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日本佛教學協會年報 第14号(全)

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第十四披

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昭 和 十 六 年 度

日本悌教準協合年報第十四披

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我困に於ける排偽思想:・・・・・

脚上ば何け城見道論の展開・

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・ ・ 花

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胎臓昆茶羅の原始形態としての大悲胎藤生長茶羅::::鈴

西

e杢三P 万三

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I¥. I¥. 丘

I¥. 二一五

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起信論に於げる真如の理解

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﹁本来﹂の悌敢哲皐的基礎

1

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今日一般に働教の皐問と呼ばれるものは、その部門が多岐であり・方法も多種多様であることは詰に再言するまで もたいが.凡てとれら伸教の畢聞は吾五日がそのものを主躍とするととによって吾吾白からが甫めて寵に漉刺と活かさ れうる如きものを費する最勝の道を事ぶととに朝宗さるべきであると考へられる。もし斯くの如き壌の態度を措いて ほかに悌教の撃問の意義、目的が存すると考へられるたらぽかかる悌教の事聞はむしろ無くて憾み友をものといはね ぽならぬ。いま弦に取上げようとする起信論はかういふ吾五口の切賓た欲求に醸へて著された論書の一つであるといふ と と が で き る と 思 ふ 。 ととるで吾吾が本論の叙述を諌んでゆく場合にとのままの叙述では理解されゑいといふととがある。原著者や輔謀 者と同時代の人人に限って容易に理解されてゐたととが今日の吾吾には理解されたいといふとともありうるであらう し、嘗時の人人にとってばかりで友く現在の吾吾にとっても嘗然理解さるべき筈のととが吾吾の理解の方法如何によ って理解されたいといふとともありうるであらう。いづれにしても吾吾が本論を理解するにはその鍛趨七包もう一度解

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揮し直さねぽ理解されないわけである。古来さういふ目的のもとに生れたものがいはゆる註揮で あ った。註躍とは原 意の理解者が護教的意聞にもとづき時代的含蓄を以て解 躍 し直したものにほかならぬ。わけでも印度哲製諸波の経や 悌載の諸種の理論書はいはゆるスlトラ慢とか﹁偶﹂とかの寸鎖的表現を用ゐ、もと 備 忘 録 の 如き性質のものであっ たから後代の論家にとっては註 障を無視 しては理解の 手 係りが全くたいといってもよい。註躍を侠た守して原 意を理 解するととの困難はもとよりいふ迄もないととであり・樺威ある詰輝 書の慣存 が後昆の啓蒙に費し来った勲韻は蓋し 筆舌に童し難いものがあるであらう。しかし乍ら一面その震にややもすれぽ陪り易い弊習を吾吾は看過するわけには いかたい。即ち吾五口が本文を解読するに嘗って不審の箇所を註轄に質し、而もそれをただ機械的に暗諦するのみで能 事塁れりとたすが如き態度 は嘗来の悌教の 墜聞 の活設た歩 武を阻むとと彩しいのみたら夕、今日の吾吾が古 典を緒き それを理解せんとする伸載の製問本来の意義を根抵的に波却するものであって吾吾の賢しく自から誠めねばならぬ緊 要事であらう。もとより註躍なるものは原意を汲んでそれを啓を示したものには相違たいがそれを更に如何に解揮し てゆくべきかが問題とたりうる場合の存するととを省 察 したければならぬ。とのととは印度の諸種の理論書に於て註 轄に架するに更に註臨時を以でした歴然たる事責に徴して明白である。なる段ど﹃起信論﹄にとって﹃義記﹄は註樟書 2 とれを参照せやして本論乞理解せんとするととはそとに 幾多の危倶と暗礁と佐蔵するととはいふ迄も ・ た いととであって、その樺威は樺威として飽くまで倉重さるべきものに として銭越の費庫として古来停統的債値乞もつものであり、 は相違泣いが、﹃義記﹄によって凡て問題が解決し重されてゐるかとい ふに必や しもさうでない鮪がありうると 考 へ ら れる。今日の吾吾にとって﹃義記﹄の解樺そのままでは受取り難い箇所が る 一 く たいとはいへたい。それ故いまは﹃義 記﹄の解躍でありさへすればそれを悉く無批判に踏襲せんとするが如き先入主を梯拭し去って、必やしもとれを 墨守 するととたく批列的に本論の勝義の所在を探究しようと思ふ。

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﹁ 因 縁分 ﹂ に も い ふ 如 く本論は 白からの心力なく廃論乞険忌して少文にし て 多 義をねがふ下根のために設き示された ものであるから.もはやとれ以上理解し易い概念的表出は他にたいわけであって、 とれによっ て 一 切の衆生 が斉 しく 大乗の異義をありのままに理解し う る 筈のものでなければならたい。それにも拘らやそのあり の ま まが私に理解され ないとするならばそれには何らかの理由が−なければたらない。解るとすれば解る理由があり、解ら友いとすれば解ら たいといふととの由って来たる理由が・泣ければたらたい。 いま裁に理解と呼ばれるものは真理性の自畳の成立つ根本契機に名づけようとしたものであって、本論の叙述が私 自身にとって空疎友 概念の羅列 でたいばかりでたく 普遍 安嘗な虞理性を有するといふ確信 は 、 との理解を侠っと と な くしては決して喚起され・ないと思ふのである。理解は患に知識的に知るといふとととは別のととであって・それには 飽くまで精神的意味の認識が要求せられる。それ故本論は一切衆生をし て 脅 しく理解せしむ る ために書かれた 筈のも のであるにも拘らや私には理解されたいといふことがある。またとの理解は 聖 歌量の成立つ根 撲 となる如きもの で あ る。聖数量ではその言教の真正なるととの確信が言教そのものの明確たる認識によって喚起せられるのではゑくして むしろ川にもとづくといふべきで あ ら う。人を絶謝的槽詮とするととによってその人の言敢 に 信 想 性が置かれるので ある。斯様に人に劃する信慾性にもとづいてその言教に信想性が置かれるとするならばそ の 人 に 封 する信 怒性は 一 程 どとから生じ来たるであらうか。 要 するに人に射する信 怒 性はその人の言 教そ のものが如 賓に理解 されるととなくし ﹁併の言教であるから恐らく員正なのであ ら う﹂とい ふ の が 聖 歌 量 であるから と れ に は比量的限定を侠っととなくしては確賓性乞置くととはできない。 4 んもとれが聖歌量それ 自身のもつ 指命 で あ り 、要 ては成立ちえ な い も の で あ る 。

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は軒定的方便にすぎないもので あ っ て 、吾吾は普通多くの場合悌書を聖教 量的 に護み.理解し.またさうでたい限り 悌教宣研究するといふととの手係りもないわけではあるが、とれではまだ併合言教が真に客離性をもつか否かは吾吾 には解ら泣い。真の客観性とは単に文字や概念にもとづいて誰もが然か承認せざるをえゑいとき成立つのではたくし て、その文字や概念の精神的意味が 吾 吾にありのままに理解されるとき 甫必て現 成するので あ っ て 、その時とそその 言教は私にとう て も放にとって も いつ如何たる場合に於 て も普遍安富性をもっといふ確信が私 に 喚 起されると 思 ふ の である。それであるから裁に至って聖歌量は何らの限定をももっととた く 却 っ て逆に﹁虞 正である から悌の言教 で あ る﹂と書き改められねばならぬ。伸 量 一 日 の 勝 義 の 理 解 は 聖歌 量的であってはな ら ない。聖 教量 的 理 解 は備教を活 か す所 以 で は な い 。ととるで理解とはいは ぽ鏡に映像が投影されるやうたものでそれには少しも積極性が ・ な い で は ・ な い か と いふ批難は一臆 4 も な と と で

