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日本復帰前沖縄の政治経済と経済界 ─ 建設業界の動向に着目して ─

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(1)

1.はじめに

本論文では、戦後沖縄を対象とし、米国占領のもたらした政治経済構造の形成と変容に ついて、日本復帰直前期の経済界、とりわけ建設業界とその業界に深く関わる同族企業の 動向を中心に検討していく。

そもそも、なぜここで建設業界について問う必要があるのか。それは、建設業界に着目 することで、近年の沖縄をめぐる政治経済の構図の変化を、より明確なかたちで理解する ことが可能であるからだ。翁長雄志元知事の死去を受け、2018 年 9 月 30 日に行われた沖 縄県知事選挙では、約 8 万票という大差で、「オール沖縄」の推す玉城デニー氏が自公維 の組織的なバックアップを得た佐喜眞淳氏をやぶり当選した。この当選を喜ぶ玉城氏のす ぐ横には、知事選の候補者としても名前のあがった呉屋守將氏(金秀グループ会長)と、

照屋義実氏(照正組会長)という二人の経済人の姿があった。なぜ、戦後長年にわたって、

米軍基地建設や公共事業に頼ってきたとされる沖縄の建設業界から、「米軍基地は経済発 展の阻害要因」という認識を明確に打ち出し、かつ現政権の路線に異を唱える経済人が現 れ、この選挙で玉城氏を後押ししたのだろうか。

このような動きは、一部の例外的な経済人によるものではないことは、建設業界におけ る政治的態度の近年の変化からもうかがい知れる。たとえば、過去の知事選挙(2010 年 および 14 年)において、建設業界では、主要な他の経済団体が自公の推す候補に推薦状 を交付するなか、推薦状の交付をとりやめ(2010 年)1、また「推薦」と「支持」をめぐ り複数の態度表明がなされた(2014 年)。その後、2017 年 10 月の衆議院議員選挙では、

公示後にメールで投票依頼を出し、選挙違反が問われるような動員のあり方が取りざたさ れた2。これは一種の揺り戻しと言えるが、2018 年の知事選の結果からは、出口調査が如 実に表していた通り、旧来型の政治経済構図を支えてきた自民党や公明党支持層でさえ、

2 割以上が玉城氏に投票したという変化がみてとれる3

〈論文〉

日本復帰前沖縄の政治経済と経済界

─ 建設業界の動向に着目して ─

秋 山 道 宏

1

  2010 年に沖縄県建設業協会の会長に就任した照屋義実(照正組社長(当時))は、知事選挙での態度表 明について次のように述べる。「(会員より)「談合問題の経緯があって、両方に推薦状を交付できない」

という表現にしてほしいという要望があった。「あ!これは妙案だ」と思い、マスコミのみなさんに対 して自主投票という言葉は使わなかった」(琉球政府研究会[編]『戦後沖縄の証言』、2018 年、107 頁)。

このような照屋のスタンスは、同氏の経営する照正組が公共事業比率を大幅に減らし、公共事業の受 注に左右されないことから打ち出されたものである(同上および「「県民と共に歩む業界」へ」『週刊 沖縄建設新聞』2010 年 6 月 2 日付)。

2

 『琉球新報』2017 年 10 月 26 日付。

(2)

上記の変化の背景には、観光業の拡大と基地関連収入の比率の低下、基地返還跡地利用 による経済効果の可視化や建設業界における基地関連受注を含む公共事業依存への危機感 の高まり、といった沖縄経済の構造的な変化が存在している。近年よく言及されているよ うに、基地関連収入を示すとされる米軍関係受取(基地労働者の賃金、軍用地料および軍 人・軍属の個人消費)の県民総所得に占める割合は、1972 年に 15.5%であったものが減 少し続け、現在では 5%程度で推移している。これとは逆に、観光業では、復帰前後の 6.

5%から現在では 14%以上の規模となった4。加えて、拙稿(2015・2016)でも示した通り、

建設業界では、「公共事業への過度な依存が業界を維持していくうえでも阻害要因となっ ている」という認識の浸透が、新自由主義改革や 2005 年以降の談合問題の摘発を背景に、

公共事業や基地関連受注(自衛隊施設も含む)の見直しを促したと考えられる。

これらの動きは 2000 年代半ば以降に顕著になるが、本稿の課題は、この現代的な変化 の前提となった歴史的条件、すなわち、同族企業を中軸とした建設業界が政治経済におい ていかに影響力を持ちうるにいたったのか、について明らかにすることである。その際に 具体的に着目したのは、日本復帰に向けた動きが活発となった 1960 年代後半の商工会議 所における内部対立である。

以下では、上記の課題を踏まえ、2 において先行研究の概略と研究対象・手法を示す。

続く、3 では、戦後沖縄経済と経済界の歴史について、建設業(界)の歴史的展開と照ら して概説する。この 3 での認識を下敷きとして、4 では、本論文の中心的な検討課題に入り、

