永年(やうねん)から永代(ゑいたい)へ
著者 高橋, 久子, 金, [ミン]静
雑誌名 東京学芸大学紀要. 人文社会科学系. I
巻 57
ページ 125‑171
発行年 2006‑01
その他の言語のタイ トル
From Yaunen to Weitai
URL http://hdl.handle.net/2309/1171
一
筆者︵高橋︶は︑かつて日本国語大辞典第二版の﹁永代﹂の項目の語誌の原
稿を依頼され︑次のような文章を作成した︒
売券︵沽券・沽却状とも言う︶・譲状︵処分状とも言う︶・寄進状・充行
状等の証文の冒頭や本文中に︑院政期以降︑常套的に用いて︑移動した所
有権が︑期間を限ったものでないことを明示する︒養老七年の三世一身法︑
天平十五年の墾田永年私財法の発布以後︑土地私有が公認され︑田地の売
買も行われるようになった︒しかし律令制下では︑所轄の官司の許可を得
て初めて売買契約が成立し︑証文も︑官司によって作成される︑解︵げ︶
や辞︵じ︶の様式を持つ公文書であった︒この時期の公券には︑﹁永代﹂
という語は全く見えず︑﹁限永年︵やうねん・ゑいねんをかぎり︶﹂﹁永
︵ながく︶﹂﹁永年﹂が用いられている︵高頻度のものから順に挙げた︶︒
平安中期頃から︑売買公許の制度が崩壊して︑申告の必要が無くなり︑当
事者間で直接交換される私的証文としての性格が強まると︑文書の様式・
用語は︑大きく変化する︒十二世紀半ば頃から︑権利の永続性を保証する
常套句も︑以上の用語に加えて︑﹁限永代︵やうだい・ゑいたいをかぎ り︶﹂﹁永代﹂が現れ始め︑承安年間以後︑頻出するようになる︒
なお︑鎌倉〜南北朝時代の文書では︑﹁ゑいたい﹂﹁えいたい﹂と仮名書
きされた多数の遺存例のほかに︑早稲田大学所蔵文書︲貞応三年九月六
日・ふつめうゆつり状案︵鎌倉遺文三二八〇号︶に﹁やうたいおかきて︑
しゝそんにいたるまて︑りやうちすへし﹂︑伊勢光明寺文書︲貞永二年二
月十三日・度会氏子田地売券︵同四四四一号︶に﹁やうたいにさためてう
りわたすちてんしんうりけもんのこと﹂︑相良家文書︲文保二年四月廿六
日・尼めうあ譲状案︵同二六六四九号︶に﹁やうたいをかきて︑ゆつりあ
たうるところ也﹂︑光浄寺文書︲貞和二年五月八日・尼浄照譲状案︵南北
朝遺文二一九三号︶に﹁いまは浄照かやう代心にまかすへき田地たる間﹂
とあり︑更に﹁永年﹂も︑大隅台明寺文書︲建暦元年七月廿七日・藤原篤
満田地売券︵鎌倉遺文一八八五号︶に﹁ゐやうねんおかきて︑うりわたし
たてまつるところ也﹂︑豊前湯屋文書︲文暦元年三月十五日・宇佐いへつ
ね田畠譲状︵同四七〇四号︶に﹁やうねんをかきて︑ゆつりわたすところ
しつ也﹂︑大隅台明寺文書︲文暦二年三月十七日・うちのふ田地売券︵同
四七四〇号︶に﹁やうねんをかきて︑うりはたしたてまつるところしちな
り﹂と仮名書きされた例があることからすれば︑﹁やうだい﹂﹁やうねん﹂
等︑呉音でよむ形も並び行われたようである︒但し︑平安時代については︑
永 年 ︵ や う ね ん ︶ か ら 永 代 ︵ ゑ い た い ︶ へ
*高 橋 久 子
金 静 ︵ 日 本 語 日 本 文 学 ︶
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売券・譲状等証文類の仮名書き文書の遺存例が少いため︑不明である︒
この文章は︑多少簡略な形で日本国語大辞典に収録されるところとなったが︑
ここで論じた﹁永年﹂と﹁永代﹂の諸問題を︑できる限り詳細に追究するのが︑
本論の目的である︒
二
﹁永年﹂と﹁永代﹂が︑ある時代の文書に於いて︑殆ど同義で使われたこと
に就いては︑次の例を見れば充分納得が行くであろう︒東大寺文書四ノ七十三︑
寿永二年︵一一八三︶三月十三日︑尼妙念田地売券︵平安遺文四〇七八号︶に
﹁右︑件田地︑元者尼妙念先祖相伝領掌地也︑而今依有要用︑宛価直米拾漆斛︑
限永代多治助俊所売渡也﹂とあり︑近い時期の東寺百合文書ヒ︑元暦二年︵一
一八五︶二月二十三日︑葛原氏女田地売券案︵平安遺文四二二九号︶に﹁右件
私領田者︑東寺御領也︑而依有直要用︑件先生殿限永年銭伍貫伍百文藺拾束︑
所沽却渡処実正也﹂とある︒ここで﹁永年﹂と﹁永代﹂は︑全く同じ文脈で用
いられており︑実質的な意味を区別することは全く無意味であろう︒
このように︑日本の文書等でほぼ同義に用いられる﹁永年﹂と﹁永代﹂であ
るが︑ともに中国の文献で使用されていた︑純然たる漢語である︵但し︑日本
の文書に頻出する﹁限永年﹂や﹁限永代﹂は︑明らかに日本的な表現である︶︒
しかし︑それらの中国における用法は︑かなり隔たっており︑本来は同義語と
は言えない︒以下︑唐代以前の文献における﹁永年﹂および﹁永代﹂の語につ
いて論じることとする︒その際︑後述するように︑﹁永代﹂は﹁永世﹂の言い
換え語的様相を帯びているので︑併せて考察する︒
まず﹁永年﹂の語であるが︑古典的には幾つかの源流を持つ︒一つは︑尚書︑
畢命の康王の語﹁資富能訓︑惟以永年﹂である︒もとより畢命は偽古文尚書に
属すが︑その成立以降は︑経書の語と認識されたであろう︒また︑漢書郊祀志
に引く太誓に﹁正稽古立功立事︑可以永年﹂の語が見える︒このような儒教的
な﹁永年﹂︵年を永らふ︶は︑為政者が正しい政をすることで︑永く治世を保
つ意である︒
別の﹁永年﹂は︑楚辞に収められる厳忌の哀時命に﹁願壱見陽春之白日兮︑ 恐不終乎永年﹂とある類で︑﹁個人の長い寿命﹂である︒似たような文脈で﹁年
を永らふ﹂と読んで︑﹁志に従って生き︑長い寿命を全うする﹂意にも使う︒
文選に収められる傅毅の舞賦の末尾に﹁娯神遺老︑永年之術︒優哉游哉︑聊以
永日﹂とある︒この際︑単に死ぬまで生きるのか︑積極的に長生術で長生きを
するかは︑文脈に拠ろう︒
この種の個人的な﹁永年﹂は︑一方︑人の死を悼む意で用いられるようにな
る︒﹁長命を享受すべき人が︑不幸にも短命に終わった﹂という趣旨の言い回
しに於いてである︒蔡の済北相崔君夫人誄に﹁人亦有言︑仁者寿長︒宜登永
年︑黄無疆︒昊天不弔︑降此残殃﹂とあるのが︑その早い例である︒
また︑﹁永年﹂は︑より抽象的に用いられ︑﹁未来永劫﹂﹁永遠に﹂の意を持
つようになる︒劉宋の鄭鮮之の与沙門論踞食書の﹁一日之用︑不可為永年之
訓﹂や︑梁の沈約の難范神滅論の﹁譬彼僵尸︑永年不朽﹂などがそれである︒
さほど古いものではなく︑南北朝以降の用法であろう︒これは﹁永世﹂と近い
意味に用いる場合と言える︒
