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三︑手記 ㈠  昭和十八年十二月出陣兵 ︱一 いち五高生の手記︱

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(1)

三︑手記 ㈠  昭和十八年十二月出陣兵 ︱一

いち

五高生の手記︱

 

平成二十二年八月十五日   記      

 

昭和十九年九月卒業   文甲一   山下善睦  

一  学徒出陣陸軍入隊

  昭和十八年五高二年二学期に学徒出陣決定︒十二月入隊までのあ

いだ﹁生死の問題﹂ ︑﹁出陣の意義﹂について︑自分を納得させる結

論を求めて思考に明け暮れました︒そして︑ ﹁民族が生き残るがため︑

祖国が死を求めるのであれば︑それに答えざるを得ない﹂と結論し

ました︒ ①  昭和十八年十二月︑長崎県大村の陸軍歩兵四十七連隊に入

隊︒   一期の訓練を経て後︑甲種幹部候補生試験に合格︒大村の隊で

は五高文乙の小宮君︵歩兵砲小隊︶と僅かな入浴時間を共にしな

がら︑楽しかった龍南生活を語り合い︑はげまし合っていました︒ ②  昭和十九年春︑四国豊浜の船舶幹部候補生隊に十一期生と して入校︒

キスカ島撤収で有名だった村中大佐が校長で︑敵前上陸や渡河

作戦のとき︑舳先が開閉する舟艇で輸送任務に当たる船舶工兵の

学校でした︒他の区隊に文甲二梶原君がいましたが︑殆んど話す

機会もありませんでした︒ ③  昭和十九年十一月︑私は十一期生千二百名の壮行会を受け

て︑一週間早く卒業︑任官︒

  南方第一線に送り出された四名の中に入れられました︒配属先

は門司港でフィリピン島向け出港待ちの︑当時最強の機械化兵団

といわれた山下大将率いる満州の虎兵団の揚陸にあたる暁部隊で

した︒   私達四名は門司への旅の途中︑列車乗り継ぎの都合で約二時間

岡山で途中下車しました︒寒い北風の強い夜でした︒後楽園近く

の大きな家を訪れ︑夕食を取る間の休息を願い︑快く同家の応接

間に案内されました ︒上品な女性が熱いお茶と共に ︑﹁今日の新

聞に宅の俳句がのっていますので﹂と持参された新聞を見ると︑

その御宅は岡山県知事の官舎でした︒ ④  配属先の暁部隊に着任︒

  部隊長は少佐︒ 第一中隊長は大尉︒ 私は第一中隊の指揮班長

番兵と各小隊より派遣される伝令兵五 ︑六名で構成︶ ︑他の三人

の同期生はそれぞれ第二︑第三︑第四小隊の小隊長に任命されま

した ︒︵各小隊は下士官 ︑兵の乗員六名の舟艇四杯で構成︶門司

(2)

港での出港待ちの間︑特別の出来事がありました︒

︵ア︶豊浜の幹部候補生学校からの出発に先立ち ︑隊付下士官に

依頼し︑秘かに家族に連絡して門司まで来て貰っていた父母妹

三人と別離の食事を共に出来︑今も残っている唯一の軍服姿の

写真を写真館にて撮影した事︒

︵イ︶ ﹁日向丸﹂ ︵一万二阡トン︶への部隊乗船

   同船上にて︑虎兵団各部隊長︑暁部隊長︑第一中隊長︑指揮

班長の私が出席しての︑最終的フィリピン島揚陸計画の確認会

議が終了したのは︑夜八時過ぎでした︒時間の余裕が出来たの

で︑下関山手にあると聞いていた文甲二︑七田君の実家を訪ね

ました︒下関に向かう関門連絡船で︑部隊長一行と同船してい

ましたので︑すぐの本船出港はないだろうと思いました︒七田

君の御両親から霞ケ浦海軍航空隊の幹部候補生隊に入隊した同

君の動静など拝聞しました︒七田家御家族の心からの夕食の歓

待を戴き︑又御両親より﹁息子が代りに帰って来た様な気がす

る ︒朝一番の連絡船で戻られれば良いでしょう ︒﹂と一晩の宿

泊を強く薦められました︒御言葉に甘えて︑久方振りに﹁ふん

わり﹂暖かい寝具で一夜を過ごす事が出来ました︒翌朝四時台

の一番船で︑ 岸壁に接岸中の﹁日向丸﹂に帰船したところ︑ ﹁タ

ラップ﹂は既に引き揚げられており︑船尾の縄梯子から乗船し

ました︒第一小隊長の城少尉︵十期︶と談笑を交した後︑甲板

に出たところ︑船は静かに動き出し︑周囲の海軍艦艇の乗員が

﹁帽振れ﹂で見送っていました ︒突然の出港でした ︒今から思 えば︑出港に間に合っていなかったら︑確実に軍法会議もので その後の私の運命も大きく変っていたかも知れません︒海軍艦 艇に護衛され︑十二杯の船団は陸地伝いに台湾高雄港まで南下 しました ︒同港よりは ﹁日向丸﹂ ﹁青葉山丸﹂他計四杯の高速

船団のみで︑フィリピン・ルソン島のリンガエン湾北部にある

北サンフェルナンド海岸に到着したのは︑昭和十九年十二月下

旬︑満天の星と南十字星が美しく︑くっきりと見える晴れた夜

でした︒

二  フィリピン戦線

①  北サンフェルナンド海岸にて虎兵団揚陸

  ﹁日向丸﹂ ﹁青葉山丸﹂に積載して来た舟艇十六杯にそれぞれ五十

名程の虎兵団の兵士を乗船待機させ︑私は指揮艇で単身砂海岸に着

地︒海岸の状況確認の上懐中電燈により揚陸開始の合図を送り︑船

団揚陸が始まりました︒海一杯に拡がり大きな轟音となった舟艇の

エンジン音は今でも耳についています︒夜を徹した作業で︑翌二日

目の午後には︑殆んど兵員の揚陸も終り︑上陸させた兵員は直ちに︑

奥地に向け海岸を離れました︒作業終了の舟艇を接岸させ︑砂浜の

海岸で乗員に食事︑休息をとらせていた時︑初めて︑アメリカのグ

ラマン戦闘機二機が飛来し︑機銃掃射を浴びせて来ました︒兵は椰

子林の中に逃げこみましたが︑下士官の軍曹が砂浜に舟より移設し

ていた重機関銃で応射しました︒応射された敵機は方向を変えるの

(3)