1960 年代後半の沖縄経済界の内部構造と再編について検討する。

2.先行研究の概略および研究対象・手法 2−1 先行研究の概略

従来、1960 年代を対象とした沖縄研究では、主に歴史学や政治史といったアプローチ がとられ、復帰運動を進めてきた沖縄教職員会や沖縄県祖国復帰協議会といった団体・組 織、返還過程における日米関係や政治家(政治指導者)のふるまいといった対象への着目 がなされてきた(新崎 1976、我部 1975、河野 1994、宮里 2000 など)。近年では、保革対 立の形成や経済開発をめぐる動きといったテーマにも焦点が当てられ(江上 1996・1997、

櫻澤 2012・2016)、また、沖縄をめぐる越境的な社会運動に関する研究(大野 2014)、冷 戦構造のなかでの米軍基地と住民のあり方を問う社会史的な研究が展開されている(屋嘉 比 2009、鳥山 2009・2013)。

しかしながら、上のような研究に沖縄経済史の分野を加えてみても、経済界の動向や産 業構造にまで踏み込み、沖縄戦後史を解明する研究は少なかったと言える。その理由とし て、沖縄経済を扱った研究では、主に日米政府による経済政策の分析に比重が置かれ(琉

3

 『沖縄タイムス』2018 年 10 月 1 日付および『琉球新報』2018 年 10 月 1 日付。

4

  沖縄総合事務局『沖縄県経済の概況』2019 年 10 月版(http://ogb. go. jp/soumu/soumu_sinkou/003093、

2019 年 12 月 25 日閲覧)。

(3)

球銀行調査部[編]1984 が典型5)、また、復帰後を対象としたものは日本政府による振興・

開発策の評価をめぐる研究(宮本[編]1979 など多数)として展開されてきた、という 背景がある。そのため、企業や業界自体に着目した研究の必要性は、2010 年代に入って からようやく提起され(山内[他]2013)、従来の先行研究のなかでもほとんど手つかず の領域であった。そのため、本論文では、これまでの研究蓄積を参考にしつつも、基礎的 な資料に依拠して、社会経済構造の変容と経済界の関わりについて解明していく。

2−2 研究対象と研究手法・資料

本論文では、占領下における沖縄経済界の変容を研究対象として取り上げ、米軍基地建 設や政治との関わりが密接であった建設業(界)の展開と重ね合わせつつ、復帰目前の 1960 年代後半に顕在化した経済界内部の対立関係と業界の再編(商工会議所における会 頭選挙など)について検討する。

「経済界」という用語は「財界」などと混同して用いられるが、ここでは、李(2016)

と菊池(2005)の定義を参考とする。李によると「日本の経済界とは、「財界」、「業界」、「企 業」の三つの層によって構成される、企業に関連した人的集団である。最上層には「財界」

と呼ばれる経済団体の指導者が存在し、次の層には業種によって結ばれた「業界」指導者 がおり、底辺に個々の「企業」経営者がいる」(李 2016:9)とされる。ここでは、混乱 を回避するため「財界」という語は用いないが、この三層構造のうち、戦後沖縄経済にお いて「財界」にあたると考えられる商工会議所と、「業界」にあたる建設業界および工業 界を扱う。

「財界」の定義としては、「個別企業の意思をまとめ、政治や経済を動かすために企業が 形成している経済団体や経営者たちのグループ」(菊池 2005:9)を採用し、個別企業の 意思を超えたところで、政治経済に関わるアクターと捉える。戦後日本において、「財界」

には、会員企業の規模や設立の背景・目的に応じて、日本商工会議所以外にも経済団体連 合会、日本経営者団体連盟(日経連)や経済同友会といった複数の経済団体が含まれ、そ こでの競合や協調の結果としての諸要求を政治経済に反映させようとしてきた(菊池 2005)。それに対し、戦後沖縄においては、後述するように、業界横断的な団体としては 商工会議所の再建が先行し、労働争議への対応を目的とした沖縄経営者協会(沖経協)は、

経済団体としては後発組であった(1958 年に設立)。また、1950 年代には、商工会議所内 に各業界団体の代表が参加していたことから、沖縄における「財界」的な位置づけを有す る経済団体として扱っていく。

また、分析の際には、歴史的な過程を重視する視点とともに、経済界の動向を内的に分

5

  同書は、問題設定の箇所で「沖縄における経済政策は、純粋に沖縄の内的要請に基づいて展開された というよりも、米国の沖縄統治という “ 外からの動機 ” によって策定された。[中略]1960 年代に入っ て沖縄問題に日本政府が登場してくるが、日本政府の沖縄に対する経済政策も日米協調体制の結節点 である基地保持を絶対命題とするところから発しており、米国と共通する面が多い」(琉球銀行調査部

[編]1984:2 頁)としている。

(4)

析する経済社会学的なアプローチも参考としている(役員構成、株式所有、業界団体、系 列関係などへの着目)。渡辺(2002)のアプローチでは、産業を社会構造として分析する 際に、以下の五つのレベルに着目している。①「産業を構成する諸企業の内部構造」、②「産 業内の諸企業と川上、川下の取引相手との関係の構造」、③「産業内の諸企業間の関係」、

