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身延山に於ける日蓮聖人の人間的一面 (第二十回 日蓮宗教学研究大会紀要)

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Academic year: 2021

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ての風格を、遺憾なく︽ 外にはないと云えよう。 日蓮聖人の一代六十年間に於ける全生涯の中でへ最も落付いた環境に恵まれ、大自然に親しまれつつ、深い宗教的 な思索をめぐらしながらへ著述にいそしまれ心又門弟及び檀越の教化にと、ひたすら梢進して来られ、﹁聖者﹂とし ての風格を、遺憾なく発揮せられたのは、文永十一年の初夏からへ弘安五年の秋に至るまでの、身延在山九ヶ年間以 此の在山九ケ年間を、従来身延時代と呼んで来ているのであるが、今愛では宗祖の晩年に於ける身延時代九ヶ年間 にピントを合せ、宗祖の延山生活に現れた人間的一面を、祖書の上から探ろうとするものである。 古来勺一般に宗祖の一代を論ずる時へその生涯を①鎌倉時代︵立教開宗より竜側法難に至るまで。︶②佐渡時代 ︵佐渡在島三ケ年間。︶③身延時代︵在山九ケ年間。︶とに分類し、或いは佐渡流罪を分岐点として、佐前と佐後と にわかつ方法がとられて来ており、此の間に一線を画して、宗祖の人格の上に、佐前は人間としての法華経行者日蓮 を認め、佐後は本化仏使としての霊格的存在者たる日蓮として、これを仰ぐと云う傾向が従来§強く見られているの

である々︲、咋柳

身延曲に於ける日蓮聖人の八間的一面

一、

上田本昌

(2)

しかし、こうした大別二分類からすると、身延時代の宗祖は、当に仏使としての霊格者たる日蓮と云うことになり そこには人間的な香りが、全く些かも漂っていないかの如き感を抱かしめるものがあるかのように思えてくるのであ 果して身延に於ける宗祖は、百パーセントの霊格者として、人間を越えた存在であったのであろうか。それはたし かに鎌倉の市井を去って、遥かに人里離れた山中身延での生活は、世間を離れ、世人との交渉を断った聖者の境界を しのばせるものがあるが、その反面門弟・檀越に宛られた書簡の上から受ける感じでは、むしろ逆に極めて人間的な 情愛に満ち溢れ、人の子として父母を慕い、師匠をなつかしみ、また弟子・信徒の身の上を案じて流された涙、慈愛 のこもった血潮が、永祖の全身に流れていたことに凱付くのである。 立教開宗以来、宗祖はその心奥に深く﹁如来使﹂としての覚悟をきざみこまれ、仏の予言せられた如く、三障四魔 の迫害と斗い、本化の﹁遣使還告﹂として、勇猛精進ひたすら法華経行者の険難をあゆまれて来られたことは、将に 人間を越えた存在の如くであり、金剛不壊の如説修行と云い、勧持品の色読と云い、到底人間業とも思えぬ行動であ ったように考えられて来るのである。即ち、佐前のこうした果敢な力強い足どりの中に、むしろ霊格者としての一面 を見ることが出来るのであって、佐前の宗祖を一気に﹁人間日通﹂として評することは、必ずしも当を御たものとは ス ︾ ◎ 云えないのではなかろうか。 これに対し、佐渡の宗祖は、特に身延時代に於ける在り方を見るとき、山谷の大自然と親しみつつ、情愛溢るるま なざしで弟子・信徒の教化に当られ、或時は父母・師匠を慕って、遥か山頂より生地房州を拝し、又或時は庵の庭に 立たれて、吹く風に身をまかせ、昇れる月に心をたくされ、人間味班かな晩年を静閑にすごされた日々を窺うとき、 (I32)

(3)

