1.目次 序章 第1 節 本論文の課題 第1 項 「教子」をする母親像 第2 項 江南地区の「閨秀詩社」における「母教」 第2 節 本論文の構成 第3 節 史料や方法 第一章 女訓書における母親像 第1 節 明清期における女訓書の撰書概況 第1項 『女四書』について 1. 曹大家の『女誡』 2. 伝宋尚宮の『女論語』 3. 伝王節婦の『女範捷録』 第2 項 明清期女訓書の著書状況 第2 節 『内訓』における母親像 第1 項 『内訓』の著作動機 第2 項 『内訓』における理想的な母親像 第二章 顧若璞の「母教」 第1 節 顧若璞の勉学過程 第1 項 顧氏の家風に影響される時期 第2 項 結婚後の夫との詩歌唱和 第3 項 息子の教育のための読書 第2 節 「訓戒」だけでなく「教子」も含む「母教」 第1 項 家訓の作成 第2 項 勉学の環境整備 第3 項 経典の伝授 第3 節 家族女性への教え 第1 項 「教女」の目的 第2 項 「教女」の姿 第4 節 若璞が得ていた評価 第1 項 文学批評家による評価 第2 項 地方志による評価 第三章 顧之瓊の「母教」 第1 節 顧之瓊の家族について 第2 節 顧之瓊の「母教」 第1 項 娘への訓戒 第2項 「教子」「教女」が同時に進行する「母教」 1.『読書日程』における訓戒 2.息子を教える読書法 3.文字注釈 第3 項 家族内における詩の唱和 第四章 「蕉園詩社」における「母教」 第1 節 詩社設立の経緯 第1 項 詩社設立の時代背景 第2 項 詩社設立の経緯 第2 節 詩社の構成 第3 節 詩社活動における教え関係 第1項 詩社活動の様相 1. 集会場所 2. 活動形式と作品内容 第2項 詩社における「母教」 1. 顧之瓊の「母教」 2. 顧若璞の「母教」 3. 柴静儀の「母教」 第4 節 「蕉園詩社」が得ていた評価 終章 まとめと今後の課題 2.概要 <序章> 本論文は中国明末清初期(1570-1720)の江南地区に おける顧氏一族のなかでの「母教」(母親からの教育)を 考察するものである。具体的には、女性詩人として後に 知られる顧氏若璞、之瓊が子どもの教育に携わるように なった契機や目的、女子の詩の結社活動において果たし た役割の分析によって、当時の女訓書の要求を超えた「母 教」が施されていたことを解明することを目的とする。 封建時代の女性を語る場合、「列女伝」等の女訓書を 通して「男女内外の分」等の儒教的規範の面からとらえ られる研究が多い。近代女性史研究の第一人者といわれ る陳東原(1937)は節烈、曲従、勤倹、「女才無しすな わちこれ徳あり」などの女訓書における教訓と言行規範 が封建時代に存在したことを根拠として、女性を封建制 度の犠牲者、被害者であったと位置付けている。『女四 書』を代表とする女訓書は後の女子教育に悪影響を残し た本であると批判している。陳とは異なり、山崎(1986) は史料研究の眼差しから、上流階級を中心とする女性に
明末清初期の江南地区における顧氏一族の「母教」
キーワード:科挙世家、母教、女訓書、女子教育、閨秀詩社 教育システム専攻 張 琦通じる教訓が明代において何度も刊行されただけではな く、後世にも影響が深かったことを指摘し、このような 女訓書における「母親像」が当時や後世において求めら れている「理想的」な母親像といっても過言ではない、 というように女訓書を認識している。 女訓書における母親像は、その後の研究者が繰り返す ことによって、定型の語り方になったといえる。しかし、 明末清初期には、家族の男性が仕事で不在の場合やすで に死亡していて、子どもを教育することができない場合 に、子どもの立身出世のために道理や家訓を教える母親 も存在した。倉橋(2006)は婚姻関係の角度から女性が 「科挙世家」を結ぶ紐帯、そして子女の教育や文化活動 の重要な担い手として母親を捉えている。母親の果たし た教育上の役割が一層重要視されていたことや、「訓戒」 の範囲を超えた「家法」の教えをした母親の存在を明ら かにしている。 宗法封建社会が儒教の規範を利用して女性の教育機 能を「訓戒」に制限したことを主張する山崎の研究に対 し、本論文は後に女性詩人として知られる、江南地区の 顧若璞、若璞の姪である之瓊の一族の史料によって、生 活面の訓戒、礼儀作法の指導や物事の理非、善悪を諭す ことだけでなく、基礎的な学習習慣を身に付けさせて、 経典を教えるまでの「母教」を施す姿に注目した。 顧氏の家族において、科挙試験に関わる知識の伝授の ほかに、女性間の詩の唱和に由来する結社活動も存在し た。