④「産業内の諸企業と外部の組織や集団との関係」、⑤「産業と政府との関係」(渡辺 2002:164)。本稿では、④を中心的に検討しつつ、関連する範囲で③と⑤も付随的に扱う。

以上を踏まえ、ここで扱う資料は、雑誌・新聞(地方紙および業界紙)、記念誌・社史、

業界団体資料(冊子、ニュース、事業報告書)などの文書資料を中心としつつ、一部では、

筆者らの行ったインタビューをまとめた報告書(琉球政府研究会[編]『戦後沖縄の証言』、

2018 年)も参照している。

3.戦後沖縄経済の特徴と建設業(界)の歴史

本節では、経済界内部の変化について検討する前に、その前提として、戦後沖縄経済の 基本的な特質と建設業(界)の歴史について、基本的な事柄を確認しておく。戦後沖縄に おける建設業は、占領下の基地建設を通して成立し、復帰後は公共事業の担い手として拡 大していった。

3−1 沖縄経済の歴史と構造的特徴

戦後占領期の米国による統治政策は、米軍基地をいかに維持し、拡張するのかという基 本方針のもとで打ち出された。そのため、沖縄経済の特質も、この方針に大きく規定され ることになる。たとえば、現在も沖縄経済の主要産業である建設業の出発点は、戦後の米 軍基地の建設を背景としていた。1949 年には、沖縄における恒久基地化が米国議会で決 定され(米国家安全保障会議(NSC)13/3)、翌年の朝鮮戦争の勃発により基地建設が急 速に進められた。

基地建設そのものは、米国の軍事戦略に左右され経済的に不安定なものであったが、こ こで確立された技術的基盤をもとに、1960 年代の後半には民間受注も拡大していった(図 表 1)6。しかし、その一方で、製造業については積極的な育成策が取られず、経済活動に 必要な資材や人びとの生活必需品の多くは、輸入価格の抑制によって島外の経済圏からの 輸入によって確保しようとした。沖縄の経済圏では、1958 年のドル切替えまで、B 円と いう軍票を使用していたが、1 ドル= 120B 円という B 円高のレートであった。この B 円 高が、輸入を促進し、卸売・小売業が発達すると同時に、製造業への資本投下は抑制され たのである(貿易収支赤字も構造化)。

6

  大城(2002)によると、1960 年代後半には民間投資が 7 割を超え、復帰前の 1970 年度には 78.6%に のぼったことが指摘されている。ただし、完工高データでみてみると、1960 年代半ば以降の軍工事比 率は、減少傾向にあるものの、2 割を超えた年も存在するため、さらなる検証が必要である。ベトナ ム戦争との関連など、建設業が、冷戦構造に強く規定された基地建設を背景に成立した産業であった ことを見落としてはならない。

(5)

1950 年代前半から後半にかけて、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれた武力を用いた新規 土地接収や軍用地料の一括払い(事実上の買い上げ)をめぐり、「島ぐるみ闘争」(土地闘 争)が展開されると、上のような経済政策に一定の修正がなされた。1958 年には、それ まで用いられていた軍票の B 円をドルに切替え、加えて、資本の自由化に近い制度を採 用して外資導入を進めようとした。これによって沖縄経済は、ドル経済圏に組み込まれた が、沖縄内部の産業育成という観点はここでも欠如していた。また、1960 年代初頭には、「島 ぐるみ闘争」や日本本土での安保闘争によって生じた政治的緊張を緩和し、安定的な安全 保障体制を維持するために沖縄が位置づけられ、日米が共同で経済開発にあたることが決 められた(ケネディ新政策)。そして、この過程で、日本政府による援助が制度化され、

日本復帰を下支えした経済面での日本本土との一体化7もめざされたのである。

その後、1960 年代前半から後半にかけて、製糖業などの製造業の拡大はみられたが、

日本政府による砂糖の自由化(1963 年)やベトナム戦争による基地関連収入の増加によっ て、産業構造を根本的に変えるにはいたらなかった。

3−2 戦後沖縄における建設業(界)の歴史的展開

(1)基地建設と建設業界の成立(戦後直後〜 1960 年代半ば)

戦後直ぐ、基地建設を取り仕切ったのは、米国陸軍沖縄地区工兵隊(District Engineer U.

S. Army, Okinawa : DE)と呼ばれる組織であった。この時期は、主に米国やフィリピン の企業が基地建設を受注し、地元の建設業者は下請けとして基地建設に関わっていたとさ れる。その後、1948 年に自由な企業活動が再開されると、翌年に沖縄土木建築請負組合(現 在の沖縄県建設業協会の前身)が発足し、業界団体が結成され、沖縄の建設業者と DE の 間で直接契約が行われるようになっていった8。上述したように、この年には、沖縄にお ける恒久基地化が米国議会で決定され、翌年には朝鮮戦争が勃発し基地整備が急がれるこ とになった。また、同時期には、日本本土からの建設業者も許可されたことで受注競争も

