研究ノ l ト
ヒルファディングの創業利得論
ヒルファディングの創業利得論は彼の株式会社論の一つの中
心をなすものであるが︑ぞれについてエルスナ
i
は﹃金融資本論﹄の一九四七年新版への序文の中で﹁この本のもっとも卓抜
な部分は︑資本の動員と擬制資本とについての篇であり︑わけ
ても株式会社の分析である︒ここで彼は一つの基本的な経済学
的発見をする
ll
創業者利得がそれである0・:この経済学的範腐を発見し展開したことは︑ルドルフ・ヒルアァディングの
不滅の功績である﹂(林要訳﹃経済評論﹄第五巻第一号一四八│九
頁﹀と称賛を与えているのである︒そして我国においても︑創
業利得が論じられる際にはほとんどの場合︑彼の創業利得論を
基礎にして論じられているのであり︑そうした点からみてそれ
ヒルファディングの創業利得論
寺
稔
田
は創業利得論の古典ともいうべき地位をしめているといえるで
あろ
う︒
しかし︑そうした彼の創業利得論も立ち入ってみるならば多
︿の難点が見出されるのであり︑これまでにも彼の創業利得論
をめぐっていわゆる﹁創業者利得論争﹂なるものも展開されて
来たのである︒そしてこの論争については︑﹁︹ヒルファディン
グの創業者利得論に対するU批判的見解に対しては︑別府正十
郎教授や後藤泰二教授により度批判が加えられてきた︒とくに
後藤教授は︑主として経済学者を対象に︑その誤れる理解を実
に克明に指摘している︒したがって︑﹃ヒルファディング創業者
利得論争﹄における基幹部分については︑もはやあらためて付
け加えるべきことはほとんど残されていない﹂(片山伍一﹁配当
と創
業者
利得
﹂九
州大
学﹃
経済
学研
究﹄
第三
七巻
合併
号
七九頁門︺
ヒルファディングの創業利得論
内1引用者)という評価もなされているとはいえ︑なお多くの難
点が見出される上うに忠われるのである︒たしがに︑別府︑後
藤両氏が彼の創業利得論に対する批判的見解に対して反批判を
加え︑﹁その誤れる理解を実に克明に指摘してしこられたこと
は亭実であり︑またそのことを通して︑彼の創業利得論の正し
い解釈のために両氏が果された功績を認めることにやぶさかで
はないが︑そうした解釈によっても︑なお新らたな難点が生じ
て来るように思われるのである︒そして彼の創業利得論が創業
利得論の古典ともいうべき地位を占めているばかりでなく︑今
日子りれる株式会社論や金融資本の理論にも多大の影響を与え
ていることを考えると︑その難点を明らかにする必要はなお薄
れていないものと考えられる︒そこで出来る限り彼の叙述にそ
って彼の創業利得論を検討してみたいと思う︒
ハ1v
この
論争
に参
加し
た論
文の
目録
は︑
別府
五十
郎﹃
資本
会計
の経
済理
論﹄
ハ森
川書
沼
v一 二 八
1九
頁︑
参照
︒
まず︑ピルファディングが﹃金融資本論﹄の中で創業利得を
どのように説いているかをみてみると︑彼は﹁﹃株式資本﹄の総
額︑したがって資本還元された収益請求権の価格総額は︑初め
に産業資本に転化された貨幣資本と一致することを愛しない﹂
︿R・ヒルファディング﹃金融資本論﹄岡崎次郎訳岩波文庫版上
一入
一頁
︒以
下︑
﹃金
融資
本論
﹄か
らの
引用
は︑
すべ
て︑
右の
訳書
に
よる
こと
にし
︑ま
た引
用の
さい
には
右の
訳書
円上
﹀の
一員
数の
みを
記す
こ
とにする﹀ということを明らかにした後︑﹁どうしてこの差が生
ずるのか︑また︑その大ささはどれだけか﹂(一八一貫)とみ︑す
から問題を提起し︑それに対して次のように述べているのであ
る︒やや長文にわたるが︑そしてまたしばしば引用される箇所
ではあるが︑あらためて引用してみると次の還りである︒すな
わち
﹁ 一 ︑
OO
万マルクの資本をもっ一産業企業があるとしよう︒
平均利潤は一
EM
︑文配的利子率は五労とする︒この企業は一五万マルクの利潤をあげる︒しかし︑一五万マルクという額は︑
年収入として五%で資本還元されれば︑三一
UO
万マルクという
価格をもつであろう︒:::しかし我々は高い危険制増(呂田持
D'
日
U S
叩)をつけることにし︑これを二勿としよう︒さらに我
E ‑
々は管理費︑役員配当などを考慮せねばならない︒これは︑企
業の利潤から支出されねばならないものであり︑個人経営なら
ば︑株式会社とちがって︑省かれたであろうものである︒これ
らのために︑処分可能な利瀦
( 4 2 2
四
σ 日
R H U H
‑ o E )
を二万マ
ルクだけ削削減するとすれば︑一三万マルクが分配されうること
になり︑これが株主に七銘の利子を提供すべきものとなる︒そ
うすれば︑株式の価格は一︑八五七︑一回一一一マルク︑すなわち
約一九
O
万マルクに等しい︒しかし︑一五万マルクの利潤を産むためには︑一
OO
万マルクの資本しか必要でなく︑九
O
万マ
ルクは自由である︒この九
O
万マルクは︑利潤を産む資本の利子を産む(配当を産む)資本への転化から生ずる︒それは︑株
式会社形態から生ずる比較的高い管理費が利潤を減らすことを
考慮しないとすれば︑一五銘で資本還一見された額と七
M m で資
本還元された額との差に︑すなわち平均利潤を産む資本と平
均利子を産む資本との差に︑等しい︒この差が﹃創業利得﹄
( の
E
D
仏叩円
四叩
耳目
ロロ
)と
して
現わ
れる
ので
ある
︒そ
れは
︑た
だ︑
利潤を産む資本の利子附資本形態への転化から生ずるにすぎな
いと
ころ
の︑
利得
の一
源泉
であ
る﹂
(一
八一
│二
頁﹀
︒
またさらに︑後段において︑次のようにこの創業利得の定式
を与えているのである︒すなわち︑
﹁創業利得(の巴の定式(司
R E o ‑ )
を考察すれば︑次のよ
うな式が生ずる︒この場合︑平均利潤をP配当をd︑企業の
収益ハ同
3 3
巴 を
Eとする︒また︑資本は利子の百倍を利子率
で除したのもに等しいことを想起する︒
︒ 四 l u c
h
H同品 開
株式会社の収益が高い管理費のために削減されるものと見る
ならば︑第一のE
の代
りに
開│
ロを
置け
ばよ
い﹂
(一
八六
頁﹀
︒
そして︑この二つの引用文の中に︑彼の創業利得についての
基本的な考えが含まれていると思われるので︑これらの引用文
にそって検討を加えて行くことにしたい︒ハなお︑以下において
特に
断り
のな
い限
り︑
