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『宗教研究』新第7巻第5号(*56号)

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(1)

――目次――

1,

宋朝廷の財政難と仏教教団,塚本善隆,Yoshitaka TSUKAMOTO,pp.1-30.

2,

児童の宗教意識における恒久領域と可変領域,関寛之,Hiroyuki SEKI,pp.31-42.

3,

業感縁起説と阿頼耶識,神林隆浄,Ryūzyō KANBAYASHI,pp.43-60.

4,

民族学の方法論と文化圏の構造,小山栄三,Eizō KOYAMA,pp.61-74.

5,

日本,支那,エジプト及ギリシャの墳墓に表象されたる来世観,津田敬武,Noritake TSUDA,pp.75-83.

6,

戦国時代における「宗論」,細川亀市,Kameichi HOSOKAWA,pp.84-94.

7,

エックハルトに関する二三の省察,無神論的慧智について,本荘可宗,Kasō HONZYŌ,pp.95-111.

8,

ヨハネ黙示録の理解へ,富森京次,Kyōji TOMIMORI,pp.112-126.

9,

姉崎博士新著『切支丹伝道の興廃』,比屋根安定,Antei HIYANE,pp.127-135.

10,

イエズス教団と近世文化,Rene Fulop-Miller, Macht und Geheimnis der Jesuiten,丸川仁夫,pp.136-145.

11,

逝けるアドルフ・フォン・ハルナック教授,森敬之,pp.146-150.

12,

近代基督教の誤謬,バートランドラッセルの宗教論,伊藤安二,Yasuji ITŌ,pp.151-163.

13,

婆薮槃豆法師伝の序文について,甲斐実行,Jikko KAI,pp.164-176.

14,

新刊紹介,pp.177-195.

(2)

uノく1

塚 本一書 隆

印度に興♭、支那朝鮮に集えた鹿数は今日その何れに於ても衰滅或は衰滅に瀕してゐる。俳致

衰滅の原因の究明は重要なる陶鹿でろる。私はかねて此問題を支那に就いて考へで見たいと思ケ

てゐた。六朝から唐にかけて、社食文化の先頭に立って一位を風靡した傭数が、明、・・清、良囲に ∼

至打ては次第に赴今の背後におし落され、敢曾の軽蔑の中に漸く命脈を♯ってゐる。何が沸教を

かくの如くせしめたかの推究である。そは教義組織の上から、支部文化の性質、支部の園民牲、

同家殻曾の組掃等と沸教との関係から﹁或は鳳数々囲の組織の上かち月ど種々の方面から考へ・ら

れねばならぬが、私は此に教義上の岡見をさしおき、便数々倉見の上から偶数衰滅の原因を考へ

て見ようと息ふ。蓋し支那俳敦の数理史的研究は相普進歩してゐるにも困らす、その数台史的方

面の研究は頗る啓開に附せられてゐる。而も支那俳数々囲の組織内容を計検すれば、此に農多の

儀隋や時点面を見るべく、支部沸教生麦滅に至らし増し罪は、沸教々囲百億が背ふべきもの少な

来朝延の財政難モ儒教々如

宋朝廷の財政難と彿数々周

腰妙

(3)

からぎるを知るのである。本稿の題目は支那偶数々合皮上の重大な問題であると共に、やがて彿

数衰滅の重要お二原因をはらむ問題である。而して偶数の明清東森への道を暗示してゐるもので

ある。

抑々来朝廷は終始西北方より迫ら凍る異民族 − 遼、金、西友、蒙古−1の侵完鹿追を如何に

防禦し緩和するかに苦んだ。而も金の南侵に北宋は亡び、江南に南宋の朝廷成るも外患何去らす、

終に南下する蒙古勢に滅されたのでぁつた。之等異民族との抗挙が主因となつて、北宋高来共に

朝廷は非常な財政難に陥ら、財政難切らぬけの新政策や窮策が末代の歴史をにぎはしてゐる。而

して財源捻出の窮発は彿数々囲にも向けられて、種々の問題を惹起し致囲の購殊に鍋根をのこし

セ。そのま要なる牒のに、垂名度肢の責出し、紫衣師戟の責出し、甫宋に入っては伶道免丁儲の

撤収がある。之等の諸問題は経済国難時代を物語る興味深き経済史上の問題であると共に、宗教 ′

史上に於ても支部沸教々囲の行方を暗示する由々しき問題であつたのである。

支那では、唐の天璽ハ載︵遥○以東、付属セらんとする者に僻事省岡部より度牒を発給して、

得度即ち剃髭許可の詮となした。何局となるには官許を得ねばならぬのであるが、兵役租税を避

忌する焉に私に剃萌する者が歴代少くない。唐の太宗は点粗︵茫3﹁⊥慧石︶の初年に赦して、﹁私皮付 鯛 来朝廷め財政難ミ係数々虹

(4)

老廃死﹂と私度付着に極刑皇豊ロし、また唐梓には、.私に出家し、私に人を度する者は杖一首等

の刑が規定されてゐるのであるが、倫私度の備付庖は少くなかった.。されば岡部度牒は付属の正

償を列やる重要写霞城であつて、付尼セるものは常に之を所持し、寺院に於ても他より遊行し凍

っで宿泊する相月に封しては、先つ維郵の職が度腱の具備を調査したものである。度朕は、得度

者の本籍、俗姓、付名年齢、所属寺名、本師名寄を列記し、岡部の長官以下開係官吏が連名押印

し咋公使である。

然るに宋代になりて朝廷自らが此度牒を貸出して金餞に代へるやうになつた。容名の度鹿を多

数一まとめにし、一通の真債を定め、地方官や商人を通して廉く民間に卓出すに至う、終には民

間市場に於て、恰もあ債、手形、妖術の如きものとなつて取政はるゝに至つたのである。

抑々唐の儒教は第九世紀の竿に至↓、武宗の峻厳な排彿を蒙った。武宗の排彿は極めて軌線的

に耳行せられ、その打輩は前代に類を見ないほどであつた。骨昌五年︵00会︶八月の制には、天下 の辞ちし寺院欺は寺、四千六首除併、招提閑若、.四萬除所。

相月を達俗せしめしこ圭一十六萬五盲人と記してゐる。

けれども武宗の崩後、沸教−少くとも寺院と付月との復興はぜん′−進行し、排彿以前にお

とらねやうな故に到逢したのである。

来朝廷の財政離せ沸教々圃 動け

(5)

東胡廷の財政搬亡沸教々屑 四

居城びて支部は五代の分寄割嬢時代に入る。周の世宗は五代を通じての英まと云はれる人でぁ

るが、官許を経ゃして無秩序、濫雑に埠大し行く沸教々囲に射し叙椿二年︵父芯︶大整理を断行す

ることにし咋。私度肝屈、私道寺院を陶汰すると共に、爾今の造寺皮付に関する液量な制限法命

︵︼︶

を出したのであるが、此年の調査には、

現存寺院 二千六盲九十四所

所虜寺院 三高三十六所

と云ふ救字が見えてゐる。宋の創立者太組ほかゝる彿敦大整麺をやった周の後をうけて即位した

のでぁる。︵冨○︶而して先づ周の沸教整理令を緩和すると共に、進んで便数興隆にカを致すに垂つ ︵二︶

た。蓋し政令民衆の間に細管大きな勢力を以ってゐる彿故に対する此廃置は、地方民心牧据の上

に賢明な一発であつたと云ふペきであらう。次の太宗は賛寧が、

我太宗太平典観初年及七年。度付一十七萬有除。音之異議。細徒孔煉在手技奏︵付史略葛下︶

と締給する所でぁる。伶月はどんく材加した。第三代の具宗の天肩五年︵︼○誓︶には、付属由十

︵三︺ 五萬八千八盲五十と云ふ欺字を示してゐる。尤もこの歌字は付月の籍帳に喜藤された。換言すれ

現在滑 四萬二千内宮四十四

現在月一茶八千七盲五十六

計六高一千二百

創膵

(6)

