業開発計画を立てる場合,日本本土の産業面との調整 を真剣に考えるべきだ」という趣旨の見解がしばしば発表された。(中略)日本政府と調 整のついた産業のみを興こせということは,日本の植民地産業政策に通ずる感がする。

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(中略)沖縄も資源が乏しい国ではあるが,原材料を輸入して,沖縄に適する工業を政府 の保護育成のもとに発展せしめ,貿易収支のアンバランスを縮小し,もって自立経済の 道を歩まんとするものである」と主張します。将来的な復帰を前提としつつも,沖縄産 業を本土産業に競合しない範囲で認めようとする,本土側の政治家を批判しています。そ して沖縄産業を積極的に保護育成し,「自立経済」を目指すべきであるというわけです。

1960 年代,大きな歴史的な転換となったのは,1965 年 8 月に佐藤栄作首相が沖縄を訪 問したことでした。佐藤首相が沖縄を訪問した際,沖縄のさまざまな団体が陳情してい ます。その中で経済団体代表として宮城仁四郎琉球商工会議所会頭が陳情しています14)。 宮城は,「私たちは将来に来たるべき復帰にあたり,自立経済の形態において本土国民と 経済力対等をもって復帰したい願望であります。ついては,日米琉の民間人もふくめて,

周到じゅうぶんなる組織をもって五ヵ年ないし十年の沖縄総合経済開発計画を樹立し,

それも日米協議会が強く取り上げ,実施していただきたい」と要求しています。「自立経 済」を達成した上での復帰が前提であり,そのための経済計画の樹立,十分な援助を要 求する,というわけです。

ただそうした「自立経済」に対する願望は,実際に復帰が具体化していく中で本土側 と衝突し,沖縄側からすると裏切られていくことになります。そうした対立がよくわか るのが第 3 回沖縄経済振興懇談会での議論です15)。佐藤首相訪沖の後,1966 年から年 1 回本土側と沖縄側の双方の経済団体が懇談する場が設けられ,第 3 回は 1968 年 3 月に東 京で行われました。そこにおいて田中龍夫総務長官は次のように述べています。「本土経 済の一環としての沖縄経済が確立され,かつ沖縄の経済社会が本土の経済社会と一体化 できるための諸条件の整備につとめてまいる所存であります」。本土側からは「本土経済 の一環」として「一体化」という言葉で圧力がかけられていくようになるわけです。そ れに対して,沖縄側から挨拶に立った具志堅宗精沖縄工業連合会会長は,「沖縄の資本と 技術などでは不可能な大企業に対しては,日本資本をはじめ,外資導入を歓迎いたしま す。石油コンビナートなんかは,むしろ先手をアメリカにとられたような格好でござい ます」と石油精製企業の外資導入をとり上げています。詳細はまた後で触れますが,圧 力を強めようとする本土側に対して,沖縄側はあくまで外資導入を歓迎するという形で,

当時の状況を踏まえて沖縄側による積極的な外資導入を含めた「自立経済」を作ってい くことを主張し,本土側をけん制したわけです。

このように,1950 年代にはアメリカからの自立というのが意識されていたのに対して,

1960 年代になると現実味を帯びてきた復帰を前提として,日本本土からの自立を意識し

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た議論がなされていくことになるわけです。

4 1970 年代の「自立経済」論

4.1 長期経済開発計画

「自立経済」論が 1970 年代にはさらにどういう形で展開していくのかをみていきます。

1968 年 11 月,長らく沖縄で求められていた主席公選がようやく実現し,革新共闘候補の 屋良朝苗が当選します。その主席のもとで作られたのが 1970 年 9 月にまとめられた「長 期経済開発計画」です。復帰が具体化していく中で,保革を超えた形で審議会委員が集 められました。その生産所得構成比(%)の計画は次の通りです。

第 1 次産業 第 2 次産業(鉱工業,建設業) 第 3 次産業 1970 年度(基準) 9.1 18.7(10.5,8.2) 72.1 1980 年度(目標) 4.8 36.6(25.4,11.2) 58.7

かなり極端な形で,第 2 次産業を高めていくことが目標として掲げられ,肥大化した 第 3 次産業を抑えていこうという意図が明確にうかがえます。より具体的には,目標年 次の 1980 年度までに全基地が撤去されることを前提として,それまでの間に「基地依存 経済」から「自立経済」へ移行する計画として組み立てられていました。大きなポイン トは「自立的発展」を目指すための根幹は外資導入による重化学工業,すなわち石油精 製企業やアルミ企業の新興であったことです。それ以前に導入された外資の規模と比べ ると,石油事業,アルミ事業の桁が全く異なるものであり,根本的に産業構造を転換さ せる計画だったことがよくわかります。その前提には東南アジアの経済発展を見据え,沖 縄進出に可能性を見出したアメリカ企業と,復帰以前に「自立経済」を達成しようとす る沖縄側双方の思惑があったといえます。