﹁ヒ
ルフ
アデ
ィ
γグ
の設
例﹂
また
は単
に﹁
設例
﹂
とい
う場
合に
は︑
右の
引用
文で
あげ
られ
てい
る設
例を
さす
もの
とし
︑ま
ヒルファディングの創業利得論
た︑
﹁創
業利
得の
定式
﹂ま
たは
単に
﹁定
式﹂
とい
う場
合に
は︑
右の
引用
文で
あげ
られ
てい
る定
式を
さす
もの
とす
る﹀
︒
そこで︑早速︑その検討に入ることにするが︑ここでまず問
題になるのは︑創業利得は﹁利潤を産む資本の利子を産む・・‑
資本への転化(︿白門司自己己口問﹀から生ずる﹂といわれているよ
うに﹁利潤を産む資本﹂は果して﹁利子を産む:::資本﹂に転
化し得るものかどうかということである︒また︑ここでいわれ
ている﹁利潤を産む資本﹂が株式会社の資本(現実資本)を︑
﹁利子を産む:・:資本﹂が擬制資本をさすものであることは︑
その前後の叙述からみて明らかなことであるから︑この問題は
株式会社の資本(現実資本)は擬制資本に転化し得るものであ
るか否かというようにもいいかえることが出来るであろう︒
そこで︑この間題を考察するために︑擬制資本とは如何なる
ものかということをみてみると︑擬制資本は規則正しく反復さ
れる収入の背後に存在し︑その収入を利子として生みだすと想
像される資本なのである︒つまり︑規則正しく反復される収入
がある場合︑利子生み資本という範障が成立しているもとで
は︑その収入は想像的な資本(想像的な利子生み資本)が生み
だした利子とみなされるようになるのであり︑その想像的な資
本が擬制資本なのである︒したがって︑擬制資本が形成される
ためには規則正しく反復される収入の存在の前提になるとはい
え︑その収入の源泉が如何なるものかということは問題になら
ないのである︒そして株式に擬制資本が形成されるのも︑株式
一 一
一
ヒルファディングの創業利得論
が配当という規則正しく反復される収入(しかも︑利子と同様
に機能をともなわないで得られる収入)をもたらすということ
にのみ基いているのであり︑その収入は利潤が株式に対して分
配されたものであるということや︑その利潤は株式含社の資本
によコて生みだされたものであるということに基いているので
はない︒このように︑擬制資本は規則正しく反復される収入が
利子とみなされることによって形成されるものであって︑その
収入の源泉の如何を問わないものである以上︑たとえ株式に形
成される擬制資本であっても︑それを株式会社の資本が転化し
たものということは出来ないのである︒つまり︑株式に形成さ
れる擬制資本は株式がその所有者に規則正しく反復される収入
をもたらすが故に︑またその限りでのみ形成されるのであって︑
株式会社の資本が転化したものではなく︑株式会社の資本とは
別箇の・それと並んで存在する・資本なのである︒そして︑現
に︑株式に擬制資本が形成され︑その資本何値にしたがって株
式が売買されるようになったとしても︑株式会社の資本はそう
したことにかかわりなく︑産業資本または尚業資本としての運
動を統けるのであり︑またかかる運動をするものとして現象し
続けるのである︒
また︑ヒルファディングにあワては︑利潤ーーーまたは﹁処分
可能な利潤
( 4 R E 四 百 吋 2 H U 2 2 )
﹂(
一八
一頁
﹀
││i
は原則とし
てすべて配当にまわされるものとして創業利得が論じられてい
るのであるが︑利潤は必ずしもすべて配当にまわされるとは限
一一
四
らないのであり︑その一部が企業の内部に留保されることもあハ
2)
り得るのである︒このような・量的にみても必ずしも利潤とは
等しくはない・配当に基いて形成されるものをもって︑どうし
て︑その利潤を生みだした現実資本の転化したものといえるで
あろうか︒こうした点にも︑現実資本が擬制資本に転化すると
いうことの誤りがあらわれていろのである︒
ハ2
﹀ヒ
ルブ
ァデ
ィ
γグ
も︑
利潤
が企
業の
内部
に留
保さ
れる
場合
があ
るこ
とを
全く
認め
てい
ない
わけ
では
ない
︒
たと
えば
︑﹁
名目
的株
式資
本を
高め
るこ
とな
しに
機能
資本
を増
す
こと
も可
能で
ある
︒た
とえ
ば︑
純益
ハ同
日口
問︒
三口
与が
配当
とし
て
株主
に分
配さ
れな
いで
︑そ
の全
部ま
たは
一部
が企
業の
経蛍
のた
めに
使用
され
る場
合は
︑そ
うで
あろ
う﹂
(一
九一
二頁
﹀と
述べ
てい
るの
で
ある
しかし︑創業利得が主として論じられている﹁第七章一配当 ︒
と創
業利
得﹂
にお
いて
は︑
利潤
ーー
また
は﹁
処分
可能
な利
潤﹂
lー
はす
べて
配当
にま
わさ
れる
もの
とし
て論
じら
れて
いる
ので
ある
︒ま
た右
のよ
うに
述べ
てい
る場
合で
さえ
︑そ
れに
すぐ
に続
けて
︑﹁
かよ
うな
使用
は将
来の
収益
ハ同
25
巴の
増大
を約
束す
るも
ので
ある
﹂
(同
上)
と述
べて
いる
ので
あり
︑企
業の
内部
に留
保さ
れる
利潤
も結
局は将来の収益日配当の増大となるものとされているのである︒
ハも
っと
も︑
﹁将
来の
収益
﹂と
いう
場合
の収
益は
企業
の収
益
H利
潤
を意
味す
るも
のと
も解
釈さ
れ得
るで
あろ
うが
︑も
しも
それ
が単
に利
潤を
意味
する
のみ
にと
どま
るも
ので
ある
なら
ば︑
それ
にす
ぐに
続け
て︑﹁それと同時に株式資本の棺場価値の上昇が現われるであろ
う﹂
︿同
上
Vと
はい
い得
ない
はず
なの
であ
る︒
こう
した
こと
から
み
て︑
それ
は彼
とし
ては
利潤
と配
当の
双方
を意
味す
るも
のと
して
述べ
たも
のと
思わ
れる
ので
ある
が︑
その
よう
に両
者が
区別
され
てい
ない
とい
うこ
と自
体が
︑ま
た︑
利潤
は結
局は
すべ
て配
当に
まわ
され
るも
のと
され
てい
たと
いう
こと
を示
して
いる
とい
える
であ
ろう
)︒
さらに︑以上のことは別にしても︑現実資本が擬制資本︑幻
想的な資本に転化してしまうということ︑現実的な価値がどこ
かに消えてなくなってしまうということはとても考えられない
ことなのであり︑また︑転化するということによって量が変る
ということ︑ヒルファディングの設例でいえば︑一
