【要旨】 本論文では、沖縄の民謡クラブ(復帰前)と民謡酒場(復帰後)のコミュニティに注目し、 両者のコミュニティがどのように変化してきたのか、そのプロセスを明らかにする。一般 的に、現在の民謡酒場は観光芸術の文脈で語られ、観光客が期待する「沖縄らしさ」を演 出したものになっている。しかし、民謡酒場の歴史を辿ると 1960 年代に民謡酒場の前身で ある民謡クラブから始まり、そこでは、地元の演奏者と客の相互コミュニケーションを通 した強いコミュニティが形成されていた。民謡クラブには、観光芸術とは無縁の空間が広 がっていた。だが、1972 年に沖縄が本土復帰を果たすと、沖縄には、観光客が訪れるよう になったことで、民謡クラブの客層が徐々に地元民から観光客に移り、それに伴いながら 民謡クラブのシステム、音楽、環境なども変化していった。 復帰前の民謡酒場が、「演奏者―客」の連帯感が強い相互コミュニケーションがあったコ ミュニティに対し、復帰後は、「演奏者―客」の連帯感が弱いコミュニティーになった。そ れは客層の変化も大きく関係しているが、それ以外にもコミュニティの紐帯を強固にした り、緩めたりする要素が含まれている。コミュニティの形成には、人と人の関係性だけで なく、モノと人の関係性も重要であり、ANT の視点も入れながら、本論文では、復帰前後 のコミュニティの変化のプロセスを明らかにする。 【キーワード】 民謡クラブ、民謡酒場、沖縄民謡、相互コミュニケーション、ANT
復帰前後の沖縄における
民謡クラブのコミュニティの変化
――観光化とそのプロセスを通して――
*東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科アートプロデュース専攻博士課程後期課程 論 文澤田聖也
*【Abstract】
This paper focuses on the situation of folk-song communities and clarifies how they have changed in pre-and post-reversion of Okinawa. In general, today's folk-song clubs are discussed in terms of tourism and art to benefit Okinawa. However, the history of folk pub can be traced back to the folk club, the predecessor of the folk pub, which formed a strong sense of community, gemeinschaft, through mutual communication between local performers and customers in the 1960s. The folk song club had a space which had nothing to do with tourism. However, since Okinawa returned to Japan in 1972, the number of tourists visiting folk song club from mainland Japan has gradually shifted from the local people to tourists and along with this, the system, music, and environment of the folk song club have changed.
Before the reversion of Okinawa, the folk pub used to have communities with strong “performance and audience” solidarity, but after the reversion it has weakened. This has a lot to do with changes on the customer basis but there are other factors that strengthen or loosen the community ties. What is important is not only human relationship but also the relationship between people and stuff for the formation of a community. Taking into account the perspective of ANT, this paper clarifies the process of community change in pre-and post-reversion of Okinawa.
【Keywords】
Folk club, Folk pub, Okinawan Folk, Mutual communication, ANT
Community Changes in Folk Music Clubs:
The Tourism Process of Folk Music Clubs
* Tokyo University of the Arts, Graduate School of Global Arts, Department of Arts Studies and Curatorial Practices
Article
1. はじめに
本論文では、沖縄の民謡酒場の専属歌手の視点を通して、民謡酒場のコミュニ ティが本土復帰を契機にどのように変化したのかを、そこで演奏される音楽とそ れを取り囲むシステムに着目しながら考察する。民謡酒場には、観光客向けの民 謡酒場と地元民向けの民謡クラブがある。前者は、観光客が「沖縄らしさ」を 経験できる酒場であり、1990 年代以降に登場するようになった。その歴史をさ かのぼると、復帰前の 1960 年代に登場した地元民向けの民謡クラブにたどり着 く。復帰後に民謡クラブを踏襲した民謡酒場が、観光客へと開放されるように なり、1990 年代以降は観光に特化した民謡酒場が誕生するようになった。民謡 クラブは戦後沖縄初の本格的な民謡ステージであるが、その実態はほとんどわか っておらず、どのように現在の民謡酒場に至ったのかわかっていない。本論文で は、民謡クラブと民謡酒場のコミュニティの変遷に着目しながら、この 2 つの空 間の連続性を明らかにする。 一般的に、観光客がイメージする民謡酒場は、「沖縄民謡を聴きながら、沖縄 料理を食べる、沖縄らしさを堪能できる場所」である。酒場側は観光客が「沖縄 らしさを期待」して来店することを想定するため、そのニーズに合わせたサービ スを提供する。それは、観光芸術という文脈で観光客が期待する「◯◯らしさ」 を演出したものになっている(宮入 2019: 137)。例えば、沖縄らしさを演出する 上で、民謡酒場の景観を伝統的な沖縄の民家に見られる琉球建築にしたり、店内 の BGM を沖縄民謡にしたり、店員が沖縄方言で観光客を出迎えるなど(「はい さい、めんそーれ(こんにちは、いらっしゃいませ)」)と、沖縄の独自性を強調 することは、観光客に沖縄らしさを堪能してもらう 1 つの手段になっている。