1/1頃到着 敵機の襲撃 を受ける

12/29 到着 北サンフェルナンド

リンガエン湾

グモルテス

バギオ

バレテ

サンホセ リザール

0 100km

ジラロンガン

鈴鹿峠 アリタオ ベンゲット道

パガバッグ キヤンガン

エチアゲ ボンドック

バンゲッド サロマゲ

ラオアグ

ツゲガラオ ビガン

ルブアガン

アパリ

カウアヤン マガ

ット河

トラック搬送

捕虜になり移動 トッカン

ミトラ峠 4〜5月 3月末 1/20

3月半ば アブラ河渡河

司令部 山中で終戦 8/15

鉄道でマニラの 収容所へ送られる

80km 90km

0km

ジャングル 移動6〜7月 荒木兵団、海軍部隊集結

カガ ンヤ 河

カシグラン湾

カガヤン河 パラナン湾

アブラ河

山中移動

マニラ

フィリピン海 東シナ海

山下氏行軍行程

(4)

で︑当方に被弾はありませんでした︒掃射は三回程繰り返されまし

たが︑その間接岸した舟艇上では︑伍長が舷側を平然と渡り歩きな

がら︑備品の整理をしている姿を見て︑日本軍の下士官の優秀さ︑

強さを教えられました︒恐怖心は不思議と覚えませんでした︒

  三日目の朝もまた二機の敵機が飛来し︑積載荷の武器を揚陸する

ため﹁ハッチ﹂を開けていた沖の青葉山丸の上を低空で飛び去りな

がら︑黒い二個の物体を落とし︑これが船の船倉の中に吸い込まれ

ていきました︒爆弾のはじける大きな音に続き︑積荷していた﹁タ

だん

﹂に引火し︑無数の弾が船倉内からはじけ出し︑青葉山丸の船腹

はたちまち真赤に染まり始めました︒残留していた兵員の救助に全

舟艇を当らせました︒ 船は船腹中央部附近で二個に折れ︑ 船首を高々

と空に向け ︑虎兵団の戦車 ︑野砲 ︑﹁タ弾﹂を始めとする弾薬の大

部分が︑海の中に吸い込まれた青葉山丸と共に失なわれました︒私

の見た最初で最後の船の轟沈の姿でした︒

  虎兵団揚陸終了の二日後︑暁部隊は二手に分けられ︑第三︑第四

小隊の八杯は部隊本部と共に︑サンフェルナンドに残留︒第一小隊

の四杯と指揮艇計五杯は︑ 第一中隊長の指揮の下︑ ルソン島北部 ﹁ラ

オアグ﹂地区﹁サロマゲ港﹂を目指して直ちに出港しました︒第二

小隊の四杯は︑残務終了後︑これを追尾する事になりました︒航海

途中米軍機の爆撃により沈められた数多くの船の残骸を見ながら︑

﹁サロマゲ﹂海岸に到着するには︑三日間の北上航行を要しました︒

  私達が去ってから四日後に︑今度は︑アメリカ軍の﹁リンガエン

湾﹂上陸作戦が始まりました︒後程第二小隊の四杯中二杯のみが脱 出追尾して来ましたが︑同第二小隊長に聞いた所では︑湾一杯を覆 う敵艦船の間を縫って夜間脱出したが︑六七杯迄数えた際︑あとは 判らなかった由でした︒ ②  ﹁サロマゲ﹂にて米駆逐艦艦砲射撃を受け舟艇喪失 ︑第一

小隊長城少尉戦死

  ﹁サロマゲ﹂地区は ︑南北に走る山波と ︑椰子林繁る砂海岸の間

には砂糖黍︑玉蜀黍︑タロイモ等の平坦な畑が一面に広がる︑誠に

のどかな牧歌的風景の農村地帯でした︒陸上の兵は︑山の中腹に布

陣しており︑我々は︑海岸の舟艇があるので︑海へと流れる四〜五

m 幅の川沿いにあった三軒程の竹造りの無人住宅に駐留し︑毎日海

岸の舟艇監視所に要員を派遣していました︒第二小隊合流の二日目

の朝︑城少尉と兵五︑六名が元気に監視任務に向いました︒

  ﹁サロマゲ﹂ では毎日アメリカのセスナ観測機 ︵飯盒の ﹁ガシャッ﹂

という音でも敏感に捕捉する高性能の音響探知機器を搭載︶が飛び

廻っていましたが︑その朝は海岸地区上空を旋廻していました︒城

少尉一行が監視所に到着したと思われる頃︑沖合いに真白い船体の

アメリカ駆逐艦が現われ︑艦砲射撃を開始しました︒全舟艇を破壊

され︑秀麗だった顔以外︑全身に砲撃の小さな破片を浴び︑右手首

より先を失い︑血に染まった城少尉を運んで︑監視隊員が帰着しま

した ︒城少尉は私を見て ︑﹁ やられたよ﹂と弱々しく ︑つぶやきま

した︒衛生兵もおらず︑ただ見守る以外何もしてやれないうちに︑

息を引き取りました︒最初に映った痛恨の戦友の死でした︒同少尉

(5)