ば度族を絵せられた官度の何局数と見るべきであつて、この外に僻私皮付虎が少からす存したも

のと見なければならぬ。

● 粉炭俵を得て冊月になる手頼きは如何になつてゐたか。付たらんと志す者は先づ出家して寺に

入む有髪のま∼で俳敦を孝脅する。これを真布或は行者と補した。董行にも籍がオら、既に量行

の膳に登餞さるれば、未だ剃髪せざるも何局と同じ様に賦役免除の特典を輿へられたやうでろ

︵︻︶ も.。官は童行を試験する。試験は経典の領詞カを見るのであつて、俳数々理などを問ふのではな

い。経典は普沌には法華経などが用ひられた。この官の帯励に合格した者に両部度鹿が給せられ、

此に初めて剃髭して沙調と打了り、更に具足戒を受けて比丘伶と打了り得るのである。之を試験皮付

と云ふ。

就桧皮付の外に、天子の誕生節、皇族の忌辰、寺院建立などに際し、試験を経古して度牒が給

せられることがある。之を息度と云ふ。

妻するに付ねらんと志す者は、試験或は息度によつて度牒を得ねばならぬのであるが、.来の初

期には度煉給奥に曹って、一定の手数料を官に納入したものである。南宋の李素裸の原資拾通優

長編巷十八、大乗の太平典園二年︵雪ごの健に、 00000000 工部郎中侯捗言。南部歩付属煉毒邁納一首餞於有司南y寵乏。 来朝廷¢財政難ミ沸教々闊 五 j汐き

(7)

六 来朝廷の財政難ミ沸教々園 とある。盲餞は.恐く手教科、紙墨科とでも云ふべきものであらう。この宋初の制度は前代からの

制度を踏襲し・てゐたものと解すペきであらう。而して此盲餞の手数料は以後麿せられることにな

った。

跡既に付たらんが焉には炭俵が必要であるとすれば、借たらんと志す者が、之を待んが焉に櫛

門勢家に連動し、或は金成によ♭て之を買はんとする宕も生するのが自然である。殊に氏に免賦

役の焉に剃髪を志す者が多く、官吏に収賄を以って曹然の役徳と心得へる者の多小支那に於ては

一盾癒す易いことである。現に原資治適宜長席巻五十三、真宗の成年五年︵−00旭︶の健に ■■︳ ︵ 00000 詔。天下有,頼買両部族︰胃焉一倍者︰限一二月︰於a所在−陳首琴衰罪蓮者給血一律。少壮者隷一宮籍︰

と云ふ詔令が出てゐる。即ち民間に窮かに度陳を買ひて剃髪せんとする者が相曹にあつたことを

澄明してゐるのである。

かくの如くかつては度牒を姿絵して手数料を待た経験があγゥ、民間には之皇‡てでも付に周

らうとする者が多いとすれば、財政窮乏の折柄、度陳に償を立てゝ之を妻らんとイることは容易

に息ひつかれることである。況や度肢を貪った例は前代に少なからす存するに於てをや。 唐の中宗の醐寵景龍時代︵ゴ慕rしコ5︶に、安棄長寧二ぁま及び章皇后の一族が専横を極め、奴♯

賎業の者も撃二十萬を納むれば官爵を輿へ、攣二萬を納むれば度して倍月となしたと云ひ︵通盤

汐重

(8)

巷二百九︶、羞楚客の規親元息書︵仝居丈器官七十六︶や辛賛否の諌中宗置公府官疏︵文苑英華璽ハ

盲九十人︶

の東宮は何餞が公府に入わしも、今の費度は餞が私家に入ると慨し、叉財を出して権勢に依る者

は皆沙蒲となるが故に避役姦託の者は重く沙蒲と捏了り、未だ度せぎる者は唯貧窮と善人とのみな

♭とまで極論してゐる。之等の責度は度牒を頁るのではないかも知れぬ。度使螢給の始めは文献

に見ゆる所では次の玄宗時代からであるから。然し安史の軋起り、軍費の急を告ぐるや、朝廷は

公然貴度捷を始めた。即ち安線山反するや楊囲息は御史雀衆を太原に況して餞を納めて借道を度

し旬日にして官萬緒を待、翌年は御史鄭叔清、宰相蓑冤等和議して大府に各々戒壇を置き餞を納

めて作造を度した。悌組統紀器画十によれば餞盲縮を納むる宕に、清牒剃度を許したと云ふ。此

納餞を香水餞と辞した。付沖合は嘗時萩焼に経せし洛陽に於て方檀を築き、軍資金たる香水餞集

︵六︶ 異に重力した人である。

一度かくの如きこと行はれてよ♭、六安史の乳牛定後、地方官等の事に託して度付を奏辞する

着が少くなかった。此中には金餞を得ることを目肘として皮付せしものがあつたやうである。洒

州の王智臭が廉く江准地方より百姓を募り、二絹を牧むる者に剃度を典へて銀萬の財を集め、こ

の感状と弊育とを調査した李梅林が速かに禁せぎれば江推以南の牡丁六十萬を失ふペしと奏上し

来朝起の財政難モ併散々園 29∂

(9)

安寧は責度のことを論じ、安史の乱及び王者奥の賓度を述べた彼に、

自虐未−巳凍。諸侯角立満開衰須︰財召度一存鬼邁士尭納顔。謂乏香水攣後給一重野毛念此多弁 串︰復改一蔭門呼哉.︵付史略︶ 塵慨いてゐる。之にTよれば、︰責度によつて利財を求むるが如きことは、卒智典以後にも唐宋以来

各地の群雄によりて行はれたと見るペきである。太平興国二年まで度政一通毎に百餞を有司に納

めた云ふ朱初の制も前代真皮の名残かも知れぬ。

文一面責官、常欝と云ふことも支部では古くよ♭例があるのでぁるが、宋代にも度陳出資に先

って盛に行はれてゐた。来一代を通じて巷各骨身は容名度牒と同棲に盛に責出され、ま化民間に

取引されたものである。民が峯名告身を買ふのは租税兵役免除の焉であト、政府は此特典と引換

へに一時金を収得せんとするのである。此鮎に於て峯名告身も、車名度使も同じ種類のものであ

る。寅官費爵をやってゐる政府が黄塵に進むのⅥ最早l歩の差のみである。来朝廷がやが三貿度

捷を始めたのは異とするに足らぬ。

来朝廷が遮境のことに苦しみ、財政に窮してゐる時、民にとつては最も嫌な兵役と苛欽とが常

に切迫してゐる。されば之を逃れる手近な方法は、官欝や度牒を得ることである。一度官宙度鹿 謝

宋朝廷由財政難号俸数々園 ︵七︶ たのは、敬宗の長慶四年︵00芝首・ことである。 八

(10)

が扁出さるれば、民間の買手は頗る多いに相違ない。

要するに唐以凍の度株制度は責度を生じ易いものであアク、且屡

ったが、来時代は一骨此に導き易き情勢にあつたのである。第十一世紀後年来朝廷が需度族に手

を出してよ㌔皮膜螢給教は爽第に村加し、止めんとして止むる俄はす、元明時代にまでも及び、

経済史上、政治史上、宗教史上に種々の考慮すべき問題をひき起したのであつた。宋代の常座席

に就いては最近畢友曾我部文革士が史畢雑誌︵四十一ノ六︶に﹁宋の度牒雑考﹂として詳細有金な諭

記を載せられたから、これを参照してもらひたい。此には概略を述べておく。

一。五岱曾嬰笹十二に詳光り。

二、金石撃腐希有二十三鳳翔府停廃寺院展。一

鎖安治菰鑑哀痛恕.一。逮隆二年六月等号。及び俳組統記巷四十三等畳鰯。 三、群書考尭彗ハ十三。に此間彼の肘尾道士女藩士¢敷か出亡居れり。骨尾骨は俳乱読紀巷四十四lこも出づ。 四、寺に有髪¢宜行の多敷居忘=ミにほ種々の辞書が伴つ㌔温鑑長編等わ参照†ベL。例へば同書金吾十八、景革二年

の條に、

超州音。管内併寺歳係帳童行千有除人。槍食管専業税戸筍夢州麻之役色。今壷寺各丑留ここ人外其不義巌肴並勒

辟−農。緒。自今出家童行。額義挙階。方痕免貞彼。徒之。 五、試経度肩は唐時代からわり。種々菱逢わり。周せ宗の規定亨し所望墓園直前¢もの写して注意†へL、五代倉卒lこ 来朝廷の財政感官俄寂々閣 βタ7

(11)