OO
万マル
クの資本が約一九
O
万マルクの資本になるということも考えられないことなのである︒逆にいえば︑﹁利子を産む:::資本﹂
U擬制資本は︑﹁利潤を産む資本﹂U現実資本の転化したもの
ではなく︑﹁利潤を産む資本﹂
1
現実資本と並んで存在する別箇の資本であり︑幻想的な資本であるからこそ︑﹁利潤を産む資
本 ﹂
U現実資本とは異った大いさのものであり得るのであり︑
そのように呉った大いさのものであり得るということに基いて
創業利得が生じ得るのである︒したがって︑両者の聞に量的な
差が存在し得るということ︑創業利得が生じ得るということ自
体が︑かかる転化という規定が誤りであることを示しているの
であ
る︒
次に問題になるのは︑右の検討のさいには省略したが︑
ヒルファディングの創業利得論 潤を産む資本の利子を産む(配当を産む)資本への転化﹂というようにして﹁利子を産む・資本﹂というところに括孤をして﹁配当を産む
( E 4 5
8
品︒可田岡田口白g
ど と い う 言 葉 が 挿 入
されていることである︒ヒルフアディングが何故にこのように
あえて﹁配当を産む﹂という言葉を挿入したかという点につい
ては︑穣々検討せねばならないことではあるが︑いまそのこと
は別にして︑特にここで問題にせねばならないことは︑配当を
生む資本などという資本は存在しないということである︒つま
り︑利潤を生む資本︑利子を生む資本という資本は存在すると
はいえ︑配当を生む資本などという資本は存在しないのであ
り︑したがってそうした存在しない資本への転化を論ずること
白体が誤りなのである︒
創業利得は﹁利潤を産む資本の利子を産む(配当を産む)資
本への転化から生ずる﹂ということは︑創業利得についてのし
ルファディングの最も基本的な規定と考えられるのであるが︑
その規定において以上のような誤りが含まれているということ
は︑彼の創業利得論にはその他の点においても誤りが合まれて
いるのであろうことが伺われるのである︒そこで次に創業利得
の大いさを規定する各項目について︑それぞれ検討して行くこ
とに
した
い︒
手 リ
便宜上︑まず︑﹁一五%で資本還元された額(関与ロ乱庄司
3 8
一一
五
ヒルファディングの創業利得論
切
2
四):・:すなわち平均利潤を産む資本﹂(一八二頁)といわ
3
れ︑創業利得の定式では
L
陪同ーとあらわされているものから}U 検討して行くことにしよう︒
この﹁一五銘で資本還元された額:::すなわち平均利潤を産
む資本﹂とは︑ヒルファディングの設例からみて明らかなよう
に︑株式会社の資本(現実資本﹀をさすものであるが︑ここで
まず問題になるのは︑この株式会社の資本(現実資本)はこの
ように﹁一五銘で資本還元された額﹂えいえるかどうかという
ことである︒まず︑ここでは単にコ五彪で資本還元された
額﹂というのみで︑何が一五銘で資本還元されるのかというこ
とは何も述べられていないのであり︑その点きわめて不十分な
規定の仕方であると思われる︒ただ︑それはその前に述べられ
ていることからみて利潤であると思われるので︑そのように理
解してここで述べられていることをヒルブアディングの設例に
あてはめてみると︑平均利潤(率)が一五銘で︑一
OO
万マ
ル
クの資本をもっ一産業企業が一五万マルクの利潤を生むという
のであるから︑一五万マルクの利潤を平均利潤率一五%で﹁資
本還元﹂││除算ーーーすれば︑一
OO
万マルクという額が得ら
れ︑それはその産業企業の資本(現実資本)の大いさをあらわ
すことになる︒したがって︑この設例でみる限りでは︑現実資
本は利潤を平均利潤率﹁一五勿で資本還元﹂した額と規定して
も誤りではないもののようにみえる︒しかしながら︑この場
合︑たとえ量的にみて現実資本と利潤を平均利潤率コ五%で
一一
六
資本還元﹂した額とは一致するとしても︑現実資本は果して利
潤を資本還元したものなのであろうか︒またその大いさは利潤
を平均利潤率で除することによって算定されるべきものであろ
うか︒このことは︑現実資本と利潤のうちいずれの存在が他の
存在の前提になっているかということを見れば明らかになる︒
擬制資本と規則正しく反復される収入の関係についていえば︑
規則正しく反復される収入がまず現実に存在して︑その収入か
らその収入を利子として生みだす資本が想定されるのであり︑
その想定された資本が擬制資本なのであるから︑擬制資本は規
則正しく反復される収入の資本還元されたものといえるのであ
り︑その大いさはその収入を利子率で除することによって算定
されるのである︒ところが︑現実資本と利潤の関係についてい
えば︑利潤がまず存在して︑その利潤によって現実資本が生み
だされるのでもなければ︑その利潤を生みだすものと想像され
る資本として現実資本が存在するのでもなく︑逆に︑現実資本
がまず存在して︑その現実資本によって利潤が生みだされるの
である︒したがって︑現実資本は利潤の資本還元されたもので
はないのであり︑その大いさも利潤を平均利潤率で除するとい
うようにして︑利潤から算出されるようなものではないのであ
またこうした誤りは次の点にもあらわれて来る︒すなわち︑ る ︒
ヒルファディングは平均利潤率を一五
M m と仮定し︑また例とし
てあげた産業企業の利潤率も一五銘としているのであるが︑た
とえ平均利潟率が一五銘であったとしても︑個々の企業の利潜
率は必ずしも一五町初であるとは限らないーーしたがって︑現実
資本を﹁平均利潤を産む資本﹂ハ一八二一員﹀ということも正しく
ない
!i
のである︒そしてその利潤率が平均利潤率と相違している企業においては︑その利潤を平均利潤率で﹁資本還元﹂
! i
除算ーーーしたとしても︑その企業の資本(現実資本)の大
いさは正しく算定することが出来ないことになるのである︒し
たがって︑現実資本を平均利潤率﹁一五%で資本還元﹂された
額とすることは量的にみても正しくはないのである︒
なお︑創業利得の定式ではこの﹁一五銘で資本還元された額
HCC肘:::すなわち平均利潤を産む資本﹂にあたるものは││明ーーす42P
く 苦 注
なわち
Il
i‑
‑ ﹂作とあらわされているのであり︑これはヒルフ 引 い 必 当
﹂ 一 週
︑ 吉 津 こ ぎ 益 丁
プディングとしても‑‑‑LF│あるい土さら
lil‑‑i
と汀
( 3 ) .
