一九五四年〜五八年のアーモスト大学における日本 人留学生
著者 北垣 宗治
雑誌名 キリスト教社会問題研究
号 59
ページ 227‑245
発行年 2010‑12‑20
権利 同志社大学人文科学研究所
キリスト教社会問題研究会
キリストキョウ シャカイ モンダイ ケンキュウカ イ
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012368
一九五四年〜五八年のアーモスト大学における日本人留学生
北 垣 宗 治
はじめに
私がこの一九五四年〜五八年という四年間を取り上げる理由は三つある。第一に、一九五四年というのは、新島・
内村スカラシップが始まった、記念すべき年であり、爾来、同志社関係者が恒常的にアーモスト大学に留学する制度
が確立した。私が取り扱う期間は、初代と二代の新島スカラ、内村スカラが留学した四年間に相当する。第二の理由は、
同志社におけるアーモスト大学代表だったオーテス・ケーリが一九五六年秋から一九五七年春にかけて、アーモスト
大学で「日本文明の諸相」という科目を担当していた年だったからである。ケーリがアーモスト大学の科目を担当し
たのは、一九五〇年の秋学期と、一九五六年秋から五七年春にかけての一年間の、僅か一年半の間にすぎない。ケー
リはアーモスト大学の慣例に従って、数年に一度ずつ賜暇休暇を取って帰米したが、それ以降の休暇はイェール大学
やハーヴァード大学で研究生活を送るのが常であった。アーモストでは一九六五年にモア(Ray A. Moore)という日
本史の学者を採用したので、もはやケーリを教壇に立たせる必要はなくなったのである。第三は個人的な理由である
が、私自身が一九五七年の一月から六月までアーモストに滞在し、ワン・セメスターだけアーモスト大学の教育を学
生として体験したからである。ただし私の場合、二科目だけ履修することを許され、正式に登録したのち授業にフル
に参加して単位を取得した。丁度ケーリがアーモストに居た時期でもあり、ケーリの指導により、チャペルに出席し、
アーモスト大学の教授達とも近付きになり、アーモストの歴史と地理等についても知見を深めることができた。
一 一九五四年以前の留学生
ここで一九五四年以前の同志社出身者でアーモストに行った人のことに触れておきたい。同志社の卒業生でアー
モスト大学に留学した人がどれくらいいたのか、正確なことはわからない。ケーリが調べたところでは、澤山保羅
の弟、澤山雄之助が一八八九年頃に留学していたようであるが、『アーモスト大学アラムナイ・レコード』(Amherst
College Alumni Record)にその名は見当たらない。この澤山は『同志社百年史』資料編では、一八八四年当時同志社 英学校の四年生として名前が出ている (1)。彼は一八九〇年九月十七日にコレラで死去した (2)。次に、『アラムナイ・レコー ド』には、一八九九年組の「中途退学者」(non-graduates)の部に礒貝由太郎(一八六五
−
九七)の名が見える。礒貝は徳冨健次郎の『黒い眼と茶色の目』に「片貝芳太郎」という名前で登場する。健次郎とはかなり親しかった友人で
あり、礒貝雲峰という名で知られる詩人へと成長した。ケーリがDAC名簿 (3)で一八九六年としているところを見ると、
彼の留学期間は一年間くらいだったらしい。肺結核が悪化し、帰国した一八九七年の十一月に死去している。
同志社の卒業生の中で、第二次大戦以前にアーモスト大学に留学し、きちんと卒業した人は僅か一人しかいない。
これは同志社とアーモストの親しい筈の関係のことを思えば不思議な感じがする。その一人とはアーモスト大学を
一九三二年にB. A. を取得して卒業した生島吉造(一九〇六
−
社の生年二部学法学大志七同は島生る。あで)九とき、同志社を退学してアーモスト大学に留学した。入学等の手続を助けたのは、アーモスト大学から同志社に派遣
されていた第四代学生代表のモズリー(Harold W. Moseley, AC1928)だった。生島は三年間留学し、最初の一年間 はMorrow Dormitoryに、終わりの二年間はサウス・カレッジ一七号室に住んだ。政治学のブラッドリー(Phillips Bradley)教授の指導を受けて卒業後、同教授の推薦でロンドン・スクール・オブ・エコノミックス(London School of Economics)に留学し、有名な政治学者ラスキ(Harold Laski, 一八九三
−
学ラは島生だ。んで一下の)〇五九スキの指導を受けたことを誇りにしていた。ラスキはロンドン・スクール・オブ・エコノミックスの教壇に立つ前に
は、アメリカのハーヴァード大学で四年間教え、その間、一年間ではあったがアーモスト大学でも教えた。生島は帰
国後同志社大学学生部で学生主事を務め、同志社専門学校や法学部の嘱託講師をも兼任した。柔道部長としての生
島は第九代アーモスト大学学生代表として一九三七年から三九年まで同志社に派遣されていたメリット(Richard A.