こうした宗祖の身延時代に於ける澁絡的一而の中に現れた人間像を、主として門弟・檀越に与えられた神前の中か ら、いくつかを拾って、その一端を観察してみようとするものである。所謂、﹁現在の大難を思ひつづくるにもなみ だ、未来の成仏を思ふて喜ぶにもなみだせきあへず。烏と虫とは鳴けどもなみだおちず。日蓮はなかねどもなみだひ まなし。此のなみだ世間の琳には非ず。但だ偏に法華締の故也。若ししからば甘露のなみだとも云っぺし。﹂と云わ れ、苦しいにつけ轡びにつけ、常に流された涙は、凡夫の流す涙と、涙そのものは変らぬとしても、涙を流された心 奥については、大きなへだたりのあることを知らなければならない。即ち宗祖は、﹁日蓮は刀杖の二字ともにあひ ぬ。︵乃至︶日蓮仏果をえむに争かせうばうが恩をすつべきや。何かに況んや法華経の御恩の杖をや。かくの如く思 あると考えられる。 皇ノ◎ つまり人間として生を受けた宗祖は、法華経によって人間を越えた本化仏使としての雅格者の立場に立たれ、然か も此の立場に安住されることなく、再び人間の情愛の世界にもどって来られ、弟子・信徒に囲まれつつ、救済の導師 としての生涯を送られたと云うように見ることができると思うのである。 芭蕉の有名な言葉に﹁心を高く悟りて、俗に帰すぺし。﹂と云うのがあるが、宗祖は猟格者、即ち本化上行として の自覚を体験された後で、もう一度こまやかな人惜の世界に立ちもどられた処に、大きな人間救済のための意義があ るように思えるのである。但し、愛で云う人情・情愛と云うのは、あくまでも読格の立場を一度色読体験せられた後 に於けるものであるから、仏の大きな慈悲に根ざしたものであり、そこから発する慈愛の情、とでも云うべきもので これを一概に人間性をはるかにこえた本化上行の霊格者としてみなすことは、これ又むずかしい問題であると云えよ

(4)

② ひつづけ候へば、感涙をさへがたし。﹂と、法難につけても﹁感涙をさえがたき﹂状態であったのであり、そこには 宗教者としての深い悟道に徹しられた聖者の﹁心を高く悟りて﹂のちに、再び﹁俗に帰りて﹂流される涙とでも掌フ 一一、 身延へ入山せられてからの宗祖は、その人間像に於て、一屑慈愛の情が深く、涙もろい一面が強く感じられ、時に は鎌倉時代に見られたあの勇猛果敢な法華経行者として、獅子布迅の弘経に挺身されたその同じ人には思えぬ程の温 情が感じられるのである。これは三十代から四十代にかけての壮年期と、五十代をこえ六十に近くなった晩年の安定 した年令差も勿論考慮されるべきであろうが、何によりも身延と云う環境もその大きな要因の一つとして考えられて 来る。しかし鮫も大事なことは、やはり宗祖の人柄であり、人間味に起因するところが、一番大切なことと云えるの来る。しかし蝦 ではなかろうか。 べきものではなかろうか。 即ち宗祖は正法を誹誇したり、正しい信仰を否定しようとする者にとっては、此の上ない強敵として恐れられて来 たようであるが、反面門下檀越にとっては、又とない慈愛に満ちたいつくしみ溢るる師匠として、一途に敬服の念を 抱かしめる存在であったようである。その慈悲の涙に洗れたようなまなざしで、信仰へのいざないを受けた門下にと っては、これが教化に於ける雌も秀れた威力として、その効果を発押しえたことであろう。宗祖の人間像、即ち人柄 の中には、並々ならぬ思いやりの深さへ涙もろさがあり、こうした血と涙の慈愛は、やがて聖者としての﹁如来使日 蓮﹂にも通ずるものがあると考えられて来るのである。 身延山に於ける宗祖は、門弟の悦びについては門弟と共に悦びへ檀越の悲しみにあわれては、檀越と共に涙を流す (134)

(5)