保革を超えた「島ぐるみ」での「自立経済」への欲求をそこに見出すことができます。

そして,「国益」よりも「県益」をより重視する姿勢を強めていきます。しかしながら,

それは本土政府や本土財界の圧力によって断念させられていきます。復帰/返還という沖 縄再統合過程において表れた沖縄への抑圧的構造が,そこからみえてきます。

具体的な動向16)として,一つは石油精製企業をめぐる動向があります。1967 年 5 〜 9 月にアメリカ系の 4 社が琉球政府に外資導入を申請します。それに対して,日本政府は 琉球政府に日本の石油政策に沿って処理するよう要求します。琉球政府側はそれを蹴っ て,1968 年 1 月に 4 社の外資導入申請を認可しました。するとさらに日本政府側は直接

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アメリカ企業に圧力をかけ,当初とは異なる本土資本と合弁会社をつくる形で進出させ る。その上で,日本の通産省が 1971 年 8 月,沖縄への大規模な原油貯蔵基地(CTS)建 設計画を発表します。当初,外資によって石油精製基地をつくろうとした沖縄側の計画 は本土側によって阻止され,本土資本中心の石油備蓄基地,備蓄増強政策のもとに置か れるという転換を遂げていくことになるわけです。

もう一つのアルミ産業をめぐる動向はさらに露骨なものです。1970 年 2 月にアルコア というアメリカ系の会社が 100%出資での外資導入を琉球政府に申請するわけですが,石 油と同様,本土側が圧力をかける中で条件が厳しくなり,日本の外資法に沿って 50%出 資の合弁にするという条件で 1970 年 7 月に琉球政府は申請を許可します。さらに本土側 はアルコアに対抗するために,本土側アルミ精錬 5 社が外資導入を申請し,共同出資会 社を発足させるわけです。ところが,本土側のアルミ産業と協力を一切結べないアルコ アが,結果として沖縄進出を断念すると,今度は本土側のアルミ会社も撤退する形をとっ て結局,最終的に何も残らない状況となるわけです。

4.2 尖閣諸島(列島)

今もホットな話題ですが,この時期には尖閣諸島の問題が起こってきます。「自立経済」

の問題を考える場合,これを無視するわけにいきません17)。1968 年 7 月,総理府委嘱に よる尖閣列島調査団が派遣され,11 月に視察報告が出ます。1969 年 5 月,国連アジア極 東経済委員会の調査により,尖閣列島周辺に石油埋蔵の可能性があることが発表されま す。その後,日本政府調査団が派遣され,日本政府として国家主導による開発の意図を 示していきます。これが沖縄の「自立経済」との関わりを当然持つわけです。

日本政府の動きに対して,1970 年 3 月に琉球政府通産局が「沖縄石油開発公団」の設 立構想を掲げ,沖縄主導による共同開発の意図を明らかにします。その間には,先ほど みたように外資導入をめぐる日本政府と琉球政府の対立が起こっていたわけですが,こ の問題も同じ文脈の中に位置付けることが出来ると思います。同年 8 月には沖縄側が「尖 閣列島を守る会」を結成,9 月には「尖閣列島石油資源等開発促進協議会」が発足し,「県 益」を守れという活動が展開されていきました。

ただし,こうした動きは,その前後に台湾国民政府が 1970 年 8 月,中国共産党政府が 同年 12 月にそれぞれ領有権を主張し始め,領有権問題が浮上する中で,その後,たち消 えになっていきます。

尖閣諸島をめぐって,沖縄では「県益」に基づく夢が語られましたが,領有権問題が

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浮上する中で「凍結」されていくことになるわけです。「凍結」という言葉をなぜ使って いるかというと,現在もこの夢は消え去ってはいないからです。補足的にいうと,尖閣 諸島の問題は日本と中国,台湾との問題だと捉えられがちですが,沖縄にとっては,そ もそも沖縄のものであるという主張が当然あり得るわけです。