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るが、民の理解とは決して静的無活動訟ものではなく主髄的に漉刺と働く如をもので 4 あ っ て ﹁ 詮﹂とはかかる理解の勝 義 の 意味をもっと 考 へ ら れ る 。 斯くて本論にいふ如く翼如は本 来言 説、名字、心 縁の諸 相を離れたものであるから本論 が真如 に就いて語るといふ ととも賓は遁らるべきものにたるわけであって、 異如 へ の 道はもはや全く社絶されてゐるといはざるをえない で あ ら う。然らぽ真如は果して如何なる方法によって理解さるべきであらうか。本論には﹁離念の境界 は ただ詮とのみ 相 臨 ず る も 包 以 て の 故 に ﹂ と 教 へ 、 ま た ﹁ 止観兵せざれぽ則 ち よく菩提の道に入る と とたし﹂とも 道破ぜる ととるによって 明白であるやうに.翼如の第一 義 的理解は止観乞 修する ととも仏くしては現成しえないといは ねばな らぬ。従つでもし 止観を十全に修習してゐたいとすればかかる真如 の理解は 真如のありのま ま の 理解でなくし て 要 す るに真如に 劃する 。 。 。 。 。 私の理解にすぎないのであるから個別的であるのみた ら 歩 、いはゆるうわさ事聞に堕するのほ かた いのであるが、現 在私に意識されてゐる思想と本論の翼如に闘する厳越とがいかに相臆するかを明らめるととによってそとに暫く 虞 如

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の理解が成立ち・やがてその理解がもし真如費得のための何ほどかの機縁ともなるたらぽ私が本論を讃み・論究する といふ意義があらうかと考へられるのである。 凡そ悌教は現貧苦から離脱して安柴をねがふ切賓な欲求から生れたとみるととができる。 ﹃ 智 度 論 ﹄ に は . いはゆる抜苦興業は悌教の根本命題であるとさへ考へ ﹁ 大 慈 は一切衆生に棄を興へ、大悲は一切衆生の苦を抜く﹂といひ、 られてゐる。四聖諦や十二縁起は凡てとの理を明かにしたものである。 ﹃ 起 信 論 ﹄ に も 護 心 の 相 を 一 示 す 傑 下 に 、 には直心、正しく真如の法を念やるが故に、こには深心、業うて一切の諸々の善行宏集むるが故に。三には大悲心、 。 。 3 0 p 。。。。。。。。。。。。 一切衆生。苦を抜かんと欲するが故に﹂と語り、既に﹁因縁分﹂には建論の意趣を示してその第一項に﹁一にほ因縁 ”寸 縞相。いはゆる衆生註して一切の苦を離れて究寛柴左得せしめんが震にして世間の名利恭敬を求むるにあらざるが故 に﹂と高くその道標を描ぐるととろによって明白である。悌敬所設の築もしくは究寛繋が西洋の快築設の如きと劃然 たる相還をたすととは事新しく論やる迄もないが、故にいふ所の一切苦とは凡そ如何なる意味をもつものであらう 一切苦といっても何か限定をもたねばならたい。本論では一切苦とはいってゐるが、それを掩ふ最も本質的た苦 としては生死の苦を指してゐるやうに思はれる。﹁解理分﹂に、﹁もし外縁の力ありと難も而も内の帯法に未だ薫習 。 。 。 。 。 。 。 の力あらざる者はまた究克巳て生死の一昔乞厭ひ浬撲を端末求するとと能は守﹂と述べ、更に﹁よく十諸国を起し、生死の 0 0 0 0 3 苦を厭び無上菩提を欲求し一再々﹂とも録し、また﹁よく衆生をして生死の苦を厭ぴ浬繋を柴求し自から己身に真如の 台、 法ありと信じて護心修行せしむ﹂と語るが如をは生死の苦を最も本質的た苦として取上げてゐるととを表白するもの といはなければならね。生死の苦とはいひ換へるたちぼ輪廻の苦であり、輪廻の苦とは霊魂の恒存に極はる肉躍的生

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命の断続によって惹起される業繋苦に外ならぬが、かかる生死の苦は車に肉韓的生命に係はるば か り で な く精神的生 命の存立如何に係はる苦であると も考 へられる。肉 髄的には 生きて ゐながら精神的にほとのままでは どうし ても生き て行けないといふとと がある 。 い ま 生死の苦を単に肉程的にのみ解する ・ な らばかかる苦は吾吾自身が肉悼上の危念存 亡に際舎しない限り切賓性をもたないもので、高高死に封する畏怖の念として五口五口に議感せられるに過ぎたい。もと より斯様危想念を超克するととも浬撰とか安心とかいはれるものの蹄趨ではあらう。しかしかかる苦はむしろ枝末的 のととであって、即今に於てそれが解決され、また解決されるととによって肉腫的の生死の 苦 の 如きが任謹自然に超 脱されうるやうな遥かに根本的な先決問題がある。即ち主時的意味に於ける生死の苦とそ念念に 五 回 吾に迫りつつるる ととるのものであって、五口五回の自売が深まれぽ深まるほど愈 A 深刻とたる如きものでるる。現 賓と理想 、世間と出世 問、煩悩と菩提 ζ れらの封立矛盾は自己が草に肉髄的に生きてゐるのみでは真の自己として生きてゐるとは考へられ 6 たい場合には劃然たる懸隔を現し来たるととろのものである。しかし誰しも肉韓的にのみ生きて精神的にはる一く生き ゐたいかといふに決してさうではたく理性や意志や感情の上でも生き、 とれらの精神活動には夫夫の苦情が伴ぴ、賓 際にそれらを経験しない者とでは友いわけであるが、とれらの苦は畢寛するに部分的のととであってみ一時一的のととで はない。自己の会館が生きるか死ぬかに係はる如き苦ではない。自己が現貨に生きて理想に死し、世聞に拘って出世 間を忘却し、煩悩に縛されて菩提を詮らたかったたらぽ斯様な自己は死せる自己であって 異 に生きた自己ではない。 自己が真寅に生きんとして生きられたいととるに矛盾が白血児せられ、 とれらの矛盾相刻の 真直中 に置かれた自己が民 に生死の苦界に沈諭する自己である。かかる自己にして自己の生きぬくべき血路を拓かんとするとき甫めて無上 菩 提 を欲求するとか浬擦を築求するとかの切望が喚起されるのである。生死の苦を後者の如き 意味 に解するととによって それは現貨の吾吾にとって一一厨迫質的たものとたり、本論が生死の苦の厭ふべきを強調する所以もまさしく設に存す

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るのであって、本論の内容が宗数的債値を有するといふとともかかる意味に解するととによっ て甫めて可能であると 考 へ ら れ る 。 凡そ現賓とは如何 なるものか といふ聞 に封する答は 、 織にも述べた や う に 、現賓は矛 盾の世界である と い へ ると思 ふ。吾吾が斯くあれかしと願ってやまぬ理想は要するに理想であって、 ぃ、さういふ現賓である。もとより理想が理想で ある所以はつ ねにそれ が彼岸的 である黙に 存するかも知 れ友い、し そ れ に 到達しよ う と し て容易に到達できた かし理想が暴寛するに単なる願望や永却に到達しえ た い理念の如きものとしてとどまるゑらぽ 吾 五 日 の現貫生活は賓に 暗憎たるものといはねばならぬ。斯様に理想と現賓との相別は現質的であ っ て とれは何らかの方法によって即 今 に解 決さるペく吾吾に迫り来たる問題である。然らぽ一時その解決の場所はどとに求必らるべきか。かかる矛盾の由来す る原因は何であり、またどとにるる か 。齢くともさういふ賄が明 かにせら れた上で吾吾は 現賓に如 何に封鹿ナペきか が決定されるのでは・なからうか。本論はかういふ鮪を問 題 にしてゐると 考 へ ら れ る 。

いま本論の叙述をみるに、との現賓の説明の原理になるものは何かといへば、それは衆生心とい ふ言葉で いひ詮さ 本文に﹁生 滅 の 因 縁 と は 、 れてゐ るとい ふととができよう。衆生心とは文字通り衆生の心を直下に指し て 呼 んだものに相 違た い が . いはゆる衆生は心により て意 と意識と時十るが故に﹂といへる箇所 b L 解 躍 し て 、 ﹃ 義 記 ﹄ は ﹁ 諸識生 滅相 集り て 生や 。故に衆生と名づく﹂と述べてゐるから 意 ・ 意 識 た る諸識が轄 やるとと ろに衆生が存 在す ると考 へ ら れる。つまり衆生は意・意識を因子として成立って ゐ る 。 との衆生とい ふ概念に 就いては 教理史的には解樺が直直で あり、必やしも人間だけに限定していってゐ泣い場合があるが、人間以外の生物・無生物を そのう ちに含めよ うが含