このように︑﹁永年﹂は多様な意味を帯びて用いられた語である︒唐代の散
文における使用例の手掛りとして︑全唐文を通覧すると︑上に挙げた用法の全
てが見られ︑特に哀悼文に用いられる例が比較的多い︒一方︑全唐文の﹁永年﹂
六二例のうち︑明確に﹁永遠に﹂の意味で用いられているのは僅か五例である︒
﹁永年﹂が多義的な語であったのに対し︑﹁永世﹂は︑専ら﹁子々孫々にわ
たって︑永遠に﹂の意味に用いられる︒範例となる経書の用例も多く︑毛詩︑
周頌︑閔予小子には﹁於乎皇考︑永世克孝︑念茲皇祖︑陟降庭止﹂の語が見え
る︒さらに尚書には︑説命下の﹁事不師古︑以克永世︑匪説攸聞﹂︑泰誓中に
﹁立定厥功︑惟克永世﹂︑微子之命の﹁与国咸休︑永世無窮﹂︑君陳の﹁其爾之
休︑終有辞於永世﹂の四例が認められる︒ここで挙げた尚書の編は全て偽古文
であるが︑後世経書の語として引用されることとなる︒
あらためて説明する迄もないが︑﹁永世﹂は︑﹁何代にもわたって永く﹂の意
であるから︑王朝や家が永く続くという文脈で用いられることが多い︒そうで
なくとも︑政治的な議論や儀礼的文章に使われる傾向がある︒全唐文の用例も︑
殆どがそのようなものである︒ただ︑李師聖の﹁唐故許氏夫人祈氏墓誌﹂に﹁上
天而仮其徳︑不仮其永世之寿︑是足可悲﹂とあるのは︑故人の寿命の短きを悼
むものであり︑通常なら﹁永年﹂を用いるべきと
ころである︒尤もこれは数少い例外であり︑﹁永
年﹂と﹁永世﹂は︑全体としては混同されない語
であったと言えよう︒
︽表1参照︾
ところで表1より読み取れるように︑﹁永世﹂
の語が古典に由来するのに対し︑﹁永代﹂は︑比
較的新しい語である︒殊に︑全唐文に於いて︑﹁永
代﹂の数が﹁永世﹂を上回っているのは注目に値
する︒その一つの原因として︑﹁永世﹂の﹁世﹂
が︑太宗李世民の諱を犯しているため︑それを避
けるために﹁永代﹂が用いられたことが指摘でき
る︒明らかな例として︑文選︑班豹王命論の﹁事
不師古而能長久者︑非所聞也﹂の注で︑李善は﹁尚
書曰︑事不師古︑以克永代︑匪説攸聞﹂と述べる︒
上にも引いた説命下の語を引きながら︑﹁永世﹂
を﹁永代﹂に書き換えているのである︒
ともあれ︑意味の上では︑﹁永世﹂と﹁永代﹂
に殆ど区別は認められない︒﹁永代﹂の古い用例
は︑晋の安帝の﹁授劉裕策﹂に﹁事遂永代︑功高
開闢﹂とあり︑﹁永世﹂と言い換えられる用法で
ある︒全唐文に五七ある用例も︑全て﹁子々孫々﹂の意である︒
以上を要するに︑日本人が範を仰いだと思われる中国︑特に唐代の文章に於
いては︑﹁後世まで永遠に﹂の意味を表すのに最も相応しい語は﹁永世﹂か﹁永
代﹂であった︒唐代からは後者が好んで用いられるような変化もあったと考え
られる︒それに対して︑﹁永年﹂は意味が多様であり︑必ずしも﹁永遠に﹂の
意で用いられない訳ではないが︑語の通常の用法であったとは言い難いのであ
る︒ 三
日本の律令の規定では︑新たに開墾された田地についての田主権は︑極めて
不安定なものであった︒班田収授の法は︑土地公有制の原理に基づいており︑
墾田の扱いに関する明確な規定が特に無く︑開墾者の権利も︑はっきりとは認
められていなかった︒田地を含めた領地を官府が取り上げることを﹁収公﹂
︵しゅくう︶と言うが︑開墾田が国郡司により収公されることも︑当然あった
と推定される︒養老七年︵七二三︶四月十七日︑三世一身法︵さんぜいっしん
のほう︶なる法令が︑太政官の﹁奏﹂により裁可・実施された︒これは︑灌漑
施設︵溜池・用水溝等︶を新しく作って開墾した田は︑三世︵本人・子・孫の
三世代︑または︑子・孫・曾孫の三世代︶まで収公しないで私有を許し︑既設
の灌漑施設を利用して開墾した田は一身の間︵開墾者自身が死亡するまで︶収
公しないで私有を許可する︑というものであった︒この法令により︑国郡司の
恣意的な収公から︑開墾者の権利が守られることになった︒しかしそれと同時
に︑この法令は︑墾田の田主権があくまでも期限付きのものであり︑三世代ま
たは一世代で収公されることを明文化してしまった︒そのため︑収公期限が近
付くと︑農人が耕作を怠るようになり︑開墾田が荒れることもあった︒
三世一身法から二十年後の天平十五年︵七四三︶五月二十七日︑墾田永年私
財法︵こんでんえいねんしざいほう︶なる法令が︑﹁勅﹂として出された︒弘
仁格に収められた本文︵類聚三代格︑巻十五︑易田并公営田事による︶は︑次
の如くである︒
墾田并佃事
勅︒墾田︑拠二養老七年格一︑限満之後︑依レ例収獲︒由レ是︑農夫怠倦︑ 開レ地復荒︒自レ今以後︑任為二私財一︑無レ論二三世一身一︑悉咸永年莫レ取︒
︵以下略︒傍線は筆者︶
また︑続日本紀︑巻第十五︑天平十五年五月の条には︑次のように記録されて
いる︒
詔曰︑如聞︑墾田︑依二養老七年格一︑限満之後︑依レ例収授︒由レ是︑農 夫怠倦︑開レ地後荒︒自レ今以後︑任為二私財一︑無レ論二三世一身一︑咸悉永
表1 中国の文献における「永年」「永世」「永代」の用例数
全唐文・唐文拾 遺・唐文続拾
62 28 57
(固有名詞等を除く)
全唐詩 4 0 1 全上古三代秦
漢三国六朝文 31 52 3 先秦漢魏晋
南北朝詩 10 12 0 文選
3 4 0 十三経本文
1 5 0 書名
永年 永世 永代
年莫レ取︒︵以下略︒傍線は筆者︶
この法令により︑収公期限は廃止され︑墾田は﹁私財﹂として﹁永年﹂収公さ
れず︑開墾者の田主権が保証されることとなった︒以後︑土地私有が公認され︑
墾田の売買・相伝・寄進が可能となった︒
さて︑天平十五年以降の︑墾田の売買・相伝・寄進に関わる文書を見ると︑
公的文書としての性格を有している︒律令制下では︑所轄の官司︵京都では坊
令︑諸国では郷長︶の許可を得て初めて契約が成立し︑証文も︑官司によって
作成される︑解︵げ︶や辞︵じ︶の様式をとる︒この時期の公券において︑移
動した所有権が︑期間を限ったものでないことを常套的に示す語句としては︑
﹁永﹂︵ながく︶・﹁限永年﹂︵やうねんをかぎり︶等が使用されている︒幾つ
か例を挙げる︒
1東南院文書︑天平神護元年︵七六五︶四月二十八日︑因幡国高庭荘券︵寧
楽遺文中巻七三七頁︶﹁因播︵幡︶国司牒東大寺三綱務所/墾田券文壱紙
︿部下高草郡田者﹀/牒︑得寺去三月十四日牒︑得彼部高草郡国造難磐之
妻子解状云︑上件墾田︑永売寺家︑欲足損物者︑三綱依解状︑検領已訖︑乞
察此趣︑依田図籍勘定︑欲得券文︑仍注事状︑付僧慶浄者︑今依牒旨︑立券
如件︑便付廻使僧慶浄︑具状以牒﹂