と云う、人間味のあふれた心境に住し、宗祖自身の問題としては、昼夜に霊山往詣の法悦にひたっては感激の涙を流 し、国難の迫切来たる迄憂えては、又混せきあえずして、涙ひま懇さ蝿であったのである。 例ぱ、入山間もなぐして上野の南条殿に宛られた普簡の一節には、父を失った事の悲しみを慰め﹁御心のうち凡を しはかるこそ琴琴群もとまり候はね℃﹂と遥か珠延の人里離れた峰から、門下の不幸をとりあげ、その心中を祭し悲 しみといたわりの涙を惜しまなかった。一ィあわれ人はよき壬はもっぺかりけるものかなと、なみだかきあへずこそ候 ④ ⑤ し。﹂と云う個人的な涙に対し、、﹁抑も日遮は日本凶をたすけんとふかくおもへども﹂と述べられている如く、亡到 の危機に直面した国土と大衆を救済するために、その全生涯が捧げられて行ったのである。しかるに﹁川ひられざる ⑥ 上、度々あだを、なさるれば、力をよばず山林にまじはり候ぬ。﹂と云う、一見消極的な人間として力尽きたるかの 如き観患いだかじむるような表現も見られ、更に大蒙古国の襲来によっで、。﹁皆人の当時の壱岐・対島のやうになら ⑦ せ給はん事、おもひやり候へば、なみだも、とまらず。﹂と国墾と大衆のための涙もまた泌柁たるものがあったので あり、宗祖の﹁涙ひまなし﹂と云われたその涙は、個人・大衆・国土の悲しみ争憂い・危磯を忠っての涙であったの あり、︷ 又文永指二年の正月に、同じく南条氏へ宛て出された﹃春之祝御書﹄には、南条氏の父が嘗て鎌倉にありしとき、 ③ 宗祖に帰依し法華信仰に糟進したことをなつかしみ、﹁をもひやり候へ唾なんだも、とどまらず。﹂と故人をしの んでの涙に爵れ宝おられるのである。足の如く宗祖のひまなく流された涙峰主として門弟植越のためであり、又国 ⑨ 土と大衆のためであったのである。自分自身については法悦による﹁感涙、をさへがたし。﹂と云う歓喜の涙以外に はなかったと思えるのである。即ち仏果をうることの随喜の涙であり、﹁聖者の涙﹂とも云うべきものにばかならな である。

(6)

こうした身延山に於ける宗祖は、﹁三度諌めて容れられずんば、山林に交る﹂と云う聖人賢哲の風格と、﹁釈迦如 ⑩ 来の御神、我身に入りかわ︵ら︶せ給けるにや。我身ながらも悦び身にあまる。﹂と云う本化仏使としての自覚を持 たれた一面と、更にこうした瀧格的な中から惨み出た苦楽共に思い合せて涙を流された人間としての一面とが重なり ○ 。。 ◎ 合って、門弟・檀越にとっては、無上の主であり、厳しさの中に慈しみあふるる師匠であり、血と涙の通った親とし て、無二の存在であったことが推察でさるのである。 入滅に先き立つこと約十ヶ月、弘安四年の十二月に妃るされた﹃上野殿母尼御前御返事﹄によると、米や消酒など の贈物に対する謝礼が述べられ、病身にとって此の贈物が如何に身に泌むるものであったかを飾り気なく記してい ⑪ る。﹁此御志ざしは、いかんがせんと、うれしくをもひ候ところに、両眼よりひとつのなみだを、うかべて候・﹂と 病にとってありがたき薬酒の贈られたことに対し涙を浮べての素直な感情の吐露がみられるのであって、まさに繼格 の中の人格的一面とも云うべき﹁人間日遮﹂の一コマが愛にあると云うことが出来よう。 一 一 一 、 次に入山後の宗祖にとって、常に胸中にあって忘れることのできなかったものに、父母と師匠をなつかしみ、生れ 故郷を恋しく思われた﹁慕情﹂がある。これは人間として極く自然のなりゆきであるとも思えるが、天下剛家の亡び んとするを憂え、国民大衆の、苦悩に打ちひしがれた状態に対して、涙ひまなき宗祖の人間像とは又異った一面、即 ち聖者とか或いは仏使とか云わるる一面をはなれた、純粋に一人の人間として、父母を慕い生国をなつかしむ心情を 持った宗祖の全く個人的な一面と云うことが出来るであろう。 いであろう。 (I36)

(7)