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めまいが設で吾吾にとって緊要なことは衆生とは吾吾人聞を措いてほかにないといふ自畳をまづ喚起するととである といはねばならぬ。斯くて衆生とは吾吾人聞にほかなら守、諸識生滅の集合龍たる衆生の心が現賓の構成原理をなす のであり、而もとの心の轄現するととる無数の矛盾、撞著、苦情が現前するからそれらの縁って来たる原因を追究す るとき﹁一切の衆生乞ぽ名づけて畳とたさや﹂といはれる。衆生即ち入閣は不畳瞳であり、との不思覧躍の心が現賓を ﹃義記﹄では大乗の法煙 成立たせてゐるといへるわけである。ととるで本文にはかかる人間の心を大乗の法といひ、 と 呼 ん で ゐ る が 、 とれは不畳瞳としての衆生の心を指して直ちに大乗の法躍と呼んでゐるのであるから一見すると奇 異にさへ感ぜられぬでもたいが兎も角とれを最も敬重してゐるかのやうに思はれるのである。斯くて大衆の嘗睦は衆 生のそとにではたくして、却って衆生のうちにあるのであり、いひ換へれぽ衆生の主髄そのものに外たらぬ。吾吾は 織に衆生の主髄を不畳間として理解したが今は大乗の法瞳と呼んでゐるのであるから前後矛盾するではたいかといふ 反聞が嘗然起りうるであらうが、それには衆生心左斯く呼ぶだけの何らかの含蓄が怠ければたらないと考へられる。 ﹃義記﹄に従へばとの衆生心は別に如来蔵心ともいはれてゐるから衆生の主瞳は矛盾、捜著 h 乞匹胎させるぽかりでは 。 。 。 たくして本来は矛盾、撞著を絶した世界を現成せしめる徳を兵へたものといへるわけである。との滑息によって﹁と の心は則ち一切の世間、出世間の法を撮す﹂といはれる意味が成立つ。もし衆生心が矛盾、檀箸のみを座胎させるに 過ぎたいものでるるたらぽ﹁世間の法を揮する﹂といふととは或はいへるかも知れたいが、﹁出世間の法在揖する﹂と 8 いふ意味は理解し難いであらう。斯様に衆生心とは大乗の法盟そのものであって、 に封ずる主観の如金位置にあるものではなくして、客離をも却ってうちに含む如きものであるから.それに封立する 如き自絵の存在の全く絶無である如き存在であると考へられる。との意味に於て衆生心は唯一組封、賢大無漫の主憧 であるといふととができる。そしてとれがまた大乗の意味乞詮し.債値的たものを心真如といひ、反債値的たものを 一切訟をうちに伝播するから客観

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A U 生 滅 と 名 づ け 、 とのこつを衆生心はうちに含んでをつて、とれらのこつは互に不相離の関係をたしてゐる。阿饗耶 識と呼ばれるものも不生不滅と生滅との非一非異的和合躍であり、また﹁能く一切の法在揺し一切の法を生や﹂とも いはれるから衆生心と同じ構造をもつものと考へられる。設に非一非異的和合間といったが和合とは本来離れたもの が合一するととではなくして本来一つものが暫く分別された扶態である。それ故不生不減と生滅とは本来からいへぽ 異ったものではないが.衆生にとっては﹁でたいと考へられてゐる。轄の衆生心に於て真如と生滅とが不相離である といはれたのもとれと同断である。和合とか不相離とかが語られるといふととそのととは既に本来のものでたくたっ て来てゐるととを意味する。従ってとれらは本来一であり・ながらこであるといふ二重の構遣をもってゐるといふとと が で き る 。 との聞の泊息を述べて﹁上の如来臓の清静心、動じて生誠とたりて相離れや。故に和合と いふ。別に生滅ありて来って真と和すといふにあらや J と い っ て ゐ る 。 ﹃ 義 記 ﹄ に は 、 斯様にしていはぽ虞妄の和合睦にほかたらぬ衆生心にしても阿怒耶識にしても、 とれらは吾吾にとって寧る反債値 的たもの、願はしからざる性質のものといはねばならゑい。つまりそとでは無明︵生滅・妄︶が現賞とたり、異如が 非現賓とたれる知き和合時である。無明が現賓とたるとは吾吾の主瞳が無明に置かれてゐるといふととであり、真如 が非現賓となるとは真如がる一く忘却されてゐるといふととである。しかし乍らとの場合吾吾の主鰹が無明に置かれて ゐるというても吾吾に無明が畳知されてゐるといふととはできぬ。無明を主瞳とする衆生自身が無明を費知するとい ふととは不可能であるからである。それ故衆生が不覚であるとはもとより真如を畳してゐないととには相遣ないが、 一一回からいへぽ無明を無明と覧知してゐたいといふ意味でなければならぬ。即ち無明を無明と魔知するには五口五口の主 盟が無明に置かれてゐる限り到底ありえ友いととであって、吾吾の主盟を真如に置くといふととがとりも直さや無明 を無明と知る所以である。

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斯く考へ来たるたらぽ吾吾の究極の関心事は無明を現賓とし真如乞非現賓とたず如き和合轄を根抵的に解消して員 如をしてその本来の鹿を得せしめ、本然の光せを放たしめるにあるといはねばならぬ。それ故﹁智滞相とは調く法力 。。。。。。。。 貫習に依 h p て如賓に修行し方便を満足するが故に和合識の相を破す﹂とも﹁法出離鏡とは謂く不室の法。煩悩概と智 0 0 0 0 0 0 0 0 艇 と

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出で和 A 口の相を離れて淳浄明なるが故に﹂とも語られるのはとの意味である。それであるから﹁和合識の相を 破す﹂とか﹁和合の相を離れる﹂とかいふととは真如が無明の纏綿から脱却して異妄未分の統一樟に蹄るといふとと に外ならぬ。従って衆生心が大乗の法盟として稽揚せられた所以も、賓は衆生心そのままを直ちに肯定していはれう 。 。 。 一度会く否定せられた上でのととであって、衆生心は本来は異如であると考へるととによって るととではなくして、 甫めて可能となる。従って吾五口にとって最も隼重さるペをものは衆生心よりもむしろその内に包揖せられるとたす真 如であって、衆生心が成立っためには異如は必須不可般の因子であり、衆生心は方しくとの因子に一審を轍すべきで あるといはねぽならぬ。 10

衆生心いひ換へれぽ現賓の本来性が巽如でなければならぬととは以上の如き理由によって略 k 明かとたったと考へ られるが、私はとの消息を本文そのものに嘗って更に探究しようと思ふ。本文に﹁真如はもと一たり。而も無量無謹 の無明ありて﹂といひ、また﹁との心もとよりとのかた自性清博たり。而も無明あり﹂とも述べ、或は﹁一切の法は ・本来唯心なるを以て賓に念なし。而も妄心あり。不畳に念を起して諸々の境界を見る。故に無明と説く﹂と録し・更 に﹁一切の法はもとよりとのかた白から浬撰たりと信知するを以ての故に﹂とも或はまた﹁いはゆる心性は常に念た し。故に名づけて不費とたす﹂と語り、更に﹁一切の法は本来無想たるを以て念念に生ぜ示。念念に減せやノ﹂と道破

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するととろによって理解せられる如く、との現賞は本来一であり、自性清浄であり、念た︿・想なく‘浬撰そのもの である。然るに無明、妄心が輔現し来ったととは全く思ひまうけぬ意表外のととであるといふ歎盤をさへとれらの引 文によって蕗き取るととができる。即ち現賓の本来性は真如一相のほかの何ものでもたくそとに無明の起り来たる理 。 。 自がないにも拘らや無明が起きてゐる、つまり﹁一切の衆生をぽ覧とたさざる﹂のであるから、真如と無明との結び 付をいひ換へれば本来異如左畳してゐる筈の衆生が

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うして不見とたったか、もう一度言葉を換へていへぽ無明の超 始を如何に説明するかが裁に嘗然要請せらるべきであり、著者はとの要請に白から臨へて、無明とは﹁忽然として妄 念の起る﹂ととるに名づけたものといふのである。 いはゆる忽然の意味については古来論家の聞に砂からぬ逗庭が存するゃうであるが、その多くは﹃義記﹄の解躍を そのまま踏襲してゐるというてよい。 ﹃義記﹄は忽然の意味を解揮して、 っただとの無明は染法の源とたる。最極徴細にして更に染法のよくとの本とたるものゑきが故に忽然念起とい 主為