来の峯名皮膜官真の始めは、南宋の孝心侍は、建炎以凍朝野雑記甲集巷十五や、建炎以水菜年

要港撃一十大に、治平四年一読を出してゐる。蓋し斉藤にあつた。

治平四年十月庚戊。賜二院西樽運使度牒千温︰兼穀振済。

と云ふ記事に披った詭であつて、宋史巷十四にも貰餞の文と略同じ記事が見えてゐる。

業年要錬葛二十六等に引用する府安治通産長編の供文や、南宋の王称撰の燕乳胎謀怨念五等に

は無事元年七月を以って始めて度牒を民間に出責したと記してゐる。

治平四年は紳宗即位︵正月︶の年であよ∴∴無事元年はその翌年である。されば今日見得る文献の

上では、紳宗即位して間もなく常度肢が始まつたと見ておくペきで牒る。

昔時は飢健地方賑救の緊急を要する臨時支出を済度牒に求めたものである。昔時の軒償は一道

︵枚︶育三十耳文と定められた。

一所宗の時と云へば、王安石が任用せられて、所謂新法を質施して困窮せる政府財政の立なはし 鯛

来朝廷の財政難ミ彿数々粛 詳耽り。采に光りてからの=軍は滴艦長編等の各虎に散見で。 六、宋甘恩旧停巻八。 七、書唐書巻百七十四。学徳裕席参照。

(12)

︵一︶

セやらうとした時であ

源を求められたことも少くない。

垂名皮膜は頁り出されたが、他方従妹の試験度付や、息度が膚せられたのではない。垂名度放

棄出し時代にも恩度により、或は試験によつて何と打了りしものも少くない。けれども峯名度牒螢

給の埠加と共に、急便は減少し、試験度何も終には行はれなくなつた時代もあつた。

垂名度牒の聾員数は普初は毎年≡四千のものであつたが、紳宗の元豊元年︵−○諾︶には、八千三

首六十に蓮し、同五年には九千八百九十七に及び、翌六年には、毎年の螢真数は一高を以て率と

サ主≡制限が出水た。然しこの制限も守られす、正月より四月未までに二聾ハ千針発給した年

もめり、大観四年︵−−−0︶の如きは三萬を突破してゐる。来室南渡後には、財政の窮乏益々急なる

と共に、垂名度牒の費頁数も愈々増加し年々五六萬を下らず、その間に試食によりて度牒を奥へ

らる∼もの一人もなしと云ふやうなことになら、種々の弊害も生じて衆た。 一度度放に責償を定めて地方官lニ賜興してより、地方官を初めその他の者も種々の理由の下に

度陳の下賜を乞ふやうになった。早水英救済螢、軍事費等の緊急を要する場合は勿論、平常時に

於ても、城壁官鹿等の造螢修繕、開拓事業むの他の土木事業、赴曾事業の費用にあてんが焉にし

数千教育少きは十枚二十枚の度牒の発給を奏請する者が頻繁にぁつた。殊に南朱の昔初、金との

\ ヽ 来朝廷の財政搬モ偽数々囲 劇柑

(13)

来朝廷¢財政難亡件数々囲

︵二︶, 抗等時代の軍事糞は度放出東に仰ぎしこと多大で一のつた。

此に注意すべきは、剃髪許可雫即ち付侶志願者に奥へらるペき度株本務の性質は次第に軽成

され、政府も人民も度株が有する免税樺を償格に見つもつて、度牒を公債や紙幣の如くに取引東

男したことである。現金に窮乏せる政府は、地方官の要求する臨時費等を度鹿を以って計算支出

し、米穀其他の買入れ㊥支彿や、臣下への恩賞にも皮膜を用ひた。かゝる意味で政府が費給した

度陳は民間でも紙幣の如く流通し公債の如く寅男されたものである。政府の定める真傭も時々挺

勤したが、民間に於ける責買傭絡も時に應じて葬化した。

醐宗卓出し曹初の官僧育三十貫は、建中靖国元年︵ご○︼︶には二百二十貫にた了ワ、南宋になって

は、軍糞に苦んで盛に皮膜濫費の行れた初期には、首十貫、盲二十賞、二盲質のあたbを上下し

たが濫駿の弊を艶めて紹典十二年︵ご畠︶以凍駿給を中止すること殆んど二十年に及んだ。用具三

十一年此久しい停止の後をうけて再び虐隆を真ら出した時には一道〓枚︶五首‡、綾紅塵十貫と

云ふ高儒に定かられ、翌年は四首貰、翌々年は三盲貫、更に次の年には二盲五十貫と引さげた。

その後も三盲貰、五首貫、七育貰、入官耳などと官償が定められた。

民間でも、螢行過剰の時は億格下落し、容易に求められぬ時は随分の高低をよんだ。前述の北

柴犬覿四年の登給教三萬を突破した時の如きは、民間では九十貫と云ふ安佐でしか取引されす、l 脚

(14)

焉に政府は三年間出費を停止し、更に民間にある度鹿の毀抹を始めた結果、民間度膜所有者に恐

慌を恭して僅かに二十貫で投責りをするに萱つ佗。而して富豪が之を買占め‡、民間貞男相場を

再び盲除貫に引もどすことが出水ねと云ふことが胎謀餞に見えてゐる。甫宋時代には、度牒の買

手なき窄、地方によつては強制的に之き買はしめ麿嘗差違したことも一再ならすであつた。

鹿渡は金銭の代用である。従って偽造者も相曹ぁつたやうで、地方官吏が多数の度牒の偽造を

やって碍劾されたこともあつた。

︵三︶ 扮度鹿に斯の如く発換能力が認められ、民間に特薦せられるのであるから、此時代の皮膜買得

挙が全て借道となつたとは思れぬ。唐時代に王智興が酒州に於て江南の民を募集して盛に度を克

った時には、撃一緒さへ納むれば、何等の法事儀式もなしに度を輿へたと云ふのであ㌢けれども

何何れも剃髪だけはしたやうである。度牒は剃髪公許の診であTり、皮膜を待て剃頭借になるが故

に我役が免除される。侭命付侶が目的でなく、現役避忌が目的である老も、その目的の焉に剃頸

の必要がぁつたやうでぁる。︵尤も彼等の全てが、果して寺院に入って付囲生活をしたとは恩れぬ が︶。然るに朱時代になっては剃髪吼如何に謝らす、度牒そのものに公債的偏僅と、故役免除擢を

伴ったのである。唐代には付のもつ度牒に意義があつ陀が、今はその所有者の如何に閉らす、金

餞であ丁ク、免裁役澄である。かくて度牒を買待して何にならざる者も、ヌー人にて多数の度肢を

来朝廷の財政難ミ沸教々園 ガJ

(15)

来朝廷の財政難ミ沸教々画

′ ′

一四

所鼓する者もあつ死のであるが、それでも例かく多数度牒が民間に鑑真さるれば1庶民の中には

我役の安全地帯と考へられ、生活安慰なちと思れる寺院に入って紆形になる着も少くなかったに

柵連ない。兎も角、度鹿が濫青せられ∼ば、借蓬が敦埠するのⅥ免れ難き所である。

蒸巽胎謀餞巷玉出責付温鹿の備に、

宣和七年︵−1琵︶以▲天下借道政盲萬教︰蓬詔住恕五年。

即ち度隈濫費の結果、紆温の敦が有高以上にな.つたので、五ケ年停止するj云ふのである。

また繋年要録によれば、■超典十二年から同三十一年まで度牒の螢給を停止した。金との兵事が

漸くおさせって軍事暑が少くなつたことが螢給停止の主原因と見るべきであるが、同時に以て伊

波劇の漸淑を期んたのである。而して停止後清十五年の紹兵二十七年頃に何隋の敦が二十萬あつ

・たと云ひ、・一方では付侶の賊少の焉に寺院荒れ、寺院の常住田が紀産として荒虜に給するものが

多かったと云ふ。以って度牒蓉給停止以前の伶侶が冗多を想像すべ盲でかる。︵巷百四十五、首

六十二、首七十七等︶

扮貞慶によつて拇加する借侶の素餐が、試姪による付侶よりも一般に劣等とぢることは云ふま

でもない。何人も金さへ出せば度牒が得られJやがて剃錆付と空こ

†分厚胤ハの嶺請出凍ぬ者が少くなかったらしい。何人も康隆を手にし得る時代の付中には軽のよ 調

(16)

