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西行伝説形成論

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Academic year: 2021

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西行伝説形成論

目 次 本 序 会ι 附旬 第一章﹃西行物語﹄ 第 二 章 西 行 説 話 の 背 農 第一節様々な説話集中の﹁西行説話﹂ 第三節﹃撰集抄﹄との関連をふまえて 第 三 章 西 行 伝 説 の 形 成 結 ぴ 序 明治の末期に、その説話の虚構性が厳しく論求されてよ り、西行の研究は、説話に描かれている西行像を虚像とし て切り捨て、彼の作品の解釈・鑑賞をもとに実像を定立す る乙とを主たる目的として進められてきた。しかし、中世 期の歌人・連歌師・謡曲の作者から江戸時代の俳人に至る まで、彼らが思慕・憧景してやまない西行像とは、実の部 分と虚の部分とを併せ持ったもの、すなわち虚像と実像と

佐々木りほ子

の混鴻の中に乙そあるものであった。芭蕉も、当時西行の 伝記と怠れていた﹃西行物語﹄や西行自記の書と考えられ ていた﹃撰集抄﹄を愛読した一人であり、数々の紀行文中 にそれらの影響が指摘されている。 今挙げた﹃西行物語﹄と﹃撰集抄﹄が虚像西行を語って ちた中心的存在であったのだが、奇しくも乙の二書はほと んど期を同じくして成立している。それのみではない。他 の説話集中に西行説話が登場するのもまさに同時期、すな わち十三世紀半ば、一二四

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一 二 五

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年頃に集中する。 西行の没後わずか五、六

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年の乙とである。 このように没後間もなくにして、しかも一時期に集中し て西行説話が語られはじめたのは、一体何に因るものなの か。本論では、西行説話の内容を分析する乙とによって当 時の人々の西行観を探り、虚像西行形成の源泉について考 察 し て い き た い 。 本論 はじめに -47ー

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表 西 行 説 話 ・ 成 立 順 室 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 四 一 一 一 一 一 一 一 一 西 発 町

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八 五 五 一 一 一 一 一五 四 回 二 一 九 磨 示 期 七 三 四 二

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ふふe 定年lロロ # 骨 骨 骨 # 長 持 # E胃司胃『=沙=司 E古『==司 E『 E『~司=『 r『巴『 西 お 三 十 撰 西 源 今 保 発 行 伽 国 石 今 訓 集 行 平 物 元 心 没 話 草 伝 集 著L抄− 抄 物 盛 語 物 集 子 記 』 聞 』 語 衰 』 語 』 』~ 6., 』 記 も冒2 6., も~ 卒業論文においては、表ーに挙げた説話集についての分 析・考察を行なったわけであるが、本摘では、その結果、 様々な西行説話を総合的に有していると判断した﹃西行物 語﹄を主に取りあげ、論じていく乙ととする。 第一章﹃西行物語﹄ ﹃西行物語﹄は西行の一生を実録風に描いた物語である o H 実録風に“と記したととくその内容は、事実に交えて虚 構をも含む。乙乙ではその虚構部分に焦点をあわせて乙の 物語を分析し、その構造を明らかにしたい。 −収載主れる和歌について ﹁西行物語﹄には全二

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九首の和歌が収載

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れ て い る ︵ 文 明本︶。一首が重出、十八首が他人の歌で、西行実詠歌は 一 九

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首であるが、このように多数の和歌を収載したのは、 おそらく作者が﹁西行物語﹄に西行歌集としての性質を備 えさせようとしたからであろう。 i Q 4 J ’ A また、その一九

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首の内訳をみると﹃新古今和歌集﹄入 集歌が九一首も数えられる。﹃新古今和歌集﹄中の西行入 集歌九四首のうち、ほとんど全てといえる九一首の採用は 注目すべきであろう。その九一首中には物語の筋を形成す るには困難な八題知らず﹀七四首が含まれており、それら は平泉で詠んだ︿恋百首﹀仁和寺の御室にて詠んだ八月百 首﹀等をわざわざ設定する乙とによって処理されている。 つまり﹃新古今和歌集﹄入集歌を﹁西行物語﹂に収めてし まう乙とが作者の意図としであったと考えられよう。乙れ は作者が西行を n 新古今筆頭歌人 M として強く意識してい たからではないだろうか。 とにかく、これらの歌の存在は、﹁西行物語﹂において、 西行の歌人としての面を語るのに大いに貢献している。 Z 妻子語付 ﹃西行物語﹂における西行とその妻、西行と娘との関係 には、それぞれに深い愛情の結びつきを感ずる乙とができ る。その固く結ばれた夫婦の紳、親子の緋を通して、西行 の人間性が窺えよう。が、一面で、そのような愛情をも振 り切って仏道へと走った西行像というものも、対照的に浮 か び あ が っ て く る 。