Merritt, AC1937)を、柔道部の学生たちの旅行に誘った。メリットはアーモストの友人たちに宛てて、次の様に書
いている。
The chap who invited me to go on the trip is the Dean of University students and a graduate of Amherst, so that he not only speaks English with an understanding of our idiom but he also understands the American temperament. He is an example, to me, of the right combination of Japanese background and Western education (4).”
生島は戦争中海軍省の嘱託として上海海軍武官府渉外課に勤務した。戦後しばらく倉敷レーヨンに勤務した後、
一九五五年同志社に復帰し、香里中学・高校の校長、学校法人同志社の理事、本部監理部長等を歴任した。生島はアー
モスト館の寮生をしばしば上賀茂の家に招待して歓待し、激励した。彼の上賀茂の家の書棚には数多くの洋書が並ん
でいた。
戦後の留学生として先頭を切ったのは奥村茂である。彼は私や榊原胖夫と同じく一九四七年に旧制同志社大学予科
に入学し、ケーリの影響を強く受け、ついにケーリの指導のもとに、私費によりアーモスト大学への留学を果たした。
ケーリはこの奥村の英語学習のことを、最初の著作『日本の若い者』(一九五〇)と『日本開眼』(一九五二)の中で
次のように書いている。
英語の会話は、必ずしも人に頼らなくても充分勉強出来ると私は思っている。英語放送を聞くことだ。はじめ
は辛くても、二、三カ月頑張れば、ふつうの人ならモノになる。そういう例を私は知っている。
その学生は、ひとりでWVTQ(進駐軍放送)を聞いては、メモをいっぱい持って、私を訪ねてきた。私は喜ん
でその質問に応じたが、奇抜なのがあった。
「蛇の目傘、蛇の目傘と、しょっちゅう放送に出てくるんですが、なんでしょうか?」
それだけでは私にも見当がつかなかった。いろいろたぐっていってみると、それはマッカーサー元帥のことだっ
た。ジェネラル・マックアーサーと日本人は発音するが、アメリカ人の発音を、耳なれない日本人が聞くと「ジェ
ネマカサ」、下手をすると「ジャノメカサ」になってしまうのである。・・・
でも、この〝蛇の目傘〟君は、今では、英語で私の女房と相当突っ込んだ話も出来る。文法的にもちゃんとしていた。
自分からまずやる気にならなければダメだということは、英会話でも同じことだ (5)。
奥村茂がアーモストに行ったのは一九五〇年のことで、当時日本はまだ連合軍の占領下にあり、日本政府は日本人が
ドルを所有することを禁じており、円をドルに変える手段がなかった。ケーリはアメリカン・ボード日本ミッション
の会計だった父、フランク・ケーリ(Frank Cary, AC1911)を通して、私費留学生である奥村のためにいろいろと
便宜をはかった。奥村は一九五二年、アーモスト館が開館二十周年を迎えた当時アーモスト大学に留学中だったが、
アーモストから寮生あてに、アーモスト大学がアーモスト館という建物を贈ったことの背後にある意味について深い
考察を加えた手紙を送り、寮生たちを激励した。奥村はアーモスト大学を一九五四年組の一人として卒業後、アーモ
スト大学一九二六年組の山口利彦が社長を務める山武ハネウェルに入り、定年まで勤務した。
二 コール学長と新島・内村スカラシップ
新島・内村スカラシップの起源は一九五三年のはじめに、アーモスト大学のコール(Charles W. Cole)学長が、ロッ
クフェラー財団の後援による知的交流計画の第一陣として来日し、約二か月間にわたって日本各地を視察し、各地で
何度かの学術講演を行うという、初めての日本体験にあった。ケーリは初めから終わりまでコール夫妻につきそって
通訳と案内役をつとめた。コールは経済史家としてフランスの重商主義に関する権威で、コロンビア大学教授になっ
た。コールは一九四六年から六〇年まで十四年間アーモストの学長を務めてから退職し、一年間ロックフェラー財団
の副理事長を務め、ケネディ政権となってから、南米チリに大使として派遣された。第二次大戦後、アーモストと同
志社の関係を再開し、オーテス・ケーリを戦前のような学生代表としてではなく、アーモストの理事会、教授会、校
友会、学生の代表として同志社に派遣することによって、両大学間の関係を新しい次元の上に構築させることにした
顕著な功労者として、コールは記憶されるべき人である。