﹁真澄に膠ヘヤ﹂‡云はれるやうな、沸教々囲が赴曾から尊敬官フけられやうはづがない。かゝ

る付園は赴合致化の指導に行†り得す、却って赴曾サら厄介成される場合が多かった。寺院が不良

分子の集合所主なったことは賓度時代以前にむ屡々あつたが、何人馬度肱を得て付になり得る時

代に宜一骨この傾向が多いのみならす、政府自らが度牒を貸す出してゐるのであるから取締さへ

困難でぁる。小論類・の中には恩情が地方官を苦しめ﹂良民を傭す事例を屡々見うけるが、以って

借侶の赴合駒地位が患い方面へ下落し行く一面を想像するンとが胃凍る。要するに鼓囲の堕落そ

の敢曾的地位の下落の重要なニー原因を私は宋時代の度操濫費に怒めざるを得ねのである。

来朝廷は皮膜を濫資しセのみならす、また紫衣、師我を膏寸出した。

︼、.群書考東砦六十三﹂鎮賢治造鑑長編拾商森五の注等に王安石が天子の閉に暫し、.度牒三千を貸すく十五萬人¢生命を 鉄琴し特。今日の場合、責度牒な不可草花†論窟托、﹁王邁之構﹂な知らざる潜心り宅建べJ=軍見岬。

二、繍安治菰鑑長編、贅年要録に比重る併にその例む見るべく、その他采人の文集み見ても色々光大小の特例を見るこミ

が出先る。

三、︼例む出ぜば繋年嬰録巷四十六。紹井元年七月¢條。

あぬ者さへあつたであらう。燕巽胎謀餞筆こに、

計動産立短評反旗︰而億廊下淀。骨得芦之。不レ勝一真濫夷

来朝廷の財政搬ミ彿数々圃 ヽ■ ︸ ・ 1

(17)

四 北宋の安寧撰、借史略幕下、元照︵−○畠﹂ごーの︶撰、四分梓行事砂資持記下ノ一等によれば、由 衣は、唐時代、大書経を償撰して即天武后の革命に功あアワし辞塊義等に賭具さ.れたのが初めでぁ

る。紫衣は元恋情衣として用ふペきものでなく、悌間違反の色である。故に付侶自らが一般に着

一 ′ 用するわけには行かぬが、朝廷より特に恩賞として下賜されることが唐時代守り開けてーでり、こ れは名巷の衣と捏了り、之を樽んことを熱望する者も生七て凍た。勿論紫衣は朝廷が付侶に腸興せ らる1至高の名巷の一で、軽々には輿へられなかった。 北宋になつては、.太宗の太平興国の初に経樟諭の試験をやゎ、十健全通の者に紫衣を賜った。

その後皇帝の誕節に、親王、宰臣、、地方長官等の推薦する者を撰者して門下よサ紫衣許可凱旋か

授けた。何れにしても容易ならぎることであつた。然しそれだけ、†付侶の名春心を刑戟しで之軒

欲する寿が多くなる。そしてその辞書も生する。既に元既は紫衣恩賜の弊害を指摘して厳しし付

侶に警告してゐる。什

鑑誠の挿氏要覧にも、東軌奏記に出てゐる、唐時代の一倍が常に紫衣の下賜を乞ひ、身分不和

應な紫衣を賜って薯て締り、忽ちに病を得て死んだと云ふ話を引て、 r 来朝廷の財鱒難ミ儒教々函 朝奉耶符確機知昭州書填侶度牒千二首邁。偏樽蓮司斯劾。遂邁去。 一六 劇撼

(18)

息ふに付侶中に紫衣下賜の焉に運動して金餞を欄ふるのもあつたであらう。既に皮膜を賓り出

してゐる政府である。付侶の熱望する紫衣牒を蓉給して金餞を得ることになるのは曹然のことと、

云ふペきであらう。紫衣牒煮出しの始めは明かでないが.、唐箕治通産長編によれば.∵度鹿を賓牒

くり

し始めて間もない察単四年に、

賜南北樽運司度使五首。紫衣師鎗各二盲五十廟蔭股河上洗痺修一衰第五場決只

同六年の備に、 南新捏鮎刑獄司言。潤州早甚。乞夢省倉︰或量■給皮付牒及紫衣師錬或募入入レ粟。以備一飯済︰

などゝ云ふ記事あるによ・りて、度牒腰出しと略々粕並行して紫衣師就も責られてゐたことを知ろ

のである。

師兢も天子から褒賞の意味ヤ賜る所、また借侶の容易ならざる名巷である。賜師就の例は六朝

に見え、慮代にも屡々あつた。宋時代には此名暑が金餞で政府と滑侶との宙に頁買され

なつた。前述長編の記事が示すやうに紫衣と共に度牒出発時代に度放と同棲に金成の代用として

00 近代那屡々布施人衰. と云りてゐる。 ・来朝廷り財政難ミ俳散々園 ㌧/㌧

(19)

来朝廷の財政難ミ沸教々園

︼八

多数の紫衣師我が地方官に賜輿されてゐる。地方官は之を地方倍侶に要って金餞に換へたものに

相蓮ない。

師就は二字が普通であるが、後には、四字、六字の師故が出水た。二字よ♭も四字、四字−て,

も六字の方が名春であるわけで、従って普然高慣であるわけである。

義堂日工集に、

有l一四字音宥−−六字草加今風俗好為。夢多幸鹿塾。非一正諭一也。四字境始手宋南淡軍師故−助毎。

未一事一好事︰

とある。師扶を賜はらんとする借界の風潮は宗以後後世まで席いたのであつて、南宋に四字、六字

の師我を貢ら出したのは、よら多くの金餞を待んが焉に外ならぬ。

紫衣師城が金銭になればとて、その性質上度牒ほどに多数費給するわけに行かぬ。常度鹿の記

事は摺安治通艦長垢や、繋年要銀を開けば至る所に見出し得るのであるが、紫衣師兢の記事は比

較的少い。今雨音及び朱骨要等に見ゆる紫衣師戟に関する記事の二三を抄出して見やう。

長編巷三育三十五、元豊四年

高邁格乞蔭壷名軟骨宣剖、紫衣師我敢虔借牒南東給教皇且珂利子入官五十、紫衣師紙数度鹿

入官。

及)β

(20)

同港三首二十七。元豊五年

酉辛詔。自今紫衣師名止令南書嗣部給薩疲用一級紙喪三紫衣師名−者。納一轟舵餞六頁是歳十月健

詔。依︼慶福鹿例︰用レ紡。

蓋し従妹紫衣敢、師我敦であつたものが、両部蓉給の陳に改葬汚れたのであらう。紫衣師誠

の官傾が如何程であつたかは明かでない。此に云ふ綾紙餞は恐く所謂綾紙代であつて僻此他

に若干の金銭を徴収したものかと思ふ。度鹿にも頁償の外に綾紙代があつた。

同巷五首十四。元符二年

鞘河奏乞降誌名五胡各一首五十。紫衣師戟牒一頁以待一新先︰徒乏。

此記事は紫衣師境を頁って新発を持する資金にするのか、或は宜劃紫衣師我等の名審を新発

に輿へて之を懐柔せ

付侶にも掌典されたものである。

来合要市溜政事の償、

.宣和七年︵ご崇︶三月二十三日詔︵中略︶給降度牒紫衣師軍手萬葛

岡書

紹典五年︵〓∽ギ⋮⋮・命憩部給三降南新容名度牒紫衣師戟︰

来朝廷の財政難ミ沸教々圃

一九 劇〝

(21)

紫年要職啓二十五。建炎三年

張竣以二親兵千五百人騎三富一撃行在車座借牒二萬。紫衣師親玉千衰奮畢

向春八十。紹典四年

詔賂三川挟剤東都督庶皮膜二革喝紫衣師就各二千五首道︰

之等は何れも朝廷が金餞の代用として費給した例である。

名巷ぁる紫衣師耽も、二千、三千と一かためにして賜るに至っては侶位がない。況やそれが金

餞引換へのものたるに於てをや。末代には紫衣を賜ト、二字、四字、大字の恥就を賜ってゐろ高

倍が少くない。か∼る高倍の紫衣師髄さへ金餞引換へのものではないかと考へ凍れば、興ざめて

しまふではないか。買った度牒で倍になり、買った紫衣師競で、住持知事におさまつても、内情

を知った賓手即ち官吏、換言すれば昔時の知識階級から軽蔑さる∼に至るのは嘗然の結果でぁる。

南宋末には四字師耽紫衣の所有者でなければ住持になれぬとか、住持その他の寺院の要職も賄

賂をつかはねばなれぬやうになった。何界は一にも金、二にも金、貸賂公行の妖建となつた.。

度僕紫衣就を発った南宋は吏lこ沸教々固より財源を得ることを考へた。借侶温士から年々免丁

餞を撤収することである。

米朝廷の財政難ミ沸教々閻 8αi

(22)