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-48-出家語、往生語 八年頃たへがたくいとほしがりし四歳なる女子﹀を八是 乙そは煩悩のきずなを切るはじめと思ひて、縁より下に蹴 落し﹀たとする西行出家のエピソードは広く知られている。 しかし、より著名であるのが、八重代ノ勇士﹀たる家も北 面の武士としての名も捨て、八家富ミ年若ク、心ニ愁へナ クシテ、遂ニ以テ遁世ス﹀と記主れた藤原頼長﹃台記﹄の 西行評であろう。乙の心に愁へなくして純粋な道心に導か れるままの出家、は人々に嘆美されると同時に、様々な俗 的な憶測を生んだ。現在も失恋説、政治説、遁世への憧景、 数奇に生きようとした、等、出家の原因について、様々に 論じられるが、結論は出ないままである。 ところで、現在、その出家と共に多く語られるところの 往生請はどうであろうか。 西行は晩年、八願はくは花のしたにて春死なむそのき怠 らぎの望月の乙ろ﹀という歌を読み、その願い通りの最期 を遂げた。このことは当時の友人や知人たちに深い感動を 与えたとみえて、藤原俊成の﹃長秋詠草﹄など、四書にそ の死が記録注れている。が﹃西行物語﹄においては、それ ら文献の示す資料と、細かい点ではあるが相違がみられる。 そ乙で、その虚構部分形成の意図について考えてみたい。 まず、実際には十六日であった入寂の日が十五日となる 点は、八願望どおりの往生という乙とは西行の入寂を無比 のものとした。西行往生談はその上で十六日ではなく、ま きに釈迦入裁の十五日に語ると乙ろにこそ関心が寄せられ 3. る﹀と、坂口一郎似述べられると乙ろのものであろう。実際 には七十三歳で入寂した点が八十歳となっている乙とも、 釈迦が八御ン年八十ニシテ﹀︵﹁三国伝記﹄︶亡くなった ことに擬したものだと考えられる。もう一つ、入患の場所 が、弘川寺ではなく双林寺となる点はどうか。双林寺周辺 に集う念仏聖などの遁世者たちが伝説を形成したとする説 ︵坂口氏︶と、双林という名が釈迦入滅の場所を想起させ るとし正面行物語﹂の作者が意図的に選び出したとする 説︵谷口氏︶がある。が、両説とも H 西行の釈迦入滅に比 せられる最期

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感動した人︵たち︶によって虚伝が作りあ げられたのだ、という点においては相違はない。乙乙で出 家請に措かれたと乙ろの義清と妻子との別れや、鳥羽院か ら頂く数々の誉れを振り切るところを、八妻子珍宝及王位﹀ を振り捨てて出城した悉達太子に重ねられたものであると 考えてみれば、﹁西行物語﹂の出家謹・往生語に作者が託 したこと、すなわち西行と釈迦とをオーバーラァプさせる 構造というものが読みとれるのである。 5・6修行語・交流譲 以上述べたほかにも、﹁西行物語﹄の特徴としては、西 行の修行語、つまり諸国行脚をクローズアップさせ、旅か ら旅の人生として描いた乙と、和歌の詞書などから察せら れる友人との交流面を多くとりあげた乙とが挙げられる。 第二章西行説話の背景 第二節﹁撰集抄﹄との関連をふまえて ﹃西行物語﹄以外の西行説話のうち、最も後世に影響を

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49-与えたと

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れるのが﹃撰集抄﹄である。長い間、西行自記 の書として親しまれてきたが、現在ではそれが否定怠れ、 ﹁西行仮託の書﹂と呼ばれている。その内容であるが、西 行自身の乙とを描いた箇所は少なく、全九巻一一