特 に、民謡酒場の顕著な特徴である沖縄民謡の生の演奏は、観光客に沖縄らしさを 体感させる最大のパフォーマンスであり、ステージの終盤で観光客と演奏者が一 体となって踊るカチャーシーは沖縄らしさを最大限に放出してくれる。 こうした、伝統的な民族芸能をベースにしながら、それに様々な創意工夫を加 えて観光客向けに作り出されたものを「観光芸術」と呼ぶ (石森 1991: 23)。そ のため、観光芸術は、本来の民俗芸能と一線を画した「偽物の芸術」、「まやか しの芸術」であり、「本物の芸術」ではないとみなされてきた(ブーアスティン 1964)。本物の芸術とは、「伝統的な材料にもとづいて、現地の工芸職人が現地の 人々の使用に供するために作ったもので、ヨーロッパ人や他の人に売り渡すことをまったく意図していないもの」(Mcleod 1976: 31)や、「伝統的な目的のため に、伝統的形態にのっとって伝統的な工芸人によって作られ、市場で売られるこ とを目的としていないもの」(Mcleod 1976: 31)が本物の芸術としてみなされて いる。 この視座から捉えれば、ステージ化され、パフォーマンス化されている民謡酒 場の沖縄民謡は観光化された「偽物」になる。しかし、こうした伝統文化の真正 性や商品化、ステージ化をめぐる研究は 1990 年代に始まり、『観光と音楽』(石 森編 1991)や『イメージの〈楽園〉―観光ハワイの文化史』(山中 1992)、『世界 音楽の時代』(ネトル 1994)、『Brass Unbound:Secret Children of the Colonial Brass
Band』(Flaes2000)など、すでに多くの研究者によってなされている。本論文で は、伝統の真正性をめぐる議論に焦点を当てるのでない。近年の観光と文化をめ ぐる研究では、ジェイムズ・クリフォード(2002)やジョン・アーリ(2015)な どを筆頭に、観光客の眼差しによって観光地の空間、歴史、コミュニティなどが どのように変化してきたのかに焦点が当てられている。その視座に立てば、1972 年の本土復帰と 1990 年代の沖縄ブームに伴う沖縄に訪れる観光客の移動とその 増加は民謡酒場の音楽だけでなく、そのコミュニティや場を大きく変化させたと いえる。 復帰前の民謡クラブが、「演奏者―客」の連帯感が強い相互コミュニケーショ ンがあったコミュニティに対し、復帰後の民謡酒場は、「演奏者―客」の連帯感 が弱いコミュニティになった。その変化のプロセスを紐解くことが本論文の狙い である。 本論文では、アメリカ統治下の民謡クラブから現在の民謡酒場を詳細に捉える 上で、復帰前後に民謡クラブと民謡酒場で専属歌手として演奏経験のある 2 名の 民謡歌手に聞き取り調査をした。当時の雑誌や新聞などの一次資料から復帰前後 の民謡クラブを捉えようにも、その多くが開店時刻や出演者の広告記事にとどま り、クラブ内のシステム、雰囲気、環境、客層、音楽などの実態は把握できな いため、筆者は当事者に聞き取り調査をし、その事実確認を資料等で確認しなが ら、民謡クラブの実態把握を試みた。インタビュー内容では、民謡クラブと民謡 酒場の様相を浮かび上がらせるために、生の語りを記述することを優先する。こ こでは、復帰前の観光化されていない民謡酒場を「民謡クラブ」、復帰後の観光 化された民謡酒場を「民謡酒場」とする1)。
2. 民謡クラブのコミュニティ
ここでは、民謡クラブの特徴を抽出し、どのような要素が民謡クラブのコミュ ニティを強固にさせているのかを明らかにする。それらを把握する上で、民謡ク ラブの機能、客層、環境、システムなどの基本情報を整理し、こうした要素がコ ミュニティの形成にどのように参与してくるのかを検討する。 2-1. 民謡クラブの機能 最初の民謡クラブは 1961 年 6 月 6 日にオープンした2)中部に位置するコザ市 の「クラブメトロ」であろう3)。キャンパスレコード会社4)の社長の備瀬善勝5) と民謡歌手の知名定男6)は、民謡歌手の喜納昌永7)と照屋林助8)がクラブメト ロで民謡を唄い始めたことをきっかけに民謡クラブがコザ市を中心に浸透したと 経験談から推測し、復帰前後にかけて、コザ市には民謡クラブが 200 軒以上密集 していたと述べている。(De Musik Inter 1998: 91, 133)。インフォーマントは、コ ザ市の周辺に位置する宜野湾や嘉手納町の民謡クラブでの演奏経験もあるが、コ ザ市が圧倒的に「民謡の街」として栄えていたという共通認識を持っている。本 節では、コザ市の特殊事情の把握を出発点とすることで、民謡クラブの特徴を抽 出する。 アメリカ軍は、1945 年に沖縄を米国海軍軍政府の管轄下に置くことを宣言し、 1952 年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約で正式に沖縄・奄美・ 小笠原諸島を信託支配下に置き、土地接収をしたことで、約 6 万人の沖縄住民は 従来からの居住区から追い出されることになった。特に、現在の浦添市から石 川市に至る中部一帯は基地建設が急速に進められ、その中でもコザ市は土地の 72% が軍用地に接収されたことで、多くの住民が他の市町村に移住するか、接 収されていないコザ市の越来を中心に移住した(与那国 2001: 44)。 こうした接収によって、沖縄各地の市町村には、米軍基地が次々に建設された が、コザ市の嘉手納米軍基地は朝鮮戦争やベトナム戦争の中継地点としてアメリ カ政府から最重要視されていた。2 つの戦争の拠点基地であることから、多くの 軍人・軍属がコザ市に密集していたため、コザ市には、1950 年以降に軍人・軍 属相手の歓楽街である、センター通り、ゲート通り、八重島特飲街、照屋黒人 街が立ち並ぶようになった。米軍人歓楽街が密集していた市はコザ市だけであり 9)、そこにある A サインクラブと呼ばれる軍人・軍属が入店できる店では、R&Bやロックなどの当時流行していた英米の音楽が演奏されていた。米軍人歓楽街で 演奏していた喜き ゃ ん屋武幸雄(1942-)は当時の様子を以下のように語っている。 1950 年代、当時はね、本当にアメリカーしかいないよ。まあ 60 年代もだけど。 歩いていると周りはアメリカーだらけ。昼間からアメリカーが出歩いていた。 客はみんなアメリカー、沖縄の人は全然いなかったね10) このように、復帰前のコザ市は軍人・軍属を中心とした街づくりから始まり、 「基地の街」と呼ばれるほどになった。 こうした軍人・軍属相手の歓楽街が台頭する一方で、沖縄住民はどこで沖縄民 謡を聴くことができたのだろうか。それは、コザ市の中の町と呼ばれる、多くの 民謡クラブが立ち並ぶ地域である。中の町は、米軍人歓楽街が点在するコザ市の 中でも、沖縄住民が気軽に行ける地域であり、軍人・軍属もほとんど出入りしな い、沖縄住民が密集する空間である。極端に言えば、中の町は、沖縄住民によ る、沖縄住民のための娯楽施設の密集地帯であり、軍人・軍属のいない安心・安 全な空間だったのである。民謡クラブの専属歌手だった呉ご や屋絹き ぬ よ代(1948-)は、 当時の民謡クラブの客層・客質について以下のように述べている。 澤田: 当時の民謡クラブの客層は? 呉屋: 常連客多いよ。顔見知りが多いね 澤田: つまり、地元民ですか? 呉屋: そうです 澤田: 顔見知りが多いとアットホームな雰囲気になりそうですね 呉屋: そうそう、沖縄ってそういうもんだもん。だから知った顔も多かったよ 澤田: いいですね。お客さんは飲みながら沖縄民謡を聴くって感じですか? 呉屋: そう。あと飛び入りもありますよ。飛び入りがいないとこっちが歌うわ けですよ11) 民謡クラブは、沖縄住民が集まる場であると同時に、沖縄民謡に関心の高い常 連客が民謡を聴き、民謡を披露する場でもあった。こうした行為には、戦前の村 落共同体で習慣的に行われていたものと非常に近いものがある。戦前までの沖縄 民謡は、村落のコミュニティで歌われ、伝承されていく民俗芸能であり、沖縄民 俗研究の久万田晋は、沖縄の民俗芸能を「沖縄各地域の村々に暮らす庶民の間で