抑々付属に課税せんとの意見は唐代にも見えてゐるq彰慣︵太暦未都官員外郎︶の刑汰伶道議に 抑

付近五十歳末蒲の宕は年に絹四疋尼女道士は同二疋を納めしめ、難色役は百姓同棲にし、五十歳

以上の者は之を免除す。かくの如くにして得る所は今の租賦の三分の一を下らざるペしと諭じて

ゐる。尤も此払は採用されなかったのであるが、幾十萬の伶道に課税すれば粕嘗な収入を得るに

相違ない。

南宋初期は金との抗等から極度に囲用の不足に苦んだ時である。年々五璽ハ萬の度牒が貸出さ

れた時である。度牒によつて一時の牧入は得るが同時に年々五璽ハ萬の納税者が減少することに ■■

注意せねばならぬ。紫年要領箱九十六、紹奥五年︵ご008十二月の備に櫛月部倖郎王侯の意見が見

えfゐる。

同家の財用は農民よら商質に至るまで自ら喝tて奉公してゐる。然るに唯倍徒のみ竺竜も出

さす、而もその教は邑は千を苧計り、郡は萬を以て計る。此多数付従が生産穿働に徒事せすし

て坐食す。国家合計の損失幾何ぞや。宜く付従より隈帝の祝賦を牧むべしと論じたのである。

付造よう徴税せよとの意見は次第に廷臣の間に起♭、終に紹典十五年正月から、年々借温から免

二︶ 丁餞を徴収することになつた。之を清閑餞と云った。

紹輿十五年と云へば、鎗らに激増する修造教の漸減を期して、断然度肱費給を停止してから三

米朝延の財政難ミ沸教々囲

(23)

二二

来朝費の財政雛ミ沸教々圏

年目であることは注意すべきでぁらう。常度牒による相普大きな牧入を失った政府ほ、この清閑

餞によつて同じ宗教界から多少の牧入補充を得べく、且又借邁よ♭の微視は修道敷減少発にも多

少の効果があ

跡清閑餞のことは建炎以凍朝野准記巷十五倍道免丁餞の條や、彿剋統紀巷四十七、及び日本で

は道息の碑林象器箋餞財門免丁餞の備に相普まとめられ/しゐる。 付邁を所属の寺院︵敦、梓、藤の種類︶や身分地位等によつて九等に分って、年栢二貫乃至十五

貫を納めしめたものであつて、尤も六十歳以上の者及び病原戎疾者ほ免除を聴された。朝野雑記

によれば清閑餞歳入鮨餞約五十萬と云ひ、賓暦四明志巻六には四明地方の付注免丁俊一萬一首一

佳 持 信 職 事 ( 直監 歳寺 等l 維 那 ヽ 典 骨 侶 ) 十 方乙 教 五 院蒋 諌律 雛 耳 十 十 方 膵 院 研 耳 八 箕 ∂J〃

(24)

︵こ︶

十六貰六古文と記されてゐる。今宋骨要によつて清閑餞の等級を表示すれば右の如くである。

此衷は以って宋代宗教家間の位置及収入の高下をはかる標準と考へることも出奔る。梓師法師

は輝師よ↓高き地位を占めたか、より多くの牧入を得てゐたものでめらう。造士は滞師よりも更

に社食的地位がひくかつたものであらう。

元乗数府が真出した度牒には免丁役の効力が附興されてゐた。その度牒の買得着である付温か

ら免丁儲を取るのであるから、可成b借温界を驚かし敬したものであらう。賓農道法師︵腐臭十

七年寂︶の如きは昔時反対論を上った一人であるが、その所論は行はれなかった。かつて六朝唐

時代には、王者、並に父母の抒不評問題で顎々の論陣をはり、或は排備に対して極力抗梓七、簡

を持して付侶の事蹟は相曹に多く侍へられてゐるのに比すれば、先代の何侶は既に宗教的熱倍に

快け、漸く去勢的存在になりつ1あるのを思はしめる。度牒を買はされ、紫衣師族を買はされ甘

上に、度鹿の効力を無成する免丁餞の微牧には、単に金餞上の問題でなく、宗教上重大開港とし

て、数囲としての細管強き抗零が現れて然るべきと思ふが、史乗一向にか∼ることを侍へてゐね。

元水支那偶数史上には随分尊敬すべき名穂高借の活動教化の蹟が侍へられてゐろが、何れもそれ

は英人個々の活動教化であつて、数百人を擁する寄金倦の、或は数十萬を擁する偶数々園舎憧の

統一的聯合的教化蓮勒は殆んど現はれてゐない。宗派成立以後と雄も、その宗の名付畢者の下に

来朝延の財政難軍俳数々園 ∫∫∫

(25)

二四

来朝廷の財政難ミ儒教々闇

多数の付従が集りはすむが、その宗囲仝健としての組織的教化運動が地方的にも全国的にも行は

れた例は殆んどない位である月初曹活気のあつた過去に於て然す、今金餞で度牒を買ひ、紫衣師

哉を買っ化人々の敦囲、大多数が利己的立場から敦囲に入り凍ってゐる宋の偶数々囲に、組織あ

るまた殉教的運動の現れぬのが普然かも知れぬ。然し私は支部沸教々囲の組織には初から秩隋の

あつたことを認めねばならぬ、一切衆生と共に同費曹操心、成就俳邁を高潮した大乗一乗の教義

があれほどに螢達した支那に於て、その教義を現賃赴含に首現せんとする教化蓬勒も行れす、一

向に現質敢含に音現された事も見ざるは不思議な程であると共に、支那俳数々囲組織の映略と、

やがては支那彿致麦類の原因の此中に多分に存する事とを認めぎるを得ぬのである。かくて支部

陽数々含史の研究は益々重要である。

抄付侶が免丁餞を納むれば、官から憑由を出して納附済の澄明をする。之を免丁由と云ふ。か

くて冊侶は皮膜以外に毎歳の免丁由を所持せⅥばならなく捏了ワ、殊に逝方に嘗って些一つの官文

書が必帝品となつ陀。

冊温免丁餞は声部の牧人であつたが、収入額もー足せす、納附成積も必ずしもよくは行かなか

ったらしい。蓋し峯名度牒濫官時代の後学っけ、僧侶の籍も不完全極まるものであつたらうし、

且付侶は逝方移動が甚しいし、何と云っても宗教界に射することであるから、特亀や寛容の線度

乱は

(26)

が生じ易い。

乾邁六年︵亡ヨ︶戸部何事骨懐等の言阜所に掠れば、度牒螢給停止を解き再び賓出しを初めて既

に十二萬除邁を要った。巳に剃髪推戴せし修道の教も少くない。然るに州顆より納入する免丁餞

は、度牒螢給停止時代に比し僅かに三五萬を埠したにすぎぬ。之明かに州舷に於て公然侵降する

あ♭、或は相通が薯逝を名として廟めぎる老、年齢をいつは♭て免納される着等が多いに相違な

︵三︶ い。厳重に賃借を調査せしめねばならぬと述べてゐる。

また朝野難記には、

然今新中誇大刺都城進取、多用詣旨︼鬼ユ筍役科敷両州株反以一衰額教専一良問天声人垂

と即ち朝廷の信仰を得てゐ吾大寺院進取には、特旨を以て免丁餞を免除されてゐるものが少くな

かった。而も此樽陰によつて生する収入減を地方官がその地方の民の負塘とするに至っては、か

かる大寺院が民の怨府ともなるであらう。

かくて南来では、度放でとみ、紫衣師競でとり、免丁餞でとり、沸教々囲によつてあげる収入

は随分の多.額に建じたに相違ない。而も来末には腱廉借雑の故を以て免丁攣二分之一の樹緻を計 ︵M︶ 劃したこともぁる。かつては餞財の憂なきを以って、祝賦に閲係なきを以って、志す者の多かっ