二、理路本業経の文を援引してとれを解躍し‘ 明かす放に無始といふ。即ちとれとの論の忽然の義なり﹂と。 ﹁とれ則ちその無明の前に別に法あって始集の本となるとともなきを 三、また忽然といふは時節に約して以て忽然と設か守、起るに初め友きを以ての故たり。 との三義そ奉げ、また本文に﹁一切の衆生をぽ名づけて莞となさや。もとよりとのかた念念相模して未だ曾て念を離 れざる乞以ての故に無始の無明と説く﹂といへる文中、 ﹃義記﹄は﹁無始の無明﹂たる語を解揮して、 一、染法の無明より始たるものあるととなきを顧すが故に無始といふなり。 二、無明は真に依る。同じく一冗始たきが故なり。

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とのこ義を樹ててゐるが、今とれら諸義を綜合するゑらぽ要するに忽然とは無始であり、無明が無始であるとは.無 明が一切染法の第一原因でるるといふ意味に外たらぬと考へられる。それ故﹁忽然として念起るを名づけて無明とな す﹂とは﹁原本初登の妄念を呼んで無明とたず﹂といふ意味に解するのが﹃義記﹄の解轄である。 忽然に封する﹃義記﹄の解躍は斯くの如き沿革を示してゐるが、との無始たる語は既に本文でも属 k 用ゐられる所 のものであって‘何故挫では無始といはやしてとりわけ忽然といったかといふ疑義も起りえたいでもたく、また一概 に無始といってもその意味を如何に解轄するかが更に問題とたりうるととを省察したければならない。いま﹁忽然﹂ 。 。 。 。 。 ﹁よく現在に日経の事を忽然として念じ、未来の事を不畳に妄慮せしむ。との故に三界は虚備 の 他 の 用 例 を み る に 、 にして唯心の所作たり﹂と録せる文中、﹁忽然として念守る﹂とは﹁妄りにもしくは不畳に憶起する﹂といふほどの 。。。。。。。。 意味であらう。また﹁一切の法は本来唯心たる乞以て賓に念たし。而も妄心あり。不畳に念を起して諸々の境界を見 る。故に無明と説く﹂ともいはれてゐるから、 12 ﹁忽然として念起る﹂とは﹁不魔に念起る﹂といふ意味に解せられぬ と と も た い 。 ﹁不畳に﹂といふととは﹁理由または原因が解らやノに﹂といふととである。 ﹁念をどうして起すか、そ の理由が解らや J に念を起す﹂といふととが﹁不畳に念を起す﹂といふととの意味である。 いま私は別の方法によって﹁忽然﹂の意味を更に探究し、右の私見が必やしも不嘗でたいとと乞明かにしようと思 ふ。本論にいふ所の﹁忽然﹂の原語が果して何であったかはもとより容かでないが、他の用語例から推してその原語 は恐らく叫

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伊︵普通ヨ命。岳仰として用ゐられ、副詞にすれば苫−−年

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− ︼ る で あ る ︶ も し く は 釦

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伴 ぅ。それ故﹁忽然として起る﹂とは﹁偶然にもしくは理由︵原因︶たしに起る﹂といふととである。偶然とは起始の 理由又は原因が存在してをっても吾吾にはそれが畳知されないか、事賓存在しないから費知されないか、いづれにし ても理由または原悶が吾吾に畳知せられるととたくして或事象の起るととであらう。由って起るべき理由もしくは原 で あ ら

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因が既知の事寅であるならぽ斯くして起った事象は偶然に起ったのではなくして ﹁ 嘗 然 に ﹂ ︵

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, ⑦ ふべきである。斯様にして忽然として念が起きるとは妄念がいつ何慮で

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うして起り来ったか衆生にはそれは解らな 起ったとい いといふ意味である。無明が理由の理由とすべきものなく、原因の原因とすべきものたくして偶然に生起するといふ ととは本来起きるべき管のものでないにも拘らや起きてゐるといふととであるから無明は起きてゐるとはいふが本来 は起きてゐるのでは訟いと考へられねばたらぬ。それ故無明が起きるといふととは樺であり・俣であって、 ﹁ 三 一 外 は 虚偶﹂といはれるのもとれが詩である。また本文に﹁心の初相を費する﹂といはれるものも妄心に何か起始があって その初相を畳するといふととでは泣くして一切の妄心は本来ないものと知るととにほかならぬ。 ﹁心起とは初相の知 るべきあるととたし。而も初相を知るといふは印ちいはく無念たり﹂といひ、またとの箇所の新語に﹁心の初起とい ふはただ俗に随ひて説く。その初相を求むるに経に得べからや。心たほあるととゑし。何ぞ況んや初あらんや﹂と語 るものは妄心は本来存在し、ないとと左道破したものである。 以上の論究によって明かたる如く﹁衆生は本来畳睡である﹂といふととと一方では﹁衆生は不莞瞳である﹂といふ とととの撞著の由って来たる根醸乞どとに索むべきかに就いて徹底的に反省をめぐらしゆくとき、要するに忽然念起 といふの外はなかったと考へられる。忽然の意味を斯様に解すべきととが明かとたった今は、無始といふととも﹃義 記﹄の如くに解ずる限り、忽然と同義にみるととは果して安嘗な見解であるかどうか。無始の勝義はむろん時間的謹 績の意味でも無原因即ち第一原因の意味でもたくして出鹿を索むるに寛に不可得の意味に解せらるべきであらう。 しかし乍ら無始といふととは無明に就いていはれるぽかりでたく真如に関しでも語られてゐる。即ち﹁自鰹相重一習 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 とは無始世よりとのかた無漏の法を兵し一再々。﹂また私は蜘聞にも屡々衆生の本来性が真如に外ならぬとと乞強調はし 。 。 。 。 。 。 。 。 ﹁もとよりとのかた念念相績し もんが、無明に就いても同様に語られてゐるかのやうに思はれる章句がたいでも友い。

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て未だ曾て念を離れざるを以ての故に無始の無明と説く﹂といはれるが如きはそれである。また﹁染法は勲仏 r u u h v u 。 。 。 の か た 重 一 期 目 し て 断 、 ぜ 示 。 乃 至 悌 乞 得 て 後 則 ち 断 あ り 。 浮 法 重 ⋮ 習 は 則 ち 断 る る と と な し 。 未 来 を 童 す ﹂ と も 述 ペ ら れ 、 斯くて異如はいはゆる無始無持、無明は無始有終といはれる。 ととろで斯様に真如と無明とに闘していづれも無始と本来とが語られるとはいへ果して夫夫の場合にすべて同一義 を以て律するととがでぎるかどうか。その含蓄の異なる黙を看過するわけにはいかたいと忠ふ。邸ち真如が無始無絡 とはいひ換へれば不生不滅といふととである。生ヒたるものには必や起始があり、滅するといふととがあるが、生じ たものではないから滅するととのないものである。 ﹁ 真 如 の 自 瞳 相 と は ・ ・ ・ ・ 前 際 に 生 十 る に も あ ら や 。 後 際 に 滅 す る にもあらや。畢寛じて常恒たり﹂といはれる所以である。然るに無明が真如と同様に無始と呼ぽれるとはいへ不生と 考へられるたらぽ不生のものが滅するととはありえたいから、むろん本来からいへば妄念はないのであるからそれに 起始のありうべき筈がゑいにも拘らや﹁念起﹂といはれてゐるやうに、齢くとも衆生にとっては妄念は起り来ったも 14 のと考へねばならない。さうでたければ無始有終といふととは理解されたい。生じたものであるから滅するといふこ とがある。それ故無明は生践とも呼び換へられる。斯様に無明が起り来ったものと考へられるならぽ、そとに嘗然無 明は一盟どとから起り来たるかの問題が更に探究されねばならない。 斯くて論会醸の構遣からいって衆生の本来は真如であって無明であるとは考へられてゐたい。本来とは前際も後際 もたい無際で t u る。衆生は本来備といはれる場合既に本来が語られる時には悌であるペき筈のものが衆生︵不畳盟︶ にたってゐる。怖が衆生に怒ってゐるといふととは首然でたくして偶然であるから債であり、槽であって、衆生の側 からいへば衆生が併に成るといふととは首然なととであるから、備に成るとはいふが賓は備に成るともいへたいとと で あ る 。