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話の説 話中、十三話が西行に関連のある説話であるほかは、何ら 西行について言及するものはみられない。きらに、その十 三話中でも、西行を主人公とする話は巻五第十四と、第十 五のニ話に過ぎない。つまり他の百余話においては、西行 が廻国修行中に出会った、あるいは伝え聞くと乙ろの、理 想的な遁世者が主人公として措かれているのである。乙乙 に、﹁撰集抄﹄は西行を案内人としながら、遁世者たちの 説話の数々を描く乙とをそのテ l マとしている作品である、 と い う 乙 と が で 会 − ょ う 。 斗 主 A

ところで、西尾氏は、﹃撰集抄﹄の登場人物を、西行で あれば乙のような言動をとると考えて描かれた八西行的人 間﹀と、その八西行的人間﹀によって共感

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れた八西行好 みの人間﹀の二種に分けて述べておられる。先に述べた十 三話中に登場する H 西行 M が、西尾氏のいう八西行的人間﹀ なのであるが、乙の八西行的人間﹀を考察するにあたり、 ﹃西行物語﹄との関連が気に掛かるところとなる。﹃撰集 抄﹄においては僧侶としての西行が強調主れ、歌人として の彼は控え目に描かれるという大きな相違点はあるものの、 その他の面には類似点も多い。列挙すれば、開待賢門院関 係の女房との交流を描く刊西行との交流を描く制高野・吉 野を舞台に選ぶ伸江口の遊女との贈答をもとに一つの説話 を形成したゆ西行の妻の描写帥四国修行の旅に言及してい る伺崇徳院の話例八無常心にしみて、君の忠勤よしなくて 妻子をふり捨て出侍しかば﹀と語る部分、等である。その ほかにも西行の廻国修行者としての性質が、どちらにおい ても話の根底にある乙となども特筆

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れ よ う 。 このように考えてみるものの、﹃西行物語﹄と﹃撰集抄﹄ はどちらかが一方を典拠にして成ったと言い切る乙とはで きない。なぜならば、その成立年次が極めて近く、当時一 冊の本がある程度流布するに要する時聞を思えばそれは不 可能な乙ととなる。では、乙の二書の関連はどのように説 明

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れ る の だ ろ う か 。 中世鎌倉期には﹁念仏聖一﹁勧進聖﹂などと呼ばれる沢 山の聖たちがいた。彼らは理想とすべき僧侶たちの逸話を 唱導してまわっていた。私は乙れら念仏聖たちが、﹃西 行物語﹄的西行説話を唱導してまわっていた、と考える。 成立の問題は伺も﹃撰集抄﹄と﹃西行物語﹄の聞にのみあ るわけではなく、他の西行説話の載る説話集のほとんどの 成立年次も、一二五

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年頃に集中している。そしてそれら の説話中にみる西行像といえば、廻国修行者としての西行 .魅力的な出家請と釈迦に比せられる往生語を持つ西行・ そして歌人として一目置かれる西行というように﹃西行物 語﹄における西行像と共通する点が多いのである。乙れら 一 二 五

O

年頃に集中して登場する西行説話の背景には、念 仏聖たちの存在と、彼らの唱導の過程で自ずと生じたであ ろう西行伝説の存在を考えないではいられない。 n u p h υ

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第 三 章 西 行 伝 説 の 形 成 今まで述べてきたように、西行は没後わずかの期聞に、 急速に伝説の人と化していくのであるが、一体それは伺に 困るものなのか。 乙こに結論から述べるとすれば、

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かねてからの願望どおりのものであったという、その 見 事 な 最 期 。

ω

入寂請を起点として問い直吉れた生涯。そこで注目

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れた︿心無愁、遂以遁世﹀と評注れたと乙ろの出家請。

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没後十五年自に得た H 新古今筆頭歌人 u と し て の 栄 誉 。

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乙れらをもとに西行について語って歩いた唱導聖たら の 存 在 。 四点が相乗的に効果し合﹁た結果である、 の 、

ヲ 。 。

西行は生前から歌人として著名であった。まず﹃詞花和 歌集﹄に一首入集し、そして﹁千載和歌集﹄では十八首の 入集を果した。乙の十八首というのは千載集歌人として第 九位に位置している。勅撰集での乙の実績のみならず、自 撰﹁御裳濯歌合﹂の判調を藤原俊成に託したこと、同じく ﹁宮河歌合﹂の判調を俊成の子息・定家に依頼し、その折 に若い定家を励ます消息を書いている乙となどからも、当 時の、歌人・西行の位置が忍ばれよう。 その彼が、かねて詠んでいたという八願はくは花のした にて春死なむその如月の望月の乙ろ﹀という歌のとおり、 建久元年二月十六日に生涯を終えた。彼と親交の深かった と私は考え 人々はその死に少なからず感動を覚えた。俊成の﹁長秋詠 草﹄には次のように記