た修道も、今ほ苛欽を免れざる階歓となつたわけである。

来朝廷の財政難ミ儒教々加 乱ほ

(27)

一、生年要録巻首五十三。その他朝野雑記巻十五、俳組統馳巻向十七。等参照。

二、東洋文庫併絞本による。骸文庫が長野萱鱒写しゆられtものでぁる。

三、采骨嬰。

四、藤林象霹箋参照。

以上私は宋朝廷の財政難が備数々園に向って惹起し聖二つの事件を概改した。

此に注意すべきは、度牒を買ひ、免丁餞をとられ、紫衣師境傍聴住持皆金餞ならぎればかち得

られぎる付侶に何志望者が多かったのは何故か。兵役橋役を忌避し安逸を求める支那の同氏性に

もよるのでぁるが、一面これだけの人を収容して何度民よ♭も安逸な生活を典へしむるに足る財

力が係数々園にぁつた焉でなければならぬ。上水述べし所に関しては僻彿数々囲の財産、その経

済上に於ける赴骨的位置を明にしておく必要がかるのであるが紙数の関係上本稿には之を略せね

ばならぬ。数十萬の剃頭付侶と未剃髭童行とを牧容する寺院は多数の寺田︵常任田︶を有し、多数 の小作人︵荘佃︶、多数の奴砕を使役し、其他山林、家屋、破堤等の資産を有し、檀信徒よ♭する ︵−︶

莫大往事拾をもち、金餞等の貸付けによつて利益をあげる長生庫なるものさへ各寺に発達した。

﹁訂窮な寺院もあつたには相違ないが、寺院は概して富者と見らるべく、付従が濫樹し、擾乱た

来朝廷の財政難ミ彿数々囲 3J塵

(28)

へす、流民多く、東併の風潮盛なbL宋代には一骨寺産堵加の傾向がめる。来朝廷も寺院の田鹿

粂併の弊を阻止せんとし、寄掛の同牧をはかつ氾こともあつた。盛な寺院の金餞賃貸螢利を非難

する人もあつた。

元凍支那人は理財に長じた国民である。借侶には耽賦を逃れる眉になつてゐる者が多い、而し

てその倍侶は別所にも金餞をとられた。出世も金健次第で取引ゃれる。付従の師表たるべき住持

さへ金餞で買ふ時代でぁる。俗界では政府以下何れも理財に熱中してゐる。かくて付侶も理財の

L、且っか∼る職位は重大成され、これにならんと志蔓連動すろ者む少くなかった。

心を刑戟されぎるを待ぬ。賓際宋代寺院に於ては、寺院の収入利殖をはかる幾多の職位があつた

兵乱と財政の鰯に観歩眞に周難なる時代にも、倍侶がよく主賓を集めて堂塔伽藍を美にするを

,見て驚き、且慨した人も少く℃い。地方寺院の中心となれる大建集を見、その富裕なる状況を見

︵二︶ て梗慨した儒徒も少くない。 然し此に注意せねばならぬのほ理財を最も好む支那人は、同時に表面に.は理財を最も蔑成する

国民である。而して偶数は支那では無欲清澤なるを以てそ打数旨とするものと倍せられ、

かる鮎で尊敬もされて凍てゐる。今寺院借侶が富裕であTり、理財に長すと見られる場合、此には

度鹿も地位も金餞で買つセ裁賦避忌の非国民が多いと考へられる場合、裕かな富がか∼る多数の

来朝費の財政難モ沸教々園 βJβ

(29)

来朝廷の財政搬ご沸教守宮

二八

不良遊惰の民を坐食せしめものみで、一向に社食致化に贋く散せられざる場合、次第に敢曾の之

奇観有由。祝賦尤倍。又有一非法不時之需︼正典大家︼相似。今晩買−度牒l以巌。免丁又据以顔。官府 ′

′ ■

に封する尊敬心がうすらぎ、軽侮心が生じ凍るは止むを得ぬことである。殊に儒教ま義で教養さ

れる請書人即ち官吏階放から軽蔑、排乾を羨むるに至るは普然の勢であらう。そして事欝何事も

金成を先にせねば動けぬ彿数々囲が顛虜堕落するも嘗然の進行であらう。

南宋未嘉禦−豊平上声畠︶の頃に嘉奥の中元稀師が丞相に献白しセ書中に常時の帰界の弊風を論

じてゐる。彼−ま云ふ。国家度牒を以て人の承買を許すのみならす、近世は貸烙公行して住持たら

000000

んと求むる老は、音数之罪人也。かくて師たるべき者は速く隠遁して出です、師摩すれば正法衰

へ邪法放と打了り、清浄之門を以て利慾交征之地と化するに至ると云ひ、更に

無一糸竜之給一而従来寧其利於無窮雨修道可誌㌍不幸奏。国家愛惜。名器法喝何以勤王働天下夜道

若以添得こ金環象簡重義廃位特融東商無頼之徒。曹以添進。何以撃賓風俗一

と警告梗慨してゐる。矢倉堪繹師も

重法者以レ貨喝書道垂レ地臭。

︵三︶

と歎じてゐる。

薪の如き相姦は事貰となつて傭数々園を政令よち軽侮落伍せしめ、明、清、民国の屠蘇親戚を

βj方

(30)

凍らしむるに至ったのである。

︵即︶ 支部には借道を患人と同一成し笹♭、政令の麿人の如くに軽侮した諺が少からず存する。 一人不入廟ご人不着井。︵危険に近く生 無法子。就倣和何。︵行づまト着付になーヱ . 槍到一本経。念也念不精。︵経は諌めども意味知らず︶

晴子富者克餞限世閲。和僻見餞経也責。

地獄門前借道多

ヰ個姑子︵月︶九偶娼。下除一個是凍狂。

何れも随分何道を劣等親した諺である。か∼る諺も一面は沸教々囲自らが招致した社曾的評侶

の轟と見なければならぬ。

要するに宋代の沸教々囲は、その歎に於て、富に於て、伽藍に於て、隋唐時代に劣らね盛況々

示してゐたが、其内耳に於ては額虜衰滅に陥り行くペき分子ピ多量に包蔵したものであつた。而

して致凰を難度堕落に導いたものは敦囲自髄にも罪はあつたが、宋朝廷の財政難が最も大きな動

因となつたものである。経済国難はその朝廷を滅亡せしめたが、沸教々囲々も赴骨の落伍者たら

しむる皇至った。かつて沸教がうけた三武の法難は激烈でありその打撃も顕著であつたが、財政

宋朝延の財政難ミ俳教々園 3J7

(31)

ヽ 米朝髭¢財政難ミ併数々画

三〇

難の宋朝廷が沸教々園に向けた窮袋は徐々に暗々裏に敦園を蝕んだ。前者の場合には歴迫去れば

直ちに再び調え出づる元気が数囲にのこされてゐたが、後者の場合には、何時の閉にか敦囲が去

勢されてしまつて再び立ち得ぎる磨者となつて行ったのである。宋朝廷の財政難は、支那彿敦の

盛衰を考へる者にとら極めて重大問見である。

一、宗赦研究牽ニノ四、抽痛﹁信行聖二曙歌軍無韮厳に就いて﹂参照。′

二、鴎川重森八十三。眞州長迂寺経兢記、元豊頬稿砦十七定朝院俳殿記、全巻十九、江川景徳寺新戒壇東。そ¢地米人文

集中にか1る例は頗古多t。

二ニ、何れも許林象さ篭原引による。

ノ 凰は

(32)