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無明は本来起きる筈のものではないから原因出鹿のあらう替がないととを既に屡 K 強調はしたが.しかし乍ら象生 にあっては無明が生起してゐると考へられねばならぬ以上、それには何らかの基聞になる如きものがなければならな ﹁妄念は忽然として起きる﹂とはいつでも凡そ無から有が生やる筈はないからである。然らば一関その基睦はど

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とに索めらるべきであるか、 とれば嘗然すぎるほど嘗然な疑問でなければならぬ。 いま無明の生起する契機を考ふるに大韓共の三つの場合を奉げうるであらう。 一、無明は阿怒耶識から生ゃるか。 二、無明は真如のそとに起きて真如に影響するか。 三、無明は真如のうちから祇生ずるか。 第一の聞は本文に﹁阿繁耶識に依る乞以て無明ありと説く﹂といはれるととろから出したもので‘阿家耶識が無明 の基剛胆に友りはしたいかといふ風に一一臆考へられる。文中、﹁依るを以て﹂とあるは他の箇所でも例へば﹁異如に依 るが故に無明あり﹂といふ場合の﹁依るが故に﹂と同様にとの言葉は左程明確た概念を興へるとは考へられない。と の言葉の解躍如何によっては主鮮と賓癖との闘係が色色に考へられる。ともかく﹃義記﹄は、拾にいふ阿家耶識とは その前文にある﹁心に依りて﹂の心︵真如︶と同一物を指すとみてゐるが、 とれはやはり阿繋耶識そのものを指すと みるべきであらう。また﹃義記﹄には、構に﹁木鹿児に依るが不費あり﹂とも﹁真如に依るが故に無明あ h ととも語った にも拘らや今は本畳でも真如でもたい阿饗耶識に依って無明があると述べた理由を三様に設明してゐるが、とれに就 いては暫く措くとして阿怒耶識そのものが既に無明に穆透された性質のものであるから、 とれを基鰻として更に無明

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が生起するとするならぽかかる無明は枝末的と考へられねぽなら示、との箇所では意・意識の如き枝末無明の展開を 説明ぜんとするにあるのであって私の嘗面の課題はむしろ根本無明の生起如何に係ってゐるのであるから今は一醸問 題を別にして考へねぽゑらぬ。かかる理由かち第一の問を設では留保してゐかうと思ふ。 弐に第二の聞に於て無明が異如のそとに起きるとするならぽ﹁離念の相は虚空界に等しく編ぜざる所、なし﹂といふ ととはできぬ。法界一相といふととも成立たたい。従つでもし無明が生起するために何らかの基陸乞必要とし、その 基盟を果してどとに索むべをかに立ち至るならば、それは嘗然真如に索めるの外は、たいと考へられる。それ故無明は 真如とともに無始とはいふが本来は二元ではたくして異如ご冗に蹄せらるべきであり、無明は虞如を離れて冥如の持 外には起りえたいといはねばならぬ。 然らぽ無明は真如のうちから祇生し来たるものであらうか。もし真如のうちから訳生し来たるものであるならば、 それをどうして無明と呼びうるであらうか。そとに第三の聞が成立つ。 16 最後に第三の間に就いて考ふるに無明が異如のうちから祇生するといふゑらぽ先づさきに真如があって後に無明が 生起するとととゑり、時間的に前後がありうるわけであるから無明は無始ともいへないとととなる。一般に因果性に 於ては時間的関係を無硯しては成立たたいが.今の場合因果性を以て律するととはできない。それのみ友らや唯一で 常恒不費、自性清海た極めて債値的と考へられるものから反債値的た無明の如きものが

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うして訳生すべきであらう か。もし祇生し来たるとするならば、無明は真如によって否定されるどとるか盆 k ム同定さるべき性質のものとならね ぽ怒ら守、それ乞無明とさへもいへたいわけである。とれは恰もウッグ 1 ラカ哲墜の創建設に於て唯一の宇宙的太源 ザ ト ﹁有﹂から火・水・地が流出する場合に﹁有﹂が何らか精神的なものであるとするならぽその流出物も賢しく精神的 なものでたければなら示、 ﹁有﹂が物質的なものであるとするたらばその流出物も同様に物質的なものと考へねぽな

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らぬのと一般守ある。それ故真如から無明の如を異質的なものが祇生するとは考へられない。よし波生するとしても 無明は真如のうちに内在してゐたと考へられねば祇生するといふととはありえたいから民如のうちに無明宏擁すると いふ矛盾にさへ陥るとととなるであらう。 然るに本文に﹁本莞に依るが故に不魔あり﹂とも﹁如来摘に依るが故に生滅の心あり﹂とも或はまた﹁いはゆる員 如の法に依るを以ての故に無明あり﹂とも更には﹁心に依りて意と意識と轄守るが故に﹂ともいはれてゐるから、一 見すると無明の出鹿が真如にあるのではないか、従って摺に﹁忽然として念超る﹂と述ぶるととると矛盾するではた いかと反問されねでもゑい。しかしとの反聞は右の論詮によって答破さるべぎであって、とれらの引文の意味すると とるは真如と無明とが原因、結果の闘係にあるのではなくして異如は無明の基韓に外ならぬと考へねばならぬ。それ 故無明は真如のそとに起きるものでも真如自韓から波生する如きものでもたくして虞如を離れては起りえないといふ べきである。虞如と無明とは同時的であり、翼如を場としてそとに無明が無明として成立つ。吾吾は現賓に於て無明 を無明と風見知せやにゐる。無明が無明として畳知せられるのは吾吾が虞如に蘇るととによって甫めて可能とたる。ま た﹁無明の相は畳性を離れや J﹂とも﹁念に自相ゑけれぽ本魔左離れやノ﹂とも或は﹁心と無明と倶に形相なく相捨離せ や﹂とも録されてゐるのは、真如と無明とは本来不可分であり、市も無明は同県如を基鯉として成立つといふととであ る。とれをいひ換へれぽ迷ひの存するととろ随時障鹿に救びがある、救ひの手はどとにでも延されてゐるといふとと である。員如は恒に金躍であるから離念の相は虚空界に等しく編ぜぎる所とてたいといはれる。所詮無明も員如海上 の 一 一 波 調 に 過 ぎ た い 。

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斯くて衆生は現貫的には無明的存在であるとはいへ本来は買如以外の何ものでもないと考へねぽならない。とこる で設にいはゆる﹁本来﹂なる m思想は本論会一躍の構謹の骨子をたすのみたら守備敬一般の擦って立つ最も重要た観念で あるといひうるであらろ。然らば一躍﹁本来﹂といふ如きととが

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うしていへるか、またそれは如何なる悌教哲接的 蒸礎乞有するであらうか。 イーシユグラ 印度の有紳論者に従へぽ世界は唯一の超越的危紳によって創造せられたといふが、もし紳が世界の能遣である友ら ブ ヂ イ イ ツ チ ヤ I プ ヲ ヤ ト ナ ぽ創建は紳の魔智と希望一と意志とによって行はれたのであるから一切の所遣は紳のとれらの諸徳を盆 k 種展せしめた 如きものとして遺作されてゐるべきであり J・紳の徳に誘く如きものは一物として存在しえたい筈である。然るに現貫 に於て紳の徳とは凡そ懸絶した事象を五口吾は経験するから設に於て印度の紳接者は人聞の業を挫し来ってとの矛盾乞 合理的に解明しようとする。国ち業の自律性いひ換へれぽ善悪の報償の自己解決性乞許すととによって如何に慈悲国 満た紳の妙用を以てしでも業の鶴則を動すととはできたいから悪業に劃して善果乞結ぽしめるととは不可能たるが故 に紳からの現賓の講離性といふが如きととは紳の興り知らぎるととるであると主張しようとする。しかし乍らもし斯 様に業の自律性乞許すとするならば.織には紳の一切能謹性を主張したにも拘らや今は業に劃しては紳の非能造性を 18 認めざるをえないといふ矛盾が生やるから、業の鶴則が首尾一貫して巌正に遂行せられるのはとれる一く紳そのものの 創建作用の結果にほかならぬと有紳論者は需護せんとするが、とれ畢寛するに業と紳の能謹性とが妥協をたしてゐる わけであって業の自律性左承認すると同時にそのものの他律性をも桓みえないといふ一睡二性の難に陥ってゐるとい ばねばならぬ。また業の矛盾たき適用性を力説する結果は業からの解脆といふとともありえなければ.賓は紳とは会 ︿不必要な存在山高高業を十全に完結させる需にまうけられた道具もしくは補助手段に過ぎぬものと考へぎる乞えな ア ヌ グ ラ 八 ぃ。有神論者は美呆を獲んと努力する人聞を扶助するととろに紳の揖取があるといふが、凡そ揖取とは人間が紳に絶