育まれ、特にムラの祭りの場を中心として発達した諸芸能を指す。地域の民俗行 事(船漕ぎ、綱引きなど)、舞踊や音楽(民謡を含む)、演劇、さらにそれらを包 括したムラ踊り、ムラ遊び、豊年祭などが含まれる」(久万田 2011:29)と地域の 行事と音楽が密接な関係であることを主張している。しかし、こうした各村落の コミュニティは、アメリカ軍の土地接収によって解体され、沖縄民謡が集落単位 で歌われることもほとんどなくなった。 また、戦後の沖縄民謡はメディアの発達によって、集落単位から 1 人でも聴取 できる個人レベルで聴取されることに重きを置いた存在になる。1949 年にラジ オ局「AKAR」や琉球放送「RBC(1954 年)」、「ラジオ沖縄(1960 年)」が開局 し、さらに 1959 年には、「沖縄テレビ」、翌年には「RBC-TV」も開局し、テレ ビとラジオ両方のメディアを通して沖縄民謡が流れた。また、1960 年代はマル テンレコード(1966 年)、ゴモンレコード(1967 年)、沖縄新響レコード(1967 年)、RBC レコード(1968 年)の設立など、こうしたメディアは沖縄民謡の歌い 手と聴き手を明確に区分した。 メディアの発達に伴う沖縄民謡のあり方が変化する一方で、民謡クラブは、戦 前の沖縄民謡のあり方が再現される場であった。民謡クラブには、民謡歌手のス テージと客席に分けられ、客も各地域からやってくるため、戦前の各村落のコミ ュニティとは程遠いが、客が飛び入りで歌ったり、リクエストをしたり、演奏者 の歌に合わせて合いの手が入ったり、踊ったりと、演奏者と客の境界線を越えた 戦前のような相互コミュニケーションがあった。民謡クラブは、戦前の村落共同 体のような擬似的な共同体を実感できる空間として機能したのである。アメリカ 軍に土地接収される戦前の村落コミュニティを知っている世代は、こうした民謡 クラブに一時的な癒しを求め、自発的にステージに立ち、歌い、踊り、演奏をし た。 こうした相互コミュニケーションを可能にさせたのは、両者の沖縄民謡に対す る関心度の高さゆえの、レパートリーや合いの手などといった沖縄民謡に対する 共通認識や知識があるからである。ここでは、沖縄民謡に対する共通認識や知識 を共通インフラと呼ぶことにする。こうした共通インフラがあることで、沖縄民 謡を通した予定調和的な相互コミュニケーションが円滑に進められる。しかし、 演奏者によって同じ沖縄民謡の曲でも奏法(テンポ、リズム、節回しなど)に差 異が生まれるため、客と演奏者の一致する沖縄民謡のインフラがなければ、たと え同じ曲であっても齟齬が生まれる。つまり、民謡クラブでは、よりコアな共通 インフラが求められる。常連客は 200 軒以上ある民謡クラブの中から選んで来店
していることから、ある一定の基準に沿って来店していることが推測される。そ の基準とは、客がどの民謡歌手の歌を聴きたいかに基づいている。戦後の沖縄民 謡がメディアの発達によって、個人単位で聴取される存在になったことは述べた が、同時にそれは、民謡歌手のスターシステムを作り上げることにつながった。 メディアを通して、沖縄民謡だけでなく、その歌い手も人々の間で知られるよう になった。例えば、マルタカレコードには、前川朝昭、山内昌徳、登川誠仁、知 名定男などの現在の大御所が専属歌手としてレコーディングを行なっており、中 でも 1958 年に 13 歳の知名定男がデビューシングル『スーキカンナー』を発表し た際は、「天才少年歌手の出現」として大衆から注目を集めた(高橋 2010: 26)。 そのほかにも、レコード会社による民謡歌手の引き抜き合戦が起こるなど、戦後 の民謡界には、民謡歌手にクローズアップするという新たな局面が生まれた。 メディアに露出している民謡歌手は、同時に民謡クラブでも演奏をしていた。 各民謡クラブは、専属の民謡歌手を雇っていたため、嘉か で か る り ん し ょ う手苅林昌と饒よ へ ん辺愛子で あれば「なんた浜」、喜納昌永であれば「ミカド」というように、民謡歌手と強 い結びつきを持っていた。ミカドの新聞広告の記事には「民謡界のベテラン 喜 納昌永とそのグループテレビ・ラジオでおなじみの口八丁・手八丁の漫談 島正 太郎 佐川正男とそのグループ」12)と書かれ、メディアで有名になった民謡歌 手は民謡クラブでも活躍していた。復帰前後に民謡クラブで専属歌手をしていた 我が ね こ如古より子(1956-)はそのことについて以下のように述べている。 澤田 : 民謡クラブって民謡クラブがあるから行くのではなく、その人がいる から行くって感じですか? 我如古: そうそう。昔の民謡酒場は人気者いるさーね。本当にみんなテレビや ラジオに出ている人がいたわけよ。お店に。考えたら、名のある人た ちはやってたんだ。みんなね、そうよ、うちの父親の相方も。相方は 沖縄の民謡代表で NHK で。宮里って言ってね。とっても有名。でも 普通の人は知らない。民謡知っている人は知っている13) メディアが個人的聴取と民謡歌手のスターシステムを作り上げたことで、客は その歌い手を基準にどの民謡クラブに来店するかを決めることができるようにな った。メディアは民謡愛好家にとって必要不可欠な存在であり、むしろ、戦後世 代は、伝統的な民謡一家でもない限り、メディアだけが、沖縄民謡を吸収でき る媒体であった。民謡歌手のスター性の獲得によって、民謡クラブは、2000 年
代の「会いに行けるアイドル」に先行する空間14)としての機能を持つようにな り、客は、特定の民謡歌手の沖縄民謡の共通インフラを持つことで、大きな齟齬 が生まれない、より高度な相互コミュニケーションを図ることができる。つま り、客は、メディアで特定の民謡歌手を聴き、その人の持つリズム感や歌い方を 予め知ることで、民謡クラブでその人に合わせた合いの手や囃子を入れることが できる。また、演奏者自身も飛び入り参加で歌う客の沖縄民謡に刺激を受けてい た。 澤田 : 客層は? 我如古: 地元の方でした。立ち見が出るくらいいっぱいでしたよ。その頃は 18 歳なので、楽屋に隠れて、ステージだけ出ていました 澤田 : やはりお客さんは民謡好きな人が多かったのですね 我如古: そうですね。あの時のお客さんは沖縄民謡を聞いて育った世代だか ら、いろんな歌も知っているし、古い歌とか、リクエストも来るけど、 自分たちも好きで歌って、実際、歌も三線もうまくてね、三線が弾け なくても節回しとかね、年とともに人生経験がもろに出ている歌い方 もする人もいるじゃないですか。あるおばさんの歌い方がいいからっ て、私の父がこの人の歌い方覚えておきなさいって、だから私のとこ ろでは、お客さんも先生、だから来るお客さんでこの人の歌い方いい なってなったら覚えたり、あのね、歌でお話できたらいいなって、会 話ができたら15) 以上のように、民謡クラブは、①戦前の擬似的な共同体を実感できる空間とし て機能、②一種の「会いに行けるアイドル」の場所としての機能を持っている。 ①を成り立たせるためには、②が必要不可欠であり、客の間には、特定の民謡歌 手の沖縄民謡を聴くという共通インフラがあるからこそ、民謡クラブでは、擬似 的な共同体を実感できる空間を発生させることができる。特定の民謡歌手を通し た共通インフラを持つことが、客と演奏者に相互コミュニケーションを可能にさ せる。 2-2. 対面的な会話 前節では、共通インフラによる相互コミュニケーションが、客と演奏者の区別 を曖昧にし、円滑なコミュニティを形成させることを論じた。トマス・トゥリノ