2東南院文書三ノ四十一︑延暦六年︵七八七︶三月二十日︑五百井女王家寄
進状︵平安遺文二号︶﹁従四位上五百井女王家/合墾田伍町︿在越中国﹀/
右︑華厳院永進納如件﹂
3東大寺文書︑弘仁九年︵八一八︶三月十日︑近江国大国郷墾田売券︵平安
遺文四四号︶﹁大国郷戸主大荒木臣浄川戸調首富麻呂解申立売買墾田券事
/合弐段弐佰漆拾陸歩直米弐斛伍斗/十条六里四上野田佰漆拾陸歩/十野
依田弐段佰歩/右件墾田︑充米弐斛伍斗価直︑限永年与領戸主従八位上調首
新麻呂既訖︑望請︑依式立券︑仍勒保証署名申上︑以解﹂
4東京大学所蔵文書︑弘仁十年︵八一九︶二月十六日︑近江国大原郷長解︵平
安遺文四四二一号︶﹁大原郷長解申依部内佰姓所負官物限永年売買墾田并
畠地立券文事/合/畠地弐段四至︿東限中垣南︵限︶秦持古家際北
限溝西限酒人広曰佐垣﹀直稲肆拾束/外畠壱段四至︿東限秦持古家
西限垣北限垣南限大道﹀直稲弐拾束/墾田伍段︿大原一条三里廿二今 治田伍段﹀直稲壱佰伍拾束/椋壱宇直稲壱拾束/草屋弐間直稲弐拾束
/売人大原郷戸主秦浄継戸口同姓有伍倍/得買人浅井郡湯次郷戸主従八位上
的臣吉野戸口中嶋連茂子/右︑得戸主秦浄継申状︑依己戸口有伍倍所負官
物︑己之地墾田等︑限永年価直充稲弐佰肆拾束︑与売上件茂子地畢者︑今
依辞状︑召証人等覆勘︑所陳有実︑仍録売買両人署名︑立券文申送如件︑以
解﹂
5林康員所蔵文書︑弘仁十四年︵八二三︶十二月九日︑近江国長岡郷長解︵平
安遺文四八号︶﹁長岡郷長解申部内伯姓切常根売買墾田立券文事/合壱段
/大原二条三里廿五墓原百八歩/廿六柿田百八十歩/売人長岡郷戸主軽継人
戸口秦富麿/得買人/右︑得管郷長丸部今継解状︑戸主軽継人戸口秦富麻
呂申云︑依己之所負正税︑己之父秦永寿之名墾田矣︑限永年価直稲充参拾束︑
売与浅井郡湯次郷戸主従六□︵位︶下的部臣吉野戸中嶋連大刀自既畢者︑
依款状︑彼□︵保︶証刀禰等召集覆勘︑所陳有実也︑望請︑郷解文欲立券文
者︑今依申状売買勒両人連名︑立券文如前︑即附買人申送︑以解﹂
右に挙げたような︑ごく初期の文書をはじめとして︑一一〇〇年以前の売券
︵沽券・沽却状とも言う︶・譲状︵処分状とも言う︶・寄進状・充行状等の証文
の本文では︑圧倒的に﹁限永年﹂が使用されている事例が多い︒これは︑天平
十五年の︑いわゆる墾田永年私財法の影響によるものであると考えられる︒
そもそも売買契約の文書に﹁永﹂が用いられる事例は︑敦煌文書にも見られ︑
通常の発想であるかも知れない︒しかし︑﹁限永年﹂という特殊な表現が流布
したことについては︑墾田永年私財法の如き法制用語が与えた影響を考えて良
かろう︒上述したように︑漢語としては﹁限永年﹂はあり得ない表現である︒
元来期限を設けるのが当たり前であった売買・譲渡等の関係が︑法律によって
無期限の保証が得られたため︑﹁限永年﹂のような新表現が成立したものと推
測できる︒その際︑﹁限永世﹂﹁限永代﹂でなく︑まず﹁限永年﹂の語が用いら
れたのも︑同法の影響であろう︒既に論じたように︑無期限を表す漢語として
は﹁永年﹂でなく︑より自然な﹁永世﹂﹁永代﹂を用いる選択肢も有った筈だ
からである︒
その﹁永世﹂の例は極めて少く︑平安遺文では︑次の一例のみであった︒
6伝教大師消息︑大同四年︵八〇九︶二月十七日︑僧最澄書状︵平安遺文四
三三六号︶﹁仲春稍暖︑伏惟大阿闍梨︑法明道安穏︑道体康和︑︿最澄﹀蒙
恩︑慕法之志︑無日不渇︑但当世之障︑不意繁興︑且隔法顔︑伏願照察︑無
縁慈不忘貧道︑瑜伽闍梨豈不照弟子之志哉︑謹因妙澄仏子童子還︑奉状起居︑
不宣謹状︑/二月十七日/永世弟子最澄︿状上﹀/遍照大阿闍梨︿法前﹀﹂
この形容詞的な﹁永世﹂の用例は︑弟子が師に向かって﹁永遠の弟子﹂と自称
しているのであり︑文書特有の用語とは言えない︒
﹁永世﹂の代わりに唐代以降盛んに用いられた﹁永代﹂に就いても︑この時
期の売買・相伝・寄進関係の公券には全く見えない︒とは言え︑次に示す例の
ように︑﹁永代﹂は専ら﹁永世﹂と同じ意味用法で使用されている︒文脈こそ
多様であるが︑いずれも﹁未来永劫にわたって︵の︶﹂という意である︒
7仁和寺本伝教大師求法書︑弘仁七年︵八一六︶四月二十一日︑僧最澄書状
︵平安遺文四四一〇号︶﹁憶前乍別︑信宿憤鬱︑夜来不審︑道体如何︑最澄
蒙免︑但出世之友︑更無他人︑善悪之事未蜜︑塔院切磋琢磨︑同入水火︑先
日歴日示心裏悩︑亦為奉慰︑憑集法志︑忽寄隣院未知深意︑最澄已老︑亦極
窮年︑同法已別︑老前含悲︑画夜憂慮︑雖知縁限︑追憶無極︑伏乞︑照察本
願︑遙留此院︑早帰弊室︑倶期仏恵︑莫使独証︑彼無漏道︑今夜夢裏有大境
界︑不敢顕出︑自今以後︑苦楽倶知︑住持此宗︑莫嘖自心︑以忘本願︑若今
日不帰︑永代失計︑不任至之心︑謹遣弟子沙彌永智︑奉状請還︑努力々々︑
莫棄老僧︑謹疏﹂
8延暦寺所蔵天台法華宗年分縁起所収︑弘仁九年︵八一八︶五月十三日︑僧
最澄上表文︵平安遺文四四一七号︶﹁国宝何物︑宝道心也︑有道心人︑名為
国宝︑故古人言︑径寸十枚︑非是国宝︑照于一隅︑此則国宝︑⁚⁚凡国師国
用︑依官符旨︑差任伝法及国講師︑其国講師一任之内︑毎年安居法服施料︑
即便収納当国官舎︑国司郡司相対検校︑将用国裏︑修池修溝耕荒埋崩︑造橋
造船︑殖樹殖紵︑蒔麻蒔草︑穿井引水︑利国利人︑講経修心︑不用農商︑然
則道心之人︑天下相続︑君子之道︑永代不断︑/右六条式︑依慈悲門︑有情
導大︑仏法世久︑国家永固仏種不断︑不任之至︑奉円宗之式︑謹請天
裁︑謹言﹂
9伝述一心戒文下所収︑天長十年︵八三三︶十月二十八日︑僧光定上表文︵平
安遺文四四三五号︶﹁故最澄法師弟子沙門光定言︑⁚⁚最澄法師︑備為国家︑ 不欲園田︑不入酒与之女︑永代常例令修学︑十二年山籠僧︑立一乗戒場︑度
年分人︑置文殊上座︑受行法之旨︑与諸寺有異︑守玄門理︑弘大道宗﹂
10
園城寺文書︑貞観八年︵八六六︶十一月日︑太政官牒︵平安遺文四四九四
号︶﹁太政官牒/十禅師延暦寺伝燈大法師位円珍/⁚⁚円珍謹検旧例︑祖師
十禅師伝燈大法師位最澄︑父師十禅師伝燈大法師位義真︑延暦年中奉勅入唐
請益︑帰朝之日︑並蒙給勅印公験︑又師兄前入唐天台宗請益十禅師伝燈大法
師位円仁復命之時︑請春秋二季永修灌頂︑兼加金剛頂経・蘇悉地経業年分度
者並蒙報符︑中興師風︑皆為永代不朽之験也﹂
四
平安中期頃から︑売買公許の制度が崩壊して︑申告の必要が無くなり︑当事
者間で直接交換される私的証文としての性格が強まると︑文書の様式・用語は︑