この時の二か月に亘る日本滞在中にコール学長は同志社で、また日本で、アーモスト大学卒業生である新島襄がど
のように尊敬されているか、また東京大学の矢内原忠雄(教養学部長、のち総長)を中心とする学者たちが、同じく
アーモスト大学の卒業生である内村鑑三をいかに尊敬しているかをつぶさに見て深い感銘を受け、アーモストに帰る
とさっそく新島スカラシップと内村スカラシップの制度を作り、恒常的に二人の日本人留学生を迎えることを制度化
した。コールは日本での選考委員として新島スカラに関してはケーリ、内村スカラに関してはケーリ、矢内原忠雄、
高木八尺の三人を指名した。その結果、新島スカラは同志社の学生や大学院生や助手の中から、また内村スカラは無
教会系の学生や若い学者の中から選ぶことが慣例となった。
三 最初の新島スカラと内村スカラ
こうして選ばれた最初の新島スカラは同志社大学経済学部助手だった榊原胖夫、内村スカラは東京大学大学院人文
科学研究科英文学専攻の川西進だった。アンダーグラデュエイトを主体とするリベラル・アーツ・カレッジである
アーモスト大学としては、大学院の経験をもたない学生を迎えたかったのかもしれない。榊原の方はすでに経済学修
士であったから、アーモストとしては彼を M. A. のキャンディデイトとして受け入れた。それは制度的には特別な存
在であり、履修科目の成績はAまたはBでなければならないという厳しい条件がついていた。川西の方は、いわば三
年編入のかたちとなり、B. A. キャンディデイトになった。新島・内村スカラシップはアーモスト大学の授業料と部
屋代と食費のみをカバーするもので、旅費は含まれていない。榊原はフルブライトのトラヴェル・グラントを取得し、
客船でシアトルまで行った。あとは鉄道で、シカゴを経由して東部に向かった。川西は日本の貨物船を利用し、パナ
マ運河経由でニュー・ヨークまで行くという方法を取った。何しろ当時は日本人留学生が持ち出しできるのは米ドル
三〇ドルまでという制限があり、しかも船の方が飛行機よりも安い時代だったのである。
ケーリが新島スカラ第一号に、ニーバー・グループ (6)のメンバーとして熟知していた榊原胖夫を選んだことは、当時
として最高の選択だったことを、榊原はその後の彼自身の学者として、また教師としての生き方を通して見事に証明
した。榊原は二年間でアーモストをM. A. の学位を得て卒業し、ハーヴァード大学に進み、アメリカ随一の中国史家 であるフェアバンク(John K. Fairbank)教授の助手をしながら、ハーヴァードの大学院で一年間学んでから帰国した。
同志社大学に復帰して経済学部で教え、後年には経済学部長をも務めた。しかしアーモスト大学で受けたリベラル・
アーツ教育は、榊原を経済学の狭い範囲内にとじこめることなく、「アメリカ研究」の分野で指導的な学者として大
成させた。榊原はアメリカ学会の会長を務めたこともある。同志社大学大学院にアメリカ研究科が誕生した年、その
初代研究科長に就任したのは榊原だった。一九九三年に同志社大学を退職するとともに名誉教授となり、帝京平成大
学、大阪商業大学、関西外国語大学等の教授を歴任し、退職後は右京区京北に居を構えている。専門である交通経済
学に関する著書が三冊あるほか、『アーモストからの手紙』(御茶の水書房、二〇〇二)は彼がアーモスト大学の学生
時代に友人たちに書き送った手紙を編集したものであり、異色の、すぐれた留学記である。
初代内村スカラに選ばれた川西進は内村鑑三の影響を強く受けた両親の下に育った。一高から東大に進み、東大の
大学院で英文学を勉強していたとき、恐らく矢内原総長の示唆などがあって、内村スカラシップを志願したものと考
えられる。矢内原の目に狂いはなかった。川西はギリシア語に強く、ギリシア語にかけてはアメリカ人学生を引き離
すほどよく出来た。榊原は友人たち宛の手紙の中で、川西についてこんな報告をしている。「川西君も今学期は好調
で仏語・A、ギリシャ語・A、それにベアードのシェークスピアにクラスで一番のA、最初の二つはともかくとしても、
むずかしいとして知られるシェークスピアにAというのは絶賛に値する (7)。」川西は一九五六年にアーモスト大学を優 秀な成績で卒業し、さらにブラウン大学大学院で研究してM. A. を取得して帰国した。横浜国立大学に勤務したのち、
東京大学教養学部教授として英文学を教え、退官後はフェリス女学院大学の教授を務めた。川西はシェイクスピアの
ソネットの注解、『ヘレン・ケラー自伝』(翻訳)、エドマンド・ゴス『父と子』(翻訳)、ベーコン『ニュー・アトランティ
ス』(翻訳、岩波文庫)その他を出版しており、新島襄の若き日を実証的に論じた英文の論考もある。こうした多彩