は、こうした客と演奏者の区別がほとんどないスタイルを参与型と呼んでいる。 アーティストと聴衆という区別がなく、参与者と潜在的な参与者がそれぞれ別 の役割を果たすというタイプのアーティスティックな実践であり、そのもっと も重要な目的は、できるだけ多くの人びとを何らかのかたちでパフォームする 側に巻き込むことだ(トゥリノ 2015: 56)。 民謡クラブのコミュニティも同様に、演奏者だけが沖縄民謡を披露するのでな く、客も演奏者の伴奏に合わせて、歌ったり、踊ったり、楽器を弾いたりと能動 的な参与16)がある。参与型は、平等主義的で、ヒエラルキーとは程遠い価値観 に基づき(トゥリノ 2015: 71)、より良いコミュニティの形成を促している。 しかし、単純に演奏者と客による沖縄民謡の関心度の高さだけが、その場の強 い紐帯を生み出すわけではない。民謡クラブには、それを補完するいくつかの要 素が欠かせない。それは、対面的な会話と室内構造である。対面的な会話とは、 沖縄民謡を介した音楽的なコミュニケーションではなく、実際の人と人との会話 を意味する。日常生活で良好な人間関係を築き上げる要素として、会話は1つの コミュニケーションツールである。対面的なコミュニケーションは、あらゆる感 覚が用いられるために、最も豊かでマルチ・チャンネルなメディアであり(アー リ 2016: 351)、信頼関係を育むことに長けたツールである。対面的な会話の内容 は、沖縄民謡に限らず、ごくありふれた日常的なものでもよく、制限を設けない ことに特徴を持つため、他愛もない会話は、実用的な情報交換だけでなく、他者 を知る行為であると同時に信頼の形成を生む。音楽的コミュニケーションだけで は繋がることのできない強い結びつきが、対面的な会話によって補完される。つ まり、音楽的コミュニケーションと対話的な会話は相互に足りない部分を補い合 っているのである。実際に民謡クラブでは、ステージ終了後に、民謡歌手は客席 に行き、客と会話をすることで信頼関係を構築していた。古謝美佐子(1954-) は、当時未成年だったため、客席で客と会話することはなかったが、「先輩た ちは休憩はお客さんのところに行って、でもうちは子供だから絶対に行かない 17)」と述べている。 2-3. 室内構造とコミュニティ 対面的な会話と音楽的なコミュニケーションは民謡クラブのコミュニティの 紐帯を強固にするツールとして機能していた。しかし、ここでさらに論じたいの
は、この2つのコミュニケーションをより強固なものにし、コミュニティの結び つきをより強くする要素として、室内構造がいかに重要な役割を果たしているか である。室内構造は、空間的な規模や室内のテーブルや椅子の位置、ステージと 客席の距離感など、室内を作り上げる物質的なモノの組み合わせである。 本節では、非人間的な要素がコミュニティの形成にどれほど影響を与えている のかを、対面的な会話と音楽的なコミュニケーションを通して考察することで、 民謡クラブの特徴を抽出することも目的とする。このように、モノと人の関係性 を重視した捉え方をアクターネットワーク(ANT)理論と呼ぶ。まず、ANT に おける枠組みを出発点にすることで、民謡クラブの構造がコミュニティの結束を 高める要素としてどのように影響しているのかを捉える。 ANT は、グループを形成する要素を人間同士のソーシャル・スキル18)だけで なく、「モノ」もそれと同様の影響力を持つことを前提としている。従来の社会 学では、「人間―モノ」の二元論で語られ、ネットワークを構築するのは、人間 同士の相互作用だけであり、モノはその背景に退けられた。ラトゥールの言葉を 借りるなら、モノは「観察者にいかなるデータも与えない。モノは黙ったままで あり、もはやアクターではない。つまり、文字通り、報告不可能である(ラトゥ ール 2019: 149)」と見なされてきた。しかし、ANT は、モノも人間と同じよう に扱い、相互行為上でネットワークを構築することを特徴としている。モノは人 間が利用するのを待つ単なる道具(客体)ではなく、人間の行動に影響を及ぼす 主体であり、人の行動を制限したり、促したり、可能にしたり、不可能にしたり する。つまり、「人間とモノ」のアクター同士の繋がりがネットワークを構築す る。この ANT の立場から、室内構造は民謡クラブにおける音楽的コミュニケー ションと対面的な会話を強固にする要素として捉えられる。 音楽的なコミュニケーションにおいて、注目すべき点は、ステージと客席の距 離感である。復帰前後から現在まで残 っている民謡クラブ「なんた浜(写真 1)19)」と「姫(写真 2)20)」の店内を 見てみると、ステージと客席の距離感 が非常に近く、店内も決して広いスペ ースではない。こうした狭い空間は、 店内のコミュニティをより強固にし、 ステージと客席の近さは、客が積極的 に飛び入り参加しやすい環境を作り上 写真 1 民謡クラブ「なんた浜」
げている。また、客席がステージに向 きやすい配置であることや、体の向き を自由に変えることができるソファー は、客をステージに注目させる効果を 生み出している。我如古は民謡クラブ の客について「当時のお客さんは民謡 好きな人でしたね。集中して聴いてく れる。リクエストもする。今よりは昔 の方がちゃんときいてくれる」21)と 述べており、このように客が集中して沖縄民謡を聴く環境には、ステージと客席 の近い距離感などが大きく貢献している。また、ここで注目したいのは、アルコ ールの存在が人と人の紐帯を強固にしていることである。民謡クラブでは、食事 は提供されず、アルコールだけが提供される。食べることは、両手を使用し、目 線を食べ物に移し、食器を使い、口を開けるなど、飲むこと以上の様々なアクシ ョンが必要になり、沖縄民謡を聴くことよりも沖縄料理を食べることに注意を向 けてしまう。一方、飲むことは、片手に飲み物を持ちながらでも、ステージや会 話に意識を集中することができる。アルコールだけを提供することは、潜在的に 沖縄民謡と会話に集中できる効果を生むのである。 他にも、照明の暗さや机の長さ、ステージの高さなど、要素を抽出すればいく らでも挙げることができる。しかし、演奏者と客の身体的・精神的な距離感を縮 める要素は、①空間的狭さ、②客席とステージの位置関係、③アルコール以外の 食べ物の不存在が大きく貢献しているのではないだろうか。次章で詳述するが、 これらの要素は民謡酒場では失われた要素であり、いかに上述した3つの要素が コミュニティを形成するアクターとして大きく貢献していたのか、民謡酒場と比 較することで明らかになる。 2-4. 民謡クラブから民謡酒場へ 前節までは、民謡クラブのコミュニティを強固にする要素を取り上げてきた。 本節では民謡クラブから民謡酒場への推移を考察する。最初に、本土復帰によっ て、沖縄社会がどのように変化したのかを説明することで、観光化された民謡酒 場の特徴を抽出する。 1972 年 5 月 15 日、沖縄は本土復帰によって施政権を回復し、復帰前と異なる 環境になった。例えば、ドルから円への移行、右側通行から左側通行の変更な 写真 2 民謡クラブ「姫」