川市
芯さ
益品
川
l l
ポ芯差益制
Z
正すべきものと思われるが︑こうした表現も以上で述べたことからみて誤りというべきであって︑正しくは︑現実資本または
機能資本とすべきであろう︒
同(
︺凸
凹
] 5C
何ハ3
﹀ヒ
ルフ
ァデ
ィン
グの
創業
利得
の定
式︒
問
H 1 1 1 1 1 1 1 1
主 ︑︽ 同 司
彼の設例をあてはめてみると
50
XH
聞い
伺4¥
hy
go
xZ
MH
4F
hy
'
1
割 J
引
U U l ‑
‑ 1
割 J
引
M U
‑ ‑ H C
ということになり︑創業利得はゼロとなってしまう︒また﹁第一の
Eの
代り
に回
i
ロを
置﹂
ハ一
八六
頁)
いて
みて
もー
ーと
いっ
ても
こ
のロの中に何を含めるかということについては︑彼は必ずしも明確
に規
定し
てい
るわ
けで
はな
いが
︑一
応︑
﹁管
理費
︑役
員配
当な
ど﹂
ヒルファディングの創業利得論
︿一
八一
頁﹀
とし
てみ
ると
ーー
やは
り
HCC
×お
河4
号︑
HCC
×回
目凶
4¥
h y
﹀
EM
同4 p h Y 5 M M
4¥
h y c
ということになり︑創業利得はゼロということになってしまうので
ある
そこで彼の論旨に出来る限りそって最小限この定式を訂正してみ ︒
ると︑減数は﹁一五%で資本還元された額﹂とも述べられているこ免除
とか
らみ
て
1
1 1 1 1
同相持佐世﹂薗品同ということになるであろうし︑またそのこ
1
﹄河 隊
から推して被減数ZIl‑‑
ーと
いう
こと
にな
るで
あろ
う︒
もつ
t四回附印刷官
とも
︑彼
の設
例で
は︑
﹁平
均利
潤ハ
U R
口
E
E 5 8 5 2 G
は一
五
M﹂
(一
人一
一貝
)と
いう
よう
に述
べら
れて
いる
ので
ある
から
︑こ
れを
そ
のまま認めるとすれば︑定式の減数は彼としては訂正する必要がな
いともいえるのであるが︑これはこれまでにもそのように解釈し論
じて来たように﹁平均利潤率は一五銘﹂と訂正されるべきであろう
し︑それに応じて定式の減数も右のように訂正されるべきであろ
う︒また︑定式の被減数の分母が配当となっているのは彼の配当の
把握の仕方にもかかわることなのであるが︑その点については後に
あら
ため
て論
ずる
こと
にし
たい
︒
ところで︑創業利得の定式における減数は機能資本とすべき
であるということは︑既に阿部利良氏によって主張されている
ことなのであるが︑氏はさらに進んで﹁ここに機能資本という
のは︑あらたに株式を発行して得られる創業利得を算定する場
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
合についていえば︑予定した一定の配当(ひいては利潤)を維
持するには当然充用することを要する必要な資本として捉えら
一一
七
ヒルファディングの創業利得論
れるべきものである︒ぞれゆえこのような意味において︑それ
は正しくは所要機能資本ともいうべきものであろう﹂(﹁ヒルフ
アデ
ィ
γグ
創業
利得
説の
批判
序説
﹂同
京都
大学
﹃経
済論
叢﹄
第八
三巻
第
四号四二頁傍点およびハU内│!岡部氏﹀といわれている︒
しかし︑創業利得の定式における減数は果してこのように
﹁正しくは所要機能資本ともいうべきもの﹂であろうか︒もし
も︑機能資本と配当(ひいては利潤)の関係が︑一定の配当
(ひいては利潤)がまず予定されそれによって機能資本の大い
きが決められるというような関係にあるのであれば︑または︑
機能資本が予定した一定の配当(ひいては利潤)を維持するた
めに機能させられるようなものであるならば︑あるいはそうし
たこともいえるかも知れない︒しかし︑株式会社の資本(機能
資本﹀といえども他の企業形態をとる企業の資本(機能資本)
と同様に︑最大限の利潤の追求を究極の目的として機能するの
であり︑その利潤に基いて配当がなされるのである︒したがっ
て︑機能資本と利潤・配当の関係は︑あくまでも︑まず一定額
の機能資本が存在して︑その機能資本によって一定額の利潤が
生みだされ︑その利潤に基いて配当の大いさが決められるので
あって︑決して︑一定の配当(ひいては利潤)がまず予定さ
れ︑それによって機能資本の大いさがilーその予定した配当
(ひいては利潤)を維持するために充用せねばならない大いさ
として││決められるわけではないのである︒
また︑ヒルブァディングにあっては︑利潤は原則としてすべ
入
て配当にまわされるものとして創業利得が論じられているので
あるが︑利潤は必ずしもそのすべてが配当にまわされるとは限
らず︑その一部が企業の内部に留保されることもあるのであ
る︒そしてこのように利潤は必ずしもそのすべてが配当にまわ
されるとは限らない以上︑予定した一定の配当を維持するため
にはその企業の資本ハ機能資本)のすべてが必要であるとは必
ずしもいえず︑その一部で十分だということも生じ得るのであ
る︒つまり︑機能資本と氏のいわれる所要機能資太白とは量的に
一致しないことも生じ得るのである︒そしてこうした場合︑創
業利得の定式における減数としマ︑機能資本と氏のいわれる所
要機能資本のいずれを採るべきかということになれば︑それ
は︑あらためていうまでもなく︑機能資本でなければならない
であろう︒したがって︑創業利得の定式における減数は所要機
能資本とすべきではなく︑やはり︑現実資本または機能蛍本と
す︑
へき
であ
ろう
︒
なお︑別府氏もまた︑﹁利濁を生む資本即ち前例︹ヒルフア
ディングの設例︺の場合の一三万マルクの配均をするに要する
一五万マルクの利潤を生むために必要とされる一
00
万マルク
の資本は︑﹃現実の機能資本﹄で︑所謂同所要機能資本﹄であ
る﹂(前掲書四二│三頁︹︺内
i
引用者﹀といわれつつも︑さらに︑﹁そもそも︑その約束された配当をなすに必要な﹃所要
機能資本﹄というも︑配当自体が利潤を前提とし︑利潤はまた