大きく変化する︒冒頭が﹁売渡﹂・﹁沽却﹂等で始まる様式が成立し︑一般化す
る︒権利の永続性を保証する常套句も︑﹁永代﹂︵やうだい・ゑいたい︶・﹁限
永代﹂︵やうだいをかぎり・ゑいたいをかぎり︶が現れ始め︑一一〇〇年代か
ら頻出するようになる︒
平安遺文における︑﹁永年﹂と﹁永代﹂の十年毎の各用例数の推移を︑表2
及び表3に示す︒
︽表2・表3参照︾
溯るほど文書の遺存点数が少くなるので︑一〇四〇年頃迄については何とも言
えないが︑一一三〇年頃を境として︑その前は﹁永年﹂が優勢︑その後は﹁永
表2 平安遺文における「永年」
「永代」の用例数の推移
永代 0 0 0 2 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 2 3 1 0 2 1 4 0 0 2 2 5 7 14 13 15 16 27 40 44 204 永年
0 0 0 4 6 2 0 2 2 0 1 0 2 0 2 2 0 1 0 0 1 1 0 1 0 2 7 8 10
5 9 7 6 23 13 11 12 10 19 33 202 西暦年
786〜795 796〜805 806〜815 816〜825 826〜835 836〜845 846〜855 856〜865 866〜875 876〜885 886〜895 896〜905 906〜915 916〜925 926〜935 936〜945 946〜955 956〜965 966〜975 976〜985 986〜995 996〜1005 1006〜1015 1016〜1025 1026〜1035 1036〜1045 1046〜1055 1056〜1065 1066〜1075 1076〜1085 1086〜1095 1096〜1105 1106〜1115 1116〜1125 1126〜1135 1136〜1145 1146〜1155 1156〜1165 1166〜1175 1176〜1185 合計
西暦年
用例数 永年
永代 50
45 40 35 30 25 20 15 10 5 0
786〜795 806〜815
826〜835 846〜855
866〜875 886〜895
906〜915 926〜935
946〜935 966〜975
986〜995 1006〜1015
1026〜1035 1046〜1055
1066〜1075 1086〜1095
1106〜1115 1126〜1135
1146〜1155 1166〜1175
代﹂が優勢であることは︑確
実に読み取れる︒
次に︑﹁永年﹂と﹁永代﹂
の意味用法の接近と混同・交
替に関わる︑幾つかの顕著な
現象を以下に示す︒
①一通の文書内での﹁永﹂・
﹁永年﹂と﹁永代﹂の共存
西暦一一〇〇年を過ぎた頃
から︑一通の文書の中に︑
﹁永﹂︵ながく︶若しくは
﹁永年﹂︵やうねん︶と﹁永
代﹂︵やうだい・ゑいたい︶
とが共存するケースが現れる
ようになる︒以下に具体例を
示そう︒
1東大寺文書四ノ七十四︑
天仁二年︵一一〇九︶十二
月十九日︑加茂石丸田地売
券︵平安遺文一七一二号︶
﹁右件田元者︑石丸之為年来相伝所領︑敢無他妨︑而依有要用︑限直米漆石︑
永売渡僧叡尊之処也︑但依無本券︑立新券︑可為永代之公験之状︑如件﹂
2成簣堂所蔵東大寺文書︑元永二年︵一一一九︶十二月十三日︑藤原清末田
地売券︵平安遺文一九〇五号︶﹁右件田︑元者藤原清末之伝領之処也︑雖然︑
領掌之間︑敢無他妨領作年尚矣︑而依有要用︑限直米拾斛伍斗︑平仲子永所
売与常地也︑但於本公験者︑依有残地不能渡進︑仍為永代亀鏡︑勒売買両人
并随近在地署名︑立券文如件︑以解﹂
3成簣堂所蔵東大寺文書︑保安四年︵一一二三︶八月二十三日︑藤井清末田
畠売券︵平安遺文一九九五号︶﹁右︑件田畠者︑為藤井清末之相伝所領耕作
之間︑敢無他之妨︑而今依有要用︑限直米拾斛陸斗︑平仲子相副本公験︑永 所売渡進也者︑為永代亀鏡︑勒随近在地并売買両人署名︑立券文如件︑以解﹂
4台明寺文書︑長承四年︵一一三五︶六月日︑大隅国財田稲富解︵平安遺文
二三一九号︶﹁右︑謹検案内︑件田地以指要物︑限永年所買得也者︑任本領
主等之沽券之旨︑賜国判︑為令永代之証文︑相副券書等︑言上如件︑以解﹂
5林康員文書︑仁安二年︵一一六七︶二月十日︑僧能因田地処分状︵平安遺
文三四一五号︶﹁右︑件田地者︑能因先祖相伝所領也︑而今依為嫡子︑於実
鑒院限永年処分渡了︑敢不可有牢籠︑仍為永代証文︑相副本公験︑勒新券文︑
令処分之状︑如件﹂
6筒井寛聖氏所蔵東大寺文書︑仁安四年︵一一六九︶三月二十二日︑高乃末
武畠地売券︵平安遺文三四九九号︶﹁右件畠地︑元者高乃末武相伝領掌地也︑
于然依在直要用︑牛母子白布十段に︑限永年作手︑藤原国貞売渡進実正明白
也︑⁚⁚但件地券文︑不盧︵慮︶外焼亡了︑田地以公験為魂︑故立否実︵実
否︶状可為永代公験︑依請在地証判状如件﹂
7百巻本東大寺文書七十号︑寿永二年︵一一八三︶正月二十一日︑僧義鑒田
地売券︵平安遺文四〇六六号︶﹁右︑田地元者︑僧義鑒先祖相伝之私領也︑
敢无他妨︑領掌年尚︑然而依有要用︑差直米陸斛︑限永年作手︑於僧教俊所
売渡実正也︑但雖可副渡流代之本公験︑依為連券︑不能副進者︑以斯券文︑
可備永代亀鏡︑仍為後日沙汰︑放新券所売与如件﹂
いずれの文書においても︑まず﹁永﹂・﹁永年﹂の語が先に出る︒これは︑従来
の文書形式をそのまま踏襲したものであって︑﹁永年﹂の方は︑特に﹁限永
年﹂・﹁永年作手﹂の形で用いられる場合が多い︒一方︑﹁永代﹂の方は︑﹁永
代︵之︶証文﹂・﹁永代公験﹂︵やうだい・ゑいたいのくげん︶・﹁永代亀鏡﹂
︵やうだい・ゑいたいのきけい︶の形で用いられ︑権利に関わる︑当該文書の
実効性・有効性を保証するものである︒このような︑二重とも言える保証が︑
一通の文書に於いて行われている事実は︑極めて興味深い︒現在のように不動
産登記などの無かった時代であるから︑ある人から土地を買って︑後になって
その土地の所有権を主張する第三者が突然現れる危険が有った︒売買公許の制
度の崩壊により︑文書が公券ではなくなり︑当事者間で交わされる私的証文に
なってしまうと︑そのような危険の無いことを幾重にも保証する必要が生じた
のである︒その際︑上に引いた三の7〜
10の例に見られる︑﹁永遠の﹂の意の
表3 平安遺文における「永年」「永代」の用例数の推移
形容句として定着していた﹁永代︵之︶﹂が使用されたのは︑当然の成り行き
であったと言える︒