ど、様々な面でアメリカ文化から日本文化へのシフトチェンジが始まる。復帰に 伴う本土における沖縄への眼差しは在京メディアを通じてより一層注がれるよう になり、政府は本土復帰を記念して、1972 年に「復帰記念植樹祭」、1973 年に「若 夏国体」、1975 年、「沖縄国際海洋博覧会」の三大事業を開催し、沖縄への観光 誘致を積極的に図った。そのためのインフラ設備として、沖縄自動車道路や那覇 空港の整備、沖縄初の本格的なリゾートホテルの建設などが行われ、沖縄は観光 客を迎え入れる態勢を整えていた。こうした沖縄国際海洋博覧会に向けたインフ ラ整備もあって、1972 年に約 44.4 万人であった沖縄への入域観光客数が 1975 年 に約 156 万人まで増加した22)。 本土復帰に伴う本土の観光客の増加は民謡クラブを観光客向けに特化した民謡 酒場へと変貌させた。いわゆる「沖縄民謡を聴きながら、沖縄料理を食べる、沖 縄らしさを堪能できる場所」として、沖縄性を全面的に放出する民謡酒場が登場 するようになる。しかし、民謡酒場が復帰直後に登場したわけではなく、その点 においては、インフォーマントも共通した認識を持っている。民謡酒場が急激に 在京メディアに注目され始めたのは、1990 年代以降である。大宅文庫のデータ ベースから「民謡酒場」をキーワードにそれが記述されている雑誌を検索したと ころ、初めて在京メディアによって民謡酒場が紹介されたのは、1978 年 8 月号 の『週刊小説』である。だが、1990 年代までに民謡酒場を紹介している雑誌は 数冊程度にとどまっており、在京メディアが集中的に民謡酒場を取り上げたのは 1990 年代以降であった。1990 年代には、沖縄関係のドラマ、音楽、著名人が一 気に本土から注目されたことによって沖縄ブームが発生し、それが民謡酒場を注 目させるきっかけになった。沖縄音楽に視点を当てると、1990 年代には、りん けんバンドやネーネーズなどの琉球音階をベースにしたポピュラー音楽や安室奈 美恵、MAX、SPPED、DA PUMP などの沖縄アクターズスクール出身者が活躍し、 2000 年代には、オレンジレンジ、モンゴル 800 などの沖縄インディーズロック が台頭する。1997 年 6 月号の『週刊現代』には沖縄音楽の台頭と民謡酒場の紹 介がされている。 5 年ほど前から沖縄音楽の人気がたかまったので、シメタとばかり、音楽評論 家は、遊びだが仕事だかけじめのつかない取材旅行にかよい出した――民謡ク ラブ。民謡酒場。民謡スナック。呼び名はまちまちであるが、こちらでいうと、 ナイトクラブになる。ただしホステスはいない。ボックス席に座ると正面に舞 台があって、だいたい男の三線(沖縄三味線)と女の沖縄太鼓をバックにして、
店の看板娘の歌手が立つ――店があくのが夜 10 時。しめる方は客次第で、朝 の 4 時、5 時、6 時、7 時…泡盛を呑み、歌を聞き、踊りつつ、夜を輝かすのだ。 客だって興がのれば舞台に上がって歌うのもおるし、三線を弾くものもいる。 にぎやかな「カチャーシィ」が歌われると、客はドッと席をたって舞台の前で 踊る。盛大な活力と、南国の開放感にみちている。こんなうれしいサロンが日 本列島のどこにある? 2000 年代に入ると、雑誌には、今までなかった民謡酒場専門の特集コーナー が集中的に設けられるようなり、民謡酒場での振る舞い方やオススメの民謡酒場 など、初心者向けの丁寧な記事欄が登場する。2000 年代初頭は、現在のように スマートフォンで気軽にインターネットにアクセスできる環境ではなかったた め、こうした雑誌メディアが民謡酒場の情報を入手する上で非常に役に立った。 ただ、こうした在京メディアが紹介する各民謡酒場に注目すると、那覇市の民謡 酒場が集中的に取り上げられ、コザ市の民謡酒場はあまり注目されていないこと がわかる。これは、那覇市とコザ市の地理的な問題が関係している。那覇市に は、那覇空港があるため、観光客が那覇の民謡酒場に最もアクセスしやすい一 方、コザ市は、那覇空港から車かバスの移動で約 1 時間もかかるため、那覇市の 民謡酒場は他の市町村に比べて圧倒的にアクセスしやすく、コザ市よりも那覇市 に民謡酒場が密集するようになった。もともとコザ市で経営していた民謡クラブ のオーナーが那覇市に移動するケースも少なく、民謡酒場の移動が 2000 年代以 降に始まった23)。 観光客が密集する那覇市に民謡酒場の拠点が移動することによって、冒頭で 述べたように、民謡酒場は、観光芸術という文脈で観光客が期待する「沖縄らし さ」を演出するようになる。民謡酒場のスタイルは、地元民から観光客向けに特 化することで、民謡クラブの要素の一部が民謡酒場に継続/消失し、それによっ て民謡酒場における新たなコミュニティが登場するようになった。さらに、民謡 酒場が観光客向けに特化されたことで、民謡クラブにはなかった新たな特徴も登 場するようになる。
3. 民謡酒場のコミュニティ
本章では、民謡酒場のコミュニティを把握することを目的としている。民謡ク ラブのどのような点を受け継ぎ、どのような点が失われ、また、民謡酒場の新たな要素は何かを把握することで、こうした要素がコミュニティ形成にどのような 影響を与えているのかを考察する。まず、民謡酒場が民謡クラブから受け継いだ 要素と失われた要素を捉えることを出発点とする。 3-1. 相互コミュニケーションの喪失 民謡クラブでは、演奏者と客の沖縄民謡に対する共通インフラがコミュニケー ションを円滑に進める要素として機能したが、民謡酒場では、観光客と演奏者の 沖縄民謡に対する関心度に高低差があるため、相互コミュニケーションが難し い。観光客は、沖縄民謡に関心を持っているが、必ずしも沖縄民謡に詳しいわけ でなく、むしろ初心者に近い。観光客は、民謡酒場で沖縄民謡を「聴く」ことに 特化するのでなく、沖縄民謡を「聴きながら」沖縄料理を食べ、友人や家族と会 話をし、沖縄的な雰囲気に浸ることを目的としている。そのため、観光客の沖縄 民謡に対する知識やパフォーマンス力は必ずしも高いわけでなく、観光客の自発 的な音楽的行為は演奏者から促されない限り生まれない。 コザ市の民謡クラブと那覇市の民謡酒場の両方で演奏経験のある我如古は現在 の民謡酒場の客質について以下のように述べている。 澤田 : 復帰前後の民謡クラブは民謡好きな地元民がお客さんでしたが、(那 覇の)国際通りではどうでしょうか? 我如古: 当時のお客さんは民謡好きな人でしたね。集中して聴いてくれる。 リクエストもする。今よりは昔の方がちゃんときいてきれる。 澤田 : 今は観光客メインですもんね。今は民謡鳴っててもおしゃべりして いる人多いじゃないですか? 我如古: そうそう。あのね、あんまりにひどいなーって思う時は、私もね、 注 意する。お客さんに、ちょっと静かに聞いてくださいとか、ちょっと お客さんに迷惑かける人は帰す。じゃないといいお客さんが逃げちゃ う。あの、当時は(民謡)好きな人が来るから、民謡クラブに来るっ てことは民謡が好きだから。 澤田 : 姫24)の時はうるさいとかなかったんですか? 我如古: うーん、記憶にないな。 澤田 : 演奏していて、どうですか。喋っている人の前で歌うって。 我如古: あのね。聞いてくれる人もいるから、1 人でも一生懸命聞いてくれ る人がいればそれでいいわけ25)。