資本を前提としているのである︒前例でいえば︑まず︑一産業
企業
の一
OO
万マルクの資本があって︑一五万マルクの利潤が生じ︑そして︑二ニ万マルクの配当が約束され︑一九
O
万マルクの擬制資本が成立しているのである
o /
/更に︑また︑﹃生
産資本に転化されて・産業資本の循環を描﹄かねばならない
この所要機能資本は︑その大いさにおいて生直過程や流通過程
の客観的条件によって規定されている︒生産力発展の水準によ
って資本の有機的構成︑そして産業資本として機能するに必要
な資本の大きさは規定されるのである︒そして︑生産力の発展
はこの資本の最低必要額を増大せしめてゆくのである﹂(向上
四四
頁
uと述べておられるのである︒つまり︑﹁半産力発展の水
準によって:・:規定される﹂﹁産業資本として機能するに必要
な資本の大きさ﹂︑﹁資本の最低必要額﹂という意味においてで
はあるが︑やはり︑創業利得の定式における減数を所要機能資
本としておられるのである︒
そてし︑注減株主論U
執 す
言l盛田とし︑ある企業が所要資本
一
OO
を調達する場合︑額面金額で合計一
0
0
の株式を三O M
加
のプレミアム付で発行するハつまり︑額面総額一
00
︑プ
レミ
アム
総額
三
O︑
合計
一一
二
Oとする﹀場合でも︑当初からプレミアム分
を勘案して額両金額で合計七七の株式を三
OM
のプレミアム付
で発
行す
るハ
つま
り︑
額面
総額
七七
︑プ
レミ
アム
総額
二一
二︑
合計
一
OOとする﹀場合でも︑株式プレミアムは︑││調達所要資本を
趨える三
O
も︑調達所要資本内の二三もl l
いずれも創業者利
得であるとする一泉和永氏の説を取り上げて︑次のように批判
ヒルファディングの創業利得論 しておられる︒すなわち︑
﹁氏のいわれる調達所要資本額一
OO
を利潤を生む資本であ
るとし︑産業資本として競争場裡に生きてゆくに必要な資本額
であるとすれば︑現実に機能せしめることを一要する所要機能資
本は
一
OO
である︒この生産力発展の水準に規定された産業資
本として機能するに必要な資本額は︑かかる資本を調達するに
必要な調達所要資本額の枠のなかにプレミアム分をふくめて‑調
達されたからとて変るものではない︒一
OO
の機能資本を調達
するのに︑額面したがって資本金七七︑額面遺過金即ち株式プ
レミアム一一一一一とされたからとて︑この七七を現実の機能資本と
いうことはできない︒工場の七七
M m が建設されただけでは現実
の資
本と
して
機能
しえ
ない
︒し
たが
って
利潤
も生
めな
い︒
二一
一一
が
合せて投下されることによってはじめて産業資本として機能し
てゆくことができ利潤を生むことができるのである︒かくて所
要機能資本はこの場合一
OO
であり︑それは額商総額とは異る︒
そして創業者利得を︑利潤を生む資本を利子を生む資本に転
化することから生ずるもので︑平均利潤を生む資本と平均利子
を生む資本との差を現実に機能する資本と(擬制)株式資本と
の差であるとする限り︑この場合の一
OO
を超えるプレミアム
三
O
は創業者利得であっても︑一OO
の枠の中の二三は創業者利得
では
ない
﹂(
同上
回六
頁)
︒
しかし︑﹁生産力発展の水準によって規定された産業資本と
して機能するに必要な資本額﹂︑﹁資本の最低必要額﹂が存在す
一一
九
ヒルファディングの創業利得論
るということは確かであるとしても︑それがどうして所要機能
資本として創業利得の定式にとり入れられねばならないのであ
ろうか︒一泉氏に対する批判としていわれていることからみる
と︑右にあげられた例でいえば︑その大いさが一
00
の場
合︑
七七を創業利得の定式の減数とすることは出来ないということ
をいわんとされているように思われるのであるが︑単にそうし
たことをいうためであるならばそれをあえて所要機能資本とす
る必要はないのであり︑単に現実資本または機能資本とすれば
十分であろう︒というのは︑との場合には︑氏もいわれるよう
に七七だけでは﹁現実の資本として機能しえない︒したがって
利潤も生めない﹂のであり︑﹁この七七を現実の機能資本とい
うことはできない﹂
' i l
いいかえれば︑現実資本または機能資
本ということは出来ないーーからである︒
しかも︑氏のいわれることに同意し難いのは︑単にそうした
消極的な理由からだけではない︒氏は右の引用文のところでは︑
﹁謁
達所
要資
本額
一
OO
を:産業資本として競争場裡に生き
てゆくに必要な資本額とすれぽ﹂(ゴチック体1
引用
者)
とい
うよ
うにして調達所要資本額と﹁産業資本として競争場裡に生きて
ゆくに必要な資本額﹂が等しいものと仮定して論じておられる
のであるが︑両者は必ずしも等しいものではなく︑前者が後者
より大きいということは大いにあり得ることなのである︒つま
り︑﹁産業資本として競争場裡に生きてゆくに必要な資本額﹂
{l生産力発展の水準に規定された産業資本として機能するに必
一二
O
要な資本額﹂は氏自身も述べておられるように﹁資本の最低必
要額
﹂ハ
ゴチ
ッ
F体1引用者)なのであるから︑﹁調達所要資本
額﹂はそれ以下であってはならないとしても︑それ以上である
ことは大いにあり得ることなのである︒そしてそのように﹁調
達所要資本額﹂が﹁生産力発展の水準に規定された産業資本と
して機能するに必要な資本額﹂つまり氏のいわれる所要機能資
本以上である場合︑例えば︑前者は↑
00
であるが後者は五
O
である場合︑創業利得の定式における減数としてそのいずれを
とるべきかということになれば︑それは明らかに一
00
でなければならないであろう︒したがって︑創業利得の定式における
減数を氏のいわれるように所要機能資本とすることは不必要で
あるばかりでなく︑誤りというべきであろう︒
固
次に
︑一
i七
M m で資本還元された額
:e
すな
わち
::
:平
均利
子を
産む資本﹂ハ一八二頁﹀といわれ︑創業利得の定式では
L4
同!