そして︑このような︑文書内での共存の段階を経て︑﹁永﹂・﹁永年﹂と﹁永
代﹂との意味用法が接近し︑混同されるようになって行く︒
②﹁限永年﹂と﹁限永代﹂
先に︑西暦一一〇〇年以前の売券︵沽券・沽却状︶・譲状︵処分状︶・寄進
状・充行状等の証文の本文では︑圧倒的に﹁限永年﹂︵やうねんをかぎり︶が
使用されている事例が多く︑これは︑天平十五年の墾田永年私財法の影響によ
るものであることを述べたが︑一一〇〇年を過ぎると︑﹁限永代﹂が現れるよ
うになる︒次に例を挙げる︒
8京都大学所蔵文書︑康和三年︵一一〇一︶五月日︑僧全誉譲状案︵平安遺
文一四四三号︶﹁右︑件山寺并坊舎所従等︑全誉師資相承之処也︑而相副次
第手継等︑限永代所譲与于僧全心也︑尽未来際︑更以不可有他妨者也︑仍為
向後亀鏡︑譲与□□︵之状︶如件﹂
9高野山文書続宝簡集六十五︑保安元年︵一一二〇︶十二月十九日︑尾張姉
子田地売券︵平安遺文一九一五号︶﹁右︑件田︑元者︑女尾張姉子先祖相伝
之領地也︑而今依有要用︑直絹八丈参疋︑限永代︑僧長智所売渡也︑仍為後
日沙汰︑所放立券文如件﹂
10
白河本東寺百合文書四十八︑天治二年︵一一二五︶十二月十九日︑大法師
某田地売券︵平安遺文二〇五五号︶﹁右︑件内田︑職掌近貞所領也︑而依有
所負︑上領者也︑其之後有直要用者︑真如房限永代所売渡進︑沙汰券文如件﹂
11
紀伊続風土記付録三日前宮文書︑大治六年︵一一三一︶十二月二十六日︑
紀伊国造紀高経辞状︵平安遺文二一八二号︶﹁右︑田畠免除元者︑大田村田
畠捌拾参町者︑散位紀朝臣高経先祖相伝所領也︑依為神官職国造紀朝臣良守︑
限永代所令譲与者也﹂
右に見る如く︑これらの﹁限永代﹂は︑意味も用法も︑かつての﹁限永年﹂と
酷似しており︑既にこの時期に至ると︑両語の混同が起こりつつあったことが
窺われるのである︒
③﹁永年作手﹂︵やうねんのさくて︶と﹁永代作手﹂︵やうだい・ゑいたいのさ
くて︶ ﹁作手﹂は︑田畠の耕作権及び請料の徴収権を意味する︒十一世紀に入ると︑
﹁作手﹂は︑在地の富裕な領主の権利となり︑代替わりの際に︑相伝・売買・
寄進の対象となった︒この権利を保証する文言として︑平安遺文の五八七・六
四六・六八八・七三〇・九七八・九八七・一〇九七・一三五〇・一六六八・一
七六八・二〇〇一・二二九八・二三二〇・二三六一・二三七九・二四一八・二
四五六・二五八九・二八二四・三一八六・三四四三・三四七九・三四九九・三
五二九・三五六二・三五七二・三五八〇・三七二〇・三七五二・三七八三・三
八九九・三九〇二・三九一四・三九一九・三九四七・四〇六六・四〇七五・四
一一九・四一四二・四六〇五・四七二四・五〇四〇・補二七・補四九・補一三
一・補三一八号文書に﹁永年作手﹂もしくは﹁永年之作手﹂という語句が用い
られており︑これが本来のものである︒しかし︑二四四二・三五三〇・三六四
四・三九〇六号文書では﹁永代作手﹂となっている︒このうち最も早い二四四
二号文書は︑保延七年︵一一四一︶のものである︒
以上の三つの顕著な現象を観察して導き出せる結論は︑次のようになろう︒
天平十五年の勅の影響で︑田地等の私有の権利の永続性を保証する文言として
は︑本来︑﹁永年﹂が用いられた︒しかし︑売買公許の制度が崩壊した平安末
期頃から︑私的証文としての売券等において︑権利の保証をより強調する必要
が生じ︑﹁永代﹂も併用されるようになる︒その結果︑両語の意味・用法の接
近が起こり︑一一三〇〜一一四〇年に至ると︑完全に混同され︑以後︑﹁永代﹂
の使用が優勢になる︒
五
鎌倉遺文・南北朝遺文中国四国編・南北朝遺文九州編・戦国遺文後北条氏編
における︑﹁永年﹂と﹁永代﹂の十年毎の各用例数の推移を︑表4〜
11に示す︒
括弧内は︑仮名書き例の内数である︒
︽表4〜
11参照︾
鎌倉時代に入ると︑﹁永年﹂の使用例は減少の一途を辿り︑南北朝時代には︑
ごく少数の用例しか見出せない︒南北朝遺文中国四国編︵左の1〜6︶・同九
州編︵左の7〜
13︶の﹁永年﹂の例は︑次に挙げるように︑文書の定型通りの
西暦年
用例数 永年
永代 400
350 300 250 200 150 100 50 0
1186〜1195 1196〜1205
1206〜1215 1216〜1225
1226〜1235 1236〜1245
1246〜1255 1256〜1265
1266〜1275 1276〜1285
1286〜1295 1296〜1305
1306〜1315 1316〜1325
1326〜1335
西暦年
用例数 永代
永年 70
60 50 40 30 20 10 0
1334〜1343
1354〜1363 1344〜1353
1364〜1373
1374〜1383
1384〜1393
表4 鎌倉遺文における「永年」「永代」の 用例数の推移
永代 32(0)
58(0)
51(0)
114(0)
139(1)
139(4)
131(5)
150(8)
187(23)
259(21)
223(27)
336(51)
318(49)
343(48)
254(53)
2734(290)
(括弧内は仮名書き例の内数)
永年 25(0)
17(0)
28(0)
39(0)
63(2)
22(0)
25(0)
18(4)
13(2)
18(4)
12(1)
13(2)
5(0)
11(5)
10(4)
319(24)
西暦年 1186〜1195 1196〜1205 1206〜1215 1216〜1225 1226〜1235 1236〜1245 1246〜1255 1256〜1265 1266〜1275 1276〜1285 1286〜1295 1296〜1305 1306〜1315 1316〜1325 1326〜1335 合計
表6 南北朝遺文中国四国編における「永 年」「永代」の用例数の推移
永代 66(11)
59(13)
49(12)
45(4)
47(8)
36(2)
302(50)
(括弧内は仮名書き例の内数)
永年 0(0)
2(0)
0(0)
1(0)
0(0)
3(0)
6(0)
西暦年 1334〜1343 1344〜1353 1354〜1363 1364〜1373 1374〜1383 1384〜1393 合計 表7 南北朝遺文中国四国編における「永年」「永代」の用例数の推移
表5 鎌倉遺文における「永年」「永代」の用例数の推移
西暦年
用例数 永年
永代 80
70 60 50 40 30 20 10 0 1334〜1343
1354〜1363 1344〜1353