人山の当初、水細はたしかに隠遁者的な感慨をもらしておられるが、これは次第にうすれて、身延の山を愛しその 自然美にひたって一乗妙典を受持することの法悦に、無上の倖せを感じておられるに至っている。但し、こうした聖 者の生活の中にも、時として折りにふれ、父母を恋しくなつかしまれた一面が、赤裸々に表されているのである。例 ば入山の狸年、断尼御川から﹁あまのり一袋一が送られて来たのに対し、その礼状に身延の地形や鉱候を述べ、﹁彼 の商山の四崎が世を脱れ︲一一竹林の七慨が跡を隠せし山︲|になぞらえて、その下に海脊から生国のことを次の如く想 一古郷の躯、はるかに忠ひわすれて朕つるに、今此の、あまのりを見候て、よしなき心、をもひいでて、愛くつら し・片海・市河・小湊の戯のほとりにて昔見しあまのりなり。色形あぢわひもかはらず。など我父母かはらせ給 ⑫ ひけんと、かたちがへなるうらめしさ、なみだおさへがたし。﹂ 此の一文から見ても身延山に於ける求祖の人間像の一端が、明らかに浮き彫りされて来ると思える。氷祖は常に﹁我 父母一﹁日蓮の父母︲一と両親をなつかしく思われ、追慕の情こまやかであったことは、既に山頂から房州を遥拝され た事実に徴しても明らかである。又建治二年三月、光日腸に宛られた御番によれば、﹁生倒なれば安・腸の剛はこひし ⑬ かりし﹂とその情の切々たる継子が涙ながらに綴られている。たとえ生田故郷とは云え当時求棚はたやすく安・腸の川 を訪れることはできなかった・﹁,父熾の墓をみる身となりがたし、とおもひつづけしかば、いまさら、とびたつばか り、くやしくて︲一とある如く、たとえ海山をこえても﹁父母の墓をもみ、師匠のありやうをも、とひをとづれざりけ ん﹂と云う心境であったのが、遂いに果せなかっただけに、此の生田・父母・師匠への慕情は、極めて大きなもので あったであろうことが推察できうる。 い起しておられる。

(8)

宗祖にとって、父母・師匠の恩に報いると云うことは、人倫の鮫も基本となるべきものとして考えておられたので あるから、此の両親追慕の情も必然厚いものであったことが肯けよう。然し、﹁にしきをきて故郷へは、かへれとい ふ事は内外のをきて﹂であったので、一させる面目もなくして本国へいたりなば、不孝の者にてやあらんずらん。﹂ と不幸の身となることを恐れ、呼びにしきを芯て冊る時を予想され、その時こそ ﹁父母の墓をもみよかしと、ふかくをもうゆへに、いまに生国へはいたらねども、さすがこひしくて、吹く風、立 ⑭ つ雲までも、東の方と申せば、庵をいでて身にふれ、庭に立ちてみるなり。﹂ と、若さ日の故郷をなつかしみ、人一倍両親を慕われた宗祖の心中が、此の一文の中に跳如として窺えるのである。 親を思い師匠を追慕すると云う感情は、入山の二年後に旧師道普房の死去にあい、一層その師を思うの情が高まっ て行った。即ち﹃報恩妙﹄を著して深く追悼の意を表しておられるが、それによると仏教徒たる者はすべからく﹁父 母・師匠・国恩﹂を忘れるべきでなく、常に報恩の念を持って、﹁乗恩入無為真実報恩者﹂の其の意味に於ける報恩 の大遊を示し、そのためには仏一代の肝心にして、末法応時の大法たる法華を受持することに始るとするのである。 つまり求細の報恩思想は、法華の実践を通した上での報恩であり、倫理であったのである。人倫の基本を報恩に求め られたところに、宗祖の人格に於ける一面を知ることが出来うるが、更にそれをして、大恩報謝の道は、法華の色読 体験を通すことによって可能となるのであると論じた処に、求棚の栩恩観に於ける鮫も大きな特色があったと云えよ 兎角、宗祖については、一般に佐前の獅子奮迅の動的一面のみをとらえて、他宗を折伏するあまり、熱烈な狂僧の 如くに考え、極めて倫理性の乏しい斗士の一人として論ずる向きもあるが、これは宗祖の佐後、特に身延山に於ける 、 ﹃ ノ ◎ (I38)

(9)