は紀州勝浦の網元の子息で︑十期の慈恵医大出身の学徒兵の先輩で︑

門司出港以来ずっと行動を共にして来た大の仲良しでした︒同大学

在学中は柔道部の主将を務め︑学生柔道界の﹁三四郎﹂の異名をと

る程の偉丈夫でした︒

  海岸地区への砲撃が済むと︑今度は我々の駐留宿舎附近へと砲撃

が始まりました︒約二 ㎞ 程離れた山手の砂糖黍畑まで川沿いに走っ

て逃げ込むまで︑すさまじい艦砲射撃に追いかけられました︒舟艇

を喪失してからは ︑毎日飛来するグラマン機や ︑﹁キーン﹂と独特

の爆音をひびかせる P

38の機銃掃射を避けて︑

山麓近くの竹林の ﹁ド

ーム﹂や︑堀割り等を転々と移動する以外は比較的のんびりした時

期でした︒

③  ﹁サロマゲ﹂より﹁ボントック﹂戦線へ

  昭和十九年二月頃︑ フィリピン島北部に展開していた荒木兵団 ︵東

北山形県地方出身者を主体とした歩兵連隊︶を中核として︑海より

陸上生活となっていた海軍部隊︑暁部隊等全部隊が︑動けない傷病

兵は現地に放置したまま南部ボントックに移動する事になりました︒

この時︑私は暁部隊より荒木兵団部隊付将校として転属を命じられ

ました︒多分私が大村で歩兵として一期の訓練を受けていたためと

思われます︒

  ﹃ラロアグ︱パオアイ︱バタック︱カブガオ︱ビガン︱バンゲッ

ド﹄ と空襲を避けて夜行軍のみで南下しました︒ バンゲッドから ﹁ア

ブラ河﹂沿いに走るフィリピン島北部の脊梁山脈の山々を﹁フィリ ピン軍ゲリラ﹂部隊を排除しながら尾根伝いに南下し︑ ﹁アブラ河﹂

を渡河して︑棚田で有名な﹁イゴロット族﹂のライステラスを経て︑

ボントック周辺の山岳地帯の陣地に到着したのは︑三月末か四月初

旬の頃だったと思います︒

  この頃には戦況が非常に悪化し ︑﹁ ボントック﹂でもアメリカ軍

空輸に支援され︑武器や物資を豊富に持ったフィリピン軍と対峙し

ておりました︒到着した夜も︑澄み切った夜空に南十字星をはじめ︑

無数の星が美しくきらめく空に重機関銃の曳光弾が激しく交差する

夜間戦闘の最中でした︒従来からの守備隊に代って︑荒木兵団が此

の地区の戦闘を担当する事になりました︒私はボントック駐留にな

った荒木兵団︑更に南下を続ける事になった今まで同行してきた海

軍部隊︑暁部隊とも分かれ︑単身第十四方面軍虎兵団下のトッカン

地区にいた永田大尉の中隊に配属となり︑ボントックを離れて南下

しました︒

  さて ︑﹁サロマゲ﹂より ﹁ボントック﹂までの南下行軍や

間程滞在したボントック陣地で︑心に深く刻まれた出来事がありま

した︒ ︵ア︶荒木兵団にも ︑美術学校出身の学徒兵の見習士官が一人い

ました ︒南下行軍中 ︑﹁ ゲリラ﹂を排除した後の休息時にも常

に小さな紙切れに鉛筆で風景のスケッチをしていた事を思い出

します︒

︵イ︶フィリピン島脊梁山脈を南下中 ︑五葉の松林で休息を取っ

ていた時︑幾つもの峰々がこれでもかこれでもかと云う感じで

(6)

圧するように連なっているのを眺め︑この行軍が永遠に続き︑

この山中で死を迎えねばならないとすれば︑何とも口惜しい思

いの無情感に打たれました︒

︵ウ︶ ﹁アブラ河﹂の渡河地点まで︑河沿いに延々と続く葛折りの

岩壁に出来ている幅四十 ㎝ 程の﹁けもの道﹂を一列になって通

過していた夜行軍の際︑行進前方の橋を落とされ︑五分置きく

らいに敵砲弾が炸裂する地点を︑合間を縫って通過せざるを得

なくなり︑二十〜三十 m 程の断崖の中腹で︑通過順番待ちをし

ていた時︑滝のように上から落ちて来る雨に打たれながら連日

の夜行軍の疲労のあまり︑立ったままで寝た辛さも思い出され

ます︒

︵エ︶五高文甲二︑加田君との果し得なかった再会

   一週間ほど滞在した︑ボントック市街を見下ろす山腹陣地に

いた頃︑ 冷無田 ︵ヒヤムタ︶ 軍医中尉の訪問を受けました︒ 偶々

訪ねて来た荒木兵団の医官から︑私が五高出身の学徒兵である

事を聞き︑立寄ってくれたのだそうでした︒同中尉は﹁隣の守

備陣地に五高出身の加田という見習士官が居るが︑知っている

か?﹂と質問あり︑ ﹁加田君なら同級生で︑ 馬術部で一緒だった︒

良く知っている ︒﹂と返答 ︒同中尉は ﹁では ︑二日後に一緒に

加田君の陣地を訪ねよう ︒﹂と約束して ︑本部に帰られました ︒

又その際の会話の中で︑ 私が南下前﹁サロマゲ﹂で﹁デング熱﹂

にかかり︑かなりに体力を消耗している事を知り︑同中尉は腰

の周りにぶら下げて持ち歩いていた﹁にんにく﹂の束の半分程 を与えてくれました ︒﹁一日に一個 ︑焼いて食べれば ︑体力は

回復するから﹂と云い置いて去られましたが︑これが︑私が後

程味わう事になった ︑﹁ジャングル﹂生活時の飢餓にも耐えて

命を永らえさせてくれた要因となったと感謝しています︒

   さて︑加田君に会いに行く予定日を過ぎた次の日︑部隊医務

官より冷無田中尉よりの伝言として︑ ﹁会いに行く予定日の前夜︑

加田君は偵察隊を率いて出掛けたが︑途中敵のパトロール隊と

遭遇し ︑射ち合いの中で戦死した ︒﹂と知らされました ︒運命

の悪戯とは申せ︑適わなかった再会は残念至極でした︒そして

一両日後︑私も新配属先に向け︑荒木兵団を離れました︒加田

君の属していた部隊名は判りませんが﹁ボントック旧守備隊﹂

所属ではなかったかと思われます︒

④﹁ミトラ峠﹂周辺の戦闘

  トッカン附近で再編成を終えた永田大尉指揮の虎兵団の歩兵中隊

は︑西海岸から﹁バギオ/ボントック街道﹂の九十六 ㎞ ︵ バギオか

らの距離︶地点に達する山岳道路を進攻して来る敵に対し︑千〜千

二百 m 標高の最高地点にある﹁ミトラ峠﹂附近で︑その東進を阻む

事となり︑三層の陣地を構築して布陣しました︒第一線は峠より二

㎞ 程西海岸方面に下った所にあった︑長く前方に突き出た幅五百

程の牧場の突端附近にあった丸石を積んで三十〜四十 ㎝ 高さの横一

面に続く仕切り石垣の線で︑左端は谷底へ︑右端はくねくねと牧場

の形に沿って登って来る山岳道路に接していました︒第二線は中隊

(7)