1364〜1373
1374〜1383
1384〜1393
西暦年
用例数 永年
永代 30
25 20 15 10 5 0
1499〜1508 1509〜1518
1519〜1528 1529〜1538
1539〜1548 1549〜1558
1559〜1568 1569〜1578
1579〜1588
表8 南北朝遺文九州編における「永年」
「永代」の用例数の推移 永代 73(28)
76(24)
48(15)
43(12)
38(14)
27(9)
305(102)
(括弧内は仮名書き例の内数)
永年 2(1)
3(0)
1(1)
1(1)
1(0)
1(1)
9(4)
西暦年 1334〜1343 1344〜1353 1354〜1363 1364〜1373 1374〜1383 1384〜1393 合計
表10 戦国遺文後北条氏編における「永年」
「永代」の用例数の推移 永代 3(0)
0(0)
0(0)
1(0)
3(0)
13(0)
21(0)
20(0)
27(0)
88(0)
(括弧内は仮名書き例の内数)
永年 0(0)
0(0)
0(0)
0(0)
0(0)
0(0)
0(0)
0(0)
0(0)
0(0)
西暦年 1499〜1508 1509〜1518 1519〜1528 1529〜1538 1539〜1548 1549〜1558 1559〜1568 1569〜1578 1579〜1588 合計 表9 南北朝遺文九州編における「永年」「永代」の用例数の推移
表11 戦国遺文後北条氏編における「永年」「永代」の用例数の推移
もののみである︒仮名書き例は後掲する︒
1東大寺文書成︱八〇五︑康永三年︵一三四四︶十月二十四日︑東大寺大勧
進職置文︵南北朝中国四国一三七二号︶﹁石墓水田壱段︿所当米壱石定﹀并
宿谷池田廻垣代藪等︑限永年以直米漆石陸斗︑令売︵買︶得之﹂
2伊予観念寺文書︑文和二年︵一三五三︶十一月十四日︑新居蓮心清忠連署
譲状︵南北朝中国四国二五三五号︶﹁右下地は心さしあるによて︑新居元心
御房︑限永年︑ゆつりわたすところ︑めいはくしちなり﹂
3伊予観念寺文書︑建徳二年︵一三七一︶十月十五日︑聖祐沽却状︵南北朝
中国四国三九〇二号︶﹁右件田畠地者︑相互依有要用︑買人観念寺明三房代
用途六貫文︑限永年放手沽却渡処在地明白実也﹂
4土佐安芸文書︑明徳二年︵一三九一︶八月十六日︑僧重成勤大僧職畠譲状
︵南北朝中国四国五三七〇号︶﹁而上□□重宗︿仁﹀彼御勤等︑大僧分畠共︑
限永年譲□□﹂
5土佐安芸文書︑明徳二年︵一三九一︶八月十六日︑法橋重成住坊屋敷譲状
︵南北朝中国四国五三七一号︶﹁右件住坊屋敷子細者︑重成之代々資師相伝
之坊敷所帯也︑而子息重宗︿仁﹀︑限永年譲与処実也﹂
6土佐国蠹簡集拾遺二︑明徳二年︵一三九一︶八月十六日︑法橋重成田畠譲
状写︵南北朝中国四国五三七二号︶﹁抑件田畠等者︑重成師資相伝之所帯也︑
而於子息重宗︿仁﹀︑限永年譲与処実也﹂
7豊前小坂坊文書︑暦応三年︵一三四〇︶七月十六日︑弥勒寺公文勾当別当
神修譲状案︵南北朝九州一五五三号︶﹁右︑件所帯所職名田畠屋敷荒野等者︑
神修重代相伝当知行無相違地也︑委細公験炳焉也︑随而今任譲状︑宮寺諸宮
被加証判畢︑然者於于今者︑千歳丸仁限永年所譲与也﹂
8安房妙本寺文書︑康永三年︵一三四四︶二月二十八日︑尼明知沽却状︵南
北朝九州一九九五号︶﹁右︑件の地は故成願か私領也︑用要あるによて日向
国富田荘内日智屋寺別当御房に永年お限て︑用途六百文になかくうりわたし
まいらせ候ところしちなり﹂
9豊前永弘文書︑貞和五年︵一三四九︶三月二十二日︑宇佐保範譲状︵南北
朝九州二五八二号︶﹁右︑於彼三職者︑先祖宮雄以来︑無他妨相伝畢︑而今
子息宇佐二郎丸相副公験証文手継等︑限永年所譲渡実也﹂
10
豊前今仁文書︑観応元年︵一三五〇︶七月二十二日︑藤原経頼・沙彌光阿
連署譲状写︵南北朝九州二八〇七号︶﹁右︑件田畠屋敷等者︑経頼祖父得覚
円譲︑重代相伝当知行無相違地也︑而於于今者︑嫡子犬房丸限永年所譲与実
也﹂
11
肥後志賀文書︑康暦二年︵一三八〇︶六月一日︑田原正仙譲状案︵南北朝
九州五六〇三号︶﹁右︑名田畠山野等は︑正仙相伝当知行無相違地也︑しか
るをいまにおいては︑子息僧宝掌に永年をかきてゆつりあたふるもの也﹂
12
豊前永弘文書︑無年号︑宇佐保実売券案︵南北朝九州六八四一号︶﹁右︑
件於田代者︑相伝領知也︑而依有要用︑限永年王貞未進仁所沽渡申実也﹂
13
薩藩旧記二十所収市来崎文書︑無年号︑秀貞譲状写︵南北朝九州六九三八
号︶﹁右︑田屋敷等︑為親父妙義禅門之譲無当知行無相違︑然間︑限永年譲
与熊松丸畢﹂
文書の一般的性質として︑従来の様式・書式を遵守しようとする傾向が強い︒
出挙は︑春に穎稲を貸し付けて︑秋の収穫後に元本︵本穎︶と五割の利息︵利
稲︶を徴収したところから︑穎稲を数える単位が用いられ︑一束につき五把ず
つの利分︑の意で﹁伍把之利﹂︵ごはのり︶という形で利率を示した︒時代が
下り︑穎稲でなく籾種としての稲穀を借り請けるようになってからも︑この形
式は踏襲され︑依然として﹁伍把之利﹂若しくは﹁伍把利﹂の形で利率が示さ
れた︵これが今日の﹁一割︑二割⁝﹂の﹁わり﹂の起源である︶︒
従って︑﹁永年﹂についても︑南北朝時代のごく少数の用例は︑従来の文書
の様式をその儘踏襲したものに過ぎないと考えて︑差し支え無さそうである︒
漢文脈で用いられる﹁永年﹂︵ゑいねん︶は別として︑文書における﹁永年﹂
︵やうねん︶は︑平安時代末期以降︑徐々に﹁永代﹂に取って替わられたとい
う事実は︑やはり動かし難い︒
六
東京大学文学部国語研究室蔵永和四年本法華経音義︑一七丁表に﹁ヰヤウ
︿四字﹀永詠栄営﹂︑世尊寺本字鏡︑第二冊五四丁表に﹁永︿ヰヤウ音ツネ
ニヒタフルナカウスナカシナカク﹀﹂︑観智院本類聚名義抄︑法下二二
丁表に﹁永⁝︿于憬反ナカシナカウスツネニヒタフルフツニ和ヤ
ウ﹀﹂とあり︑﹁永﹂の呉音は﹁ゐやう﹂または﹁やう﹂である︒黒川本色葉字
類抄︑井篇畳字部に﹁永年︿天部年月分﹀﹂︑大東急記念文庫蔵十巻本伊呂波
字類抄︑為篇畳字部に﹁永代々年々月﹂とあることからすれば︑平安時代
の﹁永年﹂・﹁永代﹂の一般的な読みは︑それぞれ﹁ゐやうねん﹂・﹁ゐやうだ
い﹂であったことが知られる︒
平安時代の文書に就いては︑売券・譲状・寄進状等の仮名書き文書の遺存例
が︑残念乍ら無い︒鎌倉時代に入り︑一二三○年代になると︑文書の仮名書き