本邦兄貴の宗教意識を研究するに際して、新たに考察を進めなければならない重要な問題に逢

着した?問題とは、見童︵ここには吾人の取扱った研究封象の範囲内即ち十五歳末清を指す︶に

於て宗教意識正、泳想以上に、而して成人及び青年の宗敦意識に就いて知悉した研から見童の場

合をも推定しょうとし勝な人々から見ては或は信憑されないかも知れないと思はれるほどに﹂融

合と統一と系統化とを快いてゐることである。免童の宗教意識は、若し成人及び青年の宗教意識

を研究する掛合と甲一の焦鮎に書目し﹂又は同一の範囲に止めて研究々進めた有らば﹂匂って典

の宗教者識の基根を研究の対象外に菓鄭して、その基枚の外優に集積して未だ兄量の真の宗教意

識として個化し吸収されてゐない輸入的の部分のみを捉親するの結果となるほどに、内部に於て

開展しっつある所の宗教性、即ち人間の本務共有する所の強いものへの依徒性、理想への自己の

調整及び復路牲、紳秘不可界誇な超知的存在に封イる驚異牲などのやぅな内的起源牲の領域と、

見琶の宗秋景畿に於ける恒久領域ミ可欝領域

鬼童の宗教意識に於ける恒久領域と可愛領域

寛 .之

三︼ 訊伊

(33)

見童面宗教意識に於ける恒久傾城ざ可変領域

三二

√ 外部から観念又は知覚的事賓として輸入された所の宗教的知識、即ち社曾や成人から致へられ見

開させられて、未だ見童に具に開化されてゐない宗教的知識及び賓修上の知悉、換言すれば醐俄

に関する旬蘭、賓修

るとぉ問はす、外的起源性を有する宗教畢的・紳畢的知識の領域とは、免責の上に分粧しで存す

る。前群の内在部を大地とし、後群の外水郭を柁とするときほ∵見童の宗教的素質の大地に、総

人的知識の代は、個々に打込まれて乱立し、多くは孤立して相互に聯絡なく存し、その聯絡ある

如くに見えるものも、単に接鞠して存する位の程度であつて、箱入細工又は寄木細工例の軌を呈

する。この事耳は、見童と生活し、問答し、見童を観察し、臨林的に検するときは、辣想以上に明

瞭に看取されるであもぅ。勿論、螢育は素質と学習︵経験︶との梅津であつて、素質が第一の経瞼

を積んだ降そこに既に素質経験複合健が形成されるので、宗教性即ち内在部と宗数的知識即ち外

務部との綴密な封立及び分離を考へることは出水ない。併し見量の宗教意識を精細に観察し考察

してみると、−?り多く素質に由凍する領域と、−丁り多く輸入を反映してゐる都城とがあつて、上

述の箱人的分離現象は著しくこれを認めることが出水る。吾人は徒凍の考方や自分のやうに、第

一経験を積んだ素質は既に経験との複合であることを認める。併し従妹の見方と異ならざる々待

ない鮎は、従妹の考方では、素質的領域と外務的領域とは自然の経壌の集積及び素質の蓉蓮によ 謝

(34)

って漸次に融合し系統化されてゆくといふのであるが、吾人の獲取し得た結果から考察すれば、

著し見童に思考し考察するの横合がないならば︰恐らく永久に融合しないで終るであらうといふ

ことである。内在部である素餐的領域は見童の本性的に具有されてゐるけれども、外務部である

輸入的領域は、それに就いて思考されて、輸入部相互又は稔入部と内在部とが論理的・有機的に

聯烙させられなければ、外務部は永久に本性と別着たるであらう。見真に直接して彼と宗教上の

種々の問題を問答し、彼の考へたことのない問を駿することによつて、彼は始めて大地に打込まれ

た托と粍とを連結させ、又は大地と枕とを結合してゆくのを見る。この場合、内在部は見童の遭

侍的にその費蓮開展の蠣序の定命された法則に規制されてゐるので、種族・環境・教育の如何を問

はす見童に固定し普遍した宗教意識の特性を帝ばしめる。併し外務部は窮境の不同に規制されて

ゐるので、種族・現場・教育の如何によつて異なった色彩を宗教意識の上に奥へる。そこでここに

問題が起る。即ち両部の馳合し系統化⊥て洋一的となつた成人及び青年の宗故意識に於ては、そ

の研究の焦むはこの洋一的なつたものに注がれねばなうないが、計量の場合には焦鮎の振方が異

なるペきでぁる。即ち固定的・普遍的特性を典ふる部分に書取するか、葬具的・不同的部分に薯限

するか、又は他に著限の焦鮎を定めるかである。宗教心埋草に於て政令的影響を重税する現代の

洗行思潮では、輸入部を通して宗教意識を見ようとしてゐる。然るにクラーク涯の如くに生物畢

\ノ 鬼童の宗教意識に於ける恒久領域ざ可墾領域 きクJ

(35)

三四

見董の宗教麓薩だ於ける恨久償域ミ可欝境域

的基底に立って見畳む研究し甘一派は、素質部を通して免責の宗教的楷性を阿臥しようトレた

両立場は何れもその立脚地の差異に於て吾人のこ︵の問現に観れでゐる。若し具に免責の衰数意識

を開明しキトとならば、その恒常的・不麺的の特性を明らかにするために素質部ぉ通して迫る方

が正しい。併し素質部は唸入部と取合しない時期には大した関係はないにしても、思考及び一般

精細の螢達するに従って漸次に融合するものとすれば、輸入部は素質部の具債的内容たるべき運

命にあるものであるから、素質部を規制する僚件として輸入部を通して迫ることも亦忘れてはな

るまい。とはいへ、免責の見童としての奥の宗教意識をつかむためには、素質領域を通して種族・

環境・教育によつて不定たらない特性を明らかに看取しなければなら月い。同時に帝都の結合さ

れてゆく状態七注成七なければならない。ここに成人及び青年の宗教意識を研究する場合とは異

なつた焦鮎が、見童の場合にほ見出されるのである。さて、前述の如く、思考の費達は免童の宗

教意識の螢蓮にとつて重要な開港であつて、素質領域たる宗教性と、輸入領域なぇ宗教的知識と

は、思考及び考察によつて融合し、系統化し、駿達してゆくのである。徒凍、−同心又は入信は十

歳頃にばつばつ始るが、青春期現象として思春期から青春前後期の交にわたって最も多いとされ、

而して身偲教育の旺盛との因果関係が考へられた㌔身心の均衡及び精油各要素間町中衝の破れ

ることと結びつけられたりしたが、思考の費蓮及び宗教的革質に就いて考ヽさせられる横合の多

き劇き

(36)

少と結合させられたことは除♭ない。併し同心現象は青春期には多いは多いが、決してその楷有謝

の現象ではなく、入信は少年期の初期から潜行的に見られる。この事賓は、思考の費建との関係

に於て考へれば容易に解決することであるが、徒凍の如くに費育急速や均衡破壊による安定の希

求から考へては解輝はつかない。宗教意識の寮遠耳思考のそれとの牌係に就いては、ここに詳述

する蓮を有しないので、後日に優ることとして、吾人がここに述べようとする併は、素質部を通

して見た免責の宗教意識の恒久的特性如何、輸入部を通して見た規制的・可慶的餉係如何といふ

ことである。而して是等の鮎に就いて述べようとするのは、兇童の宗教意識に於ては素質部と橡

入部との孤立が換想以上に明瞭であつて、而も其等の南部の何れに研究の焦鮎を置くかによつて、

見量の宗教意識の恒久的特性を明らかにする上に於て成功と否とが足るといふことを示さうため

でめる。

素質領域を通し、且つ攻入領域と対比しっつ、見量の宗教意識の恒久的聴性を見出す方法とし

では、何等の宗教訓鹿ぉ受けない見童に自費する宗教性をとらへて、宗教訓凍を受けたもの、又

は特に具秦的の宗教訓農を受けなくても赴曾の宗教的影響の裡に暴落されたものとの宗教意識を

封比するのが最もよい。併し宗教的影響から全然隔離して免責を育てろことは質酸上不可俄であ

見まの宗教意義に於ける恨久償滅亡可襲領域

(37)

三六

見真の宗敦意醜lこ於ける恨久領域i可襲領域

る。謬rgeロ、甲声は宗教訓練から隔離して育てた子供の自費的宗教性の馨現を報告してゐるが

︵Th邑Ogiへ已De乱。p日eロt。fpCbild・ArenP−−00岸邑・巴舛︼誓−−盟声︶、それとても全然薩曾生

活から阻離したものではない一。然りとすれば、右の状態に最も近い方法をとる外はないのである

が、吾人はその方法として、具集約・系統的に票数訓煉を受けた見童と、.赴曾からくる断片的影

響は免れ待ないまでも、.兎に角何等系統的・具集約の形式駒宗教訓鹿を受け平−とのない兄童と

を検して、宗故意識の差異を比較してみ烏。その結果は、ここに必要な恒久性と可襲性とを見出

す上に通用することが出水るので︵その比較研究は勿論この論文の薯限を目的としてなされたの

ではなく他に目的があるのであるが︶、ここに比較の結果を奉げてみょう。両群に就いて用ひた研 究法は生活法︵見童と一定期間生活を共にし口頭問答・臨林・個性観察・個人知悉・自然表現観察等