長壕のある牧場中央より︑峠に登った木立の中とし︑最後は︑急峻

の道が達する山脈頂上の﹁ミトラ峠﹂で迎え撃つ三重の防御陣地で

した ︒﹁ ミトラ峠﹂と九十六 ㎞ 地点との中間にあった三 ︑四軒の家

屋を野戦病院とし︑峠の頂上道に接する右側の崖台上に﹁蛸つぼ﹂

塹壕︑退避横穴等の陣地を構築しました︒この虎兵団の現役部隊に

は︑九州出身者が多く︑前の荒木兵団に較べて言葉のなごみ︑俊敏

な動作には頼もしい信頼感を覚えました︒

  この頃︑来襲して来るアメリカ軍の進攻パターンは第一線にフィ

リピン軍︑その二百 m 程後方にアメリカ兵︑更にその後方に砲兵部

隊を配置し︑常に先ず一個小隊程の兵員のパトロール隊が馬蹄型に

散開し︑自己の受持つ各個の進行方向にある﹁ブッシュ﹂や木立に

向けて︑腰だめにした﹁カービン銃﹂をパラパラと発射しながら進

んで来ます︒当方より一発でも応射すると︑百発の弾丸をお返しし︑

﹁サッ ﹂と後退して行く ︒その後 ︑後方にある砲兵陣地より雨霰と

砲弾を浴びせ︑進行方向一面を赤土の畠と化してしまう︒アメリカ

兵は本国の生活と同じく︑朝は午前八時半頃より︑午後五時迄が戦

闘勤務で︑夜間は幕舎を張り宿営していました︒パトロール隊が前

進して来た地点まで︑直ぐに﹁ブルドーザー﹂で道を造り︑食堂車

で夕食を運び︑トラック隊で武器︑物資が補給されました︒

  これに対し︑我が軍は上陸以来一切の補給を受けた事がなく︑食

糧は現地調達︑ 野生の植物等にて︑ 飢えをしのいで来ましたが︑ ﹁夜

間斬り込み﹂にて敵陣を襲い︑後方に退避した敵兵の残した武器︑

装備︑食糧を持ち帰って補充するのが精一杯でした︒しかし︑この ﹁斬り込み﹂作戦もアメリカ軍が戦車を投入した新しい進攻パター ンに切り換えてからは︑すっかり封じられてしまいました︒   この新しい進攻パターンは︑先ず三台の戦車を先頭に︑戦車砲や 機銃によって︑木立や﹁ブッシュ﹂を取り除き︑パトロール隊が続 く ︒一日の戦闘勤務が終了すると ︑﹁サッ ﹂と百〜二百 m 程後退し

戦車三台をそれぞれ︑山形の三方向に停め︑その前面には︑輪状の

鉄条網を張り巡らし︑パトロール隊は戦車の後方に幕舎を張り︑そ

の後ろにトラック隊を集めて並べ︑一晩中ライトで前方を照らし出

し︑パトロール隊の歩哨は︑それぞれの方向に向けて五分置き位に

小銃を発射する︒もう夜間の﹁斬り込み﹂は不可能となりました︒

私は第一線牧場石垣に布陣した敵への﹁夜間斬り込み﹂に始まり︑

最激戦となった﹁ミトラ峠﹂の戦闘を経て︑更にボントック街道を

はさんだ二ヶ所の﹁ジャングル﹂地帯での戦いまで︑計四回に及ぶ

実戦に臨みました︒

︵ア︶第一線牧場石垣の線に布陣した敵への﹁夜間斬り込み﹂

  牧場石垣の線に達した敵に対し﹁夜間斬り込み﹂を決行する事が

決まり︑中隊長より四組の隊を編成するよう命令を受けました︒私

と上等兵一名の組は谷側の左の石垣︑他の下士官︑兵一名よりなる

三組は山岳道路方面の右側とそれぞれ攻撃目標を決め︑身に付いた

全装備をはずし︑剣や刀のみ音を防ぐため布でくるみ︑腰の周りに

それぞれ︑三発程の手榴弾を付けて出発しました︒

  私の組が石垣の手前四十 m 位に達した時︑一番右端の組の方向か

(8)