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割に踊依する ζ とによって業の糧綿から蝿脆して輪廻瞳としての人聞でたくたるととろに存すると考へられる。然る に一肺の徳に非き業を負へるままの人聞が一脚に蹟依し紳の揖取に興るといふととはどうして可能であらうか。かかる人 聞が一脚の矯取に輿り榊に腸依しうる穏にはそれに相臆する能力が人閉それ自身に賦興せられるととたくしては不可能 であらう。しかしかかる能力とそ紳によって甫めて人聞に賦興されるのではないかといふ反問も更に同じ疑問を反覆 せしめるに過ぎない。即ち然らばかかる能力を人聞が紳から賦興せられるとしてそれを人間が受取りうるといふとと がどうしていへるか。斯くて要するに人聞が紳の揖取に興りうる詩にはそれだけの能力が人閉それ自身に於て本来内 在してゐると考へざるをえゑい。いひ換へれば紳と人間との聞に介在する溝渠を除去するといふとと即ち人間はたる noo ほど現賓的には業を負ひ業から出離しない輪廻程には相還ないが本来は業の纏糟仰を蒙らぬ非輪廻睡であると考へると とによって紳の慈悲を受取るだけの能力が人聞に賦輿されるとととたり、斯くして甫めて興へるものと興へられるも の と の A口致黙が見出されうるのではなからうか。 斯様に衆生の衆生たる所以は不畳であり無明である賭に存するとはいへ衆生は本来、本血児・真如を主慢とするもの であると考へるととによって自力はむろんのとと他力の可能た原理を設に見出しうるといふととができる。 本論所説の真如はその本質的性格として以上の如き撞著に十分臆へうるものであり、﹁本来﹂の概念は斯くの如き 僻教哲事的基礎の上に構築されてゐると考へられる。またとの泊息は真如の葉習といふととによって明瞭に窺ふとと ができる。衆生が生死の苦を厭ひ浬擦を柴求し、白から己身に異如の法ありと信じて護心修行するのは凡てとれ無漏 の法の内在するが需であり、また一切の外縁を異如護得の機競として観ヒうるのも真如の内在を許すととなくしては ありえないととである。斯様に見来たるならば本文に﹁諸備の法は因あり縁あり。国と縁と具足して乃ち成解すると とを得るたり﹂とも﹁もし悶と紙と具足する者はいはゆる自ら票習のカあり﹂ともいはれる如く浬擦に入るの誼は、

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内国と外縁とが満足するととにようて甫めて可能であって、内国の葉靖国力のみによっても外縁の薫脅力のみによって も不可能なととである。本論には木中の可燃性と、それを燃焼にまで導く方便とによってとの関係を巧に菰鳴してゐ る。内国と外縁との合致するととるに方しく浬繋が現前するのであって、外績が外縁として意味づけられるのは内因 の薫習力を侠つてのととであり、また内悶の重⋮習力が費動するには外縁によって誘披せられるととたくしては到底不 可能なととである。韓たき衆生とは内因と外縁との合致を見ざる衆生のととである。 斯様にして護得した翼如は護得したからといって今まで・なかったものが新たに生じたともいへ友いものである。構 にも述べたやうに本論には員如詮得のための修行を勤めてはゐるが員如の本然からいへぽ斯様友修行も賓は全く不必 ﹁一切の衆生は本来常住にして浬擦に入ると設けり。菩提の法は修すべき相にもあ 要 な と と と い は ‘ な け れ ば な ら ぬ 。 ら十。作ずべき相にもあらや。皐寛無得なり﹂と語られるのはとれが露である。 却 斯くて無明を主韓とする私は慣りの私であり死んだ自己であって、真如を主躍とする私が異の私であり生きた自己 である。無我とはかかる自己を否定的に表現したまでである。そしてかかる自己が即今に於て濃刺と働くととるに本 来の現賓があり、かかる自己を賓現ぜんとする努力に人生の意義と人聞の究極の目的とが存ずるのでは汝からうか。

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私は、今設に、至って卒明なる題目を選び、至って平凡なる結論を申述ペるに過ぎないのであるが、之を以て今回 の責を塞ぎ度いと思ふ。

題意は甚だ一や明なるが如くにして、その賓極めて陵昧であることを、自らも意識して殊更らに取り上げたのである が、此の題目の下に、戎の事柄について述べてみたいと考へたのである。 先づ第二ヘ﹁日本悌敬﹂と一再ふ用語が、比の最近、殊にしきりに用ゐられるやうに放ったと思ふのであるが、果 して﹁日本悌敬﹂と一再ふ用語が息子術的にも‘受賞であるか

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うかといふ黙である。 第こには、若し﹁日本伸教﹂といふ用語が‘皐術的にも安嘗であるとするたらぽ. それは歴史的に、何時頃から用 ゐられた用語であり‘且つ何時頃からさう去ったやろゑ考察が加へられるやうになったか、 と い ふ 賠 で あ る 。 而して第三には、たとへ﹁日本悌教﹂と一再ふ用語は、腰史的には極めて近世にはじまった用語でるるとしても、事 責上それは何鹿に費生したのであるか、と一広ふ以上の三酔舶に O いて、私見を申し越べてみたいと考へた次第である。

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そとで、先づ第一の問題から申し述べるととに設す。

﹁日本悌敬﹂の概念

ル マ 悌 教 ﹂ ﹁日本悌歌﹂といふからには、それば嘗然﹁支那悌数︸﹁印度悌毅一﹁酉蔵悌教﹂﹁満蒙悌教﹂﹁セイロ y 悌 教 ﹂ ﹁欧米悌敦﹂等と‘桐封的に考へられる悌教であり、且つ﹁悌数﹂といふ一般の概念から特 -, l:" 一 グ イ 悌 数 ﹂ 殊化された﹁日本悌敬﹂といふ概念である可き筈である。 ﹁悌敬﹂といふ概念の外に、或は﹁悌教﹂と云ふ概念とは別に、 ﹁ 日 本 併 殺 ﹂ と 一 足 ふ 概 念 が 、 存 立 果 し て 然 ら ぽ 、 し 得 る か 否 か と 一 足 ふ と と か ら . 解 決 し て 行 か 喝 な け れ ば な ら ぬ 。 ﹁伸教﹂とは、抑 K 何を意味するかと一足ふに、その本来の意味は‘ 1 ﹁悌﹂によって設かれた﹁穀﹂といふととであ る可きであり、従ってそれは働陀関口広告旬、即ち稗迦牟尼悌ぬ色

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∞包岳山によって誼き述べられた敬、と 一 再 ふ と と で あ る 。 然 し ・ な が ら 、 そ れ と 同 時 に 、 2 ﹁ 働 ﹂ と た る ﹁ 教 ﹂ と 一 民 ふ 意 味 と 、

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﹁ 悌 ﹂ ︵ 覧 ︶ 、 即 ち ﹁ 真 理 ﹂ に 闘する﹁教﹂と一足ふ意味にも、理解される場合がある。 第一の﹁悌によって設かれた教﹂と云ふ意味では、﹁悌教﹂は明瞭に、盛史の上に現れた揮偉の教を意味し、卸ち 。 。 . 韓隼を中心とする悌教 A 闇がそとに展開するわけであるが、第二の﹁備とたる教﹂即ち理想的魔者とたる教といふ意 味に於ては、必やしも韓曾一人の設かれた敢に限られないととにたる。市して第三義の﹁悌盟国に闘する教﹂と一再ふ風 22 に解躍すると、愈主益主演範圏の数墜を、一切そとに包容するといふととになるのである。 上の第一義は、﹁伸敬﹂の保守的、形式的解躍であるに封し、第二義並に第三義は、﹁悌教﹂の準歩的、精神的解 躍であり、従って第一麓は小乗的解揮であるに封し、第二義第三義は大衆的解樟といふととに友る。若し﹁始畳﹂