な業績の背後に、リベラル・アーツ教育への信念が潜んでいることは否定できない。川西は現在逗子市に住んでいる。
四 二代目の内村・新島スカラ
川西の次に内村スカラに選ばれたのは、東京教育大学で英文学を専攻した新井明だった。無教会系クリスチャンと
しての彼は前田護郎の門下である。新井は内村鑑三全集全巻をひっさげてアーモストに赴いたのであった。新井が或
る日コール学長から呼び出されて、体育の単位を取るため、屋内プールで水泳部の学生の監督のもとに泳いでみせた
エピソードは、ほおえましいものである。新井ほどアーモスト大学の提供する食事に恩恵を感じた留学生はいないの
ではあるまいか。アーモスト大学のヴァレンタイン・ホールは全学生のための食堂であり、カフェテリア方式である
ため、好きなものを好きなだけ食べることができる。それは一九五六年当時の日本の大学では考えられないことであっ
た。新井の肉体はそのおかげで、養分を存分に吸収して格段に向上した。しかし彼がアーモストで得た知的なご馳走
は、それ以上に新井を成長させた。
新井は一九五八年にB. A. を取得したのち、アーモスト大学の奨学金によってミシガン大学大学院のハントレー
(Frank L. Huntley)教授の下で研究し、M. A. を取得した。ハントレーは戦前に同志社大学の英文学科で教えたこ
とのある十七世紀英文学の専門家である。新井は帰国後、名古屋大学、大妻女子大学、日本女子大学で教壇に立ち、
日本有数のミルトン学者として大成した。『楽園の喪失』を含むミルトンの主要作品を邦訳出版し、ミルトンに関する
論考を多数世に問うてきた。論考『ミルトン研究︱ヒロイズム観の展開』により、東京教育大学から文学博士を取得。
キリスト教主義に立つ敬和学園大学は新井を二代目の学長として迎え、二〇〇三年から六年間にわたり、新井の指導
を受けた。新井は藤沢市に在住し、なお聖学院大学大学院の特任教授として学生を指導するとともに、無教会キリス
ト教のリーダーの一人として、精力的に活動を続けている。
二代目の新島スカラ、児玉実英もまた英文学を専攻した。ケーリとしては、児玉実英に関して、榊原同様に、ニー
バー・グループの一員として気心が知れているという安心感もあったといえよう。新井と児玉は、英文学関係の課目
では、いくつか同一の課目を履修したようである。児玉は子どもの頃からピアノの訓練を受けてきており、一時はピ
アニストになることを真剣に考えたことがあったという。だからアーモストで彼が音楽関係の科目を履修したことは
当然だったといえよう。彼はおまけに演説法(Public Speaking)をも取っている。児玉は無事に B. A. を取得し、アー
モスト大学の奨学金により、一年間ワシントン大学(University of Washington)の大学院で英文学を学び、M. A. を
取得した。
帰国後児玉は同志社女子大学の教壇に立ち、英語・英米文学を教えた。彼は比較文学会でも活躍し、『アメリカのジャ
ポニズム』(中公新書)を世に問うた。イタリアでエズラ・パウンドにインタヴューするなどして現代詩への理解を深め、
「アメリカ詩と日本文化」(英文)という論文で同志社大学から文学博士号を取得した。一九九三年から五年間にわた
り、同志社女子大学の学長を務めた。同志社女子大学は英語名を Doshisha Women’s College of Liberal Artsというが、
児玉におけるリベラル・アーツ教育への使命感は、彼のアーモスト大学体験に胚胎すると見傚すべきであろう。彼は
その後広島女学院大学の大学院で教えてきた。
五 リベラル・アーツ教育私見
私はオーテス・ケーリ教授の親切な計らいにより、一九五七年二月から六月までのワン・セメスターだけアーモ
スト大学の教育を体験させていただいた。それは強烈な体験だった。それに先立って私はスコットランドのセント・
アンドルーズ大学(University of St. Andrews)で、B. Phil. のキャンディデイトとして一九五五年十月から、翌年
十二月までを過ごした。指導の先生から、修士論文の進捗状況を中心にして、二週間に一度個人指導を受けていた。
大学院生であるから授業に出席する義務はなく、毎日を図書館で過ごし、寄宿舎では個室を与えられて、比較的のん
びりした学生生活だった。
ところが大西洋を渡ってニューヨークに着き、アーモスト大学にきてみると、そのようなのんびりムードは一挙に
ふっとんでしまった。私は特別学生(special student)として、二科目だけ履修を許された。前年の秋からアーモス ト大学にきていた児玉実英と新井明の助言を得た上で、バーバー(C. L. Barber)教授の「現代英米詩」と、ベアー ド(Theodore Baird)教授の「十八世紀英文学講読」を履修することに決めた。どちらの科目も六十分のクラスが週