ら﹁万才﹂と叫ぶ喚声が上り︑続いて石垣全線の敵から猛烈な反撃

射撃が一斉に始まりました︒私と上等兵は夢中で石垣まで走り寄り︑

谷方向へ足を向け︑石垣沿いに寝転がりました︒石垣の向う側の敵

は︑何やら上ずった高い叫び声をあげながら︑空に向けて︑盲打ち

の射撃を始めました︒突然私の鉄帽上方の石垣の隙間から差し出さ

れた銃口から火が吹き出し︑私は頭を上げる事が出来ませんでした︒

手榴弾と思われる黒い物体が私の足下に投げ込まれました︒今に爆

発するぞと覚悟しましたが︑爆発音は響きませんでした︒後程知っ

たのですが︑私の後に伏せていた上等兵がこれを谷底に蹴落してく

れたそうです︒

  腹這った私の鉄帽の上で火をはく銃口の熱で頭部が熱くなったの

で︑ 右手の軍刀を地面に沿って︑ 石垣の隙間から突き入れました︒ ﹁ギ

ャー﹂という叫び声が上って︑頭上の銃火は止みました︒敵陣から

の銃声もまばらとなり︑無音の夜の世界に戻りましたが︑どれ程の

時間が経っていたのか判りません︒ともかく敵射撃の死角となる右

翼の曲った山道まで走り抜けようと起き上り︑逃げた敵の残した雑

嚢と﹁カービン銃﹂をつかみ︑一気に走りました︒上等兵も雑嚢を

つかんでいました︒途中︑右翼方面に向かった兵が一人加わり︑三

人共死角の山道の大きな凹地に飛び込みましたが︑安心と疲労でく

たくたの状態でした︒

  石垣より二百 m 程離れた地点より︑退避した敵の猛烈な射撃が再

開し︑銃弾が頭上の空を飛び去って行きました︒路傍に植えられて

いた二〜三本の﹁トウモロコシ﹂の実を取って喉を潤おしましたが︑ この世で一番美味だったと思います︒途中から加わった兵は︑肩に 貫通銃創を受けていましたので布で止血し︑小休止しました︒何時 の間にか三人共眠ってしまっていました︒私がまどろんだ夢の中で 現れた母の大きな顔にぱっと起こされた時には夜明け前の薄明かり が差し込み始めた頃でした︒銃声は途絶えていました︒   陣地に帰着し︑中隊長への報告も終え︑昨夜出発した第二線の木 立の中で休息し︑負傷した兵は︑後方の野戦病院に向かわせました︒ この﹁斬り込み﹂では︑計三名の戦死者が出ました︒陽が昇ると共 に例の通り︑猛烈な敵の砲撃が始まり︑中隊長の塹壕は直撃弾で破 壊され︑永田大尉は戦死されました︒次々と赤土の畠と化していく 眼下の牧場を見下しながら︑何も出来ない無力感を覚えました︒ ︵イ︶ ﹁ミトラ峠﹂の戦い

  最終防衛線の﹁ミトラ峠﹂附近では︑一日の昼過ぎから必ず薄い

霧が立ち込み始め︑午後三時以降は︑一寸先も見えぬほどの濃霧に

覆われました︒従ってあの嫌なセスナ機は午前中のみ飛来してきま

したが︑或る日︑超低空で峠上空を横切った中型輸送機の開放され

た ﹁ ドア﹂口から ︑﹁ラフ﹂な格好をしたアメリカ人女性が陣地を

見下して飛び去りました︒戦場観戦にでも来たのでしょうか︒制空

権なき戦いの惨めさを痛感させられました︒私は毎日︑セスナ機と

砲撃の合間を縫って︑退避横穴壕から山頂の陣地に到り︑眼下にひ

ろがる破壊された牧場跡まで進攻して来た敵の動静偵察をするのが

日課でした︒牧場への砲撃後一週間程は更に敵進攻の気配は見受け

(9)

られませんでした︒敵も補給が追い付かず︑再整備していたのでし ょう︒   霧のかからぬ或る日の午前中︑偵察の為︑頂上の陣地に登った時︑

突然今までの野砲の砲声と違う﹁ヒューン﹂という音と共に上空よ

り飛来する迫撃砲の集中砲火を浴びました︒咄嗟に﹁蛸つぼ﹂に飛

び込みましたが︑壕端の土はふっとび︑爆風で私の聴覚は失われま

した︒迫撃砲の射程距離から考えて︑敵は二百〜三百 m 以内まで迫

って来ていると思われましたので︑警戒するよう部下に伝え︑横穴

に戻りました︒やがて全体の聴覚は元に戻りましたが︑左耳の鼓膜

は失われました︒私の陣地につづく右手上方の山腹に野砲二門の砲

兵陣地がありましたが︑砲弾の手持ちは五発しかないので緊急事態

にならぬ限り発射しないと聞いていました︒

  敵の迫撃砲射撃から二日程経った午前中︑突然右上方より味方の

心強い野砲の重厚な連続砲撃の砲声が響きました︒砲撃終了後︑砲

兵中尉が独り︑私の陣地に来訪合流されました︒同中尉によれば︑

牧場の敵戦車が動き始めたので︑これを阻止するため︑砲撃し弾を

撃ち尽した後︑砲を破壊︑兵は後方に退避させ︑独り私の陣地に来

たとの事でした︒

  それから案の定︑敵野砲の集中砲撃が始まり︑右手の砲兵陣地の

山肌は完全な赤土の畠と化しました︒午後になり︑いつものように︑

峠に薄い霧が立ち込め始めた頃︑山頂の歩哨の﹁敵襲﹂の声に︑全

員一斉に︑山頂の塹壕陣地に入りました︒あらゆる方向から弾丸が

飛来しました︒ 私は地上戦は初めてで︑ 恐怖心から壕に入っても中々 頭を出す事が出来ませんでした︒私の右側に砲兵中尉︑その更に右 に軍曹がいました︒   実戦経験のある軍曹が﹁遠い︑近い﹂と弾丸音で教えてくれた声 に励まされて︑頭を上げる事が出来ました︒飛び交う弾丸音により 危険度を判別する技を瞬時に学びました︒   大部分が ﹁ヒューン﹂ と云 う頭上を跳び超えて行く弾︒ ﹁ビューン﹂

﹁ダッ ﹂﹁パッ ﹂﹁チュン﹂という比較的短かい音は一 m から三十

程離れた範囲に飛来する弾︒ ﹁ピッ︑ピッ﹂ ﹁ピチュ︑ピチュ﹂と極

端に短い︑するどい音は頬をかすめる程に近く飛び去る弾でした︒

よく﹁弾が雨霰﹂という表現を聞いていましたが︑実際には﹁弾が

板の様になって襲いかかる﹂という感覚でした︒

  最も右手の軍曹が重機関銃を塹壕の上に据え︑中尉が双眼鏡を眼

に当て ︑﹁ 見えないなあ ︑見えないなあ﹂と言いながら ︑ひょいと

首を更に上げた一瞬でした︒中尉は喉を撃ち抜かれて即死︑同時に

機関銃の引き金に手を掛けていた軍曹は銃もろとも︑右手首に被弾︑

銃も使用出来なくなりました︒

  それから︑どの位の時間が経ったのか覚えていませんが︑私も前

の ﹁ 斬り込み﹂時に分捕って来た ﹁カービン銃﹂ ﹁拳銃﹂を撃ち尽

くしましたが︑十 m 程迄迫った敵が横に走り︑その手の火をはく銃

口が霧に包まれた影絵の様に見えました︒弾がないので︑小石を拾

って投げると︑一瞬﹁ヒョイ﹂と首を伏せる︒また射って来る︒本

当に︑これは﹁子供の喧嘩﹂をスローモーションで見ていたような

感覚が残っています︒敵兵は︑それ以上接近せず︑撤退した模様で

(10)