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﹁本血児﹂の用語を用ゐるならぽ.第一義は始莞門的解躍であるに封し.第二義、第三義は本莞門的解眠障であると一足う oo − − 、 . 。 。 てもよい。事賞、悌教は、歴史的には韓傘を起源として費生したものであるけれども、遂に人類理想の教を以て悌教 となすやうにたったのであり、そとに﹁臆身説法﹂に劃する﹁法身説法﹂が考へられるやうにたり‘即ち﹁小栗﹂に 封する﹁大乗﹂の教が、後世に費展するとととたったのである。けれども、﹁法身説法﹂は理論として設かれるに過 ぎや、資際的には﹁法身説法﹂といふものは、感売を超えた、超認識の境域に属し、﹁法身説法﹂の賓際上の願現は、 時・慮・機・園の現賓に剖醸して、千差高別の様相をとって設かれて居るわけである。即ち、そとに印度には印度の 悌教が設かれ、支那には支那の悌教、西識には西臓の悌設、と一再ふ風に‘我が日本には郎ち﹁日本悌教﹂として設か る可きなのであり、叉事賓上設かれて来たのである。 我が﹁日本の悌教﹂は、我が日本の園土、我が日本の園民、我が日本の一言葉‘我が日本園民の思考と賓践とに邸臆 して、一千三百年の暦史の上に生 k 服々として護展を遂げて来たものであり・此の過去の﹁日本悌教﹂は、将来も亦 同様に、我が日本の圏土と圏民とに相臆した悌教として益主護展し、其のカ用を護揮して行か・なけれぽたらぬ筈のも の で あ る 。 過去の或る時代には、時に轄隼の精神に還蹄す可きととを主張した皐借もありはしたけれども、それは轄骨格の異精 神を時代に魁らして偶数界を廓清せんと欲したのであって、決して鰹隼嘗時の古代印度の原始悌数時代に立障るとと 。 。 を意味したのでは・なかった筈である。即ち、程隼はあくまでも、印度麿現の過去の備であり、その四時掌によって設き 。 。 、 、 . 、 . 0 0 0 0 一不された真理の教法を指針として、我等は躍骨骨の仰がれたと同巳理想教法に向って進む可きたのである。而して、斯 く解緯するととが、即ち虞の大乗偶数であり、﹁悌敬﹂の異賞理解であると考へる。具盟的た事貫を離れて、真理が 存したいやうに、現賓の此の我れ、現賓の我が信保、現賓の載が園家を離れて、官に浮いた﹁併設﹂ 一 般 と い ふ ゃ う

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な も の は 、 あり得ないのでるる c 併 し ‘ な が ら 、 極 く 最 近 に 至 る ま で は 、 ︷ 悌 敬 ﹂ は あ る が 、 ﹁ 日 本 悌 教 ﹂ は な い 、 と考へるのが普通であったゃうで あ る 。 ﹁白本偽毅﹂といふゃうゑとと左口にするととが、既に非事術的である、 といふ風にさへ考へられたゃうであ 0 0

る 。 ζ れには、明治以後の西洋哲闘型的思索の影響があったやうに思ふ。し加し、理想は現買なくして存在し得、でお︷ 0

憶は個を離れて存在し得たいやうに、少くとも我 A 日本人にとうでは、﹁日本悌教﹂を離れて﹁悌敬﹂一般といふや うなものを考へる乙とは、事質的に不可能たわけである。純粋理論の推求を以て使命とする﹁哲事﹂に於てすら、情 その各哲事者の個性的色彩を脱却するととが出来たいのだから.況や﹁教化﹂を以て主目的とする﹁骨骨﹂に於ては 嘗然たととでなければならぬ。 そとで、題自の第一義の結論として述べて置きたいのは、﹁日本悌教﹂といふ用語は、最近の時勢の波に乗せられて 踊り出た言葉のやうに受取れるかも知れぬが、事賞はさうでなく・我々ト恥んの L V J 苧し骨齢する悌教は、間早なる叶悌 数﹂でたくして﹁日本偶数﹂であり、此の意味からすれば酔骨貯にも亦首然﹁臼本悌教﹂と呼んで差支ないといふ酷 24 で あ る 。

併しながら、最近の事情について考察すれば、満洲事費以前迄は、大韓﹁悌敬﹂一般が考へられて居って、特に﹁日 本悌教﹂と云ったゃうた事は齢り考慮されたかったやうに記憶する。最近は、﹁日本悌教﹂と呼ぶととから、更に敷 歩前進して、或は﹁護国備教﹂、或は﹁皇道働敬﹂、或は﹁忠義哲回申﹂と一耳ふ風た呼稿が、皐人の聞にも盛んに用ゐら とれは極︿最近の園家情勢に順醸した悌敦皐人の態度のやうに見える。 れるやうにたってゐるが、

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本、日本悌敬接協舎の設立は、満訓事費のはじまる四年以前・国ち昭和三年であるが‘その昔時作られた﹁日本悌 殺闇申協合合則﹂第一僚には 本協曾ヲ日本僻教皐協食︵叶

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﹀ 回 目 。 丘 町 込 山 。 ロ ︶ ト 稽 ス 第 一 一 保 とあって、英語課の舎名によると吋

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。ロが附加されて居るのである。 イ ギ リ λ ド イ ツ フ ラ ン ス ﹁英蘭﹂﹁謂逸﹂﹁伸蘭西﹂等の園名左嘗て L も差支へたいのであって、 即ち﹁日本﹂の代りに・ ﹁ 併 教 ﹂ に づ い て の、世界的接術研究の一部門として、我が﹁日本﹂もとれを捨雷するといふ意味に於て採用された合名であったので ある。それは二十世紀に於ける・世界的墜術研究の通念であり、その通念に従って設立された我が日本に於ける﹁僻 較﹂研究の皐術協舎であったわけである。今日の時勢からすれば、恰も﹁日本悌教﹂の態的協舎の如くに見えるが‘ マルキスト運動の飴波が、備教界にも影響して、或は﹁日本反宗教同盟﹂の 決してさうではないのである。その後、 結成ハ昭和六年︶となり、或は﹁併殺法制経済研究所﹂の設立となり、乃至﹁新興悌教青年舎﹂の護舎を見る等に及ん だ が 、 満 洲 事 費 ハ 昭 和 七 年 υ を契機として、我閣の文部省自ら進んで教育と宗教との関聯について考慮左用ゐるやうに な り ハ 昭 和 八 年

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﹁園民精神作興ニ闘スル大詔﹂換護十週年紀念ハ昭和へ年十一月 U を切掛として‘園民精神運動がしだ い に 勃 興 し 、 一 フ ヂ オ の ﹁ 悌 教 修 養 ﹂ 講 座 ハ 昭 和 九 年 三 月 ﹀ や 、 ﹁ 日 本 精 紳 文 化 ﹂ ハ 昭 和 九 年 二 月 、 河 出 書 房 ︶ ﹁ 日 本 精 神 研 究 ﹂ ハ 同 年 六 月 、 東 洋 普 段 ﹀ ﹁ 日 本 精 神 叢 書 ﹂ ︵ 同 年 十 二 月 、 文 部 省 思 想 局 。 後 一 一 ﹁ 白 本 数 拳 叢 書 ﹂ ︶ と 一 足 っ た 、 ﹁ 日 本 精 神 ﹂ を 主 材 と し た種 K の叢書が謹積出版されて、以て現時に及ぶ﹁日本精紳﹂運動が展開したのである。そとに、或は﹁日本主義﹂、 或は﹁紳道主義兄或は﹁圏史主義﹂が勃興すると共に、悌教徒の側た於ては、聖徳太子を以て﹁和園の教主﹂と仰ぐ 一日本備教﹂運動が撞頭したのである。或は﹁聖徳太子﹂に闘する論著ゃ、或は﹁日本悌教﹂に闘する連作等が相つ ﹁聖徳太子﹂を主とした﹁日本悌教﹂闘係の講習舎や講損舎が諸鹿に於て要求されたのである。悌教聯合 い で 現 れ ‘