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れている。八かの上人、先年に桜 の歌多くよみける中に願はくは花のしたにて春死なむその ちさらぎの望月の頃かくよみたりしををかしく見たまへし ほ ど に 、 つ ひ に き ・ 8 らぎ十六日望月をはりとげけること、 いとあはれにありがたく覚えて、物に書き付け侍る、願ひ おきし花のしたにてをはりけり蓮のうへもたがはざるらむ﹀ すなわち、花と月とを愛した歌人の︿花のした﹀なる八き さらぎ望月﹀の頃の入寂という意味からと、釈迦入減を追 うような H き怠らぎ望日“の入寂という意味からとの二つ の感動をこの文章から読みとる乙とができる。ほかにも慈 円﹃拾玉集﹄、定家﹃拾遺愚草﹄、後京極良経﹁秋篠月清 集﹄にもその死は記し留められた。このように、都の歌人 たちゃ彼に近しかった僧侶たちを中心に、西行の死は嘆美 きれ、語り広められていったのだと思う。 こうして西行の入寂請は立派な往生諌として語られたの であるが、その際には、おそらくその生前の乙とも人々の 口に上ったであろう。そこで注目を集めたのはやはり出家 請ではなかったか。いかに無常観流れる中世といえども、 世を捨てるという乙とはやはり困難な乙とであうたと思う。 だからこそ人々の道心を深めるための数々の発心・往生請 を集めた仏教説話集が流布したのである。まして重代の勇 士の家柄であり、家は富み、院の北面として華やかな盛り の二十三才の若者・佐藤義清︵西行俗名︶が、その困難な 出家を果したとすればどうであろうか。乙の︿心に愁へ無 噌 E ム F h u

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き﹀出家は﹃発心集﹄に例をとってみても全一

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二 話 中 、 三話ほどみられるのみである。頼長の記したごとく、それ は正に人々に八嘆美﹀怠れるべきものであった。そのよう な出家請が、あの往生誇と共に語られるとすれば、西行をへ 人々が別格視するのは必定である。 当時の唱導聖たちは、乙の格好の H 語りの材料 u を逃さ なかった。彼らが乙の H 材料 M を H 語り H として仕上げる 際には脚色が行われ、事実とは違うもの、すなわち虚構部 分が混じってくる。巷聞に語られる逸話と彼ら唱導聖の創 作とが相乗的に効果しあってその虚構部分は次第に大きく な っ て い く 。 ζ 乙に、西行伝説が生じていったのであった。 私は第一章で﹃西行物語﹄について考察するにあたり、 その虚構形成の背後に、常に一人の作者を想定してきた。 しかし乙乙で訂正をしたい。﹁西行物語﹄は、当時の西行 伝説を吸収し、それをもとに作者が構想を立てて成立選せ た物語である。もちろん、言うまでもなく、他の西行の説 話も乙れに等しい。 ところで、唱導型たちが中、

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となって西行の伝説を形成 J 注 2 していく、その背景について坂口氏は、八西行の人生営為 は、後の遁世聖。が自らを語る寄り所ー乏して共感・支持

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れ たのであり、規範性をも示すものとして受けとめ受け継が れて﹀いったと

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れる。その、八共感・支持﹀され、八規 範性をも一示す八西行の人生営為﹀とは。 西行の出家直後の詠歌に次のようなものがある。八鈴鹿 山うき世をよそにふりすてていかになりゆくわが身なるら 斗 Z F D む﹀。水原氏は乙の歌を、乙う評される。八西行は今鈴鹿 山中にいる。同時に微かな振鈴の中にいる。その不協和音 の微音が、決行後の己れの道を詰問し、戦懐会せる。乙の 歌は課題である。中略、しかもその課題乙そが彼の五十年 を貫く乙とになるはずであった一。﹀西行は真の八心なき身﹀ となるべきその︿課題﹀に向かって一生を過ごした。そ乙 には常に自分の心を凝視しつ F つ け る 冷 徹 な 目 が あ っ た 。 八 い かにかすべきわが心﹀八思へ心﹀八あゃしゃ心物思ふらし﹀ 八心のはてを知るよしもがな﹀。つかみどころのない自分 の w 心 M を西行は、多くの歌に記し留めている。水原氏は、 そ の 八 H 心 H の正体を追う仲間僅﹀乙そ西行の一生であった と述べられる。そして、八出家ののちは世中にしばしもあ とをとゾめむ乙とよしなしと恩ひて、ふかきやまやまたう ときところと乙ろを修行しけり﹀として、ま