した︒中尉と軍曹以外︑死傷者は出ませんでしたが︑皆殆んど弾を

撃ち尽していました︒

  三時頃から濃く立ち込めて来た霧が︑どれ程有難かった事か︒予

め決めていた通り︑霧にまぎれて兵を峠道の反対側に広がる広大な

高原牧場の中の石垣の影まで退避させました︒今までの峠の陣地を

右上方に見上げる百 m 程離れた草原の中の石垣沿いに︑再び散兵線

を作り︑兵を休息させました︒当初二ヶ分隊二十名程の兵力でした

が︑負傷の他︑一部の兵は脱出の際︑隊を離脱したものと思われ︑

伍長を中心とした十二〜十三名に減少していました︒

  伍長の分隊の中に︑熊本県天草出身で︑幼くして母を亡くし︑一

人で育ててくれた父親と小舟で漁業生活をしていた金田という十九

才の少年兵がいました︒非常に気の小さい︑優しい性格の痩せた小

柄な少年でした︒戦場離脱もせず︑石垣の影で︑極度の恐怖心を︑

じっと耐えながら︑じっと︑うつむいて休息している彼を見て︑何

ともいえぬ安心感と嬉しさを感じ︑私も彼の脇に座り︑顔を拭おう

と軍服の左ポケットから手拭いを取り出すと︑布は半分程ボロボロ

に焼け焦げ︑その中から︑先のつぶれた小銃の弾丸が一個ころりと

落ちました︒改めて体を調べて見ると︑左上腕の内側に血の固まっ

た斜めに走る三 ㎝ 長程の浅い擦過傷を受けていました︒弾は︑腰の

刀帯金具を半分程削り取り︑左ポケットの手拭いの中で止まった事

が判りました︒更に門司出港時︑ 母が持参してくれた﹁成田不動尊﹂

の木のお守りが半分に割れていました︒身代りになってくれたのか

と不思議な思いでした︒   それから︑永田大尉に替わり︑中隊の指揮を取っていた後方陣地 の横田中尉と連絡が取れ︑ボントック街道までだらだらと下る草原 の先にある木立まで脱出命令を受けました ︒﹁ ミトラ峠﹂の放棄し

た陣地一帯は︑間もなく始まった例の敵野砲による集中砲火を浴び

て︑丸裸となりました︒又続いて︑脱出方向三〇〇 m 程後方にも︑

脱出阻止の砲火が横一線に浴びせられ始めました︒霧を利用し︑右

翼より砲火の間を縫って全員脱出させました︒木立の線まで到着す

ると︑私達の左翼につらなる峰々に布陣していた海軍部隊︑暁部隊︑

虎兵団の残存部隊等の全部隊が既に撤収して来ておりました︒ ﹃﹁

トラ峠﹂を死守せよ﹄との当初命令の下に︑置き去りにされていた

事を知りました︒過酷で永かった戦闘は終わり︑中隊には五十〜六

十名程の兵が生き残りました︒

︵ウ︶ボントック街道を挟む﹁ジャングル﹂の戦い

  ﹁ミトラ峠﹂の次に布陣したのは ︑街道西側の ﹁ジャングル﹂地

帯でした︒夜間︑遠くに︑あの﹁ミトラ峠﹂を望むと︑煌々とライ

トを照らして︑絶え間なく峠を越えて来るトラックの車列を眺め︑

今更ながらアメリカ軍の物量のすごさに感じ入りました︒ 新しい ﹁ジ

ャングル﹂陣地に敵パトロール隊が来襲して来たのは一度だけでし

た︒今までの進攻パターンとは異なり︑十名程で秘かに忍び寄って

来ました︒歩哨の報告を受け︑塹壕陣地で待受けていた時︑突然右

後方奥地から ︑﹁山下見習士官 ︑山下見習士官﹂と不用意に声を上

げながら出て来た木下見習医官が︑直ちに反応した敵銃火に倒され

(11)

ました︒実戦経験のない医官の悲しさ︒これも運命でしょうか︒

  敵パトロール隊は直ちに撤収しました︒我が方の第一線を確認に

来たのでしょう ︒﹁ジャングル﹂地区には ︑セスナ機の飛来や ︑野

砲の砲撃は殆んど無くなりましたが︑今度は新たに飢餓や風土病と

の闘いが始まりました ︒﹁夜間斬り込み﹂等で得ていたアメリカ軍

支給物資は途絶え︑野草や茸等が食糧となりました︒一年中じめじ

めと湿った木立ち︑雨︑蛭等の害虫︑手足腹部等に生じ︑化膿が治

癒した後も︑紫色の斑点が残る南方潰瘍︒又︑化膿した傷口にたか

る蛆虫やマラリア等の熱帯病魔や飢餓との闘いに敗れて︑倒れて行

くものが続出しました︒飢餓状態の中︑体は骨ばかりに痩せ細りま

すが︑それでも死にません︒腹部が異常に大きく膨らみ︑眼の焦点

が合わなくなると︑三日位の内に必ず死んで行きました︒

︵エ︶最後の﹁ジャングル﹂戦と終戦

  第十四方面軍は﹁キャンガン﹂山中に司令部を移し︑深い谷を隔

ててこれを取り囲む山脈に全残存部隊を結集させ︑最終防御陣地に

布陣する事になりました︒我々﹁ミトラ峠﹂残存部隊も︑台湾の高

砂族の兵を先頭に︑密林を切り開き︑各所に徘徊中の兵を吸収しな

がら︑木立に覆われた山脈の一角の頂上まで移動しました︒この山

頂の平坦地に最後の自分の墓兼防御陣地となる﹁蛸つぼ﹂をそれぞ

れ掘りました︒ここでも私は︑頂上陣地より二百 m 程前方に街道方

面に突き出た突角地に︑兵二ヶ分隊を率いて布陣させられました︒

  突角地先端附近に歩哨陣地と︑その三十 m 程後方に散兵壕を設け︑ 第一分隊の近くに私の壕も設けました︒第一分隊︑第二分隊をそれ ぞれ一日交代で歩哨任務につかせ︑偵察任務に就いていない兵には︑ 極力食べられる野草や茸採りに当らせました︒突角地帯は周囲三方 が三十 m 程の谷底に落ち込んでいましたが︑私は毎朝の歩哨交代の