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舎の費行にか t A る﹃日本精神と白木伸教﹄ハ昭和九年十二月、矢吹擾輝著﹀が、最もよく此の時代相を物語って居り、その 中には﹁聖徳太子の偉業﹂﹁皇室と悌教﹂﹁鎮護園家と日本悌教﹂の如き章節が取上げられたのである。岩波の﹁東 洋思潮﹂講座の中に、﹁日本悌教の特質﹂の項目が採用されたのも、その頃ハ但し刊行は昭和十一年五月︶であり‘大日 本悌教青年舎がその舎舘として二百高園の﹁太子殴﹂建設を費願し︵昭和十年四月三縫いて第一回の﹁太子祭﹂を昭和十 二年の二月二十一日花々しく築地本願寺に開催したといふやうな、全日本伸教青年の賓動にまで護展したのである。 ﹁悌教の日本的展開﹂といふ書物ハ昭和十一年九月、佐藤待二著﹀が、如何に版教を重ねたかといふとと、叉現に遺元の蹄 が我が毅閥単の基本であるかの如く考察されてゐる事賓等は、一切是れ皆、﹁

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本精神﹂の勃興に刺激されて目醒めた、 ﹁悌歌﹂から﹁日本悌敬﹂への自畳であると云ってよい。 以上は.極く最近の、満洲事費を契機としての、 ﹁日本悌教﹂の自畳について略説したのであるが、果して然らば ﹁日本悌教﹂の自畳は最近の事柄に属し‘過去に於ては此の事賓が全然なかったのであらうか。と一足ふに、決してさ 26 うではない。外に﹁日本精神﹂の昂揚す可き刺激を受けた時には、必や内に﹁日本伸教﹂の自畳が伴ったのである。 しばらく明治維新以後について之を翻るに、明治維新に際しては﹁悌法ハ天竺ノ悌法トノミ言ヘカラズ。乃.皇閤 ノ 悌 法 ナ リ ︸ と 主 張 し た 長 岡 謙 士 口 ハ 閑 愁 録 、 慶 臆 三 年 刊 U があり、日清戦役首時には﹁抑悌設はその開立は印度にありと 雄も開組樺寧滅後一千有徐年後山川を蹴渉して支那に侍来し叉朝鮮に移り日本に渡来す日本に渡来してより千三百有 。 。 。 。 齢年日本閤家と盛衰を共にし来り今や釜主謹んで日本悌教の名を以て世界を摩一倒するの趨勢をなせり﹂と論じ、或は ﹁日本国敏郎ち恥和⋮仲秘の開組と稿すべき人は果して誰とかたす骨骨竿是れ其人たり﹂等と説いて﹃蹴日恥骨骨歴 史 ﹄ 一 容 を 共 に 著 し た 相 津 間 明 並 に 渡 、 控 室 麟 ハ 明 治 二 十 八 年 九 月 刊 υ があり、その年の春、即ち明治二十八年五月には雑 誌﹁四明絵霞﹂八九競に水谷仁海が﹁日本の悌教は印度の悌教と異たるの説﹂を費表して居るのである。市してそれ

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は、その後明治三十四年二月の﹁四明儀霞﹂に掲載された前田聾雲博士の﹁日本悌教の特色﹂、及び明治三十九年六 月の雑誌﹁無重燈﹂に掲載された村上専精博士の﹁日本併設の特色﹂に迄及ぶ﹁日本悌敬﹂自費の一面であると見て よ い 。 前田博士は、その論文の中に於て、我が﹁日本悌教﹂が印度や支那の悌教と相違してゐるととを主張せられ、その 特色としては﹁賓行的であるとと﹂、即ち﹁世間国備法となった﹂賠を指摘されて居る。従って、我が﹁日木悌教﹂は 悌教を弘める者の側からは、その偉﹁園家を擁護する﹂ととにたると設かれた。村上博士も亦﹁悌教は本来印度の産 であるけれ

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も、その各地に停播するに随って、時と鹿とに醸じて一種の特色を帯びて費達して来たもの﹂であると とを設かれ、我が臼本悌教の特色としては、 1 ﹁初めから恥白骨昨観念の下に停播したのであり、その後の褒濯も酌勲 との密接な関係を以て今日に至った﹂ととを各時代の事蹟左奉げてとれを澄明し、 2 ﹁悌教教理の種展についてみれ ぽ密教・浮土教・坐棺修養法の三種の盛観は、我が日本の悌教に於てのみ見られ、部ち賓際的︷一目数的方面が護展し た ﹂ と と を 設 き 、

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﹁停教畢生の霊力によって大乗戒壇が比叡山に建てられて以来、我が日本悌教は大乗戒を以て一 般借風を整正するとと L たり、絡に真宗の開組親驚より公然肉食妻帯するとと a ふたった﹂とと左畢げて、以上白本の 伸敬は︵一︶園家的関係の密接なるとと︵二︶賓際的宗教的方面の殻展したとと合一︶大乗戒の賞践から肉食妻帯に 及んだととの三賭を拳げて﹁日本悌教の特色﹂とされた。それが明治三十九年六月、即ち日露戦役絡了の年に靖氏表さ れた論説である黙に、殊に吾人の注意を惹くものがある。 日露戦役の終った明治三十八年から﹁靖園紀念﹂として刊行された﹃大日本積蔵経﹄たる一大伸敬叢書があるが、 その題名の中に於て既に﹁日本﹂的自畳を見るととが出来るのであり、殊にその時の企劃の中に第二輯﹁日本部﹂が 第一輯﹁支郵部﹂と併せて考へられたのであり、賓際的にはその﹁日本部﹂が後に切り離されて﹃日本大騒経﹄四十

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八袋ハ別に目録一巻と解題二品種︶となうて、明治末年から大正年間に亘って刊行されるととになったけれども、思想的に は﹃日本大蔵経﹄の編纂は日露戦役の官時昂揚した﹁日本精神﹂の櫨績なのである。その序文の中に、松本文三郎博 士は﹁日本の伸教も其の淵源する所を尋ぬれば‘国より印度支那から来たものであるから、其の末流と云って差支な い。併しながら日本悌敢には亦自ら其の特色がるって、決して伎と全然同一視する器には行かぬ﹂とも、﹁日本伸教 は賓に印度、支那備敬思想の一結論であり、復英正眼である‘故に日本悌教は一種特殊の地位を有す﹂とも説いて、 ﹁白木偶敬﹂の謂自性にういて指摘された。叉その賢際に編纂に首った中野建慧氏の﹁悌敦閣の牛耳をとる我がわか 本帝国特有の日本大蔵経﹂の編纂に闘する抱負の中にも、揺く可き卓設がある。即ち日露戦役による﹁日本精神﹂の 興隆に由来した﹁日本悌教﹂の白魔が、﹁日本大蔵経﹂の編纂といふ未曾有の率的事業左誘輔氏せしめたのであり、それ に引き績いて﹃大日本悌数金堂百﹄百五十巻ハ別に別倉十本と目録一品種ゾ編纂の事業が起り、大正の末年から昭和にかけて ﹃姻来あ件秘叢書﹄二十径が刊行され‘その序文の中に鷲尾一順敬博士は﹁孔山中引の件秘は日本の民族が印度・西域・支 那・朝鮮の悌教を獲て、自ら大に研究精錬したる結果である。とれは賓に日本の民族が世界に誇る可き一大文化的産 物である﹂︵大正十四年一一一月︶等と述べて、日本の併教師ち﹁東方悌教﹂の謂自的意義と債値とを主張された。尚、河 野法雲氏は﹁日本備教の特色﹂を大正四年十一月の雑誌﹁無量燈﹂に稿思表せられ‘薗田宗恵氏は同じく﹁日本悌教の 特色﹂を大正五年から六年に一旦る﹁蹄肇雑誌﹂上に掲載された。而して、是れ亦我が日本が第一,次世界大戦に参加し た前後に於ける費表たのである。 28 以上は、或は明治の維新に際し、或は日清.日露.日摘の戦役に際し、我が日本因家の封外的興隆と共に昂揚した ﹁日本精神﹂が、過去一千三百年の鹿史乞もつ我が﹁日本の悌敬﹂にも及んで、調はゆる﹁日本併設﹂の自費とな h ヘ白畳した﹁日本備教﹂の立場から過去の﹁悌教﹂左見直すといふととにたったと考へられるのである。市してそ

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