とあらわされているものについて検討して行くことにしよう︒
まず︑ここでも︑﹁一五
M m で資本還一見された額﹂と規定され
︑ ︑
た場合と同様︑何が﹁七%で資本還元﹂されるのかとい︑7
こと
は何も述べられていないのであり︑その点きわめて不十分な規
定の仕方であると思われるが︑﹁一五%で資本還元された額﹂
というものと対比して述べられている点からみて︑それは利潤
ということになるであろう︒ただ︑そのように考えたとして
も︑利潤は果して七%支配的利子率五銘プラス﹁危険割増
( H N E
ロ
5 E
5 U
)
﹂ハ一八一頁)一一%ーーで資本還元されるものなのであろうか︒いいかえれば︑この﹁七%で資本還元された
額﹂というのは株式に形成される援制資本をさすものであるこ
とは明らかであると思われるが︑その株式に形成される擬制資
本は呆して利潤を﹁七銘で資本還元﹂したものなのであろう
か︒このことを明らかにするために擬制資本とはいかなる資本
かということをみてみると︑擬制資本は規則正しく反復される
収入の背後に存在すると想像される資本であり︑その収入を利
子として生みだすとみなされろ資本なのである︒したがって︑
利子とみなされ資本還元される収入は︑規則正しく反復される
収入であるばかりでなく︑利子のように機能をともなわないで
得られる収入でなければならないのである︒ところが︑利潤は
利子のように機能をともなわないで得られるものではなく︑機
能資本家の機能をともなってはじめて得られるものなのであ
り︑しかも︑それ自体としては株式がもたらす収入とはいえな
いものなのである︒それは配当として株式に配分される場合
に︑はじめて︑株式がもたらす収入︑しかも機能をともなわな
いで得られる収入となるのである︒それ故︑資本還元されるも
のは︑利潤ではなく︑配当なのである︒また︑既に述べたよう
に︑ヒルフアディングにあっては︑利潤ーーまたは﹁処分可能
な利
潤﹂
ハ一
八一
頁﹀
ll
は︑原則としてすべて配当にまわされるものとして創業利得が論じられているのであるが︑そして
ヒルファディングの創業利得論 そのことが﹁配当を七%で資本還元﹂した額というべきところを︑利潤を﹁七
w m で資本選一見﹂した額というように誤って規定
した一つの大きな原因であると思われるのであるが︑利潤
ii
または﹁処分可能な利潤﹂
1
1は必ずしもすべて配当にまわさ
れるとは阪らないのであり︑その一部が企業の内部に留保され
ることもあり得るのである︒つまり︑利潤と配当とは民主的にみ
ても必ずしも一致するものとはいえないのである︒したがっ
て︑株式に形成される擬制資本を利潤の資本還元されたものと
規定する乙とは量的にみても正しいとはいえないのである︒こ
のように︑株式に形成される擬制資本は利潤が資本還元された
ものではなく︑配当が資本還元されたものなのである︒そして
利潤は︑ただ︑それが株式に対して分配されたものが配当であ
るという点においてのみ︑そしてまた︑それが直接に配当の大
いさに影響を与えるか︑あるいは間接的に企業の内部に留
保される利潤の大いさに影響を与え︑そのことを通して将来の
配当の大いさに影響を与えるというようにして
ll
影響を与えるかを関わず︑配当の大いさに影響を与える限りでのみ︑株式
に形成される擬制資本と関係をもつにすぎないのである︒
なお︑創業利得の定式でも︑﹁セ%で資本還元﹂されるものに
該当する被減数の分子は︑配当ではなく︑Eすなわち収益とな
っているのである︒もっとも︑ヒルファディングにあっては︑収
益(
開立
E
巴という言葉はたとえば﹁株式の収益(回・昨日間骨吋﹀}
注目
白
) L (
一七五頁﹀というようにして配当を意味するものとし
ヒルブアディングの創業利得論
ても使われてはいる︒しかし︑そうした意味においてのみ使わ
れているわけではなく︑たとえば﹁企業の収益
(H
W1
四5
Q R
C呉氏自
F S m E
)
﹂(一七六頁)というようにして利潤を意味するものとしても使われているのであり︑またそうした区別を明示
することなく単に﹁収益﹂というのみで︑時には配当を意味す
るものとして︑時には利潤を意味するものとして使われている
のであり︑さらには︑註
( 2 )
でも述べたように︑そのうちの
いずれを意味するのかということさえわからないようなかたち
でさえ使われているのである︒このように︑収益という言葉が
利潤を意味するものとしても︑配当を意味するものとしても使
われているということは︑それ自体︑彼が利潤と配当を区別し
ていなかったことを示すものであるが︑それはともかくとし
て︑この被減数の分子におかれている収益は︑同じ定式の減数
の分母におかれている収益が利潤を意味するということからみ
て︑利潤
i
ーまたは配当をも意味するものとしての利潤ーーを意味するものとみるべきであろう︒
ところで︑創業利得の定式における被減数の分子は︑このよ
うに︑配当とすべきであるにもかかわらず︑収益に
i
│そして
それは利潤を意味するものにーーなっているのであるが︑他
方︑その被減数の分母は配当となっているのである︒もっとも
これは註
( 3 )
で述べたように︑配当率を訂正されるべきもの
とも思われるのであるが︑それにしてもこの分母を配当または
配当率とすることは肯定し難いことである︒というのは︑この
一 一 一 一 一
被減数は擬制資本をさすものであるが︑擬制資本は利子生み資
本に擬制された資本なのであって︑配当を生む資本または配当
生み資本などというおよそ存在することのない資本に擬制され
た資本ではないのであり︑したがって︑その大いさは利子とみ
なされる収入を利子率で除することによって算定されるべきも
のであって︑配当率で除することによって算定されるべきもの
ではないからである︒また︑この被減数の分母は﹁七銘で資本
還元された額﹂と述べられている場合の七%にあたるものであ
るが︑この七%は︑ヒルファディングの設例からみても︑支配
的利子率プラス﹁危険割増﹂なのであり︑利子率(﹁危険割増﹂
を含んだ利子率)なのであるから︑この点からみても被減数の
分母は配当または配当率ではなく︑利子率(または︑支配的利
子率プラス﹁危険割増し)でなければならないのである︒そし
て︑このように︑被減数の分母は利子率(または︑支配的利子
率プラス﹁危険割増﹂)でなければならないということは既に