例が現れるようになる︒以下︑用例を見て行くことにする︒
︹鎌倉遺文の﹁やうねん﹂及びその変異の例︺
1豊前湯屋文書︑文暦元年︵一二三四︶三月十五日︑宇佐いへつね田畠譲状
︵鎌倉遺文四七〇四号︶﹁しかるを一人のこなきあいた︑しやていかう四郎
いへよしに︑やうねんをかきて︑ゆつりわたすところしつ也﹂
2大隅台明寺文書︑文暦二年︵一二三五︶三月十七日︑うちのふ田地売券︵鎌
倉遺文四七四〇号︶﹁みきくたんすいてん︑ようようのちきもつあるによて︑
しやうせはうに︑やうねんをかきて︑うりはたしたてまつるところしちなり﹂
3大隅台明寺文書︑正嘉三年︵一二五九︶四月十六日︑良尊田地売券案︵鎌
倉遺文八三六二号︶﹁右︑件田は理性御房より町殿えゆつりまいらせられ候
田也︑仍町殿御不知のむねにまかせて︑よう
! "
のちき物あるによて︑けみやうちとくに︑ゐやうねんおかきて︑うりわたしたてまつることしちなり︑
よて後日のために︑沽券之状如件﹂
4豊後余瀬文書︑正元二年︵一二六〇︶三月二十八日︑僧静俊畠地売券︵鎌
倉遺文八四九二号︶﹁右︑件てんはくは︑せうもんのしやうにまかせて︑僧
静俊か私領也︑たゝしよう
! "
あるによて︑なかをのゝさいれんはうに︑やうねんをかきて︑うりわたすところしちなり﹂
5薩摩山田家譜︑弘長元年︵一二六一︶十月二十八日︑寂澄田地売券案︵鎌
倉遺文八七二九号︶﹁右︑件田者︑寂澄かさうてんのそりやう也︑しかるを︑
よう
! "
あるによて︑本そたうならひに︑まんさうくうし︑りんしくわやく︑うさ御さうえいやく︑正宮御さうえいやくにいたるまて︑ちやうし候て︑本 せうもんあいそえて︑石谷久徳に︑やうねんをかきて︑うりわたすところ実
也﹂
6肥前国分寺文書︑弘長二年︵一二六二︶九月二十九日︑藤原忠俊所領譲状
案︵鎌倉遺文八八七六号︶﹁みきくたんのところは︑たゝとしせんそさうて
んのしよりやうなり︑しかるをかまくらにひそめく事あて︑めさる候あひた︑
いのちそんめいし 注1かたきによりて︑ちやくしいや二郎に︑くわんとうたい
! "
の御くたし文︑たゝとしちうたひさうてんのてうとのほんせうもんをあいそへて︑たんふももらさす︑りうようめんてん︑やうねんかきて︑ゆつり
わたすところしちなり﹂
7山城醍醐寺文書︑文永五年︵一二六八︶六月二十二日︑きひのきくまさ等
連署請文︵鎌倉遺文一〇二六二号︶﹁御内にあんとせさせ候はんために︑け
ん太郎 注2□かさいによ︑あさなをといぬをんな︑をなしきしそく 注3□とめうめら はと二人をは︑きひのきくまさ︑やうねんをかき 注4□︑あいかゝりまいらせ候﹂
8薩藩旧記山田七郎右衛門家蔵︑文永六年︵一二六九︶三月日︑慶西所領譲
状︵鎌倉遺文一〇四一三号︶﹁右︑件のてんはくらにおいては︑こんけんの
こしきちといひなから︑僧きやうせいかせんそさうてんのしよりやうなるに
よて︑しそんせうかうにあいわけて︑たのさまたけなく︑ゐやうねんをかき
て︑ゆつりわたすところなり﹂
9肥前深江家文書︑建治三年︵一二七七︶七月七日︑藤原みちもと園地売券
︵鎌倉遺文一二七七〇号︶﹁よう
! "
とある□□て︑ゆいさきのうちのたけ 注5んさうまち一丁か内いたぬは︑みねくのあしりうくわし四郎かその︑いまは
あきまろかその︑せに五十くわんもんに︑やうねんをかきりて︑ほんしよう
もんあひくして︑おゝのとのにうりわたしたてまつり候事しち也﹂
10
薩摩山田家譜︑弘安二年︵一二七九︶七月十日︑せうあみたふつ譲状案︵鎌
倉遺文一三六三一号︶﹁しかるを︑かのそうりやうのてんはくさんやらにを
きては︑ほんせうもんおまわしてとられ候うへ︑かつさとのゝ後日のせうも
んともに︑やうねんをかきて︑かつさ二郎とのにゆつりわたすところしつな
り﹂
11
山城大徳寺文書︑弘安三年︵一二八〇︶十月二十九日︑うちのくらのみつ
やす田地売券︵鎌倉遺文一四一六五号︶﹁くたんのたは︑うちのくらのみつ
やすか︑せんそさうてんのしりやうなり︑たゝし︑あたいよう
! "
あるによて︑はたのさたやすに︑やうねんおかきて︑せに七貫文にうりはたしたてま
つるところなり﹂
12
薩藩旧記六羽島氏文書︑弘安六年︵一二八三︶八月日︑平忠永譲状︵鎌倉
遺文一四九三八号︶﹁右︑件のそりやうらは︑たゝなかちゝたゝしけのてよ
り︑ゆつりうるところなり︑くはしくは︑ほんせうもん︑ならひに︑ちゝの
ゆつりしやうにみえたり︑しかれは︑そのむねをまほり︑ちやくしちよいし
まろに︑いやうねんをかきて︑ちきやうせしむへし﹂
13
大隅有馬家文書︑正応三年︵一二九〇︶十一月二十三日︑紀正行田地売券
︵鎌倉遺文一七四八八号︶﹁右︑件水田・園者︑正行か先祖相伝の所領也︑
しかるを︑よう
! "
あるによて︑けんちき物廿五貫文に︑やう年をかきて︑うりわたしたてまつる事しちなり﹂
14
山城大徳寺文書︑正安三年︵一三〇一︶三月三日︑下毛野武村田地売券︵鎌
倉遺文二〇七二四号︶﹁右︑くたん田は︑武村せんそさうてんのしりやうな
り︑しかるに︑よう
! "
あるによりて︑たい! "
てつきもんそあいくし候て︑廿四貫五百文に︑やうねんをかき□□そつのりしの御房︑うりわたしたてま
つつるところ︑しちなり﹂
15
対馬内山文書︑正和五年︵一三一六︶七月七日︑いへたた売券︵鎌倉遺文
二五八八六号︶﹁よう
! "
あるによんて︑うりわたしまいらせ候こうとさの六ちやうのうちのた︑のほりをしものねうはうに︑やうねんをかきりに︑よ
うとう二くわん五十もんにうりわたしまいらせ候ところしち也﹂
16
大隅台明寺文書︑元応三年︵一三二一︶正月二十八日︑もりへの氏女譲状
案︵鎌倉遺文二七七〇三号︶﹁右︑件のすいてんは︑うちのめかさうてんの
そりやうなり︑しかるに︑よう
! "
あるによて︑せうもんらをあひそへ︑やうねんをかきて︑しろのよね十五石五斗に︑かゝとのにうりわたしたてまつ
るところなり﹂
17
豊前永弘文書︑元亨二年︵一三二二︶十月三日︑蓮秀利銭借券︵鎌倉遺文
二八一九一号︶﹁申うくるりせにの事/⁝もしこのようとう一はいすき候
はゝ︑いねみつ・すへみちみやうのうち︑さかもとにたん︑□□□□□□や
うねんかきりて︑なかくとをくこれ 注6□うりけんとして︑ちきやう□□□□□ □いらせ候へし︑又このたさをいし候はゝ︑□□□□□もとみやううち︑み
ちのたにたんを︑なかくとをくやうねんかきり︑□□□□□これまて候へく
候﹂
18
対馬内山文書︑元亨二年︵一三二二︶十一月二十一日︑某売券︵鎌倉遺文
二八二四〇号︶﹁よう
! "