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に一所不住 の思想を貫き、漂泊の一生を終えた﹃西行物語﹄の西行像 を、虚構でありながら実は八抽象的には真実を直指してい る﹀ものとされている。虚伝形成当時の人々︵聖を中心に︶ の西行観、それを反映した西行説話には必ず真の西行に迫 る何かがあると私は考える。水原氏の論に、その H 何 か 4 の答をみると言ってよいのではないだろうか。 とにかく、今述べたような西行の八人生営為﹀、またそ 乙に記し留められた和歌の数々、それは﹁乱世﹂﹁末世﹂ と呼ばれた時代を生き、仏道を志しながらも H 心 の 仲 間 程 M を禁じ得なかった同じ痛みを吐露するものとして遁世聖た ちに︿共感・支持主れた﹀のであった。その上で、西行の

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52-H ありがたき“往生誇が彼らの胸を打ら、八規範性を一不す ものとして受けとめられ﹀た。このような共感や支持があ ﹁たからこそ遁世聖たちの H 語り“は熱を帯び、一時期に 多くの西行説話が書物に登場することとなったのである。 乙乙で一つ付け加えをしたい。西行の別格視は当時の歌 壇においても同じであった。ということである。当時の歌 壇においては、言わばアウトサイダーであった酉行が、 ﹃新古今和歌集﹄に九四首入集という快挙を成し遂げ、 H 新古今筆頭歌人 u としての名声を得た。そのほか、藤原 定家撰﹃八代集秀逸﹄に五首︵最高︶、同﹃百人秀歌﹄に 一首、また西行を︿不可説のよ手﹀︵﹃後鳥羽院御口伝﹄︶ と評された後鳥羽院撰の﹃時代不同歌合﹄においても三首 が採られるのである。 こうして、没後なお高まる歌人・西行の名声が、西行を 語る唱導聖たちにとっては好影響を及ぼす乙とになる。す なわち H あの著名な西行法師の話 u として、語られ・聞か れ、西行説話は広く巷聞に流布していくのである。 結び 一 二 五

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年頃を中心に、多くの西行説話が登場した。そ の西行説話を分析し、検討した結果、一つの共通した西行 像が浮かびあがり、その背景に﹃酉行物語﹄的伝説の存在 を考えるに至った。そして分析結果をもとに、その伝説形 成の源に位置するものを明らかにしてきた。すなわち、西 行の願望通りの最期が人々の感動を呼んだことが最も根本 に位置し、そ乙に人々に嘆美された出家請が結びつく。乙 の八ありがたき﹀出家誇・往生諌は西行に近しい人々を中 心に語られ、それは当時都に存在した唱導聖たちの知ると ころとなる。やがて、西行の歌にみる八人生営為﹀︵坂口 氏︶と出家・往生両誇に大いなる共感・憧景を抱いた唱導 聖たちは熱弁を撮るい、また括から v 得られた U 新古今筆頭 歌 人 H としての名声は講まゥていく?それらは相乗的に効 果しあい、西行の話は急速に巷聞に流布しはじめる乙とと なる。そして、こうした過程を通じて、没後間もなくにし て西行の伝説は生じたのであった。 y 乙れをもって本論の結論としたい。 補注 L ﹁﹃西行物語﹄のたねとしくみ﹂伊藤嘉夫﹃跡見 学園国語科紀要﹄ロ号 Z ﹁﹁西行物語﹂考﹂坂口博規﹃駒沢国文﹄第日号 &﹁西行物語の形成﹂谷口耕一﹃文学﹄昭日・叩 4﹁﹁西行仮托﹂の説話評論﹂西尾光一’﹃日本文芸 の世界﹄昭 6 ・ 5 &﹁脱出 l 西 行 ﹂ 水 原 一 53 ﹃ 国 文 学 ﹄ 昭 必 ・ 7

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