報告を受けた後︑敵側谷底まで下りて︑頭上の敵陣の状況偵察を行

い︑夜は散兵している兵の壕を巡り︑各兵の安否を確かめました︒

  食事時には︑私の当番兵で︑北朝鮮出身の上等兵の志願兵と彼の

﹁キムチ﹂話とか ︑美味しかった食べ物などの話しを聞いたり

較的に平穏な日々が続いていました︒敵陣は谷を越えた高い台上に

﹁斬り込み﹂防止の輪状の鉄条網を巡らし ︑大きな幕舎のキャンプ

を構築し︑当方と向き合う谷への傾斜地には小さな歩哨幕舎と︑大

きな二ヶ組の﹁スピーカー﹂を据え付け︑日本語で降伏を呼び掛け

る放送を仕始め︑もう更に進攻して来る気配はありませんでした︒

飛行機の襲来も時々降伏勧告の﹁チラシ﹂を撒く位で︑砲撃も思い

出した様に︑無方向に撃ち込んで来る程でした︒

  昭和二十年八月十五日︑伍長と兵二名が朝六時からの歩哨任務に

就いてから︑ 一時間程経った頃でしょうか︒ 伝令兵が戻って来て

隊長殿︑今朝は今迄と違って︑女の笑い声等混じえて︑大騒ぎして

います︒ ﹂と報告しました︒早速私は︑ 何時もの通り︑ 偵 察に出かけ︑

谷底から少し敵側斜面に登った時でした︒頭上の﹁スピーカー﹂か

ら放送が始まりました ︒﹁本日 ︑大日本帝国は ︑ガガガガー無条件

降伏⁝ガガガガー⁝︑従って本日正午をもって︑砲撃を中止しま⁝

ガガガガー︒降伏状を持って︑九十六 ㎞ キャンプに来て⁝ガガガガ

(12)

ー⁝﹂と雑音の混った放送でしたので︑いつもの降伏呼び掛け放送

だなと思い︑帰陣しました︒

  その日も朝から乱砲撃が始められ︑午後には珍らしく︑烈しい砲

火を浴びせ掛けてきました︒午後二時頃になって︑ 砲撃は﹁ピタリ﹂

と停止されましたが︑この朝の砲撃で︑食糧集めに出ていた関西出

身の第二分隊長が運悪く戦死しました︒最終陣地での最後の戦死者

でした︒それからは︑停止した砲声は響く事なく︑静穏な時間が過

ぎました︒

  敵スピーカー放送二日目︑八月十七日朝︑中隊本部よりの伝令が

来て ︑﹁八月十五日 ︑我が国は無条件降伏し ︑戦闘は停止になった ︒

兵を率いて山上の中隊陣地まで撤退して来い﹂との命令を伝えまし

た︒最後の戦死者となった軍曹を除き︑全兵山頂陣地に引き揚げ︑

もう何の命を脅かす危険も無くなったと大きな安心感を覚えながら︑

大地に転がって休息しました︒

  さて︑中隊長の横田中尉が︑第十四方面軍司令部員と共にボント

ック街道八十 ㎞ 附近の米軍キャンプに赴き︑武装解除︑集合地への

部隊移動等の打合せを終って︑帰陣して来たのは八月十九日の夕刻

頃だったと思います︒同中尉に呼ばれ︑中隊長壕を訪れると︑中尉

は将校カバンから︑径十五 ㎝ 高さ二十 ㎝ 程のキラキラ光る米軍の中

型缶詰を取り出し︑ 軍刀で開缶しました︒それには真白な﹁ラード﹂

が一杯詰っていました︒二人共夢中で夫々の四本の指で︑この美味

な油を喰べ尽してから暫くすると︑細った体の全体の毛穴からじゅ

っと油が吹き出し︑久し振りに満腹感を覚えました︒   翌日から︑武器︑刀剣全てを集め︑壊して穴に埋めました︒スコ ールに濡れながら指定集合地に到着すると︑直ぐに将校と下士官兵 に分けられ︑夫々の幕舎に入れられました︒私は兵の部に仕分けら れました︒次々と各所から集合して来た部隊がトラックで移動され て行きました︒幕舎に集められた約二百名程の﹁ミトラ峠﹂方面の 戦闘に従事した下士官兵は︑九十六 ㎞ 地点より﹁ミトラ峠﹂を通り︑

西海岸へと通じる旧戦場の山岳道路を﹁アブラ河﹂を渡河するまで

行軍させられる事になりました︒他の部隊が﹁トラック﹂で運ばれ

るのに直接銃火を交えた我々のみが行軍させられたのは︑当面の敵

に対する米軍の見せしめだったのでしょうか?食糧だけは︑米軍戦

闘食の﹁レーション﹂を与えられましたが︑痩せ細った体力を振り

しぼり︑灼熱の太陽の下︑辛い行軍でした︒

  九十六 ㎞ 地点より山岳道路に入ってからの休息時︑一緒に全戦線

で行動を共にして来た伍長から﹁金田が駄目なようです︒直ぐに来

て下さい﹂と連絡を受け︑隊の後部附近に駆けつけると︑強い日射

しに白々と照り映えた土道の路肩に金田は寝せられ︑一人の戦友が

自分の上衣を脱いで金田を熱い太陽の光からさえぎって︑かざして

やり ︑伍長は飯盒に小石を入れ ︑金田の耳元に座り ︑﹁カラカラ﹂

と音を立てて ︑﹁ ほら ︑白い御飯が焚けたぞ﹂と涙を流しながら声

を掛けていました︒寝せられた金田少年兵は︑飢餓生活で痛々しく

骨ばかりに痩せ衰え︑腹は異常に膨れ上り︑手足のあちこちに南方

潰瘍が化膿し︑荒い息づかいに喘いでいました︒突然金田が右手首

を立て︑ゆっくりと上下に振り︑にこっと笑みを浮べて息を引き取

(13)