このように、観光客は沖縄民謡を BGM として聞き流し、集中して聴取しない ため、(沖縄民謡の知識もほとんどないため)自発的な飛び入り参加をしない。 また、音楽的コミュニケーションを補完する対面的な会話も発生しない。ステ ージ終了後、観光客は家族や友人と話し、演奏者は楽屋に戻る。これは、音楽的 なコミュニケーション同様に「客―演奏者」の明確な区分がステージ終了後も継 続しているのである。 こうした、客と演奏者の境界線を生 み出す要素を ANT から捉えると、室 内構造の変化とサービス提供の増加が この現象を生み出している。まず、民 謡酒場の空間が民謡クラブに比べて圧 倒的に広いことで、ステージと客席の 距離が遠くなり、それが客と演奏者の 身体的・精神的な距離感を生んでいる (写真 3)26)。こうした広すぎる空間 は、個々が一体となって、ステージに注目することを促さず、個々人は沖縄料理 を食べたり、おしゃべりをしたり、それらが沖縄民謡を妨げる雑音も生み出す。 呉屋は、民謡酒場の広大な空間に対して以下のように述べている。 これじゃあ、(観客が)舞台と一緒になれない。これじゃぺちゃくちゃ喋るで しょ。こっちではいくら歌ったって面白くないよ。そこで音楽が流れてればい いってものでしょ。だけど、あの頃(復帰前)は民謡の中にみんなが入れる。 心が楽しむわけよ。だから1つになれるのよ、歌っている人も1つになって。 これじゃうちだって飛び入りできないよ27) また、民謡酒場では、民謡クラブのようにアルコールだけなく、沖縄料理も提 供するため、それが潜在的に沖縄民謡のステージパフォーマンスの注意をそらす アクターとして機能している。前述したが、飲むことは、片手に飲み物を持ちな がらでも、ステージや会話に意識を集中することができるが、食べることには、 飲むこと以上に様々なアクションが必要になり、沖縄民謡を聴くよりも沖縄料理 を食べることに注意が向けられてしまう。 このように、店内の広大な空間と沖縄料理の提供が観光客と演奏者の結びつき 写真 3 民謡酒場「ぱいかじ」
を妨げ、コミュニティの紐帯を弱くさせている。もちろん、観光客の沖縄民謡に 対する関心度の低さが、演奏者との相互コミュニケーションを不可能にさせてい る最大の要因であるが、それをより強固にしているのが、こうした広大な空間と 沖縄料理である。 以上のように、演奏者と観光客の沖縄民謡に対する関心度の高低差と共通イン フラの不足から、沖縄民謡を通した相互コミュニケーションは生まれず、それを 補う対面的な会話もないため、民謡酒場の演奏者と観光客の間には明確な線引 きがなされている。また室内の空間的広さと沖縄料理の存在は、より両者の身体 的・精神的な距離感を遠ざけるアクターになっている。こうしてみると、民謡ク ラブの要素のほとんどが失われ、受け継がれている要素は沖縄民謡の演奏だけに なる。 3-2. 民謡酒場の新たな要素 本節では、民謡クラブにはなかった民謡酒場特有の要素を取り上げることで、 民謡酒場の新たなコミュニティのあり方を捉える。 前節では、演奏者と観光客の沖縄民謡による相互コミュニケーションの喪失を 論じたが、民謡酒場の演奏者は試行錯誤をしながら観光客との繋がりを結ぼうと している。例えば、沖縄民謡のレパートリーをほとんど知らない観光客のため に、演奏者は 1990 年代以降に台頭した沖縄ポップをレパートリーに加えて演奏 することで、観光客との一体感を強めることに努めた。前述したが、1990 年代 以降は、りんけんバンドやネーネーズなどの琉球音階をベースにしたポピュラー 音楽や安室奈美恵、MAX などの沖縄出身のアーティストの音楽が本土にも上陸 したことで、演奏者は、観光客にも浸透している沖縄ポップを演奏するようにな った。特に、2001 年にリリースされた BEGIN の《島人の宝》や夏川りみの《涙 そうそう》などのノスタルジックな沖縄音楽は、本土の人々がイメージする「沖 縄らしい」音楽として全国的にヒットし、民謡酒場で演奏されるジャンルとして も人気を博した。2004 年 5 月号の『東京ウォーカー』と 2008 年 8 月号の『うる ま』には以下のように民謡酒場で演奏される音楽について紹介されている。 『東京ウォーカー』(2004 年 5 月号) 初心者でも安心!民謡酒場へ行こう。オキナワンナイトを語るうえで、欠かせ ない民謡酒場。唄を歌い、カチャーシーを踊りながら、民謡に触れてみよう ――「地酒横丁」は、多くの観光客でにぎわう店。民謡のほか「島人の宝」や
「涙そうそう」などの沖縄ポップスも演奏され、初心者でも親しみやすい 『うるま』(2008 年 8 月号) 料理でいい気分になっていると、突然三線の音色が聴こえてきた――曲は八重 山民謡の「月ぬ美しゃ」――八重山民謡から「島人の宝」「オジー自慢のオリ オンビール」と曲が変わるにつれて、会場は長浜さんの楽しい音色と声に引き 寄せられていく――アップテンポにアレンジした「だんじゅかりゆし」から始 まり、宮古民謡の「パリミズのクイチャー」八重山の「与那国ぬマヤー」と、 各地方の民謡を渋い歌声でじっくり聴かせてくれるーその後、ベンチャーズの ナンバーや「ハイサイおじさん」など、ノリがいい曲が続く 民謡酒場では、沖縄民謡以外にも観光客に合わせたポップスも演奏されること で、演奏者と観光客の一体感を強めることができる。観光客をステージに注目さ せるのは、沖縄民謡よりもポップスであり、民謡酒場のセットリストには必ずと 言っていいほどポップスが含まれている。 民謡酒場では、観光客に浸透しているジャンルとしてポップスが好まれる一方 で、民謡クラブを知っている世代はこうした観光化された民謡酒場を訪れている のだろうか。最後に、民謡酒場の新たな特徴である「チャージシステム」を取り 上げることで、民謡酒場と地元民の関係性の変化を捉える。 チャージシステムとは、入店するための「入場料」である。筆者は、那覇市の 民謡酒場に何度も訪れたことがあるが、入店した全ての店で必ずチャージ料を支 払った。民謡酒場では、1000 円から 2000 円のチャージ料を払うことが必須であ る(チャージ料はお通し代とは別である)28)。結論から言えば、チャージ料は、 地元民の来客を妨げるシステムとして機能している29)。これは、地元民と観光 客の沖縄民謡に対する価値観が大きく関係している。 本来、民謡は、作者の無い歌、捜しても作者のわかる筈の無い歌(柳田 1940: 8)であり、民謡は村落共同体の中で人から人へ伝承される音楽である。前述し たが、沖縄民謡は、沖縄各地域の村々に暮らす庶民の間で育まれてきたように、 地元の人々にとって生活の一部であり、商業と無縁であった。民謡クラブにチャ ージシステムがない理由は、経営者が本来の沖縄民謡のあり方を理解していると いうよりも、それが当たり前すぎるために、沖縄民謡に料金を支払って聴くとい うこと自体の発想がなかったからである。現在のようにチャージシステムが導入 された背景には、沖縄民謡に対する世間の評価が関係している。