三回あり、膨大な分量の書物、資料を読まされ、二週間に一度ずつの割合でペーパーを書かされた。小テストもたび
たび行われ、担当教授は学生たちの理解の度合いを絶えずはかっていた。週三回の集まりのうちで、二回は講義、一
回はセミナー形式で、学生に発表があたった。私はこの二科目だけで、遊ぶ時間はまったくなく、朝から晩まで予習
に追いまくられた。
「ェた。その一冊はボズウルさの『サミュエル・ジョンれま十で八世紀英文学講読」は読全部で三千ページ以上ソ
ン伝』で、千四百頁もあり、徹夜して読んでも読み切れないほどだった。「現代英米詩」ではある時、ペーパーの提
出期限が月曜の夜なかの十二時、場所はバーバー教授の研究室、と指定されていた。夜の十一時四十五分に清書のタ
イピングを終って、走って提出しに行った。研究室にはアルバイトの学生がにこにこしながら待っていて、私のペー
パーを受取った。当時アーモスト大学では図書館は夜の十時まで開いていたが、それより長く勉強したい学生のため
には、夜通し利用できる読書室が用意されていた。リベラル・アーツ教育というものは何という圧力を学生にかける
ものであるか、というのが、私の偽らぬ感想であった。
学生に圧力をかけるということは、同時に、教師にも圧力がかかるということである。この視点は学生時代にはわ
からないが、教師になってみればすぐわかることである。アーモスト大学で受けた小テストや、課されて書いたペー
パーは必ず次の機会に教授が返却した。しかもコメントつきである。短いコメントのこともあれば、驚くほど長いコ
メントがついていることもある。ハーヴァード大学のように大学院があって、いわゆるティーチング・アシスタント
(T. A.)の制度のある場合には、小テスト等の採点はT. A. が担当し、場合によってはT. A. が教授に代って講義する こともあるが、アーモストではT. A. の制度がない。教授と学生の関係は緊密なものにならざるをえない。入学に際
して、ハーヴァードとアーモストの両方に合格した学生が、しばしばアーモストの方を選ぶのは、そのような事情に
よるものと考えられる。
「Quartets Four て、ーバーに対しバたーバー教授が書いてペ書いエ代英米詩」で、私がリ現オットのに関してく れたコメントをサンプルとして挙げておきたい。ちなみにこのペーパーにはB +がついていた。“This paper is a clear, simple paraphrase of several related key passages or moments in the Quartets —you summarize with intelligence andcontrol the theme you selected. But your method is simply to put into summary terms a main meaning of the poetry,
with the result that you simplify the meaning instead of pointing out its complexity. If you noted how Eliot expresses the theme, focusing attention on specific features of language, image, metrics, etc., you would lead your reader to see
more as he looks at Eliot’s writing. The complexity of Eliot’s meaning, and its precision, is achieved by his use of theexpressive resources of poetry. Your method of paraphrase is useful and valid, but not as enriching as the method of aesthetic analysis. May I suggest that you read R. A. Brower’s book on critical method, The Field of Light. You show a fine and deep understanding of the spiritual issues with which Eliot deals.”