単位:百万㌦、%

図表 1 1960 年代後半の軍工事高と建設投資の公共・民間比率

注)大城(2002)の表 13 をもとに、沖縄県建設業協会『建設業の現況』(1972 年版)、琉球政府『沖縄経済の現状』

(各年度版)にて加筆・修正を行った。

1963 年度 1964 年度 1965 年度 1966 年度  1967 年度 1968 年度 1969 年度 1970 年度 1971 年度

軍工事完工高 na na 10.2 19 10.4 6 9.7 9.9 7.8

全体比(軍工事) na na 21.6% 25.7% 12.2% 7.2% 9.6% 6% 3.5%

建設投資 47.1 56.07 62.2 90.86 116.97 138.86 152.79 205.17 na 公共投資(構成比) 23.10% 25.20% 29.30% 23.90% 25.20% 28.50% 26.80% 21.40% na 民間投資(構成比) 76.90% 74.80% 70.70% 76.10% 74.80% 71.50% 73.20% 78.60% na

7

  一体化政策は、1967 年 11 月の佐藤・ジョンソン会談を受けて施策として明確化された。そこでは、

沖縄の社会的諸制度や経済的条件などを日本本土と一体のものとし、同水準へと引き上げることが目 標とされた。

8

  社団法人沖縄県建設業協会[編]『沖縄県建設業協会 40 年史』、1990 年、27–30 頁。

(6)

激化していくが、戦後沖縄の建設業は、いわゆる「軍工事ブーム」によって業界と呼べる までに拡大していった(秋山 2015)。

加えて、業界としては、1955 年の日本本土に準じた「建設業法」の施行を受けて、関 連する業界団体も新設・改組されていった。この時期に改組された琉球建設業協会(琉建 協)の会長には、國場組の國場幸太郎9が就任し、1980 年代にいたるまで影響力を保つこ とになるが(85 年まで会長職)、完成工事高(完工高)からみると建設業界のなかで國場 組が比重を高めるのは、1960 年代後半の時期からであることがわかる。たとえば、業界 大手二社となる國場組と大城組の完工高全体に占める比率は、1965 年度には國場組 15.

1%、大城組 15.6%と拮抗していたのに対して、67 年度には逆転した。その後、1969 年 度には、國場組 15.9%に対して大城組 5.3%と、10 ポイント以上の大幅な差がつき、そ れ以降、國場組が建設業界の最大手としての地位を確立していくことになる10

(2)公共事業の拡大と建設業(1960 年代後半〜 70 年代)

このような建設業の性格が大きく変わったのは、1960 年代後半から 70 年代にかけてで ある。1972 年 5 月の日本復帰をめぐる過程では、アルミ・石油企業などの外資導入を背 景とした工業化路線、公害反対運動などを背景とした「沖縄独自の豊かさ」をめざす動き、

日本本土との一体化を重視する動きなどがあり、さまざまな立場から経済開発構想が展開 された(秋山 2016・2019)。結果的には、日本復帰や沖縄振興開発関係の特別措置法案が 強行採決され、沖縄開発庁(開発庁)を軸とした国家主導の開発体制が確立することにな る。このように、復帰前後において、沖縄経済のビジョンと可能性は複数あった/ありえ たわけだが、1975 年の沖縄国際海洋博覧会(海洋博)などを契機として、沖縄の経済成 長をどう達成していくのかをめぐって「本土との格差是正」へと焦点化されていった。こ のような方向性は、1980 年代のリゾート開発や、開発庁をテコとした公共事業中心の開 発につながっていったと指摘されている。とりわけ、その影響は建設業界において大きく、

全体の完工高は、復帰後に拡大し続けてきた。公共工事の比率でみても、新自由主義改革 を受け 2000 年代に入って低下してはいるものの、2015 年度のデータにおいても 4 割以上 を占めている(図表 2)。

以上のように公共事業を重視した復帰後の政策は、沖縄経済を公共事業依存型の構造に したとされ、既に多くの論者から批判されている(宮本[編]1979 など)。しかしながら、

そもそも復帰前後に複数の経済開発の路線が提起されるなか、「本土との格差是正」と公

9

  國場幸太郎(1900 〜 88 年)、沖縄県国頭村生まれ。13 歳から日本本土や宮古島などで働き、1931 年 に國場組を設立。戦前は日本軍発注の軍事施設建設にも携わる。戦後、1946 年には國場組を再建し

(企業免許取得は 1949 年)、港湾労働者の統括や初期の米軍工事に携わり(若林 2015)、建設業の基 礎を築いた。その後、建設業以外にも同族企業を展開し、沖縄経済界での影響力を高めていった。

10 

沖縄県建設業協会『建設業の現況』(1969 年版、70 年版、72 年版)。この背景については、4で触れ ている経済界内部や國場組の受注構造の変化があると考えられる。今後、この点に関しては、詳細に 検討する必要がある。

(7)

共事業の拡大が結びつけられ、建設業(界)の拡大が図られるという方向性は、どのよう に沖縄経済にビルトインされたのだろうか(これは開発主義的な日本国家へのビルトイン の過程でもある)。