コー(1994)は当時活躍していた女性詩人に着目し、 家の中で権威を持ち、社会でも尊敬され、評価を受けた 女性像を描き出している。「新文化運動」により構築され た被害者としての女性像の語り方は男女間の原動力や中 国社会の機能動力を不明瞭にしたゆえに、虐げられて生 きてきたのではなく、女性文化を創造していた女性像を 明らかにする必要が説かれている。中国女性史研究にお いて既成概念となった「被害者」としての女性像に潜む 歴史の実像を掘り出し、歴史の主体としての女性像を語 り直すことは重要な意義を持っている。 本論文は女性詩人の身分を除く、教育の担い手と受身 として、「訓戒」の教育要求をはるかに超えていた「母教」 を授受した蕉園の諸女子の実像、および当時の文壇や地 方志に評価されていたことを論じて、「理想的」な母親像 との乖離や、女性が教育の一端を担う意味を明らかにし た。コーが論じた「情感に溢れた女性文化を創造する」 ことを可能にした、女性間に授受する教育の実像を解明 することで、被抑圧とされていままでの常識になった女 性像の書き直す作業に対して、教育という不可欠な要素 を補完する。 <第一章>女訓書における母親像 第一章では、明朝徐皇后が著した『内訓』を主な史料 とし、明清期に後宮女子から市民階級に普及した女子の 指導書から見られる「理想的」な女性像、母親像を分析 した。 明中期からの出版業の繁栄の結果として、以前は書籍 に接近することが難しかった人々も簡単に本を手に入れ ることができるようになった。出版する側だけでなく、 読者層も著しく拡大したのである。文学作品に対する要 求は、単に儒教経典では満たされなかったため、物語、 詩、散文、話本(劇の脚本)、学生用の指導書、宗教指導 書、旅行指南といった多様な書籍が現れ始めた。本章で は、明清期に何度も刊行、編集された女訓書の整理を通 して、出版業の繁栄が女訓書に波及し、文学市場におい て大流行したことが確認された。 女訓書の集大成者といわれる『女四書』という女訓書 群の中で、『内訓』は貴族女子が受けた教えを後宮や民衆 に広げようとして刊行したものであった。編者の皇后徐 氏は『礼記・内則』から受け継いだ女性の規範を認めて いるが、専門的、権威的な女訓書が欠けていたことや、 当時流行っていた女訓書の簡略さを批判しつつ、女性の 「訓戒」に役立てる女訓書の重要性を説いている。徐氏 は姑の馬皇后の教えに基づいて、女性が家族内において 果たすべき機能を規定していた。『内訓』は前の時代に流 行っていた女訓書と同じような基調で、「柔らかに人に 従うようにすれば、徳性が備わる」ということを宣伝し ており、一生男性の教えに従い、男性が教える道理を子 どもに伝授し、発展させてゆくということを女性が母親 として果たすべき役割であるとしている。前時代の女訓 書よりも、一層徳性を養うことの重要性を強調しており、 子どもの教育において施す内容も「徳育」、すなわち「訓 戒」の範囲にとどまっているのである。さらに子どもを 教える方法についても、自身を模範とし、家事の心得や 言語挙止の注意を教えるということが述べられている。 教える対象は「男女」(息子や娘)であると説かれている が、実際に男子の教えについての記述が欠如しており、 先生を招いて指導に従わせるということに限られている。 娘を教える場合には、外に出ることが絶対に許されない ことを強調しており、家事に集中せず、家の外に出る娘 を「悪事を起こす」女としていた。儒教経典に規範づけ られた理想像から離れた女子は家族の恥になるため、女 訓書の教えに従って行動する必要性が強調されていた。 『内訓』は後世に影響が深かったと言われる一方、そ れに示されている「理想的」な母親が施すべき「母教」 とは慈愛と厳格の加減を把握しつつ、子ども(主に娘)
の「訓戒」をするということであった。 <第二章>顧若璞の「母教」 第二章では、女性詩人である顧若璞の詩集『臥月軒稿』 を用いて、女訓書に規範されている「訓戒」の内容をは るかに超えていた「母教」を施した家族の実像を明らか にした。「理想的」母親像とは異なっており、「訓戒」だ けでなく、「教子」をする母親は「科挙世家」に出現し始 めた。このような母親像は家族の男性に求められており、 女性自身の教育要求にも応じたため、コーが論じた「新 しい文化を創造」する女性の出現に条件を提供していた といえる。 明末清初期において、科挙制度の改革を契機とする儒 教知識の習得に集中し始める風潮から、将来立身出世の ために子どもの教育が重要視されるようになった。