悌 一 致 論
前述の如く歴史の上では紳官なるべくして借侶になり︑伶侶にして紳明に救はれ紳官にして悌に救はれたといふも
のが一一丹ならやノ見られる︒宗教として互に胸襟を披き相助けて悶還の殻展にづくし︑大政左翼賛し奉ったのが備法渡
燕以来現在に及ぶ千数百年聞に亙る紳僻闘係の賓際である︒
明治六年日浅︵一川興が神道五部書刊行に際し序文を作って 夫れ紳伸の跡回より是れ剣然す︒然も紳悌の諮りての致一である︒剣然の故に一紳慌には仰法の息宣日付め︑
功一堂西天の真に推す︒紳悌若し判然したい時は世間と出世間との分際を騨ぜ守︑若し又紳仰一致しない時は安んぞ
並べ立てL
能く一王の聖治を資くるを得ん︒方今師に悶官僧侶相和して聖朝の設化宣弘む︒誰か敢て間協惜の端を殻
一致
の故
に ぜ
ん と一再ふは.神仰分離問題の直後に於ける語であるだけ一一同意味深きを感やる︒神間決探編容中には
紳遣は混沌の境を出でL
混沌の始めに蹄し︒一一一貨は有無の見を破して賞相の地乞さとるの一岬は脇認を詞して正源に
導き仰は敦令を立てL
有相を破す︵中略︶一肺を敬ひ仰を傘ぶは清浮注先となす と卸紳と悌と各その分乞異にすれいと共に清浮を本とするの根本原理を明にした︒復同唯一一に京都智積院の事匠泊如運
倣和
尚が
延費
五年
ハ二
三一
一一
七﹀
序文
を作
って
一五
ふ︒
備法紳道互に相輔翼して道各々流行す︒近世局儒の徒強いて儒を推して之を附合し買の紳道となし︑揮氏を排する
をもって買に紳道を知ったとたす
と附言してゐるが︑
とれはその後に於ける園閥単者の立場にも共通して考へらるぺく自己の閥単問を推重するの飴り他 の教を誹諒する如きは正しい紳道者悌教者の共に取らない所である︒用者は互に輔翼してのみ一皇の聖治危資くると
とが出来る︒少くとも我閣の文運はかくして古来護展し来ったのである︒
塵添援嚢紗第十こには
紳備の内設同一にして而も化儀は各別である︒神道は一法未だ超らたい所を守って起る所の高物をぽ皆機感なりと
忌む︒悌訟は二途既に分れて後諸の迷あるを悉く質相と見る︒然れども悌法に専ら本一初不生を談じ︑榊誼に和光同
撞の利益普し︒されぽ互に閥事なけれど暫く一明を表とする時は本を守って積を忌む︒
である︒備は又末左導きて本を示す︒とれ其の本堂畳らしめんが詩めである
とれは其の末を導かんが詩め
とたす︒紳伸判然の理乞示したがらその向ふぺを遣を端的に表現した︒同書には復筏嵯峨院杉堂法端末寺をもって御願
に准ぜらるL
官符の文を出してゐるが︑その中に﹁誠に是れ王法は紳徳の加護により紳明は悌法の徳用を受く﹂と
ある
︒
王法と紳明と悌法との関係は此の文の外には移しない︑三者乞別離する如きは白Aしい大事で・なければたら
ぬ
。
日本園現報善悪霊異記は薬師寺の沙門景戒が弘仁十四年ハ一四八三︶に記した書と考へらるLが︑その上巻序文に
際紳天皇の朝に外書来り︑欽明天皇の朝に内典来る︒然るに外左閣申ぶものは悌法を誹り内を讃むものは外典を軽ん
やノ︒愚療の類は冥報を壊り罪幅を信ぜ
41
・深符の惇は内外を覗て因果を信じ恐る
と謹ぷ︒内典外典各々その墜ぶ所に執して他−
w
一誹詩するととは此の時代にもあったととらしいが︑それでは内外共に我闘に於いて道を成就するととが出来たい︒深智の徒の組しない所であるといふ︒かくて紳悌一致といふととは昭明
﹁天皇伸法を信じ給ひ紳道乞隼びたまふ﹂ととあbてより以来我園民の信念とたり今日に及び来つ
110
天皇即位前紀に
た︒羅山が本朝紳舵考序に
夫れ沙門の伊勢に入る左得示︑伊勢・賀茂の忌詞有る︒
る︒尾輿・鎌子の伸傑を拝せまる︑是れ猶上古の遺風飴烈である 内侍所に借尼の贈物を献ぜざる︒敏謹出Wの備法を信ぜざ
といふも︑沙門の伊勢に入るを得︑?といふとと並に忌詞は上に説く如く︑内侍所の儀もとれに準じて考ふペく︑敏謹
帝悌法を信じ給はやJ
とは︑室百紀各二十の記事なれど︑未だ歴史はとれ乞信じ給ふ程稜展してゐなかったと見るの外な
い︒その皇子聖徳太子の御事躍を田山ふ時その感が一一暦深い︒尾輿・錦子の件は欽明帝十三年ハ一一一一一一﹀併教渡来首初
審紳として悌法を排斥したのであるが︑それは新奮雨思想の争といふの外ゑく.