この論点については体系的な検討が必要であるが、本稿では、以下の4で、沖縄におけ る経済界の中心的な団体であった那覇商工会議所で生じた 1960 年代後半の会頭選挙をめ ぐる経過と業界間の対立構図について検討する。この作業を通して、上記の論点を検討す る際に前提となる歴史的背景を明らかにしたい。

4.1960 年代後半の沖縄経済界の内部構造とその再編 4−1 沖縄経済界の歴史的背景と質的変化

沖縄戦によって戦前の経済団体は機能停止の状況にあったが、1950 年には沖縄商工会 議所11が発足した。この団体の初期の主要業務は、1)産業経済に関する調査、2)政府 機関への建議および諮問答申、3)商工業に関する調整(仲介・あっせん・調停・仲裁)

といったものであった12。1950 年代から 60 年代初頭までは、上記のような公益的な性格 を背景に、商工会議所の会頭は、特定の業界からではなく中央銀行的な役割を担っていた 琉球銀行の総裁などが就いていた(図表 3)。このような団体の性格は、1960 年代半ばか

11

  1951 年に琉球商工会議所(旧)と改称。1958 年に任意団体として那覇地域で那覇商工会議所(旧)

が結成されたが(会員 700 名)、会員の重複などの不都合が生じたため、1963 年に琉球商工会議所(旧)

と統合され、那覇商工会議所(新)を発足。同年、各地の商工会議所の連合体として琉球商工会議所(新)

が発足したが、会員数の多い那覇商工会議所(新)の会頭が琉球商工会議所(新)の会頭を兼務し影 響力を保持したとされるため、ここでは、那覇商工会議所(新)を分析対象とした(那覇商工会議所

『那覇商工会議所五五年史』、1983 年)。

12

  那覇商工会議所『那覇商工会議所五五年史』、1983 年。

 (注) 単位:百万円(左軸)、%(右軸)。復帰前の資料データについては、行政統計とのつきあわせができて いないため暫定値である。また、復帰前の完工高表記はドル換算のため、1ドル= 380 円で計算している。

(出典) 1972 年以降については、沖縄県土木建築部『土木建築部要覧』(各年版)、沖縄県振興開発金融公庫調査 部調査課『観光要覧』(各年版)より作成した。復帰前については、沖縄県建設業協会『建設業の現況』(1969 年版、70 年版、72 年版)より作成した。

図表 2 1960 年代後半から 2000 年代にかけての完工高と公共工事の比率

(8)

ら日本復帰への対応を迫られた 70 年前後に変化にさらされ、業界団体の利害や同族企業 の利害を一定程度代表する機関へと質的に変わっていったと考えられる。

以下で詳しくみるように、那覇商工会議所では、役員構成などにおいて建設業界の比重 は高くなかったものの、同族企業の影響力の拡大と連動したかたちで、建設業界の地位の 確立ないし安定化が図られていった。

4−2 那覇商工会議所の会頭選挙をめぐる過程(1967 年および 69 年)と経済界の内部構造 ここでは、1960 年代後半に二度にわたって焦点となった那覇商工会議所の会頭選挙と、

その前後における役員構成の変化について検討する。

(1)那覇商工会議所の会頭選挙

日本復帰を目前とした 1967 年と 69 年に、二年ごとに改選される那覇商工会議所の会頭 職(役員改選も)をめぐって対立が生じた。1967 年の会頭選出時には、65 年に会頭職に 就いていた宮城仁四郎(大東糖業社長)と琉建協会長である國場とが対立し、一騎打ちの 選挙戦をたたかうこととなった。この時期に、日本復帰を前にして組織固めや対策を検討 していたのは、業界団体だけでなく、建設業や工業を基幹事業とした同族企業も同様であっ た。この時期、代表的な同族企業としては、工業関連の企業を中心とする宮城(琉展会

13)や具志堅宗精(琉鵬会)、建設業を中心とする大城(大扇会)や國場(國和会)が既 に沖縄経済において大きなシェアを持つにいたっていた。

ただし、同選挙に向けた対立構図は、単純な業界対立ではなく、大城の同族企業が宮城 支持に回り、具志堅が一時、國場を推すなどの動きがあり、派閥争い的な側面が強く出て いた。また、「経済界を二分する」という危機感から、両候補の支持を表明しない中立派 による説得がなされたが不発に終わり14、選挙において國場が当選することになる。上記 のような派閥争い的な側面が強かったものの、この会頭選挙に直接的に影響したのは、会

図表 3 1950 年代〜 60 年代初頭にかけての会頭・副会頭の所属業界

(出典) 那覇商工会議所『那覇商工会議所五五年史』、1983 年、450–456 頁および琉球商工会議所『琉球商工名鑑』

(1956 年版、58 年版、62 年版)より作成。一部について、該当する年代の所属が不明なものもある。

(50 〜 51 年)初代 二代

(51 〜 54 年) 三代

(54 〜 55 年) 四代

(55 〜 57 年) 五代

(57 〜 61 年) 六代

(61 〜 63 年)

会 頭 金融 金融 金融 金融 金融 工業

(食品加工)