4.3 復帰三大事業

現在,復帰三大事業といわれているのは,1972 年 11 月の「復帰記念植樹祭」,1973 年 5 月の「復帰記念沖縄特別国民体育大会(若夏国体)」,1975 年 7 月〜 1976 年 1 月の「沖 縄国際海洋博覧会」です18)。実はこの 3 点セットが実際に行われる以前の段階において,

1970 年 3 月の第 5 回沖縄経済振興懇談会で要請された「復帰記念三大事業」は,「国際海 洋開発博覧会開催」,「南北文化センターの建設」,「原子力発電所の建設」でした。海洋 博だけは同じですが,他の 2 つは違うものだったわけです。

なぜそのような要望をしたのかについて,当時の要求内容からみていきます19)。海洋 博に関しては「海洋開発は,一九七〇年代のテーマでもあり,科学,技術の進歩と,人 類の発展と協調の場を海洋開発の領域で位置づけることは,沖縄の自然条件に適合する ものであり,沖縄の脱基地化の礎としても極めて重要な意義をもっている」と述べてい ます。実際に行われた海洋博以上に沖縄にとっての海洋開発の科学力,技術力を高める ためにも有効であるということが強調されているのがポイントです。南北文化センター に関しても「目標及び範囲」として「基地依存型から自立発展型に沖縄経済を脱皮成長 させるため,既存の農業諸技術,伝統工芸技術,等の改善方途を研究する」という意図 があったわけです。さらに,原子力発電所については,石油精製企業やアルミ産業など の誘致とも関連するものですが,「原子力発電の用途はこれら基礎的大型工業への供給は もちろん,海水の淡水化のためにも向けられ,その結果得られる水資源により,水消費 型の大型工業の成立も可能であり,原子力発電の波及効果は甚大なものがある」という 認識があったわけです。このように当初の三大事業というのは,いずれも「自立経済」と 結び付くものでした。

ところが,実際には海洋博に向けて公共事業が盛んに行われ,植樹祭や国体という形 で日本との紐帯の確認がなされていくことになります。海洋博によって,本土資本との 結び付きが強化される中で,建設業が肥大化する一方,観光業の基盤形成が進んでいく ことになるわけです。海洋博でも,現在の天皇・皇后,当時の皇太子夫妻が沖縄を訪れ ていますが,それも含めて日本との紐帯が確認されていく側面があります。

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4.4 沖縄振興開発計画

そうした復帰前後のさまざまな沖縄側と本土側の攻防を経て作成された「沖縄振興開 発計画」では,産業構造の問題をどのように考えているかを最後に確認したいと思いま す。この計画は,沖縄県の最初の案をもとにして沖縄開発庁が作成する,県の計画を大 きく受ける形で作られています。ただし,10 年後の基地撤去は盛り込まれていません。県 の計画の大元になっているのは先ほど触れた「長期経済開発計画」であり,沖縄県案の 産業別県内純生産(単位 10 億円)と構成比(%)は次の通りです。

第 1 次産業 第 2 次産業〈製造業,建設業〉 第 3 次産業 1971 年度(基準)23(7.6) 56〈29,27〉(18.1) 231(74.3)

1981 年度(目標)49(4.9) 285〈163,122〉(28.5) 665(66.6)

それを受けて策定された沖縄振興開発計画の産業別県内純生産(単位 10 億円)と構成 比(%)の計画・実績は次の通りです。

第 1 次産業 第 2 次産業 第 3 次産業 1971 年度(基準)23(7.6) 56(18.1) 231(74.3)

1981 年度(目標)51(5.1) 294(29.7) 645(65.2)

1981 年度(実績)85(5.3) 341(21.1) 1217(75.3)(『沖縄の都市と農村』による)

沖縄県案では第 2 次産業のうち,特に製造業を大きくすることが目玉としてあったの ですが,実際の沖縄振興開発計画ではそこまで詳細に言及がなされていません。そして,

実際に計画が終わった段階での実額をみると,1971 年度には製造業と建設業の割合はほ ぼ 1:1 であったのに対して,1981 年度になると約 1:2,つまり建設業が製造業の約 2 倍 に肥大化するという,大きな構造変化を遂げていたわけです。

さらに第 1 次沖縄振興開発計画を受けてつくられた第 2 次計画はどのようなもので あったのでしょうか。1982 年に策定された第 2 次沖縄振興開発計画の産業別県内純生産

(単位 10 億円)と構成比(%)は次の通りです。

第 1 次産業 第 2 次産業 第 3 次産業 1980 年度(基準) 77(6) 282(22) 960(75)

1991 年度(目標)144(6) 576(24) 1752(73)