あるによて︑うりわたしたてまつり候をやきのくりす一所︑せに二くわん六ひやくもんに︑やうねんをかきて︑くねのつねあ
きに︑うり給候いぬ﹂
19
豊前屋形三郎文書︑嘉暦三年︵一三二八︶八月七日︑蓮智屋形諸成譲状︵鎌
倉遺文三〇三三三号︶﹁右のそりやうてんはくらのそうりやうしきは︑れん
ちちうた 注7さうてんのしりやうなり︑しかるに︑くわんとう御けち・御くたし
ふみ・せうもんらをあいそゑて︑やうねんをかきて︑ちやくし三らう入道れ
んかくにゆつりわたすところなり﹂
20
豊前樋田文書︑元徳二年︵一三三〇︶二月二十二日︑蓮阿畠売券案︵鎌倉
遺文三〇九二三号︶﹁右︑件のはたけは︑れんあさうてん︑たうちきやうさ
をいなきしりやうなり︑しかるを︑いまよう
! "
候によて︑代せに八百文に︑おくの二郎大郎殿に︑やうねんをかきて︑ほんせうもんをあひそへて︑うり
わたしまいらせ候ところしちなり﹂
21
対馬内山文書︑元徳三年︵一三三一︶七月三日︑もちつね木庭売券︵鎌倉
遺文三一四六二号︶﹁よう
! "
候によて︑みねのむらのうち︑はたしみちのこは一所︑⁝しろのようとう二百もんに︑やうねんをかきり候て︑しものね
うはうの御かたに︑うりわたしまいらせ候事︑しちなり﹂
22
対馬内山文書︑元弘二年︵一三三二︶十一月二十一日︑さねのふ栗林売券
︵鎌倉遺文三一八九八号︶﹁よう
! "
あるによて︑うりわたしたてまつり候をやきのくりす一所︑せに二くわん六ひやくもんに︑ねうねんをかきて︑く
ねのつねあきにうりわたし候ぬ﹂
︹鎌倉遺文の﹁ゑいねん﹂及びその変異の例︺
1薩藩旧記巻十御文庫他家文書︑嘉元二年︵一三〇四︶三月二日︑紀景氏田
畠等譲状︵鎌倉遺文二一七六二号︶﹁右︑てんはく・山野・かくらは︑紀景
氏せんそさうてんのしよりやう也︑しかるを︑子そく四郎とのへ︑ゑいねん
をかきて︑ゆつり渡ところ也﹂
︹鎌倉遺文の﹁やうだい﹂及びその変異の例︺
1伊勢光明寺文書︑貞永二年︵一二三三︶二月十三日︑度会氏子田地売券︵鎌
倉遺文四四四一号︶﹁やうたいにさためてうりわたすてんちしんうりけもん
のこと﹂
2大隅有馬家文書︑建長五年︵一二五三︶七月十□□︑ゑもむ某田地譲状︵鎌
倉遺文七五九四号︶﹁みき︑くたむのすいてん︑ならひ 注8□□□□□□□らい ちきやうとしひさし□□□□□□□とのは︑ようしたりといへとも︑心さ 注9□
□□□□□□ゆつりあたふるところなり︑⁝よてた 注
10
□□□□□□く︑やうた
いをかきて︑りやう 注
11
□□□□またく候へし︑あなかしこ
! "
﹂3東寺百合文書せ︑弘長元年︵一二六一︶十月十五日︑比丘尼しんふつ田屋
敷譲状︵鎌倉遺文八七二四号︶﹁右︑件田ならひにやしきは︑ひくにしんふ
つかさうてんのところなり︑しかるを︑ちやくしたうめうはうのむすめ︑あ
さなによらいとのに︑やうたいをかきりて︑ほんけんらをあひそへて︑ゆつ
りわたすところ︑しちなり︑こ日といふとも︑わつらひあるへからす︑よて
ゆつりしやう如件﹂
4対馬内山家文書︑弘長三年︵一二六三︶六月十日︑なたるの尼浦山売券案
︵鎌倉遺文八九六二号︶﹁ようえうあるによて︑ちとうむまとのゝところに︑
やうたいをかきて︑うりわたしたてまつる︑くわのうらのところ一所︑なら
ひにうちやまのところ一所の事︑/合しろのせに十六くわん四百文定/右︑
くたんのふたところのちは︑あまかちうたいのところなり︑しかるを︑ちと
う二らうむまとのに︑やうたいうりわたしたてまつるところしちなり﹂
5薩摩延時文書︑文永元年︵一二六四︶十月十日︑見仏譲状案︵鎌倉遺文九
一六七号︶﹁みきくたんのみやうてんはくは︑けんふつかせんそさうてんの
しよりやうなり︑よて三らうたねたゝ︑ちやくしとして︑くたんのみやうて
んはくのてうとのそうもんおあいそへて︑やうたいをかきりて︑ゆつりわた
しおはぬ︑たのさまたけなく︑りやうちせしむへし﹂
6岩松新田文書︑文永五年︵一二六八︶五月三十日︑源頼有所領譲状写︵鎌
倉遺文一〇二五〇号︶﹁右︑新田荘内の所りやうらは︑重代さうてんのしり
やう也︑上三江荘ならひに永用のかうは︑くんこうの所なり︑しかるに︑せ
んねんのころ︑女子源氏にゆつりたひて︑あんとの御下文を申あたへ了︑ こゝに︑まこかめわう丸は︑かの源氏のしそくたるあいた︑これをやうしと
して︑ちやくしにたて︑御下文并てつきのもんそらをあひそへて︑やうたい
をかきて︑かめわう丸に︑ゆつりわたすところなり﹂
7薩摩指宿益臣氏文書︑文永九年︵一二七二︶十一月十二日︑平たゝなか譲
状案︵鎌倉遺文一一一四四号︶﹁右︑くたんのりやうしよ
! "
いけてんはくさんやらは︑たいらのたゝなかせんそさうてんのしやうりやうなり︑しかる
あひた︑てうとのせうもんらをあひそへて︑やうたいをかきて︑ちやくなん
むねたゝに︑ゆつりあたうるところしちなり﹂
8豊後都甲文書︑文永十年︵一二七三︶十月二十三日︑尼道忍所領譲状案︵鎌
倉遺文一一四四二号︶﹁みきくたんのところは︑こさへもん入道の︑せんし
よさうてんのしりやうなり︑しかるを︑うなしこけといひなから︑五十よね
んあひそひて︑ちうあひふかきによて︑ゆ 注
12
□□ゑるとゆへとも︑けうやうの
こゝろさしふかきによて︑五郎これちかに︑したいせうもんをあひそへて︑
いやうたいをかきて︑ゆつりあたへをはぬ﹂
9肥前青方文書︑弘安十年︵一二八七︶正月十五日︑覚尋青方能高譲状案︵鎌
倉遺文一六一五二号︶﹁右︑くたむのところは︑かくしんかせんそさうてん
のそりやうなり︑しかるを︑よめいいくはくならさるによて︑たい
! "
のしやうくんけの御けち︑ならひにしたいせうもんらをあいそへて︑しそくたか
いゑに︑やうたいをかきて︑ゆつりわたすところなり﹂
10
肥前大川文書︑永仁三年︵一二九五︶三月六日︑藤原幸資譲状︵鎌倉遺文
一八七七二号︶﹁右のみやうてんやしきは︑ゆきすけかちうたいさうてんの
あいた︑ちやくしまこ三らうゆきつくに︑したいせうもんあいくして︑やう
たいをかきて︑ゆつるところしち也﹂
11
薩藩旧記前編巻十岸良氏文書︑正安二年︵一三〇〇︶八月六日︑かねいし
和与状案︵鎌倉遺文二〇五七一号︶﹁右︑田やしき・かりくらは︑わよのふ
んをもて︑やうたいをかきて︑こんあみた仏に︑つけわたし了﹂
12
対馬初村文書︑正安三年︵一三〇一︶三月二十三日︑某田地売券︵鎌倉遺
文二〇七四二号︶﹁よう
! "
あるによて︑うり 注13
□□しまいらせ候あさなよこ
いしかやくま殿︑⁝ようとう八百文かしろに︑やう大 注
14
おかきて︑うりはたし
まいらせ候﹂