このコメントにはバーバー(従って、アーモスト)の当時の文学教育に関する教え方の特色が如実に表れている。
一九五〇年代のアメリカの大学では新批評(New Criticism)の全盛時代が続いていた。私は同志社でもセント・ア
ンドルーズでも新批評のことは何一つ聞いていなかった。私が学んだことは、文学作品を理解するのに、著者の伝記
やその作品の生みだされた歴史的環境から切り離して、作品を有機的統一体として受け止め、部分が全体を支えて
いるとしてどこまでも分析を進めていくことだった。従ってバーバー教授が指摘したspecific features of language, image, metrics, etc.に集中することが何よりも大切だった。バーバーのetc.はつまり、irony, paradox, metaphor, symbol等ということになる。これは川西、児玉、新井たちがアーモストでしっかりと学んだことであった。ただし、
児玉が証言するように、アメリカ文学のケイズン(Alfred Kazen)教授のように、アーモストの英文科の「新批評」
的傾向に反対の、いわば異端者がいたことも事実である。
ベアード教授の「十八世紀英文学講読」でベアードは何を教えようとしていたのか。たしかにボズウェルの『ジョ
ンソン伝』を読んだし、ジョンソンの『ランブラー』エッセイをいくつか読んだ。しかしベアードは、ジョンソンは
こういう人であった、ということを教えようとしたわけではない(後年ハーヴァード大学でベイト[Walter Jackson
Bate ]教授の「ジョンソン」を聴講した。ベイトは確かに、ジョンソンはこういう人であったということを教えた。
ベイトは講義に熱が入るあまり、ジョンソンに成ることのできる人だった。しかし授業に先立ち、自分のアプローチ
は保守的であるからそのつもりで、と、警告を発した)。むしろボズウェルが記録しているジョンソンの発言の中から、
例えばennuiという単語を選んで、この単語のもつ意味について、学生にしきりに質問を投げかけて学生を困惑させ
た。しかしよく考えてみれば、十八世紀の文人が悩んだ同じ問題を二十一世紀のわれわれもまた、多少形を変えて悩
んでいることがわかるのである。
学生を面食らわすことはベアードのお家芸だった。気の弱い学生は怯えてしまいかねない。(後年私はプリンプト
ン学長に、私はベアード先生に怯えました、と告白したことがある。するとプリンプトンは、「学生時代、私も怯えた」
と言った。「それじゃ、私たちは同時代の人間だったわけですね」と言って、二人で笑った。)或る日ベアードはボズ
ウェルの中からジョンソンの言葉「人間というものは知的な労働をとても嫌がるものだ。知識が簡単に入手できる場
合ですら、多くの人はちょっとの苦労でそれを入手するよりは、無知のままでいることに満足するものだ」を取り上
げ、さて、頭のいい理屈屋の高校生であれば、この発言に対してどのように反論すると思うか、という質問を投げか
けた。学生が答えると、ではそのように答える高校生は、どのような立場に立っているか、と突っ込む。更に、ジョ
ンソンの発言はどのような立場でなされているか、を聞いた上で、では、君自身はどちらの立場を選ぶか、そしてそ
の理由は何か、と聞く。ベアードは何かというとすぐ、言葉の定義を学生に求めた。彼はこういう風に学生の脳漿を
絞らせるのが常であった。学生は自分のもつすべての知識、判断力を総動員して対抗しなくてはならなかった。自分
と社会、自分と世界、自分と国家、自分と歴史、それらの問題が自由とか責任といった考え方を巻き込みながら、問
われ続けた。そこにはアーモストのリベラル・アーツ教育の真髄があったと、今にして思うのである。
バーバー教授のコメントにあったR. A. Brower, The Field of Light を読むことにより、アーモスト大学の教授たちが
考えている文学作品へのアプローチに関して、深く学ぶことができた。児玉と私はこの本を訳出することを話し合っ
たことがあったが、それは実現せずに終わった。なおブラウアーはアーモスト大学の一九三〇年卒業生で、少なくと
も一九三〇年までの全卒業生で第一番の成績を挙げた秀才で、ケンブリッジ大学に留学し、ハーヴァードでギリシア
語、ラテン語、英文学を教えた。アーモスト大学に里帰りしたのち、ベアード教授の下で独特の英語教授プログラム
を立案した。彼が再びアーモストを去ってハーヴァードの英文学教授だった頃、私は彼の「シェイクスピアと古典」
と題する大学院の科目を聴講したことがある。「ラテン語の読めない学生はお断り」というクラスで、講義する代り
