と 悌 治
以上排悌思想を概見じ︑忌詞及び一押宮と悌伶といふととに就いて考察した︒然らぽ一紳と悌法・一押官と僧侶とは本来
如何にあるべきか鎌倉期の文献を中心として︑多少神話的に見らるL説話もあるが︑貴重に思ふものを記して一考
したいと忠ふ︒
先づ
文化
元年
ハ一
一四
六四
U十二月八十七歳で寂した河内高貴寺の大徳慈雲寧者は徳川時代に於ける員言宗の神道串者
であるが︑その話連に成る紳道大意の中に糞掃衣注意する時は紳廟を避けて通るべきを誠められたが︑然らば神明は
常に備法と僧侶と左厭ふ山といふに然らやである︒紳明が備法を喜び給ふの話は古来幾多存する︒今昔物語審十こに
は川町階寺の俗善珠の弟子に害弘といふ人あり︑心浮く悟り賢く正教を皐び音葉のととも知ってゐた︒此の人が浬撰舎
の儀式乞作り職衆左調へ柴器を副え蹟重に執行した︒然るにその翌日尾張の熱田明神が童子に託して随喜参列された
ので︑その翌日猶一度とれを執行す︑潟水市二日間勤むるの例にたったと記す︒諸事縁起集にはとれに就いち害関巳議
102
は貞翻二年二五二
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に始めて此の大合友行ぜられ︑熱田大明紳の参列を得たとし︑南部七大寺誠一鵡記興幅寺金堂の
4 僚には二月卜冗日常紫合を修するととは貞鶴二年以来にて︑同十六日法華舎を修す︒とれ尾州熱田大明紳の所望に依
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り露関法師の修する所と倖ふ︒一苅亨躍害容十︑本朝高僧偉容十︑本朝紳世考倉一等には勢州の太守藤孝忠の第二子教
闘が或一日唯識論を諦やるに坊の側に在る松の樹に呉人燕りて舞乞なし︑師の唯識論左諦やるを喜び玉ふ︒そとで誰
人かと問ふに恭一日大明紳であると答へ了って見えなくなったと記す︒戦国は・氷承二年ハ一七O七﹀六月毒七十で寂し
た︒延久四年ハ一七三二U六十二哉の時商舶に乗じて入宋し︑手天に前雨して霊験を現はし善悪大師の説を得て途に彼
の地に客死した成等は︑鯨密の法七包受けて誠修専登︑その威験紳に入ると稽されたが常に法華
請やるに苛衣の意h z
子屋上に来って聴聞してゐた︒或時中一寸の傍に大槻樹めり二夜風たさに枝が折れた︒鳴に茸現はれ来って一目ふ︒昨夜伊 勢の大紳容属を率ひ来り諸紳多く樹上に集る︒故に校在損した︑顧慮するなかれと語り塁︒て見え司なくなったと︒と れは対亨韻書巻十六・本朝高僧停泊沓六十七・大雲中守体制起に出てゐる話でるる︒遇海の点沙諸記者下にはが治二年ハ一八 四六︶二月東大寺動進の霊源上人が大仰殿再興の願を起し︑聖武天皇天干の柱時を憶ひ太紳宮へ参詣し瑞鑑の謹にて 通夜前請した︒その時大紳示現して五口近年身疲れ力衰へて大事が成し難い︒若し此の闘を遂げようとならば早く吾身 在とやせよと︑そとで上人は本寺へ還り紳明の威光乞増益するとと般若の威力に担ぐるはないとて︑大般若経二部を 酔官官摘しとれを内外雨宮へ奉納し粂て呑論議を勤修し常行寺で般若舎を始行したと出す︒古今著聞集者一一脚祇の僚に
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は霊源上人内外雨宮陀参錯するとと各七日間.第七日の夜夢に費珠を感得したといひ︑﹁末代といへ
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も信カのまへに紳明感臆を垂れ給ふととかくの如し﹂といふてゐる︒延慶三年ハ一九七
O︶の識文を載せてゐる春日擢現験記巻十四
にはかつて京に大陸亡あり四方みな焼け失せた中に一宇の家屋煙を免れて残った︒人々不思議の忠弘をして一再び騒ぐ 中に一人あり︑夢に貰衣の紳人敢輩出で来て此の屋のゑげしをさぐり火を打ち消してゐたと.そとでそのたげしを探 るに唯識論一容があった︒とれを大明紳擁護し給ふて此の家だけが残ったととを知り見聞きする人々はほめあざむだ とのととである︒問事談第五には勢田尼上︵紳祇伯顕霊母︶は常に賀茂祉に参詣した︒或日通夜の問夢に大明紳費
殿の戸を開きて仰せらるL
に︑我は踊陀念併を好む常に申せよと︒依って一世頭へ借を屈し七ケ日間不断念怖を行じ
たと︒かLる話は数多見らるtA
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︐次に紳明は孝心や大慈悲行を喜び給ふといふととに就いての話がある︒紀伊鰻風土記各四高野山の部明王院忠義の 俸には.忠義は讃岐の人にて明王院勝義の室に入った︑その機関よく一休和尚左伏したと稽さる︒明躍三年
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二