多くの論者によって主張されて来たことでもあるのである︒と
ころが︑そうした批判に対して︑後藤泰二氏は次のように反批
判されているのである︒すなわち︑
﹁︹創業利得の定式における被減数の︺分子は配当であっては
ならないが︑しかしながら分母は配当率でありうる︒なぜな
ら︑:::ヒルファディングは次のように述べているからであ
る︒利潤あるいは収益が支配的利子率で資本還元されて株式価
格が成立し︑﹃この株式価格において第二の資本が存在するよ
うに
見え
る﹄
︹一
八
O頁︺ということになると︑﹃この擬制︽資
本︾が:::︽株式資本︾としてあげられること﹄︹同上︺にな
り︑﹃株式資本は・:利潤が・・・配当を︑:::分配するに足り
るように﹄︹一八九頁︺︑換言すれば﹃利潤が:::株式所有者に
利子をもたらすよう::に﹄︹同上︺算定されることになる︒
すなわち株式資本は︑利潤が︑株主には利子にしかあたらない
ように資本還元されて算定されるということになる︒そのよう
にして算定された株式資本に利潤が分配されるのであるから︑
当然のことながら︑株式資本にとっては利潤は利子にしかあた
らないことになる︒それが配当である︒そしてそのように﹃株
式所有者に:::利子をもたらすような配当を︑・・分配する
に﹄︹同上︺いたらしめたものは資本還元である︒したがって資
本還元率こそは︑分配率すなわち配当率であるということにな
る︒かくて︑﹃株式価格﹄が﹃株式資本﹄としてあげられるこ
とになると︑擬制資本をあらわす比の分母は配当率であるとい
うことになる︒この配当率が利子率プラス危険割増率であるこ
こはいうまでもない﹂(後藤泰二﹃株式会社の経済理論﹄ミネルヴア
書一
一房
八
O頁︹︺内引用者︺︒
ここで﹁株式資本(﹀宮山
岳山口弘どといわれているものが
g r
何を意味するかは︑やや︑わかりにくいが︑そしてその言葉は
あるいは括孤をつけて︑あるいは括孤をつけないで用いられて
いるが︑いずれも株式の額面総額
1
資本金のことなのである︒したがって︑ここで氏がいわれていることは︑要するに︑ヒル
ヒルファディングの創業利得論 ブァディングにあっては︑資本金は擬制資本総額と等額に決められるものとしているのであるから︑その資本金の大いさU擬
制資本総額は﹁支配的利子率プラス危険割増﹂と等しい配当率
で利潤を除することによって算定されることになる︑それ故︑
彼は創業利得の定式における被減数の分母を配当率としたとい
うことなのである︒そして︑このように考えてみると︑たしか
に︑ヒルファディングが何故に定式の被減数の分母を配当率と
したかということが理解出来るのであり︑その点︑後藤氏の解
釈はたしかにすぐれたものといえるであろう︒ただ︑それはあ
くまでも︑ヒルファディングが何故に定式の被減数の分母を配
当率としたかということに対する解釈・説明としてはすぐれた
ものだということなのであって︑決して︑そうしたヒルファデ
ィングの考えが正しいということではない︒
まず第一に︑創業利得を資本金と現実資本の差額として規定
するのであれば別であるが︑そしてもしそうであればまた別の
問題が生ずるのであるが︑そうではなく︑﹁平均利潤を産む資
本と平均利子を産む資本の差﹂(一八二頁)あるいは﹁現実に機
能する資本と(擬制)株式資本との差﹂ハ一九三頁﹀というよう
に規定するとすれば︑たとえ資本金が擬制資本総額と等額に決
められるものとして考察するとしても︑創業利得の定式の被減
数は︑やはり︑擬制資本をあらわすものとしなければならず︑
したがって︑その被減数の分母は利子率としなければならない
のである︒それをヒルファディングのよ7に配当率とすること
一 一
一 一
ヒルファディングの創業利得論
は︑資本金と擬制資本を││両者が量的に等しいということを
通してl│混同しているものといわなければならない︒そして
そうした混同は︑何ら資本ではない資本金を株式資本と表現し
ている点や︑後藤氏によって︑一擬制資本をあらわす比の分母
は配当率であるということになるしと解釈されている点にも明
瞭にあらわれているのである︒
第二にいえることは︑﹁利潤あるいは収益が支配的利子率で
資本還元されて株式価格が成女し︑﹃この株式価格において第
二の資本が存在するように見える﹄ということに﹂なったとし
ても︑資本金は必ずしも擬制資本総額と等額に決められるとは
限らない︑というよりも︑より正確にいえば︑等額に決めるこ
とは不可能だということである︒というのは︑擬制資本の大い
さは株式が発行される以前には知ることが出来ないのであるか
ら︑創業時において資本金を擬制資本額と等額に決めることは
不可能なことであり︑また株式の発行後においてもそれは絶え
ず変動するのであるから︑その変動に応じて資本金を変動させ
るということも出来ないからである︒もっとも︑資本金を予想
される擬制資本の大いさに基いて決めるということはあり得る
ことなのであるが︑そうしたととでさえ︑資本金の大いさの決
め方の一つであるにすぎないのであって︑決して︑唯一の決め
方ではないのである︒こうしたことからみて︑資本金が擬制資
本総額と等額に決められるということに基いて定式の被減数の
分母を配当率とすることは︑量的な側面からみても正しいこと
一 一一 四
とはいえないのである︒
さて︑創業利得の定式における被減数の分母は︑これまで明
らかにして来たように︑ヒルフプディングの立場に立っても︑
配当または配当率ではなく利子率でなければならないものと思
われるのであるが︑それにもかかわらず︑何故︑彼はそれを配
当または配当率としたのであろうか︒それは彼が配当を如何に
把握しているかということを明らかにすることによって明らか
になるものと考えられるのである︒そしてピルファデf
ング
の
創業利得議についての論争も︑その一つの中心点は彼の配当の
規定の解釈に関するものであったのであり︑さきの後藤氏の解
釈も︑﹁ヒルファディングは︑利潤の擬制資本にたいする関係
において配当を規定している﹂ハ前掲書五豆頁)という解釈に
基いてなされていたわけなのである︒さらに︑ヒルファディン
グ自身も﹃金融資本論﹄の第七章一の表題を﹁配当と創業利
得﹂としているばかりでなく︑﹁配当
( E
5
号昆)を彼︹マルクス︺はまだ特殊な経済的範鴎としては把握しておらず︑そ
れゆえ創業利得をも未分析のまま残しているし(一八一頁︹︺
内l引用者)と述べているのであり︑こうしたことからみても︑