副会頭 金融 工業

(食品加工) 工業

(食品加工) 工業

(食品加工) 工業

(食品加工) 工業(石油)

副会頭 建設 建設 建設 建設 工業(飼料) 工業(製糖、セメント)

13

  括弧内はグループ企業(同族企業)の名称を表している。

14

 「説得工作つづく 那覇商議所会頭選挙 決意堅い宮城、国場両氏」『沖縄タイムス』1967 年 7 月 8 日付。

(9)

頭選挙の投票権をもつ商工会議所内の議員選出(80 人)において半数を占め、全会員に より選出される一号議員(40 人)の支持を得たことであった。商工会議所の議員には、

一号から三号までの区分があり、納入される会費額(口数、一口 6 ドル)に応じて被選挙 権が定められており、選出の方法も異なっていた。まず、一号議員は、5 口(30 ドル)以 上を納める会員に被選挙権があり、全会員の投票によって選出される(40 人)。続く、二 号議員は、15 口(90 ドル)以上を納める会員に対して被選挙権があり、専門部会に所属 する会員で選挙を行う(30 人)。最後の三号議員は、50 口(300 ドル)以上を納める会員 が立候補でき、議員総会にて全議員の投票で選出されるものである(10 人)。比較的規模 の大きな企業代表が出る二号、三号議員の選挙は、派閥間の勢力関係もあり無投票で調整 が図られたが、一号議員については選挙が行われた。この会頭選挙の過程で、会員数と口 数は大幅に増えていたが15、一号議員の選出では中小企業の支持を得るかたちで國場支持 が固まったとされている16。この選挙の結果としては、総数 80 票のうち、國場 39 票、宮 城 34 票(残り 7 票は他候補および白票)で、國場が選出された。

また、その二年後の会頭選出の過程では、國場に対抗して具志堅が立候補し、1967 年 と同様に会頭職を争う姿勢をみせた。この年の選挙においては、前回選挙に増して派閥争 いの側面が前面に出たため、三号議員を中心とした中立派が「調停委員会」を構成して説 得工作にあたったが調整はうまくいかなかった17。一方、前回選挙において候補者の態度 はあまり問われなかったが、この選挙では、復帰路線の具体化を背景に、國場が「(建材 等の)輸入規制反対および観光開発の重視」を、具志堅が「産業保護のもとでの日本経済 との一体化」をめざすことが、対立点として顕在化していた18。最終的には、選挙間際に、

経済界の分裂を危惧した具志堅が辞退したことで会頭選挙は回避されたが19、派閥の勢力 争いと業界間の対立(建設業・観光業 vs. 工業)の結果が、商工会議所内部の力関係にも 影響してくることになる。

(2)那覇商工会議所の役員の変化

1967 年の会頭選挙時には、当初から、元職の宮城に対抗して立候補を表明した國場側 は「那覇商工会議所の議員、役員改選を好機として、会頭といわないまでも八十名の議員 の多数に国場派を送り込むことによって、会議所の主導権−即財界の主導権を握ろうと思

15

  那覇商工会議所『那覇商工会議所五五年史』、1983 年、421 頁。

16

 「議員株 急騰に商売そっちのけ 国場新会頭出現のうらおもて」『月刊沖縄』(43 号、1967 年)およ び「人物地帯 那覇商工会議所会頭に選ばれた 国場幸太郎」『沖縄タイムス』1967 年 7 月 11 日付など。

17

 「商議所会頭選の “ 調停 ” へ 正式委員会が発足 きのう那覇商議員懇 対立好ましくない 国場、

具志堅候補も了承」『沖縄タイムス』1969 年 4 月 27 日付および「調停工作ついに不調 商議所会頭 は選挙へ」『沖縄時報』1969 年 4 月 30 日付。

18

  松川久仁男「経済界の分裂をなくせ 会議所会頭選挙をめぐって」『琉球新報』1969 年 6 月 9 日付。

19

 「会頭に国場氏 那覇商議所 会頭選の紛糾に決着」『琉球新報』1969 年 7 月 11 日付、「無投票で国 場会頭再選 那覇商議所議員総会 副会頭に田場氏ら」『沖縄時報』同上、具志堅宗精『続なにくそ やるぞ:祖國へ訴へる』(琉鵬会、1969 年)、251–253 頁。

(10)

い立ったようだ」20とされていた。この派閥争いという側面は、上述したように、1969 年 にも改めて再燃したが、両選挙後、意思決定の中核を担う常議員(役員)の構成が大幅に 変化していくことになる。1965 年から日本復帰までの役員構成をまとめたものが、以下 の図表 4 である。

図表 4 那覇商工会議所の役員構成の推移

 (注)1962 年までのデータについては、統合前の琉球商工会議所のもの(参考として掲載した)。1965 年以降 については、那覇商工会議所の役員構成である(1966 年と 67 年は資料確認できず)。役員構成の区分は、

商工会議所内の部会構成に基本的に従ったが、商業と貿易については区分が明確でないため一つのくくり とした。業種の特定については、商工会議所の名鑑のほか、沖縄興信所『沖縄商工名鑑』(各年版)も利用 した。また、系列については、同族企業以外に、創業者が会長・社長を務める企業も含めている。