生活、中でも代表耕作の一つとして数え挙げられる﹃報恩抄﹄を、全く理解しえない者の言であって、逝憾ながら宗 柵を正しく理解しえていないと云わざるをえない。﹃報恩抄﹄を中心として、在山九年間に認められた祖書の中に は、上野殿に与えられた一連の御書に見られる如く、親子関係に於ける血縁・きずなを説き、又阿仏房夫妻宛、四条 氏に宛られた書簡、池上兄弟に出された御書、等にそれぞれ見られる如く、夫婦関係を取扱い、夫と妻の在り方に於 ける肢も望ましい人間像を論じ、更に前記の一﹃報恩抄﹄に見られる如き、師弟関係のうるわしい在り方。或いは四条 氏とその主家たる江馬氏との関係を取挙げた主従の問題、更には領主波木井氏との師檀の関係に至るまで、あらゆる 人間関係にわたり、深い愛情と理解、大きな報恩観と追慕の情、いつくしみ溢るる涙、そしてどのような苦痛にみち た者も、悲哀に閉された者をも、すべてを暖く迎える偉大な抱擁力とを兼備した人格者としての宗祖が、そこに展開 しているのを見ることができるのであって、それは同時に仏の大慈大悲につながるものであると云えよう。 四、 以上、宗祖の身延在山中に於ける生活のうちから、特に人間的な一面にピントをあてて考察を試みて来たのである が、前述せる如く一般には宗祖の純粋な宗教的観念の高さと、世俗を離れた山中での生活が、世をのがれた隠者の如 き感じを抱かしめ、所謂人間味にとぼしい英雄・聖者としての性絡を意味し、更に佐後の内衙自覚から発した本化仏 使としての﹁雅格日蓮﹂と云う教学的な面から生れた超人間的な性怖の持主として見られ、何かし・り近より難いもの を持った型人君子であるかの如くに誤解され易い面を有して来たように考えられるのである。こうした傾向を破っ て、身延に於ける宗祖の一面には、人間として極めて自然な血と涙の通った反面を有し、その血と涙はわれわれの凡. 情にもつながりを持ったものとして考えられて来るのである。

(10)

宗祖在山中の対人関係は、佐前のそれとは又変った一而を持っておられた。それは即ち佐前の活動期にあっては、 極めて対外的であり、念仏者を初めとして、専ら他宗徒に向っての布教であった。宗棚自身が﹁三類の強敵﹂と述べ ておられる如く、常に﹁敵︲一に向って法を説かれたのに対し、身延にあっては主として弟子檀越の謂ば﹁味方︲一に対 して法を脱かれ、蕊而されるに至っているため、脚ずと内筒的柵和な対人関係を紬ぶようになって行ったとも考えら 池上宗仲兄弟が信仰上の問題から、父親と不仲になり、遂いに勘当され、宗祖の指示に従って再びその仲をとりも どした時も、或いは四条金吾がやはり信仰上の一件から主人江馬氏の反感をかって所領没収され、宗祖の陳状によっ て秤び主従の仲をとりもどした時にも、宗杣は常に弟子檀越と共に泣き、弟子檀越と共に事に当り、そして共に悦び ⑮ を分ちあっておられるのである。 インドの瀧鷲山を、本朝此の身延の嶺に移したとさえ云われた如く、此の山の自然と共に自適な九年間を、晩年内 省的にすごされたその宗祖の姿を祖書の上から推察した時、佐前の何物にも屈せず法華経弘通のため不惜身命の活動 をとげ、衆僧的超人的な一而を強く喪に川された求細よりも、はるかに人間的なものを身延のボ棚の中に嘘ぜずには ⑰ をとげ、衆僧的超人“ ︵ へ 脇 ︶ / 〃 ,1 れうる。 おられないのである。 こうした身延時代の弟子檀徒と倶に在った宗祖のしみじみとした人間像を探ることによって、これを二十仙紀後半 の現代に生きるわれ,f、の日常信仰生活に於ける人間像の上に、多少なりとも反映し没するところがあるとしたなら ば、その葱義は決して少なくないものがあると考えられるのである。 (140)

(11)

︹註︺

①昭和定本日蓮聖人遺文七二八頁

②同一、六三六頁

③同 八三六頁 ④同 八一九頁 ⑤同 八三六頁 ⑥同 八三六頁 ⑦同 八三六頁

③同八五九頁

⑨同一命六三六頁

⑩同一、○五四頁

⑪同一心八九七頁

⑫同 八六五頁

⑬同一、一五二頁

⑭同一品一五五頁

⑮上に向っては仏と倶に、下に向っては衆生と偶にあった生涯である、と考軌ことができょう。 ⑯古来、宗祖を評して、行動力と実践力は抜群であったと云われているが、これにもう一つ、内省思考力もまた秀れていたこ とを等閑にふすべきではないと思う。更に、こうした実践行動と内省思考の力は、法蕪経の信から発し、大きな﹁人間愛﹂ となって燃え続けたのである。 ⑰即ち、本仏の体内に生き、本仏の本願の中に在って、その本願を達成するために一生を送った人としての宗机、所訓、実践 宗教者としての人間像がそこにあると云うことが出来えよう。

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