彼の配当の把握の仕方はその創業利得論と密接に結びついてい
ることがわかるのである︒そこで項をあらためて︑彼が配当を
いかに把握しているかということをみてみたいと思う︒
五
まずはじめに︑配当についてヒルファディングがどのように
述べているかということをみてみると︑彼は︑﹁自由な貨幣資
本・::の種々の投下可能性をめぐる競争は︑株式の価格を確定
利附投下の価格に接近させて︑株主にとって産業利潤からの収
益を利子に帰着させる
( 8
品目
芯な
る﹂
ハ一
七七
頁﹀
と述
べた
後︑
行をかえて︑次のように述べているのである︒すなわち︑
﹁し
たが
って
︑こ
の利
子へ
の帰
着(
河包
己込
山口
口由
民
a g N Z C
は︑株式制度および証券取引所の発展とともに進行する一の歴
史的過程である︒株式会社が支配的形態ではなく︑株式の売買
可能性が発展していないあいだは︑配当
( E
含白血)のうち
i
にも利子だけではなく企業者利得も含まれているであろう﹂
ハ一
七八
頁ゴ
チッ
ク体
│引
用者
﹀
みられるように︑ヒルフアディングはここで配当を正面から
取り上げて論じているわけではない︒しかし︑﹃金融資本論﹄
で配当という一言葉が最初に使われているのはこの箇所において
であり︑また︑ヒルファディングの配当の規定をめぐる論争も
ここで述べられていることの解釈を中心にしてなされて来たの
で︑そしてまた配当を正面から取り上げて論じている箇所が他
にあるわけでもないので︑本橋でもこの引用文で述べられてい
ることを中心にして検討して行くことにしたい︒
まず︑ヒルファディングを批判する論者たちが右の引用文で
ヒルファディングの創業利得論 述べられていることを如何に解釈し︑如何に批判して来たかということからみて行くと︑ほとんどの場合︑﹁配当のうちにも利子だけではなく企業者利得も含まれている﹂ということは︑総利潤が
│
lつまり利子だけではなく企業者利得も││配当に
まわされるという意味に解釈し︑﹁利子への帰着﹂ということ
は︑そのことから推して︑総利潤のうちの利子部分だけが配当
にまわされるようになるという意味に解釈し︑そうした解釈に
基いて︑あるいは︑ヒルファディングがそれまで述べて来たこ
とと矛盾する︑あるいは︑配当が総利潤のうちの利子部分にま
で縮減する必然性はない︑あるいは︑それでは創業利得は生じ
ないことになる︑あるいは︑ヒルファディングはその後におい
ても総利潤が
ll
つまり利子だけではなく企業者利得も
│l
配当にまわされるものとして創業利得を論じている等々といった
批判がなされて来たのである︒
そして︑さきの引用文で述べられていることをそれ自体とし
てとりだしてみると︑そのような解釈が出て来るのもやむを得
ないことといえるであろう︒ただ︑そのように解釈すると︑右
に述べたように︑ヒルファディングがそれまでに述べて来たこ
とと矛盾するばかりでなく︑その後において述べていることと
も矛盾することになるのである︒こうしたことと︑配当という
言葉がここではじめて使われているということとをあわせて考
えてみると︑ヒルファディングは配当という言葉を独特の意味
をもつものとして使っているのではないか︑いいかえれば︑配
一一
一五
ヒルファディングの創業利得論
当を独特の意味において把握しているのではないかとも思われ
るの
であ
る︒
そこで︑次に︑さきの引用文で述べられていることもその前
後で述べられていることと矛円しないとして︑それまでの批判
に反批判を加えておられる後藤氏の解釈をみてみると︑氏は次
のようにいわれている︒すなわち︑
一︹有の引用文の前では︺株式の売却可能性と証券取引所と
が︑﹃利子への帰着﹄をもた︑りしたとされているのであった︒
﹃したがって︑この利子への帰着は︑株式制度および証券取引
所の発展とともに進行する一の歴史的過程である﹄︒すなわ
ち︑﹃株式制度および証券取引所﹄が発展すればするほど︑種
々の投下可能性をめぐる貨幣資本の競争は広く深くなり︑社会
のすみずみまで浸透し︑すべての自由な貨幣資本が株式に買い
向い︑コる可能性はますます現実化し︑したがって株式の価格は
ますます確定利子附投下の価格に接近し︑利廻りはますます利
子率に近ずいてゆく︒
逆に﹃株式制度および証券取引所﹄が未発達なあいだは︑す
なわち﹃株式会社が支配的形態ではなく︑株式の売買可能性が
発展していないあいだは円貨幣資本の競争は狭く浅く︑社会
の全面をおおうことはできず︑すべての自由な貨幣資本が株式
に買い向いうる可能性はいまだ現実性に乏しく︑つまり︑﹃株
主の貨幣資本家としての性格も未熟であって﹄︹別府前掲書
六O頁可したがって株式の価格の確定利子附投下の悩格への
一一
一六
接近も小さく︑利廻りはなお利子率とのへだたりを大きく残し︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ているであろう︒すなわち︑株式の価格にとっては収益は︑換言
すれば配当は︑利子率を大きく上回るであろう︒したがって株
主の購入価格にとっては︑その受取る収益は利子相当額以上の
ものにあたることになり︑株主にとっては﹃配当のうちにも利
子だけではなく企業者利得も含まれている﹄ということになる
わけである
L
(前掲書六
O
i一頁傍点│後藤氏︹︺内引用者﹀︒
まず︑﹁利子への帰着﹂ということについてみてみると︑後
藤氏はそれを利廻りは利子率と等しくなるという意味でめると
解釈されているのである︒たしかに︑さきの引用文の直前では
利廻りが利子率と等しくなるということが述へられているので
あり︑そしてそのことを受けて﹁したがって︑この利子への帰
若﹂と述べられているのであるから︑その点からみるならば︑
﹁利子への利着﹂ということはそうした意味であると考えられ
ので
ある
︒
そして︑﹁利子への帰着﹂ということがそうした意味である
とすれば︑そのことから推して︑﹁配当のうちにも利子︑たけで
はなく企業者利得も含まれている﹂ということもまた︑氏のい
われるよ︑つに︑﹁株式の価格にとワては収益は︑換一一目すれば配
当は︑利子率を大きく上回る﹂ということ︑﹁株主の購入価格
にとっては︑その受取る収益は利子相当額以上のものになるし
ということであると思われるのである︒つまり︑株式の価格と
対比した配当は利子生み資本と対比した利子を上回るというこ