にブラウアーは、オクスフォード大学出版局から出す自著の原稿を読み上げていた。
六 コール学長、チャペル、フロスト
コール学長は童顔で、ハンサムな人だった。若い専任講師だったケーリに向かって「ぼくをチャーリーと呼べ」と いうので、ケーリは学長あての手紙はいつも Dear Charlieで始めた。コール学長はアーモストにいる限り、朝の八時
から始まるチャペルにはきちんとガウンをつけて出席した。チャペルでの奨励は大体において教員のまわり持ちだっ
たが、時には外部のスピーカーが話すこともあった。しかしどんな偉いスピーカーでも、必ず十分間で話を終ること
が鉄則だった。チャペルは当時週四回で、月火、木金ときまっていた。うち二回はキリスト教的な内容のもの、二回
は宗教とは直接関係のない講話だった。厳密に出欠が取られ、半数以上の出席日数がないと、卒業資格に関わるとい
うことだった。私は特別学生だから出席の義務はなかったが、ケーリは努めてチャペルに出る主義だったから、ケー
リ家に居候していた私は、ケーリと一緒に出ることにしていた。或る日二人は遅刻した。チャペルに入れてもらえず、
やむを得ずチャペルのドアの背後で聞いた。その日の講師は歴史のグリーン(Theodore P. Greene, AC1943)助教授
(ケーリの同級生で、ケーリはグリーンの学識と人物に対して尊敬を払っていた。ちなみにグリーンはアーモスト館
のために募金の委員を務めたTheodore A. Greene, AC1913の息子だった)がアーモスト大学の歴史について話して
いたので、ぜひきちんと聞きたかった。
そのグリーン助教授の弟、Thayer A. Greene (AC1950)はアーモストの第一教会の牧師で、当時アーモスト大学の
チャプレンを兼任していたから、日曜日ごとに第一教会の礼拝に出席していた私は、教会と大学チャペルで、グリー
ン牧師の説教を聞く機会が多かった。第一教会にはコール学長夫妻も出席していた。第一教会の副牧師、David King は大学でも副チャプレンだった。キング副牧師の方がより塩味の利いた、きつい説教をした。
アーモスト大学のチャペルで忘れられないのは、生物学のヨースト(Henry Thomas Yost)教授が、コール学長
が後に座っている前で、堂々と無神論の立場を表明したことだった。ヨーストにとって神は仮説であり、この仮説は
scienceの追求には不必要だという。米国の犯罪統計によると、一番犯罪率の高いのはクリスチャン、次はユダヤ教徒、
一番低いのは無神論者だという。ヨーストは最後に、福音書の「子供たちがわたしに来るのをとめるな。天国はこの
ような子供たちのものだから」というイエスの言葉を引き合いに出し、わたしは大人である(I am a man.)と言って
話を結んだ。コール学長は憤然とした顔つきであった。それから学生たちは讃美歌を歌った。
ロバート・フロストが五月九日にジョンソン・チャペルで自作の詩を朗誦(朗読ではない)するのを聞きに行った。
コール学長が詩人を紹介した。フロストはその月、オクスフォードとケンブリッジの両大学から名誉学位を貰うこと
になっている。この二つの古典的大学からの学位を貰ったアメリカ人は、ロングフェローとジェイムズ・ラッセル・
ローウェルの二人だけで、フロストが三人目だということであった。
フロストの前置き的な談話は私には早すぎて聞き取れなかった。もし正面の席に居たなら、もう少しは分ったかも
しれない。ピューリタニズムだとか、ユニテリアン主義とか、会衆派主義の話、民主主義の話ののちに、彼は早口で、
どちらかといえば散文的な口調で、自分の詩を朗誦していった。彼が選んだ詩には、次のものが入っていた。“The
Tuft of Flower”(この詩の中の“from sheer morning gladness at the brim”という一行は、彼の会心の行らしく、ここ を彼は繰り返した。ほかの場合にもそれに触れた)、“After Apple-Picking”; “An Old Man’s Winter Night”(この詩を彼 は第一番に朗誦した)、“Birches”(これを最後に朗誦)、“Directive”(これを彼はいちばん重々しく朗誦した)、
“Provide, Provide”(これを軽快に、いくぶん茶目気た調子で朗誦)、“Acquainted with the Night”; “The Bearer of Evil Tidings”; “Never Again Would Birds’ Song Be the Same”(この詩を二度朗誦)。