によつて研究する方法−−詳細は先般の宗敷革大骨紀要に螢表し化論文を、更に詳細は久保良英

氏顔見童研究所紀要の昭和五年秋に螢刊さるペきものに説明してゐるので再説しない。︶である。

破瞼乳量は、具集約宗教訓煉を受けない群のは、七歳乃至十五泉の男見一二〇名、同じく女見七

二名、▼合計一九二名であ丁り、受けた群のは、九歳乃至十六歳の男見一一一名、同じく女見一〇六

名、合計ニー七名でぁる。後詳に於ける具集約・系統的宗教訓練ぉ受けた催伸としては、日曜畢

故に通ったといふことを抹拝することにし、連頼通畢穎きは清一箇年・長きは浦五箇年に亘って

∂以

(38)

を♭、金乳量の平均通草日月は清二箇年である。︵即ち迫撃清一箇年の着七四名、一僚年竿の者一

七名、二簡年の者五一名、二億年竿の者一一名、三箇年の者三二名、四箇年の者二二名、五箇年

の者一〇名であるから、平均中敷は二箇年の群内にある︶。勿論日曜畢校が具集約・系統的に数

へてゐるもののみとは言へないが、見童の宗教訓凍として最系統的な鮎に至っては、現代の施設

としてはこれ以上のものはなく、且つまた吾人の珠拝した日曜畢校は、訓話の形式に於て必す宗

教上の知識を授けつつあるもののみである。︵宗旨は真宗本仮のもの/のみに限定した。これは他の 目的から見て、備件の同一性を保持する必要がぁつたからでぁぇ。︶研究比較の範囲は紳悌軌・倍

.仰及び細評軌、人生及び運命軌、未水及び霊魂軌、宇宙及び本懐軌、自然観、迷信及び妖怪軌の

如くに、暫畢貌にもわたってゐるが、ここには紙教の制限に應じて、紳彿観及び信仰適評軌のみ

に限定して置て。この範囲に於ける両群の差異は次の如くである。︵宗教訓練を受けない群をA群

とし、受けた詳をB鮮と仮定するっ︶ 一、紳彿の有無。A群には無細論一一名、疑或者二名︵但し存在に傾く老︶ある外は官有紳論者 である。B詳は悉く存在の肯定者である。有朋諭は見量の恒久的軌念である。

二、紳彿の健及び生成。AB両群とも、紳傭の憶の直接定義は頗る困難であつて、これは兇童の

推理の未螢遷に均する。されば、髄は多く用を以て定義される。A群は玉井と同じく、紳俳を以

鬼童の宗教意義に於ける恨久領域童可蟄領域 ユタβ

(39)

見‡の宗教意畿lこ於ける恒久領域ミ可褒領域

三八

て人間と別個の客観的存在と見る者の多くを食む。紳傭を人間と同じいものとする思想は少い。

而して紳俳は守護者であり、偉人又は普通人から由蒸する考は共に多いが、B詳には樽に彿を心

の裁とする者が最も多い。見量は紳偶の相に於て人間観L、紳俳の由雄に於て人間的起源を倍す

るけれども、その健及び用に於ては、醐彿を以て、人間とは別の客観的存在と見ることを通性と

する。而してその生成に関しては、共に人間由衆論が優性であるけれども、B群の中には沸教が

ぁつて始めて生じたといふ、傭を以て既成宗教の仮想的設定とする考が相曹に多い。

三、紳彿の相。AB群とも、有委託は無委託よ♭も造に多く、性質的表現は形感的表現よbも常

に多く、而して形態的説明は性質的説明よりも低年に始って、後者の如くに百年までは持病しな

い。紳俳が有倭的であ㌔而もそれが人間形線的であることは、見童の通性といふペきである。

それは見真の成果的である一般精紳特性の反映である。

四、紳俳の所在。紳俳を天園・極楽又笹紳柳・俳壇などの如くに局所的に存在するとの考は免責

の通性であ♭、障って外在説は内在詮よりも見量に普通である。併しB鮮には人間内在辞と宇宙

遍在祝とが低率ながら各年齢に固着してゐる。

五。紳俳の用。A群にもB群にも紳俳を以て患人改善・勧善煙忍・行貞無塵の如き刑故老と見

る考と、救済苧守護者・教導者の如き徳政者と見る考とは対立して多く、前者は低年に、後者は

∂」縛

(40)

高年に多い。併しB群にあつては、後者は低年にも多く、且つA群に於けるよ

凌ぐ率が慈に高い。

六、紳俳の異同。爾群ともに、紳倣不同設は紳優同一詮よわも邁に多く、而も傭は普通の死者に

由恭し、紳は偉人に由凍するとの考が多いので、紳俳階級的不同設は見童の普遍型といふペきで

ある。

七、紳彿の倍否。有神論を普邁型とするに見童にあつて、而も紳傭を徳政者又は刑故老と看倣

与免真にあつて、紳俳を信じないといふ者の全くないのは嘗然である。

八、信仰及び鰻丼の理由速に昔時の精神欣腺即ち内容。希求的動機の優勢なこと、自己のため

の希求の多歎なこと︵他人のための希求は年長見でなければ見られない。︶は、見量の普遍性であ

る。併しA群に於ても幾分さうではろるが、丑群に於ては特に進齢による戚謝的動機の埠加が.高

い。希求が乗務に開せbや現世に開せりやに就いては、現世的であることが見童の通性である。

九、凛呼の有無及び形式。時の断頗及び一日中の同数の多少はあるが、両群の見量とも、紳彿

を農拝しない者はない。而もその形式は侍承的であつて、習俗の模倣でぁる。見童は儀感涙であ

る。併しB群はA群よhソlb夏ド熱心な儀鹿渡である。

十、倍仰及び轟丼の自鼻約数果。効果を詭く者は、それを説かない者よトも精々多い。而して

1 見量の宗教i︳に於ける恒久償■ミ可≠傾城 ガ7

(41)

見童9帯敦意識にこ於ける世久償域ミ可鬱境域 四〇

前者の大多数は治凍・怪我遁れなどのやぎな威鼻約数果を信じ、迷信的若しくは催眠現象的であ

る0

以上の略説及び記載を省略したAB両群の比較研究から導かれる見童の宗教意識の憶久的通性

ヽヽヽヽ ヽヽヽヽヽヽヽ

ともいふべきは次の諸鮎であらう。第一、見喜ば有訓諭着である。第二、見童は客観的紳俄局在

、ヽ 、ヽヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

論者である。第三、免責は人間的形態論着である。第四、見童は客観的醐俳世界存在肯定者であ

ヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽ ヽヽヽ

♭、醐話製作的である。第五、見童は生気論着である。第六、年長見は紳俳の倍頗着であるが、

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 年少見は寧ろ敬達者である。第七、施主は醐倣階蔽的不同論者である。第八∵兄量は希求的信仰 ヽヽヽ

着である。第九、見童は儀憩泥である。第十、見量は宗教上の専門知識を要する方面に於て︵宗

ヽヽヽヽ 敦世に於てではなく、所謂輸入領域の影響の強い方面に於て︶侍承的である。第十一、免責は呪 ヽヽヽヽ

物崇秤着である。是等は前に所謂素質領域を多く反映するものであつて一般持前特性と一致して

ゐる。然るに、見童に於ける無神論、俄を以て心の親とすろ者、彿を以て既成宗教の侭想的設定

とする者、沖傭の人間内在及び宇宙遍在・ぞ倍する者、醐健一憶説、鹿弄に代へるに心中の新を以

てする者、又は善良な生活そのものを以て信仰表現の方法とする者、政令奉仕や愛他・愛国の如

きを信仰及び鰻秤の理由とする者、是等は恒久的・普遍的の兄量の宗数意識の特性と見るべきで

はなく、前に所謂輸入額域を多く反映するものであつて、必しも見童の一般持前特性と一敦せす、

3月β

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