(出典)1950 年代から 60 年代初頭については、琉球商工会議所『琉球商工名鑑』(1956 年版、58 年版、62 年版)

より作成。1960 年代については、1965 年が琉球商工会議所『琉球商工要覧』、1968 年が那覇商工会議所『那 覇商工名鑑』および 1969 年以降については内部資料である那覇商工会議所『事業報告および決算報告書』(各 年版)を参照し、作成した。

役員構成 1956 年 1958 年 1962 年 1965 年 1966 年 1967 年 1968 年 1969 年 1970 年 1971 年 1972 年

貿易商業 7 9 13 6 na na 17 16 11 11 11

工  業 13 16 9 11 na na 15 15 11 11 11

運  輸 2 8 9 4 na na 5 5 7 7 8

建  設 4 5 5 4 na na 4 4 5 5 4

金  融 5 6 4 3 na na 3 3 3 3 3

文  化 5 4 5 5 na na 4 4 2 2 2

そ の 他 4 4 5 1 na na 1 1 1 1 1

合 計 40 52 50 34 na na 49 48 40 40 40

うち系列(國場) 1 2 2 3 na na 7 7 9 9 8

うち系列(宮城) 1 1 1 3 na na 4 3 2 2 2

うち系列(大城) 1 1 1 3 na na 3 3 3 3 3

うち系列(具志堅) 1 1 1 1 na na 2 1 1 1 1

うち業界団体代表者 4 3 2 2 na na 2 1 1 1 1

ここからも分かる通り、選挙前の 1965 年には、工業関連団体での企業活動を中心とし ていた具志堅以外の同族企業の勢力は拮抗していたが(各グループが 3 人ずつ)、二回の 会頭選挙を経るなかで、國場系列の企業が役員の 20%以上を占めることになった。年に よって役員総数には変動があるものの、貿易商業および工業の役員数(比率)は漸減、建 設業は横ばいないし微増にすぎず、業界構成そのものに大きな変動はないため、同族企業 による影響力が強まった可能性の方が高いと考えられる。

また、1950 年代の琉球商工会議所時代には、金融系の比重が比較的高く、業界団体の 代表が役員に入っていたのに比べると、1960 年代後半の変化は顕著である21。すなわち、

20

 「議員株 急騰に商売そっちのけ 国場新会頭出現のうらおもて」『月刊沖縄』(43 号、1967 年)、10 頁。

21

  琉球商工会議所『琉球商工名鑑』(1956 年版、58 年版、62 年版)より。実数については、図表 4 に 併せて示しているので参考されたし。

(11)

那覇商工会議所は、日本復帰への対応に直面するなか、業界横断的で公益的な性格の機関 から、同族企業や業界団体の利害を一定程度代表する機関へと質的に変わっていったと考 えられる。復帰後、公共事業の拡大に伴って上昇した建設業界の影響力は、以上のような 構造変化のなかで理解する必要がある。

 4−3 業界間の対立と協調(再編過程)

那覇商工会議所における内部構造の変化は、國場組を中核企業とする同族企業としての 國和会の影響力を高めたと考えられるが、それだけでなく、業界間の対立や協調行動が経 済界のあり方全体も変容させていくことになる。1969 年の会頭選挙において國場が掲げ ていた「輸入規制反対」は、琉建協における主要な課題として陳情活動が展開されていた が(鉄筋などの主要建材の値下げに関わる課題として)、工業関連企業をまとめていた琉 球工業連合会(工連)は、既存産業保護を重視していた。

工連は、このような建設業界との対立だけでなく、1967 年の米系石油外資の沖縄進出 後に顕在化したアルミ・石油外資などの新規外資導入においては、通産省の保護的な施策 とも対立することになった(秋山 2019)。一方の國場組は、建設業界において主要な地位 を確立させただけでなく、鉄工業の大手であった金秀鉄工(金秀グループの前身、建設業 も展開)と國場組鉄工部を 1969 年 12 月に合併し22、大規模な工業部門を同族企業内に抱 えることで、上記のような業界間の対立の影響を回避し、経済界での地位を安定化させて いった。また、日本復帰において、商工会議所、琉建協、沖経協といった主要な経済団体 が、それぞれ日本本土の組織の傘下(日本商工会議所(日商)、全国建設業協会(全建)、

日本経営者団体連盟(日経連))に入ったのに対し、工連は沖縄に固有な経済団体であっ たことから系列化されることはなかった23。國場が全建の役員を 1980 年から 84 年まで二 期務め、中央の政財界とのつながりを強めたと考えられる一方で24、工連は経済団体とし ての影響力を相対的に弱めていった。