1980 年度とほぼ同じ産業構成比を維持しながら,約 2 倍に経済規模を拡大していこう という計画だといえます。それは即ち,本報告のこれまでの内容を踏まえれば,この段 階において,復帰以前の 1950 年代から「自立経済」を目指して追求されてきた,製造業 を中心にした第 2 次産業を重視する経済計画が終結したということになるわけです。そ

(14)

して公共事業,観光業をベースとした経済を拡大発展させる方向に転換していきます。そ の中で 3Kといわれる公共支出,観光,基地に依存した経済が作られていくことになりま す。

5 おわりに―報告のまとめ―

最後に簡単に内容をまとめます。沖縄側の一貫した「自立経済」への願望は,1950 年 代には第一にアメリカからの自立を意識したものでしたが,1960 年代になると復帰を前 提として日本本土からの自立を意識するようになりました。復帰前後には,東南アジア への進出も前提としつつ,重化学工業の新興に望みをかけようとし,その中で「県益」を 追求しますが,本土側の「本土経済の一環」,「一体化」という圧力によって挫折をして いくことになります。復帰後,「本土経済の一環」に取り込まれる中で,3K経済が形成 されていきます。

ただ一方で,沖縄の「自立経済」への願望というのは,現在まで形を変えて継続して いるわけです。そうしたその後の展開については,今後の課題だと考えています。これ で報告を終わりたいと思います。ありがとうございました。

1 )比嘉幹郎『沖縄 政治と政党』中公新書,1965 年,同「政党の結成と性格」宮里政玄編『戦 後沖縄の政治と法』東京大学出版会,1975 年など。

2 )鳥山淳『沖縄

/

基地社会の起源と相克 1945―1956』勁草書房,2013 年,同「占領と現実 主義」同編『沖縄・問いを立てる 5』社会評論社,2009 年など。

3 )屋嘉比収『沖縄戦,米軍占領史を学びなおす 記憶をいかに継承するか』世織書房,2009 年,鳥山淳「占領下沖縄における成長と壊滅の淵」大門正克ほか編『高度成長の時代 3』大 月書店,2011 年,戸邉秀明「沖縄「占領」からみた日本の「高度成長」」『岩波講座東アジ ア近現代通史 8』岩波書店,2011 年など。

4 )拙稿「1950 年代沖縄における「基地経済」と「自立経済」の相剋」『年報日本現代史』17,

2012 年,同「沖縄の復帰過程と「自立」への模索」『日本史研究』606,2013 年。

5 )松田賀孝『戦後沖縄社会経済史研究』東京大学出版会,1981 年,琉球銀行調査部編『戦後 沖縄経済史』琉球銀行,1984 年。

6 )宮本憲一編『講座地域開発と自治体 3 開発と自治の展望・沖縄』筑摩書房,1979 年,宮 本憲一・佐々木雅幸編『沖縄 21 世紀への挑戦』岩波書店,2000 年,宮本憲一・川瀬光義 編『沖縄論』岩波書店,2010 年などがある。このほか,山本英治ほか編『沖縄の都市と農 村』東京大学出版会,1995 年も参照。

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7 )沖縄県議会事務局編『沖縄県議会史第十三巻資料編 10 群島議会Ⅰ』沖縄県議会,1995 年,

351 頁。

8 )『琉球新報』1952 年 4 月 19 日。

9 )『経済振興第一次五カ年計画書』琉球政府,1955 年,188 頁。

10)『祖国への道』沖縄自由民主党,1960 年,8 〜 9 頁。

11)『沖縄社会大衆党史』沖縄社会大衆党,1981 年,356 頁,364 頁。

12)『人民』33,1962 年 9 月 12 日。

13)具志堅宗精「主張 島内産業保護について/復帰の際の困難とはならない」『琉工連ニュー ス』11,琉球工業連合会,1963 年 11 月 14 日。

14)『沖縄タイムス』1965 年 8 月 21 日。

15)『第 3 回沖縄経済振興懇談会議事録』1968 年,9 頁,18 頁。

16)前掲『戦後沖縄経済史』,参照。

17)この項については,秋山道宏「日本復帰前後の沖縄における島ぐるみの運動の模索と限界」

『一橋社会科学』4,2012 年を参照。

18)海洋博を含めた復帰三大事業については,多田治『沖縄イメージの誕生』東洋経済新報社,

2004 年を参照。

19)『経営』4-4,沖縄経営者協会,1970 年,49 〜 51 頁。

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