りました︒多分最後に父親と一緒に魚釣りをしていた夢を見ながら

絶命したのだと思います︒ずっと一緒だった五人程の戦友が一斉に

号泣しました︒可哀想だった少年兵金田の死を思い出す毎に︑未だ

に悲しくて涙が流れます︒

  ﹁アブラ河﹂迄の行軍中 ︑諸所に作られたフィリピン軍やアメリ

カ軍の﹁キャンプ﹂前を通過する時には︑道の両側迄飛び出て来た

アメリカ・フィリピン兵達の烈しい憎しみの罵声を浴びせられまし

た︒護送していた兵隊が阻止して呉れたので実際の身体への危害は

受けませんでした︒憎しみが強かったのは︑我々が直接銃火を交え

た敵だった事に加え︑大なり小なり︑米軍装備を身に付けていた為

でしょう︒

  ﹁アブラ河﹂ 渡河では十人前後が河に流され死亡したと聞きました︒

アブラ河西岸附近に到着してから︑ ﹁トラック﹂ ︑﹁貨車﹂と乗り継ぎ︑

マニラ近郊の﹁リプレイシングキャンプ﹂で︑又仕分けられ︑私は

山下大将と同じ名字という事で﹁戦犯未決キャンプ﹂に入れられま

した︒調査の結果︑クリアーとなり︑昭和二十一年十一月二十九日︑

最後のリバティー船で名古屋港に帰国する迄の期間︑四度﹁キャン

プ﹂を転々と移動させられました︒

  故郷︑九州の呼子へのバス始発の停留所で︑呼子の知り合いの女

性に会い︑私の兄も中国戦線から帰還し︑家族全員無事なる事を聴

き︑大きな安堵感にひたることが出来ました︒故郷の呼子にバスが

着き︑あの女性からの電話連絡で待っていた両親のはじけるような

笑顔に迎えられた時︑私の長い戦争生活が終りました︒ 三  戦い果てて想う事

①  死生感

  フィリピン島の戦場で﹁生き抜いた﹂体験より得た私の死生観は

要約しますと次の通りです︒

  ﹁人類太古の昔より ︑現し身の世界とは別に ︑魂の生命の大河が

流れ続けている︒そしてこの流れの中で特別な素子の結び付きによ

って︑特別の個が生じ︑現し身を借りて夫々の生命の光を強く︑又

は弱く︑長く又は短く︑それなりに最高に輝いた後︑再び元の大河

に戻って行く︒現し身は必ず消え行く定めにあるが︑生命の光は永

遠に消える事はない︒

  さすれば︑現し身の世界と永遠の生命との関わりにおいて﹃生き

ている﹄と云う現象はどういう事になるのだろうか︒現し身は消滅

しても︑魂の生は現し世で関わった人々の心の中に﹁宿借り﹂して

生き続ける︒

  関わりの人々の記憶が順次失なわれるにつれ︑個の魂の生も少し

ずつ消滅し︑遂には終焉の死を迎え︑特別の個は無数の素子に帰り︑

元の生命の大河の中で流れ去って行く﹂

②  フィリピン・ルソン島で戦没された方々

  五高昭和十七年三月卒多田先輩よりの書状によって六名の同窓の

方々が同じ比島ルソン島北部地帯で戦没されており︑その御尊名を

(14)

知りました︒ ︵敬称略︶

    昭和十七年三月      文甲三   山下貞二     昭和十七年三月      文甲二   井上泰祐     昭和十七年九月      文甲三   井上宏     昭和十七年九月      文乙    後藤三郎     昭和十七年四月入学    文甲二   加田勉   ︿私と同期﹀

    昭和十六年      文乙    深牧寛   ︿レイテ作戦にて戦死﹀

  戦没された方々の戦場と私が死闘した場所とは﹃バギオ/ボント

ック街道﹄の南と北に分かれていますが ︑﹁南のパレテ峠﹂と ﹁北

のミトラ峠﹂の激戦の様相は同じようではなかったかと思います︒

さすれば先輩諸氏の御遺体は灼熱の路傍に打ち捨てられる事なく︑

恐らく︑米軍の弔い砲撃の下︑空中高く散華されているに違いない

と思います︒せめてもの祈りです︒同じ龍南で学んだ同窓の方々︑

夫々に抱いた夢と人生を若い青春と共に奪い去られ︑その思いを語

るに語られぬ方々の無念さがひしひしと感じられます︒

  非情な運命の手のままに︑片や魂の生へと道をたどった諸先輩︑

それとは別に幸運にも第二の人生を手にした私︑夫々に別れた道を

たどった定めは不条理です︒しかし︑帰らぬ世界へと旅立たれた同

窓の方々の魂は︑龍南武夫原の上空に帰り︑寮歌に乱舞し︑束の間

の青春を共にした掛替えのない友人達の心の中に︑今尚生き続けら

れていると思います︒

  ﹃旅人よ ︑行きてラケダイモンの人々に告げよ ︑我等祖国のため 此処に眠ると﹄   戦後六十五年間︑家族︑妻子にも語らず胸深く封印して来た﹃忘 却の彼方の追憶﹄を初めて手記の形で拙文に綴り︑これでやっと生 き残った旅人の責務を果たせるかと思います︒   ﹃友よ︑安らかに眠り給え﹄ ︿註﹀

﹁追憶﹂を呼び戻す中で人名とか月日がどうしてもクリアーに蘇りません

でした︒その原因を考えますと︑

①  異常且つ不条理な人間生存の限界に追い詰められた期間は﹁生存﹂の一

点だけに集中して︑本能的行動をするだけで︑人間性に基づく︑理性︑感

情︑記憶︑思考全ての心の働きは停止状態にあったからだと思います︒

②  次に今尚具体的な氏名は他の諸々の辛い思いに結び付いており︑思い出

せば︑耐忍限度を超えて︑自分の心がボロボロに崩壊して行くのではない

かと云う恐怖に対する防御本能が働いている故でしょうか︒ 今だに私の

ラウマ﹂です︒

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