その 中で、顧氏のような、父親が不在である場合に、父親か ら教えの権限を母親に移譲された家族では、母親は子ど もを教えるため、科挙試験に関わる知識に接近しており、 子どもに伝授するようになった。若璞自身の詩作、家族 (弟、義父)および男性文人の伝記、序文によって、若 璞の勉学過程を「顧氏の家風に影響される時期」、「結婚 後の夫との詩歌唱和」、「息子の教育のための読書」とい う三つの時期に分けて論じた。 息子に施した「母教」について、「子に示す」などの 家訓及び土地管理に関する書簡から見ると、「孝道を重ん じて、道徳で称賛される人になる」という具体的な希望 を示し、共に仲睦まじい家族を作る願望を若璞は息子た ちに伝えた。これらの家訓や家法はすでに女訓書に規範 付けられた言葉での「訓戒」を超えていた。さらに息子 の読書環境の整備や科挙試験に関わる知識の伝授をして おり、息子が塾に入った後も続いていた。若璞は「母教」 を教えの担い手(塾師)の補足的、協力的な役として捉 えているが、その実際的な役割は既に啓蒙の枠を超えて いたことは疑いが無い。 息子たちが成人になり、各自に家を立てたことを契機 とし、若璞は姪っ子をはじめとする、義理娘、孫娘など 家族の女子の教えに移るようになった。女子の勉学は男 子とは異なり、経典を読み、詩や文章を作ったとしても、 男子と比べようとすることはしない、と若璞は強調して おり、家族の族長として「良妻賢母」を育てる目的の下 で、女子を教えながら「文章を作って楽しむ」というこ とを励ました。詩の作り方を教えたほかに、「水利屯田の 諸政事に熱心する」というように地方志に記されており、 婦女が政治、土地、経済問題を検討することに対する支 持が示されていた。 当時や後世の文学批評家は若璞上の才能を認めて賞 賛していたとともに、女訓書の要求に背いた「政事に熱 心する」ことについても批判はせず、「奇人」という称号 を与えていた。さらに文学の才能を評価すると同時に、 「徳性」「節操」など女性にとっては基本的な要求につい て肯定する態度を示していた。 <第三章>顧之瓊の「母教」 第三章では、若璞の教え子の一人として、さらに若璞 の教えを子どもに伝授した顧之瓊の心得書『読書日程』 を用いて、彼女の「母教」を論じた。女性の間の親族関 係によって知識の伝承が見える一方、さらに家族内の「教 女」から女性の結社活動によって、親族、友人、同郷な どの女性の教えや交流へ発展していた、といった面での 顧之瓊の役割を検討した。 之瓊に関する史料には断片的なものが多いが、之瓊の 次女の銭鳳綸の記述の整理を通して之瓊の生涯を垣間見 た。之瓊は女訓書に述べられた「徳性の養成」に基づい て、子どもの挨拶、言語、衣服容貌、飲食、読書など、 数多くの方面から規範を設定しており、祖先から継承し た教訓を長年守り続ける必要性を説いていた。之瓊が制 定した規範は、女訓書の要求と「徳育」の共通点を見出 すことができる一方、女訓書の要求に不在である「勉学」 のあり方にも言明していた。之瓊が提出した教訓「十四 条」は子どもが学問を勉学する前に、基礎として身に付 けなければならないことであった。ゆえに、「訓戒」であ るとともに、読書、書道の要求も含まれている。これら は、女訓書の「訓戒」を超えて、「教子」の枠における子 どもの啓蒙に属するといえるものであった。さらに、科 挙試験に参加できない女性として、試験に必要な知識、 たとえば、経典の読み方、「八股文」の書き方に関する心 得を息子に教えていた。「教女」の面では、女訓書に示さ れている理想的な女性像を肯定していた一方、女子が経 典を読むことを通して婦道を知り、文学創作を通して楽 しむことについて支持する態度を語っていた。娘との詩 歌唱和も後の詩社を結成する契機となった。 文学批評家の角度から之瓊の文学上の功績は大いに 賞賛されていた。さらに家族の女家長であり、「母教」を 施す者の角度では、之瓊の「婦徳」「婦言」も高く評価さ れていた。教えの権限を家族の男性から委譲されること によって、「教育をする」母親が望ましいあり方となった ことが確認された。 <第四章>「蕉園詩社」における「母教」 第四章では、家族内の女性の間における詩歌唱和から