とれ
ら
もって上古の遺風齢烈といb z
ふととは早計の結論たるを菟れぬ︒
然らぽ初めに述べた如さ排悌的論議に封する所見如何といふととになる︒それは徳川期に於ける閤墜者の排悌思想 を受け︑所謂古遣を中心とした皇園意識の白血児を基礎としたものとすべての偉統を無視し歴史を捨て
L現賓に於け
る悌教徒の腐敗と無力の一面のみ乞見て排斥しゃうとするものと間平に併設は外来の宗教であるから排すべきだとす るものと︑大約これらの三種の思潮の何れかのつ若くはその合流になったものとすべきであらう︒けれど吾人の所 見によれば何れも皆我歴史の一不す正しい閤是に相臆した思潮とは考へられぬ︒
先づ古道左中心とした皇困意識は徳川時代としては可であったかも知れぬカ︑今日としては頗る偏狭に堕したもの で我歴史の一不す躍準日本の賓際に相隠しない︒明治天皇の示し給ふた五箇俸の御誓文に拝する如く︑上下心を一にし
て盛に経倫左行び奮来の阻習を破わJ天地の公道に基き知識を世界に求めて大いに長基を振起する︒そとに・氷還に護
民する我困問日生命が存する︒我国民の本領は世俗の語にもある如く来るものとばまや諮ぐるもの迫はやで︑すべて来 るものはとれを受け入れ時取して十二分に阻鴎し︑自らの血とし肉とし更に進みてそれを必要た武器とし岡家を守る 詩めの資糧として弐の新しい飛躍へ志すのである︒若し旺唱しきれない有害とさる
Lものがあったたらぽ歴史の上に
問汰され泊減する︒若し我民族の圏是とする大和の精神を揖鋭ずるものある時は破邪の創が揮はる
Lも
︑そ
はる
一く
和 の精神乞根基となす︒買に我たくましい園間生命はかくて大和の上に躍進を簡け来ってゐる︒
次に現在の悌敦徒が無力だといふとと︒それは見方に依れば一箇の限定論に過ぎぬのでたいかとさへ考へられる︒
成程多くの償侶の中には指弾さるべきものもないではなからう︒叉新聞や雑誌で宣侍さる
L程の活動と費明や鷲見を
ずるものは常にはか仏いかも知れね︒けれどその大部分は全力をさ
Lげて各々の立場で職域に奉公してゐるととは事賞
である︒但不足なのは伸教界全般に通守る強力た統整と指導宣停の機闘がたいととである︒
後に併設は外来敬であるから排すべきだとする如きは摩ろ児戯に類する所論といふの外ない︒欽明天皇の朝中臣・
物部氏の時代である怒らぽ一考さるべきも︑爾来既に一千四百年を経過し上下の信仰に於いて紳伸の巨別を見なかっ
た︒今夏それを問題にして論やる如きは好みて平地に破畑乞起すものであって︑思慮分別あるものLたすぺを論でた
ぃ︒特に現在の大東亜宍柴圏内の思想として宗教として彼れ此れ一五はるべき問題でない︒
我閣は紳固と帯されてゐるが︑それは八百再の紳が在すといふととのみでたく︑八百高のものをすペて我K
の紳
に
完成して行くととであって︑我Kの園間意識国間生命はそれを強く欲求してゐる︒大政翼賛といび世界新秩序建設と
いふも此の意固の外はないと信守る︒密教の思想をもって一五へば︑品正十市山羅の理念の額現であり賢践である︒紳悌の論 争を事とする如きは大政翼賛を概念的に扱はんとする小人の戯論のみと云は︑なければならぬ︒
︵出克一︶
112
︹ 註
︺
1
偽敷
金書
本=
一
O
五頁
2日本書紀二十一︑朝日新聞批版六図史本下・九五
釧 品 川 け は 見 道 論 の 展 開 l l p ν
仰の内容に闘する論越の史的接選
i i
自 共
西
一
︑ 序 言
=︑設一一切有部宗の見選論 一一一︑原始終典及び部汲時代に於ける見遣持に現観論
図︑特に大衆部系の主張
五︑初期大衆経論に於ける見遊説︑附︑修行道地蜘悼の詑 六︑論伽行汲に於ける見遊貌
ハ イ
U大乗挺殿経論の説 ハハ︶大乗阿見蓬腐雑集論の説 ハホ︶坐繍三昧終に於ける見遊説 七︑見選論の中心を貰︿もの
− ︑
序
設
ハ ロ 一
U構大衆論に於ける詑
?乙成唯識論に於ける見泣論
義
悉撞多は菩提樹下に於て大悟して悌陀如来とたり無上正等魔者
︵自己許可凶
S S
M − m r g g
注
Z
目出
﹀
雄
となった︒悌陀