五
四︶八十九歳であったとの記録が見られるが鴎寂の年月は詳にされたい︒或時伊勢神宮へ参詣した︒詮中湯田の里に
て葬に遇ふc
そとで衣裡に縞に秘印明を結請し亡霊を引導した︒その夜該死人の亡魂現はれて家族に告ぐるに︑我は 忠義大徳の救済により頓に荷日升するを得た︒爾等は我潟めに報聾せよと︒即忠義の還る日左待って謝思したと︒高野 山明王院々譜にも此記事がある︒宗較の要諦は問責の一位舎を救ふと共にその反面霊を救ふにるるを思へぽ︑伊勢神宮 参拝の詮中の出来事であっただけ興味あるととに思ふ︒
元亨騨害容十二躍常翻の停には︑彼れは和州三輪廓の人で密教を修行し慈悲行に勝れてゐた︒或時吉野の紳聞に参 詰しようとして詮中に母を喪ひ父還行して還らタ悲泣する稚児に遇ふた︒慈悲の飴り詮葬して遣はしたきも今身は紳 闘に諾する詮中にて︑紳は死械を思み給ふ︒されど結局喪を趣くるに忍び守︑士口野紳祉へ詩するを止めて近所の野謹 に葬し一一一輪へ還らうとした︒然るに身俄に強硬して動︿能は歩︒吉野の方へ向へば何等の妨げも友い︒そとで紳嗣へ 向って参り近間き樹下に憩ひ持念するに毘あり狂舞して出づ︒常翻は思に偶れて来たので紳の誠めを受くるのであら うと思ふてゐた︒然るに亙は近く寄り来って特っとと久しく何ぞ暮れたる︒哉は忌を諒ぜや只師の惑慣を貴ぶと云ふ
104 て引いて紳股へ到る︒常観は感泣して闘ったと︒此の詰は人名を一万さ守して沙石集第一出離を紳明に前る僚にも出し
てゐる︒常観の生存年代は不明であるが︑紳明も慈悲の詰めには葬躍を思ま
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といふととを教へてゐる︒
つ ム
同巳元亨回開敢闘傘十こに躍性蓮の話乞載す︒性蓮は至孝の人であった︒その閣の風俗として亡人の品目在高野山へ約め た︒位も亦母の遺品目をもって高野山へ赴かうとし詮中尾州熱田の紳澗を泊ぐ︒紳官は思宮詳みて宿を許ざたかった︒
そとで紳嗣の南門の側に寄寓して一夜を明さうとした︒主一夜大間︵大宮司︶の夢に神託あり︐今高賓あり乞ふ君珍饗 をせよと︑間使者をして紳洞の中を検するに誰人もゐ歩︑門の側に性謹一人診るのみ︒そとで聞は蓮を呼びて其の由 を語るに︑性蓮は忌あるむ
7 4告ぐ︒祝日ふ︒我夢に紳託あり紳は師を思み・?と︒還に引を入れて盛鶴を供し紀州へ選っ た︒沙石集には﹁尾張熱田の紳官のかたりしは﹂として此の話を前の話と同じ僚に出す︒一押も思を忘れて孝心を緯ぽ
るLとと日本精神として然るペぎであらう︒
沙石集第一には復﹁神明道心を貴び給ふ﹂として︑昔三井寺が山門の徒の詩めに焼を抑はれ堂塔僧坊悌像経翁など 盛る所伝く・寺借も亦山野にまじはり人もゐない寺となったととがある︒その時寺借中の一人がその鎮守紳である新 羅明神世へ参り通夜した︒その時夢に明神が御原を挑げ御心地よげに坐するを拝した︒そして告げ給ふに異質の菩提 心を超せる寺僧一人有るととがよるとばしい︒堂塔伸経は財賓あらぽ建られるであらうけれど.菩提心を起す人は千 高人中にも有り難いと仰せられたといふ︒新羅紳に就いては別の研究乞要するが.三井と山門との争闘は源一や時代よ り鎌倉期に及び随分盛に行はれたので︑そのいつのととか今の記録は年時を示してゐない︒けれどその話の内容は何 時の時代にも誠めと汁ぺく︑紳明が悌設精神の根本たる菩提心佐一律び給ふととを去はしてゐる︒
遇海の参詩記には紳震も悌法を思ませ給ふとは忠ひたきはやJ︒会家の御所にも法施を旨とし侍り︵中略︶紳宮にも霊
病人に縄る時には信誼の大般若経乞奉諒するにそのしるし掲震であると越ぶ︒神前祈誓にも併経が用ひられてゐたと
とを
知る
︒ 共に借侶が紳に救はれた話が停へられてゐる︒郎沙石集第一和光利益甚深の事の僚に.甫都に小輔僧都嘩固といふ 解股上人の弟子にて碩開晶子の名聾高い人があった︒かつて魔道に落ち︑春日大明神が心暗く思はれ︑大明神の方便で他 方の地獄へは潰はされや︑春日野の下に地獄を樟へて取り入れ︑毎日長朝に第ココり御殿よ
b地蔵菩薩の潜水器に水を
入れ散杖左もって彼れに水左一躍が﹂給ふに.一滴の水は件の罪人の口に入りて苦慮暫く胡か
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︑少しく正念に住するやうになった時大衆経の要文や陥羅尼などを唱へて聞かせ給ふとと日々慨りたく・還に地獄の苦より浮び出でたと︒と れは伸借が紳より地獄の苦を救はれたととの一話題であるがそれと反封に神官が浮士に往生した話もある︒同じ沙 石祭器一に笠置の解脱岳上人が太神宮へ参詣した時のととであるが︑解脱上人は建暦三年ハ一八七三﹀五十九歳で寂し