発足した「蕉園詩社」という詩の結社活動の分析を通し て、設立者である顧之瓊が家族女子の教えにおいて果た した役割や詩社に与えた影響を明らかにしつつ、女性の 結社活動の実態や当時の男性文人による評価を通して、 顧氏の「母教」に関する語り方を検討した。本章で主な 史料として用いたのは詩社の主導者とされている銭鳳綸 や林以寧の詩集である。 まず、先行研究の検討を通して、詩社の設立が順治中 期から康熙初年の間であると明らかにした。王朝転換の 動乱の影響を多少受けていたが、経済の高度発展によっ て「盛世」を迎え始め、より安定した時代において、女 性の詩の創作が安定した環境で行うことができると論じ た。詩社の設立契機に関する考証できる史料は少ないが、 之瓊の書簡や文章によって、女性達に詩の交流の場を作 ることや、名門望族でない家族に出身の女性の作品を収 集する目的を明らかにした。 「蕉園詩社」の女性達は女訓書に示されている「理想 的」な女性像とは違い、家族内に本を購入して読む権限 を持っていただけではなく、家族外において結社、集会、 交遊、さらに詩集を出版することもできた。彼女らが活 動した空間も家の中に限らず、園林、山水といった外の 空間に移すことが多かった。女訓書に要求されていた「謹 言」「慎行」「低姿勢」ということに背いたと言えるだろ う。さらに女性間に存在した教えの内容や形式も女訓書 の「訓戒」をはるかに超えていた。このような女性像を めぐって多くの議論がなされた。女訓書の要求を背いた という批判があった一方、才能が優れている、徳性も重 ねて備えているというように評価されたこともしばしば みられる。男性文人、文学批評家たちが与えた評価から、 「良妻賢母」の身分を保ったのは才能が評価される基礎 であったことがわかった一方、徳性だけではなく、才能 も賞賛され、交遊、結社の権限を得ていた女性達に対す る封建社会の制限は緩んでいたことが示された。 <終章>まとめと今後の課題 終章では、本論文の内容と今後の課題について記した。 まず、本論文では「教説型」女訓書における女性の望 ましいあり方や教育要求、方法を検討した。『内訓』のほ かに、『女誡』の中心思想となった「低姿勢」や「四徳」、 『女論語』に説かれている「夫なる者は天になり」とい うこと、そして『女範捷録』に示されている各模範人物 の事例から見ると、儒教思想に規範づけられていた社会 において求められている「理想的」な女性像というのは、 男性の絶対的優位に服従する、という様相であった。し かし、顧氏の家族においては、男性の支援をうけ、儒教 経典を手に入れて読む機会を持った女性が存在し、これ らの女性たちは勉学を通して学んだ学識を後代に伝えて いた。宗法封建社会に規範づけられた「良妻賢母」の役 を演じていたため、男性から教育の権限をもらうことが 可能になった。さらに、交際的な性質を帯びていた詩の 結社活動を行い、女性の活動範囲を家の「内」から「外」 に発展させていた。女性が守るべき規範に背いたと言え る。男性が女性の読書、結社、交遊、そして出版刊行に 協力をした行為から、「男女内外の分」により引かれた女 性活動の境界線は一層曖昧にされたのであった。 科挙試験を通してエリートの地位の再生産を可能に した、すなわち流動性が高い明末清初期において、この 高い流動性を凌駕して代々合格者が輩出した「科挙世家」 の形成は江南地区の女性が教育に携わるようになった原 因であるとともに、女性が詩の結社活動に集中した原因 でもある。本論文で論じた「蕉園詩社」の成員の移動に よって、こうした活動はほかの地区でも展開した。また 同じ地区においても、蕉園諸女子の影響を受けて設立し た「西泠詩社」なども存在した。このような文化創造の 活動の中には、友人、同郷の関係によって結ばれた、家 族関係の枠を越えたネットワークが見られる。「交際式」 の性質を帯びていた数多くの詩社において、一族に限ら ず、各「科挙世家」の女性間の教育上の絡み合いを見る ことは可能である。今後の課題としたい。 3.主な史料 顧若璞著、丁丙編『臥月軒稿』、芸文印書館、1900 年版 顧之瓊『読書日程』厳書集成初編、1856 年版 陳橘ら『杭州府誌』『中国地方志集成』浙江府県志第1-3 冊、1922 年 銭鳳綸『古香楼集』、国家図書館文献縮微中心所蔵 林以寧『墨荘集』国家図書館文献縮微中心所蔵、清刻本 4.主要参考文献 コー著、李志生訳『閨塾師-明末清初における江南地区 の才女文化』、江蘇文化出版社、2004 年 コー著、小野和子、小野啓子訳『纏足の靴―小さな足の 文化史』、平凡社、2005 年 倉橋圭子「明清期「世家」の形成と女性の役割」、お茶の 水史学、2006 年 山崎純一『教育から見た中国女性史資料の研究』、明治書 院、1986 年 李恬「蕉園詩社と杭州顧氏」、『中国文学論集』第41 号、 2012 年