戦前後にかけて、沖縄民謡に対する世間の評価は非常に低かった。沖縄民謡 を嗜む人は、男性であれば「遊び人」、女性であれば「ジュリ30)」と結びつけら れ、決して良いイメージを持たれていなかった。しかし、戦後に沖縄民謡がメデ ィアを通して大衆と強く結びつくと、沖縄民謡に対する世間の関心度も高まり、 『民謡紅白歌合戦』や『民謡で今日拝なびら』などの沖縄民謡専門の番組などが 登場するようになった。特に復帰以降、知名定男や喜納昌吉、ネーネーズ、りん けんバンドなど、沖縄民謡やそれをベースにしたポップスを披露するアーティス トが本土デビューしたことは、沖縄民謡の存在を本土で認知させ、人気を集めさ せ、沖縄民謡を価値の高いものへと昇華させた。呉屋は沖縄民謡の価値の変遷に 対して以下のように述べている。 呉屋: 復帰前ね、三線をちょっとでもちんてんてんとでもやったら、兄貴に蹴 っ飛ばされたの、あんたジュリになるのかーって。 澤田: 辻遊郭の? 呉屋: そうそう。ジュリになるんのかーって。それしか道はないみたいな。 澤田: 遊び人っていうイメージですもんね。 呉屋: そう。それでね、大反対、絶対触らせなかったの。だから練習も全然で きんかった 澤田: いつころですかね。認められるようになったのって。 呉屋: 復帰してから沖縄ブームになったよね。それ以降は胸張ってできる31) 沖縄民謡の価値の高まりは、沖縄民謡と商業を結びつけ、1990 年代以降の民 謡酒場には、チャージシステムが導入されるようになった。しかし、本来生活の 一部であった沖縄民謡に料金を支払って聴くことは、地元民にとって特殊な行為 であり、チャージシステムの導入は結果的に地元民の来店を妨げることになっ た。一方、観光客は沖縄民謡に高い価値を置いていることから、チャージ料を支 払うことに抵抗感を持たない。我如古は沖縄民謡に対する地元民と観光客の価値 観の温度差を以下のように述べている。 澤田 : 当時はチャージもあったんですか? 我如古: 民謡クラブの時はない。今はライブチャージ取っているけど。昔は ね、取らない。なんで取るのってなる。今でもね、古い人はチャージ 取るなら行かないって言う。昔はね、沖縄のものにお金を出すって意
識はなかった。沖縄で沖縄民謡は身近にありすぎてビジネスとか成り 立たない。生活の一部。だから、本土のオファーからでは、私たち 1 人 30 万。でも沖縄の人からはね、踊りと地方を入れて5名で 10 万。 これくらい差がある。向こう(本土)からみる私たちの芸に対する価 値は高いわけね。沖縄ではそうでないわけ。でも、結局安くても引き 受けるわけ。生活するためにね。沖縄の人と本土の人ではそれくらい 民謡に対する価値観が違う。それはずっと感じていて。こういう職業 では、生活できないからよ。意識しないといけないから。やっぱり、 あっちではレコード大賞とか取るとギャラが上がるとかいうじゃな い?でもこっちではそうだろうとそうじゃなくても変わらない。ちょ こっとは変わるかもね。沖縄は横のつながりだから、ビジネスじゃな くなる。 澤田 : そういう意味では、(現在の「歌姫」の)1000 円のチャージは破格で すね。 我如古: 最初は 1500 円だったんです。でもやっぱり高いからって言われて。 でも内地だと 5000 円くらいでも払っても見るさ32)。 民謡酒場は、沖縄民謡に料金を支払って聴くことを一般化させている。チャー ジシステムの導入は、民謡酒場から地元民を遠ざけ、地元民の常連客の確保を困 難な状況にさせた。そのため、民謡酒場は、地元民よりも観光客の集まる場とし ての性格を強めるようになった。 3-3. オルタナティブな民謡酒場 民謡酒場では、客層が地元民から沖縄民謡に慣れ親しんでいない観光客に変わ り、演奏者と観光客の沖縄民謡に対する関心度に高低差が生まれたことで、客の 自発的な音楽的行為が無くなった。その高低差を縮めるために、演奏者は観光客 に浸透している沖縄ポップスをレパートリーに加えることで、沖縄ポップスを通 した相互コミュニケーションを作り上げた。さらに、地元民は民謡酒場がチャー ジシステムを導入したことで、それに抵抗感を持ち、民謡酒場に訪れなくなった が、一方で地元民に合わせた民謡酒場も存在する。最後にそれについて触れた い。 民謡酒場には、観光客が期待する「沖縄らしさ」を極端に強調せず、客に沖 縄民謡を集中して聴かせることに焦点を置いている場所もある。民謡クラブと同
じように、店内は狭い空間になってお り、ステージと客席の距離感も非常に 近い(写真 4)33)。ステージ終了後は、 演奏者と観光客との対面的な会話もあ り、また、基本的にアルコールだけを 提供している。こうした民謡酒場は、 民謡クラブの多くの要素を受け継いで おり、沖縄民謡のステージに直接的・ 間接的に客を参加させることで、沖縄 民謡や会話によるコミュニケーション を優先している。ここでは、民謡クラブの要素を多く受け継いでいる民謡酒場を 便宜上「クラブ踏襲型民謡酒場」と呼びたい。 クラブ踏襲型民謡酒場の経営者は、もともと民謡クラブの演奏者や経営者であ ることが多く、民謡クラブのスタイルを民謡酒場に取り入れている。筆者は、ク ラブ踏襲型民謡酒場の「歌姫」に取材のため何度か訪れたが、こうした場所に は、観光客も地元民も集まっている。経営者兼演奏者の我如古は民謡クラブの要 素を多く引き継いでいる「歌姫」の経営スタイルについて以下のように述べてい る。 澤田 : より子さんのお店ってコザスタイルですよね。当時の民謡クラブみた いに、飛び入り自由で、演奏以外はお客さんとお話しして。 我如古: そうそう。これが好まれる。交流できる。だから私は交流しようとす る。話しかけて。民謡酒場はただ民謡を演奏するだけでなく、人との 交流も大事です。それが一番と思ってるわけよ。いついつ会おうねっ て待ち合わせするお客さんもいるし。それがね、また沖縄行こうって なると思う。貢献できるわけ。自分たちが儲かるわけじゃなくて、お 客さんも、その、きてよかった。思い出作る。ビジネスなんだけど、 それだけじゃない。 澤田 : ここらへん(国際通りの民謡酒場)回ったんですが、演者と聴衆は完 全に分かれていますよね、演奏したら終わりって感じで、交流もなく。 もちろん飛び入りはないですし。 我如古: 私もね、それは良くないって思って。演奏終わって引っ込むのは。 18、19 の(従業員の)子は若いから、かわいそうだから引っ込ます 写真 4 民謡酒場「歌姫」
けど、やっぱりお客さんとのコミュニケーションをしてね。 澤田 : 国際通りでこういう風にやっているとこってないですね 我如古: ないですね。多分難しい。私は唄者だからできるわけ。人材不足。こ こら辺は最近の流行りのちょこって出来れば人を雇っているけど、こ うやってお客さんにステージで歌わせて踊らせるのは慣れないと難し いと思う。お客さんは譜面通り歌ってくれない。短くしたり、伸ばし たり、その人に合わせてフォローした演奏ができる。お客さんが楽し く気持ちよく歌えるようにしてあげたい。 徐々に観光客向けに特化された民謡酒場が主流のスタイルになっているが、人 と人のコミュニケーションを重視しているクラブ踏襲型民謡酒場は本来の民謡酒 場のあり方が残っている唯一の場所である。多くの民謡酒場は資本主義社会に取 り込まれ、人と人との紐帯を重視しなくなり、潜在的に沖縄民謡を一種の商売道 具のように扱っている中、クラブ踏襲型民謡酒場は、人と人のつながりを重視し た空間なのである。