詩と詩の間でフロストは、確かこんなことを言った。“Someone asked me, ‘Don’t you want to do good?’ I said I don’t know. Well, I want to do well. I want to do good well.”それで聴衆が大笑いした。
その前夜、ケーリ夫妻はマッキオン(Newton F. McKeon)教授のところに招かれた。フロストが主賓で、ケーリ
が主な話し相手になるよう、主人から告げられた。フロストはケーリと話すことを非常に楽しんだようである。ケー
リはその時、私と金関寿夫氏が四月にワシントンで体験したことをフロストに話した。つまり私と金関氏はワシント
ンに行ったとき、セント・エリザベス病院に「入院」していた詩人エズラ・パウンドに電話を入れて、インタヴュー
を申し込もうとしたが、壁は厚く、部局から部局へとたらいまわしにされた揚句、とうとうパウンドに電話をつない
でもらえなかった。フロストはこのエピソードを面白がって聞き、次のように反応したという。
「方の方にもアメリカのにッも子供を作ったりしパロ私ドにいわせると、パウンはー三流詩人だ。あいつはヨて、
さんざん無茶をした。人間的に全くなっていない奴だ。彼が投獄された時、Tom Eliot, Archibald MacLeish, Ernest
Hemingwayと私の四人で出獄の嘆願書を書くことになった。そこでArchieが起草して、みんなにまわしたが、Tomにはそれが全く気に入らず、またすっかり書き直した。私は文句を言わずにただサインした。要するに、私の好きな
奴はパウンドが嫌いであり、パウンドの好きな奴は私を嫌う。これはどうしょうもないことだ。」
えぴろおぐ
アーモスト大学での経験は、私を文学部英文学科で一番こわい先生にしてしまった。学生を遊ばせてはならない。
学生を教育的に追い詰めていかなくてはならない。学生に学問の圧力をかけなくてはならない。その一念から、私は
授業をよく準備して綿密に行い、期末試験は厳しくした。シェイクスピアの『ハムレット』とか、スウィフトの『ガ
リヴァー旅行記』とか、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』を翻訳で読ませ、読んだかどうかを試す試験問題を
作った。ほかに二十篇ないし三十篇の英詩を読ませ、その中から十篇の詩を選び、それぞれから四行くらいを抽出し
て詩人を当てさせることにした(それはアーモストのバーバー教授の方法だった)。それ以外に五題分のエッセイ・
テストを出した。それの採点には夏休みの四日ないし五日間をかけるのが常だった。後期の試験も同じ形式で行い、
悪戦苦闘しながら採点した。こうして前期後期の平均点が六十点に満たないものは容赦なく落とした。私の担当した
英文学史は二年生の必修科目だったから、二年生で落ちれば三年生で、三年生で落ちれば四年生で履修できる。一学
年三百人の頃で、三分の二が落ちると、次の年度には登録者が五百人に膨れ上がる。その結果、私の英文学史一科目
だけのために卒業延期となる学生が毎年十人程度出る、ということになった。私は多くの学生から恨まれ、呪われさ
えした。
しかしこれはやはり若気の至りであったと反省している。一人の教師の奮闘だけで、全体の教育効果を上げること
は困難である。英文学科全体をよくするためには、やはり教員間で共通に問題意識を高める必要があったが、その点
での努力が足りなかった。同志社退職後、私は新潟県に新設の敬和学園大学の初代学長を三期十二年間務めた。私も
一科目だけ授業を担当したが、敬和で、同志社時代に私が取ったやり方を実施すると、たちまち学生数が減少するこ
とは明白だった。私は教育者としてダブル・スタンダードをもたざるを得ないという現実に直面した。
最後に付け加えておきたいことがある。敬和学園大学はキリスト教主義に基づくリベラル・アーツ教育を目標にか
かげた。アーモスト大学での経験が幾度となく私の脳裏をかすめた。私のあとを継いで、二代目学長として迎えたの
は第二代内村スカラの新井明であり、敬和には何らかの形でアーモストのリベラル・アーツ教育の精神が残せたので
はないかと考える。そして私は学長に就任してはやばやと、敬和学園大学の英語名をKeiwa College と決めた。リベ
ラル・アーツ・カレッジという言葉は存在するが、リべラル・アーツ・ユニヴァーシティという言葉は存在しないか
らである。
注
(1)学校法人同志社編『同志社百年史』資料編Ⅰ、二六九頁(2)笠井秋生、佐野安仁、茂義樹『沢山保羅』、日本基督教団出版局、一九七七年、二三二頁(3)同志社アーモスト・クラブ(