22

  金秀グループ『運玉森の麓から:金秀グループ』、2007 年、89–89 頁。新体制の発足は 1970 年 4 月 1 日からである。その後、1989 年には、資本提携を解消し、全株式を金秀が引き取っている。この点に 関連して、同じく鉄工業から出発した仲本工業の仲本興成は、インタビューにおいて、「國場と金秀 が一つになったもんだから、大城は、どうしても僕をつかまえないと対抗できんということで、仲本 と大城、國場と金秀になったわけ。これがもう確固たる力になってしまって、東の國場、そして鉄で は東の金秀、建設では西の大城、鉄では西の仲本」(琉球政府研究会[編]『戦後沖縄の証言』、2018 年、

128 頁)になったと、経済界での力関係について語っている。

23

  ただし、工連は、1965 年に日本経済団体連合会(経団連)へ加盟しており、一定程度、日本本土と のつながりを模索していたと考えられる。復帰後の日本本土の組織との連携は、中小工業の全国組織 である日本工業団体連合会の発足した 1978 年以降である(社団法人沖縄県工業連合会『工連五十年 史』、2003 年、73 頁および 112 頁)。また、中小工業の加盟も多かったことから、1969 年 2 月に B52 戦略爆撃機撤去(核兵器搭載も問題に)などをめぐって、沖縄全域でのゼネストが計画された際には、

沖経協が「経済的な損失」を強調しゼネスト阻止を前面に出したのに対し、工連は一定程度ゼネスト を求める住民の意思に配慮し、ゼネスト以外の手法の模索なども議論していた(「県民感情考慮して  工連 経営者側の意思統一へ」『沖縄タイムス』1969 年 1 月 23 日付)。工連の経済団体としての特徴が、

ここにも現れている。

24

  全国建設業協会[編]『全建 50 年のあゆみ』、1998 年、540 頁。

(12)

同時に、日本復帰に向けた経済開発をめぐっては、日本本土の経済界と合同で開催した 沖縄経済振興懇談会(1966 〜 75 年、計 10 回におよぶ)において共同歩調をとり、海洋 博開催や沖縄開発庁の設置を、復帰対策として制度化していったのである25

5.結論と今後の課題

以上の考察から得られる結論として、戦後沖縄の経済界では、1960 年代後半から日本 復帰にかけて内部構造の変化がみられ、建設業を中核企業とした同族企業による影響力の 拡大と、それに伴う建設業界の相対的な地位の上昇が生じたと考えられる(業界間の対立 も経ることによって)。従来、復帰後の経済開発の理解において、観光や公共事業への方 向づけとして、海洋博などのメガイベントへの着目はなされてきた(多田 2002 など)。そ れに加え、本論文から示唆されるのは、経済界の内部構造や業界における動向の変化とい う要因の重要性であろう。

本論文で行った基礎的な考察を踏まえることで、次の二つの論点が今後の研究課題とし て浮かび上がってくる。第一の課題は、本稿で分析の際に前提とした同族企業が、米国(米 軍)との関係も含めてどのような資本蓄積の過程をたどり、どのように成立したのか、と いう形成史を明らかにすることである26。もう一つは、この同族企業の経済的・政治的な 影響力が、どのようなかたちで具体的に発揮されたのかを明らかにする、という課題があ る。この後者の課題を検討するには、制度・ネットワーク(官僚・政治家、沖縄振興開発 計画、開発庁など)や、主要な経済人の動きにも着目していく必要があるだろう。

付記:本稿は「戦後沖縄の経済界の形成と展開に関する政治経済史的研究:建設業界を主 な対象として」(若手研究、研究課題・領域番号 18K12510、研究代表者・秋山道宏)

の成果の一部として公表される。

【参考文献および論文】

秋山道宏(2015)「沖縄経済の現状と島ぐるみの運動:建設業界を対象に」『日本の科学者』

50(6)、292–297 頁。

—(2016)「グローバリゼーションのもとでの沖縄経済の変容:脱軍事化・脱公共事業依 存と日本国家」『新しい歴史学のために』288、34–47 頁。

—(2019)『基地社会・沖縄と「島ぐるみ」の運動:B52 撤去運動から県益擁護運動へ』

八朔社。

25

  多田(2002)2 章および那覇商工会議所『那覇商工会議所五五年史』、1983 年、218–270 頁。

26

  復帰後については、島袋[編](1982)が、同族企業の特徴について分析しているものの、歴史的な 研究としては山内昌斗らの研究以外は極めて限られている。また、山内[他](2013)において指摘 されているように、主要な同族企業の株式が非公開という基礎資料の制約もあるため、アプローチに ついても今後検討が必要となろう。

(13)

新崎盛暉(1976)『戦後沖縄史』日本評論社。

江上能義(1996)「沖縄の戦後政治における「68 年体制」の形成と崩壊(上)」『琉大法学』

57、1–22 頁。

—(1997)「沖縄の戦後政治における「68 年体制」の形成と崩壊(下)」『琉大法学』58、

9–28 頁。

大城郁寛(2002)「復帰以前の沖縄における公共投資と建設業」『琉球大学経済研究』63、

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大野光明(2014)『沖縄闘争の時代 1960/70:分断を乗り越える思想と実践』人文書院。

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—(2016)『沖縄の保守勢力と「島ぐるみ」の系譜:政治結合・基地認識・経済構想』有 志舎。

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参照

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