4. おわりに
以上のように、民謡クラブの「演奏者―客」の相互コミュニケーションがある 強い紐帯のコミュニティから、民謡酒場の「演奏者―客」の相互コミュニケーシ ョンの低い連帯感の弱いコミュニティに変化するプロセスを明らかにした。 民謡クラブでは、客と演奏者の沖縄民謡に対する関心度の高さから、それに対 する共通インフラが既に構築されており、ステージでは、客も自発的に音楽的行 為に参与することで、演奏者と客の沖縄民謡を通した相互コミュニケーションが あった。また、ステージ終了後には、両者の紐帯をより強める対面的な会話があ ったことで、民謡クラブのコミュニティは客と演奏者の境界線を超えた良好なコ ミュニティが築かれていった。「演奏者―客」の連帯感の強い相互コミュニケー ションの根底には、両者の沖縄民謡の共通インフラに支えられた音楽的コミュニ ケーションとステージ終了後の対面的な会話があった。 しかし、地元民の娯楽の場として機能していた民謡クラブは、1990 年代の沖 縄ブームによる沖縄への観光客の増加に伴い、徐々に観光化された民謡酒場に移 行したことで、音楽的コミュニケーションと対面的な会話を失った。こうした変 化は、音楽を沖縄民謡から沖縄ポップへ、客を地元民から観光客へと促した。さらに民謡酒場へのチャージシステムの導入は、沖縄民謡を聴くために料金を支払 うことを一般化させ、地元民の民謡酒場離れを促した。本来の民謡クラブの雰囲 気を堪能したい地元民はクラブ踏襲型民謡酒場に訪れるが、こうした空間にもチ ャージシステムの導入が余儀なくされている。沖縄民謡は商業と不可分な関係に なっており、徐々に人々の生活の一部から引き離されている。 このように、民謡クラブから民謡酒場の変遷を捉えることは、沖縄民謡と地元 民のミクロな関係性を捉えることにつながる。しかし、本論文で論じたコミュニ ティの変化は1つの側面にすぎない。民謡クラブと民謡酒場は、多重にも様々な 形で存在しており、調査を続けていけば、また新たな民謡クラブと民謡酒場のコ ミュニティのあり方があるだろう。今後の課題としては、本論文の民謡酒場と民 謡クラブのコミュニティのあり方を本質主義的に捉えるのでなく、より多様なも のがあることを証明していきたい。 【注】 1) 復帰直後は「民謡クラブ」の名称で商売をする店も多かったが、便宜上、復帰前の観光化 されていない民謡酒場を「民謡クラブ」、復帰後の観光化された民謡酒場を「民謡酒場」と する 2) 琉球新報、1961 年 6 月 5 日「〔広告〕開店お知らせ「クラブメトロ」」『琉球新報』朝刊 2 頁 3) 民謡酒場の起源に関する内容は一次資料から把握することができないため、民謡関係者の 間で最初の民謡クラブと言われている「メトロクラブ」を取り上げる 4) 沖縄音楽専門のレコード会社。1970 年に創業 5) 1939 年生まれ。キャンパスレコード会社の社長。1945 年から現在に至るまで、コザ市で生 活しており、沖縄音楽の生き字引と言われている 6) 1945 年生まれ。民謡歌手 7) 1920 年生まれ。民謡歌手。息子は喜納昌吉 8) 1929 年生まれ。沖縄民謡と漫談を融合させた沖縄ポップカルチャーの第一人者 9) コザ市周辺の普天間や金武町にも米軍人相手の店はあったが、歓楽街と呼ばれるほどの規 模ではなかった 10) 喜屋武幸雄。筆者によるインタビュー。2018 年 5 月 14 日 11) 呉屋絹代。2019 年 8 月 10 日。筆者によるインタビュー 12) 1964 年 9 月 23 日の『琉球新報』 13) 我如古より子。2019 年 7 月 18 日。筆者によるインタビュー 14) 2000 年代以降の「会いに行けるアイドル」の代表である AKB48 は特定の劇場を持っている ため、ファンは、ライブの日であればそこへ行きアイドルに会うことができる。同様に民謡 クラブも営業日であれば、ファンはそこで民謡歌手に会うことができる。しかし、AKB48 のような劇場では、アイドルがステージ、ファンが客席というように、両者によって場所 が固定されている一方、民謡クラブでは、聴衆がステージで民謡歌手の役割を果たしたり、 民謡歌手が客席で聴衆になったりと、2 つの空間を行き来することで、民謡歌手と聴衆はど ちらの役割もパフォームすることができる 15) 我如古より子。2019 年 7 月 18 日。筆者によるインタビュー 16) トゥリノは「参与」を「踊ったり、歌ったり、手拍子をしたり、楽器を演奏することで、
その場の音楽的な出来事にサウンドや身体運動によって能動的に貢献すること」として使 用している。(トゥリノ 2015: 60) 17) 古謝美佐子(1954-)。筆者によるインタビュー。2019 年 7 月 11 日 18) 共同生活とその維持を可能にするコミュニケーション上のスキルのこと 19) https://kozaweb.jp/event/detail.html?&sp=true&id=4924 2019 年 11 月 30 日アクセス 20)https://kozaweb.jp/venue/detail.html?&sp=true&category=4&id=146 2019 年 11 月 30 日 ア ク セ ス 21) 我如古より子。2019 年 7 月 18 日。筆者によるインタビュー 22) 湧上敦夫「沖縄経済と観光」沖縄国際大学公開講座委員会『沖縄を取り巻く経済状況』、 p.122 23) コザ市で民謡クラブを経営していた喜納昌吉や我如古より子などの民謡歌手も、現在では 国際通りで民謡酒場を経営している 24) 我如古が復帰前後に経営・演奏していた民謡クラブ 25) 我如古より子。2019 年 7 月 18 日。筆者によるインタビュー。呉屋は民謡クラブでのみ演奏 経験を持つため、いくつかの民謡酒場の写真を見せたところ、現在の広すぎる空間の民謡 酒場に驚嘆していた 26) 筆者による撮影 27) 呉屋絹代。2019 年 8 月 10 日。筆者によるインタビュー 28) チャージ料金は基本的に会計と一緒に最後に支払う 29) 筆者の訪れた民謡酒場は、観光客によってほとんど占められており、地元民の姿はあまり 見られなかった 30) ジュリとは、沖縄の遊郭で働く女性の名称であり、戦前までは、ジュリが沖縄民謡の奏者 として認知されていた 31) 呉屋絹代。2019 年 8 月 10 日。筆者によるインタビュー 32) 民謡酒場「歌姫」は従業員への給料の支払いや自身の子供への養育費などから、チャージ システムを導入した 33) 筆者による撮影 【参考資料・文献】 アーリ,ジョン,2015,吉原直樹・伊藤嘉高訳,『モビリティーズ 移動の社会学』,作品社(=John Urry, 2007, Mobilities, Polity)
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